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2019年11月

2019年11月23日 (土)

理想だけを語って親子を苦しめる学校・塾から救い出すために

育児に悩む家庭の情報を探していたところ、息子に障害があると診断された母親を救う医師の話がありました。

“発達障害”を「偏差値・学力不足」「活力喪失」
“専門書を書いている偉い先生”を「学校・詰め込み塾の先生」
“発達障害の子を育てていない”を「自分のアタマで考えたことがない、追及したことがない」「活力をもって仕事に取り組んでいない」

と読み替えれば、現在の子供を取り巻く教育環境そのもの。
そしてその洗脳の呪縛にとらわれた母親がいます。

(以下引用 実際は漫画なので、少し加工してセリフだけをとりだしています)

息子が発達障がいと診断されたお母さんに心療内科の先生が言った一言
リンク
【私を救った言葉】
今でこそ悟ったような事を言っていますが私もまた息子の『発達障がい』を受容できずにいた一人です。今、苦しんでいるパパママに伝えたい事。

「実のところ、息子に診断名がついてから私は、酷く落ち込んだ。」
「専門書や育児書を読み漁り、調べれば調べるほど、出口のない不安に襲われた」
「毎日毎日問題を起こし、来る日も来る日も出来ないことを報告される日常・・・」
「自殺を図ったことも一度や二度ではない」
「こんなんじゃダメだ! すがるような思いで心療内科に通った。」

(先生)「手元にある専門書持ってきてって言ったけど、全部持ってきた?」

(私)「はい」

<先生は受け取った本を全部ゴミ箱に!!>
<(私の心の叫び)私のバイブルを 捨 て た >

(先生)「もう専門書を読むのは、や め な さ い 育児書もね」
「そもそもコレを書いている偉い先生は、発達障害の子を育てていないんだから」
「理想なら誰でも語れる」
「お母さん あんた偉いよ」

<私の中の黒いものが消えた~>

(引用終わり)
このように、育児・教育に関する強迫観念や学歴信仰から抜け出さない限り、親子とも生きる意欲を失う。

「専門書を読む=学校の言いなりになる」から抜け出し、母子ともに救われる道はどこにあるのか考える必要性を、あらゆる機会を使って発信する。

又、障害を持つ子供を抱えた家庭やシングルマザー、虐待も含めて、ネットには不安を抱えた人々が溢れている。その不安を取り除く糸口は、類ネット・実現論で見つけられるはず。

 

 

 

じゃがじゃーが

2019年11月 9日 (土)

世界の科学者が魅かれる仏教

仏教は宗教というより、「本当に大事なこと」を伝える科学のように思えてくる。
なぜ、世界の科学者 哲学者が仏教にひかれるのかリンクから引用させていただきます。
----------------------------------
世界的に著名な学者が、仏教を絶賛している例は数多くあります。
 例えば、現代物理学の基礎である相対性理論を生み出し、20世紀の世界を大きく変えたといわれる天才科学者アインシュタインは、仏教に大きな期待を寄せていました。
「現代科学に欠けているものを埋め合わせてくれる宗教があるとすれば、それは『仏教』です」
「仏教は、近代科学と両立可能な唯一の宗教です」
(中略)
「仏教はキリスト教に比べれば、100倍くらい現実的です」
こう言ったのは、ニーチェ(ドイツの哲学者)でした。
(中略)
また、人間の深層心理を研究した、世界的な心理学者ユング(スイス)も、
「仏教はこれまで世界の見た最も完璧な宗教であると確信する」
と語り、歴史家として、世界の文化史を著したH・G・ウェルズ(イギリス)は、
「現在では原典の研究で明らかになったように、釈迦の根本的な教えは、明晰かつシンプル、そして現代の思想に最も密接な調和を示す。仏教は世界史上知られる最も透徹した知性の偉業であるということに議論の余地はない」
と仏教を絶賛しています。
(中略)
なぜ、かくも多くの世界の科学者、哲学者たちが仏教に注目し、褒めたたえるのでしょうか。それは、仏教には古今東西すべての人にとっていちばん大事なことが教えられているからです。
仏教にだけ説かれている最も大事なこと

私たちは何のために生まれてきたのか。
何のために生きているのか。
(中略)
アメリカの世界的実業家、日本でも多くの人が使っているスマートフォン・iPhoneの生みの親、スティーブ・ジョブズは、若い頃から仏教に関心を持ち、日本で僧侶になろうかと真剣に考えたほど、熱心に学んでいたといいます。
 彼は、かつてスタンフォード大学の卒業式で、次のような言葉を卒業生たちに贈りました。
「人生を左右するわかれ道を選ぶ時、一番頼りになるのは、いつかは死ぬ身だと知っていることだと思います。ほとんどのことが──周囲の期待、プライド、ばつの悪い思いや失敗の恐怖など──そういうものがすべて、死に直面するとどこかに行ってしまい、本当に大事なことだけが残るからです」

死に直面してもなお残る「本当に大事なこと」とは何でしょう。
それは、その人にとって、「私はこのために生まれてきた」と言えるものであるはずです。それが、「なぜ生きる」の答えです。

そんな答えが、あそこにもここにもあるものではありません。
 書店に行けばズラリと本が並び、ネット上にも人生についての情報はあふれていますが、いずれも“どう生きるか”(生き方)を提言したものばかり。
 
ジョブズの言葉を借りれば、周囲の期待にどう応えるか、プライドをいかに保つか、ばつの悪い思いや失敗をしないための方法などは、世にあふれています。
 肝心の「なぜ生きる」の答えは、結局分からないままで人生を終えていく人が大半なのです。
(中略)
仏教には、その「なぜ生きる」の答えが鮮明に説かれています。
だから、その教えに触れた人は、時代も国も超えて、称賛せずにおれなくなるのです。
--------------(引用終わり)------

 

 

 

 

上前二郎

2019年11月 5日 (火)

人間の知識の「すごさ」を伝えるのは、相手に寄り添わないと、ものすごく難しい。

リンク

いまは、小学校高学年でプログラミングとか習うのか……

実際にその授業でつくったものを見せてもらったのですが、長男は、この『プログラミン』というのを使っていたのです。


いまは、文部科学省がこんなソフトで子どもの「プログラム力」を育成しようとしているのですね。

正直、僕は「えっ、これが『プログラム』なの?」って驚いたのです。

僕が小学生の頃(って、もう35年とか前になってしまうのですが)、はじめてパソコン(マイコン)に触れたときには、マニュアルや、すがやみつる先生の『こんにちはマイコン』とかに載っていたBASICのプログラムリストを打ち込み、「おおっ、文字が表示された!」とか、「テンキーの『6』を押すと、キャラクターが右に動く!」ということに、感動していたんですよね。

当時は、テレビ画面に映っているものを自分で動かすことができる、ということ自体が「ものすごく画期的」だったのです。

僕は長男に、自分が初めてマイコンに触れたときの感動を熱心に語ったのですが、「ふーん」っていう反応で、どうも伝わっていないなあ、と、ちょっとがっかりしました。

 

でも、冒頭のツイートを読んで、冷静に考えてみると、長男にとっては「父親がなんか熱心に語っているけれど、なんでそんなことでヒートアップしているのかよくわからないなあ」っていうのが実感だったのでしょうね。

物心ついたときからテレビゲームやスマートフォンが身近なところがあったのだから。

知人の幼い子どもが、紙に書いてある文字が小さくて読みにくいと、iPadの画面に対するのと同じように、指二本で「拡大」しようとする、というのを聞いたことがあります。

いまの子どもたちは、それがデフォルトの時代に生きてきているのです。


逆にいえば、僕は「テレビが映ること」や「カラーであること」に感動したことはありません。

親が「バナナを一本丸ごと食べるのが夢だった」と言っていたのは覚えているけれど、だからといって、僕自身がバナナをありがたいと思ったこともないんですよね。

なんとなく想像はできるけれど、それを実感できる、というと、嘘になってしまう。

「感動する」という感覚は共通しているのかもしれないけれど、「何に感動するか」というのは、それぞれの人の背景によって大きく違ってきます。

世の中には「広い世代の心を打つ」ようなアートも存在するわけですが、テクノロジーに関しては、かなり限定的なものになりやすいのでしょう。

そういうふうに考えていくと、誰かの言葉で、子供の興味を理系の学問や科学に向ける、というのは、なかなか難しいのかもしれません。

テクノロジーというのは、進化すればするほど「存在するのが当たり前」になってしまい、「すごさ」を実感しづらくなってしまう。

 

「感動したこと」は伝えられても、今の子どもが『スペースインベーダー』を「すごいゲームだ!」とは思わない。

実際「テレビはなぜ映るのか?」「インターネットはどのようにして遠くの人とやりとりしているのか?」を子どもにわかるように説明できる人は、ほとんどいないのだけれども。

それでも、長男が『マインクラフト』で、すごく精密かつ巨大な建造物をつくって、それを誇らしげに見せてくれるときには、「プログラミング的なもの」が、時代に合わせて、より楽しく、子供たちの身近なものになっているのを感じるのです。

そこには「『つくること』の感動が子どもたちに伝わるように、工夫している大人たち」が存在しているのです。

「感動が伝わりにくい」のは、「相手を自分と同一視して、伝えるための工夫を忘れているから」でもあるのでしょう。

真っ黒な画面の前で、BASICのプログラムを入力していた僕としては「こんなのヌルい!」とか言いたくなるのだけれど、いまの時代に、パソコンの言語の歴史を一から辿っていくべき、なんていうのは非効率極まりない。

多くの物事には「ルーツ」というものがあるのですが、世の中には情報が増えすぎていて、すべてを網羅するには人生は短すぎます。

 

ソクラテスやプラトンはいちおう、おさえておくべきなのか?

いま、経済学を学ぶとすれば、マルクスの『資本論』は通読しておくべきなのか?

マルクスとかは、「ソ連」がまだあった時代に比べると、実用性や重要性はずっと低くなっていると思います。

一度、すっかり忘れられてしまうことによって、かえって、いつか「再発見」される可能性もあるけれど。


僕自身は、パーソナルコンピュータというものが生まれ、当たり前のものになっていった時代をリアルタイムで眺めることができて、すごく面白かったな、と思っているのです。

インターネットの進化と変遷も、また然り。

ただ、そうやって生きてきた人間であるがゆえに、コンピュータとかネットに対して、「すばらしいものであってほしい」という思い入れが強くなりすぎて、いまの子どもたち、若者たちとは感覚が乖離してしまっているのも否定できないのです。

「相手の背景を想像し、歩み寄ること」って、「伝える」ためには、とても大事なんですよ。

「つまらない昔の自慢話」になるか、「面白い体験談」になるかは、語り手の意識の差なのだと思います(あとは、語り手を好きになれるか、というのは大きいよねやっぱり)。

 

 

 

 

長曾我部幸隆

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