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2017年1月26日 (木)

「自由」と「束縛」について

私は81番で「何故、人は自由を必要としたのか」という提起を行いましたが、これについて「束縛」との関係から説明されようとしている方々が居られるようです。しかしながらこのような論理的手法は、当然の事ながら、束縛というものの存在がその根拠となり、必要不可欠なものとなります。では、束縛は何故登場するのかと言うことが次なる論理的課題として、さらには、束縛というものが実在するのか、そのような現象を何故束縛として認識するのかというようなことが検討される必要があるでしょう。

多くの方が言われる束縛というものは、以下の種類に分けられるようです。

①集団を形成する上で個人に強いる抑制というもの(いわゆる集団規範という束縛)。
②自由こそが束縛であるというもの(人々が、自由に付随する責任を全うすることを避けるために隷属を選択し束縛に甘んじるか、もしくは自由を選択することで責任という束縛を受けるという2者の選択しか、結局は与えられていないとするもの)
③「自分と異なる他者」と共存するための暗黙のルール(個人主義的社会の規範)

果たしてこれらは何故束縛として意識されるのでしょうか。

結論から言ってしまえば、これらはむしろ、「個人の自由」を正当化するために使用される事に意味があり、従って、束縛の認識は、個人的自由への欠乏によるものということになるでしょう。

上の例に見られるとおり「束縛」は、「個人の自由」からすれば必ず対立する位置に置かれます。この様な対立的概念による説明は、一見もっともらしくはありますが、結局は元々の問題に関する予定調和的トリックに陥ることとなります。この論理の本質は、「個人の自由」を自由と束縛という概念要素に分解し、それぞれが互いにその必然性を説明しあうという不可思議なものとして、実は「束縛」によって「自由」を「個人の自由」に矮小化しつつ、むしろ後者をこそ、正当化しようとするものです。

この問題は、純粋に「自由」を巡る問題に見せかけながら、これを論じる人々にして常に「個人の自由」が考慮されるよう仕組まれています(なお、蛇足ではありますが、このように「自由」を捉えようとすれば、当然の帰結として限界が生じ、そのような意味で、「自由」に対する諦観をもその意味するところとなるでしょう)。

私は前回の投稿でも触れましたとおり、共認や観念が健全に作動する限りにおいて人は自由であると思います。これは、単純に状態として認識することが可能ですが、こと、「個人の自由」と言うことになると、上記のように怪しくなるのも事実でしょう。結局、問題は「自由」ではなく、「個人」(というより個人主義的価値観やその社会)というものになるのではないでしょうか(なおこの問題は、いきなり個人という存在そのものを否定するものではありません。本質的問題は近代個人主義という「観念」であり、これにより正当化される私権社会というものです)。

斎藤裕一

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