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2019年10月

2019年10月30日 (水)

母親の謙遜(旧観念)がこどもの可能性を閉ざす

「私なんて・・・」「うちの子なんて・・・」という謙遜の言葉。
自分以外の周りの人はみんな競争相手だったひと昔前の私権時代であれば、こういった「謙遜」は、世辞の常套句として一定周りからも理解され、人間関係の潤滑油として機能していた。

しかし、今は私権獲得への意欲は低下し、他を出し抜くよりも、周りのみんなにどう喜んでもらうか、みんなと価値をどう分かち合うかに多くの人の意識は180度転換している。にもかかわらず、無自覚な親たちによって、古い観念だけが惰性のように使われ続けている現実。

大人同士でハイハイと受け流すだけなら良いが、子供の意識ひいては行動に影響を与えるとなると、これは大問題だ。

以下、NIKKEI STYLE「尾原和啓 自己評価下げる「呪いの言葉」から解放を」から。
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ある研究では、日本人の自己評価、つまりセルフエスティームが低い原因には、母親からの影響が強いというデータが出ています。例えば僕の知人女性は、子どもの頃から絵を描くことが大好きでした。小学校に上がった頃、自分の絵が市の賞を受賞し、学校の廊下に飾られた。彼女はそれが誇りで、授業参観の日に母親に見せた。すると他のお母さんが通り掛かり、「○○ちゃん、すごいわねえ」と褒めると、彼女の母親はまるで慌てたように手を振って、「いえいえ、○○なんて全然、大したことないんですよ」と言ったそうです。

この時、幼い彼女は「私って大したことないんだ」とショックを受けたそうです。それ以来、大好きだった絵を描いても母親の言葉がよぎるようになり、ついに描かなくなってしまったといいます。

もちろん、彼女の母親に悪気があったわけではないのでしょう。私たち日本人には、褒められたら謙遜することが美徳であるかのような意識を植え付けられてきました。しかし僕は、個人の素晴らしい能力に蓋をしかねないこの習慣に、静かな憤りを感じるのです。

■世界で叫ばれる「アンリーシュ」

呪いを解くことを、英語で「unleash(アンリーシュ=鎖を外す)」と言います。実は既に数年前から、この「unleash」が、世界中のいろんな所で叫ばれているのです。賛否両論ありますが、一連の「#MeToo運動」なども、こういったムーブメントの一つでした。

僕の友人である予防医学研究者の石川善樹さんから聞いた話では、ある調査によれば、クリエイティブな人、イノベーティブな人が育った環境の共通点に、「母親にストレスがない」ということがあるそうです。もちろん父親の影響を強く受けた人も数多くいるのは事実なのですが、学術的なデータによれば、母親が子どもに与える影響の強さは、かなり大きいということなのです。

僕は決して、ここで母親の存在を責めたいわけではありません。なぜなら、母親もまた、社会によって「私なんて」という呪いをかけられてきたからです。大もとにあるのは社会の習慣です。まずそのことに留意した上で、自分に自信がない原因には、幼少期に自分へ最も強い影響を与えた人との触れ合いに原因があったかもしれないことに冷静に気付いて、今さら相手を責めるのではなく、自らアンリーシュしてあげましょう、と言いたいのです。
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リンク

 

 

 

竹村誠一

消費の時代が生み出した問題とこれから

消費ばかりの時代。
今後生きていく上で、自らで生きていく=生産していく
意識がなければ生き残れないだろう。

引用では、消費ばかりの時代が生み出した問題があげられ、少数の人だけが創造する必要がある、とあるが、今後は一人ひとりが創造していく必要があると感じる。

以下引用リンク
現代人に求められているのは、生活の役には立たないような多くの知識と、お金や情報などを使いこなす能力であって、特別な立場の人間以外「何かを創造する能力」は求められていません。

 実際、家庭でも学校でもそのようなものを育てようなどとはしていません。また、育て方も分かりません。それにそんなものを育てようとしていたら、競争社会では落ちこぼれてしまいます。

 「何かを創造する能力」は他の人と比較することが出来ません。点数を付けることも、言葉で教えることもできません。塾に通わせても、お金をかけて教育しても育てることは出来ません。

 昔の人は必要に迫られて、「創造する能力」を身につけましたが、何でも便利なものが揃ってしまっている現代では「創造する喜び」を体験する以外に「創造する能力」を育てようがないのです。

そしてそのためには、急がせない、束縛しない、比較しない、評価しない関わりと、素朴で刺激が少ない生活と、創造を楽しむ大人達に囲まれていることが必要です。

 子どもは楽しそうに創造している大人を見て創造することにあこがれ、楽しそうに消費している大人を見て消費することにあこがれるのです。

そして、創造を喜ぶことができる人は消費に依存しません。逆に、消費に依存している人は自分で創造しようとはしません。また、自分で創ることに意味や喜びを感じることもできません。

つまり、「何かを創造する能力は」近代社会が目指してきた方向とは全く異なる方向に存在しているのです。そしてまた、人類がこれから大量生産、大量消費から脱却して目指すべき方向に存在しています。

でも、その近代社会も実際には少数の「創造する人達」によって支えられています。そういう人達がいるから毎日のように新製品が生まれたり、私たちはファッションや音楽を楽しむことが出来るわけです。

ただ、現代社会ではそのような人は少数だけいればOKです。残りの人はその少数の人達が創ったものを買うお金を持っていればいいのです。

 現代社会は、少数の人達が創造したものを機械などで大量生産して、マスメディアで宣伝して、様々な媒体を通して消費者に買ってもらうことで成り立っているからです。

ですからむしろ、近代社会の「大量生産」と「大量消費」のシステムを支えるためには、「創造する人」は少数でなければ困るのです。みんなが自分でファッションを考え、自分で音楽を作り、自分で野菜を育て、自分でお料理を創作するような社会になったら、近代的な経済システムは崩壊してしまうのです。

 画家は絵を買わないし、農家は他の農家から野菜を買ったりはしないのです。

 近代社会を維持するためには、「創造する人」ではなく、大量の「消費する人」が必要なのです。

でも、昨日の話とのつながりで言うと、その状態が長く続くと社会全体の活力が失われ、次第に内部から崩壊していきます。人は消費するだけでは「生きている喜び」を得ることが出来ないからです。


でも、一度「大量生産」と「大量消費」に基づく社会の形ができあがってしまうと、人はその形を維持することだけに一生懸命になります。

 消費することに依存している人間は消費することだけが喜びになってしまうからです。

だから、学校教育では子どもたちの「創造する能力」を育てるようなカリキュラムが全く存在していないのです。そういうことは「一部の専門家の仕事だ」というように位置づけているのだと思います。そして、買い物をするために必要なお金を稼ぐための能力ばかりを育てようとしています。

 今や、そのような価値観は日本人の多くに浸透しています。そして、「どれだけお金を稼ぐことが出来るか」、「どれだけお金を使うことが出来るのか」ということがその人の社会的ステイタスを計る物差しにもなっています。

 子どもたちもまた、「○○のカード(ゲーム)持っている?」「ぼく貯金が○○円あるんだ」「○○買ってもらったんだ」「この前、ディズニーランドに行ったんだ」「うちなんかバリに行って来たんだ」というような「お金に関係するような話題」で盛り上がるばかりで、昔の子どもたちのように群れて遊ぼうとはしません。

それは、遊びを知らないからだけではなく、遊びを創造することができないからでもあるのです。遊び上手な子は、遊びをいっぱい知っている子ではありません。遊びを創り出すことが出来る子が「遊び上手な子」なんです。

これは大人でも同じです。遊びをいっぱい知っている大人が子どもと上手に遊ぶことが出来るのではなく、遊びを創り出すことができる大人が子どもと上手に遊ぶことが出来るのです。

でも、保育園や幼稚園の先生ですらそのことを知らない人がいっぱいいます。
 私が公民館などの企画で親子遊びの講座をやる時にも、よく担当の人から「どのような遊びをするのか教えてください」というメールが来ます。

でも、「遊び」には決まった形などありません。形をなぞるのは「作業」であって遊びではありません。講習会で教えることが出来るのは「遊びの標本」であって、「遊びの楽しさ」ではありません。

 大人は「標本」でもいいのですが、子どもは「標本」は嫌います。生命が宿っていないからです。だから講習会などで学んできた遊びを、子どもたちに遊ばせようとしてもそっぽを向かれてしまうのです。

 「遊び」というものは、それ自体がもともと「創造的な活動」なのです。遊びが楽しいのはそれが創造的だからです。だから形にはこだわらないのです。常識にとらわれる人間には創造は出来ないのです。(でも、常識を知らない人間も創造は出来ません。)

だからいつの時代でも芸術家は常識にとらわれないのです。

 

 

 

匿名希望

2019年10月24日 (木)

私たちは知らず知らずのうちに資本主義というシステムの中で物事を考えてしまう

私たちは知らず知らずのうちに資本主義というシステムの中で物事をかんがえてしまう仕組みになっている。社会構造と私たちの意識は深くつながっている。

「「構造主義」をひと言で説明すると?」
リンク
「挨拶を哲学すると、資本主義の本質が見える」
リンク

―――――以下、リンクより引用――――――
■構造主義とポスト構造主義
(前略)
「ようは、『人間は、何らかの社会構造に支配されており、決して自由に物事を判断しているわけではない』という話だ」
(後略)

「構造主義」の構造とは、「システム」である
「ようするに、この心理実験から読み取れることは、『人間は、自分の意志で考えて行動しているように見えて、実は、周囲の環境や役割や立場によって、無意識にその考えや行動が決定づけられている』ということである。(中略)」

「しかし、まあ、実験の正当性はともかく、感覚的には『ありそう』な話ではないだろうか。実際、なぜ特定の職業が、特定の制服を着て仕事をしているのか。なぜキミたちが、わざわざ特定の制服を着て学校へと通っているのか」

「それは、もちろん、それらの制服の着衣が、当人に『立場の自覚』と『集団への帰属意識』を促すと期待されているからである。つまり―個人としてではなく、集団の中の一員として―医者は医者らしく、学生は学生らしく、囚人は囚人らしくあるためだ。そうした意識の変容が、たかが布の色や形ぐらいで引き起こされているという事実を、我々はもっと重く受け止めるべきだろう」

(中略)
「このように人間は、自分で思うほど自由に物事を考えているのではなく、周囲の環境や社会的規則―言い換えると『構造』によって、実は『無意識にそのように考えさせられている』のだと言える」
(中略)
「さて、仮にその言葉で構造主義を表現するなら、それはこういう言い方になるだろう」
『人間がどう考えるかは、その人が生きる社会のシステムによって、無意識に形づくられてしまっている』


あなたはなぜ「働く」のですか?
(前略)
「正義くん、キミは『働く』または『働かない』という言葉を聞いて、どんなイメージを思い浮かべるだろうか?」

「えっと、そうですね。『働く』は『偉い』とか『生きがい』とか……。『働かない』は『ろくでもない』とか『羨ましい』とか、そんなイメージが浮かびますね」
(中略)
なるほど、ありがとう。今、正義くんが言った回答は、まさに我が国の資本主義社会という『システム』ならではのものだと言えるね。つまり、資本主義、貨幣経済という『システム』の中で生きている人間だからこそ、思いつける回答だということだ。実際、経済という『構造、システム』を持たない国に正義くんが生まれていたとしたら、同じように回答しただろうか?」

 僕は、美味しい食べ物が1年中そこらに転がってるような暖かい南国で、のんびりと暮らしてる自分の姿を思い浮かべた。
(中略)
「では、正義くん、仮にキミに弟がいたとして、その弟が人に挨拶を返さない子だったとしよう。さて、キミは何と言って彼を諭すだろうか?」

「それはまあ、まともに挨拶もできなかったら、社会に出てから困る……あ」


挨拶を返さないと、なぜダメなのか?
「どうやら気づいたようだね。正義くんが、今言った何気ない言い方は、ようするに、『働いてお金を稼いで生きる資本主義システムにおいて、通用しないからダメだ』と言ったわけだ」

「そうです……ね。自分では、普通に悪いことは悪いと言ったつもりなのに、知らず知らずのうちに、自分が生きている社会システムの価値観で答えていました」

 ちなみに、僕は、その回答以外にも「挨拶を返さないと、非常識だと思われて人から嫌われるぞ」という単純な諭し方も思いついていた。でも、これも同じで「じゃあ、なぜ嫌われたらダメなの?」と、もし問われていたら「だって、得しないじゃん」と即答していたと思う。

 これも、やはり、資本主義システムからの影響が無意識に出てしまった回答であるのが丸わかりだ。

「挨拶を返さないとなぜいけないか? 本来なら、さまざまな回答の可能性があったはずだ。たとえば、『挨拶とは、今日というかけがえのない一日に、互いに出会えたことを喜び合う行為である。だから人生を感動的に楽しみたいなら自分のためにも積極的に挨拶をするべきであろう。だが、もし、キミがそんな気分でなければむしろ挨拶はするべきではない。自発的に他者と今日という奇跡を分かち合いたいときに行えばいい。それが真の挨拶なのだ』と言ってもよかった」

「いや、むしろ、『挨拶とは何か』をちゃんと考えるなら、そう答えるべきだったとすら言えるかもしれない。だが、多くの人は、本来の意味を省みることもなく、自分が生きる社会システムの価値観で無意識に答えてしまう」
(中略)
「仮にここにコップがあり、そこに水を注いだとしよう。すると、水はこのコップの形になるわけだが……もしかしたら、水はこう言うかもしれない。『僕は自分の意志でこの形になったのだ』と。だが、それは幻想であり、事実は『たまたまコップがそういう構造をしていたから』にすぎない。

 実際、花瓶を持ってきて水を入れ替えれば、水はあっさりと花瓶の形になるだろう。つまり、水の意志など最初から関係なかったということだ。さあ、ここまで言えば、構造主義がどういう主義で、人間をどう捉えているかわかったのではないだろうか」

 うん、今の説明でよくわかった気がする。

 ようは、身も蓋もない人間観。今の話の場合、「コップ」は社会の構造で「水」は僕たちの思考のことだが―まさにそのたとえの通り、人間はただ構造に合わせて考えさせられてるだけにすぎないということ。

 これはたしかに右側の系譜、理想もへったくれもない現実的な哲学思想だ。そして、なるほど、だから「構造」主義と呼ぶのか。

――――――――――――――
以上。

 

 

 

 

どうなる資本主義

2019年10月22日 (火)

あらゆる可能性(欲望=欠乏)に素直になれば、必然的に追求心・活力も沸く。

349425 ”欲”は人間の根底部分。受け入れて初めて次のステージに.

こちらの内容、性欲に関わらずあらゆる欲望(=欠乏)に対して、貪欲になれという意味で、非常に納得です。

欠乏なきものいかなるものへの追求欲も芽生えず、活力がわかない。
一旦は全て枠を外して受け入れるのがまずは第一歩なのかもしれません。

色欲・食欲・物欲などなど、様々なカタチがある”欲”ですが、心のどこかで
「なんで、こんなに自分は食欲が旺盛なのだろう。食べ過ぎてしまう自分は嫌だ。」
など自己嫌悪に陥ってしまっている時はないでしょうか?
人間は良くないことと思い込めば思い込むほど執着してしまう生物。
心の在り方を模索し続けないとですね。

自分の中に闘いを作るのではなく、自分の欲望を認めてあげる。欲深い自分も許してあげる。
そして状況が許せば、とことん欲望に忠実に生きてみる。
そうすれば、結果的にその欲望から卒業していくことができるだろう。
そうして人は初めて次のステージに行けるのではないかと思う。

 「物欲、色欲、名誉欲、欲のおかげで、きょうもイキイキ」
 ----------
いつも自分にそう言い聞かせるといいのかも。

 

 

 

日出・真田十勇士

2019年10月 5日 (土)

善悪をつけたがる日本人

日本人はなにかにつけて
どちらかを悪にして、もう一方を善とする傾向があるように思う。

それは西洋文化から来ているものなのか、
どちかを悪にしないと気がすまないよう。

言い換えれば自分は正しい、とし他者を否定する。
この区別が分裂をおこす要因で反発が生まれ、
争いや闘争へつながることになる。

しかし、善や悪を決め付けるのは法律や規則上の話で、
どちらか一方しか存在しないことなどない。

テストや成績などで判断するような
学校教育がそうしているものなのだとしたら、
すごく狭い世の中で生きてしまっている。

その思考に一刻でも早く気付き視野を広く捉えていくことで、
よりわくわくした活力のある日々を送れるのではないかと思う。
そして、自分だけの世界ではなく、みんなで生きる世界を作っていけると思う。
何かを善か悪にした瞬間、思考は止まると思い、日々追求していく。

 

 

匿名希望

2019年10月 4日 (金)

「すげー」「やべー」を口グセに。すぐ動ける自分になる“仮説力”を鍛える3つの習慣

今やるべきだとわかっているのに、仕事をずるずると先延ばしにしてしまう…。
気合やメンタルでは活力も沸かないなってことも良くあります。

すぐ動ける人は仮説を持って動いてる人です。
仮説力を身につけるには?
以下リンク

____________________________________________________________________

仮説力を鍛える3つの習慣
すぐ動ける人というのは、「よし、これでいこう」という「結論」を出して動いています。

そして「結論」を出すためには「仮説」を立てる力が必要です。

「仮説」というと難しく聞こえますが、普段の生活の中で、誰もが仮説を立てながら動いています。

<中略>

日常のあちこちで仮説を立てることで、色々な行動につながり、可能性が広がっていくのです。
言い換えるなら、なかなか動けない人というのは、仮説を立てる習慣がないことが多いのです。
とはいえ、そんなに仮説なんて出てこない、ということも多いと思います。
「直感型の天才肌の人しか、できないのでは?」と思っている方もいるでしょう。
確かに仮説を立てるためには「直感」が大事だ、という話をしました。
でも、「直感」は鍛えることができます。
直感を鍛えるには、次の3つが大事です。
・志
・妄想
・好奇心
「志」があれば、そこにたどり着くためにはどうするべきか、という「妄想」が生まれます。
常に「自分だったらそうするか」と志と照らし合わせて考えられますので、すぐに「結論」が立てられます。
そして、「志」と「妄想」があれば、自然にそこにつながる情報を集めようとしますので「好奇心」が生まれます。
すると、「結論」につながるネタが収集できますので、常に「仮説」ができている状態になります。
■習慣①仮説の軸となる「志」
要は「自分がどんなふうになりたいか」「自分の人生や仕事で何を成し遂げたいか」を思い描くことです。志をベースにそこにあてはめながら結論を出そうとするからです。

■習慣②仮説力を鍛える「妄想」
自分の中で志が明確になると、身のまわりのどんな事象を見ても「自分だったらどうするか」ということを考えるようになります。
「私だったら、こんなふうに振る舞うのに」「俺だったら、ここではこう意思決定する」などです。ここでは、これを「妄想」と呼びます。
「妄想」というと、仮説とは関係がないことのように思えますが、実際の自分を振り返ってみると、「妄想」が構造化されてビジネスの仮説につながっていったということはよくあります。

<中略>

様々な局面で、「この場合は、どう動くといいだろう?」「自分だったらどう言うだろう?」と妄想し続けたら、「仮説の引き出し」に、様々なネタが記録されていくわけです。そうして自分の中に行動の仮説がたまっていくわけです。

これを繰り返していくと、様々な事象を自分に引き寄せて考えられるようになるので、自然と情報収集のアンテナを張るようになります。

いつの間にか「好奇心」が生まれるのです。

好奇心が生まれると、さらに様々な事象を自分ごととして考えるようになり、さらに仮説のネタが集まってきます。

■習慣③好奇心を鍛える「すげー、やべー力」
「羊一さんって、最初に会ったときは、本当にただのつまらないおっさんだったよね」
当時の私は、好奇心というものが皆無といっていい状態でした。

しかし、「すげー、やべー力」を身につけたことが変わるきっかけでした。

会社では、同期の仲間たちがいつも楽しそうに話していました。
そこで、なぜ彼らが楽しそうなのか、観察してみました。
すると、とにかく「これすごくない?」「うんうん、やべー!」という言葉がやたら多いことに気づいたのです。
みんなと同じテンションで返事ができるようになればいいな、と思った私は、とりあえず真似してみることにしました。
何か新しいものに触れるつど、「すげー」「やべー」と、声に出して言うようにしたのです。
なんということもない記事でも、読みながら「これすげー。えっなに、やばくない?」というようにです。
その方法はどうも効果的だったようです。

「すげー」という言葉は、もちろん自分が発しているのですが、同時に自分の耳にも入ってきます。

その耳に入ってくる「すげー」「やべー」という音声は、言っている主語が誰、ということを認識しないで、「対象物=すげー」というタグづけをして脳は記録するそうなのです。

そのうち、脳の中に「すげー、やばいリスト」が充実してくると、そのリストにあるものとの比較で、自然に「これ、すげー」「やべー」と感じるようになっていきました。
要するに、自分の言葉で自分の脳をだましていったのです。

さらに、思わぬ効果がありました。
「すげー」「やべー」と騒いでいると「何がすごいの?」と周囲から聞かれます。
そこで「このアプリがすごいんだよ!」というと、面白い話に反応する人たちが「俺のネタのほうがもっとやばいよ!」という話をはじめます。
そこで新しい情報ゲットです。
これによって、色々なことに関する感度が飛躍的に高まりました。
つまり、好奇心を後天的に生み出すことに成功したのです。

「すげー、やべー」ものに反応する感度が上がったことで、頭で考えなくても、自然と体が動くようになっていたのです。

☆直感を働かせるには、まずは好奇心。

☆「行動できる人」=「仮説を持っている人」

繰り返しになりますが、行動できる人とできない人は、こういう「仮説」を普段から持っているかどうかが大きいです。

経験があっても動けない人がいる。

それは、その経験から仮説を立てていないからです。

逆にいえば、実際の経験がなくても、様々な事象について「自分ごと」で考えて仮説を立てていくことができれば、すぐ動けるようになるのです。

そういう人は瞬時に判断して動けるリーダーになれますし、そうでなければ、いつまでたっても同じことの繰り返しになってしまいます。
以上

 

直永亮明

2019年10月 2日 (水)

群れから飛び出す

リンクより

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北野武氏の心に響く言葉より…

これまでの人生でいくつもの決断をしてきたけれど、いちばん大きかったのは、やっぱり大学を中退するという決断だった。
大学を辞めて、俺は芸人の世界に飛び込んだ。

それは、俺にとっては、群れから飛び出すということで、自殺するにも等しい決断だった。

それまでの俺は、いろいろありはしたけれど、結局のところは母親のいうことに従って、自分はこの社会という群れの中で生きていくものだとばかり思っていた。
道徳の話に引き寄せていえば、それまでの俺は母親の道徳観の中で生きていた。

大学を辞めることを自分で決めたとき、俺はその母親の道徳観から飛び出したのだ。
自殺するにも等しいと書いたけれど、ほんとうにあのときはそれくらいの覚悟が必要だった。

浅草でのたれ死にしてもいいと、本気で思っていた。
芸人ならのたれ死にしても恰好いいやなんてうそぶいていたけれど、内心はそんな恰好いいものではなかった。
ただ、今でも忘れられないのは、そうすると心に決めたとき、見上げた空がほんとうに高くて広かったってことだ。
ああ俺は、こんなに自由だったんだなあって思った。

子どもはなんだかんだいって、親や学校に教わった道徳観の下で生きている。
大人になるということは、その誰か他の人が作ってくれた道徳の傘の下から出て、自分なりの価値観で生きる決断をするということだと思う。
のたれ死にする覚悟をしたくらいだから、成功する保証なんてどこにもない。

いや、成功するなんて思ってもいなかった。
死ぬ気で飛び出したら、なんとか生きのびたというだけの話だ。
だから、読者も群れから飛び出してみたらいい、とはいわない。
どう考えても、失敗する可能性の方がずっと大きいわけだから。
のたれ死にしなかったのは、ほんとうに奇跡みたいなものだ。
それは俺が時代と幸運に恵まれたというだけのことだ。
他の人に真似してみろとはとてもいえない。

ただ、群れから飛び出したおかげで、群れの中にいるよりはいろいろなことが見えるようになった。
そんなに遠くに飛び出したわけじゃない。

まあ、とにかくそういうわけで、俺が偉そうにいろんなことをいえるのも、群れを飛び出したからではある。
のたれ死にするほんとうの覚悟のある奴が、群れを飛び出すのを邪魔するつもりはない。

何度でもいうけれど、成功する保証はまったくない。
はっきりいえば、ほとんど成功しないだろう。
そんなことは当たり前だ。
芸人は何千人もいるのに、まともに喰える奴はほんの一握りなんだから。

ただ、成功はしなくても、自分の頭上の、何もない、高くて広い空を見上げることはできる。
もう一回この世に生まれたら、のたれ死にすることになっても、あの空を見上げるためだけに、やっぱり俺は群れを飛び出すと思う。

恰好つけているのではなく、のたれ死にしてもいいやと思えるなら、なんでもやれるというだけのことなんだけれど。

『新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか
(幻冬舎文庫)』幻冬舎文庫


同調圧力の高いこの日本において、群れから飛び出すことは本当に勇気がいる。
同調圧力とは、集団の中で、皆と違った意見を持っていたとしても、暗黙のうちに、大多数の意見に合わせるよう強制される雰囲気のこと。

Appleは1997年に「Think
different(シンクデファレント)」という広告を打った。
モノの見方を変えるとか、新たな発想をするということで、キャンペーンの中では、「世界を変えようとした人たち」としてアインシュタインや、ピカソ、ガンジーなどが出てくる。

それは、「現状維持圧力に対する挑戦」ということで、同調圧力に対する挑戦ということでもある。
人は、安定を好む。
しかし、あえて自ら不安定で不確実なところに身をおく。
それが、群れから飛び出すこと。

挑戦するということは、もし失敗して無一文になっても仕方ない、と覚悟を決めること。
時に、群れから飛び出す覚悟を持ちたい。

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原てふ子

2019年10月 1日 (火)

集団構造における実在的「可能性収束」と実在的「劣化収束」の位相

時代の大転換期を踏まえ、これまでの既知や経験則の枠組みではもはや勝てない・答えを出せない。

自在な思考を手に入れ、集団の適応可能性を飛躍させるべき時代に入った。業態革命や企業連携、コラボレーションやグループ追求など、既存の思考フレームを超えるべく多くの中小企業、大企業、学校、教育、家庭、子育て、男女関係といったあらゆる領域の中で社会的規模(行動は部分的・局所的ではあるが)での模索や追及が始まっている。

一方、思考の開放を意識するが故に多くの思考が陥りやすい罠がある。

それは、当人たちの意識とは裏腹に、成功事例の表面的模倣や、技術的スキル、表現スキルの模倣に終始してしまうという思考現象だ。もちろん既知の領域を超えた行動・作業や思考を少なからずとる為、既知領域に対してある程度の新鮮さや変革的現象を齎す。これまで使ったことの無い言葉や表現や行動様式は、既存の枠組みからすれば、それらの現象はあたかも思考を開放しているように見える。これはチームやグループによる集団思考でも同様。

しかし、ここに致命的とも言える構造的な落とし穴がある。ある意味、見た目、言葉を変え、思考手順や作業手順を変え、アウトプットする表現を変えるだけならば簡単にできる。問題は、構造的に思考が開放されているか否かという点だ。思考の開放がなされ、現実に可能性を切り開いているケースにおいて、最も重要な事。それは、外圧や危機的状況を肉体レベルで対象化するがゆえの固定観念=「既知の立脚点そのものの解体」であり、その可否である。

例えば、建築設計の領域で建築プロセスにおいて思考の開放を試みようとする。目的地は開放された自在な思考に基づく、社会と使用者において永く評価される新たな空間価値の創造・提供であるとしよう。近年の先端技術や先端事例・他業界事例・評価事例の収集から、それらを生み出す組織の構造や思考様式・伝達様式を取り入れるべく注力する。そして、一定の構造化を経て、実際の業務フローに組み込む事を試みる。

一見間違い無いように思える。しかし、残念ながらこの一連の思考・作業フレーム・プロセス全体の「立脚点」が既にズレているのだ。

何故か?それは仕事以前の思考領域=実在領域に存在する。ここに日常・仕事・追及・仲間を含めたすべての根幹=原因構造がある。もし諸君が仕事が出来て、休日には自分の趣味を大いに楽しみ、仕事の成果や仲間との充足関係を維持しつつ、個人の自由な時間や休みの確保も絶対。もちろん個人の価値観による自由恋愛(自我の性)は、あたりまえのように肯定する。そして、一対婚に基づく核家族信仰(家庭第一・子育第一)も当然で、夫婦仲良くあわよくばこっそり不倫や浮気もアリ。仕事と家庭の分断もある程度は仕方が無いと割り切る。

まぁ。構造的にはいろいろ問題はあるかもしれないが、このようにうまくバランスをとる。といったような価値観を当たり前のように心底に温存させている。その上で、求める新たな価値の創造や社会的評価、建築家幻想や集団内評価の獲得を目指しているとする。ならばそれは。明らかに根幹にある価値観や普遍的行動様式は既知収束そのままの倒錯した意識構造であり、近代観念や既知観念を絶対肯定する立脚点の姿である。ようは何も腹を括っていないのだ。

したがって、もしこの私的絶対領域の絶対性=既知を疑いもせず、変えようともせず。全肯定した上で「思考の開放」という領域に臨むのだとすれば、それは結果=社会的充足可能性を生み出すこと自体が幻想であり(目先の断片的可能性以外)実現不可能であるということに他ならない。当然、本来的にも集団思考の構造上も存在しえない。唯一存在しえるように錯覚する可能性があるのは、近代観念(自我のパラダイム)の全肯定を暗黙に仲間で共認した上で形成される集団内(私的)共認の地平だけである。これが集団構造における実在的劣化収束である。それが劣化共認(旧パラダイム温存という潜在思念の正当化共認)の姿である。

これは他業種であっても他領域でも、気をつけなければならない重要なポイントとなる。

したがって思考を開放する為には、生活存在を含めシームレスに既存の枠組みを超え出ることが出来ているか。しようとしているか。(本来、外圧認識・危機意識が高ければ自ずとそうなる)既知の価値観の恩恵そのまま(部分温存・肯定したままに)に新しい成果だけを求めていないか?いずれにせよ、思考の開放と未知なる成果の達成にはシームレスに既知を捨て切る覚悟と実態が、個人レベル・集団レベルに求められるものである。だからこそ、個人の存在限界を超えた時間軸の地平でこそ集団で取り組むべき課題となり、真の充足可能性はその先にこそ待っている。

 

 

 

 

 Bannister 
 

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