« 2016年10月 | トップページ | 2016年12月 »

2016年11月

2016年11月29日 (火)

自然選択説は間違っている(2/5)世にも恐ろしい二通りの説明方法

 身も蓋もない冷酷な現実を、お話しします。

 この動物は、何にでも理屈や説明を付けたがるという不思議な習性を持っています。この習性を注意深く観察していると、そこに、本質的に全く異なった2つの方法が使い分けられていることに気が付きます。
 第一の方法は、価値観を使った説明です。第二の方法は、物理的作用の因果関係に基づいた説明です。

(1) 価値観を使って、もの事を説明する。
(2) 物理的作用の因果関係に基づいて説明する。

 例えば、植物の光合成を例にとれば、次のような2通りの説明が可能です。

┏━━━━━━━━━━━━┯━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃(1) 価値観 を使った説明│明るいから、 光合成が起っている。┃
┠────────────┼─────────────────┨
┃(2) 因果関係を使った説明│光が当たると、光合成が起る。   ┃
┗━━━━━━━━━━━━┷━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

 このどちらでも、人間を納得させることが出来ます。この2つの違いを、ほとんど、自覚していません。いや、自覚出来ていません。

 光合成が起っている現場では、光が当たっていますから、明るいと感じることが出来ます。つまり、「明るい暗い」の価値観を使って現象を観察すれば、明るいと感じることが出来る場所では、光合成が起っています。だから、『明るいから、光合成が起っている。』という経験則は間違ってはいません。この経験則に基づく説明は、それゆえ、多くの人々を納得させることができます。
 『都合がいいものが、自然選択された。』という自然選択説の説明も、多くの人々の支持を得ています。素朴な実感として、全ての生物は、実に、巧妙に、環境にうまく適応しているように見えます。これは、きっと、「都合がいいもの」が選択された結果に違いないと考えています。

 でも、自然科学の理論として、本当に、これでいいのでしょうか。物理的作用の因果関係に基づいて説明すべきではないでしょうか。「光が当たっているから。」と。

 通常の社会生活では、確かに、価値観を使った説明は、白黒がハッキリして、メリハリが効いて、歯切れがよく、誰にでも、簡単に理解できます。専門家でなくても、一発で理解できます。非常に効果的です。
 マルクスは、労働に絶対的価値を見出しました。その絶対的価値観を使って、白黒がハッキリした、オセロゲームのような論理を展開しました。資本家と労働者の欲望の対立を、労働者の側から正当化しました。学者受けも良く、多くの人々を、魅了しました。高い評価をうけています。現実に目を向けさえしなければ、何の問題もありません。
 でも、しかし。。。。。

 世の多くの宗教や、哲学、思想が、価値観を使って説明しています。自然選択説と同じ間違いを犯しています。
 価値観は、人によって、立場によって変わるものです。だから、『いい、わるい』の価値観を使った論理は、その価値判断の基準を巡って、神学論争に陥ってしまします。同じ『いい』という言葉を使っても、その『いい』の内容は、人によって、立場によって、変わってしまうからです。

 ところが、人々は、「この『いい』には絶対的根拠や真理が隠されている筈だ。」という先入観を持っています。だから、自分が信じている『いい』に固守します。それと異なっている他人の『いい』は、徹底的に批判、否定します。自分にとって、価値観の動揺は、自我の不安、崩壊に繋がるからです。
 山の形は、見る方向によって、異なって見えます。東から見たのと、南から見たのでは、異なった形に見えます。自分の見えているものに固守して、他人の見ているものを批判、否定していたら、この神学論争は、永遠に終わりません。
 他人の見ているものも、その他人にとっては、真理だからです。否定されると、その他人も、自我の崩壊に脅かされるからです。

 ここに、深い闇があります。価値観の置かれている現実と、価値観に対する人間の先入観の間には、非常に、大きな乖離があります。進化論が神学論争に終始しているのも、ここに原因があります。価値観を使った論理の宿命です。
 自然科学の理論は、価値観を使わないで、物理的作用の因果関係に基づいて説明すべきです。

 できるなら、宗教や哲学、思想も価値観は使わない方が、賢明です。価値観は人によって、見る方向によって異なるものですから、自分の信じている真理を、相手に押し付けようとしたら、争いが起ってしまいます。相手は、別の真理(価値観)を信じているからです。
 結果的に、自己都合の押し付け合いになってしまいます。どうなるかは、火を見るよりも明らかです。そこにあるのは、欲望の衝突のみです。言葉を、勇ましく振り上げている分、よけい、哀れです。

【全体の構成】
  (1/5)論理的に矛盾した仮説です。
  (2/5)世にも恐ろしい二通りの説明方法
  (3/5)形容詞と動詞の違い
  (4/5)それはトートロジーです。
  (5/5)新しい生物進化の理論

井上浩二

2016年11月27日 (日)

三無主義から40年、思考停止の時代

リンク より

最近では「仕方なく生きてる」若者が増えていると聞きます。
1990年代の「自分探し」から、2000年代の「やりたいことが見つからない」という意識潮流から時を経て、現代では「仕方なく生きてる」という、若者がまるでゾンビ化しているようです。
社会に適応するには、それに応じた欠乏(内圧)が生じますが、今や欠乏の中身は何も無いことになります。
次代を担う若者がこのような状況では、お先真っ暗ですね。
一体なぜ、このような状況になったのでしょうか。

歴史を振り返ってみると、そこには必然の理由があることに気付きます。
若者に限らず、現代社会の最大の問題点である「思考停止」という構造が浮かび上がってきます。

◆無思想・無気力・無関心
いわゆる三無主義、団塊世代の次の世代に言われた言葉ですね。
1970年頃から言われはじめ、これに無感動を足して四無主義とも言われます。
それ以前は、貧困の脱出を目的とした近代観念(個人主義、民主主義など)に誰もが収束し、昔のエリートなどは近代観念で社会は良くなると本気で信じていたし、勉強していたものです。
ところが1970年、貧困の消滅(豊かさの実現)とともに、近代観念が否定していた対象がなくなると、近代観念は急速に意味を持たなくなり、誰も信じなくなりました。同時に何も考えなくなり(思考停止の始まり)、することがなくテレビや娯楽に埋没し、更なる思考停止状態となっていきました。

◆学校制度、試験制度の弊害
もう少し時代を遡ると、明治時代から始まった学校制度、試験制度のその要因が見られます。
江戸時代の寺子屋では自然圧力の中で生きる知恵を学んでいたのに対し、学校で学ぶのは試験のための知識を暗記することです。とりわけ1970年代に受験ブームになると暗記脳が顕著になり、さらに追求力・自考力が衰弱し、現在の思考停止に繋がっています。
1970年代に暗記脳が顕在化したのは、貧困の消滅に伴い家庭が無圧力空間となり、家庭には子育て課題しかなくなり、母親の囲い込みによる勉強圧力が受験に向かわせたことによります。

◆否定発の思考パラダイム
根本的な要因は思考のパラダイムにあります。
近代観念、とりわけ個人主義などは他の一切を捨象して自我を正当化した観念であり、さらには古代宗教も現実を否定して神などの架空観念を絶対化したにすぎません。人間は観念動物ゆえに物を考える際には観念が必要となりますが、その観念自体が否定のパラダイムに覆われているということです。1970年、貧困が消滅し新たな可能性が開けたにもかかわらず、また現代の閉塞した社会に対して何の答えも出せないのは、否定発・問題発の思考パラダイムに洗脳されているために思考停止になっているからです。

このように、「仕方なく生きてる」ことを掘り下げていくと、「思考停止」という大きな壁が見えてきます。
これは若者に限らず、三無主義の時代から続くもので、今や社会の基底部にある最大の問題ともいえます。
根本的な要因が「思考停止」にあるならば、否定発・問題発の思考パラダイムを捨て去り、可能性発の思考へと転換することで道は開けてきます。

これまで見てきたように、現代的な壁や課題を追求し突破するためには、歴史をとことん遡り、どこに可能性の実現基盤があるのか探る必要があります。私たちが歴史を学ぶ理由もそこにあります。

匿名希望 

2016年11月25日 (金)

思考を解放し、生きる意欲を再生する新しい教育

貧困の圧力が残存し私益の追求が第一だった頃は、近代思想も輝きを放っていたが、人々が飢餓から抜け出した’65年になると近代思想は一気に輝きを失い、見捨てられていった。今や、そんな物を信奉しているのは、その観念でメシを喰っている学者かマスコミ人ぐらいである。それ以来、50年間に亙って無思想・無気力・無関心の時代が続いてきた。
そして、人々を窮極の思考停止に陥らせ、50年を経て行き着いたのが、生きる意欲を失い、「仕方なく生きているだけ」の現在の子どもたちの姿である。しかし、それは子どもだけではなく、20代の若者も、40代の壮年も、同じなのかも知れない。(大学は、もはや役に立たなくなった近代観念を金を取って教えているが、それは詐欺ではないのか。その年齢の4年間~6年間は、かけがえのない時間なのだが・・・)

もはや、勉強以前に、生きる意欲から再生し直さなければ、どうにもならない。そこで、(類塾で実施していることだが)現実の生々しい社会現象(新聞記事)をテキストにして5人前後のグループワークでその背後構造の解明に取り組ませてみると、子どもたちは見違えるように生き生きと追求し始める。本来、仲間と追求することは楽しいことだが、子どもたちはそれを体感する。そして、新しい事実を知る度に、何らかの思い(小さな志)が芽生えてゆく。こうして追求充足と小さな志を原動力として、本物の追求心が形成されてゆく。
講義型の教える教育から、グループ追及を中心とする追及型の教育への転換は、類塾だけではなく各地で行われている。それは、勉強圧力が無効になった'13年から始まっており、すでにハーバード大や東大は追及力の育成を目指して追及型教育へと大きく舵を切ったし、都立の日比谷高校や西高や両国高、あるいは京都の堀川高校も追及型教育を実践してきた。

そして、遂に'16年入試において、これら追及型教育に転換した公立高校が東大・京大合格数を大きく伸ばす結果となった。高校入試でも、生徒たちの自主追及グループの活動が活発だった類塾の教室は軒並み94%以上のきわめて高い合格率を達成した。
これは、追及型教育が子供たちの意欲を再生するだけではなく、入試でも勝つことを実証したという意味で、画期的な出来事である。これは、教育革命と呼ぶに値する。
こうして各地で、詰込み型の教える教育からグループ追及を中心とする追及型教育への移行=教育革命が進行中である。

それは、子どもだけではない。類グループが主催する、若者を対象とする実現塾や、シニアを対象とする老人大学でも同じである。皆が、追求充足を体感して、志を芽生えさせ、追求力と認識力を上昇させてゆく。

どうやら、思考を解放する時代が来たようである。それは、50年に亙る無思想の時代から、事実追求の時代への大転換であり、そこで必要なのは唯一つ、追求充足の場を用意することである。それが必要なのは、学校や塾だけではない。それは、仲間が居る所ならどこででも、実現できる。むしろ日常の至る所で追求充足の場が生まれれば、それだけで社会は大きく動き出すだろう。

岡田淳三郎 

2016年11月23日 (水)

脳に悪い7つの習慣とは

脳に関して、知っていることも、へえ~!と思うこともあり、とても興味深い内容です。
リンクより紹介します。

///////////////////////////////

脳に悪い7つの習慣はというと、

(1)「興味が無い」とものごとを避ける
(2)「嫌だ」「疲れた」と愚痴を言う
(3)言われたことをコツコツやる
(4)常に効率を考えている
(5)やりたくないのに、我慢して勉強する
(6)スポーツや絵などの趣味が無い
(7)めったに人をほめない

それぞれ、なぜ脳のパフォーマンスを下げるのか?というのをざっとまとめると、

(1)「興味が無い」とものごとを避ける
→どんなに頭脳明晰な人であっても、興味がないことは覚えられないし、深く思考したり、独創的な発想をすることができないから。よって、「興味がない」と考えたり、口にしたりするのは脳のパフォーマンスを下げる。人の話を聞いて、「すでに知っている」と斜に構えるのもNG。自分がまだ知らない部分があるかもしれないと興味をもつことで、神経伝達路が発達する。頭がいい人とは、何事にも興味を持ち、積極的に取り組める人のことであるといっても過言ではない。

(2)「嫌だ」「疲れた」と愚痴を言う
→理解力、思考力、記憶力などの脳の力は、どれも最初の「感情」によってそのパフォーマンスが左右されるから。一度マイナスのレッテルをはられた情報は、しっかり理解できず、思考が深まらず、記憶もしにくくなってしまう。よって、愚痴を言うことにより脳のパフォーマンスが低下する。(人の愚痴を聞くことも同様。)また、楽しんで取り組むと脳は疲れないが、愚痴を言ったり、愚痴ばかり言う人と一緒にいるとそれだけで脳を疲れさせる。脳にとっては楽しむことが大切。
同様に、嫌いな上司(教師)が言うことはマイナスのレッテルがはられ、部下の理解力や思考力を妨げる。好かれない上司や指導者では、チームとしていい結果を残せない。

(3)言われたことをコツコツやる
→主体的に動かなければ、自己報酬神経群が働かないから。(脳にとっては、自分の役に立つことだけではなく、人のためになるとき、貢献心が満たされるときに、それを「自分にとっての報酬である」ととらえて、機能するようにできている)
また、自己報酬神経群はごほうびへの期待をモチベーションとするため、「だいたいできた」「終わった」と思った瞬間、脳がモチベーションを失うことを意味する。つまり、まだ終わっていないのに「できた」と思ってしまうと、自己報酬神経群が「もうこのことは考えなくてもよい」と判断してしまう。これは、脳に「とまれ!」と言っているようなもの。
物事を達成する人としない人の脳を分けるのは「まだできていない部分」「完成するまでに残された工程」にこだわるかどうか。そのためには、まだできていない部分を常に具体的に認識する必要がある。
「自分はだいたいできている」と思うと、自己報酬神経群は働かなくなってしまう。(#つまり、思考停止してしまう。「俺ってこんなにできる人間」って言ってる人は、思考停止している状態なのかも)

同様に、「無理かもしれない」「難しい」と考えると思考力が深まることのないまま頭のなかでぐるぐる同じ回路を回り続けてしまうため、困難な課題に取り組むときは、「なぜ難しいのか」を考え、「そのためにいま、何をすべきか」という対策を立てることに意識を集中するとよい。

(4)常に効率を考えている
→繰り返し考えること、そしてあらゆることを考えたつもりでも、「ひょっとしたら」と思ったら、手を抜かずに吟味すること、それが脳のパフォーマンスを高めるから。効率だけを求めていては独創性は生まれない。(#そうかな?)
「一度決めたら、他人がなんと言おうと自分の意見は絶対に曲げない」…こういう人は要注意。いったん正しいと思い込んでしまうと、脳はそれ以上思考を深められなくなる。こうした脳のクセは頑固だが、そのクセをはずすためには、「自分を疑う」という視点を持ち込むことが必要。持論をふりかざしたり、反論されてカチンとくるのは脳の悪いクセが出ている証拠。
ちなみに脳は、あまり重要でないと判断した情報は3〜4日で忘れるしくみがあるため、考えたことが本当に重要かどうか判断するときに4日寝かせてみるのも有効。

(5)やりたくないのに、我慢して勉強する
→脳のパフォーマンスを上げるためには、プラスの感情のレッテルをはることが有効だから。「おもしろくない」「嫌いだ」「役に立たない」と思っていると、記憶するのが難しくなる。逆に、心をこめて行ったことは強く記憶に残る。(#だから試験勉強の内容はすぐに忘れるのね…)
「記憶力が悪い」という人は、ものごとに関心を持っていない可能性がある。

(6)スポーツや絵などの趣味が無い
→スポーツや絵は、脳のさまざまな力にかかわる「空間認知脳」を鍛え、脳のパフォーマンスを上げるから。スポーツなどのほかに、「よくしゃべる」ことも空間認知脳を鍛える。(言語中枢の空間認知脳はよくしゃべることによって活発に働くから)(#ブレストとか、しゃべってるうちにアイデアがぽんぽん出てくることってありますよね)

(7)めったに人をほめない
→プラスの感情を混めて人に伝えることで、脳の同期発火を起こしやすくするから。(同期発火することで、相手に想いが伝わる。想いが伝わることで、コミュニケーションがとれるようになる)めったに他人をほめない人は、脳の「自己保存」のクセが働き、相手を素直に認められなくなっていることが多い。「ほめるより厳しくあたって統制をとるべき」と考える人は。裏を返せば「反抗されたくない」という考えの表れ。(2)で述べたように、嫌われたり恐れられたりしている上司や指導者のもとでは、脳がパフォーマンスを発揮できない。(#自分のことばかりほめて、人をぜんぜんほめない人は、人望がない人が多い気がします)
うれしさを表して思い切りほめることは、相手の「仲間になりたい」「人の役に立ちたい、貢献したい」という本能に働きかけることでもある。(「仲間になりたい」「人の役に立ちたい、貢献したい」というのは、脳が持っている本能。)一人一人の違いを認め、ほめる力を養うことが大切。

///////////////////////////////



原てふ子
 

2016年11月21日 (月)

文句を言う人と30分過ごすと、文字通り、脳が破壊される!

この季節は、忘年会・新年会と称して久々の友人と集まる機会が多く、とても楽しみである。
先日、1年ぶりに会った友人の口からは愚痴・不平不満のオンパレード・・
最初は「へ~、そんな風に思ってるんだ」と新鮮(と言えるのか?)な気持ちもありつつ、ふんふんと聞いていたが、帰ってなんだか変に疲れたことに気付いた。。

リンクの記事をみて、びっくり!以下引用。

■この記事であなたの人生が変わります:文句言いの人

文句を言って申し訳ありませんが、最近、苦情を言う人に関する悪い報道をご覧になったことがありますか?
時々、文句を言う人を避けることの重要性について説教されることなく、雑誌や自己啓発本を読むことは無理みたいですね。
或る典型的な記事(米国の雑誌です)によれば、文句を言う人と30分過ごすと、文字通り、脳が破壊されて「脳海馬から神経細胞が剥離する」のだそうです。
そう、読み間違えじゃありませんよ。
僅か30分間、同僚の不平不満を聞くとゾンビになるのです(例えば、プリンターが壊れてるだの、意見されるだの、そういった単純なことでも脳への打撃があります)。
文句を言うことは、神経細胞剥離論の原因であり、「西側の文化的疾患」である、と英国生まれの企業家、トレヴァー・ブレイク氏は新著『Three Simple Steps(3つのシンプルな方法)』に記しました。自分で自分を護らなくちゃいけないんですね。(引用終了)

脳が破壊される!!
衝撃的なうえ、自戒も込めてこれは「まずい」と感じた。

否定脳は、何も生み出さないどころか、せっかく生まれ持ってきた(生きるための)肉体破壊まで行ってしまう。

引用元では、「どうするつもりなんだい?」と尋ねることが解決策と書かれているか、常に可能性を探索する思考をしていくことでしか、わたしたちは生きていけないんだな、と確信した出来事でした。
 

月あかり 

2016年11月19日 (土)

唯一絶対と信じることが他者を否定し自己を正当化する!

 キリスト教は唯一絶対神を信じ込む。彼らは、キリストを唯一絶対とすることで、他者(異端)を排除した。また、唯一絶対だから、自己を正当化せざるをえない。そうしなければ己の存在価値と権威を証明できないからだ。だから、根拠のない架空観念のベールでその醜い心をオブラートし、世の中を破壊してゆく。この狂った観念は全てを破壊に導く。

 これはなにも、キリスト教だけではない。唯一絶対と信じ込むことから、全ての否定が始まる。科学でも家庭でも婚姻でも宗教でも経済でも市場でも政治でも文化でも、唯一絶対とする思考が、否定の道をたどり、その結果、破滅と滅亡がまっているのである。それは、数々の勃興の歴史が証明している。

 私たちは、この思考方法を転換し、開放しなければならない。いままでの私権社会は、全てこの否定思考で覆われている。この思考を強制させられたのである。明らかに、人類の本源とは、真逆な思考方法である。現実は、否定できないし、否定したところで、変わらない。当然、現実を突破することを迫られた生物一般は、受け入れるしかない。そこから、生きるべく答えを見つけていったはずだ。

 この思考方法を開放することが私たちの行く道である。

匿名希望 

2016年11月17日 (木)

福沢1万円札の秘密

記事を読んで確かにと思った。記憶にある限り(殆どの諸兄も同感と思いますが)一万円札の肖像「福沢諭吉」は、他の札の肖像が変わっても変わっていない。その謎が解ける記事の紹介です。リンクより転載します。

**********転載開始
■アジア蔑視の福沢と日本政治
福沢諭吉というと、天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らずといえり、という彼の「学問のすすめ」の冒頭文しか知らなかった筆者である。名古屋大学の安川教授に出会って、初めて事の真相を知って驚いてから、かれこれ10数年になる。今回、同じく福沢研究の第一人者の鹿野政直著「福沢諭吉」(清水書院)を読んでみて、なるほど1万円札から姿を消さない秘密がわかってきた。アベノミクスですっかり価値を半減させてしまったが、それにしても福沢1万円札の寿命は長い。これこそが、日本の前途をも暗示している?

■前期の福沢は健全
下級武士の子として生まれた彼は、厳しい封建社会の身分制度に反発しながら成長する。福沢が塾で漢学を学ぶのは13、4歳と、決して早くはない。
筆者にも少し似た経験があるが、彼は家々に祀られている稲荷や神札に疑問を抱く。本当に神罰があるのか?

神札を踏んずけたり、あるいは狐を祀っているという稲荷(いなり)の中に何があるか。確かめると石だったり、木の札である。人々が稲荷の前でお神酒を上げたり太鼓をたたく様子を、馬鹿らしくて仕方なかった。「馬鹿め、俺の入れた石にお神酒を上げ、拝んでいるとは面白い」などと自伝に書き残しているほどだ。

世の中の宗教的因習について、疑問を抱く好奇心旺盛な青年が語学にのめりこむ。学問への道は長崎での蘭学から、ついで黒船がやってきてからは英語へ切り替えた。今でいう語学の天才なのだ。討幕を目的とする当時の尊王攘夷論には、ほとんど関心を示さなかった。

■転機は欧米視察
当時、外国語といえばオランダ語であるが、彼はいち早く英語に切り替えたおかげで、幕末の幕府に仕える幸運を手にした。そして欧米視察の機会に恵まれた。このことが、啓蒙思想家としての契機となった。
「西洋事情」を書いて世間の注目を集めた。本人も驚くほどよく売れたという。一躍国際政治学者となって、著述に励む。明治新政府が誕生すると、小さな慶應義塾にも熱を入れる。ついで「学問のすすめ」の出版である。
語学の天才は、西洋の近代文明社会を紹介しながら、封建遺制からの脱却を訴える著述活動に専念、一躍啓蒙思想家の地位を不動のものにしてゆく。

この「学問のすすめ」で、福沢は「一身独立・一国独立」の必要性を説いた。前者は、おそらく儒学の「修身斉家」からのヒントであろう。この主張は正しいのだが、いまの日本は、一国独立を実現していない。それは為政者が、一身独立をしていないからである。
これを実現しようとした政権は、これまでのところ鳩山由紀夫内閣である。それゆえに極右とCIAにつぶされてしまった。安倍内閣は、鳩山とは正反対のアメリカ属国路線である。泉下の福沢の嘆きはいかばかりであろうか。

■後期の脱亜入欧・アジア蔑視
福沢後半の主張は、筆者の目には天皇制国家主義の擁護者そのものであり、とても評価に値しない。それどころか、半島や大陸の腐敗政権をよいことに、これを退治することが日本の使命というような、獰猛な侵略と植民地政策を推進する主張へと変わる。
したがって、政府攻撃に命を懸ける自由民権運動に対して、公然と批判を加える福沢である。明治政府お抱えの広報宣伝に突っ走る。それを新聞「時事新報」を使って爆発させてゆく。

今でいう読売・産経であろう?ひょっとしてナベツネは福沢気取りかもしれない。これを可能にするためには、富国強兵策の推進となる。日本帝国主義論者として、政府のお尻を叩いてゆく。
戦争国家日本を推奨するような福沢は、いわば極右思想の権化といっていい。天皇のために死んでゆく青年を祀る靖国神社に「天皇自ら参拝せよ」とも訴えてゆく天皇主義者ともなる。
そこからは民主主義者という福沢イメージは、まったく見えてこない。それでいて、なぜ21世紀日本の1万円札なのか。これが不思議でならない。

■財閥擁護の福沢
要するに、アジア蔑視の福沢・富国強兵策の福沢の主張の先に、日清・日露戦争があり、ついで半島と大陸への侵略・植民地政策へ発展、結果、日中戦争・日米戦争で滅亡した。そして戦後70年においても、福沢1万円札は生きている。ここに今の日本の、秘匿された極右の野望を見て取れる。
初期の福沢は頼もしい日本人だった。後期の彼は、軍国主義者・帝国主義者である。平和を愛する日本人とアジアの敵である。それでいてなぜ1万円札か。

福沢のもう一つの顔は、政商・財閥擁護にある。「強い日本」は、強い経済力を必要とする。資本との提携である。財閥と共にある。ここがポイントである。お金を印刷する大蔵省・財務省は、財閥の霞が関支店である。そこで福沢は浮上したものだ。自公政権を操る財閥の野望を見て取れる。

慶應義塾には、出来の悪い財閥・財界人の子弟が入門する大学で知られている。財閥は、東大OBの官僚を天下りさせて配下にしている。興味のある御仁は、名古屋大学の、現在は名誉教授の安川本を読むと、福沢の正体を容易に理解することが出来る。
**********転載以上

takigawa hayami  

2016年11月15日 (火)

あなたの会話に「ギフト」はついてますか?

会話の中でお土産をつけて返してくれる「会話ギフト力」。なるほど、相手を嬉しくさせる力のひとつかも♪と思います。
以下、(リンク)より紹介させて頂きます。

* * *

私たちは、日々、生活をし、様々な人々に出会うと、「あっ、この人、頭がいいな」「この人、知性的だな」と感じる瞬間があります。

「知性とは何か?」という形而上学的問いは、それだけで本が40冊くらい書けそうですので、このインスタント・オフザケブログには、全く「身の丈」にあっていません。

ここでは問いを少しだけズラして、僕自身が、「あっ、この人、知性的だなぁ・・・」と感じる瞬間、何を判断根拠にしているかを振り返り、書いてみることにします。

「知性とは何か?」という問いと、「自分が知性的だと感じる一瞬はどんな瞬間か?」といういわばプチ現象学的な問いは、似ているようでいて全く異なります。そして、後者ならば、このブログにでも30分で書けるかもしれない。


僕が、他人をみて「この人、知性的だな」と感じる一瞬は、下記の3点です。

1.「会話ギフト力」のある人に出会ったとき
2.「本題戻り力」のある人に出会ったとき
3.「自己言及力」のある人に出会ったとき

まず「1.会話ギフト力のある人」というのは、「相手側の発話」をまずは「受けとめ」、そのうえで、その内容に「プチ情報=お土産」をプラスして、投げかえしてくることのできる人のことをいいます。
自分の投げたボールに「ギフト」がついてくるのですから、こうした人との会話はとても盛り上がります。嬉しいですね。

自戒をこめて申し上げますが、非常に簡単なようですが、これがなかなか難しいものです。

まずは、相手が言っていることをいったん「聞き切ること」が大切です。話の腰をおったり、途中で遮ったりすることなく、相手の言うことを聞きとり、受け止めることができる。これだけでたいした能力です。いわゆる傾聴力や、概念力が求められます。

その上で、相手が好きそうな「ギフト」をつけて渡さなければなりません。そのためには、どんなボールにでも「相手にとってもらってよかったと思えるお土産」をつけることのできる「豊富な知識ベース」が必要です。ここまでできれば、すごいなぁ・・・と思ってしまいます。


次に「2.本題戻り力のある人」というのは、これも簡単なようですが、なかなか難しいものです。

会話というのは、録音してみればすぐにわかりますが、いやはや、あっちゃこっちゃ、好きな方向に飛んでいってしまうものです。
要するに会話は、ほおっておけば、「本題」からすぐに外れていき、支流をあっちゃこっちゃするものです。ドリフトしちゃうのよ、すぐに。

そんなときでも、「本題戻り力?」のあるひとは、本題が何かをしっかりグリップしつづけ、支流に自分たちの会話が流されていたとしても、話を元に戻すことのできます。
これができるためには、支流で相手との会話をやりとりしながら、本題を常にグリップしつづけ、そこに帰ることを企図しながら会話を続けなければ鳴りません。これができるためには、高度なメタ能力が必要になるでしょう。


最後に「自己言及力のある人」というのは、要するに、物事を分析・思考していつつも、常に自己を振り返りつつ、「自分へのやじるし」を忘れない人のことをいいます。

どんなに高度な分析をしても、概念化をしても、「自分だけはその対象に入らない人」というのが一方でいます。他人のことはあーだこーだ言えるし、注文はできるのに、自分はその対象に入らない。自分をつねに「かっこ」の中にいれてしまう思考法です。

一方で、自分を常に謙虚に振り返りながら、自己のあり方を変化させられる人がいます。僕は、後者のような思考のあり方を「知性的だな」とみなします。…
(引用おわり)
* * *

コメットさん 

2016年11月13日 (日)

脳は「否定形」を理解できない

人間の脳は「否定形」を理解できないそうです。確かに、「青い人参を想像しないでください」と言われても、脳は勝手に反応して「青い人参」を想像してしまいます。

左脳は顕在意識(意識)を、右脳は潜在意識(無意識)を司っており、「タバコをやめよう(顕在意識)と思ってもやめられない(潜在意識)」というように、人間の行動はその90%を潜在意識によって支配されているそうです。

子供の教育をするのに否定形で注意するのではなく、肯定形で注意するのは良さそうですが、肯定形を使うということは、具体的な改善方法を自然と考えることになるので、大人が自分で決め事をする時にも、より前進感があって良いと思います。

以下リンクより引用
>私たちの脳は、「否定形」を理解できません。イメージできませんという表現のほうが適切かもしれません。
「○○しちゃだめ」「△△はよくない」という表現で強く脳に刻まれるのは、○○や△△の部分なのです。

特に、子どもなどは素直ですから、否定形の表現が逆効果になります。騒いでいる子に「騒がないで!」は逆効果です。
「騒ぐってどういうことかな?こういうことかな?」という無意識が働き、ついつい騒ぎたくなってしまいます。

脳の素直な反応を効果的に利用するためには、肯定文を使って表現するようにしましょう。
たとえば、
○失敗しないようにしよう→上手くいくように行動しよう
○上司に怒られないように仕事をしなくては→お客様に喜ばれるように仕事をしよう
○緊張しないようにしよう→リラックスしよう
○遅刻しないようにしよう→時間通りに出社しよう
このような表現に変えると、すべき行動が明確になります。

肯定的なイメージがわきますので、能動的に行動をしやすくなり、実際の行動も変わるのだと思います。
同じ内容の話でも、肯定文に変えるだけで脳の働きは全く違ってきます。<

仙人掌 

2016年11月11日 (金)

「娯楽」を「与えられるもの」だと考えている人は、仕事ができない

シンプルだが、とても根幹をつく話。休みがない=「与えられていない」と他批判した姿勢だと、仕事そのものでも能動的にはならない。なれるはずがない。

「遊び」であっても「生産的」か否か。また、自ら主体性をもち動くことができているか。仕事でも娯楽でも良し悪しを左右している。

一部引用(リンク
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

柏崎には遊ぶ場所がないと言う人は「柏崎にはAEONやジャスコがない」や「柏崎には映画館がない」、「長岡や新潟市のようなショッピングモールがない」と言います。

これらは、果たして遊びって言えるのでしょうか?お金出してサービス受けて、そのお金は本社に行ってしまって自分たちのまちにお金が回らない。これも結局、「お客さん」ですよね。遊びじゃないです。

わかる。ぼくも先日、「田舎なんて遊ぶ場所ないじゃないですか」という意見をもらったんですよ。誰から、というわけではなく、これは割と一般的な反応でして、移住してからかれこれ15人には言われてますね。うちの姉も同じこと言ってた気がする。

何を言ってるんですか。田舎のほうが、遊べますって。

要するに、都会の遊びは「消費」なんですよね。誰かが「ようこそ!遊んでください!」とお膳立てしたものを、ほいほいと消費しにいくことが、彼らにとっての遊びなのでしょう。彼らにとって、遊びは常に「与えられるもの」です。

田舎の遊びは違うんです。ぼくらは、自分で遊びを作り出します。空き家を修繕したり、農業やったり、狩猟したり、どぶろく醸したり。

都会の遊びが消費的なことに対して、【田舎の遊びは常に「生産的」】です。価値を作り出すことが、エンターテイメントなのです。

仕事も同じだよね

んで、これって仕事に対する態度も、同じなんですよね。

ぼくが知っている【優秀なビジネスマンは、みんな「遊び」も生産的】です。単にディズニーランド行ってヤッホー!みたいな話ではなく、自分ひとりでコツコツと、仲間たちとワイワイと、何かを作り出すのが「遊び」になっているんです。

ある段階で、消費的な遊びはつまらないことに気付くんですよね。そもそもお金もかかりますし。文化祭のように、何かを自分たちで作ることが、実は最高の娯楽なんですよ。

仕事ができる人は、みんなそれをよくわかっている感じがします。仕事も同じで、与えられたことだけやっていても面白くないわけですから。

【「自分で仕事を作る」ことこそが、最高に楽しくて、パフォーマンスも高まる】のです。遊びと仕事の境目が無くなります。

こどものように、生み出しましょう。与えられたものを消費するだけの遊びは、卒業しましょう。世の中は面白いのですよ。ぼくは高知で超遊んでます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

昆陽 

2016年11月 9日 (水)

金貸し支配の突破口は観念パラダイムの転換

実現塾の「日本をどう再生するか?」の議論で、重要な気づきがありました。可能性発で実現基盤を発掘していくと、金貸し支配の突破口は、本質的には観念パラダイムを転換して行くことにあると気づきます。

●金貸し支配とは何か?
金貸し支配→法制支配・共認支配(=旧観念支配)→思考停止→無思想・無気力・無関心。

今の社会が閉塞し、様々な不整合な事象が増えているにもかかわらず、どこからも答えが出てこないのは、ほとんどの人が、無思想・無気力・無関心に陥っているからです。

それは、思考停止の結果ですが、人々を思考停止に陥らせている原因は、法制支配・共認支配(=旧観念支配)であり、根本的には金貸し支配にあります。官僚制度、労働制度、学校制度等の私権制度でがんじがらめに人々を支配し、学者・マスコミ等を通じて、個人、自由・平等・博愛、民主主義等の旧観念で、人々にモノを考えさせないようにしてきました。

言うまでもなく、日本の法制・共認は、官邸→学者・マスコミを通じて金貸しに支配されており、原因分析的に言えば、金貸し支配が社会閉塞の根本原因ということになります。

●突破口は?
問題意識発の思考から考えると、根本原因である金貸し支配を突破しなければならないと発想しがちです。しかし、そのような問題意識発の思考では、突破口はなかなか見つかりません。政治・経済の仕組み、学校制度やマスコミ支配の構造を変えなければならないという方向で考えると、一朝一夕には実現はできないという現実にぶつかって、ものすごい壁を感じて思考停止してしまいます。

しかし、思考のベクトルを逆転させて、可能性発で考えると実現可能な突破口が見えてきます。実現可能な突破口は、観念パラダイムの転換です。思考停止が人々を無思想・無気力・無関心に陥らせているとすれば、先ずは、思考停止を突破することが本質的な突破口となります。しかも、それば十分実現可能です。

金貸しからすると、人々がモノを考え始めることほど恐ろしいことはありません。政治家、学者、マスコミが言っていることは嘘だらけであるという事実に気づき、みんなが金貸し支配→旧観念支配に代わる可能性を考え始めると、金貸し支配は確実に終わります。

●実現基盤は?
実現基盤は、人々の意識潮流にあります。豊かさが実現されて私権圧力が衰弱し、本源収束の大潮流が形成されています。人々は金貸しの存在基盤である私権→市場には収束しなくなっており、仲間収束、集団収束、自然収束など、人類の本源にあるものへ収束する潮流が強まっています。この本源収束の潮流は、年々強くなる一方です。なかなか言葉にはならないかも知れませんが、人々の意識の中では喉元まで出かかっており、顕在化する寸前といったところまで来ています。

本能・共認の潜在思念では、すでに私権から本源へ転換していると言えますが、人々が思考停止に陥っているのは、旧観念潜在思念の可能性探索に蓋をしているからです。個人、自由・平等・博愛、民主主義といった近代の旧観念は宗教観念と同じで、現実の変革不可能視からくる架空の価値観念です。「信じる物は救われる」という価値観念ですから、お題目として信じていればよく、それ以上モノを考えなくなってしまいます。

しかし、本源収束の大潮流が形成されている今、人々の潜在思念旧観念との断層、不整合は増大するばかりです。観念機能が人類の最先端機能である以上、潜在思念の可能性探索に蓋をしている旧観念に代わる新しい観念・新しい言葉に人々が収束して行くのは必然です。

旧観念の大前提にあった現実不可能視→否定・問題意識発の思考を可能性発の実現思考に切り替えて行けば、自ずと人々の観念欠乏は顕在化します。旧観念から脱却し、潜在思念にある可能性発の実現思考を解放して行くことこそ、金貸し支配の突破口であると思います。

雪竹恭一

2016年11月 7日 (月)

日本の労働に対する「ぬるさ」を直視する、ある映画監督が語る仕事観②

--------------------------

●「いま、日本では内戦が起きてる」紀里谷氏の考えるネット社会の弊害

 紀里谷氏の“ネット論”は、さらに以下のように続く。

紀里谷:断言してもいいけど、いま日本国内では内戦が起きていると言えますよ。

どういうことかというと、“がんばって行動する人たち”と“しないヤツら”の内戦。“何かに情熱を傾ける人たち”と“それをバカにするヤツら”の内戦。インターネットが普及して以降、ここ10年くらいに起こった日本の衰退は、“ヤツら”のほうに耳を傾けすぎてしまったことによる衰退だと思いますね。

これをしたら、なんか嫌なこと言われるかもしれない、デメリットがあるかもしれない、炎上しちゃうかもしれない…。そうやって耳を傾けすぎて、姿の見えない第三者の言いなりになってる。でも、そいつらは誰なの?なんなの?

実際にそいつらの住所をつきとめて会いに行ったとしたら、きっと笑い転げると思いますよ。こんなくだらないヤツらだったのかって。こんなヤツらの言うことを気にして真に受けてたのかって。

いい加減、目を覚まそうよ。そういうヤツらは、一体何人いるの?人数としては、すごく少数だと思うよ。そんな少数のヤツらのせいでどれだけの人たちが苦しんで、どれだけの人たちの夢がつまれて、どれだけの人たちが傷ついてるんだよ、って話です。

――紀里谷さんがTwitter等で悪口を言ってくる人に対してリプライを返すことがあるのは、そのような考えからですか?

紀里谷:うん。それが風潮になればいいよね。

悪く言うのはいいよ。何を言ったっていい。でも、その言ったことについてはしっかりツッコまれるっていう風潮ができればいいじゃないですか。それが匿名だとしても、言ったことに対しては責任をとらされる。

よく、『あんな悪口、放っておいたほうがいいですよ』って言われるんだけど、放っておくからこういう社会状況になるわけですよ。

いまや、少数である“ヤツら”の攻撃が10年かけてネット上を飛び出し、社会全体にボディブローのように効いちゃってる。テレビでもクレームや炎上を気にしてやりたいことや面白いことができないし、会社の会議の席でも思ったことが言えなくなってる。

そんななかで、どうやってイノベーションを生み出すの?そんななかで、どうやってみんなが笑える社会をつくるの?そういう風潮が、どれだけの弊害を作り出したか…。経済効果でいえば、何千億円何兆円レベルの悪影響だと思いますよ。

――“物言わぬ支持者”は、もっとたくさんいるということですか?

紀里谷:そうだし、その“物言わぬ支持者”が黙りこくってるからこうなっちゃうわけじゃないですか。駅で殴られてる人がいて、それを知らんぷりしてるようなものですよ。。でも、本当に放っておいていいの?

●たったひとつの理想を実現するため、やれることは全部やる

“内から湧き上がるもの”は一体何なのか?最後に聞いてみた。

――日本各地で何万枚とビラ配りをしていて、新たな発見や気づきはありましたか?

紀里谷:無心になって一生懸命何事もやる。その先に喜びがある。やっぱり、労働するっていうことはいいものだな、っていうことですかね。

確かに、ビラ配りっていうのは一種の行みたいなものですよ。修行の行。でも、『ビラ配りつまんねぇなぁ。やりたくねぇなぁ。けど映画ヒットさせるためにやっとくかなぁ』って思ってやるのと、『昨日は900枚配ったけど、今日はどうやって1000枚にしようか』って真剣に考えながらやるのとでは、わけがちがいますよ。捉え方なんじゃないかな、何事も結局。

――ビラを配るうえで、どのようなことを真剣に考えたんですか?

紀里谷:たとえばサイズです。今回は、ビラというか自分の名前が書かれた名刺を配ってるんですけど、そもそもビラなんてものは自分も受け取らないですよ。あんな大きなもの。手ぶらの男の人だったら、あんなもん捨てるしかないですよね。

じゃあ、自分だったら何を受け取るか?まずサイズに問題がある。小さければいけるんじゃないか。名刺サイズにしよう。名刺サイズなら、自分の名前を書いちゃおう。僕の顔を知らなくても、名前が書いてあれば『あ、紀里谷ってあの…』ってなってくれるかもしれないし、『写真撮りましょう』ともなるかもしれない。

その写真をSNSで拡散してくれたり友だちや家族に見せてくれたりすれば、1枚の名刺が何十倍にもなって、1万人に配れば10万人に届くかもしれないわけです。それはとても大きいですよね。

やれることは全部やらないといけないし、最も有効な方法を考えないと。実際にそれを考えて実践していくと、ビラをもらってくれる人の割合は全然変わってきますよ。

――なぜ、そこまでできるのでしょうか?

紀里谷:それを言うってことは、自分だったらやらないってことですよね。そこが違うんだよって言いたい。僕はよく、自分を取り巻いてきた環境について『恵まれてますね』って言われます。確かに、恵まれてるところはあると思う。でも、実際の仕事における立ち位置でどこに違いが生まれるかといえば、そういうみんながやらないことをやるところですよ。

きっと、上に立つ人はみんな、他の人がやらないことをやってるはずです。御社、サイバーエージェントの藤田(晋)さんだってそうでしょ。

 最後に紀里谷氏は、ビラ配りも含めたあらゆる活動の究極の目的について語った。

紀里谷:自分の目的は何なのかといえば、単純な話で、“自分のつくりたい作品をつくりたい”ということ。そういう、きわめてシンプルなところからすべてがきてます。映画監督になりたいとか映画監督と呼ばれたいとかじゃない。いま現在の自分のつくりたいものの表現方法がたまたま映画なだけです。

とにかく、自分のつくりたいものを世界中の人たちと一緒になってつくりたい。そしてそれをひとりでも多くの世界中の人に見てもらいたい。それだけ。その一点です。

その理想のためにすべてがあるといっても過言ではないし、その目的を果たすために何をするのかということを僕は容赦なく考えます。その考えた先にビラ配りがあれば、もちろん一生懸命やりますよ。

----------------------------

二郎板
 

2016年11月 5日 (土)

日本の労働に対する「ぬるさ」を直視する、ある映画監督が語る仕事観①

日本人はよく働くと言われている。
にも関わらず労働は「辛いもの」として捉えられ、休みをとることばかり考えられる。
本来、「やりたいこと」を仕事にすればいいのに、それにのめり込むと「熱いね」とネット等で炎上したり、冷めた目で見られる。

そんな現代の日本の風潮に突っ込むある映画監督の記事。

以下、リンク
「映画監督・紀里谷和明(47歳)へのインタビューは、一筋縄ではいかなかった。」
-------------------------

●監督自らビラ配り…「“え、やんないの?”と思っちゃう」

「よし、じゃあちょっと早いけどやっちゃいましょうか」という紀里谷氏の一言で始まったインタビュー。

これまで世間から抱かれがちだった「とっつきにくい」「こわい」といった印象を払拭しようとしているような意図が感じられたが、まずはその点について聞いてみた。

紀里谷:いや、特にそういう意図はなくて、社会がそういう偏見をもっていただけだと思う。『こんな人だと思わなかった』って言われるのが不思議で、なんでそんなとっつきにくいようなイメージをもたれていたのかなぁと思いますよ。

――監督自らビラ配りに立つのは、なかなかないことだと思います。

紀里谷:それもよく言われるんだけど、『監督自らよくやりますね…』って言われると、『え、やんないの?』と思っちゃう。僕は監督だけじゃなくこの映画のプロデューサーもやってるから、そりゃあ余った時間があればビラ配りだってやりますよ。

自分の子供が死にそうになってて、治療費用が莫大に必要だったら、募金箱もって街頭に立つ。それに対して『そこまでやるの?』とはならないはずです。作品は自分にとって子供のようなものだから、『そこまでやるの?』と言われると、やっぱり『やんないんだぁ』と思っちゃいますね。

仕事をすること、“労働”って単純にそういうことじゃないですか?

●紀里谷和明が語る仕事観

「労働」という言葉が出ると、紀里谷氏は日本人の仕事への考え方について話し始めた。

紀里谷:多くの人は、労働を“いいもの”として捉えていないですよね。なるべく働きたくない、休みが多いほうがいいと思っていて、『週何日休みか?』とか『有休はどれくらい取れるのか?』みたいなことばかり考えてる。

そういう人を見ると、『それだけやりたくないことをやらなきゃいけないのか?』と思っちゃう。確かに生きていくためには、やりたくない仕事もしなければならない。楽しいことだけな訳がない。しかし、それが生きるということでしょう。僕は、休みはいらないですもん。“オン・オフ”なんて言葉もあるけど、常にオンです。

――日本では、“働きすぎ・働かせすぎ”を悪しきものと考える風潮があります。

紀里谷:だから衰退するんだと思います、この国は。“失われた20年”なんて言うけど、単純に人が仕事しなくなっちゃったんだと思う。特に若い人たちは、熱をもって突っ込んでいかないし、熱をもって泥まみれになりながらでも血ヘド吐きながらでも何かをするっていう姿勢がないと思う。そのくせプライドだけは高い。だからすぐ辞めちゃうんじゃないですか?

で、こういうことを言うと今度は『熱いですね』っていう冷めた姿勢が始まる。『なんでそんな冷めていられるの?そんなに余裕あるの?』って感じます。余裕ないくせに、かっこつけて舐めたこと言ってるんですよね。そう言うことになんのメリットがあるのか、さっぱり分かりません。

「こんなこと言うと嫌われちゃうよね」と言いながら上述の仕事観を話すが、カメラマン・ミュージックビデオ監督・CM監督・映画監督と形を変えながら常に自分のつくりたいものをつくり、一流の世界で戦いながら結果を残してきたという圧倒的な実績が、「嫌い」などとは流せないほどの強い説得力をもたらす。

紀里谷:“失われた20年”もそうだし、“なぜ日本からイノベーションが起きないのか?”っていう議論もよくされるじゃないですか。で、専門家がそれっぽいことを言うんだけど、実際はその理由は誰も直視してない。“ぬるい”んですよ、一言でいえば。なんでもかんでもぬるいんです。レスポンスがとにかく遅いし、細かいところまでこだわらない。

日本人は勤勉とかよく言うけど、そんなのウソです。労働日数のデータも出てるけど、アメリカ人はまぁ仕事しますよ。働くときはちゃんと働く。対して、日本人の仕事は学校のサークルみたいに見えることもあるし、実際それでもやっていけちゃう。そりゃあどんどん引き離されますよ。

●すべては“自己責任”

紀里谷氏がアメリカへ渡ったのは、15歳の誕生日の翌日。氏は、「小学生のときから行こうと思ってた」と語る。若き紀里谷氏をそうさせた“きっかけ”は何だったのかと聞くと…

紀里谷:それは外的要因のことですか?違いますよ。そこに至るには、単純に内から湧き上がるものがあったんですよ。無意味ですよね、外的要因のことを言い出すのは。外的要因の話をすれば、すべて“何かのせい”や“人のせい”になって自分の人生に制限をかけることになる。それは、きわめてつまらないことだと思います。

ただひとつだけあったとすれば、父親の教育ですね。当時から子供扱いされたことはなかったし、常に“自己責任”だと言われてきた。何をやってもいいけど、すべて自己責任。親というより、上司でした。

――紀里谷さん自身、“すべて自己責任”という考えを現在もたれていますか?

紀里谷:だって、それ以外ないじゃないですか。それ以外に何があります?いま、誰かのせい、社会のせいって、何かしら外的要因のせいにしてる人が多すぎる。それで遂には、何かのせいにしてなんにもできないからって、一生懸命がんばってる人を笑い、攻撃するヤツまで出てきた。

――それは、ネット上においてですか?

紀里谷:そう。なんにもせずに人のせい・社会のせいにするようなヤツらが炎上させたり、“リア充”って言葉で人を笑ったり。で、それに対して今度は“がんばってる人たち”側が気を遣ってしまってますよ。炎上したらどうしよう、リア充って笑われたらどうしようって。

バカじゃないのと思いますね。そういういらぬ気遣いを子供たちが真に受けちゃって、自分がやりたいこともやっちゃいけないんだって思いはじめちゃうんですよ。

②へ続く

二郎板 

2016年11月 3日 (木)

言葉使い一つで脳の使い方が変わる【上司編】

 ツイてる人がよく口にする10の言葉【上司編】(リンク)を読んで、かなり肯定的で、可能性発の発言だと感じ、「ツイている」というのは、こういう原理か!なるほど!と感じた。

 というのは、問題発の発信では否定して終わり、周りも思考停止にしてしまう現象があるのに対して、「こうした方がもっとよくなりそう☆」という可能性発の言葉の発信では、みんなも可能性に導かれて、実現思考になると、思うからだ。

 つまり、こうした(ツイている人のように)周りをやる気にさせる事ができる人は、周りの人がドンドン実現可能性に向かって思考を進めてくれるので、必然的にツイている☆ということになるのだと感じた。

 自分だけががんばっているのに周りが動いてくれない(><;)、と感じる人は、言葉使いを変えたらいい!と思う。言葉使い一つで脳の使い方が変わる、周りの人の動きが変わるように思う。

*****************
 言葉づかいを変えたときの、「突然どうしたの」という周囲の反応を恐れてはいけない。ツキを味方につけるためには実践あるのみだ。

▼部下を乗せる言葉
周りからの評価を上げるために、一番簡単なのは行動を変えることだ。なかでも効果が大きいのは発言である。発する言葉が変われば、周囲の見方が変わってくる。リーダーの立場にある人なら、職場のムードを変えることもできる。

 例えば部下が前例のない新しい企画を提案してきた場合。論理的に分析すると、大きいリスクを前に尻込みしてしまうことも多いだろう。しかし、すべてを前例がないというだけで片付けていては真のリーダーとはいえない。

 今、リーダーがやらなければいけないことは、会社の中でやったことのないこと、業界の中でやったことがないことをやることだ。当然、前例なんてない。

 企画内容が面白いのであれば、「これ、面白いよね」「できたら最高だね」「わくわくするよね」と、まずはモチベーションを上げる言葉で、部下のやる気を高めることが大事だ。

 そんな前向きな言葉をかけてくれる上司のところには、斬新な企画提案が増えるし、メンバーのやる気が高まり、成功の確率も上がるはずだ。

× う~ん、前例がないからなぁ
○ これできたら最高じゃない?

▼べた褒めする言葉
 昔から、謙遜することが日本人の美徳とされ、「うちの愚妻が」というような言葉が普通に使われてきたが、今はそういう時代ではない。

 特にビジネスの世界においては、謙遜は決して美徳にならない。例えば、「うちにはノウハウがないので、ぜひともご指導ください」と言うと、相手を立てているように聞こえるが、仕事を共にする相手にとってみれば、ノウハウのない会社に仕事を任せられない気持ちになる。また、同席した部下も、まるで無能な社員ですと言われているようでいい気持ちはしない。

 いいリーダーは、社外の人に自分の会社のことを話すとき、「うちのスタッフは皆、優秀で」と話す。部下が同席しているときにも、あえて「うちは最強のチームですから」と言うようにする。

「君は優秀だね」と直接褒められるのもうれしいが、他者の前で「こいつ、すごいんです」と言われたほうが、言葉の信憑性が高まり部下のやる気にもつながる。

 社内で話すときも同様だ。「うちのチームは優秀だよね。これができるんだから、何でもできるんじゃない?」「こんな優秀なメンバーが集まるのは珍しいよ」と、前向きな言葉を使いたい。
(中略)

× うちにはノウハウがなくて(謙遜)
○ うちのスタッフは皆、優秀でして

▼気づきを与える言葉
 会話がない職場が増えている。朝、出社しても、誰も挨拶しないまま、自分の机に座ってPCを立ち上げる。誰かが通っても、まったく反応なし。社員のモチベーションも低い。

 元気のある会社のリーダーは、現場をよく見ている。“Management by walking around”という言葉があるが、役員クラスになっても工場などに行って、「最近、どう?」と声をかけて社員一人ひとりに気を配るのだ。

 どれだけ頑張っても利益が上がらないときに、これから自分はどうなるんだろうという不安にかられる。沈滞した職場を明るくするのに、お金もかからずすぐにできる方法が、声をかけることだ。

 部下への声かけが、「新規どれくらい増えた?」とか「売り上げ伸びた?」あるいは「目標達成できた?」といった言葉に終始してしまうのも残念である。これらのワードは、すべて会社側の都合によるもので、お客さんの視点が抜けている。そんな言葉で物事を考え続けていると、出世欲だけが強くなって「成功しなくては!」と焦るあまり、変な技巧に陥ってしまうことにもなりかねない。

 よって、「売り上げ増えた?」ではなく「お客さん、増えた?」、「新規どれくらい増えた?」ではなく「お客さん、喜んでる?」と言うようにするといい。同じような意味でも、視点が変わることで意識がまったく変わってくる。結局、それが売り上げ増加にもつながる。

 本当に大切なことを見失わないように、折に触れ部下に気づきを与えることは上司の大きな役割だ。

× 売り上げ増えた?
○ お客さん、喜んでる?

▼うつから守る言葉
 仕事がうまく回っている人は、どれだけ忙しくてもにこにこしているものだ。トラブルがあっても、笑顔で「困ったな」なんて言っている。

(中略)
 厚生労働省によれば日本人の15人に1人がうつ病にかかる可能性があるといわれる時代。暗くて、いつも怒っているリーダーは部下をダメにすると考えていい。困ったときも、笑顔で対応できるリーダーこそ、今の時代に求められるリーダーなのだ。

× (暗い表情で)困ったな
○(笑いながら)困ったな

◎ポジティブワードのバリエーション[上司]
・これ、面白いよね
・うちのチームは最強だ
・こんなチームが組めるなんて奇跡だ
・仕事ができるだけじゃなくて、いいヤツばっかりだぜ
・こいつ、すごいんですよ
・よく頑張ってるな
・ドンマイ!
・おまえに任せた
・大丈夫、できるよ
・○○がいいね!

池田みさき  

2016年11月 1日 (火)

仕事のスピードを上げるには、どうする?

【1】 前提
・現代は『実現の時代』。実現の時代とは実践の時代であり、追求力の時代であると同時に、スピード勝負の時代である。つまり、追求スピードが勝敗を決する時代に入った。
・現代の仕事は集団間闘争が大半→個々人のスピードのみならず、集団でスピードを上げる必要あり。

【2】 心得
・仕事とは、あまねく人々の期待に応える営み。
『仁・義・信こそ、仕事の根源』であり、まずもって志を固める必要あり。

・この志を根源に置き、直接的なクライアントの期待だけでなく、クライアントが置かれている状況に同化し、その背後の社会状況を精確に把握する必要あり(外圧把握)。
また身の回りの同じ課題に向かう仲間の期待も受け止める。

・仕事は一人だけでは成し得ない。周りとの共認形成、共認充足が不可欠。共認統合の質がスピードを左右する。
⇒周りの評価を羅針盤として全て受け止め、役に立っていなければ『無能を自覚』し、修練する。(志を固めるところから)

【3】 方法
旧観念から脱却⇒本能・共認機能を解放⇒可能性発

・スピードアップの壁になっているのは、多くの場合旧観念に依拠した思考回路。旧観念の元は古代宗教だが、これらは全てあの世に可能性を求める、現実否定の架空観念である為、旧観念を使って追求しても現実の答えは出せない。(個人主義、民主主義などの欺瞞観念も同様)

⇒問題意識発から可能性発の思考へ
現代人の脳回路は、旧観念に染脳された『否定脳』。否定脳発の発信は周りに響くわけがない。答えにならない。

⇒この否定脳からいち早く脱却し、本能・共認機能を解放させ、『可能性発』で追求することが、スピードアップの秘訣。
ex)可能性発で「仮説」を瞬時に数多く出し、塗り重ねる。

【4】 武器
私権社会から共認社会への大転換の渦中にあるという時代認識から見ても、旧観念は無効。

旧観念に代わる新認識。現代の意識潮流を捉えた新しい言葉。歴史を通底する事実に基づいた構造理論を使いこなす必要あり。

⇒その為には、実現論や、このるいネットにある新認識群の獲得が不可欠。

« 2016年10月 | トップページ | 2016年12月 »

ランキング

  • にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ お勧めサイトランキングへ
2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

カウンター

最近のトラックバック

無料ブログはココログ