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2019年1月

2019年1月31日 (木)

思考の「去勢」をどう切り開いていくか

リンク
働く志や使命感のまだ未熟な学生たちは、とにかく身近でイメージできる「隣の人を笑顔にする」という所に収束するしかないのかもしれません。
―――――――以下、リンクより引用――――――――
(前略)
工作室独立前に、僕は会社で新卒採用をしていました。
そこで、100人以上に大学生、いわゆる「新卒」の学生さんたちと会ってきました。
色々な人たちと話しながら、僕はそこに一つの傾向を見て取りました。
「隣の誰かを笑顔にしたい、社会の役に立ちたい」という台詞です。20歳そこそこの子たちですよ。「お前正気か?」と正直最初はとまどいました。
マニュアル本にそう書いてあるのか?と疑いました。
そうやって意地悪な気持ちで掘り下げてみても、彼女ら彼らは本当にそう信じている様でした。
…そこでこんな風に言ってしまうのは酷薄かもしれない。でも言います。
僕はそこに「人格の亀裂」を感じました。何か、もっと深い所からやってくる声を抑制しているような。何らかの理由で、彼女ら彼らは去勢されているのではないか?
□『若者のための社会学』 豊泉 周治
そんな疑問を感じている時に、考えの糸口を見つけてくれた本。
『社会学』といってもアカデミックな話ではなく、「どうやって社会の問題を考えるか」という原点を掘り下げた素晴らしい内容になっています。いくつかの論点がありますが、出色なのが、社会的な構造の歪みが、被雇用者である若者の「人間力」という個人的な責任に転嫁されていった背景が見事に述べられているところ。
つまり、「上手くいかないのは、お前が未熟で我を張って思いやりがないからだ」と、オトナに洗脳されていった歴史が暴かれているのです。
この本で初めて知ったのですが、今は小学校に入学すると「こころの教科書」という本を手渡され、それは「きょうをすばらしい一日にしよう」と始まり、「となりのだれかの役立つにんげんになるように、この社会に役立つにんげんになるように」と結ばれます。
こんな風に、思春期が始まる前から、「お前空気読めよな?」という洗脳が始まります。人間関係でも、サークルでも、バイトでも、「もっと優しい人間にならなきゃ。全てを許容しなきゃ」というある種の強迫観念を無意識で『自分自身に』刷り込んでいくのです。
アメリカ大陸入植期にこんな話があります。
黒人奴隷を管理するための効率的な方法として、白人が黒人を鞭打つのではなく、黒人の中に階級制を作り、黒人同士で監視を行うという手法です。「こころ」という正論で人を縛り付け、人格を去勢していくやり口は全くもってこのやり方と一緒です。
「あなたが変われば世界が変わる」。
こんな経営者向けの安っぽい自己啓発を、まだ就労以前の子どもたちに押し付けるなんて茶番もいいところです。僕たち若いもんがこんなにも苦しんでいるのは、僕たちが未熟な人間だからではなく(それはいつの時代も大差なかったはず)、社会構造の問題です。けれどもずるいオトナたちはそれを「こころ」の問題にすり替えて既得権益を守ろうとしているのでした。
(中略)
『切り取れ、あの祈る手を』 佐々木中(あたる)
さて、今度は少し視点を変えて同じ話を。
今話題の評論家、佐々木中さんの新著。
「本なんて、本当は読めないんだ。だって、他人の頭の中を除いたら気が狂ってしまう。」
そんな風な問いかけからこの本は展開していきます。ニーチェ、宗教改革者のルター、イスラム創始者のムハンマドを取り上げながら、佐々木さんはいいます。
「革命とは、『読むこと』だ。『読むこと』ができないはずなのに、それでも徹底的に『読み』、狂気に駆られて現実を変えていくことだ。」
これは馬鹿げた話でしょうか?僕はそうは思わない。
テキストとは、突き詰めれば「理想」のことです。聖書もコーランも憲法も「理想」です。現実はスキあらば腐敗し脱線し、殺し合いや差別が始まります。だから理想なんて意味がないんだ、と言う人もいる。でも一方で、だからこそ理想が必要なんだ。ということもできるはず。
時間を超えて生き延びてきたテキストには、何らかの理想が示されている。
だからそれを「読む」。それは容易には読めない。でも、徹底的に「読む」。そこからその個人が変わって行く。
「この本に書かれていることは正しい。けれでも、現実はこうではない。狂っているのはオレなのか、それとも現実なのか?」
そこまで突き詰めることで、人間は「本当に」現実を変えていくことができる。この本を読んで教えられることがありました。
それは、「たくさん知る」ことが大事なのではなく「突き詰めること」が大事だということ。自分に照らし合わせて突き詰めることがなければ、どんなに情報を持っていたとしても、それはつまりオトナたちのもっともらしい話に振り回されるだけなのです。
もっと構造的な問題を、自分の頭で突き詰めて行く。
(中略)
それには、セミナーに行ったり社長と飲みにいったりする必要はありません。書棚からしかるべき本を一冊取り出し、読む。(新書とかじゃなくて)
きっとあるはずです。あなたの無意識を克明に記してしまった恐るべき本が。そこから何かが立ち上がってくるかもしれません。苦しい時代と戦うためのヒントが。
―――――――――――――――――――――
匿名希望

2019年1月25日 (金)

言葉があなたを作る

自分が発する言葉。それによって、自分に与える影響も大きいそうです。
プラスの言葉を発すれば、心もプラスになってくることもあれば、
マイナスの言葉を発すれば、心も荒んでくることもあるかと思います。
嘘でもいいから、プラスの言葉を発することも重要になるのでは無いでしょうか?
笑顔を作れば、自然と心も浄化されてくるのも同じで、感情があるから、表情や言葉が出るのではなく、表情や言葉を発するから、感情が作られるのではないかと思います。
以下、リンクより引用
―――――――――――――――――――――
普段から他人を貶めたり、批判するような言葉ばかりを発している方が居ますが、そのようなことを続けていると、将来は脳の機能が低下することになるかもしれません。
東フィンランド大学の脳神経学者「アンナ・マイヤ・トルパネン博士」らのチームが平均年齢71歳の1449人を対象に言葉と認知症のテストをしてみたところ、「誰も信用できない」と強く信じている人は平均の3倍も認知症になるリスクが高いことが判明しました。
これは高血圧や高コレステロール、禁煙などを調整した上での数値で、皮肉屋で人を信用しない人は認知症になる危険性が高い事を示したと言えます。逆に日本の名古屋大学などが行った調査では、謝罪を受けると脳の攻撃性が和らぐという結果が発表されました。
言葉と脳の関係はかなり前から指摘されていたことで、今回のような脳と言葉の関係を示す実験結果というのは別に驚くようなことでは無いです。言葉を発するという行為は皆が考えている以上に脳への影響が強く、良い言葉は健康や精神にプラスとなり、悪い言葉はマイナスの影響を与えます。
それこそ、毎日のように他人の悪口や怒りの言葉ばかりを叫んでいる方は、将来の健康リスクが高まる事になるでしょう。
有名な政治家も他人の悪口を言わない方が多く、小泉前首相や小沢一郎議員らは具体的な悪口を言うことを避けています。当ブログの読者の中には自分も嫌いな政治家や政党、勢力、組織、集団に対して、汚い言葉を浴びさせている方が居ますが、そのような方は健康のリスクが高まっているかもしれません。
こんな世の中だからこそ、プラスの思考が今まで以上に大切だと私は感じています。
東フィンランド大学の脳神経学者、アンナ・マイヤ・トルパネン博士率いる研究チームが平均年齢71歳の1449人を対象に、世間や他人に対する皮肉・批判度を測る質問をして、同時に認知症のテストしてみた。
 質問の内容は、「出世するためにみな嘘をついている」「人は信用できない」「人は自分の利益になることにしか積極的に動かない。」などだ。
 その結果、人は利己的な関心だけでしか動かない、誰も信用できない、と強く信じている人は、それほどでもない人の約3倍も認知症になるリスクが高いことがわかった。この数値は高血圧、高コレステロール、喫煙などの認知症に影響を与えるものを調整した後のものである。



匿名希望

2019年1月13日 (日)

「学びや気づきを妨げる3つの考え方」を逆手に取り成功する方法

「学びや気づきを妨げる3つの考え方」を逆手に取り成功する方法
(リンク)より転載
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■学びや気づきを妨げる3つの考え方とは
私たちは、様々なところで学んだり、気づいたりしているのではないでしょうか。例えば、本を読んだり、学校などで先生から話を聴いたり、講演会などで登壇者から話を聴いたり、テレビやホームページなどを見たり、他者の行動を見たり、他者からの注意や問題の指摘であったり、街中を見たり、色々なところから学びや気づきを得る機会があると思います。
こういった様々な学びや気づきを得る機会がある中で、自分が、なかなか学びや気づきを得ることができないこともあります。そこで、学びや気づきの得ることを妨げる考え方について考察していきたいと思います。
学びや気づきの得ることを妨げる考え方として、3つの考え方が挙げられます。1つ目の考え方は、「これまでの経験や実績、周りからの影響などに基づく固定観念」です。2つ目は、「注意や問題といった言葉の受け止め方」です。3つ目は、「自分事として置き換えることができない」という考え方です。
では、まず1つ目の考え方である「これまでの経験や実績、周りからの影響などに基づく固定観念」について考えていきます。
私たちには、これまでに、何らかの成功した体験あるいは、うまくいかなかった経験といったものがあると思います。自身のこういった経験、体験に加えて、これまでに接したあるいは、見聴きした周りの人たち(親、先生、上司、好きなスポーツ選手など)からの影響を受けるなどして、自分自身の「こうあるべき」などといった固定観念が作られてきたと思います。きっと、子どもたちよりも大人の方が、様々な固定観念を持っているのでしょうね。
一概に、固定観念を持つことがいけないということではありません。固定観念を広く捉えると、自分の軸、信念と言い換えることができるかもしれません。自分の中で、ブレない軸、信念などを持つことは必要だと言えるでしょうね。しかし、その自分の固定観念(軸・信念)にあまりにも縛られすぎると、学びや気づきを得るチャンスを失ってしまうことにもつながりかねません。
私自身の例で言うと、以前、テレビ番組において、ある研修が取り上げられていて、その研修手法が、私の固定観念からしたら、「こんなのあり得ない」「邪道だ」などと思って、感情的になってしまったことがあります。でも、冷静に考えたら、その研修手法を反面教師として学ぶこともできたと思いますし、「どうしてこの手法を取り入れているのか」と考えを深めていくことによって、自分の中で学びや気づきにもなったのではないかと思います。
自分自身の固定観念を一旦外してみて、白紙の状態から素直に見聴きしてみるという視点も、学びや気づきを得ていくためには、必要なことになるでしょうね。
学びや気づきを妨げてしまう考え方の2つ目である「注意や問題といった言葉の受け止め方」について考えてみます。
注意や問題といった言葉を聞くと、どのような印象を持つでしょうか。どちらかというと、あまりいい印象は持たないのではないでしょうか。私自身もそうですが、注意を受けたり、問題を指摘されるとヘコんでしまいますから、注意は受けたくないとか、問題を指摘されたくないと感じることが多いのではないでしょうか。
そこで、視点を変えて、注意や問題を指摘されるというのは、自分の考え方や行動などを改善する、そして、自らを成長させるチャンスだと受け止めてみるとどうでしょうか。「注意される」「問題を指摘される」ことが、新たな学びや気づきを得ることにつながると受け止めることもできるのではないでしょうか。
例えば、お客様から苦情・クレームを受けたとします。この苦情・クレームをお客様からの貴重な意見と捉えてみるとどうでしょうか。お客様からの意見から学んだり、気づいたりすることで、商品やサービスに対する改善アイデアにもつながっていくこともあるでしょうね。
もちろん、実際に苦情、クレームを受けたその時は、それに適切に対応することが優先されますし、また、注意や問題というとネガティブなイメージが根付いているので、なかなかこういった視点を持つのは難しいですが、学びや気づきを得ていくうえでは大切な視点だと思います。
3つ目の学びや気づきを妨げる考え方として、「自分のこととして置き換えることができない」という考え方が挙げられます。
学びというと、知識そのものを覚えること、習得すること、という印象が強いのではないでしょうか。学びや気づきというのは、知識を覚える、習得することだけではなく、その覚えた、習得した知識を「自分の置かれている状況や立場などに置き換えると、どのように活用することができるか?」という視点を持つことが学びであり、気づきだと捉えることもできると思います。
書籍や講演などにおいて見聴きする知識などは、一般論だったり、著者や講演者自身の具体論だったりします。自分にとっての学びや気づきへとつなげていくためには、一般論であれば、この知識自体を覚えるとともに、一般論を「自分にとっての一般論」に置き換え、それを「自分にとっての具体論」へと置き換えて深めていくことが必要だと思います。
また、著者などの具体論であれば、その具体論を一般論である知識や理論に置き換えて、それを「自分にとっての一般論、具体論」へと深めていくことが大切になるでしょうね。このように、一般論などの知識を見聴きした時に、自分にとっての具体論へと置き換えることで、「この知識はここに使える、あそこで活用できる」という新たな学びや気づきへとつながっていくと思います。
今回は、学びや気づきを得るための考え方について考察してきました。この3つの考え方は、大人だけではなく、子どもたちがこれから学びや気づきを得ていくためにも必要な視点ではないかと考えます。私自身も、この3つの視点を持ちながら、新たな学びや気づきを得ていきたいと思います。




紀伊谷高那

2019年1月 7日 (月)

同化や一体の足かせ~個・自分という意識・溶け合えない「私」~

『アーカイブス055 溶け合えない「私」(リンク)』から転載します。
一体とか同化とかとは男女にとってどんなものなのか?
>東洋では「個の自分」を確立しようとはしてこなかった。ところが日本は、戦後、アメリカをはじめとする西洋の文化を取り入れるにつれて、いつしか彼らの追い求める「個の自分」も手に入れようとした。個人主義、個人情報といった個の権利主張のみならず、電話もテレビもエアコンも、時代はパーソナルに向かっている。
 もちろんそれらの全部が悪いと言いたいのではない。でも、「個の自分」を確立しようとすればするほど、自然からはどんどん遠ざかっているようにしか僕には思えない。人間も自然の一部だとすれば、それはやはり“不自然”なことではないだろうか。
これは現実逃避の自我(他者否定と自己正当化)と現実直視の共認(自他のない肯定感覚)の違い。前者は架空の世界に。後者は現実の世界に。同化や一体とは現実と向き合うことそのもの。
--------------------------------転載
 オーガズムのとき「溶けちゃう」と言った女の子がいた。それも一人や二人ではない。なかなか男にはわからない感覚だ。僕も最初は「溶けるって、何が溶けるんだ?」と思った。オーガズムの言葉としては「死んじゃう」とか「イッちゃう」というのもある。
 いったい何が「溶け」「死に」「行く」のか? ひと言でいえば、それは「個」ではないかと思う。「個の自分」が溶け、死に、どこかへ行ってしまう。だから、お互いがそうなれれば、自他の境界線もなくなり、ひとつに同化してしまうのではないかと。
 しかし、今は以前にもまして、セックスで溶け合うということが難しくなっている。セックスのマニュアル本だったら、溶け合うためのテクニックが列記されるところだが、事はもっと複雑なようにも思う。
 ちょっと話は広がるけれど、西洋文明とは「個の自分」を確立する歴史だったのではないかと、僕はかねがね思っている。だから、自分の意見をはっきり主張することが求められる。「個の自分」を確立しようとすれば、これが基本姿勢であり、なおかつとても重要なポイントなのだ。
 日本人は「はっきりものを言わない」「何を考えてるのか、わからない」と昔からよく言われる。それは日本が内面を「察する文化」だからだろうと僕は思うが、まぁ“言わぬが花”という姿勢は、西洋人には理解しにくい価値観かもしれない。
 これには宗教観も大きく影響している。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も、旧約聖書を経典とする一神教である。その神とは、人知を超えた絶対的な存在であり、間違っても人間ではない。ということは、崇拝する対象は自分の外側にあるのだ。
 それに対して東洋の宗教はというと、たとえば日本の神道は森羅万象に神が宿ると考える。だから身近にいろいろな神様がいる。中国の道教もインドのヒンドゥー教も多神教である。仏教は多神教とは言いがたい面もあるけれど、仏教における神、つまり仏は少なくとも世界の創造者でもなければ、支配者でもない。僕は、これら東洋の神々は人間の内側に存在するのだと思う。
 このような宗教観もあいまって、東洋では「個の自分」を確立しようとはしてこなかった。ところが日本は、戦後、アメリカをはじめとする西洋の文化を取り入れるにつれて、いつしか彼らの追い求める「個の自分」も手に入れようとした。個人主義、個人情報といった個の権利主張のみならず、電話もテレビもエアコンも、時代はパーソナルに向かっている。
 もちろんそれらの全部が悪いと言いたいのではない。でも、「個の自分」を確立しようとすればするほど、自然からはどんどん遠ざかっているようにしか僕には思えない。人間も自然の一部だとすれば、それはやはり“不自然”なことではないだろうか。
 セックスで相手と溶け合えない最大の原因は、テクニックなどではなく、「個の自分」に根源があるのだと思う。本当のオーガズムとは、ある意味、悟りでもある。溶け合えば、真理の片鱗を人はのぞくことができる。そしてその表情は、このうえもなく幸せそうである。
(2011年7月8日掲載)




匿名希望

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