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2018年2月

2018年2月28日 (水)

厄介なのは「わからない」ではなく、「わかりたくない」なんだよね。

リンクより引用
***
コンサルタントをしていた時、記憶に焼き付いた先輩からの一言がある。
『厄介なのは「わからない」ではなく、「わかりたくない」なんだよね。』
これは、聞いたときにはそうでもないと思ったが、時が経てば経つほど、含蓄のある言葉だったとわかった。
人は、自分の経験や知識の中にないことを聞いた時、二通りの反応を示す。
一つは「わからない」。
そしてもう一つは「わかりたくない」である。
ちょっとした言葉の違いくらいかと思いきや、この2つの差は天と地ほど大きい。
人は「わかりたくない」時がある。
例えば、こんな話がある。
目の前にボタンがあると想像して欲しい。あなたはその管理者から「好きなときにボタンを押してください」と言われる。
あなたはしばらくした後「そろそろボタンを押すか」と思い、ボタンを押す。
この「ボタンを押す」という行為。じつはあなたの意思でボタンを押したのではない……
と聞かされたら、どう思うだろうか?
普通の人は「は?何いってんの?」と思うだろう。
実は上の主張、科学的な根拠がある。
脳科学者の池谷裕二氏は著書の中で「自由意志は潜在意識の奴隷」と述べ、上のような状態の時
「意識より先に体が動いている」ということを脳波の測定実験によって確かめている。
簡単に言えば、
「腕を動かそう」と思う ⇒ 「腕が動いてボタンを押す」
ではなく、
「腕が動いてボタンを押す」⇒ 「腕を動かそう」と思う
が正しいのだ。
この事実はもちろん、直感に反する。
「いやいや、俺が動かそうと思ったから、腕が動いたんだろう!」という人は多いと思うが(私もその一人だ)、実際には逆なのだ。
意識は動くことよりも遅れて脳の中に現れ、あたかも「自分が動かしたように思える」のが実際なのだ。
そして、肝心なのはここからだ。
この話に対する反応は、概ね2通りに分かれる。
まず「わからない人」の反応は、概ね以下の通りだ。
「へえ、よくわからないけど不思議だね」
「どういう実験をしたの?」
「それは脳科学では普通の考え方なの?」
この場合、知識が不足して自分では理解ができない、あるいは足りない知識を補おうとする様子が見て取れる。
しかし、「わかりたくない人」は以下の反応を示す。
「そんなわけない。」
「信じられない。」
「嘘だ。」
つまり、自分の既成概念を優先し、事実を受け止めることができない。これが「わかりたくない人」だ。
他にもある。
ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンは統計データから「ビジョナリー・カンパニーの業績は特に良いわけではない。」との見解を示した。
『ビジョナリー・カンパニー』で調査対象になった卓越した企業とぱっとしない企業との収益性と株式リターンの格差は、大まかに言って調査期間後には縮小し、ほとんどゼロに近づいている。
トム・ピーターズとロバート・ウォーターマンのベストセラー『エクセレント・カンパニー』で取り上げられた企業の平均収益も、短期間のうちに大幅減を記録している。(中略)
あなたはたぶん、これらの結果に原因を見つけようとしただろう。たとえば、成功した企業は自己満足に陥ったからだとか、冴えなかった企業は汚名返上に頑張ったのだとか、だがそれは間違っている。
当初の差はかなりの部分が運によるのであって、運は輝かしい成功にもそれ以外の平凡な業績にも作用していたのだから、この格差は必ず縮小することになる。この統計的事実には、既に私たちは遭遇している――そう、平均への回帰である。
この話を読んだ時、かなり意外に感じたことは確かだ。
そして、この話への反応も大きく2つに分かれた。
何人かの経営者は
「その見解と異なる統計データがある」
「どのようにその結論を導いたのか」
「データのとり方を知りたい」
と疑問に対して議論をしていた。
しかし「直感に反することはわかりたくない」という人も多い。
「私の経験では」
「知り合いの経営者はこう言っている」
「そんなわけあるか」
という反応を示し、それ以上理解をしようとしなかった人も数多くいた。
大切な事実を「わかりたくない」となるとマズい。
これらは、飲み会のネタ程度で済めばいいのだが、仕事の成果に係る話だと厄介だ。
例えば、以前営業の支援をしていた時、どうしても自分自身の営業の下手さを認められない人がいた。
「あなたの成約率は◯◯」
とデータを示しても、
「データの見方がわからん(理解したくない)」
「データが間違っている」
「そんな話は聞きたくない」
と、話し合いそのものを拒否してしまう。
これは、仕事上は極めて厄介な事象で、先輩が『厄介なのは「わからない」ではなく、「わかりたくない」なんだよね。』
と言っていた理由がよく分かる。
そういう人にはむしろ、事実を突きつけても何も変わらないので、
褒めて、なだめて、機嫌を取って、行動を変えてもらうしかない。
世の中には、客観的事実に基づいて、自分の考えを変えることのできる人と、
客観的事実よりも自分の見えているもののほうが大事な人の2種類が存在している。
その事実を認識しているかどうかで、仕事の出来は大きく変わるにもかかわらず、である。




別所彦次郎

2018年2月26日 (月)

資本論の源流もタルムード

「メシア思想」と「タルムード」がマルクス主義の源流()とのことだが、「資本論」の源流もタルムードのようだ。
以下、リンクより
■資本論の源流もタルムード
「共産党宣言」「経済学批判」と予言的虚構仮設を書いてきたマルクスではあったが、本来学者志望のマルクスがこれに満足するはずもなかったことはむしろ当然というべきであろう。
大英博物館へ通う生活を始めたマルクスについて、極貧状態の中で『資本論』の執筆を続けたという神話が従来一般的であった。最近では、マルクスが女中に子供を宿し、エンゲルスがそれを認知していたという事実が明るみに出てきた。これなど「神話」を信じ込んでいた人には信じられないことだろう。何故、極貧状態の中で生活しているものが女中など雇えるのか、という疑問が先ず出るであろう。
だが、マルクスの実像はユダヤの組織から巨額の資金を得ていたのである。マルクスがロンドン時代に住んだソーホーにある住居は現代流にいえば都心の高級マンションともいうべきものである。ソーホー地区は19世紀時代は現在のそれとちがって高級住宅地であった。マルクスは、このような恵まれた環境の中でゆうゆうと民族の至上目的のため虚構仮設の創作にかかっていたのであった。
ここでマルクスが創作した『資本論』は日本では「経済学体系」の中へ組み込まれているようである。マルクス主義という怪物もこの『資本論』がなかったら、怪物たる威力を発揮することはなかったかもしれない。「共産党宣言」や「経済学批判」では、学問体系としてまじめに考えるわけにはいかないであろう。
しかるにこの『資本論』が一見学問風の装いを身につけているため、マルクス主義というものがこれほど大きな影響を世界史に与えることになったといえよう。
しかし、この『資本論』は個々の部分に学究的態度の反映が見出されることを否定はしないが、悲しいかな、全体を流れる思想はマルクス主義全体の場合と同じく、メシア思想とタルムードの思想に他ならない。総論反対、各論賛成とでもいおうか。やはりこれも、予言者といわなければならないようである。
日本では『資本論』の研究レベルは他国と比べてケタ外れに高いといわれる。『資本論』研究ということになれば、この「予言者」の発想の源流、構築作業の過程、目的などの解明に焦点を当てなければならないと思うのだが、何故か「経済学」に対する訓話学的態度しか日本では見られない。
マルクスが一連の予言者のけじめとして、また多少とも自己の学者としての欲求を満たさんがために余生を打ち込んだのがこの『資本論』であるが、マルクス主義と同じく「始めに結論ありき」という類いである。結論がアプリオリに出されてしまっている。アプリオリに出された結論とは「革命」である。したがって、これも帰納的手法では迷宮入りするしかないのであって、演繹的に分解する必要がある。
〈中略〉
■「搾取」の意味と語源
マルクス主義構築の原点となったのがタルムードの思想にあるといったが、『資本論』においても同じである。
再三繰り返し引用して恐縮であるが、「非ユダヤ人の財産は一時彼らに預けてあるものである」──結論は今いったように「革命」であるが、原点はやはりここから始まる。
『資本論』の中でも有名なかの剰余価値の法則というのがこれである。マルクスはこれを「搾取」と呼んでいると一般にはいわれているようだが、マルクスの頭にはこの「搾取」の方が先にあったのである。前述のタルムードの思想をよく考えてみると「本来自分達に属する筈の財産が理不尽にも現在は他人の手にある」。この考えが「搾取」という言葉の原像である。
Ausbeutung というドイツ語がある。普通これは日本で「搾取」といわれている言葉である。このAusbeutung という言葉は、中世においてユダヤ人に投げつけられた言葉であった。中世においてはユダヤ人に許された唯一の正業は高利貸しであった。高利貸しという特殊な職業からして、その商法はそれも特殊なものにならざるを得なかった。その特殊なユダヤ人の商法を非ユダヤ人は Ausbeutung といったのである。
強烈な民族主義者であるマルクスがこの不名誉な言葉をいつかは非ユダヤ人に投げ返してやりたいと秘かに思っていたとしても、なんら不思議はないであろう。
マルクスの考えでは、本来自分達に属するものを故なく奪われているのであるからそれを取り返すのは当り前である。しかるに高利貸しの如き微々たる収奪でもさっそく「搾取」という言葉を投げられている。これは割に合わない、と考えるのは自然であろう。
引用終わり




匿名希望

2018年2月25日 (日)

宗教を知らずして世界の歴史と今はわからない! 学校では詳しく教えてくれない宗教について学ぼう

以下リンクより抜粋
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「キリスト教」や「仏教」という言葉を知らない人はいないだろう。最近では「イスラム国」の影響もあり、「イスラム教」の知名度も格段に(しかも、悪い方向で)高まっている。
 けれど、「どこまで知っているか」と問われてしまうと、その三つの宗教の違いを的確に説明できる人もそれほど多くはないと思う。特に、キリスト教もイスラム教も、元は同じ「ユダヤ教」から派生したものだとさえ、知らない方もいるだろう。
 これはひとえに、学校で宗教について詳しく教えてくれないことに原因がある。日本人は「無宗教」で、オウム真理教やイスラム国のネガティブなイメージがあり、なんとなく「宗教に深入りするのはタブー」といったような風潮がある。だが、ワールドワイドな現代社会を正しく理解するために、宗教の知識は必須教養だ。
『図解世界5大宗教全史』(中村圭志/ディスカヴァー・トゥエンティワン)は、「宗教について知りたい」という多くの声に応えて、「世界の諸宗教の歴史、教え、教典の内容、習慣などを、マクロに、相互に比較しつつ、展望すること」かつ「細かなことは切り捨てるが、重要箇所についてはクローズアップしてディテールに踏み込むこと」そして「この二点をチャートやイラストのアナログ情報に生かすこと」に注意して書かれた「初心者からある程度知識を持つ人に向けて、詳細で分かりやすい宗教ガイドブック」だ。
 見開きの右半分は文章での説明。左半分はイラスト付きのフローチャートになっているため、文章の内容をしっかりと理解できる仕組みになっている。例えば、「仏教」「キリスト教」「イスラム教」の三つも、ポイントを比較した図解があるため、文章で読んでいた内容を頭の中ですっきりまとめることができる。
≪三大宗教のポイント≫
○開祖は?
仏教―釈迦(ブッダ)
キリスト教―イエス
イスラム教―ムハンマド
○めざすものは?
仏教―ブッダの道に従い、煩悩からの解脱をめざす。
キリスト教―キリストの信仰により、罪からの解放をめざす。
イスラム教―唯一神(アッラー)に従い、平等、平和に暮らす。
○教典は?
仏教―仏典
キリスト教―新約聖書
イスラム教―コーラン(聖書も尊重)
○修行や儀礼や生活規範は?
仏教―出家者は多くの戒に服し、瞑想行などに励む。在家者は五戒を守る。
キリスト教―聖餐式(ミサ)にあずかり、聖書と教会の教えに従って身を律する。
イスラム教―「六信」、「五行」、イスラム法に従う。
○施設は?
仏教―寺
キリスト教―教会
イスラム教―モスク
○専門家は?
仏教―僧侶(本来は修行者だが、人々の相談役でもある)
キリスト教―司祭(カトリックなど)、牧師(プロテスタント)
イスラム教―ウラマー(イスラム諸学の学者)
上記は、本当に簡単にまとめたもので、その詳細は文章で堪能することができる。
 最後に、宗教において今最も注目されている「イスラム教」について少しだけ触れたい。「イスラム主義」というのは「イスラムの理念に基づく国家の創成を目指す思想・運動のこと」で、「イスラム主義」が必ずしも「悪い」集団を表すわけではない。このイスラム主義の中で、テロなどの過激な方法をとる一部の者たちが「イスラム過激派」となっている。
日本では「政教分離」(政治と宗教は別)という立場をとっているが、イスラム教は「宗教は個人の内面だけの問題と考えていないので」、どうしても、政治と深く関わってきてしまうらしい。そこから宗教に関する紛争や暴動が起こってしまうのだ。
<後略>


匿名希望

2018年2月24日 (土)

「メシア思想」と「タルムード」がマルクス主義の源流

以下引用サイト
リンク
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前略
■「メシア思想」と「タルムード」がマルクス主義の源流
さて、ここにはユダヤ的思考の最も大切な2つの要素が含まれている。
1つは、メシア思想の基本パターンである。選民たるユダヤ民族が、異教徒との葛藤に勝利を収め、至福千年王国を建設するという終末論である。これが唯物史観の原型である。選民とはプロレタリアートであり、異教徒がブルジョアジーである。
これこそユダヤ的思考法の二元論の原型である。これに宗教的倫理観が加味されるので、善悪二元論と呼ばれるわけである。ロシアから亡命した哲学者ベルジャーエフはすでに、マルクス主義は出発点において黙示録的性格を有すると分析していたのであった。
また、日本では鈴木成高氏がその著書『歴史的国家の理念』において、「唯物史観はその最後の帰結においてプロレタリア独裁を想定し、歴史の弁証法的発展を止揚することによって、一種のエスカトロギー終末論に陥っているといわなければならないのである。発展的力学の論理はそこにおいて停止し、階級対立の消滅、国家の解消とともに歴史もまた終止する。それは、ユダヤ的終末観とその外形において極めて酷似するものがあることを思わせる。
すなわち、プロレタリアートは神の選民に該当し、ブルジョアは異邦人に該当する。歴史はエホバの代わりに、同じく人間意志と能力を超越した、経済的必然によって支配されるのである」と述べ、かなり克明に本質を突いている。日本では恐らく唯一人の仮設論者であろう。
 
■ユダヤ・キリスト教とマルクス主義史観の基本構造
上の図を見れば、ユダヤ・キリスト教(いわゆるヘブライズム)とマルクス主義の歴史観が、その基本構想において、いかに同じものであるかが、お分かり頂けよう。マルクス主義とヘブライズムがいかに同じ土壌に立ち、同じ延長線上にあるかは賢明な有識者がしばしば指摘しているところである。
 
さて、もう一つの要素たるものは、ユダヤの民法ともいわれるタルムードの思想である。これはユダヤ人たるもの、生まれてから死ぬまで信念としているものである。タルムードは5、6世紀ごろ完成された実に膨大な法であるが、また日本では戦後いろいろのユダヤ人、日本人によって紹介されているようであるが、不思議なことに、何故かこの最も肝心なところが紹介されていないようである。
肝心なところというのは、「シュルハンアルクノショッツェンハミツバッド第348条」である。すなわち「非ユダヤ人の所有する財産は本来ユダヤ人に属するものなれど一時彼らに預けてあるだけである。故に何らの遠慮もなくこれら財産をユダヤ人の手に収むるも可なり」とするものである。
これの意味するところは大別して2つある。1つは、「一時預けてあるものであるから、何時なん時でも代償を払わずに取り返して然るべきものである」ということであり、もう1つはユダヤ人の財産は故なく非ユダヤ人に奪われたものである」ということになる。
前者がレヴィーのマルクスヘの手紙の骨子となっているものである。つまり、私有財産の奪取という思想はここから来ているのである。さらにもう1つの後者の解釈はマルクスの大作「資本論」の根本思想をなしているものなのである。つまり、「ユダヤ人の財産は故なく非ユダヤ人に奪われたものである」からかの有名な剰余価値説が生まれているわけであり、「搾取」とマルクスが強調するものである。
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西本圭

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