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2018年10月 7日 (日)

曹洞宗における禅とは? ・・・ 自我・観念思考を止め、只々「座禅」。そこから得られるもの。

《以下引用》リンク
■坐禅を進める、それが大乗仏教
坐禅を進める、それが大乗仏教やな。坐れば仏だ!坐ろう!みたいな。無理にでなく、気持ちよく。─なんで坐禅? 坐禅がな、それが理屈じゃなくて実体やからな。理屈で説くのは、本物にならん。ちゃんと実体を人に伝えないと、大乗仏教にならん。大乗は、自分以外の人も済度する。自分の幸福だけは願わん。自分のことはさておいても、人を救う。こうなると、もう坐禅しかない。本物でもって人を救わんとな。
悟りより、その実体を勧める。悟りとか観念で伝えるしかないものはとりあえず横に置く。そして、坐禅という本来の自己の実体そのものを伝えていく。坐禅の王道や。・・・禅とは宇宙なり!やな。マジにそうや。宇宙やな。この一瞬一瞬が、禅の真実。宇宙や。それを知るには、坐って、妄想を離れ、坐禅になる。
■手に入れるべきは、只管打坐
事実坐れているかどうか。坐れないということは、坐禅できないってことや。見性しても、坐禅やめる人いるやろ。坐れない人や。坐れるかどうか、これは意外に深いよ。道元さんが言いたかった、只管打坐、それが仏の姿ということが深いのや。只管打坐出来ない人は、仏の姿になれない人や。だから深い。手に入れるべきは、只管打坐や。
実を言うと、悟りなんて手に入っとる。只管打坐は簡単には手に入らん。なぜかと言うと、坐ることは大変なことやからな。私なんか、いまだに苦労しとるやろ?見性よりも難しい。死んでもなお只管打坐やで。只管打坐は修行しないと出来ん。悟ったくらいでは完成せん。その違いは大きい。打坐出来る出来ない、これが全てと言ってもいい。ある意味で、打坐出来るなら、見性なんて気にしなくてもいい。
■手に入れるべきは、只管打坐(2)
只管打坐というコンセプトにとらわれてほしくないけど、要するに坐るという事ね。ここは坐禅としては最重要。というか、これが核心やないかな。普通に、坐る、坐禅。しかも、毎日定期的に。それだけの話。公案なんて、まさに死ぬまで坐らせるための手段だよ。坐る事、これが一番。
私は、確かに見性に興味はあったし、おもしろそうやから頑張ったけど、でも、結果的には坐禅を継続することの方がためになることが分かった。見性は頑張ったけど、たまたまや。坐禅を継続するために見性したみたいなもんや。結局、目的は坐禅継続。坐り続けていることの方が、見性よりよっぽど大事や。
ブッダも、それに古代ギリシャでも、古代中国でも、瞑想、黙想、静坐、これらが重要視されていて、その中身についてとやかくは言われてないのに、その実行は語り継がれてる。みんな効果に目を奪われてるけど、実は、道元さんの言うように、座ることそのものが生活に重要なんやで。何でかと言うと、それこそが本来の自己の姿やから。それが私にはわかって来た。
■面壁のすすめ
面壁だと、「現象の世界」が静まっているので、「観念の自我」が浮き彫りになってくる。その浮き彫りになっている状況が重要で、自我による苦しみ、自我の問題、自我に振り回されている現実が、身にしみてわかる。その状況に身を置いていると、苦しいけど、そのうちにその観念の自我は崩壊していく。
頭の中のものは観念の自我であると見抜くこと。そして影響を受けないようになること。これが「ただ坐る」ということ。この時点で既に自我は幽霊みたいに実体のない存在になってる。そして、そういう目で世の中を過ごしていくと、・・・幽霊がたくさんウヨウヨしているので、衆生無辺誓願度、みんなを助けたくなる。幽霊として生きるな、宇宙本体として生きるんだよ、と。宇宙本体は生死がない。永遠の今しかない。そういうものが、本当の自分なんだと。
悟っても幽霊は消えないし、時空もある。坐禅しててもそれは相変わらず出てくる。それでいいんや。特に自我とか言わないでも、時空でも、なんでも、観念的なものは全て自我の片鱗や。それに執着すれば、強固な自我になる。要注意や。
■サンガ、只管打坐、無我
只管打坐はあまりにも深い。無我の身体表現とでも言おうか。サンガは只管に打坐する人々の集まり。只管打坐ですべて言い尽くしているし、逆に、無我でも足りないところを言い尽くしている。
言語や思考とは全く何のかかわりもないことが、只管打坐。黙って坐れ、何も聞かないで言わないで坐れ、何の理由も求めないで坐れ、だな。この何か理由を欲しがったりするのが自我だから、こういうのを頭から無視する。何にもなくして坐る。ここにとてつもない真理がある。ここにこそワンネスがある。
■悟りの最初のステップ
空っぽの体にまるで雲のように浮かんでは消える思考や観念。坐禅中に、この観念や思考をじっくり眺めていると、目まぐるしく動いているのが見える。この思考の雲の中に入ってしまえば、まるでその雲が自分自身であるかのような錯覚を覚える。でも実は、自分とは空、姿のないもの。
坐禅をしていれば、自然に空に戻る。その雲から離れていく。離れ切ったときに身心脱落する。見性する。本来の自己が空であることを悟る、これが悟りの最初のステップだな。なんだかんだ言って、基本的には「この雲の中に自己が埋没している事実」をしっかり知る事が大事や。それには、只管打坐の継続や。意識をヘソの下に置いて、只管打坐。雲は頭の中におるから。
《引用以上》




洞口海人

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