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2019年2月16日 (土)

~「エモい」で判断するのがあまりに危険なワケ~共感力の求められる社会にはリスクも孕んでいる

毎年様々な流行語が生み出されるなかで数年前から耳にするようになった言葉のなかに
「エモい」なんていうものがある。
英語のemotionalを語源としており「感情に訴えかける。」「心に刺さる。」などの意味があるようだ。
このような言葉が広がる背景には現代の社会が共感や感情による影響の大きさを表していると言える。
共感力が社会に及ぼす影響が大きくなってきたことは本源社会への回帰でもあるが、伴って孕んでいるリスクもある。
以下引用
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実は、学術の世界でも同じようなことが起きています。ダニエル・カーネマンの社会心理学の研究や、ダン・アリエリーをはじめとする行動経済学の研究により、人間の判断が客観的な費用や便益に基づいて合理的に行われているわけではないことが次々と明らかにされています。
「金銭などの動機づけを与えれば人間は合理的に行動するはず」だ、という前提のもとで、経済学も、経営学も、行政学も発展してきたはずなのに、そもそもの前提が間違っていたことが明らかになってしまったのです。
人間は「合理的」な判断はせず、むしろ「共感」や「エモい」に突き動かされて生きているのではないか、という認識が社会に広まりつつあるからこそ、そのような単語が流行するのかもしれません。しかもその認識は、単なる時代の流行ではなく、実証研究によって明らかにされた事実でもあるのです。
最近ではこの、人間の「エモい」性質を使って、社会をよりよくしようとする研究も進められています。その代表格がノーベル経済学賞受賞者リチャード・セイラーとハーバード大学の法学者キャス・サンスティーンらが主張するナッジ(nudge)。心に響くちょっとした仕掛けを施すことで、社会問題を解決しようというものです。
有名な事例が「男性用小便器の的」で、小便器の中央部にハエや的の小さな絵を描いておくと、そこに向かって排泄されるので、便器の外が汚れづらくなるそうです(食事中の方、申し訳ありません)。
こうして考えると、社会はもっと「共感」や「エモい」反応を大事にしていくべきではないか、現実に即さない「合理性」は忘れたほうがよいのではないか、と思われるかもしれません。しかし、何事にも副作用があり、その副作用のほうを心配しているのはおそらく筆者だけではないはずです。
感情に基づく反応は極めて強力です。だからこそナッジが社会によい影響をもたらしてくれるのですが、逆に、それを悪用しようとする者がいれば、どうなるでしょうか。企業や政党が私利私欲のため、本来の意図を隠して人々の共感に訴えかけることも十分考えられます。
道徳心理学者ジョナサン・ハイトが『社会はなぜ左と右にわかれるのか』という著作で説明していますが、人間は情報を総合的に評価してから理性的に判断を下すのではなく、本能的に判断を下してからその理由を後づけするという説があります。
つまり、瞬間的に共感するかどうかを判断してから、その共感を正当化するための理屈を事後的につくり出しているというのです。これが本当なら、誰かを説得したいとき、理屈よりも印象が大事だということになります。説得される側も、好印象ならそれを正当化する理由を考え出し、悪い印象ならそれを否定する材料を集めることになります。
実際、最近のネット言説を眺めていると、まさにこの悲しい人間の本性が露骨に表れているように見受けられます。自分が信奉する人やメディアが言うことはすべて隠された真実、キライな人やメディアの言うことはすべてフェイクニュース、という反応は、イデオロギーの左・右問わず見られます。
ここで「だって人間だもの」とあきらめて、瞬間的な共感(反感)ですべて判断してしまってよいものでしょうか? 実際、思考停止でも十分な場面もたくさんあることでしょう。
男子が小便器の的を見たら、何も考えずに的を狙えばいいように、ナッジが提案するトリックにみんなが「だまされる」ことで、納税率が上がったり、犯罪が減ったり、社会はよくなるかもしれません。そもそも個人の趣味のレベルであれば、「エモい」音楽や映像で気持ちよくなっている人に文句をつけるなど、無粋というものです。
しかし、選挙で政党や候補者の名前を投票用紙に書くときや、地元で建設が予定されている施設の説明会で発言するときの判断も、共感だけに基づいていいものでしょうか? これらの判断と、小便器を使うときの判断が同じでいいはずがありません。あるいは、SNSやニュースサイトのコメント欄に自分の考えを書き込むときも、共感レベルの本能的な反応を示すだけでいいのでしょうか?
ダニエル・カーネマンは、『ファスト&スロー』の中で、人間の非合理的な側面を実証しながら、人間の脳内にある「システム1」と「システム2」の存在を指摘しています。
システム1とは、行動経済学の実験やナッジの実践が着目する、感性的で即断的で、「非合理」なことも多い判断のシステムです。システム2とは、事実や仮説を検証し、何が正しいのか、頭を使って熟慮するシステムです。
実際に起きている深刻な社会問題やネット上での言論に対し、誰もがシステム1だけで発言したり、行動したりするようでは、おそらく、問題は解決しないどころか、社会の分断が進むだけでしょう。むしろ、わたしたち1人ひとりが、システム1に偏りがちだという人間の弱点を認識したうえで、その本能的反応を乗り越え、意識的にシステム2で問題を考えていくことが必要です。
そのためには、まず、自分の共感(反感)を疑うことから始めなければなりません。共感できない他者に対して無意味な攻撃に走らず、寛容になる能力、あるいは無視する能力が必要です。
システム1の弱さを克服したうえで、システム2を駆動して、共感できない人たちとも「共存」するための解決策を見つけることができれば、より生きやすい社会へと近づくことができるのではないでしょうか。事実、ちまたで言われる「WIN-WINの解決策」とは、共感ではなく共存によって初めて成立するものです。
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参考:リンク



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