« 2016年11月 | トップページ | 2017年1月 »

2016年12月

2016年12月31日 (土)

【心が開く】

リンクより

・・・・・・・・・・・

○最強最高の兄ちゃん ~兄が親戚中に土下座し、俺と妹の事よろしく頼むと~
両親は俺が中2の時、交通事故で死んだ。

俺には4つ上の兄と5つ下の妹がいる。

両親の死後、俺は母方の親戚に、妹は父方にひきとられて、 兄は母方の祖父母と住んでいた。

それから一年くらいたって、久しぶりに兄から電話があった。 そん時、高校を卒業して就職が見つかったから、兄弟3人で暮らさないかという旨を言われた。

俺はびっくりした。 兄は俺とは違い昔から頭が良くて、当然1流の大学に行くんだろうと思ってたからだ。

俺は兄に大学はいいのか?と聞いたが、兄は 「全滅やったから(笑)そこは触れんといて」なんて事を言ってた。

俺は中3だし、妹はまだ小3だったため当然、親戚中は反対してたが、 俺も妹も、ホントはまた兄弟一緒に暮らしたいと思ってたから 頼み込んで許してもらい、晴れて兄弟3人一緒に住むことができるようになった。

それからというもの、兄は俺らの為に働きまくった。俺らが貧乏なんて感じることないようにと、 ずっと皆一緒に暮らすんだと、昼と夜も別々の仕事して稼ぎまくって俺らに小遣いまでくれてた。 そんな兄が先月、交通事故で逝ってしまった・・・

葬式で俺も妹も泣きじゃくった。 葬式も一通り片付き皆が帰った後、別室にいた俺と妹のところに、 叔母が夕飯をもってきてくれて、その際、俺らは兄について衝撃の事実をしることになった。

両親の死後、兄が親戚中に土下座し、俺と妹の事よろしく頼むと言ってまわってたこと。 兄がバイト代を毎月送り、俺と妹の小遣いにしてやってくれと頼んでたこと。 京大を蹴って、俺らと一緒に住むために就職したこと。

・・・それきいた途端、もう分からんくらい泣いた。立てんかった・・・ 色んな兄ちゃんとの思い出が駆け巡った。 小さい頃、俺の手をつないで、いっつも遊んでくれた・・・ 強くておもろくてやさしかった・・・ 自分の小遣いからお菓子買ってくれてた・・・ 俺が高校行かんって言ったらぶち切れて殴ってでも行かせるって言った・・・ いつもボロボロで疲れてても、俺らに八つ当たりなんてしなかった・・・ 自分の夢を捨てて、俺らのために必死やった・・・ おとん、おかんが死んだ時、泣きじゃくる俺と妹を抱いて、 がんばれって言って俺らの前では涙ひとつ見せんかった・・・ 俺ホントは兄ちゃんが夜中、泣き声をおしころして泣いてたの知ってたよ・・・

やべえ思い出して・・・もうこれ以上書けねえわ 何もできんかったわ・・・ ホントなんも・・・

最後に言わせて。 最強最高の兄ちゃん!!!あんたに負けんこと俺がんばるけん! 妹のことも心配せんでいいけんね。ありがとう。ありがとう!!!

・・・・・・・・・・・・・

定期的に「泣ける話」等を読みたくなる。つい先日も。何故、定期的にこのような「泣ける話、感動話」等を読みたくなるのかを考えてみました。

「泣ける話」の多くは、「感謝、人と人の繋がり≒病気や死、別れ」を題材にした話で、読んでいるときは完全に話に没入=観念は停止し情感だけで捉えている自分に気がつきました。

恐らく、観念機能で捉えるのではなく、情感=潜在思念で捉えることによって、一気に対象同化。

また、その時点での心情が求めているものは「繋がり欠乏=一体化欠乏」では。

だとすると、「泣ける話」等を読みたくなる原因は、「繋がりを求める」、還元すれば、否定観念(自己賛美他者否定が生み出す孤立感=共認非充足状態)が充満し不整合状態になっていると同義。
その不整合を解消するために強力な「繋がり欠乏=一体化欠乏」を充足させたいと潜在思念求めている、というところに行き着きました。

一体化欠乏が充足すれば必然的に否定観念は消滅する。

思い返せば、確かに「泣ける話」等を読んだ後は、否定観念がかなり縮小しているように思います。

*この構造を活用している実例
涙活や塾等における非常に厳しい勉強合宿中に親子で手紙のやり取りを行う等


当初の何げない疑問から、これまでの「ぼんやり→はっきり」に

・否定意識=自己賛美他者否定=共認非充足状態→共認充足(一体化)欠乏が生起
・一体化充欠乏→情感の活用
・「情感=潜在思念の生起」⇒対象同化
・情感深度=潜在思深度は、同化深度を規定
・深い同化は、実体験と同様の効果
潜在思念がオープンに=心が開く(ここがチャンス!)

等々の可能性を感じています。まさに「瓢箪から駒」でした。



加藤俊治 

2016年12月29日 (木)

人は分別により創造力を失い、思考が人を支配する

赤ん坊にとって周りは全て未知の世界。
だから、赤ん坊は、知りたい欠乏、一体化欠乏の塊。
にもかかわらず、年齢を重ね、学校教育を受けるごとに、その欠乏はしぼんでいく、、
そればかりか、知能水準も低下しているようだ。
なぜだろうか?

リンク)より
◆人は偏見によって創造力を失っている
 ハーバード大学教授のハワード・ガードナー博士は、プロジェクト・ゼロで、赤ん坊の知能の発達と年長者の知能水準を調べてみた。すると空間能力、運動感覚能力、音楽能力、対人能力、論理数学能力、内省的能力等で4歳までの子どもはほぼ天才的な水準にあった。けれども20歳ではその割合は10%、20歳以上では2%にまで低下した。

 才能はなぜ低下するのか。
スタンフォード大学ビジネス・スクールのマイケル・レイ博士は「才能が失われたのではなく、分別の声に隠されているのだ」と言う。「できるわけがない。そんな馬鹿な考え方を、という分別を保留する能力を高めることで、日常で創造性を高めることができる」とレイは言う。レイのビジネスにおける個人の創造力の開発講座は、次の三つを前提としている。
 ①創造性は健康や幸せやビジネス等、人生のあらゆる分野での成功に欠かせない
 ②創造性は誰にもある
 ③創造性は誰にもあるが分別の声に隠されている

 恐怖や不安を感じるとき、人は習慣的な行動に戻る。集団も例外ではない。分別の声は、個人と同じく集団の創造性の芽を摘む。生命体には異物への偏見がある。既存システムは「他者」や「部外者」「異邦人」を敵視する。そのため、組織でも免疫システムが働くと、新しいことを取り入れるのはさほど重要ではないと自分に言い聞かせてあきらめる。そして、イノベータ―は敵視され、レッテルを張られ、酷い扱いを受ける。

◆第1ステップ~見るためには思考を止める必要がある
 偏見を捨てて、新鮮な目でモノを見るためには、習慣的な考え方やモノの見方を止めなければならない。多くの改革プロセスでは、状況について自分の想定を裏付ける情報だけを集めている。すなわち、過去の経験と記憶を反映して、あらかじめ、見ているつもりのものだけを見ている。

 物理学者のデイヴィッド・ボームは「ふつうは人間は思考を支配しているのではなく、思考が人間を支配している」と語る。そして、この既存のメンタルモデルを破壊することはできない。そこで、ボームは、現実についての無意識の想定を目の前に掲げてみることが必要だと指摘する。それによって自分の心がどのように動いているのか、自分のメンタルモデルに気づくようになる。自分の思考を意識できれば、自分の思考によって見るものを左右されることも少なくなる。すなわち「見ることがどういうことかがわかる」ようになるのである。

 人は自分の考え方にしがみついている。しがみついているのを止めたとき、自分の考え方に気づく。思考はすぐになくなるわけではないが、しがみついていた時ほどのエネルギーはなくなる。これが保留なのである。ヴァレラはこの「保留」こそが意識を高める第一の基本動作だと言う。

宮田一郎 

2016年12月27日 (火)

子供の思考停止と旧観念の構造を考える~ピンクのゾウ~

日本の明治~戦後にかけての日本の学校教育。その深刻な弊害が明らかになってきています。与えられた答えを前提とする、暗記脳・勉強脳・理解脳の形成。それらが、子供たちから追求力や表現力を削ぎ、一方的かつ画一的な詰め込み教育と、大学ヒエラルキーによる相対序列評価が、子供集団本来の思考力や追求力や表現力を破壊し、活力衰弱を加速しています。

◆絵を描くのが大好きな女の子
たとえば昔。小学1年生の頃。クラスに絵を描くのが好きで、とても上手な女の子がいました。僕も絵を描くのが好きで休み時間によく一緒にお絵かきしていたのを覚えています。(もちろん僕よりも彼女の方がはるかに上手でしたが。)

ある日。図工の時間に彼女はゾウを描きます。それはサバンナの草原を歩くゾウの家族。僕の目から見てもそれはそれは、とても良く描けた絵でした。ただ。その一枚の絵が、その後の彼女の人生を大きく変えることになってしまいました。(僕はその直後、親の都合で急遽遠方へと転校。彼女とは疎遠になりますが、その後も絵を描き続けやがては美大に入ることになります。)

◆彼女がやめた理由
15年後。美大生時代にたまたま再会した彼女。「いいなぁ。まだ描いてるんだ!」そこで驚いたのが、実は彼女。あのゾウの絵を描いた日から、なんと(あれだけ好きだった絵を)描くことをやめてしまったのだそう。彼女があの時描いたゾウの絵はとても素晴らしいものでした。ただ一つ。そのゾウの家族が、とても綺麗なピンク色で塗られていたことを除いて。

7歳の女の子の心が折れた理由。それはこんな感じでした。まず、これまで何を描いても大絶賛だった先生に「そんな色のゾウは居ない!」とすごい剣幕で否定され、家に帰って両親にも「○○ちゃん、動物園で見た事あるでしょ。ゾウの色はそんな色じゃないのよ」と。そして、クラスの男の子達にも「なんでゾウがピンクやねん!」と大層笑われ、幼心にとても深く傷ついたのだそうです。そして、彼女は次の日から描く事をやめました。

◆恐るべし勉強脳集団
とても残念なことですが「ゾウは灰色の生き物」という先生・家族・クラスのなかまの固定観念(思考停止の思い込み)が、幼い彼女の発想力・創造力・表現力・追求力を潰してしまったんだなと。おそらくこの事例は、たまたま彼女が不運だったのではなく、頻繁に子供たちの現実生活の中で起こっている現象なのだと思います。

子供たちの思考活力衰弱の問題。構造上は確かに潜在思念旧観念(近代観念)が封鎖しているのですが、特に子供の現実世界においては、このように個、個人の思考力問題というよりも、その「個」を取り巻く「集団共認としての思考停止」の位相にこそ、思考力の封鎖。その根本的原因構造があると思います。(民主主義の弊害の最たるもの)

学校で近代観念に基づく思考停止の訓練を受けたプロ先生が教え、学校で追求停止(=近代観念に基づく常識思考)の訓練を受けて大人になった両親のもとで育ち、学校ではそのような家庭で育った子供なかまの中で適応する。この近代観念の共認域と時間軸上の連鎖循環の悪環境が、子供たちの持っている本源的な思考力をかなり早い段階で封鎖しているという構造です。

◆ピンクのゾウは存在しえる
その後、僕が大人になって、それなりにいろいろと学んで言えることは、やはりピンク色のゾウは存在するという事。

それはトンデモなお話でもなんでもなく、構造的かつ事実認識上も普通にありえるというお話です。物理学的な話になりますが、そもそも物質そのものに「色彩」という属性はありません。全ての色彩を含む光=太陽の波長が物質に当たって、物質に吸収されずに反射した光の波長のみが、「色として見えている」に過ぎません。光の波長が変化すれば、当然反射も変化し、物質の色も変化して見えるのです。

みなさんもご存知のように、空のイメージは「青色」ですが、緯度や経度、時間や季節、気候によって地表に届く太陽の光の波長が変化するために、紫にもピンクにも赤色にも、そしてグレーにだって変化します。オーロラを空と見なせば、おとぎ話ではなく七色の空や虹色の空だって十分にありえるのです。つまりは極端な話。世界中の物質や生き物は「どんな色にだってなる」ということです。

朝焼けのサバンナの草原を歩くゾウの家族。それはほのかにピンク色であり、決してくすんだ灰色ではないはずです。アルビノのゾウの家族だったら尚更でしょう。(もっとも紫外線が強いアフリカでは、メラニン色素の無いアルビノのゾウ集団の適応イメージには無理がありますが..単体なら在り得なくもないでしょう)少なくとも、僕たちもメディアなどでよく目にするアフリカのゾウ。夕景写真にはハッキリと、夕焼けのオレンジ色に染まったゾウの姿が映っています。

◆もし、かなうなら...あの時の彼女に声をかけてあげたい。

「いい色だね。幸せないっぱいなあなたとゾウの家族の気持が、とても良く描けてる。」

リンク

2016年12月25日 (日)

五感を開く思考法

五感を用いた思考方法のひとつをご紹介します。私自身も芸大のデザイン思考の過程で学んだスキルのひとつでもあり、今でも事あるごとに用いますし、状況に応じてアレンジを加えて使っています。今では日本の高校進学塾の一部などでも授業法として取り入れられ、子供たちの集中力アップと共に成果を上げているようです。フィンランドでは「カルタ」と呼ばれるマインドマップが国語の授業で使われていることでも有名です。

●マインドマップ
マインドマップは、頭の中で起こっていることを目に見えるようにした思考ツールです。知っている人も居られるかと思いますが、1970年代初頭に提唱された発想法で、人間の脳が本来持っている「色を感じ取る力」「形を認識し感動する力」「空間を認識する力」「流れやリズムを感じ取る力」など、脳の主要な働きをする部位を正常に働かせながら単語(キーワード)や図・イメージ・色彩を用いて思考する方法です。

●思考を開放する
通常の勉強法では、これら脳の持つ機能を停止させ、わずかに働いている「理論を認識する力」のみに頼って勉強・学習するために思考が閉じてしまうのです。思考を整理し、発想を豊かにし、記憶力を高めるために、想像と連想を用いて思考を展開する。この方法によって複雑な概念もコンパクトに表現でき、情報の羅列ではなく感覚・感情情報も伴った全体のネットワークで捉えられるため、非常に早く自身が理解できるというものです。

●頭の中はアート
描き方は、表現したい概念の中心となるキーワードやイメージを中央に置き、そこから放射状にキーワードやイメージを広げつなげていきます。放射状に広がる樹木のような見た目は、一見勉強や学習とは程遠くアートや絵に近いかもしれません。見た目も脳のシナプスのようになりますが、人間の脳の意味ネットワークと呼ばれる意味記憶の構造によく適合しているので、理解や記憶がしやすいとも言われています。

●楽しんで学ぶ
開発者のトニー・ブザン(Tony Buzan)は、脳科学や心理学の知見から、マインドマップを通してメンタルリテラシー(頭の使い方であり、学び方を学ぶ力や、学んだことを活用する力)の重要性を提唱しています。あのレオナルド・ダ・ビンチの思考法もマインドマップにとても似ているのだとか。文字や文章のみで考えることに慣れている人には、多少とっつきにくいかも知れませんが、子供はとても楽しんで効果を確かめられるのではないかと思います。

マインドマップを見る⇒「マインドマップ」の基本をおさらいリンク
「マインドマップ」受験勉強法 リンク

清原勝光 

2016年12月23日 (金)

福祉国家の表の顔、裏の顔

福祉国家の表の顔、裏の顔。

リンク

(前略)

しかし現在この「スウェーデンモデル」に陰りが見えてきています。

こんな話があります。

スウェーデンの老人にインタビューします。
「おじいさんの一生でもっとも重要な変化は何でした?」

インタビューした方は
戦争か携帯電話やパソコンなどの情報革命などを予想していたそうです。

しかし、老人はこう答えます
「それはねぇ、家族の崩壊だよ・・」

これはスウェーデンの抱える問題を一言で表したものだと思います。

離婚は2人に1人で、離婚率はなんと50%を超え、平均的な婚姻年数はわずか10年です。
そして事実婚が極端に多く、夫婦の崩壊で言えばもっと多い数字でしょう。

そして、なんと新生児の約50%が非嫡出子(ひちゃくしゅつし)です。
非嫡出子とは、法律上の婚姻関係がない男女の間に生まれた子どものことをいいます。

自殺者は日本より少ないのですが、(人口が少ない)自殺者における若者(15歳~29歳)の割合が4分の1を占めます。

犯罪の数は、10万人あたりアメリカの4倍、日本の7倍にもなるそうです。
アルコール中毒者の増加
麻薬の汚染
性犯罪の増加
これらも、人口比で当然日本より多いです。

老後の不安も無く、失業しても国が面倒見てくれる素晴らしい国です。
子供の教育も親の介護の心配も無しです。
女性は思い切って外で働ける素晴らしい国です。
しかしなぜ、こんなに国民が荒れるのでしょうか?

*子どもへ伝える大切なもの

福祉の充実したスウェーデンでは、我慢して夫婦でいる必要もなく、親の介護の必要もなく、自分が子育てに苦労する必要も無いのです。

また、失業しても手厚い保障が受けれるので、我慢して働く必要がない。
親も老後は国が全部面倒見てくれるので、子供に世話になる必要もありません。

しかしこれが結果として「家族の崩壊」に繋がっていまうのです。

今日の記事は女性に嫌われるかもしれませんが、勇気を出して書きます。

これは、社会福祉とジェンダーフリー論の行き過ぎた結果でもあると思います。
スウェーデンの女性は社会進出をして、女性の労働参加率は76%に上ります。
(日本は48%)

家族という最も大切なコミュニティーで核となるのは、やはり「母親」です。
それは親父ではないのは日本でも明確です。
例外はあっても、これが事実なのです。

男女は公平であるべきだと思いますし、男尊女卑の考えでもありません。
ただ、どう考えても体つきは違いますし、男に子供は産めない。母乳も出ない。

他の哺乳類がそうであるよう、原始の時代から性別に応じて役割は当然違うのです。
自分たちの種を残せる最善策をとってきたからです。

それを無理に変えようとしても、やっぱりほころびが出てくる。

それを踏まえた上でも、家族にはやはり女性の力が必要なのです。
子どもには家族の力が必要なのです。
みんな一人では生きていけない。家族の支えが必ず必要なのです。
ですから、母親に子育てや介護の負担がかかり過ぎないように、
夫や子供やご近所で助けあう事の方が重要です。

大家族で住み、姑さんから嫁は学んだり、時に甘えたりしました。
孫はおじいちゃんの昔話などを聞き、道徳観や人生勉強ができました。
ちょっと子供を見て欲しい時など、祖父母に預けることも可能でした。

そんな家族だから介護してあげたい、それが日本人の美風でした。

スウェーデンの家族崩壊は行き過ぎた福祉政策とフェミニズムの蔓延が原因にあると思います。

家族の崩壊は、帰る場所の無い旅行者のようなものです。
友人と楽しい時間を過ごしても、仕事で成功しても、人は虚無感に襲われたりするものです。

スウェーデンの女性は、個人主義や似非平等の権利を過度に要求して、実は最も大切なものであるはずの、家族、愛情、優しさ、生きていく心のあり方を失くしてしまった。

*子どもへ伝える大切なもの

武器輸出大国として何とか経済成長と社会福祉を両立してきたスウェーデンですが、この世界的不景気で、福祉政策も見直さなければならない状況まできました。

重い税負担から若者の国外への流出。
国内企業の買収や国外への移転。

人材を補う為に、国外からの参政権を与えてまでの移民の受け入れ。
それによる治安の悪化。

過剰福祉からの悪平等。

何か日本の問題点や今後予想される問題点と類似していませんか?

スウェーデンはやっぱり民間でできる福祉は民間でやれるような政策転換を図っています。
市場原理主義のアメリカでさえ、家族単位の絆を見直す動きがでているくらいです。

自由、平等、平和、人権、弱者の味方、福祉
などという言葉は誰にも反対できない言葉です。
だから、この誰にも反対できない言葉を利用して国民を愚民化する政治家や政党は信用するべきでないのです。

「コンクリートから人へ」なんて美化したキャッチフレーズで「子ども手当て」を支給する民主党。
一度得た既得権を国民から削るのは、当然、混乱が起きる。ギリシャがいい例です。

社会福祉は本当に困っている人々をサポートする為にあるべきです。
90歳の母を70歳の方が介護する日本。
教育が受けたくても受けられない日本人。
働きたくても働けない日本人は当然、救済するべきです。

それ以外は、やはり家族の絆を取り戻す政策や近所付き合いなどの地域のコミュニティーの連携をサポートする政策が必要です。

それを踏まえた上で、選択性夫婦別姓法案ならまだ理解できる。(僕は反対ですが)国家のビジョンも無く、世界情勢にも疎く、脳内お花畑状態で偏ったイデオロギーを、「誰にも反対できない言葉」で「移民」や「外国人参政権」を押し付けられても国民は判断に困るのです。

福祉を声高に叫ぶ人

平和を声高に叫ぶ人

人権を声高に叫ぶ人

平等を声高に叫ぶ人

にはご用心

匿名希望 

2016年12月21日 (水)

仲間を生かす「グループ追求」と仲間を潰す「ディベート」

仲間と何かを作り上げていく過程で、意見を出し合う場全てを「ディベート」だと思ってないだろうか。ここで必要なのは「グループ追求」の場である。この2つの間には"仲間"と"言葉(頭の使い方)"に決定的な違いがある。

ディベートは、リンクにもあるが、「屁理屈で相手をへこまかす方法」に過ぎない。ここでいう"相手"は、つまり"敵"だろう。自分と意見が違うものは全て敵、つまり仲間の中でも意見が違えば"敵"になる。そして、自分の意見を通すためにその"敵"を全力で潰しにかかる=「仲間を潰す方法」なのだ。
自分の意見を表現する言葉さえあれば、他には何もいらない。自分の意見だけに頭を使っていれば、敵の意見を聞くときに頭をつかう必要なんてない。(相手がどう思うか考える必要がない)

一方で、グループ追求は「仲間を生かす方法」だろう。グループ追求においては、自分と違う意見は"気づき"になり、全てが新たな可能性として受け入れられる。だから敵なんていないし仲間を潰す必要もない。むしろ生かしてこそ突破口を見出すことができる。
自分の意見を表現する言葉だけでなく、仲間から意見を引き出す言葉、仲間をまとめる言葉…たくさんの言葉が必要になる。頭を使わない時間なんてない。(相手がどう思うか考えないと言葉が出せない)

協同者であるはずの仲間を殺しても、生まれるのは平行線で終わりのない会議だけ。独りよがりの意見は本当の意味で受け入れられることはない。みんなで考え、みんなで作ったほうがいいものができる、みんなが共感できるはず。「仲間を殺す人」より「仲間を生かす人」の方がいい。

だから、「グループ追求」の時間に「ディベート」をしてしまっては意味が無い。仲間を潰す方法で意見を交わし合っても、仲間と何かを実現することはできない。

*****************************************************************

「ディベートで育つ頭の悪い子供」
リンク

以下、引用。

相手のロジックが弱いと思えば容赦なく自分のロジックでケンカを売る。
相手をへこまかせることがあたかも正義かのように・・・。
俺にはなぜ他人の意見をそこまでしてへこまそうとするのか分からない。
他人の意見は他人の意見として聞き、納得がいくものなら取り入れ、納得がいかないものなら無視すればいい。
ケンカをふっかけて相手を黙らせないと気がすまないという態度にどうも違和感を覚える。
相手の意見を屁理屈で抑え込めば自分の意見が真実となる。
そんなわけないだろ。

この相手のロジックと自分のロジックを戦わせてより正しい結論に導こうとする手法をディベートと言う。
簡単に言えばディベートとは屁理屈で相手をへこまかす方法だ。
相手をへこまかすことができたほうが正しいとされる無茶苦茶な手法だ。
アメリカなんかじゃ、子供のころからこんな屁理屈の訓練をしており、日本でも屁理屈で相手をへこまかせる訓練(ディベート訓練)が必要だと言われる。
確かに大人になると分かるのだが、大人になって学ぶのは、知識ではなく、いかに自分のロジックで相手をへこまかせるかの技術。そのロジックは世間一般で正しいとされるものであり、本当に正しいかどうかは分からない。
すでに学んだ(洗脳された)知識を屁理屈で正当化する。
そればかりだから、いくら違う意見に接しても勉強にならない。
どんどん頭は固くなり、ただ相手をへこまかすロジック(屁理屈)がうまくなるだけだ。
知識は増えないし、頭は少しもよくならない。

<以下省略>

久保田早智 

2016年12月19日 (月)

「思考の開放」と「開放の壁」

時代の大転換期を踏まえ、これまでの既知や経験則の枠組みではもはや勝てない・答えを出せない。

自在な思考を手に入れ、集団の適応可能性を飛躍させるべき時代に入った。業態革命や企業連携、コラボレーションやグループ追求など、既存の思考フレームを超えるべく多くの中小企業、大企業、学校、教育、家庭、子育て、男女関係といったあらゆる領域の中で社会的規模(行動は部分的・局所的ではあるが)での模索や追及が始まっている。

一方、思考の開放を意識するが故に多くの思考が陥りやすい罠がある。

それは、当人たちの意識とは裏腹に、成功事例の表面的模倣や、技術的スキル、表現スキルの模倣に終始してしまうという思考現象だ。もちろん既知の領域を超えた行動・作業や思考を少なからずとる為、既知領域に対してある程度の新鮮さや変革的現象を齎す。これまで使ったことの無い言葉や表現や行動様式は、既存の枠組みからすれば、それらの現象はあたかも思考を開放しているように見える。

しかし、ここに致命的とも言える構造的な落とし穴がある。ある意味、見た目、言葉を変え、思考手順や作業手順を変え、アウトプットする表現を変えるだけならば簡単にできる。問題は、構造的に思考が開放されているか否かという点だ。思考の開放がなされ、現実に可能性を切り開いているケースにおいて、最も重要な事。それは、外圧や危機的状況を肉体レベルで対象化するがゆえの固定観念=「既知の立脚点そのものの解体」であり、その可否である。

例えば、建築設計の領域で建築プロセスにおいて思考の開放を試みようとする。目的地は開放された自在な思考に基づく、社会と使用者において永く評価される新たな空間価値の創造・提供であるとしよう。近年の先端技術や先端事例・他業界事例・評価事例の収集から、それらを生み出す組織の構造や思考様式・伝達様式を取り入れるべく注力する。そして、一定の構造化を経て、実際の業務フローに組み込む事を試みる。

一見間違い無いように思える。しかし、残念ながらこの一連の思考・作業フレーム・プロセス全体の「立脚点」が既にズレているのだ。

何故か?それは仕事以前の思考領域に存在する。ここに日常・仕事・追及・仲間を含めたすべての根幹=原因構造がある。もし仕事が出来て、休日には自分の趣味を大いに楽しむ。仕事の成果や仲間との充足関係を維持しつつ、個人の自由な時間や休みの確保も絶対。もちろん個人の価値観による自由恋愛(自我の性)はあたりまえのように否定しない。そして、一対婚に基づく核家族信仰(家庭第一・子育第一)も当然で、夫婦仲良く。仕事と家庭の分断もある程度は仕方が無いと割り切る。

まぁ。構造的にはいろいろ問題はあるかもしれないが、うまくバランスをとる。といったような価値観を当たり前のように温存させている。その上で、求める新たな価値の創造や社会的評価、建築家幻想や集団内評価の獲得を目指しているとする。ならばそれは。明らかに根幹にある価値観や普遍的行動様式は既知収束そのままの、近代観念や既知観念を絶対肯定する立脚点の姿である。

したがって、もしこの私的絶対領域=既知を疑いもせず、変えようともせず。全肯定した上で「思考の開放」という領域に臨むのだとすれば、それは結果=社会的充足可能性を生み出すこと自体が幻想であり(目先の断片的可能性以外)実現不可能であるということに他ならない。当然、本来的にも集団思考の構造上も存在しえない。唯一存在しえるように錯覚する可能性があるのは、近代観念(自我のパラダイム)の全肯定を暗黙に仲間で共認した上で形成される集団内(私的)共認の地平だけである。

これは他業種であっても他領域でも、気をつけなければならない重要なポイントとなる。

したがって思考を開放する為には、生活存在を含めシームレスに既存の枠組みを超え出ることが出来ているか。しようとしているか。(本来、外圧認識・危機意識が高ければ自ずとそうなる)既知の価値観の恩恵そのまま(部分温存・肯定したままに)に新しい成果だけを求めていないか?いずれにせよ、思考の開放と未知なる成果の達成にはシームレスに既知を捨て切る覚悟と実態が、個人レベル・集団レベルに求められるものである。だからこそ、個人の存在限界を超えた時間軸の地平でこそ集団で取り組むべき課題となり、真の充足可能性はその先にこそ待っている。

Bannister
 

2016年12月17日 (土)

グループ追求の重要性

私は実現塾に参加して約1年となる。私はこの実現塾に参加していなければ、全然おもしろくない人生を歩んでいただろう。
 私はそれに参加するまで大学に行くため、自分の将来のためと思いながらなんとなく勉強していた。そう思いながら、だんだん勉強が苦となっていき私はどうしようもない状況に陥ってしまった。そのような状況の中私に救いの手を差し伸べてくれたのは、実現塾だった。
 現在、1年前の私のような状況になっている学生は大勢いる。それはなぜか?勉強が強制課題となり、学生を押し潰しているからである。勉強に可能性を見出さなくなり、学生はテレビやスマートフォンなどの娯楽に埋没するようになった(私もその一人でそれらに埋没していた。)。もちろん、活力満ちた学生はいるもののそれらはごく少数で大半は勉強圧力に押しつぶされ活力がほぼ無い学生ばかりである。このような状況に陥ってしまったのは近代以降の学校教育、受験制度で、先生や親に「いい生活、いい仕事」と言われ子供達が言われ続けたからである。この深刻な状況から早急に脱却しなければならない。
 私は実現塾に1年間通い続けた今、この状況を打破する方法はひとつしかないと考える。それはグループ追求である。数学、英語でもなんでもいい、とにかくグループ追求が重要なのである。なぜならグループのメンバー(以後仲間とする)と共認することができるからである。だれかと話し合っていて、自分の考えたことと相手の考えたこととが一致したときの喜びはものすごく大きい、そのとき「もっと意見を共有したい、共認したい」と思うのだ。心に開いた何かしらの穴をふさいでくれるような感覚が得られる、このような感覚が私たちの追求意欲を掻き立てる。以上のことの繰り返しのおかげで私の活力は上昇し続けている。
 最近、私は学校の勉強の範疇を超えたところまで興味を持つようになった。教科書に書いている記述に対して「なぜこうなるの?」「どういう風に現実と繋がってるの?」というようのものだ。これらの疑問に対して仲間と追求したい解決したいという欲望にかられるようになった。また、学校の勉強が苦ではなくなりとても楽しいと感じるようになった。今の私があるのはグループ追求によって上昇した活力のおかげである。
 私がここで述べたいのは、「グループ追求の重要性」である。私がこの1年でここまで変われたのはそれがあったからこそだ。またグループ追求の大前提となる仲間がいるからこそでもある。場をもうけてくれた実現塾に感謝しきれないぐらい感謝している。

破田野雄己

2016年12月15日 (木)

再生は多能性細胞でではなく、元の組織を「記憶している」古い細胞が行う

小保方さんのSTAP細胞について
< 独ハイデルベルク大が STAP現象の再現に成功! >
リンク等のニュースが流れている。
そして佐野千遥がブロッグリンクに理論的根拠を述べている。
>ソマチットが全ての生物、菌類・細菌類・ビールスの体内に存在しているのであるから、菌類・細菌類は完全滅菌しても、ビールスはそのDNA・RNA分子を完全破壊しても生き返る、と説明できるのである。
>(細胞の)再生はこれまで考えられていたような多能性細胞でではなく、切断された元の組織を「記憶している」細胞で行われていることがわかった。言い換えれば、「古い筋肉細胞」が新しい筋肉細胞を、「古い神経細胞」が新しい神経細胞を、「古い皮膚細胞」が新しい皮膚細胞を作るということだ。
__________________________________
第2章:菌類・細菌類の自然発生
小保方さんのSTAP細胞は、大きな可能性を秘めた組織再生方法論である。
STAP細胞を本当に組織蘇生まで持って行くには、下等生物のソマチットを持ち込み、加えてエイコサノイドをソマチットにより制御する必要が有ろう。

リンク 
“テーブルの上に牛乳と大豆とジャガイモを置いておくと数日たつとそれぞれ腐敗してきます。調べて見ると牛乳には乳酸菌が、大豆には納豆菌が、ジャガイモにはバレイショ菌が繁殖しているのが見えるでしょう。
これを説明するのに、パスツールは空気中には乳酸菌、納豆菌、バレイショ菌など様々な種類の細菌が漂っていて、乳酸菌は牛乳へ、納豆菌は大豆へ、バレイショ菌はジャガイモへ落ちていき、そこで分裂・増殖しているのだと説明します。
一方レーリーや千島博士は牛乳から乳酸菌が生まれ、大豆から納豆菌が生まれ、ジャガイモからバレイショ菌が生まれたと説明します。”

一切腐食していない缶詰の肉が腐ったという報告が多々有り。

何故、完全に滅菌した筈なのに、缶詰の中の肉が腐敗したか?
実際に腐敗したという事は、パスツールの細菌・ビールスの外部からの侵入説が誤りであり、自然発生説が結局正しい事を示している。

つまり、菌類・細菌類・ビールスは殺しても生き返る、という意味で有る。

その理論的根拠は、ソマチットに有る。

ソマチットとは、ケベック人のガストン・ネサン氏が光学顕微鏡ソマトスコープを使って発見した原子2,3個の大きさのDNAすら持っていない生命体である。

私・佐野千遥は、ソマチットは強酸に浸けても、強アルカリに浸けても、高温にしても、低温にしても死なず、数千万年前の貝の化石の中から出て来る、原子2,3個の大きさのDNAすら持っていない等の特性から、ソマチット=「物理的生命体」=S極磁気単極子との仮説を提起している。 

こういったソマチットが全ての生物、菌類・細菌類・ビールスの体内に存在しているのであるから、菌類・細菌類は完全滅菌しても、ビールスはそのDNA・RNA分子を完全破壊しても生き返る、と説明できるのである。

第3章:STAP細胞研究は有用な研究

先ず、下記の記事を読んで見て下さい。
リンク 
“【2007年7月3日 AFP】サンショウウオは脚を切断されても再生するが、このメカニズムを解明したとする論文が、1日の英科学誌「ネイチャー(Nature)」に発表された。ヒトに応用して臓器などの再生に役立てられることが期待される。

 すべての生き物は体の一部を再生する能力を持っており、たとえばほ乳類は、皮膚を再生したり折れた骨を接合することができるが、サンショウウオの再生能力は群を抜いている。サンショウウオは脚を失っても数週間以内に新しい脚が生えてくるし、損傷した肺を再生させることも、切断された脊髄の修復も、脳の損傷個所の補充も可能だ。 

 その理由については、これまで、サンショウウオが多能性細胞によって切断面に「再生芽」を作ることができるためと考えられていたが、米フロリダ大(University of Florida)などの研究グループは、再生はより単純な組織特異性のある細胞で行われていると主張している。

(中略)
 再生はこれまで考えられていたような多能性細胞でではなく、切断された元の組織を「記憶している」細胞で行われていることがわかった。言い換えれば、「古い筋肉細胞」が新しい筋肉細胞を、「古い神経細胞」が新しい神経細胞を、「古い皮膚細胞」が新しい皮膚細胞を作るということだ。

 多能性細胞については、皮膚と軟骨を生成するタイプのものしか見いだされなかった。場合によっては、これら2つのタイプの細胞は役割を交換することができるという。

 生物の身体の組織再生という観点から見るのならば、例えばトカゲは尻尾を切っても、少し経てば尻尾を再生してしまい、もっと下等なサンショウウオは腕、足、臓器を切り取っても、再生してしまい、その再生は切り取られた古い細胞が記憶を基に再生しており、多能性細胞によるものではない。

下等動物程、組織再生能力が強く、菌類・細菌類・ビールスに至っては、殺されても生き返る事が明らかに成った。その理由は、下等生物で有れば有る程、その体内に生息しているソマチットが活性化しているからである。ソマチットはS極磁気単極子であるために、そのS極系エーテル繊維=時間軸の上の記憶(アカシック・レコード)を利用する事ができる。

こうなると、小保方さんのSTAP細胞は、正に大きな可能性を秘めた組織再生方法論となる。

岸良造  

2016年12月13日 (火)

良き指導者とは~「話すよりも聞く」指導~

良き指導者とはどんな人のことを言うのでしょうか?
そもそも指導者の役割はなんなのか?

私は、被指導者の能力を最大限に発揮させてあげることだと思います。自分の理想や考え方を押し付けたりするような指導者は良き指導者とは思えません。

ここでは、いま現時点で指導をしている人や、これから指導者になる人に是非知ってもらいたいような考えを示していきたいと思います。もちろんこれは、正解でもないし、押し付けでもないので、可能性があれば実践してもらいたいと思います。

まず、みなさんは人に何かを教えるとき、どんな風に教えますか?

自分の知っている知識を片っ端から伝えていくタイプでしょうか?そうだとすると、あまりよろしくないかもしれません。人は概して、自分がその道のある程度の知識を得たり、考えが固まってくると、偉くなったとばかりにその知識や知恵を語りたがります。語ることで、自分は偉いことを知ってもらいたいという自己顕示欲が働くのかもしれません。聞いている人が、それを聞くことで吸収して成長してくれることを期待しているんでしょうが、そううまくはいきません。人はインプットしたことは、よほどインパクトがない限り忘れてしまうし、身につかないからです。
ですので、話すことしか能が無い指導者はダメです

人は、自分が話したことを周りの人に理解され、自分が他者に貢献できたと感じれた時にもっと頑張ろうと思えるのではないでしょうか。指導、非指導の関係にかかわらず、集団で会話をしている時でも同じで、自分の発言がみなに理解され、話が発展していった時、すごく活力が湧いてきませんか?
逆に、相手ばかりが話していて、自分が話しても全く聞き入れてもらえなかった場合、不満が残ったり、もうこの人とは話したくないと思うのではないでしょうか?同時に活力も衰退していくのではないでしょうか?
これは、人と人のコミュニケーション全般に関係する話ですが、指導といった上下関係ができてしまうと、この現象がよく現れてしまいます。特に、能力値が高い指導者に顕著です。
彼らは、自分がそこそこできるから、まだ未熟な被指導者に対して上から目線で接してしまい、できて当然と考えてしまう。そして、被指導者が上達しても褒めることができないし、できないことに対して、感情的にあたったり、誹謗中傷的発言を平気でする。また、被指導者の声なんかには、一切聞く耳を持たない。
そんな指導では、被指導者の能力は上がらないし、上がったとしても、ある一定のレベルにまでしか到達できません。なぜなら、指導者を信頼できないし、活力が上がらないからです。ある一定のレベルまでは詰め込みでも到達することはできますが、そのレベル以上の域に達するには、本人の活力が必要です。活力なくして、未知なる世界(レベル)に踏み込もうという気にはならないからです。

したがって、これからの指導は、被指導者に話してもらう機会を増やすということが重要になってくると思います。先にも書いたように、話したことを理解してもらうことで、活力は上がるし、話すことで頭の中が整理されるという効果も大いにあるでしょう。そして、指導者はその話す内容が間違っていたら、その都度訂正してあげる。それだけでも、十分だと思うのです。

「話すよりも聞く」これにつきます。

話し過ぎの自己満足指導者によって、未来ある若者の活力がこれ以上失われることのないよう、これからの指導のあり方が改善されることを切に願います。

匿名希望 

2016年12月11日 (日)

もともと日本に存在しなかった「個人主義」の呪縛から脱出せよ 

最近、「個人主義」を標榜する議論は余り聞かなくなってきたが、拓殖大学学事顧問・渡辺利夫氏が、柳父(やなぶ)章氏の『翻訳語成立事情』から、日本に初めて個人主義という概念が入ってきた明治の状況を紹介されている。興味深い内容だったので引用させていただきます。

リンク

以下引用~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

柳父(やなぶ)章氏の『翻訳語成立事情』は小著ながら圧巻である。そこには、個人、社会、近代、自由等々の西洋起源の観念をいかにして日本語に移し替えるかに試行錯誤を重ねた福澤諭吉や中村正直など、往時の知識人の苦闘が鮮やかに描き出されている。

日本には存在しなかった観念

 インディビデュアル(individual)は現在ではごく普通に「個人」として使われているが、この言葉が導入された頃の日本にはそういう観念は存在しなかった。神や社会に対する究極的な単位として、それ以上は細分化できない唯一の存在といった意味での個人が、かつての日本になかったことは柳父氏のいう通りであろう。当時、日本人は社会の「身分」として存在はしていても、個人としてではなかった。

いま社会といったが、これも後世の造語だという。今日使われているようなソサイエティ(society)の訳語である「社会」に対応する現実は往時の日本にはなかった。存在したのは家とか藩とか邦といった集団における身分であった。個人を構成単位とする人間関係を社会だとする考えは、柳父氏によれば、むしろこの訳語が成立して以降のことらしい。

 個人についていえば、福澤がまずは「人」、次いで「独一個人」と訳し、その後、独が落ちて「一個人」、さらに一が落ちて「個人」になったと柳父氏は追跡する。また社会については、中村正直が同じ目的をもった人々の集まりという意味をこめて「会社」と訳したという。実際、福澤、中村ら当時の代表的知識人が集った西洋思想啓蒙(けいもう)の場が明六「社」であった。そういう社の集まりが「会」であり、社会となったというのが柳父氏の究明である。

中略

国家の命運は家族の再生だ

 私は奉職する大学の日本近代史講義の冒頭でこう説く。現世の自己の存在のみがすべてだなどと考えるのは不道徳である。諸君には父母がおり、祖父母、曽祖父母、祖先がある。数世代を遡(さかのぼ)るだけでゆうに百人を超える血族があり、その内の一人が欠けても諸君はここには存在していないのだ。諸君のもつさまざまな属性は遺伝子の情報伝達メカニズムを通じて血族から諸君に移し替えられている。それゆえ個人はすべて歴史的存在なのだ。現世の個人は連綿とつづく血縁の中の一人の旅人である。死せる者のいうことにも耳を傾けながら現世を選び取るという感覚を呼び起こそうではないか-。

引用終わり~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

もともと個人という概念が日本人には薄かったのだろう。
また、国家の命運はともかく、祖先から連綿と引き継がれた系譜の先端に「個人」がいると言う感覚は、日本人には個人主義よりずっとわかりよいのではないか。

高橋克己

2016年12月 9日 (金)

江戸時代 統合階級の追求力

>徳川政権の政治姿勢の特徴として非常に軽い政府であることもあげられます。端的な例として奈良に五条代官所というのがあり、だいたい今の奈良県の半分ぐらいが行政領域でしたが、代官所の人数は全員で20人程度でした。その他の天領も似たりよったりでその程度の人数で統治していますので、いきおい農民を始めとしてその他町民に対する管理はまことに緩やかであったことは間違いありません。

江戸時代の統合階級は、少人数で地域を納めていた。
現代のように社会の変化スピードが速いわけではないが、縦割り行政のような蛸壺化に陥ることなく、各自が統合課題を担っていたと推測され、そうであるがゆえに言語能力、追求力、共認形成力は現在の公務員・サラリーマンに比べてはるかに優れていたと考えられる。

豊かな農民
リンク

「江戸時代の農民は幕府や諸大名から重い年貢をかけられたうえ常に圧政で苦しんでいた」というわりとポピュラーな史観があります。ほとんどの時代劇ではこのイメージをステレオタイプに表現するため日本人の間に定着しているといってよいと考えています。

まず「江戸時代の農民は重い年貢にあえぎ、自分たちで作った米を食べることすらなかった」という説があります。この説はわりと皆様無邪気に信じているものですがはたしてそうでしょうか。もちろん文字通りの実態の地域も存在しました。たとえば今の岩手県に当たる南部藩であるとか、鹿児島県の薩摩藩とかはまさしくそうだったでしょう。しばしば飢饉も訪れましたので、そのときには全国的にそれに近い状態の年もあったでしょう。しかし多くの年は必ずしもそうではなかったんではないかとの説があります。

江戸時代の初期はともかく中期以降になると、諸国でさかんに新田開発が行われた結果、当時の推定人口が必要とする米の量を上回る収穫が得られるようなりました。たしかに米は江戸時代を通じて通貨と同等に近い価値あるものとして扱われていましたが、しょせんは食い物です。通貨と違い個人で食べれる量の上限は決まっています。もし人口の9割以上を占める農民がほとんど食べなかったら膨大な在庫で膨れ上がってしまいますが、江戸時代を通じて膨大な在庫に苦しんだ事実はまず無いといってよく、結局農民はちゃんと米を食べていたことになります。

また「農民は重い年貢に苦しんでいた」との説も常識として扱われていますが、これも必ずしもそうでなかったと検証されています。少し記憶に怪しい部分はあるのですが、江戸時代初期は七公三民の年貢率でこれでは本当に農民は生きていくだけで精一杯の状態です。ところがその後年貢率はどんどん下がり、有名な八代将軍吉宗の時代には三公七民すら下回ることがしばしばあり、享保の改革で吉宗は四公六民程度にもっていくため悪戦苦闘しております。幕府以外の諸藩もおおむね同じような状態のところが多く、江戸時代の幕府および諸藩の財政危機は米余りによる米価低下と税収不足のダブルパンチによるとされています。

結果として農民は米を食べ、年貢もそれほど重くなく、さらに米以外の換金作物にはほとんど税金がかけられなかったので、想像しているよりもはるかに裕福な暮らしをしている農民は決して少数派でなかったと考えられます。とくに西日本では裕福な農民は多かったようで、かえって明治の地租改正により重税感が増して一揆騒ぎが頻発したとされています。

それから水戸黄門で有名な各地でゾロゾロいる悪代官ですが、じっさいはほとんどいなかったようです。江戸時代も初期は代官みたいな文官は武士として卑しい存在と考えられたようですが、どこの家でももともとの家禄だけでは食べていけなくなり、競ってなにかの役方(文官)につきたがるようになりました。幕府はいろいろこすからい政治を行っていますが、基本姿勢は天領での統治が諸藩の模範になるようにとの基本姿勢は終始変わらず、各地の代官には高い見識をもち高潔な人物を選抜して派遣しています。むしろ農民に同情しすぎて年貢率を下げたり、江戸からの増税要求に十分応えられないなどの弊害が生じるほどでした。

徳川政権の政治姿勢の特徴として非常に軽い政府であることもあげられます。端的な例として奈良に五条代官所というのがあり、だいたい今の奈良県の半分ぐらいが行政領域でしたが、代官所の人数は全員で20人程度でした。その他の天領も似たりよったりでその程度の人数で統治していますので、いきおい農民を始めとしてその他町民に対する管理はまことに緩やかであったことは間違いありません。

ここまで並べれば分かると思いますが、私の江戸時代の農民観は「重い年貢にあえぎ」、「ひえや粟ばかりを食べ」、「悪代官の横暴に苦しむ」ものではなく、「それほどの負担でもない年貢を払い」、「しっかり米を食べ」、「お上からの締め付けなんか無い」かなり優雅な農民像を描いてしまいます。そうでなければ各地で伝承されている農村文化(農村歌舞伎みたいなものも含めて)があれだけ多彩に展開される余地が生じようが無いからです。

匿名希望
 

2016年12月 7日 (水)

「この世界を見て欲しい。すべてが逆行しており、すべてがあべこべにできている。

医師が健康を、法律家が正義を、精神科医が心を、科学者が真実を、メディアが情報を、宗教が精神性を、政府が自由を、破壊している」

tabilaboより以下引用です
世界の衝撃的な「10の真実」。多くの人は気づいていない・・・
リンク
「Collective-Evolution」の創設者、Joe Martino氏の記事を紹介します。彼は"世界にある奇妙な常識"について書いており、多くの反響があったようです。なかには疑問が浮かぶ部分もありますが、原文に近い形で内容を紹介します。

奇妙にも
"普通"だと認識されている
「10のこと」
ほんの少し世界に目を向けただけでも、いろいろなことがめまぐるしく起きています。たった数分ニュースを見ただけでも、世界は戦争や誰かの死、病気の話でいっぱいです。

これは、よりドラマティックなコンテンツを伝えることで人々の関心を引き寄せようというメディアの戦略かも知れません。が、なかには世界で起きている本当のことを明らかにしているものもあります。

ミカエル・エルナー氏はこう書きました。
「この世界を見て欲しい。すべてが逆行しており、すべてがあべこべにできている。

・医師が健康を、法律家が正義を、精神科医が心を、科学者が真実を、メディアが情報を、宗教が精神性を、政府が自由を、破壊している」

このコメントは、私たちの"今"をシンプルに表現しています。どれも的確だと感じます。

私たちの多くは、"いいこと"をするために、"利益を生む"というプロセスを通り、何かを犠牲にしています。これまでに何度も過去を破壊しながら、今へとたどり着きました。

だから、こう尋ねたいのです。そろそろ変わるべき時なのではないでしょうか?私たちには、過去の行動や考えのパターンをみて正しい決断を下し、世界を治す力があるのではないでしょうか。

The Free World Charterは、奇妙にも一般的に受け入れられている10のことをリストにしています。

01.私たちは、空気や水、食の安全、環境、コミュニティの形成以上に、"お金と経済"を優先しています。

02.私たちが利用している経済的交換システムが、毎年数百万人の死へとつながっています。

03.私たちは、世界を区切って誰がその所有者となるかをめぐって争っています。

04.私たちが兵士と呼んでいる人々は、人を殺すことを許されています。

05.私たちは、必要のない食品や衣服、実験のために多くの動物を拷問し、殺しています。

06.私たちは子どもを学校へと送り、幼少期の思い出を生活に必要のない記憶でいっぱいにしています。教育についてはコチラ。

07.私たちは、子どもを持つ親に経済的な負担を課し、活気ある子育ての場を奪っています。

08.私たちは幾千もの宗教を持っています。それぞれがそれぞれの神やその物語を信じ、唯一の真実だと思っています。

09.戦争が名誉あるとされている一方で、計画を遂行する愛と情熱は嘲笑されます。

10.問題解決できる方法を、誰一人発明できていません。

あなたにとって、世界はどう見えますか?私たちに教えて下さい。私たちは変革の時代に生きており、解決策が必要とされているのです。
引用終わり

2016年12月 5日 (月)

「考え方のクセ」を変える

『「考え方のクセ」を変える(リンク)』というネット記事から転載します。
否定的に考えてしまうのは「思考の癖」
だったらその癖を直せば、いいだけのこと。
------------------------------転載
頭は、放っておくと、物事を否定的に考えてしまう傾向があります。

人は、一日のうちの多くの時間を、無意識に否定的な考えを膨らませることに費やしています。

その理由は、ネガティブな「思考」が頭に浮かんでも、その考えには反応せずに無関心のまま放っておけば「いい気分」になれるという認識がない、ということにあります。

自分の頭に浮かんだ「思考」には重要な意味があるはずだと考えるため、あるいは、その「思考」を無視することを選択しようとしていないために、浮かんできた「思考」に自動的に反応し、「嫌なことを考える」ことに慣れてしまっているのです。

懐疑的になることで身を守ろうとする心の働きがあるのかもしれませんし、もしかしたら、否定的に考えることを誰かに教えられ、身についてしまった習慣なのかもしれません。

しかし、ネガティブな「思考」にとらわれ、望まない方向に考えを膨らませてしまう理由は、単なる「考え方のクセ」によるものであり、あなたがそのような考え方を続ける必要はどこにもありません。

どんなにつらい過去の「思考」も、未来の不安なイメージも、何度となくあなたがその考えにとらわれてしまう理由は、そこに重要な意味があるからでも、その問題から逃れられないからでもなく、そんな考え方をすることがあなたの「クセ」になっているからなのです。

そのことを理解することさえできれば、物事はそれ自体に悪意がなく、あなたが望むなら、その「クセ」は変えられるということがわかるでしょう。

頭は、放っておくと、浮かんできた「思考」を自分の慣れ親しんだ考え方で自動処理することを繰り返します。

あなたの頭の中を一旦「手動」にし、「考え方のクセ」を変更するためには、まず、頭の中が勝手に動いている様子を客観的に観察してみること。

あなたがあるキーワードや情報を目や耳から入力すると、プログラムが起動し、否定的な「思考」が生み出されるしくみが、頭の中ですでにできあがっている様子を確認してみてください。

肯定的な考えが頭に浮かんでも、すぐに否定的な考えでそれを打ち消し、一日のうちで何度も自ら「気分」を害していることに驚くかもしれません。

あなたが否定的な「思考」をすると、あなたの「気分」は悪くなります。
できれば、どのようなことを考えたときに、どのくらい「気分」が悪くなっているのかを観察し、紙に書き出してみましょう。

そうすれば、あなたの頭の中で連想的に否定的な「思考」に結びつけられる、いくつかの「思考パターン」があることに気づくはずです。

この「思考パターン」を見つけられたなら、これからあなたがすべきことは、この自動プログラムを切断し、こういったプログラムを破棄してしまおうとすることです。

無意識におこなっていたクセを直すのは難しいと感じるかもしれませんが、まずは「気分が悪くなったことに気づいたら、それについて考えるのをやめる」という、新たなクセを身につけましょう。

紙に書き出した「思考パターン」が、頭に浮かんだときには気づくこと。
「ああ、これはこのまま考え続けると、かなり気分が悪くなるパターンだ」と、何度も気づくことが大切です。

ネガティブな「思考」に無関心になることが難しいと感じるのは、その「思考」に重要な意味があるからではなく、それ以外の情報が足りていないためです。

あなたは、あなたの問題を解決しようとするのをやめるのではなく、非生産的な「思考」を膨らませて、自分の「気分」を悪くすることをやめるのだということを、きちんと理解しなければなりません。

あなたが「いい気分」になろうとするなら、問題は解決に向かいます。

たとえそうは見えないときにも、すべてはうまくいっているのです。
---------------------------------終了

匿名希望F 

2016年12月 3日 (土)

新しい言葉の必要性

「哲学者」鷲田清一氏が、今の若い世代への期待を語る新聞記事の中で、新しい言葉の必要性について語っている。

***********************
彼らはどんどん人と交わり、お金を使わず自分の手でモノをこしらえ、面白がって社会を変えようというタフさを持っている。
(中略)
 そんな若い人たちには、ものを深く考えたり、感じたりするための言葉が必要だ。人々は今、言葉を強く欲しているのに、まだ結晶化していない。それはどんな言葉だろうかとずっと考え続けている。
 一時はやった「ワンフレーズポリティクス」を、もう人々は信じないだろう。単純な断定でなく、このもやもやを表す言葉、世界の見え方が変わる言葉を探し、投げかけることが、私たち人文知にかかわる者の使命だと思っている。
***********************
※日経新聞(2/29)・文化欄からの抜粋。

この状況認識には共感できる一方で、近代以降のいわゆる「哲学者」や「人文知にかかわる者」たちが、何世紀にも渡って同じような想いを発信しつつも、なんら社会を良い方向に導けなかった(むしろ社会問題山積で今に至る)ことを考えるとき、もはやこの手の言説には可能性を感じないのが正直なところです。残念ながら館長や学長といった立場で組織経営に関わっている氏でさえも、まだ答えに辿り着けていない。
※参照:「実現論:序1(下) 新理論を生み出すのは、専門家ではない普通の生産者」(256024

今のわれわれに必要な言葉は、すでにこのるいネット上で普通の生産者が生み出した「新概念」(リンク)として提起されている。

志のある人で、場と仲間さえいれば誰でもこれらの新しい言葉を使い、問題意識発でない可能性発の思考方法(311325)によって、答えを追求できる段階まで来ている。言葉の「専門家」に頼る必要はない。

2016年12月 1日 (木)

【図解】新・追求のススメ2. 近代観念による事実の封印と思考の停止

金貸しが封印してきたのは、自然科学上の事実だけではない。むしろ、金貸しは、近代以降、一貫して人々の意識を近代観念一色に染め上げ、社会科学上の事実を封印すること、その為に、学会とマスコミを支配し、学校教育とマスコミを動員して人々を染脳することに力を注いできた。それは、それこそが金貸しが世界を支配するための命綱だからである。(自然科学上の事実の封印も、その延長上にある。)311082

         皆殺しの略奪闘争の連鎖
              ↓
           共同体の完全破壊
              ↓
         共同体再生の立脚点を失う
              ↓
  現 実 否 定・自 己 正 当 化 の 思 考 回 路
  ↓       ↓            ↓
自我に立脚  不可能視刻印    架 空 観 念 に 立 脚
  ∥       ∥        ∥       ∥
  ∨       ∨        ∨       ∨
  古代宗教(唯一絶対神)・近代思想(自由、平等、博愛)
  ↓       ↓        ↓       ↓
自我だから  不可能視だから  実現しないから 信じたら終いだから
 自分脳     否定脳     不可能視     思考停止
  ↓       ↓        ↓       ↓
  └───────└───┬────┘───────┘
              ↓
      金貸しが生み出した近代思想に立脚していては
     現実世界を変革し本源社会を実現することは出来ない。   
              ∥
              ∨
       普通の人々こそ真実を知る必要がある

野田雄二 

« 2016年11月 | トップページ | 2017年1月 »

ランキング

  • にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ お勧めサイトランキングへ
2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

カウンター

最近のトラックバック

無料ブログはココログ