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2017年6月16日 (金)

無知の知を知る方法

村上春樹は新刊で40万人の南京大虐殺があったと書き、それを非難されると「歴史を修正しようとする者たちとは戦っていかねばならない」と反論した。
村上春樹は南京大虐殺についてどの位研究したのだろうか、少しでも研究・調査すれば“あった”と言うには躊躇するような多くの矛盾が出てくるはずである。
彼の南京大虐殺の知識というのは我々一般人と同じで、ただ聞きかじった知識であろう。その聞きかじった知識で全世界に向かって南京では40万人が虐殺されたと喧伝したのだ、なんという無責任な奴であろうか。七十に近い男が言論には責任が伴うということが未だ分かっていない。
誰か村上春樹に対して言ってやればいいのだ「貴方は本当に南京大虐殺を信じて書いたのか?もし嘘だった場合、大変なことになるぞ、どう責任を取るつもりなのだ、命を賭けても40万人大虐殺はあったと言えるのか」と。
若いころ村上春樹の本を読もうとしたが「ノルウェイの森」というタイトルを見て、薄っぺらで欺瞞的なものを感じて村上春樹を読むことをやめたが、あの時の直感は正しかったようだ。
私たち人間は無意識的に“自分の考えていることは正しい”と信じ込む癖がある。それを改めようとしたのが、ソクラテスや孔子、釈迦が言及している“無知の知”であろう。それは、つまり知識人たちはなんでも分かっていると考えているが、本当は何も分かっていない、また神の知恵に比べて我々人間の知恵など取るに足らないものだから、我々は常に謙虚であるべきだというものであろう。
我々はソクラテスたちの時代から何も進歩していない、何千年たっても人類は“無知の知”を自分たちのものにできていない。現在においても我々は“自分の考えた事は正しい”と考え安易にネットなどに書き込んでいる。
私たちがもう少し謙虚で自分たちは無知であると知る為にはどうすれば良いのか。 自分の意見・考えに対して“本当はどの位自信を持っているのか”がピタリと分かる方法がある。
それは自分の全財産の内どのくらいなら賭けられるだろうかと考えることである。
例えば財産が一千万円あるとして、その内いくら位なら実際賭けられるだろうかと考える。数万円なら賭けられる、それでは数十万はどうだ、数百万では・・・と考えていけば、いくら位までなら賭けられるという金額が出てくる。その出てきた金額が自分の考えに対する自信の程度を示している。自分の考えが絶対に正しいと考えていれば全財産どころか命だって賭けられるであろう。しかし数十万円しか賭けられないと思うならば、それはほとんど信じていないということになる。信じてもいない事をいかにも正しいかのように発言するのは詐欺師である。
責任感をあまり感じないネット上で発言するにしても、責任が伴う事柄ならば、せめて全財産の半分ぐらいは賭けられるという自信ができて初めて発言すべきであろう。このように“実際いくら位なら賭けられるだろうか”と自問自答をしてみれば、多くの場合は“私はまだ本当には信じていないのだ、無責任に発言すべきでない”と自分の無知を理解し謙虚になることができる。
皆さんも「自分の意見は正しい」と思った時には“自分は全財産の内どの位本気で賭けられるだろうか”と自問自答してみてください、そうすれば本心ではどのくらい自分の考えに自信を持っているのかがピタリと分かりますから。



蘆花

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