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2016年9月12日 (月)

「すべての存在に自我なるものはない」仏教が示す自我の位置

仏教は煩悩に捉われる事を執着としました。
そしてその執着の正体は自我であり、この世に自我はないという事実さえ認めることができれば、心は清らかになり、世界観は広がるとしています。仏教を科学的に語る佐々木閑氏は執着と自我の関係を以下のように説明しています。わかりやすいので転載しておきます。

自我は脱却するものではなく、そもそも事実としてそのような存在はない。そういう認識を持ち、ありのままを見ようと訓練をする事が仏教の瞑想であり、教えなのです。

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執着はなぜ生まれるのかを考えてみましょう。

無明というものがこの世のものはすべてうつろうという真理、すなわち諸行無常を理解していない事だと説明しました。これに加えてじつはもう一つ、無明のもとになっている、人間の根本的な愚かさがあります。それは自分、すなわち「自我」というものに対する誤った認識です。
われわれはふつう、自分の利益のため、自分の功名のため、自分の楽しさのため、自分の幸せのため・・・となにごとも自分を中心に置き、自分に都合のよい方向でものを考えます。ところがブッダは、そもそも自分などないのであり、ありもしない自分を中心に世界をとらえるのは愚かのきわみだと説きました。

われわれはまず、自我というものを世界の中心に想定し、そのまわりに自分の所有する縄張りのようなものを同心円上に形作っていきます。そしてそのいちばん外側に世間と呼ばれる一般社会を配置します。自分はこの世界像の主(あるじ)ですから手に入っていないものがあったら手に入れ、意のままになる縄張りの部分を増やしていこうとします。これが執着です。

すなわち、執着とはこの「自分中心」の世界観から発生するのです。自分中心の考え方に立つ限り、欲望は消えませんし、きりがありません。
しかしここでその中心人物たる自分を「それは実在しない仮想の存在である」として、その絶対的存在性を否定してしまうと、まわりにある所有世界も自然に消えます。自分というのは、本質のない仮想存在なのですから、当然それを取り巻く世界も仮想であるということになり、執着もおのずと消えるわけです。
これを表す言葉を諸法無我といいます。「ダンマパダ」では次のように言います。

「すべての存在に自我なるものはない」と智慧によって見る時、人は苦しみを厭い離れる。これが人が清らかになるための道である。

西洋世界では「我思う、ゆえに我あり」などという言葉があり、人々はあたりまえのように自我の探求をしてきました。ブッダの考え方はこういった姿勢とは正反対のものです。しかし、ブッダは極端な自己否定を土台とする事で人ははじめて世の現象を本当に客観的に見つめる事ができると説いたのです。

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