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2017年12月

2017年12月24日 (日)

「他人を変えようとする限り平和は来ない」ネイティブアメリカン

表題の記事が有りました。引用させて頂きます。
リンク
(以下引用)
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■ネイティブアメリカンの叡智
しばらく前から口伝で続くネイティブアメリカンの叡智を学んでいます。その中で、
【他の人がどうするべきか、からは世界の平和はありません。】
という言葉に出会いました。相手が変わるように働きかければいつか相手は変わってくれる、上手くいく、という淡い期待が僕の中にありましたが、それが崩れ落ちるような感じでした。
相手を変えようとする僕の中には、自分が正しく相手が間違っている、という、物事を良い悪いで見ている自分がいます。夫婦関係でも自分の正しさを主張し、相手を変えようとすれば、たとえ相手をうまく説得できたとしても、相手の中には我慢や反発が生まれ、互いへの信頼や安心感は壊れていきます。かといって、何も言わずに我慢しても、相手を否定してしまう自分はダメだと自分を変えようとしても空回りします。
人や出来事に不快な感覚を感じるとき、人を変えようとするでも、自分を変えようとするでもなく、「その問題は私に何を教えてくれているのか?」と見てみる視点が必要。どんなに不快に感じる出来事や出会いも、自分に必要なことを教えてくれている。不快な問題から問われていることに気づくと、問題が問題でなくなったり、相手が別人の様に変化する体験を僕自身何度もしてきました。
僕が誰かや、会社、社会を変えようと働きかける限り世界の平和はない。起きている出来事や人を良い悪いなく観て、湧いてくる感情と感覚から気づきを得ていく。人間の内側と外側を融合する生きる知恵をひとりひとりが身につけたとき、世界に平和や調和が生まれるのかもしれません。
そして、自分を知り問題から問われていることに気づく力を身につける事で、この世界から自分は愛されていることや、自分が何をしに生まれてきたのかが分かるのだと思います。
ネイティブアメリカンの叡智はまだメルマガで書くことができないほど深く、体感として落とし込みながら、分かち合っていきたい思います。
(引用終わり)




廣渕一志 

2017年12月20日 (水)

判断力や理解力を最大化する一つの方法~「上機嫌でいる」こと

内田樹氏の著書「最終講義」の中から紹介したい。
医師と救急患者の関係を持ち出して、その心理的情景を描いている。
1分1秒を争う判断、正解のない中で最善をつくす状況。
私は医師ではないが、やはり設計の仕事の中でも時にそういう状況が発生する。その時の心の有り様として留めておきたい。
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判断力や理解力を最大化するためには方法は一つしかない。
それは「上機嫌でいる」ことです。にこやかに微笑んでいる状態が、目の前にある現実をオープンマインドでありのままに受け容れる開放的な状態、それが一番頭の回転がよくなるときなんです。
最高度まで頭の回転を上げなければ対処できない危機的局面に遭遇した経験のある人なら、どうすれば自分の知性の機能が向上するか、そのやり方を経験的に知っているはずなんです。悲しんだり、恨んだり、焦ったり、というような精神状態では知的なパフォーマンスは向上しない。
いつもと同じくらいまでは頭が動くかも知れないけれど、感情的になっている限り、とくにネガティブな感情にとらえられている限り、自分の限界を超えて頭が回転するという事は起こりません。
真に危機的な状況に投じられ、自分の知的ポテンシャルを総動員しなければ生き延びれないというところまで追いつめられたら、人間はにっこり笑うはずなんです。それが一番頭の回転がよくなる状態だから。上機嫌になる、オープンマインドになるというのは精神論的な教訓ではないんです。追いつめられた時に生物が採用する、生き延びる為の必死の戦略なんです。
以上、抜粋




 
田野健 

2017年12月14日 (木)

なぜテレビを見ていると"バカ"になるのか

なぜテレビの言葉は空回りするのか。批評家の宇野常寛氏は、テレビ番組でコメンテーターを務めていた理由について「『こんなものを見ていたらバカになる』と伝えるためだった」と振り返る。宇野氏はその問題意識を新著『母性のディストピア』(集英社)にまとめた。そこで論じられたのは宮崎駿、富野由悠季、押井守というアニメ作家の作品だ。この時代にアニメを論じる理由とは
――当時の宇野さんは討論番組にもよく出ていましたね。
2011年から2013年ごろまで、僕は『ニッポンのジレンマ』や『日曜討論』といったNHKの討論番組によく出ていました。でも、「ノンポリのオタク」というフレーズには僕なりの「アイロニー」もありました。本当は自分を「ノンポリ」と思っているわけではないんです。むしろ僕のような態度こそ政治的だとすら思っていた。要するに人間の消費活動やメディアとの接し方といった場面から社会を考えるほうが、20世紀的なイデオロギーで右とか左とかいうより、ほんとうの意味で「政治的」だと思っているわけですね。
僕は本当はいきなり「憲法が……」みたいなところから語るのは好きじゃないんですよ。でも、討論番組に出てくる政治家や学者たちの一部は、まあこの本の言葉で言うなら「政治と文学」は切断されていて、自分たちは政治の言葉で語っていると思っている。その強烈な思い込み、戦後日本的な思い込みが、彼らの言葉をすごく空疎にしている。当時はその空疎を明らかにするという戦略を取っていたんですよね。
こんなニュースを取り上げること自体がおかしい
――この本を書いていた時期は、もはやそういう考えではなかったわけですね。
――具体的にはいつ頃ですか?
2015年の夏ですね。『スッキリ』が始まって数カ月たったときに、自分なりの手応えは感じていました。あそこで僕が言っていたことって、基本的にはたったひとつ、「こんなものを見ていたらお前たちはバカになる」ということです。週に一度、悪目立ちをした人や失敗した人を「叩いてOK」なものとして提示して、視聴者を「世間のまともな側」と思わせて安心させる。そんなのばっかりなんですよ。
それに対して、そもそもこんなニュースを取り上げること自体がおかしい、それをこんな切り口で紹介すること自体がおかしい、とずっと言ってきた。最初はギクシャクしたけれど、加藤浩次さんや僕を引っ張ってきたプロデューサーたちも、そんな僕の役割を「必要悪」として認めてくれて、居場所を獲得しつつあった時期ですね。
マイナスをゼロにする仕事でしかない
ただ、同時に、毎週強烈なむなしさにも襲われていました。あの場所で「ダメ出し」をするのは世の中に対して必要なことだと思うので一生懸命やっていましたが、それは結局、マイナスをゼロにする仕事でしかない。生産的でもなければ、想像力を刺激されるような仕事でもないんですよね。だから「自分の人生は本当にこれでいいんだろうか」と思ったんです。このままだと働き盛りの30代後半が、言ってみれば社会のドブさらいで終わってしまう。それはそれで大事なこと、必要なことだと思っているから引き受けたのだけれど、それだけで人生が終わるのはイヤだから、この本を書いた。そういう動機もあります。
――つまり、『ニッポンのジレンマ』にしても『スッキリ』にしても、テレビの視聴者は、宇野さんがアイロニカルに振る舞う様子だけを見ていたわけですよね。しかし、この『母性のディストピア』という本は、そういった言説の背景を示すものになっている。
少し言い方を変えると、『ニッポンのジレンマ』のころに僕がやっていたことは、政治の言葉を使う政治家や学者より、サブカルチャーの側から文学の言葉を使う僕のほうがよほど政治的である、という逆説的な状況を見せることだったんですよ。そうすることで、「社会と個人」や「政治と文学」の関係を問い直してほしかった。
この本にも書きましたが、僕は政治の言葉は文学とつながらなければ機能しないと考えています。振る舞いはアイロニカルにみえたと思いますが、一生懸命やっていたのは政治と文学の接続なんですよ。でも一言でいうと、まあ端的に、NHKのプロデューサーとケンカして降ろされたわけですよね。そういった僕の振る舞いをテレビの側が気に入らなかったわけです。
「こんなものはクズだ、ありえない」
――『スッキリ』ではどうでしたか?
『スッキリ』は生放送だし、とにかく尺がないので、もっと直接的に「こんなものはクズだ、ありえない」といったことをぶつけて、どんどん波を起こしていったわけですね。だから『スッキリ』では政治の言葉しか語っていないはずです。正確には政治ではなくて、ただの「政治ごっこ」なんですけれど。それが「ごっこ」にすぎないということを全力で指摘して、終わり。
だからあの場では政治と文学の分断をある程度受け入れざるを得なかった。そのフィールドに乗るしかないという息苦しさはずっと感じていました。そのはけ口のようなものが、この本に集中しているんですよね。それが僕のメディア人としてのひとつの回答です。
リンクより





森浩平

共認したスケジュールを元に小まめに目的と期日の共認を繰り返すための小グループ追求が一番の突破口

私の同僚の話です。
新追求のすすめ10
>同類闘争という未知なる世界に直面して、まず原猿が親和共認の機能を形成し、それを母胎にして真猿が闘争共認の機能を形成した。ここで最も重要なのは、原猿も真猿も、不整合な=未知なる世界に直面して、互いに「どうする?」と未明世界を追求し続けたからこそ、本能を超えた共認機能を形成し、知能を著しく進化させることができたという点である。
引用終わり
(対象への注視→)不整合がまず有り、それを整合したいという欠乏が、みんなで追求(グループ追求)の原動力となる。原猿や真猿はそれをやり続けることで、進化(生き延びる事)が実現出来た。
相手を注視し同化する中で、分からないこと、不整合に注目する。そこを全面的に受け入れ、仲間と共認する。その過程をもっと大切にしたい。
そこからしか本当の(内発的)追求は始まらない。その追求をしつづけるその先に、実現基盤があるのだと思った。今後の仕事の取組み方の参考にしたい。
以上
不整合感を感じる時はいつか?
実はいつでも感じている。
しかし感じる所が違う。
・統合者(=追求者)は追求しているから事実=事象その物に不整合を感じる。しかし、狭い枠(への捉われ)意識がある時は自我に直結して、与えられない評価とのずれに不整合を感じる。
歴然とした差がある。
水と油の関係なので混じりあうことがないと思っていた。
上記の話から考えると、相手(社会、施主、関係者、仲間)の不整合感に全面的に同化する。更に、グループ追求を続けて対象に同化充足する中で(自我を封鎖し)充足共認に収束することになる。
しかし冒頭の自我の封鎖の話とは次元が違うようだ。
自我のレベルは私権社会のレベル。暗記脳=答ありきの試験脳の範囲。
私権社会の残存が答の見えない課題=見通す力を問うスケジュールの作成をいい加減にしている。結果、スケジュールは破綻してグループ追求に至らない、その結果、苦役な作業が更に苦役になる。
 実は、共認したスケジュールを元に小まめに目的と期日の共認を繰り返すための小グループ追求が一番の試験脳の突破口(前進力)だと気付いた。




酒井俊弘

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