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2019年8月

2019年8月25日 (日)

仏像をCTスキャンしたら中にミイラ。この僧は誰? なぜここに?

下記,リンクより引用

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気になるのは僧侶の正体ですが、そちらはLiu
Quanという禅僧とのことです。没年は西暦1100年前後。仏像の年代もこの没年から来ています。

ドレンツ博物館ではいろんなミイラを一堂に集めて展示したのですが、この仏像は「self-mummification」の事例として紹介されました。日本語で言うと「即身仏」。地獄の苦しみの修行です。


禅僧は断食をし、水分を体から抜き、しまいには毒まで飲んで、不滅の体を解脱して悟りを得ようとした。

まず最初1,000日は寺周辺で拾った木の実と種だけ食べる。次の1,000日は松の木の皮と根っこ。それが終わると今度は漆の茶(毒)を飲む。すると嘔吐で体の水分が出て、本来なら死体に群がる虫・微生物も食指の進まない体になるのだ。

あとは座禅できるだけの空間だけある墓に入って、竹の空気穴で呼吸をし、読経しながら鈴を鳴らす。鈴が止まると死んだ合図だ。外にいる人が空気穴を閉じ、そのまま3年放置する。

1,000日置いて墓を開け、ミイラ化したかどうかをチェックし、失敗なら(大体は失敗に終わった)埋葬。成功なら永遠の悟りの境地に達し、輪廻転生から解脱し、仏の位に高まった証拠である。ミイラに服を着せてきれいに飾り奉納する。

空海が中国で学んで持ち帰った修行法で、同じ習わしは中国、インドにもあった。この手法のキモは内臓を抜かないでミイラ化してしまうところだ。1,000日放置してから内臓を抜いたとも思えないし、一体どういうプロセスでミイラ化したのだろう?
結果が待たれるところだ。


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引用終わり

 

 

 

我妻佑磨

2019年8月 9日 (金)

「人間と自然の共生」はファンタジーだった。パラサイト・イブに見る「科学とは何か」問題。

瀬名秀明さんの『パラサイト・イブ』を久々に読み返した。

研究における仮説を、小説という形態でストーリー化する

昔読んだ時は、得体の知れない生き物が襲ってくる、コワい!なんかセクシーな描写がいっぱいある、エロい!という事ばかりに意識がいきましたが、これは「ホラー小説」としてのルールを守るための「押さえなければいけないお約束」であって、作者の本意は別のところにある。

では作者の狙いは何かというと、「科学の研究における『仮説』を、小説にして展開してみたらどうなるか?」というトライアルなのであるよ。

「ミトコンドリア」や「DNA」という現在進行形の学問では「答えが出ていない課題」がいっぱいある(微生物の世界にもいっぱいある)。わからない事に関してはまず仮説を立てるのだが、オフィシャルな答えがないわけだから、「想像力を働かせる余地」がいっぱいある。

つまり「仮説を立てて、それに沿って現象を考察する」という行為は、仮説を立てた者のイマジネーションを駆使するという点において、「小説を書く」ということに近接する。
 「ミトコンドリア」という「よくわらないことがいっぱいある領域」は、研究の仮説を物語化するためにはうってつけの題材だった(←文献が残っていない古代史の方が漫画や小説にしやすいのと同じ原理)。

この小説において、専門用語がいっぱい出てくる必然性はつまり『本来は論文であるものを小説化している』という構造から出てくる。

「でも、論文と小説は本質的には違うだろ」

果たしてそうだろうか?「未知のものに対して、ああかもしれない、こうかもしれないと突拍子もない思いつきを述べる」という点において、論文と小説は同類なのではないのだろうか?好奇心とイマジネーションを惹起させるという意味では、どちらも「エンターテイメント」なのではないだろうか?

「人間サイドの自然」と「人間サイドでない自然」

もう一個別のおはなし。

僕が読みなおしたのは、新潮文庫版。単行本が発刊されてから10年後に出たこの文庫には、作者によるあとがきがいっぱい追加されている。で、これがすっごく面白いんだよね。
 『パラサイト・イブ』が出てからの作品に対する評価とか批評を集めてグラフにして定量化したりしている(このへんも科学者っぽくて良い)。

さて、いっけん思慮深く見える発言だが(←こないだもこんな物言いをした気がする)、果たしてそうだろうか。瀬名秀明さんの反問も一部引用。

科学と技術を混同してはならない、とはよくいわれることだが、科学の中にはどうしても両者の境界が曖昧になってしまう分野がある。例えば看護学は科学だろうか、技術だろうか。薬学はどうか。微細な構造へと突き進んでいく生命科学はどうか。これらの分野では揺るがない根拠を求めようとすればするほど、揺らいだ世界が顕在化されてくる。しかしそれこそが今後の二一世紀科学の面白さではないのか。

池澤夏樹さんと瀬名秀明さんの齟齬はいったいどこに起因するのだろうか。

それは「自然のセオリーを人間が理解できる」という前提と「自然のセオリーは人間が理解できない」という前提の違いから起こる。

池澤夏樹さんのいう「人間と自然が対話できる」という前提は、果たして本当かどうかという問題だ。

高校生の時の自分は、池澤夏樹さんの世界観を支持したかもしれない。けれどもミクロの世界の研究をしている現在の自分は、瀬名秀明さん側に転身したのであるよ。

21世紀の「自然」は、人間の認識の限界を超えてしまった

前にこんなことをつぶやいた。これは正に「池澤夏樹さん的自然観」からの離脱なのであるよ。20世紀から現在に至るまで、超ミクロ/超マクロの世界を研究しまくったら「人間の認識能力では理解できないことが現実を支配している」ということがわかってしまった。

そういう意味で、20世紀は「人間と自然が対話できた時代の終焉」と言える。
 科学者は、ある特定の領域をひたすら突き詰めることで、限定された領域でのみ「人間の限界を超えた世界」を理解できるようになる(100mを超速で走るウサイン・ボルトのように)。しかし彼の言っていることは、他の「フツーの認識能力のひと」には伝わらない。

池澤夏樹さんの憂慮する「科学と技術の隔離」はこのような背景から必然として生まれた。人間の知の進化は、ある臨界点を超えたあたりで「自然のセオリーは、僕たちの認識の限界の彼方で機能している」ということを明らかにしてしまった。この瞬間に、コミュニケーションをすれば共生できると思われていた「自然」というものが、人間よりもはるか上位のセオリーで存在しているということがわかってしまった。

この時点で、知性的な人間が取る態度は大きく分けて2つだ。
 1つは、この臨界点の向こう側に「立ち入り禁止」の札を立てるという倫理優先の振る舞い。もう1つは、「カオスの中での進化」を目指すという好奇心優先の振る舞いだ。

この違いをさらに極端に言えば「人間の領域で立ち止まる」か「人間の領域を超えようとする」かの選択だ。

「このままだと人類は滅亡する」
 「だから江戸時代に戻ろう」

意地悪な見方だが、池澤夏樹さんの物言いはこのようなロジックの延長線上にある。それは確かに正論なのだが、実は「立ち入り禁止区域の先にある別の可能性」を考えないフリをしているのもまた確かなのだ。

「やっぱ人間は人間らしい世界に住まないと」と教わって暮らしてきた人文系のヒラク君は、発酵デザイナーとして、ミクロの世界という「立ち入り禁止の領域」に足を踏み込みつつある。人間の認識を超えた世界を覗いてみたいという好奇心でソワソワしているのであるよ。

リンク

 

 

 

匿名希望

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