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2020年2月

2020年2月26日 (水)

型を守って初めて、個性の領域に入れる

日本の古くからの文化である「能」に携わる3人の会話です。

(リンク
能の舞台は日本という国の特徴を凝縮した世界と言えるかもしれませんね。では、次の世代に私たちは、そこから何を、どうやって守り伝えればよいのでしょうか。


佐伯:能には「型」というものがあって、場面ごとに、こういう型をするということが基本的には決まっています。それを、素人であろうが、玄人であろうが、ひたすらに模倣する。在原行平のことを、どれだけ好きでも、(自分なりの)「好きだ」という動作をしてはいけない。まず、型に従い(そこに心を入れ込み)ます。こざかしい創意工夫というものを、いきなりしてはいけない。非常にストイックなところのある世界なのです。

今の教育に目を向けると、守り従うべきもの、例えば礼儀作法などを教える前に、「オリジナリティを出しなさい」とか「個性を大切に」とか、そういったことを言ってしまう。口幅ったいことを言うようで申し訳ないのですが、私は、それでは単に自分勝手な人間が生まれるだけだと思います。まず、先人の伝えた知恵に対して謙虚に学ぶべきです。守り伝えられたからには、なんらかの意味があるはずなんです。ここで、この型をするから美しい。ほかの型ではなく、これをするからこそ美しい。そうしたものを体得したうえで初めて、創意工夫を重ねる意味があると思うのです。

「学ぶことは真似ること」と、よく言われますが、その精神は能の世界にも伝わっているし、それ以外のジャンルにもあります。個人がゼロから作り上げられる知恵には限界がありますが、先人が積み重ねた知恵に学べば、偉大な蓄積に対し、「そのうえで、さらに何ができるか」という発想に立てる。(能をはじめとする、先人が守り伝えたものを知ることで)人間の限界と可能性を掴み取ることができるのです。

関根祥六氏は、60歳を過ぎてから、「ようやく工夫ができるようになってきた」と言われたそうです。それを聞いた若手の能楽師は、「関根先生が、あの年齢にして、ようやく工夫できると言われるのであれば、私たちは工夫などしてはいけない」と思ったそうです。年齢を重ねるほど、知恵が深くなり、工夫ができるようになっていく。それが素晴らしい。

今、日本のソフトパワーはアニメーションなどに流れていますが、アニメや漫画を作り出している力の源泉は「若さ」なんですね。他方、能は年齢を重ねるほど良くなっていく。能の演目で最も高度と言われるのは、老女を主人公とした内容です。現代社会では高齢化というと、すなわちパワー不足と捉えられがちですが、能の中では、おじいさん、おばあさんが堂々と活躍している。年をとっても、こんなにパワフルだぞ、なんてことを教えてくれる。それも伝え、守っていくべきところでしょうね。

佐藤:教育について、まずは型から、というご意見には全くもって同感です。創意工夫というのは、あくまで基礎を固めたうえのものであること、忘れないでいきたい。

そろそろ時間も迫っているようですので、最後に3つ、メッセージをお伝えしたく思います。

まず、先ほど言及された日本人の良さ、調和能力は、仲間うち(日本人同士)でも認識できていないことが多いんです。例えば皆さんが起業して組織を束ねるとき、或いは、社内でチームを組んで何か事業を始めるとき、この日本人の良さを引き出す役割を担っていただきたい。

それから、国際的に活躍しようとすると、日本人のアイデンティティを説明できなければ相手にしてもらえません。私自身、ユネスコで191の加盟国と対峙するなかで、それを痛感しました。今日のようなセッションもそうですが、さまざまな機会に意識して、(日本人の特質というものを)掘り下げてください。


岡庭:まだ修行を重ねている段の若輩ではありますが、一つ、お伝えできればと思うのは、固定概念を打ち破る心の強さを持っていただきたいということです。

例えば、「大富豪になりたいけれど、なれないと思っている人?」と訊ねられて、「自分のことだ」と思われた人。あなたは、富豪にはなれないと、誰かから断言されたのでしょうか。そうではない。自分自身で決めつけているのですよね。それが固定概念です。

固定概念というのは凄く厄介なものです。例えば壁にぶちあたる。2回か3回、続けてぶちあたると、人間は学習能力がありますので、次のときには、ぶちあたる寸前で止まるようになります。けれど、次のときには、もしかしたら、もう壁はなくなっているかもしれない。なのに、学習能力があるために止まってしまう。でも、どうか、そうはならずに何度でも壁にぶつかってください。それが第1歩です。

失敗や挫折を知らずに、順風満帆に上がっていってしまうというのは恐ろしいことです。なぜなら、失敗を重ねることで自分の「己」を知ることができる。己を知るというのは、現在位置を知ることです。現在位置を知ることができれば目標を立てられる。しかし、現在位置が分からなければスタートすることすらできません。目標が定まったら次は、そこに向かって軌道修正しながら、しかし決して諦めないこと。

そして、「選択」と「決断」の違いを知ってください。「選択」というのは、AかBかと迷って、Aを、ただ選ぶこと。Aがダメだったとき、Bを選びなおせるということです。「決断」というのは、Aと決めた以上、Bは完全に捨て去ること。「Aだけでやっていこう、もう自分にはA(という道)しかない」。そう思って突き進むと、真剣味を帯びます。真剣に進めば失敗しても後悔はない。失敗しても、ただ、己の現在位置を知るだけです。また、そこから進み始めればいい。諦めず、軌道修正して、また目標に向かいましょう。これは、年齢は関係ありません。

 

 

大崎 ( 26 千葉 会社員 )

 

型を守って初めて、個性の領域に入れる

日本の古くからの文化である「能」に携わる3人の会話です。

(リンク
能の舞台は日本という国の特徴を凝縮した世界と言えるかもしれませんね。では、次の世代に私たちは、そこから何を、どうやって守り伝えればよいのでしょうか。


佐伯:能には「型」というものがあって、場面ごとに、こういう型をするということが基本的には決まっています。それを、素人であろうが、玄人であろうが、ひたすらに模倣する。在原行平のことを、どれだけ好きでも、(自分なりの)「好きだ」という動作をしてはいけない。まず、型に従い(そこに心を入れ込み)ます。こざかしい創意工夫というものを、いきなりしてはいけない。非常にストイックなところのある世界なのです。

今の教育に目を向けると、守り従うべきもの、例えば礼儀作法などを教える前に、「オリジナリティを出しなさい」とか「個性を大切に」とか、そういったことを言ってしまう。口幅ったいことを言うようで申し訳ないのですが、私は、それでは単に自分勝手な人間が生まれるだけだと思います。まず、先人の伝えた知恵に対して謙虚に学ぶべきです。守り伝えられたからには、なんらかの意味があるはずなんです。ここで、この型をするから美しい。ほかの型ではなく、これをするからこそ美しい。そうしたものを体得したうえで初めて、創意工夫を重ねる意味があると思うのです。

「学ぶことは真似ること」と、よく言われますが、その精神は能の世界にも伝わっているし、それ以外のジャンルにもあります。個人がゼロから作り上げられる知恵には限界がありますが、先人が積み重ねた知恵に学べば、偉大な蓄積に対し、「そのうえで、さらに何ができるか」という発想に立てる。(能をはじめとする、先人が守り伝えたものを知ることで)人間の限界と可能性を掴み取ることができるのです。

関根祥六氏は、60歳を過ぎてから、「ようやく工夫ができるようになってきた」と言われたそうです。それを聞いた若手の能楽師は、「関根先生が、あの年齢にして、ようやく工夫できると言われるのであれば、私たちは工夫などしてはいけない」と思ったそうです。年齢を重ねるほど、知恵が深くなり、工夫ができるようになっていく。それが素晴らしい。

今、日本のソフトパワーはアニメーションなどに流れていますが、アニメや漫画を作り出している力の源泉は「若さ」なんですね。他方、能は年齢を重ねるほど良くなっていく。能の演目で最も高度と言われるのは、老女を主人公とした内容です。現代社会では高齢化というと、すなわちパワー不足と捉えられがちですが、能の中では、おじいさん、おばあさんが堂々と活躍している。年をとっても、こんなにパワフルだぞ、なんてことを教えてくれる。それも伝え、守っていくべきところでしょうね。

佐藤:教育について、まずは型から、というご意見には全くもって同感です。創意工夫というのは、あくまで基礎を固めたうえのものであること、忘れないでいきたい。

そろそろ時間も迫っているようですので、最後に3つ、メッセージをお伝えしたく思います。

まず、先ほど言及された日本人の良さ、調和能力は、仲間うち(日本人同士)でも認識できていないことが多いんです。例えば皆さんが起業して組織を束ねるとき、或いは、社内でチームを組んで何か事業を始めるとき、この日本人の良さを引き出す役割を担っていただきたい。

それから、国際的に活躍しようとすると、日本人のアイデンティティを説明できなければ相手にしてもらえません。私自身、ユネスコで191の加盟国と対峙するなかで、それを痛感しました。今日のようなセッションもそうですが、さまざまな機会に意識して、(日本人の特質というものを)掘り下げてください。


岡庭:まだ修行を重ねている段の若輩ではありますが、一つ、お伝えできればと思うのは、固定概念を打ち破る心の強さを持っていただきたいということです。

例えば、「大富豪になりたいけれど、なれないと思っている人?」と訊ねられて、「自分のことだ」と思われた人。あなたは、富豪にはなれないと、誰かから断言されたのでしょうか。そうではない。自分自身で決めつけているのですよね。それが固定概念です。

固定概念というのは凄く厄介なものです。例えば壁にぶちあたる。2回か3回、続けてぶちあたると、人間は学習能力がありますので、次のときには、ぶちあたる寸前で止まるようになります。けれど、次のときには、もしかしたら、もう壁はなくなっているかもしれない。なのに、学習能力があるために止まってしまう。でも、どうか、そうはならずに何度でも壁にぶつかってください。それが第1歩です。

失敗や挫折を知らずに、順風満帆に上がっていってしまうというのは恐ろしいことです。なぜなら、失敗を重ねることで自分の「己」を知ることができる。己を知るというのは、現在位置を知ることです。現在位置を知ることができれば目標を立てられる。しかし、現在位置が分からなければスタートすることすらできません。目標が定まったら次は、そこに向かって軌道修正しながら、しかし決して諦めないこと。

そして、「選択」と「決断」の違いを知ってください。「選択」というのは、AかBかと迷って、Aを、ただ選ぶこと。Aがダメだったとき、Bを選びなおせるということです。「決断」というのは、Aと決めた以上、Bは完全に捨て去ること。「Aだけでやっていこう、もう自分にはA(という道)しかない」。そう思って突き進むと、真剣味を帯びます。真剣に進めば失敗しても後悔はない。失敗しても、ただ、己の現在位置を知るだけです。また、そこから進み始めればいい。諦めず、軌道修正して、また目標に向かいましょう。これは、年齢は関係ありません。

 

 

大崎 ( 26 千葉 会社員 )

 

2020年2月22日 (土)

「人間はなぜ全裸だと逮捕されるのか」を真剣に考えてみた

リンクより引用

最近、ふと気になったことがある。

「なんで全裸で出歩いたら逮捕されるんだろう?」

不特定多数の人の目に触れるような場所で公然とわいせつな行為をする罪。
刑法174条に定められ、罰則は6ヵ月以下の懲役もしくは30万円以下の罰金、または拘留、科料とされている。
これは法律で定められている公然わいせつ罪というものだ。

知ってる、うん知ってるよ!!法律で定められてるから逮捕されるんだよね!!

でもさ、例えば

「うーん今日は暑いから服着なくていいや!帽子だけかぶっていこう~♪」

→逮捕

えっなんで?悪意のない全裸でも逮捕されるの?別に人を困らせたいわけじゃないのに?って思った。考えた。

<中略>

①法律で定められてるから
②人には羞恥心があるから
③倫理的にアウトだから
ふむ。なるほど。予想の範囲内だ。
ということで一つ一つ考えてみよう。

※ちなみにこの問題を考えるにあたって、男女は関係ないとします。だって関係ないから。

※あと、危ない目にあうかもだから♀っていうのも勿論理解した上で、シンプルになんでダメなんだろうっていう話なので、そこらへんは無視します。

①法律で定められてるから

まあそりゃそうだよ。だから逮捕されるんです。

では、法律で定められていなかったらセーフなのか?

ってなったら、多分そういう話ではないんだよね。それがこの後に続く倫理的に、とかに繋がってくるんだけど。

ちなみにこの法律は、社会の道徳秩序の維持を目的としていて、「被害者なき犯罪」とも呼ばれているらしい。

そう、だから悪意のある全裸はアウトです。露出狂、お前はダメだ。

全裸で出歩く人=人に見せたい(with悪意)人を不快にさせるっていう割合が多すぎて、法律で定められたのだろうか。

このような法律やルールって、大半の人は守っているのに一部の悪い人たちがいるからこそ、作られているんだなと改めて感じる。

②人には羞恥心があるから

この話をしてたら友達に、「アダムとイブの話は知ってる?」と聞かれた。

もちろん知ってる。
いや詳しくはないけど、あれでしょ、
昔は羞恥心や憎しみ、懐疑の心は持ち合わせていなかったのに、禁断とされていたリンゴを食べて、いきなりそれら全ての感情が芽生えるようになってしまったみたいなやつでしょ。

いやでもそれ伝記じゃん!!!(元も子もない)

そもそも人間に感情や心が備わったとはいえ、意外とあれって生まれてきた環境によるよなと思う。

だってすっぴんで歩くなんて恥ずかしすぎて無理…!って思う人もいれば、すっぴんで出歩くなんて余裕だよ〜って人もいるじゃん。

だから全員が全員、「全裸=恥ずかしいと感じる」かっていうのは、断定ができません。そうなんです。

服着ないとか恥ずかしくないなあ。見せたいわけでもないし、これが普通なだけなんだよなあ。

って考える人がいてもおかしくないはず。

ということで「人には羞恥心があるから」っていう話は終わりです。アダムとイブさんきゅーな。

③倫理的にアウトだから


そう。これがね一番なんだかんだ大きい問題になってくるんじゃないかなと思うの。

さっき羞恥心の話をしてたけど、確かに「自分が全裸」は恥ずかしくなくても、「相手が全裸」は羞恥心や、不快な気持ちが生まれるかもしれない。

でも多分今私たちがそれを不快に思うのって、少なからず向こうの悪意が混じっているのが見えるからだと思うんだよね。

じゃあ例えば、いきなり相手に🖕🏻ってやられたら、不快に思うよね。

でもそれが違う国の子とかで、「ワタシノ国デハ、コレデ数字を数エマス!🖕🏻は1って意味デス!」ってキラキラな目で言われたら、

その瞬間に悪意は0%になって、こっちも不快じゃなくなると思うのよ。

結局は何をやっていようが、向こうの感情の持ち方にもよって、私たちの感情も左右されている。

そう考えると自分の持つ羞恥心や不快な気持ちって、一体どこまで信じられる?

自分はそんなつもりなくて身につけていたり好きな髪型をしているだけなのに、「うわあなんて恥ずかしい見た目…」って言われたら「それは人によってちがーう!」と思わないですか。

倫理とは人間の秩序を保つために存在しているんだけど、結局は生まれ育ってきた環境的に「まあなんかダメらしいからダメ」っていう、本当になんでダメかは考えないで終わる問題が多いのかもしれない。

結論:地球上で人類は0.01%しかいないのに

さてなんか雰囲気的に結論みたいな感じになってきた!けど言うね!まあ結論ってないんだよね!!!

だっていくら考えたところで法律が変わる確率はほぼ0に近いし、まあ私も服着て毎日過ごすよ。みんなも着なね?

人を不快にさせるような全裸はダメだぞ?お姉さんとの約束だ!!

ただ、「うーん確かになんでダメなんだろう」っていう疑問は消えてない。それは譲れない。

どうやらこの世には、理解できないけど大多数の幸せのために理解するべき問題がたくさんあるらしい。

でも大多数の幸せってなんだろう。

この地球上で服を着ているのは人間しかいない。地球上で人類は0.01%しか占めていない。

その0.01%だけが全裸でいることを許されず(一部の国と地域ではセーフかもしれないが)、罪に問われることすらもある。

私たちはそのほかの99.99%の何もかもが服を着ていなくて、それを不快にも思わないのに。

ちなみに私の友達何人かに聞いた結果、真面目に答えてくれた子が2人、その他10人以上は「そんなくだらないこと考えてないでもっとまともなこと考えなさい」と言っていました。

 

 

 

 
匿名希望

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