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2017年2月 6日 (月)

架空観念は実現しないどころか、理想と逆の結果を生む

西欧世界では神の観念をはじめとして数多くの架空の観念を生み出し、実現しようとしてきた。しかしその架空の観念は実現しないばかりか、それを実現しようとした結果、全く逆の結末を迎えるということがあるように思われる。
宗教の在り方を見つめ直そうとした宗教改革。それは長きに渡る宗教戦争へと繋がっていく。宗教戦争が終結し、ウェストファリア条約が結ばれると、各国の国としての主権が認められ、信仰に関しても各国が宗派を選択する形となった。宗教の在り方を見つめ直そうとした結果、宗教の国家に対する影響力は弱まっていった。
また、同時に宗教改革の中では特にカルヴァン派による予定説、これが資本主義を拡大させたという議論がある。予め救われるものは決まっている。そのとき、救われるものは現世の仕事においても成功するはずである、という意識が生じる。これは利潤の追求の正当性を生み出した。そこから労働に対する合理的な精神が生まれる。このような合理的精神が資本主義を拡大させ、また個人主義をヨーロッパ世界に根付かせた。また合理的精神はまた神への信仰に対し疑念を生じさせる。またしても、宗教改革によって神の絶対性に疑念が生じるという事態となった。
宗教、つまり神という架空観念、このあり方を見直すという行為がまさにその神という存在の架空性に気づかせてしまったといえるだろう。
そしてもう一つ、フランス革命の旗印として持ち出された「自由・平等・博愛」である。
そもそもフランス革命自体が革命として成功したとは言い難く、革命の後にすぐさまジャコバン独裁の体制へ移行、さらにその混乱の後にナポレオンの登場、またしても帝政となるなど、日本で通常賛美されるような輝かしいものではないことは明らかである。
とはいえ市民が蜂起し、王政を打倒したという点では歴史的な転換点の一つではあるだろう。革命を経て自由が実現されるかに見えたが、現実にはどうなったか?
自由を実現しようとした結果、どうなっていったのか?これはまさにミシェル・フーコーが議論したように、監獄が誕生したのであり、実際には本当の自由等どこにも実現していない。
自らを縛るものが、王政から民衆、そして自分自身へと変わったに過ぎない。自由を実現しようと王政を打倒したとしても、また別の形の不自由が出現するのである。
そして革命によって近代の民主主義国家が生み出されたが、民主主義はその後どうなっていったのか。まず訪れたのはジャコバン独裁、そして20世紀に入るとファシズム、社会主義、スターリン独裁と繋がっていく。民主主義がポピュリズムに陥り、テマゴーグが出現し、衆愚政治に陥る。そして独裁者を生む。これは民主主義の普遍的構造と言ってもよいだろう。
古代ギリシャで起こったことは、例外なく20世紀にも起きたのである。現代日本で言えば、小泉政権、あるいは維新の会の橋下氏等であろうか?
西欧世界はこのような理想を実現しようとしてきた。そしてそれはことごとく架空観念であった。架空観念はただ実現しないばかりか、それを推し進めた結果、全く逆の帰結を生むといってよいだろう。
またこうした歴史的な動きの背景には常に金貸しの思惑があったわけであるが、しかしこのような架空観念(近代観念)が人々の意識を支配している。そしてそれは決して実現に向かうことはなく、それどころか往々にして全く逆の帰結を迎えてしまう。
このような架空、すなわち無のものを信仰すること自体が一種のニヒリズム(虚無主義)であり、そしてその架空性に気づいたとしてもそれに代わる価値観がないままではそれもまたニヒリズムである。
ニヒリズムの中では一切の価値判断は生じない。それは現代の科学至上主義もその線上にある。科学は客観性がすべてであり、価値判断を差し挟むことは悪である。それは事実を追求するためには必要な姿勢であるかもしれない。しかし、それが各分野の過剰な分化を促進している。高度化し、とても全体を把握しきれないという事情はあるにしても。
かつては哲学と科学は一体であり、一つの真理に向かって探究していたはずである。当然、それもまた架空のものであり、一つの真理に向かう態度はいつの間にか各分野に分化し、統合されぬまま宙に浮いているのである。
こうした客観性絶対主義のようなものの背景にはもちろんデカルトの「我思う、故に我あり」がある。精神は肉体とは別であり、精神は世界の外にいるとするのである。確かに「我思う、故に我あり」の論理は覆すことはできない。しかし、デカルトのその後の洞察は甘々であり、確かな我が明確に洞察した事象は真とする、などというのは、今までデカルト自身が疑っていたことそのものである。
結局、精神そのものもこの世界の内に存在しているのであり、それまでの経験等を踏まえて在るものなのである。
デカルトによるこうした考え方は、のちにハイデガーによって人間自身も世界内存在として位置付けられたことにより覆されたかに見えたが、ハイデガー自身の思想が完成を見なかったこと、ナチスと関連付けられたこと等もあり、結局はデカルト的な考え方が現在まで続いているといえるだろう。
この考え方は西欧に限らず、仏教の前身ともいえるウパニシャッド哲学の中にもある。アートマンは、肉体的にどれだけ苦しみがあろうと絶対に不可侵であり、それを経験的に理解することが悟りを開くということである。
人間の意識、というものの特殊性の問題は根深い。人間の精神それ自身も「世界内存在」であり、共認機能の原理に基づけば他者との関係性の中で存在しているものであり、それ単独で存在するということはあり得ない。
最後はやや蛇足であるが、神(宗教)、自由、民主主義、科学にいたるまで、架空の観念は実現しないばかりか、最終的にその逆の結果を生む。こうした観念の実現が人類の歴史であるかのように認識されているが、このような架空の観念を追い求めている間は人類の歴史はいつまで経っても進んでいないのではなかろうか。



匿名希望

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