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2017年1月

2017年1月30日 (月)

宗教と異端視1

「宗教っぽい」という言葉が頻繁に見られるので、少し考えてみたい。

そもそも「宗教っぽい」という言語が指すのは明らかに「マイナス視」である。
“宗教そのもの”に関しては誰も否定はしない。例えば宗教色の強い学校もあれば、大学などにおいて宗教学やキリスト教・仏教について学ぶ場合もある。その際「宗教」について学生から批判されることは少ない。また、私たちは寺に賽銭を投げ、初詣は神社に参る。私たちの日常は驚くほどに「宗教」に囲まれている。

そこで、あえて「宗教っぽい」という時の状態を考えてみる。これらが示す内容は「うさんくさい」「信じられない」「現実的ではない」「マインドコントロールされそう」という、明らかな「警戒心」「恐怖心」を持って放たれる言語である。それは「オウム真理教」や「統一教会」「法の華」「ライフスペース」などの新興宗教の「異質な行動」がやや過剰にメディアで報道された結果であろうと推測される。

簡単に言うと、「宗教っぽい」というのは「社会的異端視」を表す言葉の最たるものであろう。

<続く> 
 



水元史樹

2017年1月28日 (土)

生産の場における自由

>個人社会においての自由はいくらでも自分で手に入れることが出来ると思うが、集団になった時にはたして自由というものが出てくるのだろうか。 もしかしたら、なくなってしまうのだろうか。 <

 自由というとどうしても、消費の場での自由がイメージされることが多いように感じます。特に学生時代はそんな自由を謳歌できます。

 では、生産の場では自由に振る舞うことは許されないのでしょうか。
 許されるとしたらそれはどんな形になるのでしょうか。

 先ず、現代の「何々する自由」とは、生産の場での主体性を奪われた個人が、代わりに消費空間では迷惑を掛けない無い限り何をしても良いという、元々が与えられた「限定」付きの自由です。だから、自由を主張するときには、周りとの関係を否定する方向に気持ちが向いていることが多いです。

 しかし、仕事で自由を求めるのなら、木橋さんが言われるように、「徹底して相手や対象に目を向けることが必要」です。
 「自由とは必然性の洞察である」とはある哲学者の言葉ですが、事実に基づいて、十分に自信のある方針を出せた時は、何の憂いも有りません。思うとおりに仕事を進められます。
 逆に、自分の考えに自信を持てないときは、自由を求めるより、可能なら助けを求めることになります。もし、そこで自由に拘れば、不必要な問題を起こす危険が高くなります。

 つまり、生産の場で自由に振る舞うには、それだけの能力が求められるのです。
 逆に、能力さえ高めていければ、何処までも自由になれます。
 そして、皆が自由に振る舞っても、全体として調和は取れていくのです。

 どうせなら、そんな自由を目指していきませんか。

玉川泰行

なぜ、キリスト教は性欲・自由意志・輪廻を全否定してしまったのか?6

[キリスト教封印の世界史 ヘレン・エラーブ著作 井沢元彦監修 杉谷浩子訳 第三章《性欲・自由意志・輪廻の全否定》紀元300~500年 民衆を思うままに操った宗教的洗脳と教義の威力]よりお送りします。
マニ教との論争では、政略のためなら平気で信念を曲げることを許容したキリスト教。この無節操な態度が世界を狂わせて行く。
また、性欲否定=下半身完全否定すると二元論に陥る。善悪の思想だ。これこそ、好き嫌いの原点であり、唯一絶対とすることの危険性を見ることができる。
---------------------------------5より
 もう一つの論争はマニ教徒をめぐるものだった。この論争によって、「教会は自分たちのイデオロギーでも民衆受けしない無益なものは平気で否定する」ことが示されたのだ。ペルシア人のマニが3世紀に興したマニ教は、唯一至高神への信仰を突きつめたものだった。唯一全能の神を信じる者は、しばしばこんな疑問に悩まされる。どうしてこの世には苦しみや悪があるのだろう?万物を創造した全能の神は、なぜ人間の苦しみをつくったのか?すると、ふつうはこんな答えに行き着く。きっと悪を生み出す対極の力が存在するのだ。それは悪魔にちがいない。こうして二元論が生まれる。神とサタン、善と惑、霊と物質がこの世で戦っていると考えるのだ。悪魔の思想は一神教に特有のものだ。多神教の場合には悪の理論を簡単に説明できるので、悪魔を考え出す必要がないからだ。キース・トマスは著書『宗教と魔術の衰退』(法政大学出版局、1993年)のなかで、一神政になる以前の初期ユダヤ教についてこう書いている。
《初期のユダヤ人たちには、悪の原理を擬人化する必要がなかった。敵対する他の神々の仕業だと考えればよかったからだ。だが、一神教が
広まると、神が善なら、どうしてこの世に悪が存在するのかを説明しなくてはならなくなった。こうして悪魔は、完全無欠な神性という考えの裏づけに一役買ったのである。》
 マニ教徒は初期のカトリック教会以上に、正統派のイデオロギーを厳しく貫いていた。物質界に霊や神が宿ることはない、と真剣に考えせいたのだ。唯一至高神への信仰はすべてに優劣をつけるヒエラルキーを生む。天と地、霊と物質にもきっぱりと境界線が引かれる。ヒエラルキーの上に行けば行くは善と見なされ、下へ行けば行くほど悪と見なされる。だから、マニ教徒は禁欲と隠遁を厳しく唱えた。女は男を肉欲に溺れさせ家庭にしぼるサタンの手下と考えられた。神に近づくには世俗の誘惑を断たなくてはならない、と彼らは信じたのだ。
 カトリック教会は、はるか後の宗教改革時代に、マニ教と同じような厳しい教えを説くことになる。だが初期の頃は、政略上、一神教に徹することができなかった。世間には土着の多神教を信じている者がまだ大勢いたので、そうした人々を教会に引き込もうと必死だったのだ。民衆の大半はこう信じていた。物質界には神の力がみなぎっている。物質には霊が宿っている。神にはさまざまな顔がある、と。物質界をサタンの領土として完全に拒絶し、絶対神以外のイメージを否定してしまうと、キリスト教を広めることができなくなってしまう。だから教会は、唯一至高神を信じなさい、神のヒエラルキーに従いなさい、と言い続ける一方で、聖母マリアのみならず天使や聖人の崇拝も許したのだ。マニ教徒の教えは完壁なまでに正統派のイデオロギーと一致していたが、政略的には無謀と言えるものだった。マニ教徒や似たような思想の持ち主は、その後何世紀にもわたって異端者の烙印を押され続けたのである。
 初期の異端との対立によって生まれた教義は、個人と社会を操る教会の立場を正当化するものだった。ペラギウス論争では、アウグスティヌスの意見が取り入れられた。つまり、人間は生まれながらに邪悪であり、善を選ぶ能力がないから、絶対的な権威にすがらなくてはならない、という考えだ。人間の性欲は原罪の証しと見なされた。さらに教会は、オリゲネスの輪廻説を非難し、キリストの肉体が復活したのは奇蹟だ、人間の人生は一度しかなく、教会に従って生きるか地獄に落ちるのを覚悟で生きるかのどちらかだ、という考えを支持した。ドナトゥス派との争いでは、力で服従させるという先例をつくった。そして、マニ教徒に対しては、政略のためなら平気で信念を曲げることを示したのである。
---------------------------------終了


五芒星

なぜ、キリスト教は性欲・自由意志・輪廻を全否定してしまったのか?5

[キリスト教封印の世界史 ヘレン・エラーブ著作 井沢元彦監修 杉谷浩子訳 第三章《性欲・自由意志・輪廻の全否定》紀元300~500年 民衆を思うままに操った宗教的洗脳と教義の威力]よりお送りします。
どうにもならない異端には、力で強制し始める。弾圧・排除だ。純化といわれる行為だが、もし、キリスト教が、苦痛にあえぐ民衆の救済者ならば、あってはならない行為であるはず。キリスト教とはそういう欲と私情・自我に塗れた観念なのだ。
---------------------------------4より
 教会がドナトゥス派にとった行動は、暴力による異端弾圧の先例となった。厳格なドナトウス派は、カトリックが定めた聖職者の基準は甘すぎると訴えた。彼らの教えはあっと言う間に広がり、4世紀半ばのアフリカではカトリックの信者数を上回っていた。アウグスティヌスは、信仰を強制してはならぬという長年の主張とは裏腹に、ドナトゥス派をカトリック教会に取り込もうと説得に走った。だが、説得が失敗に終わると、今度は強攻策に訴えた。近ごろ制定されたテオドシウス法典には異端禁止の項目があるではないか、と力説したのだ。教会は彼の口車に乗り、ドナトゥス派を情け容赦なく弾圧した。
 アウグスティヌスはドナトゥス派を攻撃するため、「入門の強制」の教義を打ち出した。教会は中世の問、暴力による異端弾圧を繰り返すのだが、その際この教義が弁明の道具に使われることになる。アウグスティヌスはこう訴えている。
《敵に接吻されるよりも、友に侮辱される方がいい。優しさをもって騙すよりも、厳しさをもって愛する方がいい……。ルカ伝、14章、23節にもこう書いてあるではないか。「無理にでも人々を連れてきなさい!」と。父なる神は、天罰への恐れによって、人々を御子に引き寄せたのだ。》
 20世紀初めになっても、教皇レオ13世は、目的は手段を正当化すると説いた。
《死刑はこんなとき、教会の目的達成に欠かせない効果的な手段と言える。たとえば、教会に反逆する者がいたとき、教会統一の目的を邪魔する者、特に強情な異端者や異教の指導者が、教会の秩序を乱し、人々をあらゆる犯罪に導くことを他の刑罰で防げないとき・・・・・・。単数もしくは複数の悪人が多くの信者を破減に導くおそれがあるときは、その悪人を排除しなければならない。そのような場合、信者を救う道がほかになければ、教会が悪人を処刑しても許されるし、また、そうする義務がある。》
---------------------------------6に続く



五芒星

なぜ、キリスト教は性欲・自由意志・輪廻を全否定してしまったのか?4

[キリスト教封印の世界史 ヘレン・エラーブ著作 井沢元彦監修 杉谷浩子訳 第三章《性欲・自由意志・輪廻の全否定》紀元300~500年 民衆を思うままに操った宗教的洗脳と教義の威力]よりお送りします。
輪廻説を非難し、キリストの肉体が復活したのは奇蹟だと自己正当化した。そして、教会か地獄かを民衆に迫り、押し付け、支配した。 
---------------------------------3より
 教会はオリゲネスが巻き起こした輪廻論争に決着をつけるため、自分たちの立場を明らかにした。神学者オリゲネスの意見はこうだった。人間の魂は肉体に宿る前から存在する。魂は肉体から肉体へと伝わり、最後は再び神と一つになって形を失う。どんな魂も必ず神のもとへ戻る。キリストはあっと言う問に神と一つになったが、それは個人の努力があったからだ。人間は自分の雲で神の国から地上へ降りた。だから、神のもとへ帰るときも自分の意志で決められるはずだ。オリゲネスのこうした主張に、正統派は、個人の意志の力を買いかぶりすぎだと反論した。
 正統派には、こんな思惑もあった。輪廻説はイエス・=キリストの存在価値を下げ、現世で救われたいという願いを薄れさせるものだ。キリストの復活も特異なことではなくなってしまう。人間は自決力と自由意志によって救済を得るとオリグネスは言うが、イエス・キリストを崇めてこそ救われるというものだ。それに、人間は人生を何度も繰り返し、神のもとへ帰る時期を自分で選べるというなら、地獄に落ちることを恐れなくなる。恐れは欠かせないものなのに。霊魂と肉体が分離可能だというなら、キリストの復活も奇蹟とは言えなくなる。。人々はキリストの復活を奇蹟と考え、《肉体》の死を乗り越えられるかもしれないと希望をもった。だが、どんな魂も人の身体から身体へと移る度に死を乗り越えているのであれば、イエスの偉業は平凡なものと化してしまう。
 教会は学問と精神の研究を制限していたが、オリゲネスはそれにも反発した。彼は足りない知識を補おうと聖書をむさぼり読んだ。だが、聖書でも言い尽くせない分野があることに気づいた。ギリシア教育を受けていた彼は、プラトン哲学と自分の想像力のなかに聖書にない答えを探し続けた。
アウグスティヌスも聖書にない答えを求めたー人だった。アウグスティヌスはこう問いかけている。
《・・・・・ああ、神よ、我が喜びよ、生を授かる前、私はどこかに存在し、何者かであったのでしょうか?誰も数えてくれません。父も母も、他人の経験も、私の記憶も、それについては教えてくれないのです。)
オリゲネスは研究を続けたが、アウグスティヌスは聖書にない答えを探すのをやめてしまった。
アウグスティヌスはこう書いている。
《霊魂の起源という未知のことを知りたいと思うし、この世界に生きている限り、そんなことを知っても無駄なのかどうかを確かめたいとも思う。だが、こうした気持ちは伝道者のこんな言葉に当てはまるのではないか。「あなたの分にふさわしくないものを求めてはいけない。あなたの力を超えたことをしようとしてはならない。神がお命じになったことをいつも心に止め、神のさまざまな業の意味を追い求めてはならない」》(伝道の書/コへレトの言葉・3・22、訳注=上記は聖書をそのまま引用したものではない)
 アウグスティヌスはさんざん悩んだあげく、こんな考えをひねり出した。神は天地創造以静に何をなさっていたのかと言えば、天地創造以前に何が存在したのかと問いかける不届き者のための地獄をせっせとつくっておられたのだ、と。
 オリゲネスは254年に死去したが、彼の説をめぐる論争は553年まで続いた。その年に開かれた第二回コンスタンティノープル公会議で、オリグネスは正式に破門された。教会はオリゲネスを断罪することで、輪廻説を遠回しに否定したのだ。魂は肉体に宿る前から存在する。実体のない意識は存在する。人間は何度も人生を繰り返して神のもとへ戻り、地獄に落ちることはない------キリスト教徒は、こうした説を信じてはならない、というわけである。また、オリゲネスの破門にはもう一つの意味があった。たとえ熱心な教徒であろうと、聖書にない思想をもってはならない、と再確認したのだ。
---------------------------------5に続く



五芒星

2017年1月27日 (金)

なぜ、キリスト教は性欲・自由意志・輪廻を全否定してしまったのか?3

[キリスト教封印の世界史 ヘレン・エラーブ著作 井沢元彦監修 杉谷浩子訳 第三章《性欲・自由意志・輪廻の全否定》紀元300~500年 民衆を思うままに操った宗教的洗脳と教義の威力]よりお送りします。
---------------------------2より
 アウグスティヌスは性欲についてこう述べている。「この悪魔のような性器の興奮」はアダムの原罪の証しだ。それは「母親の子宮から」受け継がれ、人類を罪で汚し、悪を制して善を選んだり、運命を切り開いたりする力を人間から奪っているのだ、と。
 アウグスティヌスのセックスのとらえ方は、キリスト教以前のそれとは正反対のものだった。かってはセックスを人生に欠かせない神聖なものと考える人が多かったのだ。だが、アウグスティヌスの意見は、キリスト教徒の代表意見でもあった。グノーシス主義のカルポクラテス派のように、セックスを「万物を結びつけるもの」として重んじる少数派の異端もいたことはいたが、子供をつくるとき以外はセックスを避けるべきだというのが圧倒的な意見だった。教父の聖ヒエロニムスはこう訴えている。「性の快楽の種を宿すものはすべて毒と見なせ」。エレーヌ・ペイグルスは著書『デダムとエバと蛇』(ヨルダン社、1993年)のなかでこう書いている。
《(アレキサンドリアの)クレメンスは次のことを禁止している。口や肛門による性交。月経時、妊娠中、不妊、閉握後の妻との性交。さらには、「午前中」「昼間」「夕食後」の性交。クレメンスはこんな警告も発している。「暗いからといって、夜でも慎みなく淫らに行うべきではなく、品位をもって行うことがふさわしい。どんなことがあっても、理性の光のなかで行わなくてはならない・・・・」。なぜなら、「夫婦間の性交であっても、子供をつくるとき以外はやはり危険だからだ」》
 好き勝手なセックスを許せば個人に権限を与えることになり、社会を操ろうとする宗教を脅かすことになる、というわけだ。クレメンスはこう述べている。「欲情は、恐れがなくては、やすやすと抑えられるものではない・・・・・・」
 人間の自由意志を否定し、性の快楽を非難することは、人々を操る近道でもあった。アウグスティヌスはこう書いている。
《人間は、服従すればうまく事が運び、創造主の意志ではなく自分の意志に従えば苦痛を味わうように生まれついている……。》
 アダムが犯した 「原罪は神の権威を侮辱するものだった……。それにふさわしい罰が与えられたのだ・・・・・・」とアウグスティヌスは考えた。416年、彼は教皇宛てに手紙を書いた。ペラギウスの考えは司教の権威を根底から否定するものです、ペラギウス派は勢いめざましいカトリック教会を脅かすことになるでしょう、と警告したのだ。アウグスティヌスの友人でアフリカの司教でもあるアリピウスは、ヌミディア塵の種馬80頭を賄賂として皇帝に贈った。アウグスティヌスの味方になってくれるよう教会を説得してほしいというのだ。勝負に勝ったのはアウグスティヌスだった。
418年4月、教皇はペラギウスを破門した。以来、カトリック教会は、原罪が子孫の人類に伝わっていることを、正式に教義として謳っている。
---------------------------------4に続く


五芒星

なぜ、キリスト教は性欲・自由意志・輪廻を全否定してしまったのか?2

[キリスト教封印の世界史 ヘレン・エラーブ著作 井沢元彦監修 杉谷浩子訳 第三章《性欲・自由意志・輪廻の全否定》紀元300~500年 民衆を思うままに操った宗教的洗脳と教義の威力]よりお送りします。
---------------------------1より
 ペラギウス論争は、人間の自由意志と性に関する教義確立のきっかけとなった。ペラギウスは、5世紀初めにローマへ移住したアイルランドの修道士だ。彼はこう考えた。人間には意志の自由があり、自分の行動に責任がある。救われるかどうかはその人の努力次第。キリストの贖罪をたよってばかりいないで、それぞれが責任感をもち、尊い行いをするよう努力しなくてはだめだ。創造主は、人間が自分の行動に責任をもつことを許した。それは自由を与えたのと同じことなのだ、と。
ある歴史家はこう書いている。
〈人間にはこの上なく尊い自由が与えられている、とペラギウスは論じた。その自由を放棄することは人間の尊厳を失うことだ・・・・・・。人間に決断の自由が認められていないのなら、操り人形にすぎないではないか。創造主は人間に善感を判断する権威を与えた。その権威をおとしめることは、神が自分の像に似せて人間を創造したことに疑問を抱くのと同じだ、とペラギウスは言う。)
 ペラギウスの最大の論敵は、名高い教父でヒッポの司教でもある聖アウグスティヌスだった。彼はこう考えた。救済は完全に神の手中にある。個人の力ではどうにもならない。神は一握りの人々にしか至福と救済を約束していない。キリストが降誕したのは、そうした人々のためだ。その他の者は地獄に落ちる。神の恵みだけが救いをもたらすのであって、個人の行動や意志とは関係ない、と。
 アウグスティヌスは、こんなふうにも考えていた。悪を制して善を選ぶという人間の自由意志は、アダムが罪を犯したことで奪われてしまった。アダムの原罪は「子孫を増やすもととなる種子の性質」を帯び、この世に苦しみと死をもたらし、人間の自由意志を奪い
、人間に悪の本性を植えつけたのだ。人間は罪を犯すように生まれついている。たまに尊いことをもたとしても、それは神の計らいに従っただけだ。「だから、人間が人間に従って生き、神に従って生きないならば、悪魔に似た者となる」。人間の運命はあらかじめ決まっている。個人の力でそれを変えることはできない。救済は完全に神の手にゆだねられているのだ、と。
 人間の性欲こそ、悪を制して善を選べないことの良い例ではないか、とアウグスティヌスは言う。この考えは彼自身の経験に基づいていた。若い頃に放蕩生活を送り、愛人と子供を捨てたことのある彼は、性欲こそ生まれながらに備わった悪だと痛感した。彼は性欲についてこう嘆いている。
《わき起こる欲望を誰が抑えられるというのか? 誰にもできはしない!その欲望が起きたら最後、意志の決定に従う「術」はない・・・・・・。何を願ってもうまくいかない・・・・・。その欲望が起きたら最後、意志の決定に従う術はないのだ。》
 性欲を起こすことも、それを抑えることも、人間の意思ではどうにもならない、とアウグスティヌスは言う。
《とはいえ、この快楽を求める者でさえ、夫婦の営みのときでも、不正な恥ずべき行為のときでも、意のままに自分を動かすことはできない。求めていないときに欲情が吹き出すこともあれば、求めているときにがっかりさせられることもある。心は燃えているのに身体が言うことを聞かないのだ。このようにして欲情は奇妙にも、子を得ようとする者だけでなく、勝手気ままに欲する者さえ裏切ることになる。欲情は、抑えようとする心に逆らう場合が多いが、ときには自ら葛藤して分裂し、心を燃やしても身体を燃やさないことがある。》
---------------------------3に続く



五芒星

なぜ、キリスト教は性欲・自由意志・輪廻を全否定してしまったのか?1

[キリスト教封印の世界史 ヘレン・エラーブ著作 井沢元彦監修 杉谷浩子訳 第三章《性欲・自由意志・輪廻の全否定》紀元300~500年 民衆を思うままに操った宗教的洗脳と教義の威力]よりお送りします。
なぜ、キリスト教は性欲・自由意志・輪廻を全否定してしまったのか?
それは、一人の男の放蕩な性の否定から始まった。その後、教会や個人の権力と欲望が相まって、
『人間の自由意志を否定し、性の快楽を非難することは、人々を操る近道でもあった。』という教義を生み出してゆく。
なるほど、この禁欲=タブーが人々を思考停止に落としいれ、考えない民衆を作ってきたのだ。
そして
①初期の異端との対立によって生まれた教義は、個人と社会を操る教会の立場を正当化し
②正統派論争では、性悪説が支持され、善を選ぶ能力がないから、絶対的な権威にすがらることでしか性欲の原罪から逃れられないとし
③教会が輪廻説を非難し、キリスト復活は奇蹟とし、教会に従って生きるか地獄に落ちるのを民衆に選択さえ
④従わない場合は、力で服従させ
⑤政略のためなら平気で信念を曲げる
このような無節操な態度をとり続けた結果、架空・倒錯観念を強めていく。
キリスト教とはいったいなにか?下半身の性欲と上半身の断絶をいかにも繋がっているように見せる架空観念以外のなにものでもないではないか?現実の世界にはくそにもならん教義をこねくり回すとこうなる。
---------------------------転載
 キリスト協会は、初期の異端が巻き起こした性・自由意志・輪廻の論争に決着をつけるため、各問題について教義を定めた。教会が選んだイデオロギーは、個人と社会を操るのに都合の良いものばかりだった。また、人々を服従させようとして、力でねじ伏せても許されるような教義も定めた。やがて教会は暴力による異端弾圧を繰り返すことになるのだが、その際、弁明の道具に使われるのがこの教義なのである。
「異端」(Heresy)の語源はギリシア語の(hairesis)で、「選択」という意味だ。初期の頃は、同じキリスト教でもさまざまな選択肢があった。つまり、いろいろな異端が存在していたのだ。グノーシス主義、マルキオン主義、モンタノス主義、アリウス主義、サベリウス主義、ネストリウス派、キリスト単性論者、エジプトのコプト派、シリアのヤコブ派、アルメニア教会。こうした異端がカトリック教会と対立していた。また、ペラギウスやオリゲネス、ドナトウス派との対立は、特に重要な新教義を生み出すきっかけとなった。さらに、マニ教徒との対立は、教義には発展しなかったものの、「教会は自分たちのイデオロギーでも民衆受けしないものは平気で否定する」という先例をつくった。
---------------------------2に続く



五芒星

2017年1月26日 (木)

「自由」と「束縛」について

私は81番で「何故、人は自由を必要としたのか」という提起を行いましたが、これについて「束縛」との関係から説明されようとしている方々が居られるようです。しかしながらこのような論理的手法は、当然の事ながら、束縛というものの存在がその根拠となり、必要不可欠なものとなります。では、束縛は何故登場するのかと言うことが次なる論理的課題として、さらには、束縛というものが実在するのか、そのような現象を何故束縛として認識するのかというようなことが検討される必要があるでしょう。

多くの方が言われる束縛というものは、以下の種類に分けられるようです。

①集団を形成する上で個人に強いる抑制というもの(いわゆる集団規範という束縛)。
②自由こそが束縛であるというもの(人々が、自由に付随する責任を全うすることを避けるために隷属を選択し束縛に甘んじるか、もしくは自由を選択することで責任という束縛を受けるという2者の選択しか、結局は与えられていないとするもの)
③「自分と異なる他者」と共存するための暗黙のルール(個人主義的社会の規範)

果たしてこれらは何故束縛として意識されるのでしょうか。

結論から言ってしまえば、これらはむしろ、「個人の自由」を正当化するために使用される事に意味があり、従って、束縛の認識は、個人的自由への欠乏によるものということになるでしょう。

上の例に見られるとおり「束縛」は、「個人の自由」からすれば必ず対立する位置に置かれます。この様な対立的概念による説明は、一見もっともらしくはありますが、結局は元々の問題に関する予定調和的トリックに陥ることとなります。この論理の本質は、「個人の自由」を自由と束縛という概念要素に分解し、それぞれが互いにその必然性を説明しあうという不可思議なものとして、実は「束縛」によって「自由」を「個人の自由」に矮小化しつつ、むしろ後者をこそ、正当化しようとするものです。

この問題は、純粋に「自由」を巡る問題に見せかけながら、これを論じる人々にして常に「個人の自由」が考慮されるよう仕組まれています(なお、蛇足ではありますが、このように「自由」を捉えようとすれば、当然の帰結として限界が生じ、そのような意味で、「自由」に対する諦観をもその意味するところとなるでしょう)。

私は前回の投稿でも触れましたとおり、共認や観念が健全に作動する限りにおいて人は自由であると思います。これは、単純に状態として認識することが可能ですが、こと、「個人の自由」と言うことになると、上記のように怪しくなるのも事実でしょう。結局、問題は「自由」ではなく、「個人」(というより個人主義的価値観やその社会)というものになるのではないでしょうか(なおこの問題は、いきなり個人という存在そのものを否定するものではありません。本質的問題は近代個人主義という「観念」であり、これにより正当化される私権社会というものです)。

斎藤裕一

2017年1月25日 (水)

常識という洗脳からの脱却

広い視野で 物事を客観的に観察することが、いかに重要かを投げかける内容です。
既存社会の常識という枠が、本当に正しいかどうかは、自らが自考し、
何が相手の思いや、自分の目指したい方向性として最適解かを可能性発で捉えなければ何も実現しない。
既存の枠(常識)ありきで、思考を閉塞させるのは、可能性の枠を狭めるだけでもったいない。
以下、birdsoulのブログ リンク より引用。
 
客観的に見るためには
自分の所属する【枠】から出てみるといいと思う
例えば 自分の家庭の洗脳から脱却するには
家庭を出て 他の家庭を見てみると気づく
国の洗脳から脱却するには
国を出て 他の国を見てみると気づく
 
他にも 学校や会社
クラブやサークルなど色々あるけど
一番大きな枠が 【人間社会】だと思う
人間社会の洗脳から脱却するには
人間の世界から出てみると 気づく
見てみれば 人間社会の変なところは
いくらでも出てくるよな~
 
例えば・・・
 
●義務教育
 義務教育ってなに?
 何故学校に通うことが義務なん?
 教育レベルを揃える・・・とか?
 そんなのは社会を作りたい人達のエゴにすぎない
 行きたい人は行けばいいし 行きたくない人は行かなくていい
 
 【義務】とした時点で 各人の自由意志を奪う (霊的には)罪な行為
 重要なのは【何を学ばせるか?】ではなく【何を学びたいか?】やろ
 
●土地
 何故かこの世界には 土地の区画なるものがあって
 ご親切にも「誰々の土地」と名義が付いてるけどさ
 そもそも 【土地=大地=地球】 なわけで
 地球の一部を 勝手に【誰かの土地】として
 この【所有する】って概念がおかしいよね
 この地球 誰のものでもないやん 
 
●お金
 価値を数値化して ある意味便利よね
 
 けどさ 利子と信用創造で 巧妙な椅子取りゲーム創って
 この欠陥システムの歪で バブルとクラッシュを繰り返す・・・
 こんなのただの数字あそびやに
 みんなが大きく影響を受けて お金に振り回されるのは
 みんながお金を信じて使うからやに
 【金持ちから税金取れ】って方法論あるけど
 そもそもみんながお金を使うの止めれば、お金には何の価値もなくなり お金持ちさんの力は弱まるよ
 通貨社会を広げたい人達の意図を読み取らんとねぇ~
●国家
 そもそも国ってなんで必要なん?
 土地や人種に区別って必要?
 分離するから対立するんやろ?
 この意識自体が問題やに
 国って概念なくなるまで まだ何千年もかかるんかな
●結婚
 なんで結婚ってするん?
 紙切れ一枚で 人と人が結ばれるとでも?
 本当は そうやって相手を縛りたいだけちゃうの?
 
 法律に守られたいだけちゃうの?
 世間から外れたくないだけちゃうの?
 
 結婚したから【俺の妻】【私の夫】 って、所有物?
 結婚したから【不倫は違法】って、愛の強要?
 
   強要した時点で愛とちゃうに
 こんな表面的な形にエネルギー使うの ムダじゃない?
 中身がなきゃ 結婚したってしなくたって 幸せにはなれへんよ
 結婚しなくたって子供だって産めるし 意味ないよね
 
●宗教
 宗教に洗脳されてるから 宗教間の対立起きるんやに、
 聖書には確かに真理もあるけど 巧妙に嘘も書かれとるに
 
 それ 鵜呑みにしたら 宗教創った人の 思うツボ
 嘘じゃない部分も 高次のメッセージの人間語への翻訳に誤りが
 あったりするわけで いずれにしても鵜呑みは危険やにあのね 
 宗教の指し示す神など拝んでもしょうがないの 自分の中に自分の
 信じる神がおるの神を信じやん人の中にはおらへん
 それがあなたにとっての真実やに自分を確立できやんから 外のもの(宗教)に依存するわけやに
 
●ルール
 家庭のルール 学校には校則 会社には社則 国には法律
 
 世間の常識と呼ばれる暗黙の了解
 とにかくたくさんのルールがあるけど 本来全て不要なもの
 人の自由を奪い 縛り付け 不幸を生み出すもの秩序を守るために必要だと言うかもしれやんけどそれは地球人のレベルが低いから エゴのないとこまで成長できれば ルールは自ずと不要となる


匿名希望 京

2017年1月24日 (火)

個人を捨てる。もう一つの視点。

私たちは、
 「自分のことは自分でしなければならない。」
 「自分の身は自分で守らなければならない。」
 「人に迷惑を掛けてはいけない。」
 「自立しなければならない。」
 「自分の行為には責任を取らなければいけない。」

という様々な規範に縛られて生きています。

 まず、このあたりの規範を解体していかないと、個人を捨てるのは無理ではないでしょうか。

 誰しも、自分が大事に思っている人(好きな人や尊敬する人、信頼している人)が、困っていれば、少しでも役に立ちたいと思いますよね。
 そして、相談されたり、頼み事をされれば出来る限りのことをしたいと、少々の無理は厭わないものです。
 そんなときは、相手の感謝や笑顔以上の報酬はありません。

 でも、自分が困ったとき、人に頼むのは結構、勇気がいるものです。
それが大変なことで有れば有るほど、なかなか言い出しにくいです。

 「相談されたり、頼み事をされれば、嬉しい、役に立ちたい。」という気持ちと
 「自分のことは自分でする」「人に迷惑を掛けてはいけない」という規範意識、
 矛盾していると思いませんか。

 個人を捨てるというのは、この古い規範を捨て、新しい規範を作っていくことだと思います。
 それは、「周りの人たちに期待し、周りの人たちの期待に応える。」ことを中心に据えて、形成されていくものだと考えています。



玉川泰行

2017年1月22日 (日)

闘争と生殖の包摂①

(闘争と生殖が分断された空間での子育ての問題性までは共認されたとして一旦話を進めます。)

それを妨げている要因

○家庭を絶対不可侵な領域として守ろうとする意識
→夫々自分が王様で居られる家庭をつくり、好き勝手にやりたい。
 他人が家庭の問題に干渉するのも口を出すのもイヤ。
 ましてや非難されるなんてとんでもない。

○家庭から圧力を排除しようとする意識
→人の目はしんどい、人の期待はわずらわしい。
 課題だなんてもっての他。
 成果を求められ客観的に評価されるなんて耐えられない。

○家庭内に囲い込んでおこうとする意識
→家も時間も夫も、自分のものなんだもの。
 もらえるものはもらうけど、それを分け与えるなんてイヤだわ。
 助けも愛も、いつも自分を最優先してくれるのが当然。

○自分が豊かになればいいという意識
→自分たちの財を増やさなきゃ。便利な方がいいし。
 その為には市場社会ももっと効率化して拡大してくれないと困る。
 自営業よりは会社に出稼ぎに行ってくれたほうがいいわ。

原因が分かっていながら何故解決に向かわないのか?
「答えが無いのではなく、答えがあるにも関わらず己の都合を優先する」
だからこそ通常の危機状況ではなく、末期現象=滅亡なのではないかと思います。
自己のみを対象(何よりも優先)とし危機を捨象して可能性に収束しなくなったらお終いです。

いくら問題意識を強調し理想や規範を強めようとも、そこの意識に踏み込まない限り、変わらない(変われない)のです。
「親が孤立して子育てしているのがいけない」「公の場での規範教育が必要」と叫ぶ一方で、「プライベートに干渉しないで」「規範を押し付けないで(好きにやらせて)」というエゴを、「個人」「自由」「恋愛」etcで美化して頑なに守っているのですから。

エゴや自己正当化を許容したままの問題解決はできません。それは、今までどれだけその範疇で突破口を探ろうとしても、一向に良い方向に向かわなかった事実からも分かる筈です。
だからこそ、どんなに価値対立が起ころうとも、実現論ではその部分は外せない主要論点なのです。(もちろん、表現・方法etcは今後も改良を重ねてゆく必要があります)

西知子
 

2017年1月20日 (金)

“自由”とは、

自由な時間、自由な思考、自由な発言、自由な雰囲気、…
 自由恋愛、自由な関係、自由な意志、…
 結社の自由、信仰の自由、思想の自由、発言の自由、…

 など、“自由”というのは「束縛からの開放」「束縛を解く力」とか言う意味で使われているのではないだろうか。その背景にあるのは、“束縛(=支配被支配の関係)”されているという意識であり、それを産み出している社会の存在である。

 うちの実家は農業である。都会で働く叔父さんが盆休みなどに里帰りして、「百姓は、毎日働いて休みが無く大変じゃねー。」と良く言っていたのを思い出す。叔父さんは、サラリーマンで9時5時勤務だったんだろう。今は、土日休みなのだろうか。うちの家はというと、雨が降ったら休みになるが農繁期は休みなしだ。しかし日曜日じゃないのに休める。曜日が気にならない。気になるのは、天気だけだ。

 しかし、よくよく考えてみたら、サラリーマンなんて時間拘束の奴隷のようなもんである。与えられた仕事をこなすだけで、左遷されないように上司のご機嫌取りに疲れ果て、帰りにちょっと一杯やらなきゃやってられなかったのだろう。叔父さんは糖尿病になった。昔の奴隷と違うのは、拘束時間が短くなり、労働内容が改善されただけじゃないのか。“時短”がことさら叫ばれるのは、“奴隷”としての拘束時間の短縮を求める悲痛な叫び声のように聞こえる。「自由な時間」を主張するのは、奴隷として束縛から開放される“自分の自由な時間”を確保したいが為であろう。自然、自然と叫び山や川に向かうのは、ささやかな本能への回帰なのだろう。うちの親から活動時間のことなど聞いたことがない。そもそも時計を持っていなかった。

 自由、自由、と叫ぶ者ほど、きっと“真の自由”を知らない者なのであろう。私のうちは貧しかったが、うちの親の方がよっぽど“自由”であったように思う。私は、仕事をする場所として、そして生きていく場所として、“真の自由”な空間に身をおきたい。

木橋哲夫

2017年1月18日 (水)

就職活動は「社会規範への改宗」、エリートが社会を作るから世の中は息苦しい!

東大卒でインドで経営を学びMBA取得し、インターネットで仏教界のいまを発信したり、「未来の住職塾」で若い僧侶にお寺の経営を教える、仏教界の起業家とも言われるお坊さん・松本紹圭さん。

仏教はシンプルに「enjoy life」と言い、就職活動は「社会規範への改宗」と言う。
自らも東大へ行っての失望や、本来の共認充足から遠い、社会規範の価値観の人が社会を作っていくポジションに立つから、こんな息苦しい世の中になるんだと言って憚らない。

リンクより引用します。

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◆真面目な学生ではなかったけれど

祖父が住職で、死を身近に感じる機会が多かったという松本さん。死への不安を解決したいという思いで、幼い時から仏教書や哲学書を読んでいたそうです。
その一方、小学3年生の頃にはすでにプログラミングを始め、C言語で遊んでいたといいます。機械を作る会社の経営者だった父の影響だったそう。一番得意な科目は数学。考え方もかなり理系的だと自覚されていたとか。

— とんでもない小学生ですね。なぜ理系に進学しなかったのでしょう?

数学も好きでしたが、真理そのものに関心がありました。数学への興味も、真理のひとつの表現形式として適しているのでは、というものでしたが、思考のフレーム自体を扱う哲学こそ根本だと考えるに至りました。

— 北海道の田舎出身で、もっと大きな世界を見てみたいと上京、東京大学に進学したそうですね。やっぱり勉強に打ち込んだ大学生活だったんでしょうか?

ごめんなさい。いざ大学に行ってみると、全然真面目な学生にはなりませんでした。当時はもちろん僧侶になるという考えも全然ありませんでしたし、飲んでばっかりで、夕飯はたいていヤキトリ屋とか(笑)

自分で哲学書を読むのは好きでしたが、哲学科の授業の古典講読にはぜんぜん興味が持てなくて。大事な勉強だとは思うんですけど。卒業できる程度にしか授業は受けてなかったですね。

— そ、それはめちゃくちゃ意外ですね。バイトやサークルなどはやっていたんですか。

プログラミングができたこともあって、ウェブデザインをフリーランスでやったり、あと仲間と音楽サークルを作ったりしましたね。

— (なんかすごく学生生活謳歌してる感じだ・・・!)

何者にもなりたくなかった

–卒業後の進路はいつ頃決まったんですか。

就職するなら広告業界が向いているんじゃないかと、漠然と考えていました。
それで、その業界の先輩に話を聞いたりしましたね。今考えてみれば、広告業界というのは大勢に向けてメッセージを伝える、ある意味布教的な側面を持つ業界なので、宗教と通じるものはあります。

ただ、就職することを具体的に想像すると、将来きっと自分はこんな感じになるな、というのが見えてしまって。私は、先が見えない方が良かったんですね。何者にもなりたくなかったんです。

— なぜ何者にもなりたくなかったんでしょう?

本来何者でもないからじゃないでしょうか。そう思いませんか。

— (取材班全員、目が点になる)

みんな色々なラベルで自己規定をしているでしょ。それがアイデンティティとか言われたりする訳ですけど、そんなのどうでもよくて、重荷に過ぎなくて。

東大に入るまでは、東大まで行けば選択肢が広がるはずだと思っていた。でも入ってみると、みんなすっごい縛られていて。選択肢が広いようで狭いというか。「東大に入ったのだから〜にならなければならない」、みたいな。
人生楽しんだら良いと思うんですよ

就職活動は、すごく社会規範に改宗するような感じがあって。今思うとプライドが高かったのかもしれません。

意識高い系とかいうんですか? 就職活動で、自分を高値で売ると。僕は値段をつけられること自体に耐えられなかった。だから給料が高いとか、低いとかそういうこと自体に身を投じることが嫌で。

その点お寺はいいんですね。そういうモノサシの関係ない世界に自分は入るんだ、という少なくともそういう気持ちにはなれたし。

まあ最初は給料なんてなんでもいいんで、とにかく自分を置いてくださいって言うところから始まったんですけど。光明寺に。

◆ニンジンをぶら下げて頑張り続ける東大生たち

— 東大生は縛られている人が多いと・・・。

あのね、東大に入るような人が受けている教育が影響してるなと思うんです。

果実を常に未来に先送りする。目の前にニンジンをぶら下げて頑張らせる方式というか。人参ぶら下げて頑張って走って、手に入れたら褒められて、また次の人参が出てくるという。

それをずっと繰り返して、受験勉強に勝ってきて、やっと入るという人がすごく多い。それをまた先の人生でもやろうとしているワケですよね。常に「何者かにならなければいけない」という強迫観念を背負って前へ前へ、と。それはけっこう苦しいこと。・・・そうこうしているうちに死ぬんですよ。

早く、みんなもっと、自由になったら良いのに、というのがメッセージですね。

— 自分自身の生き方を鑑みても友人を見ていても、正直、ニンジンをぶら下げられた馬という例えはしっくりきます・・・。ただ、そもそもどうやってlifeそのものをenjoyするのか、分からないんじゃないかなって。

考えすぎなんですよ。頭で。私も人のことは言えませんが(笑)
もっと感じることとか大事にしたほうが良い。考える癖がついちゃっている。

いつもどこか欠乏感を感じながら、ここではないどこかを目指し、将来「何者かにならなければいけない」という焦りと不安を抱えている東大生は、少なくないんじゃないでしょうか。私もそうでした。

でも、実はそういうストーリーは自分の頭の中にあるフィクションに過ぎない。本来、人は何者でもなくて、「私」という実体はどこにもありません。

本来のenjoy lifeから遠い、そういう価値観の人が社会を作っていくポジションに立つから、こんな息苦しい世の中になっちゃうのかもしれません。

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2017年1月16日 (月)

科学とエンジニアリング

科学とエンジニアリングについて、深く共感できる論考があったので、抜粋(一部要約)して紹介します。
これは、事実追求なき科学への警告であり、また現在の市場原理の枠組みから逃れられないエンジニアリング(技術者)への警告である。(と私は捉えた)
(ホーキング氏の人工知能論の誤謬!「知的人工生命の学習進化」の著者Dr佐野千遥リンクより)

===           
科学とエンジニアリングの違いは、アイザーク・ニュートン自身が、科学者とは自分の依って立つ理論が正しいか否かを検証する姿勢を持った者であり、エンジニアとは理論が正しいか否かは不問に附して置いて性能を上げる事、コストを下げる事に専念する者であると定義している点に存する。

従って、依って立つ科学自体が誤っている時にはエンジニアリングは決定的に重大な根本的な限界や誤謬を帯びる事に成る。

我々スミルノフ学派は生命体の体内は負の誘電率・負の透磁率である事を論証し実証した。
負の誘電率・負の透磁率では屈折率が負に成り、反射率が1より大きくなる。この事は入射するエネルギーより外に出るエネルギーの方が恒常的に大きい事を意味する。
この発生する余剰エネルギーを使って人間は行動に自由度が有り、「人間機械論」が誤りである事が厳密科学的に論証される。

===
フリーエネルギーに関わっている装置作成者やフリーエネルギー論者の殆ど全員も、残念ながら実はエンジニアリング至上主義・近代化主義を抜け出しておらず信奉している。だから問題の根は非常に深いのである。

===
世の人達が近代化主義・エンジニアリング至上主義を信奉している限り、フリーエネルギーの未来社会は実は徹底した悪夢と成る。

===
“年数さえ掛ければ、エンジニアリングはあらゆる‘夢’を実現してくれるだろう、その未来社会はユートピア社会で有ろう。”と圧倒的多数の人達は信じている。そしてあらゆる似非科学がそれをコンファームしバックアップしようとしている。”XX年経てばYYが技術的に実現する“と費用対効果を試算している。
そこに於いて、エンジニアリングは自然を表層的に記述するに止め、その形式主義的解釈をするだけで物理世界の殆どの現象を”説明できると信じ、説明できない点は確率論で煙に巻けばよい、と考えている。

人の命を預かる医学ですら、このエンジニアリング至上主義に堕している結果、骨折以外の如何なる病気も本当に治す事が全く出来ていない。

社会科学の分野では法学がその急先鋒となっている。
資本主義下の法学とは、エンジニアリング至上主義に見習って法律自体は表層的な記述に止め、それを運用する時には形式主義的法文の解釈をすれば、裁判に於ける判決に客観性を与える事が出来るであろうと誤信している。実際にはそんなやり方で客観性が保証されるべくもない。

2017年1月14日 (土)

“Dr,Higa’s Theory” EM技術、微生物の新しい姿-その1 ・ノーベル賞受賞者、MIT教授ら世界級の知性から共感と期待の声

それは、人類の平和と社会の繁栄を心から願う世界的科学者が、あるいは世界有数の大学研究者らが、それぞれ研究の立場の違いはあれど共通した認識で、琉球大学名誉教授でEM(有用微生物群)の開発者である比嘉照夫氏の科学的根拠に基づく確かな理論と、世界150か国に普及しているその実践的な成功事例に共感と期待の声を寄せている。深刻の度を増すこの現代社会の現実に立ち向かう真摯な姿勢が共鳴するのだろう、と思う
                    DNDメルマガ編集長、出口俊一

◇ノーベル賞の大村先生がEM技術に言及
 北里大学特別栄誉教授で、ノーベル生理学・医学賞の大村智先生が、昨年、「微生物のお蔭です」との受賞のコメントを出した。大村先生について、受賞時にわたしはこんなメルマガを配信した。
「微生物の力、微生物のおかげです」-ノーベル医学・生理学賞の大村智氏-
リンク

 メルマガから大村先生のコメントを拾うと、微生物への感謝とともに比嘉教授の取り組み姿勢と同様の「世のために役に立つ」というある種の使命感が強く感じられた。

・「私の仕事は、微生物の力を借りただけのことで、私自身、えらいことを考えて難しいことをやったわけではない。すべて微生物がやってくれた仕事を提供させていただきながら、今日まできている。そういう意味でこのような賞を私がいただいていいのかなあ」

・「日本というのは、微生物をうまく使いこなしてきたという歴史があります。食糧にしても、農業生産にしても、われわれの先輩は、微生物の性質をよく知って、そして人のため、世の中のためという姿勢で役立ててきたという伝統があると思う」

・「もうひとつ、北里柴三郎先生、尊敬する科学者のひとりですが、ともかく科学者というのは人のためにやらなければだめだ、自分のためじゃなく、人のために尽くす、そうすることがとが大事なことなんだ。それは北里柴三郎先生の建学の精神でもあります。人のために少しでも、なんか役に立つことはないか、なんか役に立つことはないか、微生物の力を借りてなんかできないか、と絶えず考えているわけです。そういうことが今回の受賞につながったのではないか、と思います」

 あらためて読み返すと、大村先生の心からほとばしるような鮮烈なコメントの数々に胸を打たれたのはわたしだけではないと思う。上記の内容の一部が、「微生物の力、微生物のおかげ」という格好で新聞の見出しになったのは記憶に新しい。
 一流の学者は、物事を正しく捉えるものだ。そして、人のために尽くすという気高い志を持っていることがわかる。
 それに比べてネットの裏で個人を批判する大学教員が数名存在する。山形大、大阪大、国立天文台、法政大などだ。
 悪戯に事実を曲げてEMを貶めるような行為は、あまりにも恥ずかしい。

 比嘉教授は、大村先生のノーベル医学賞決定を受けて
「微生物は自然力の根元とつながっており人類の抱えるすべての問題を解決する力を持っています。今回の受賞は、その先駆けであり、日本から、この門戸が開かれたことは、歴史の必然だと思います。これを機会に、より多くの人々が微生物の力に関心を深め、より多くの分野で微生物の究極の応用が進展することを期待しています」
 とのメッセージを寄せていた。より多くの分野で微生物の究極の応用が進展することを期待する、との確信は、自らの応用研究の中でその手ごたえを感じていらっしゃるからだろうと、思った。

◇EM技術は、人類の知恵
 つい最近、この夏のことだが、大村先生が上梓したのが『自然が答えを持っている』(潮出版)で、このタイトルはストックホルムでのノーベル賞受賞記念講演の時に使われた。 書籍の帯に「2億人の命を救った男を育んだものは、小さな自然あふれる故郷と愛する芸術だった」とあり、「ご自身の原点を綴った感動のエッセー集」と紹介している。

 この本の中で、大村先生は、EM技術のことに触れている。

・「先般、書店で目に留まり買っておいた『微生物が文明を救う』(比嘉照夫・渡部昇一共著/クレスト社)を子供の頃の農業と今日の農業とを比較しながら、通勤の車中で一気に読み終えた」-と前置きして、
・「化学肥料や農薬に頼る現在の一般的な農業に対して、微生物を利用するEM技術を導入するというものだ。化学肥料に頼る農業は土壌を疲弊させ、田んぼに埋められた藁は容易に土壌化しない。EM技術とは、そのような土壌をEMによって改良することで食料を増産させる技術であり、また、もともとやせている土地を改善することも可能だ」と述べ、EM技術について、「食料を増産させる技術である」と喝破しているのだ。
その原理について、大村先生は、
・「我々が子供の頃は、このEM技術の原形とも言うべき堆肥作りを手伝った。山から木の葉をかき集め、藁を集めて下肥を撒き、微生物を繁殖させ(発酵させ)て作ったものだ。これを利用すれば、土壌を絶えず生きた形で使うことができる。この原理を応用し、いわば堆肥作りを効果的に行うために役立つ微生物を混ぜたものが、EMである」と説明する。

さらに、
・「化学肥料を作るには膨大なエネルギーを必要とする。そのことは巡りめぐって環境破壊の元凶にもなる」-と警告し、比嘉教授のことを指摘しながら、
・「一農学者によって、化学肥料を使う以前の農業の中にあった人類の知恵が歴史から抜け出し、再び役立とうとしているのである」と結んでいる。

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匿名希望

2017年1月12日 (木)

何故、人は赤ん坊の頃の無垢な「何?何故?」を封印していくのか?

について、若い世代の方の声を聞く機会があった。いろんな意見をまとめてみる。

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海が青いのは何故?といった素朴な疑問に対して、親が笑って済ましてしまうし、それが自分の親だけでなく、みんなそうなので、そのうちそんなものなんだと思って、何で?という想いを封鎖していく。

そうこうしているうちに、ああしなさい、こうしなさい、と強制的にやらされることが増えていき、主体的に、世界をつかみにいく姿勢を失っていく。

そうなると、与えられた「コトバ」で世界を理解していくようになり、「コトバ」が本来持っている「どうする思考で自ら世界を掴むための武器」という性格を失ってしまう。何故?何?といった思考の原点には、内なる欠乏とつながった適応本能ともいうべき「どうする思考」があるが、「どうする思考」が封鎖されてしまうので、「何故?何?」思考も封鎖されてしまう。

さらに学校に進む中で、身の回りの必要と無関係な知識を、しかも強制的に勉強することを強要されるので、ますます、どうする思考?も何故?何?思考も封鎖されていく。

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生命とは外圧=内圧という法則に貫かれた存在であり、いいかえれば自然外圧との一体化欠乏をはらんだ存在である。無垢なる赤ん坊もそうであり、常に、自然そして大人たちと一体化しようと、世界把握の強い欠乏をはらんでいる。ところが一体化したいと願っている大人たちがみな思考停止し、根源的な一体化欠乏を封鎖していれば、自ずと、思考停止していくしかない。一体化欠乏の向かった先の大人たちが一体化欠乏を封鎖しているという絶対矛盾。

改めて、追求?することは一人でできるものではなく、追求仲間の存在が不可欠なのだということを痛感した。

しかし、この絶対矛盾からの脱却はそんなに難しいことではないようにも思えた。生存が危ぶまれる絶望的な状態≒不整合な状態の中、みんなでどうすると追求し充足することは、人類が文明時代に入る以前、500万年続けてきたことであり、日本であれば、百姓たちが戦前まで続けてきたもの。そこに回帰するだけのこと。江戸時代の見直しが進む中で、多くの人々が明治以降の日本のおかしさに気付いて、江戸以前の本源的なあり方への回帰を求めている。そういう人々が世代を超えて、どうするをみんなで追求する場をつくっていけば、確実に思考は解放されていく。実践あるのみだ。

山澤貴志 

2017年1月10日 (火)

電通社員を自殺にまで追い込んだ真の要因は、「過労」それ自体ではない(1)

電通の若手社員の過労死事件で、残業時間100時間越えが問題となっている。
問題の本質は長時間労働にあるのだろうか。
よく考えてみたい。世の中には年中無休で働いている人や、四六時中仕事のことを考え続けている人はいくらでもいる。しかし彼らは過労死にはならない。

過労死に至った彼女を本当にそこまで追い込んだのは、長時間労働そのものではなく、仕事における人間関係とか周囲からの思いやりの無さとか、そういったことによって心をズタズタにされていったのではなかろうか。

outward.matrix(リンク)より引用します。
****************************
こんにちは、Shin(@Speedque01)です。昨日、非常に痛ましいニュースがありました。

日本を代表する超大手企業のひとつ、電通の若手女性社員が過労で自殺に追い込まれてしまったというニュースです。
高橋さんは東大文学部を卒業後、昨年4月に電通に入社。インターネット広告を担当するデジタル・アカウント部に配属された。代理人弁護士によると、10月以降に業務が大幅に増え、労基署が認定した高橋さんの1カ月(10月9日~11月7日)の時間外労働は約105時間にのぼった。

高橋さんは昨年12月25日、住んでいた都内の電通の女子寮で自殺。その前から、SNSで「死にたい」などのメッセージを同僚・友人らに送っていた。三田労基署は「仕事量が著しく増加し、時間外労働も大幅に増える状況になった」と認定し、心理的負荷による精神障害で過労自殺に至ったと結論づけた。

これに呼応するように、「100時間程度の残業で過労死するなど情けない」などと堂々とNewsPicksで発言するような方も。

武蔵野大学グローバルビジネス学科教授、長谷川秀夫氏の発言です。

月当たり残業時間が100時間を越えたくらいで過労死するのは情けない。会社の業務をこなすというより、自分が請け負った仕事をプロとして完遂するという強い意識があれば、残業時間など関係ない。

自分で起業した人は、それこそ寝袋を会社に持ち込んで、仕事に打ち込んだ時期があるはず。更にプロ意識があれば、上司を説得してでも良い成果を出せるように人的資源を獲得すべく最大の努力をすべき。それでも駄目なら、その会社が組織として機能していないので、転職を考えるべき。また、転職できるプロであるべき。長期的に自分への投資を続けるべき。

このニュース、そして上記にあるような「過労死は甘え」という意見に対し、皆さんはどう思われるでしょうか。ぼくは、このニュースの原因を労働量そのものに求めること自体が間違っていると考えています。

◆残業量それ自体はそこまで異常ではない

残業105時間というのは、1日当たり約5時間強に変換することができます。定時が18時だとしたら、毎日23時まで働かなければいけない、といった状況ですね。

もちろんこれはだいぶつらいことは確か。毎日定時帰りが当たり前の人にとっては、信じられないほどの労働量です。

しかしながら、コンサルティングファームや投資銀行、電通や博報堂などの広告代理店、商社やベンチャー勤務の人にとっては、確かにそこまでのものではありません。

そういう意味では、「おれはもっと働いてるぞ!!!この程度で自殺するなんて甘え!!!」と短絡的に考える人がいるのもわかる気がします。

しかしながら、問題は105時間という残業量それ自体にあるわけではないのです。自分が心から打ち込め、周りともいい関係を築き、素晴らしい人に囲まれているような環境であれば、残業を何十時間しても苦にはなりません。

しかし、もしあなたが常に周りからの嘲笑にさらされ、何を言われても否定され、いくらやっても終わる見込みがない仕事を強要されていたとしたら。そして、それが毎日毎日日付が変わるぐらいまで繰り返されていたとしたら。

断言しますが、どんなに強い人でも壊れます。

追記:そもそも105時間というのは過少申告ではないか、という意見もありました。確かに、実際に認められたのがそれだけで、実際はそれ以上という可能性はあるかなと思います。
(続く)

2017年1月 8日 (日)

読書をすればするほどバカになる? 「読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。」

タイトルの言葉は、19世紀ドイツの哲学者ショーペンハウアーの言葉です。

この言葉を聞いて、なるほどなあと納得してしまった人は要注意。
他人にものを考えてもらう読書とは、自分の頭を使わない状態、つまり思考停止状態であるといえます。
さらに、考えた過程を反復的にたどるとは、答を丸写しするようなもので、まさに暗記脳であるともいえます。

このような思考になってしまったら最後、学校制度が証明をしているように、どんどん追求力が低下していき、楽しく読書しているつもりでも活力さえも失われていく危険性があります。

では、読書はしない方がいいのか、というとそうではないと思います。
他人に考えてもらい、思考を辿るという読み方をしなければ、この負のスパイラルには陥りません。
つまり、自分で考え、思考をつくりだす読み方、具体的には、本の作者と対話するように本を読んでみるといいのではないかと思います。

対話するように読書ができるようになると、そのような思考に陥りにくいだけではなく、実際には会えないような人や偉人達と同じテーブルに座って追求しているようなそのような密度の濃い経験ができるようになるんではないかと思います。

まずは一言だけでも、本に声をかけてみるところから始めてみてはどうでしょうか。


以下リンクより

多読や速読と聞くと、
なんだかとても頭の良い人のような気がしますが、
実際問題として、1年間で1,000冊や2,000冊を読んだと豪語する人の中に、
あまり知識人はいないような気がします。
一般的に普通の人が思い描く読書というのは、
どんどんバカになっていく読書なのです。
いったいどういうことなのでしょうか。
そのときに、「なるほど!」と思っても、1ヶ月、2ヶ月すると、
何が書いてあったのかすら覚えておらず、場合によっては、
読んだことすら忘れている人がほとんどなのではないでしょうか。
19世紀のドイツに、ショーぺンハウエル(ショーペンハウアー)という偉大な哲学者がいたのですが、
彼はその著書で、読書についてこんなことを述べています。

「読書は、他人にものを考えてもらうことである。
本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。」

ジャーナリストの池上彰さんも読書について、
ショーペンハウエルのこの引用文に衝撃を受けた
と著書で書かれていましたが、僕自身も、これを読んだときに、「ハッ」とさせられた記憶があります。

結局、小学生のころ授業で配られた漢字練習帳や、
ひらがな・カタカナの勉強ノートや習字練習帳のように、
先生の手本や印刷された手本を、
ただそのまま上からペンでなぞっている行為と何も変わらない
ということなのです。
だから、読書のときにはモノを考える苦労がほとんどない
と喝破しています。

本を読んでいるとき、
読んでいる人の頭の中は、書いた人の考えで埋め尽くされていて、
自分の考えをほとんどもたずに受け入れている状態です。
いままさにこの記事をよんでいる最中も、
そんな脳内がそんな状態になっていませんか(笑)

速読・多読はすればするほど、自分の脳内が他人の考えで上書きされ続けてしまい、何も考えるということをしなくなるのです。
考えることをしないということは、
頭の働きが良くなることはまず有り得ません。
良くて現状維持、場合によってはバカになる・頭が悪くなる人のほうが多い
と僕は考えています。

仮に頭に残っていても、それは知識のかけらに過ぎず、
生活レベルで落とし込む作業は困難かと思われます。
その辺の話になると、知識と教養の違いは何なのか
という別の議論になってしまうので深くは突っ込みませんが、
いずれにせよ僕が言いたいのは、
短期間で1,000冊読んだ、2,000冊読んだと数を自慢している人は、
その愚かさに気づいたほうがよろしいのではないかということです。
凄いとか偉いとか、仮にもそういう誉め方があるのであれば、

10冊読んだ、100冊読んだから偉いのではなく、
1冊や2冊で10冊、100冊分の中身を得ることのできる人のほうが
よっぽど偉いと思います。
人生の貴重な時間を割いて本に費やすのなら、
ゆっくりと噛み締めながら読むことを推奨します。

落地独歩  

2017年1月 6日 (金)

現在の学校は頭の悪い人を増やす機関になってないか?

社会にに出て頭が悪いと言われる人は、勉強ができるとかできないとかではなく、共認機能が貧弱な人のようです。
だとすれば、学校で教えることは単なる知識の詰め込みや、狭い温室世界での限定的な評価を与えることではないはずです。

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”頭が悪い人”にありがちな3つの特徴と頭を良くする5つの方法をご紹介!
リンク
自分自身で頭が悪いと思ている人もいらっしゃると思います。勉強ができないから頭が悪いと思っていらっしゃいませんか?しかし社会に出て頭が悪いと思われるという事は別なことのようです。

●頭が悪い人の特徴
①自分を過大評価している
頭が悪い人ほど自分のことを過大評価するといわれています。ほとんどの場合、自分は人よりも優れていると思っており、人と比べることで自分らしさを高めています。しかし、自分で自分を過大評価していても客観的にみると対した知識もなく、他人から見ると「自分の能力を把握していない頭が悪い人だ」と思われてしまいます。また、周りと比べて自分の方がすばらしいと思っているため、偉そうな態度がさらに頭が悪いように見せています。

②頭の切り替えができない
「頭の回転が速い人は仕事ができる」といわれますが、効率よく頭の切り替えができる人ほど頭の回転が速いです。しかし、頭が悪い人は切り替えがうまくいかず同時に複数のことを頼まれると対応ができず全てのことが中途半端になってしまいます。すると結果として、頼まれたことができないとう判断になってしまい「頭が悪い」ということにつながります。作業途中に他のことが気になり、自分がやっていたことも忘れてしまったりすることも特徴的です。

③根拠無しに決めつける
頭が悪い人の特徴に根拠もないのに決め付けて話をする人がいます。以前自分が受けた記憶のみで話をするため「これはこうに違いない!」と根拠もないのにそういった考えになります。すると、本人は間違いはないと思っていることでも他人が聞くと「根拠もないのに何を言っているんだ」という結論になり、結果として頭が悪い人になってしまいます。

④想像力が乏しい
例えば、「AをしたらBになる」といった想像力が乏しい人は一般社会では頭が悪い人だと認識されてしまいます。仕事でも先のことを考えた行動は必要になってくるため、そのことに対してイメージできなければ仕事もできない人になってしまいます。また、仕事以外でも相手の気持ちを想像できない人は視野が狭くなり自分のことしか考えられず、頭が悪い人と判断されます。先のことを考えられる、相手の気持ちを考えられる、想像できるということはとても大切です。

⑤空気が読めず和を乱す
空気が読めない人は自我が強いといわれており、自分をできるたけ主張しようと思っています。多くは「どうしたら自分を人に認めさせることができるか。」「自分の個性をいかにアピールできるか」ということを考えています。そのため、人が集まったりした場合でも、自分の自我を主張したいがために周りや会話の流れを無視した発言や行動にでてしまいます。ほとんどの人は自覚がないため人から指摘されても自分が悪いとは認めず、さらに頭が悪いと判断される材料になってしまいます。

⑥不要な知識を話したがる
頭が悪い人は相手よりも自分の方が立場が上だと思っています。そのため、話をしていると今は必要ない不要なことまで話してくることがあります。例えば、仕事の話をしているのに自分のプライベートな自慢話をしたきたりします。これは、相手よりも自分の方が知識が豊富だということを無意識に伝えようとしているからです。頭が悪い人ほど無駄話が多くなり、他人から見て「今話す内容がわかっていないのか」と思われてしまいます。

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匿名希望

2017年1月 4日 (水)

何故、人は赤ん坊の頃の無垢な「何?何故?」を封印していくのか?

について、若い世代の方の声を聞く機会があった。いろんな意見をまとめてみる。

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海が青いのは何故?といった素朴な疑問に対して、親が笑って済ましてしまうし、それが自分の親だけでなく、みんなそうなので、そのうちそんなものなんだと思って、何で?という想いを封鎖していく。

そうこうしているうちに、ああしなさい、こうしなさい、と強制的にやらされることが増えていき、主体的に、世界をつかみにいく姿勢を失っていく。

そうなると、与えられた「コトバ」で世界を理解していくようになり、「コトバ」が本来持っている「どうする思考で自ら世界を掴むための武器」という性格を失ってしまう。何故?何?といった思考の原点には、内なる欠乏とつながった適応本能ともいうべき「どうする思考」があるが、「どうする思考」が封鎖されてしまうので、「何故?何?」思考も封鎖されてしまう。

さらに学校に進む中で、身の回りの必要と無関係な知識を、しかも強制的に勉強することを強要されるので、ますます、どうする思考?も何故?何?思考も封鎖されていく。

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生命とは外圧=内圧という法則に貫かれた存在であり、いいかえれば自然外圧との一体化欠乏をはらんだ存在である。無垢なる赤ん坊もそうであり、常に、自然そして大人たちと一体化しようと、世界把握の強い欠乏をはらんでいる。ところが一体化したいと願っている大人たちがみな思考停止し、根源的な一体化欠乏を封鎖していれば、自ずと、思考停止していくしかない。一体化欠乏の向かった先の大人たちが一体化欠乏を封鎖しているという絶対矛盾。

改めて、追求?することは一人でできるものではなく、追求仲間の存在が不可欠なのだということを痛感した。

しかし、この絶対矛盾からの脱却はそんなに難しいことではないようにも思えた。生存が危ぶまれる絶望的な状態≒不整合な状態の中、みんなでどうすると追求し充足することは、人類が文明時代に入る以前、500万年続けてきたことであり、日本であれば、百姓たちが戦前まで続けてきたもの。そこに回帰するだけのこと。江戸時代の見直しが進む中で、多くの人々が明治以降の日本のおかしさに気付いて、江戸以前の本源的なあり方への回帰を求めている。そういう人々が世代を超えて、どうするをみんなで追求する場をつくっていけば、確実に思考は解放されていく。実践あるのみだ。

山澤貴志
 

2017年1月 2日 (月)

潜在思念の開放 ~言霊の効用を実践したブログより~

フェイスブックで「言霊が本当に効くか調べてみた」というブログ記事リンクが紹介されていた。

読むと、大変面白い。「よくわからないけれど、可能性を直感したら『全力でつられてみる』」という筆者の徹底した姿勢に好感が持てる。で、実際に効果を実感されている。これは、本当だと思う。

筆者は、以下の8語を、すきあらばつぶやき続けているそうだ。

・嬉しい
・楽しい
・幸せ
・ありがとう
・感謝してます
・愛してます
・許します
・ついてる

これにくわえて、成功、安全、健康、富裕、などの言葉をともかくつぶやき続ける。筆者曰くコツは以下だそうだ。

1)風呂やトイレ、車の中などで、気がついた時はひたすらつぶやく。
2)しっかりと音に出して空間に伝える事が大事。
3)つぶやいている時は、変に意識したりイメトレは不要。
  心は何も思ってなくても良い。
4)現在進行形でつぶやく。
  例えば「健康になる」だと未来形なので「私は健康」などの現在形にする。
  または「健康」の単語だけにしてしまう。
5)意味がゲシュタルト崩壊してしまうくらい連呼してみる。
  例えば「ついてる」を何度も連呼していると「着いてる」に感じてきたり、
  日本語ですらなくなってくる感覚までやってみる
6)無理しすぎず、長く習慣づける事がだいじ。

この結果、筆者に良い変化が起こったという。(詳しくはリンクを読んで下さい)

「人間関係が良好になった」「この半年で仕事と貯蓄が増えた」「風邪をひかなくなった」「毎日体調が良い」「精神的にネガティブな波がない」「知り合いや仲間が増えた」。

◆考察
古来から言われる日本語の言霊は、平たく言うと「良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発するとそのようになる」いう考えである。これは的を得ている。

人間は、観念機能(言葉等)をもつ唯一の動物。しかし、観念だけでは人たりえない。観念と潜在思念がつながっているからだ。
潜在思念は、充足を感じたり、瞬時に可能性を見抜く等、いわば動物的な部分である。が、共認機能をはじめ、人間としての根幹は潜在思念の豊かさに左右される。そして、潜在思念は、観念機能の影響を受ける。悪い観念の影響を受けると、潜在思念がそれになびいて、心からそのようになってしまう。

今、私たちの観念は「旧観念」に支配されている。世界を閉塞の闇に追いやった観念が、潜在思念に蓋をしている。その結果、世界一幸せだった日本国民は、200年足らずで世界一元気がない国民になった。旧観念は、古人の言う「不吉な言葉」であり、その集合体である。

このように考えると、ブログの筆者の試みは、旧観念を塗り替える試み(日々の努力)といえるだろう。「言葉の意味がなくなり、日本語でなくなるまで連呼する」というあたりは、ほとんど観念停止(315890)に近い。筆者が感じた良い変化は、潜在思念の開放によるもの。頭で考えるのではなく「ともかく、やってみろ」というのがブログの筆者の意思だろう。

『全力でつられてみる』。続いてみたい。

多田奨

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