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2017年2月

2017年2月24日 (金)

これからの日本人に求められるのは対立する度胸を持つこと

リンクより引用。
***
日本の「アパホテル」の客室に南京大虐殺を否定する本が置かれているとして、中国で騒ぎになったのだが、アパホテルはこのような見解を堂々と出している。
「異なる立場の方から批判されたことを以って、本書籍を客室から撤去することは考えておりません。日本には言論の自由が保証されており、一方的な圧力によって主張を撤回するようなことは許されてはならないと考えます」
この書籍『本当の日本の歴史 理論近現代史』は元谷 外志雄(もとや・としお)というアパグループの代表が書いたものであり、「あくまで事実に基づいて本当の歴史を知ることを目的としたもの」であるという。
しかし、歴史プロパガンダを仕掛けている中国はこうした書籍があることを絶対に認めない。
この一企業の動きに、中国では外務省が「日本国内の一部勢力は歴史を正視しようとしない。正しい歴史観を国民に教育し、実際の行動でアジアの隣国の信頼を得るよう促す」とわざわざ批判している。
今までの日本人であれば、すぐに腰砕けになって折れただろう。しかし、アパグループは折れるつもりはないようだ。やっと中国・韓国・北朝鮮の横暴に折れない日本人が立ち上がって来ていることを私たちは知る。
日本人よ、時代は変わって来ている。
~中略~
■今まで日本人は、協調性を意識しすぎた
世界に目を転じると、宗教問題、歴史問題、領土問題、人種問題で、絶対に妥協できない対立が激しくぶつかり合っていて、血で血を洗うような事態が起きている。
これらのすべての問題は民族のアイデンティティに直結しているので、話し合いも成立しないし、譲り合いも成立しない。譲れば民族としての存続が不可能になるので、絶対に譲れないのである。
折しも情報化時代に入っているので、こうした衝突は言論の場にも持ち込まれるわけで、だからこそ歴史プロパガンダが猛威を振るうようになっている。
欧米とロシアのプロパガンダ合戦、欧米とイスラム国家のプロパガンダ合戦、グローバリストとナショナリストのプロパガンダ合戦、アメリカ国内でのリベラルと保守のプロパガンダ合戦は日々、深刻なものになっている。
東アジアでも、中国・韓国・北朝鮮が日本に対して執拗かつ粘着的な捏造歴史プロパガンダ戦争を仕掛けており、日本人に対する誹謗中傷、批判、攻撃が恒常的に行われるようになっているのだ。
もう現代社会は「きれいごと」を言っているだけでは渡っていけない世の中になった。これから日本人も凄まじい言論対立に巻き込まれていく。
だからこそ、私たちは日本人としての主張を「押し通す」必要が生まれてきている。今までの理解・平和・協調から脱して、いよいよ闘争本能に目覚めなければならないのである。
歴史問題は、何も言わないと相手の都合の良い主張が世界の歴史になる。領土問題は妥協していると次々と土地を奪われていくことになる。
重要なところで妥協してしまうと、日本人の尊厳も領土もすべて奪われる。だから、民族の存続をかけて、きれいごとから去らなければならなくなっている。
今まで日本人は、協調性を意識しすぎた。
批判することを恐れ、主張することを恐れ、復讐することを恐れ、バッシングされることを恐れ、修復不可能になることを恐れてきた。
■今求められているのは、まさに「対立できること」
だから、逆に日本人が今後、立ち上がるためには、この恐れをすべて捨てて、脱皮しなければならないということになる。以下の5つを決意するということだ。
(1)相手を激しく批判することを恐れない。
(2)主張を押し通すことを恐れない。
(3)相手に報復・復讐するのを恐れない。
(4)批判やバッシングを恐れない。
(5)修復不可能な敵対・対立を恐れない。
日本人は何事も徹底する癖がある。戦後から今までの日本は、あまりにも優しくなること、諸外国に配慮すること、対立を避けることに徹底しすぎた。
普通の民族は何事にもほどほどで止まるのだが、日本人は「平和優先」と決めたら徹底的なまでに平和優先になっていき、あまりにそれが行き過ぎた。
そして、良かれと思って徹底した「平和至上主義」で、今や日本の主権そのものが脅かされるところにまで到達した。
そういった状況はいよいよ終わりにして、日本人全員が意識を変えなければならない日が来ている。
日本人は誰かに批判されたり、罵られたりする状況に慣れておらず、そういった対立を非常に恐れているが、今求められているのは、まさに「対立できること」なのである。
対立できるというのは、相手を激しく批判するのも辞さず、徹底的に主張を押し通すことを恐れないということだ。批判やバッシングをエスカレートさせて、修復不可能な敵対関係となることも受け入れるのだ。
きれい事を捨てて現実主義になるというのは、そのような状況になっても一歩も引かないということだ。
今後も、歴史をめぐる対立は、これまで以上に激化していく。闘争モードに入らなければ国がなくなるのだから、日本人もどこかで転換する。
こうしたことに気付き、敢えて言論の誹謗中傷や攻撃や批判の中に飛び込んでいき、そこで戦う日本人がいよいよ登場してきている。
もう、友好やら配慮やら自虐やらは時代遅れだ。あなたは対立する度胸を持ち合わせているだろうか?
それにしても、アパグループは素晴らしい。今後は積極的にアパホテルを使っていこうと思う。中国人が来ないのであれば、なおさら静かに落ち着けることになるだろう。
 



別所彦次郎

2017年2月21日 (火)

「無興味無関心」の知恵

あらゆる物事に対応する
最善の手の一つは
「無興味無関心」の振りです。
どんな物事も
「無興味無関心」の人たちにとっては
どうでも良いものです。
「そんなの知らない!」
「そんなの見聞きしたくない!」
「うるさい!」
「で?」
「だからどうしたの?」
って言われたら
暴力、暴言、戦争、犯罪以外に
彼らに主張を通すことは出来ません。
あの悪名高き電通も
自社の広告を
多くの消費者に
見聞きしてもらわなければ、
彼らの言動、努力は無に帰ります。
教育者も
児童、生徒、学生に
授業を聞いてもらわなければ
彼らの言動、努力は無に帰ります。
私のこの記事も
読者に見てもらわないと無意味です。
優しさは損です。
好きの反対は無興味無関心です。



千田祐介

2017年2月18日 (土)

いつも愚痴ばかり=全て他人のせいにしているという真理

以下、(リンク)より紹介させて頂きます。
うまくいかない現実に直面した時、知らず知らずのうちに「口を開けば愚痴」状態に陥ってはいないか?
実現に真っ直ぐに、勿体無い行いは今すぐ改めていきたいものです。
* * *
いつも愚痴ばかり言う人は、付き合うと非常に疲れますし、体調もおかしくなってきますよね。
実は、愚痴ばかり言う人は、ネガティブな考え方ばかりしており、また、全ての物事が自分に原因があるとは考えず、全てを人のせいにする人です。
この社会での日常生活では、いつも良いことばかりではありません。
悪いことも当然起きて来ます。
でも、
「良いことも悪いことも、自分自身が創り出したものである」
これが真理です。
この世界には、鏡の法則が流れておりますので、いつも心の中で想い、イメージすることが実現します。
また、自分が他者に対しておこなったことだけが、必ず後で、自分自身に返ってきます。
したがいまして、自分に起きる出来事や自分の周囲の環境は、全て自分自身の責任であり、自分で創り出したものです。
この真理を知っていれば、他人のせいにすることなど、決してできません。
したがいまして、他人のせいにして、愚痴ばかり言う人は、この真理を知らないし、理解していない人ということができるのです。
また、自分のせいだと理解できない人は、何か悪いことが起きると、全て他人のせいにします。
そして、相手に対して直接に文句を言えない状況であれば、その悶々とした不満を誰かに愚痴として、ぶちまけるのです。
確かに、心の中に溜まった悶々とした不満のエネルギーは、誰かに話すことで、言葉のエネルギーに変換されて発散することができます。
ですが、愚痴を聞かされる方は、たまったものではありません。
なぜなら、マイナスの言葉には毒があり、その毒を浴びせ続けられると、気持ちも暗くなるし、体調も悪くなるし、運勢も落ちてしまうからです。
したがいまして、愚痴ばかり言ってくる人には、
「愚痴など聞きたくない!」
「元はと言えば、アンタのせいでしょ!」
「愚痴を言って、何か解決するの?」
「いい加減に愚痴ばかり言うのは止めて!もう、うんざり!」
「愚痴ばかり聞かせるなら絶交よ!」
などと、言ってやりましょう。
愚痴ばかり言っている人には、その愚痴が、自分だけじゃなく、周囲の人にも迷惑をかけているということを知らしめる必要があります。
(引用おわり)



匿名希望

2017年2月16日 (木)

既成概念・思想からの解放が生きる意味を与えてくれる

「本能と情動の刺激と解放が生きる意味を与えてくれる(リンク)」より引用します。
我々は理性という鎧を守って世の中を生きている。
しかし、この鎧がただの重荷になってはいないだろうか?もしくは理性という鎧があまりに重すぎて、武器を持つことができていない状態になっていないか?
あまりに理性で自己防衛をしてしまうと、一番大切な情動の炎が尻すぼみになってしまう。
我々は子供の頃、もっと輝いていてはずだ。感情が豊かで、見ること知ること体験することすべてが感動に満ち溢れていたはずだ。
しかし今はどうだ? 
理性的過ぎるという毒に全身を蝕まれていないか? 
何か事を成そうとした時、理性で状況判断しすぎて夢を捨てていないか、諦めていないか? 
生きている実感をも損なわせてはいないか?
そしておっそろしいことに、我々が生きているこの社会では理性の大切さを説きながら、本能と情動を輝かせて生きていこうとする人を排除しようとしている。
そうでありながら、出世したり成功をおさめるのは、理性ではなく本能と情動を躍動させた人だけという矛盾した現実がある。
人間の最も大切な本能と情動を尻すぼみにさせる現代の人間社会だ。
ということは、ただ平凡に生きている人は、ただ理性をふんだんに使い、生命力を削って老い衰えていくということになる。
でも、瞑想や気功でもいい、とにかく理性じゃない、もっと別の深いところに人間の最も大事なものが隠されている、そう感づいた人が私達だ。
我々は理性じゃないもっと根っこのもっと大きなもっと可能性のある分野を探求しようとするいわゆる脳と精神の冒険者だ。
悪けれど、ただ平凡に生きている人は絶対に興味を持たない分野を我々は追求し続けている。
だが! 瞑想を例に取るならば、そんな素晴らしい分野である瞑想にさえ、我々は理性を使って、瞑想状態を深めようとし、ある真理に到達しようとしている体たらくだ。
理性の限界に気づいている人間でも、理性世界とは別の次元にある瞑想世界において理性に頼ってしまうおっそろしい現実! 
こんなことでは一生追求しても本能と情動を刺激し、脳力を覚醒させることには至れない。そして瞑想によって、生きる意味と真理を見出すことなんて不可能だ。
~・中略・~
理性ですべてを解決しようとしていた時の私からみたら信じられない変わり様だ(従来の瞑想法では私は理性で何とかしようとしていた。当時は気づかなかったが、くだらない知恵を使っていたようだ)
本能・情動が再生された私が理性の力が衰えたかというとそうでもない。肝心な時に自分を律せられるようになった。かといって理性に飼われている惨めな状態でもない。
自分というものが、理性の枷から大きく外れて自由になった。
本当に楽になれた。
なぜ自由になれたのか、それには理由がある。
覚醒瞑想ほど深い覚醒トランス状態に入れると、自動的に、あるいはこちらの観念で、自由への障害となっている抑圧や壁を破壊できるようになるのだ。
そこが最強の瞑想法のすごい効果を与えてくれる。
情動を大きく揺さぶり、理性の枷を外して、自分を存分に人生という舞台で発揮しよう!



村田頼哉

常識の変域の両端は知らぬ間に極端になっていく

子どもたちのほとんどが義務教育で学び、義務教育でない高校へは90%以上が進学し、さらに大学へ50%以上が進学しますが、親子の常識から言えば、大学を出るというのが主要道です。問題はこの主要道が災害時には真っ先に通行止めとなり、戦時には爆撃対象となり、恐慌時には連鎖倒産の自殺道にもなってしまうことです。
おそらく社会資本の最適化が明治以降の日本の足腰をだんだんと弱め、想定される最悪が常に更新されてしまうことに一因があり、逆に、望みうる最高が低くなってきていることがもう一つの原因なのではないかと感じます。
変域、最悪側の更新は、例えば抗生物質が行き渡れば新種のウィルスが出現する、入試競争が過熱すればさらに難易度は高くなる、忙しくなれば何かが手薄になるなどがありますし、望みうる最高の低下には、有名大を出ても大きな夢が実現しない、大金を得てももっと上がいて相対順位は変わらない、情報が増えても選択ばかりで何かしらの遺伝情報が空っぽになることなどいろいろあります。
これまでにも、変域が広がるのに比例して、中間の価値が延べられて薄くなり、代わりに、命の重さ、愛は地球を救う、個性の時代など両極端の正当化のために、いろいろと言われてきました。漠然とした善意が地球という惑星を救済してくれる、逆に社会の最小単位である個人の命を大切にすれば社会問題や外交問題が解決できる、
何か何千年も前から同じようなことを言ってきて何も解決していませんし、鮮明さの希薄なスローガンだけを強調することによってやることは何でも良くなっていたり何もしなかったりという時代が長過ぎるような。
無限大の漠然から限界の個まで変域を広げたら、例えば法律が何万もでき、法則が何万もでき、相反する常識が交錯し、面倒だから思考停止したり、即自完結したり、いろいろなポジションが収束不全になっているはずなのに、広げきった固定観念が収束の代わりに強制しているという感じです。
義務教育から大学までの直線を延伸して子どもを序列化するという常識から見ての非常識、教育をできる限り複線化して、いろいろな群れの合議としての社会のことをとても楽しく想像しています。



佐藤英幸

2017年2月 6日 (月)

鎖国はすばらしく、カーストは不幸ではない?

鎖国はすばらしかった
 鎖国はよくなかったと教科書には書かれているかも知れません。しかし鎖国したことによって他国とは異なるひとつの文明を熟成することが出来たのですから、鎖国はすばらしかったと私は思っています。この高度に熟成された文明に代表される、日本独自の文化文明があったからこそ、われわれは「日本人とは何か」を知ることができ、また民族や祖国への深い自信や誇りを持つことが出来るのです。
世界有数の軍事力を有していても世界一の経済繁栄を何百年続けても、深い自信や誇りには決してつながりません。
カーストは不幸ではない
 1800年代初めに、フランスのデュポワという神父は三十年ほどインドで暮らしました。
彼が書いた「カーストの民」(東洋文庫)がおもしろいです。
革命直後の、自由、平等を絶叫していたフランスから厳しいカースト制度の中に入って暮らした上で、「フランスよりもインドの方が、はるかに人々が穏やかで道徳的にもすばらしい。カーストはヒンドゥーの最高傑作」という趣旨のことを言っているんです。
たとえばインドの蛇使いのカーストに生まれた人達は、おじいちゃんも、お父さんも自分もその息子も、みんな生まれてから死ぬまで蛇使いとして一生懸命やっていこうとする中で幸せに生きている。蛇使い以外のものになりたいと思うことすらないわけです。
引用終わり~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 上記二つの内容は、藤原正彦氏の「名著講義」から引用させていただきました。
これまでの価値観から見ると上記のカーストの例などはやや突飛な話ととられるかもしれません。しかしそれは一方で、読む側に何らかの思い込みがあるから、あるいは良く考えずに与えられたものをそのまま、考えもせずに受け入れているからではないかということに気付かせてくれる事例と思えました。
氏は以下のように続けています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 自由平等イコール幸福、封建社会イコール不幸、というのは欧米の撒き散らした神話で、よく考えればそれほど単純ではありません。戦前の全てを否定するGHQや日教組による教育の呪縛から解放され、改めて自分の頭で考え直さねばなりません。



高橋克己

セクスに至る人間関係づくりは心の触れ合いからの信頼関係づくりから

学問に王道なし~とは、本当に納得する言葉である。比の追求など、類での実現追求各講座では、毎回そのことにあらためて気づかされる。そして、毎回感じることは、これは男女共に当てはまることだが、セクスに王道なし!という事で、特に切実感を持つ男性諸兄にお伝えしたいと思うのだ。
人と人との触れ合い方を工夫する以外にセクスへの道は無いのだと。キリストを裏切り、キリスト教を諸悪の根源化したりアウグゥトウスのように,肉欲に支配されて振り回されるしかない気の毒な肉体の持ち主じゃあるまいし、我々は美しい自然にはぐくまれた人間的肉体を授かった縄文男女である。止むに止まれぬ内的必然性~命の渇望は~先ず肯定しよう!女子の生理の如く男子のドキッ!も自分でお祝いしよう!
その時から、大人の人間として問われてくるのは、他者との触れ合い方だ。関係のつくり方と言っても良いかもしれない。そして、それは取りも直さず自分に対する対応の仕方であり、自分との触れ合い方であると言えるだろう。自分自身をどう考え、どう受け入れていく👍🏿😀か?そこには、両親と自分がどのような触れ合い方をし、どんな親子関係、人間関係を築いてきたかが反映してくる。たとえ最悪の関係であっても、その日から、誰もが自立していかねばならない。どんな親であっても、ある時期自分を愛し、心の支えとして生き、奮闘してきた未熟ではあるが、普通の両親であったのだ。
ーお人好しの、明治この方ずーっとイルミナティ達に騙されっぱなしの日本人ー。今やシラけまくりの関係の人もいるかもしれないが。その未熟だった親との関係、触れ合いはそのまま、自分との関係であり、自分との触れ合い方だ。それは、他者との触れ合い方に反映する。親への対応とは真逆になったり自己否定したり。とりわけ一番大事な相手との出会いの場面で、最悪の形で現れる。
だから私達は先ず、能力に関係なく自らの存在,全ての存在を肯定せねばならぬ。未熟な親を肯定し、感謝せねばならぬ。許せぬあやつも許し、全ての存在を肯定し、現状を受け入れ、己れの存在を大宇宙に感謝せねばならぬ。無限の時空に有限の存在として在ることの奇跡
淀川鰡清

架空観念は実現しないどころか、理想と逆の結果を生む

西欧世界では神の観念をはじめとして数多くの架空の観念を生み出し、実現しようとしてきた。しかしその架空の観念は実現しないばかりか、それを実現しようとした結果、全く逆の結末を迎えるということがあるように思われる。
宗教の在り方を見つめ直そうとした宗教改革。それは長きに渡る宗教戦争へと繋がっていく。宗教戦争が終結し、ウェストファリア条約が結ばれると、各国の国としての主権が認められ、信仰に関しても各国が宗派を選択する形となった。宗教の在り方を見つめ直そうとした結果、宗教の国家に対する影響力は弱まっていった。
また、同時に宗教改革の中では特にカルヴァン派による予定説、これが資本主義を拡大させたという議論がある。予め救われるものは決まっている。そのとき、救われるものは現世の仕事においても成功するはずである、という意識が生じる。これは利潤の追求の正当性を生み出した。そこから労働に対する合理的な精神が生まれる。このような合理的精神が資本主義を拡大させ、また個人主義をヨーロッパ世界に根付かせた。また合理的精神はまた神への信仰に対し疑念を生じさせる。またしても、宗教改革によって神の絶対性に疑念が生じるという事態となった。
宗教、つまり神という架空観念、このあり方を見直すという行為がまさにその神という存在の架空性に気づかせてしまったといえるだろう。
そしてもう一つ、フランス革命の旗印として持ち出された「自由・平等・博愛」である。
そもそもフランス革命自体が革命として成功したとは言い難く、革命の後にすぐさまジャコバン独裁の体制へ移行、さらにその混乱の後にナポレオンの登場、またしても帝政となるなど、日本で通常賛美されるような輝かしいものではないことは明らかである。
とはいえ市民が蜂起し、王政を打倒したという点では歴史的な転換点の一つではあるだろう。革命を経て自由が実現されるかに見えたが、現実にはどうなったか?
自由を実現しようとした結果、どうなっていったのか?これはまさにミシェル・フーコーが議論したように、監獄が誕生したのであり、実際には本当の自由等どこにも実現していない。
自らを縛るものが、王政から民衆、そして自分自身へと変わったに過ぎない。自由を実現しようと王政を打倒したとしても、また別の形の不自由が出現するのである。
そして革命によって近代の民主主義国家が生み出されたが、民主主義はその後どうなっていったのか。まず訪れたのはジャコバン独裁、そして20世紀に入るとファシズム、社会主義、スターリン独裁と繋がっていく。民主主義がポピュリズムに陥り、テマゴーグが出現し、衆愚政治に陥る。そして独裁者を生む。これは民主主義の普遍的構造と言ってもよいだろう。
古代ギリシャで起こったことは、例外なく20世紀にも起きたのである。現代日本で言えば、小泉政権、あるいは維新の会の橋下氏等であろうか?
西欧世界はこのような理想を実現しようとしてきた。そしてそれはことごとく架空観念であった。架空観念はただ実現しないばかりか、それを推し進めた結果、全く逆の帰結を生むといってよいだろう。
またこうした歴史的な動きの背景には常に金貸しの思惑があったわけであるが、しかしこのような架空観念(近代観念)が人々の意識を支配している。そしてそれは決して実現に向かうことはなく、それどころか往々にして全く逆の帰結を迎えてしまう。
このような架空、すなわち無のものを信仰すること自体が一種のニヒリズム(虚無主義)であり、そしてその架空性に気づいたとしてもそれに代わる価値観がないままではそれもまたニヒリズムである。
ニヒリズムの中では一切の価値判断は生じない。それは現代の科学至上主義もその線上にある。科学は客観性がすべてであり、価値判断を差し挟むことは悪である。それは事実を追求するためには必要な姿勢であるかもしれない。しかし、それが各分野の過剰な分化を促進している。高度化し、とても全体を把握しきれないという事情はあるにしても。
かつては哲学と科学は一体であり、一つの真理に向かって探究していたはずである。当然、それもまた架空のものであり、一つの真理に向かう態度はいつの間にか各分野に分化し、統合されぬまま宙に浮いているのである。
こうした客観性絶対主義のようなものの背景にはもちろんデカルトの「我思う、故に我あり」がある。精神は肉体とは別であり、精神は世界の外にいるとするのである。確かに「我思う、故に我あり」の論理は覆すことはできない。しかし、デカルトのその後の洞察は甘々であり、確かな我が明確に洞察した事象は真とする、などというのは、今までデカルト自身が疑っていたことそのものである。
結局、精神そのものもこの世界の内に存在しているのであり、それまでの経験等を踏まえて在るものなのである。
デカルトによるこうした考え方は、のちにハイデガーによって人間自身も世界内存在として位置付けられたことにより覆されたかに見えたが、ハイデガー自身の思想が完成を見なかったこと、ナチスと関連付けられたこと等もあり、結局はデカルト的な考え方が現在まで続いているといえるだろう。
この考え方は西欧に限らず、仏教の前身ともいえるウパニシャッド哲学の中にもある。アートマンは、肉体的にどれだけ苦しみがあろうと絶対に不可侵であり、それを経験的に理解することが悟りを開くということである。
人間の意識、というものの特殊性の問題は根深い。人間の精神それ自身も「世界内存在」であり、共認機能の原理に基づけば他者との関係性の中で存在しているものであり、それ単独で存在するということはあり得ない。
最後はやや蛇足であるが、神(宗教)、自由、民主主義、科学にいたるまで、架空の観念は実現しないばかりか、最終的にその逆の結果を生む。こうした観念の実現が人類の歴史であるかのように認識されているが、このような架空の観念を追い求めている間は人類の歴史はいつまで経っても進んでいないのではなかろうか。



匿名希望

2017年2月 3日 (金)

多様化という逃げ

もうすでに佐々木健二さんが、「多様性とは」で簡潔な意見を投稿して下さっているので、補足程度に。

「価値観が違う」のに、なぜ「認める」ことができるのでしょう。
それは、ごまかしです。その前提には「理解できる同じ土壌」が必要なのです。

例えば、海外旅行に行ったときに、良く使われるのが「所詮同じ人間なんだから」という認識です。これは「お互いの差異」を認める前に、「共通性」を見いだす行為です。

また、いろいろな企業が「当たり」を狙ってたくさんの企画を考えています。それらはどれも「他企業との差異」は考えていますが、「ウける(売れる)共通性」を分析して、企画します。

そして価値の多様性が「本当に」重視されるのであれば、規範も、法律も形骸化してしまいます。

何よりやっぱり、コミュニケーションできません。

「俺、~は・・・だと思う」
「その価値観はアリだけど、俺はそうは思わない」
「でも、~って・・・だろ?」
「おまえはそうかもしれないけど、俺は違うな」

コレはコミュニケーションとは言えません。
「交流」ではなく、「一方通行のやり合い」です。
こんな関係、こんな社会は「寂しい」ことだと思いません?(笑)

「価値の多様化」は「多様性」を認めるという柔軟性を指す意味と「他の価値を否定しない代わりに自分の価値を否定させない」(自分の価値を曲げない)という意味の相反する2面性があります。

結局、現在使われている「価値の多様化」という言葉は「他人の尊重」ではなく、自分が否定されたくない=「自分の尊重」ために使われているような気がしますが。

緑川由緒

集団に帰属する能力と人材という視点

孔明の指示待ち人間製造機の話はとてもよくわかる。
「自分の才能に自信があり、自発的に物事を考える人間ほど、事細かに指示されることが嫌いだ。自分の才能を見せつける場がほしいのに、指示を出されてしまっては、功績は優れた指示を出した人間のものになってしまうからだ。「ほら、俺の言ったとおりだったろう」と。(322792)
一方、孔明と真逆のパターンもある。
いわゆる「丸投げ」である。とにかく「やれ!」と何の具体的な指示も出さずに仕事をさせる方法論だ。おおよそ、支持者自らが何も考えていない場合が多く、とにかく部下にやらせて出来上がった資料を見て、出来ない部分をここぞと指摘するパターン。「ここはダメ、ここもダメ、こんなところも全く出来ていないじゃないか」と。凄い自分とダメな部下構図のポジショントーク。
自分は何もせずやらせておいて、成果に見下した評価をする。これも部下のヤル気をそぐ典型だ。統合的立場に居るものが、自分の成果に拘るのも、部下の成果に拘るのも、うまくいかない場合に共通するのは己の評価を軸にしているという事なのだろう。
だから部下が育たない。潰れる。頭を使わない。居なくなる。
集団能力を前提とし個の能力をどのよう高め、どのように伝達していくのか?この視点無き追求や評価は、長期的に見れば集団の適応力を失わせる。個人が歴史に名を刻むかどうかではなく、国や集団が過去の歴史になることなく存続し続けることを軸に。集団の追及・評価軸を形成することができるか。
個人主義下において形成された集団継続適応期間の短い現代の企業組織などが直面している集団課題は、この視点の位相に存在する。時間断面としての集団と時間軸としての流れの中の集団継続の対象化が急がれる。それはすなわ、集団内評価軸の内容と位相が大きく転換すること意味する。



匿名希望

2017年2月 1日 (水)

ひとそれぞれという問題

「価値観や感じ方、能力はひとそれぞれである」という傾向の意見が結構多いように感じましたので、これについて述べます。

まず、人間は共認機能観念機能を有しているがゆえに、価値観や感じ方がさまざまであり、組替え可能、つまりは「多様」であることは、客観的にそうであるというだけのことで、それは肯定否定といった次元の問題ではないと思います。
(このことは、第二部で遠山千秋さん、第三部で斎藤裕一さんが説明されてるとおりであると思います。)

私が問題がある(賛成しかねる)と思うのは、「ひとそれぞれ」であることをもって、「それでよし」、と結論付けることについてです。

問題視する理由のひとつは、ひとそれぞれでよし、またはそれぞれ違うのだから一概にそうはいえない、と結論付けたところで何も生み出したことにならないからです。つまり現実に対する答えを何も言わない、何も受け入れないで保留している態度に他ならないと考えます。
さらに上記の言い方は、常に最終結論的に用いられますが、それでは認識が全く進化しません。要するに、ひとそれぞれでよし、とすることでそれ以上考える必要がなくなり、思考が停止してしまうということです。
実現論に、現代社会、人類の真の危機は、考えようとしないこと=思考停止にある、とありますが、このような事態を指していると私は理解しています。

もう一点は、ひとそれぞれであると主張することは、あたかも社会や皆を対象としているように見えますが、結局は矮小化された「自分」しか対象としていないのではないか、という疑いを強く感じています。つまり相手の主張を否定するわけではないが、自分の自由や自分の価値観(好き嫌いなど)を手放さずに態度を保留するための切り札として用いられているように感じます。

岩井裕介

追求力を磨くためには?追求力のある人の真似をしよう!

追求力を磨くためにはどうすればいいのか。
その一手は、追求力のある人=同化対象の真似をすることだろう。つまり、どれだけ同化対象と一体になれるか。
捉えている幹、思考過程、発想、思考のスピード、発言のタイミング、反応、表情etc…。どうしてその言動なのか想いを馳せたり、分からなくても同じようにやってみたり、その場その場が勝負。
自分自身に対して、また人材育成上で、素直にどんどん真似ていくにはどうしたらいいのか?、相手の「真似したい」という潜在的or顕在的な気持ちに火をつけるにはどうしたらいいのか?、何が壁になってるのか?と考えた。
赤ちゃんを思い浮かべると、娘(1歳4か月)が行動、言葉、全て真似をするようになったことが思い出された。それは「出来るようになりたい(適応)」「一緒がいい(一体化)」という気持ちからで、私もそれに便乗して「これ一緒にやろうよ」「(私の行動すごいでしょと言わんばかりに)見て見て」と促すとどんどん真似してくれる。
出来たときも嬉しそうだが、一緒に真似し合っているときも楽しそうだ。
そんな娘を見ていて、こんな風に素直にどんどん真似したくなる気持ち、赤ちゃんだけでなく、子供でも大人でもみんなにあるし、「真似したら出来るようになれそう」「憧れの人と一緒」という充足イメージをみんなで膨らませられれば、心に火が付くし、一緒に真似する人がいれば継続もできるのではないか。
壁になっていそうなのは、特に学生は、いつの間にか真似は「真似してる(=真似してはだめ)」「恥ずかしい」と言われるという意識になってしまいがちなところ(これも歪んだ同学年教育の中で生まれた気がする)。でもこれは「そんなことにこだわらなくてもいいし、真似した方がやる気になる、うまくいく」と思う真似仲間がいれば乗り越えられそう。
追求力もみんなの中で磨かれていく。赤ちゃんの気持ちになって、みんなで素直にどんどん真似していきたい!



匿名希望

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