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2018年10月

2018年10月29日 (月)

ミスを受け入れ、弱い自分を認める

”新次元の光”リンクより引用
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「自己責任」を実行するのは容易ではありません。私たちは子供の頃から「ミスをする事は悪い事だ」と教えられてくるなど、ミスに対して寛容でない社会に生きているからです。
 
責任を取るという事は「自分を許し、容認する事」です。自分がミスを犯した時、どれだけプラスに捉えられるか、マイナスに捉えるかによって自己容認の程度が決まります。自分をマイナスだと思う程、責任回避の傾向は強くなり、恐怖心が強まってきます。
 
一方、自己容認の程度が大きいと、それだけプラス思考になり、物事の勝負時にあたって恐怖心を和らげ、「経験」から多くの教訓を学ぶようになります。それは自分にとって都合が悪い情報を避けることがなくなるからです。
 
だから、物事で成功するためには、これまでとは違った発想で責任をとる必要があります。例えば、「自分にメリットをもたらしてくれるか否か」などといった、責任を他人や世の中に転嫁する様な考え方をやめるなどです。
 
というのは、大きなチャンスがあると思って何かに挑戦した直後に、自分の勝手な都合で方針を転換することもあるなど、世の中は常に変化しているので、世の中は常に正しいととらえ、こちらがそれに素直に従うべきだからです。
 
ところが、失敗を繰り返す人は、責任を世の中や他人のせいにする傾向にあります。それは、望む自分と比較して、現実の自分を受け入れる事ができないからです。
 
が、自分の弱さを認めなければ、いつまでもよそ行きの偽った自分で人生を歩む事となるでしょう。
 
このような事を避けるためには、寛容な心で今の自分を受け入れ、また自分より劣っていると思われる人に対してとっている不寛容な態度を改め、自分と同じ様に許し、受け入れることが大切です。



匿名希望

2018年10月22日 (月)

「今すぐやる」を可能にする考え方と技術について。

自制心を身に付けるには、想像力が必要。
未来の感情をハッキリと思い浮かべることで、課題に手をつけるスピードが上がる。
引用元:リンク
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6歳になる娘が、最近「明日からやる」と言うようになった。
例えば、娘は幼稚園から日別に課題を出されるのだが、その課題になかなか手がつかない。
今は夏休み中ということもあり、「課題はどうしたのか」と尋ねると、「あしたからやる」と答える。
なるほど。
だがこの発言はあまり望ましいとは言えない。
なぜなら「あしたからやる」は、弱い自制心の現れだからだ。
人生をある程度望ましい方向にコントロールする上で、「自制心」は非常に重要なファクターだ。
自制心の欠如は、ありとあらゆるシーンで、ペナルティとなる。
私は娘に言った。
「明日やるという言葉は、今日からできることに対しては、言わないほうがいいと思う。」
「なんで?」
「……」
私は回答に困った。
自制心が大事だということはわかっているが、「なぜ、「明日」ではダメなのか」と率直に問われると、説明が非常に難しい。
「自制心をつけるため」という説明もしっくりこない。
なぜなら、「先送りするな」と脅して娘が課題をクリアしたとしても、娘の自制心を鍛えたことにはならないからだ。
むしろ「怖い人の言うことには黙って従え」という間違った教訓を与えることにもなりかねない。
「ぜったいあしたからやるからー」と、娘が繰り返す。
私は迷った挙げ句、
「わかった、明日は必ずやるんだよ」
と折れた。
私がきちんと説明できないことを娘に要求することはできないし、娘の意思を無視するわけにも行かない。
翌日。
残念ながら、というか予想通り、娘はまた課題をやらなかった。
私は娘が一向に課題を始めないことにイライラしていた。
「きのう、あしたからやるって言ったよね?」
流石に娘はバツが悪かったのか、
「言ったけど……」と口ごもる。
「ではなぜやらないの?」
「あんまりやりたくない気分」
「……」
人は、なぜ「いまサボれば(またはやってしまえば)悪い結果が待っている」と知りつつ、
「いま、楽をしたい」
「いま、快楽を得たい」
という衝動に負けてしまうのだろう。
人間の脳は「感情・気分」が殆どの場合「論理・事実」に勝ってしまうので、結果をそのまま予測することでは行動は変わらない。
娘がそうだったように、頭で理解していても、行動には移せないのである。
 
例えば
・たばこを吸うと肺がんになる可能性が上がる
・減量しないと高血圧、高脂血症などに繋がり、様々な疾患の可能性が高まる
というのは事実であるが、これを「知って」いても、行動は変わらない。
ではどうするか。
ウォルター・ミシェル氏は自分自身の禁煙体験をとりあげ、
行動すること、しないことの結果がもたらす「気分」を、よりリアルに想像することが効果的であると述べる。
実際、ミシェル氏はヘビースモーカーであった。
彼自身はタバコの危険性を合衆国衛生局のレポートを読み、知っていたが「喫煙は学者の生活様式の一部で、他の人も喫煙している」と自分を正当化していた。
だが彼はある日、スタンフォード大学のメディカルスクールで、ストレッチャーに固定された肺がんの男性を目撃する。
彼が看護師に話を聞いたところ、がんはあちこちに転移しており、今から放射線治療にゆくところだという。体にはあちこちに緑の印があり、それは放射線を照射する位置を示していた。
彼はこの光景を見てショックを受け、ようやく禁煙を決意した。
彼はタバコを嫌悪感をもよおすものにするため、灰皿に顔を突っ込んで思い切り息を吸い込み、がん患者の姿を思い出すように努め、三歳の娘に「娘は指しゃぶりを、氏はたばこをやめること」を交換条件として契約した。
結果的に、数週間で彼は禁煙することに成功した。
遠い将来に起きるかもしれない感情を、今シミュレーションすることで、人は今すぐ、行動することができるようになる。
私は娘に言った。
「今日、課題をやらなかったら、後でどんな気持ちになると思う?」
「んー……。いやなきもちになるとおもう」
「どんな?」
「あそんでても、たのしくなくなっちゃうし。」
「じゃあ、今課題を楽しくやるにはどうしたらいいと思う?」
「お父さんにいっしょにやってもらったら、たのしいとおもう。」
そう言うと、娘はおもちゃなどがない、廊下に向かって走っていった。
「妹ちゃんがいたり、おもちゃがあると、きになっちゃう。こっちでやる。」
ほんのちょっとの技術と、環境次第で誰でも自制心は身につけることができる。
そう思った。




土偶 

2018年10月 7日 (日)

世界の一流リーダーたちが「禅」に惹かれる理由 ~実践重視の考え方に共感

世界の一流リーダーたちが「禅」に惹かれる理由(リンク)より抜粋して転載します
         < 前略 >
◆世界のリーダーはなぜ「ZEN」が好きなのか
◇仏教は「ゲイン」ではなく「ルーズ」である
 著者には日本の宗教家という立場で、世界各国の政治家や実業家と交流する機会がある。そのたびに、仏教や禅の教えについて熱心に聞かれるという。世界のリーダーたちが注目しているのは、仏教の中でも特に禅の考え方である。禅は「ZEN」という言葉として、今や世界的に広く認知されている。
 なぜ世界の第一線で活躍する人たちが禅に魅了されているのか。その理由は、物質的には不自由がなくなってきているため、精神性を求める人たちが増えているからではないか、と著者は考えている。著者が強調するのは、仏教を信じたからといってすぐに何かが得られるわけではないという点だ。仏教、特に禅の教えは何かを「得る」ための手段ではなく、むしろ何かを「失う」ためのものである。仏教がめざすのは「ゲイン」ではなく「ルーズ」だ。つまり、何かを新たに手に入れるのではなく、むしろ今まで積んできたものを崩していくために、経を唱えて坐禅をする。失うとは、余計なものを削ぎ落とすことであり、それによってもっとも大切な本質に目を向けるということなのである。
◇禅が外国人に支持される理由
 禅に影響を受けた外国人として最も有名なのはおそらくスティーブ・ジョブズだろう。彼が禅から得た影響は、アップル製品のシンプルで美しいデザインの中に息づいている。余計なものをなくして本質と向き合う。こうした禅の考え方は、普遍的なものであるからこそ、文化を問わず多くの人の納得を得られるのだろう。
 また、禅は経典を勉強するのではなく、坐禅を組んだり掃除をしたりするなど、身体で実践することを重視するため、言葉がわからなくても問題なく体験できるのである。こうした点が、キリスト教徒やイスラム教徒にも幅広く受け入れられている理由の一つだ。
 そもそも、文字で書かれたものは受け取り手の解釈にゆだねられてしまうため、言葉で仏教の本質を伝えるのは難しいと考えられている。よって、文字や言葉ではなく体験で悟りをめざすのだ。
◇理屈を超えたところにある「禅」の教え
 禅を体験した外国人の多くは、「なぜこんなことをするのか」と疑問を抱くという。なぜ掃除がそんなに大切なのか、なぜ食事の作法がこんなに細いのか。論理を重んじる西洋の人々にはなかなか理解されない。
 しかし、重要なのは「実践する習慣」を身につけることだ。そうすると、一見意味のないように見えることの背後にあるものが見えてくる。一方、西洋の文化では一つひとつの行動に因果関係、そしてゲインを求めるため、禅の教えがなじみにくいという面がある。そこで、実践重視の考え方に共感できるかが、外国人が禅の世界に入ってこられるかどうかの分かれ目となる。
 食事のルール一つとっても、禅が良しとする動作はすべて考え抜かれた究極形であり、無駄なものは何ひとつない。こうして、禅の教えを実践に移す中で、理屈を超えたところで即座に反応して適切に行動できるようになるのである。
         < 中略 >
◇リーダーシップをどうやって身につけるか
 リーダーシップとは、自ら意気込んで生まれるものではない。本当のリーダーが生まれるのは、周囲が「あいつがリーダーだ」と認めたときだ。リーダーとして認められる人の共通項は、「当たり前のことをきちんとできる」という点である。思い上がらずに、人としてやるべきことをやる。それによって、周囲からの信頼が生まれ、いつのまにかリーダーシップが醸成されていく。
 禅の修行では、禅問答というものがある。悟りに到達するために指導者から与えられる「公案(こうあん)」に、自分なりの考えを示すのだ。重視されるのは、論理にとらわれずに、自分自身の力で道を見出していくことである。これはリーダーシップに求められることと通じる。理屈ではなく、自分の信念に従って考え、それを実行に移す。こうした「筋を通す」という考え方が非常に大事になる。
         < 後略 >




瀬部倫一郎

【禅語】身心~イライラを治すなら、心ではなく体に意識を向けたほうがいい~

注目を集め始めている【禅語】。禅の大きな考え方は内面を変えるためには身(行動)が先にあるというもののようだ。
人間下手に考えて動けなくよりも行動した方が成果につながるということを示しているのだと思う。
以下こちらから引用リンク
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「禅」という言葉の語源は、インドのサンスクリット語の「ジャーナ」。
意味は、「心を整える」。
けれども心を整えようとするとき、心を整えようとは考えないのが、禅における心の整え方。
「……? 何をわけのわからないことを言っているんだ?」
きっと、意味不明の論理に聞こえることと思う。
整えるのか、整えないのか、どっちなんだと。
しかし、ここは大切なところなので今一度よくよく考えてみたい。
心を整えようと意識して、本当に心を整えることができるものかということを。
何か頭にくる出来事があったとして、どうしてもイライラが治まらないとする。
そのイライラを消そうと思い「消えろ消えろ」と念じたところで、本当にそのイライラを消すことができるだろうか。
意識と感情のコントロールに長けていて、意識でもって感情を消すことができる人はそれでいいのだが、そんな達人的技能を習得している人ばかりではない。
イライラを消そうと思ってイライラに気を向けることで、返ってイライラが募るという悪循環に陥ってしまう人も少なからずいることと思う。
ではどうやって人はイライラを消しているのだろうか。
超有名な手法の1つに「気分転換」がある。
読書でも映画でも食事でも散歩でも運動でも何でもいいのだが、何か別のことをして気を紛らわせて、イライラを意識しないようにするというか、忘れてしまう方法。
この「気分転換」という方法は、おそらく誰もが一度は経験したことのある、もっともポピュラーなイライラ対処法の1つだろう。
じつは、禅においてもこの「気分転換」の方法論と似たようなことを言うのである。
イライラを消そうとイライラに執着すれば、余計にイライラを意識する結果を招いてしまう。
だから禅においてイライラを消すとは、イライラを忘れることに他ならないのだと。
相手にしないというか、問題にしないというか、イライラとやり取りを交わすことをやめる。
そうしてイライラを忘れていこう、すなわちイライラと対峙しないで生活しようというのが、禅の発想の根本なのである。
〇身を整え、呼吸を整え、心が整う
で、冒頭の「心を整える」の話に戻るのだが、心を整えるとはつまりがイライラの心をニュートラルな状態に戻すことをいう。
しかし禅では、イライラを治す際に、イライラを治そうとは考えないのであった。
ではどうやってイライラを治すのか。
禅僧は昔から、心を整えるためにまず身を整えることからはじめた。
そして身を整えたあと、次に呼吸を整える。
心という目に見えない、掴み所のないものと違って、身と呼吸は自分の意識ではっきりと整えることができるからである。
そうして身と呼吸を整えた姿が、いわゆる坐禅の姿というわけだ。
さて、身と呼吸の2つが整ったのだから、ついに問題の心を整える番なのだと思いたいのだが、そうでないのが禅の面白いところ。
身と呼吸さえ整えば、心は自ずと整うということで、心を整えようと意識を向けることは禅ではしないのである。
冒頭で「心を整えようとするとき、心を整えようとは考えないのが、禅における心の整え方」と書いた意味は、このこと。
心は意識でもって整えるのではなく、身と呼吸に沿うように、自然と整っていくものだと考えたわけである。
この禅の考え方は珍しいものではなく、日常でも意識することなく同じようなことを考えていたりする。
たとえば小さな子どもは、食事の時間になってもお腹が空いていないということをたまに言う。
そんな時、「ご飯を食べる気になろうね」などと言ってみたところで、天邪鬼の如き子どものお腹は空かない。
ご飯を食べたい気持ちにさせるには、直接心にはたらきかけるのではなく、体にはたらきかけたほうが断然効果的。
手っ取り早いのは、外を走ること。
食事の前に家の周囲を駆け回っていれば、疲れてお腹が減ってくる。
気持ちもご飯を食べたいというものへと自ずと変化してくる。
つまりこれも、心を整えようとする際に、心を整えようとは考えない禅と同じ考え方なのである。
禅の考え方はいろいろと応用が効くのだ。
身と心は密接に関係し合っている。
けれども現代は心の時代。
身と心の関係は、まず心があって、その次に身がくる。
「心身科学」なんて言葉を見ると心の優位性が見て取れる。
心が1番。身が2番。
禅とは逆。
ちょっとした違いに思えるかもしれないが、このちょっとした順番の違いが、禅と科学の違いと言えるかもしれない。




玉田 聡

曹洞宗における禅とは? ・・・ 自我・観念思考を止め、只々「座禅」。そこから得られるもの。

《以下引用》リンク
■坐禅を進める、それが大乗仏教
坐禅を進める、それが大乗仏教やな。坐れば仏だ!坐ろう!みたいな。無理にでなく、気持ちよく。─なんで坐禅? 坐禅がな、それが理屈じゃなくて実体やからな。理屈で説くのは、本物にならん。ちゃんと実体を人に伝えないと、大乗仏教にならん。大乗は、自分以外の人も済度する。自分の幸福だけは願わん。自分のことはさておいても、人を救う。こうなると、もう坐禅しかない。本物でもって人を救わんとな。
悟りより、その実体を勧める。悟りとか観念で伝えるしかないものはとりあえず横に置く。そして、坐禅という本来の自己の実体そのものを伝えていく。坐禅の王道や。・・・禅とは宇宙なり!やな。マジにそうや。宇宙やな。この一瞬一瞬が、禅の真実。宇宙や。それを知るには、坐って、妄想を離れ、坐禅になる。
■手に入れるべきは、只管打坐
事実坐れているかどうか。坐れないということは、坐禅できないってことや。見性しても、坐禅やめる人いるやろ。坐れない人や。坐れるかどうか、これは意外に深いよ。道元さんが言いたかった、只管打坐、それが仏の姿ということが深いのや。只管打坐出来ない人は、仏の姿になれない人や。だから深い。手に入れるべきは、只管打坐や。
実を言うと、悟りなんて手に入っとる。只管打坐は簡単には手に入らん。なぜかと言うと、坐ることは大変なことやからな。私なんか、いまだに苦労しとるやろ?見性よりも難しい。死んでもなお只管打坐やで。只管打坐は修行しないと出来ん。悟ったくらいでは完成せん。その違いは大きい。打坐出来る出来ない、これが全てと言ってもいい。ある意味で、打坐出来るなら、見性なんて気にしなくてもいい。
■手に入れるべきは、只管打坐(2)
只管打坐というコンセプトにとらわれてほしくないけど、要するに坐るという事ね。ここは坐禅としては最重要。というか、これが核心やないかな。普通に、坐る、坐禅。しかも、毎日定期的に。それだけの話。公案なんて、まさに死ぬまで坐らせるための手段だよ。坐る事、これが一番。
私は、確かに見性に興味はあったし、おもしろそうやから頑張ったけど、でも、結果的には坐禅を継続することの方がためになることが分かった。見性は頑張ったけど、たまたまや。坐禅を継続するために見性したみたいなもんや。結局、目的は坐禅継続。坐り続けていることの方が、見性よりよっぽど大事や。
ブッダも、それに古代ギリシャでも、古代中国でも、瞑想、黙想、静坐、これらが重要視されていて、その中身についてとやかくは言われてないのに、その実行は語り継がれてる。みんな効果に目を奪われてるけど、実は、道元さんの言うように、座ることそのものが生活に重要なんやで。何でかと言うと、それこそが本来の自己の姿やから。それが私にはわかって来た。
■面壁のすすめ
面壁だと、「現象の世界」が静まっているので、「観念の自我」が浮き彫りになってくる。その浮き彫りになっている状況が重要で、自我による苦しみ、自我の問題、自我に振り回されている現実が、身にしみてわかる。その状況に身を置いていると、苦しいけど、そのうちにその観念の自我は崩壊していく。
頭の中のものは観念の自我であると見抜くこと。そして影響を受けないようになること。これが「ただ坐る」ということ。この時点で既に自我は幽霊みたいに実体のない存在になってる。そして、そういう目で世の中を過ごしていくと、・・・幽霊がたくさんウヨウヨしているので、衆生無辺誓願度、みんなを助けたくなる。幽霊として生きるな、宇宙本体として生きるんだよ、と。宇宙本体は生死がない。永遠の今しかない。そういうものが、本当の自分なんだと。
悟っても幽霊は消えないし、時空もある。坐禅しててもそれは相変わらず出てくる。それでいいんや。特に自我とか言わないでも、時空でも、なんでも、観念的なものは全て自我の片鱗や。それに執着すれば、強固な自我になる。要注意や。
■サンガ、只管打坐、無我
只管打坐はあまりにも深い。無我の身体表現とでも言おうか。サンガは只管に打坐する人々の集まり。只管打坐ですべて言い尽くしているし、逆に、無我でも足りないところを言い尽くしている。
言語や思考とは全く何のかかわりもないことが、只管打坐。黙って坐れ、何も聞かないで言わないで坐れ、何の理由も求めないで坐れ、だな。この何か理由を欲しがったりするのが自我だから、こういうのを頭から無視する。何にもなくして坐る。ここにとてつもない真理がある。ここにこそワンネスがある。
■悟りの最初のステップ
空っぽの体にまるで雲のように浮かんでは消える思考や観念。坐禅中に、この観念や思考をじっくり眺めていると、目まぐるしく動いているのが見える。この思考の雲の中に入ってしまえば、まるでその雲が自分自身であるかのような錯覚を覚える。でも実は、自分とは空、姿のないもの。
坐禅をしていれば、自然に空に戻る。その雲から離れていく。離れ切ったときに身心脱落する。見性する。本来の自己が空であることを悟る、これが悟りの最初のステップだな。なんだかんだ言って、基本的には「この雲の中に自己が埋没している事実」をしっかり知る事が大事や。それには、只管打坐の継続や。意識をヘソの下に置いて、只管打坐。雲は頭の中におるから。
《引用以上》




洞口海人

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