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2017年1月28日 (土)

生産の場における自由

>個人社会においての自由はいくらでも自分で手に入れることが出来ると思うが、集団になった時にはたして自由というものが出てくるのだろうか。 もしかしたら、なくなってしまうのだろうか。 <

 自由というとどうしても、消費の場での自由がイメージされることが多いように感じます。特に学生時代はそんな自由を謳歌できます。

 では、生産の場では自由に振る舞うことは許されないのでしょうか。
 許されるとしたらそれはどんな形になるのでしょうか。

 先ず、現代の「何々する自由」とは、生産の場での主体性を奪われた個人が、代わりに消費空間では迷惑を掛けない無い限り何をしても良いという、元々が与えられた「限定」付きの自由です。だから、自由を主張するときには、周りとの関係を否定する方向に気持ちが向いていることが多いです。

 しかし、仕事で自由を求めるのなら、木橋さんが言われるように、「徹底して相手や対象に目を向けることが必要」です。
 「自由とは必然性の洞察である」とはある哲学者の言葉ですが、事実に基づいて、十分に自信のある方針を出せた時は、何の憂いも有りません。思うとおりに仕事を進められます。
 逆に、自分の考えに自信を持てないときは、自由を求めるより、可能なら助けを求めることになります。もし、そこで自由に拘れば、不必要な問題を起こす危険が高くなります。

 つまり、生産の場で自由に振る舞うには、それだけの能力が求められるのです。
 逆に、能力さえ高めていければ、何処までも自由になれます。
 そして、皆が自由に振る舞っても、全体として調和は取れていくのです。

 どうせなら、そんな自由を目指していきませんか。

玉川泰行

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