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2016年8月

2016年8月31日 (水)

チベット仏教に代表される学問としての仏教

チベットは現在でもダライラマに代表される国家と宗教が一体化した国であり、仏教との関係は切っても切れない。チベットになぜこれほど精密なインド発の仏教が残っているか興味があった。

チベット仏教はイスラム教とヒンズー教で押されて消滅したインド仏教の受け入れ先であり、7、8世紀にそっくりインドの仏教思想が移動してきた。チベット仏教の特徴は小乗でも大乗でもなく、また神秘性に特化した密教でもない。チベット仏教をひと言で言うならば、民衆を教育する文化向上、実学として取り入れた。工学、医学、言語学、倫理学であり、仏教学はその一つに過ぎなかった。仏教がタイやスリランカ、ミャンマーなど周辺国に取り入れられた背景には文化的後進国であったそれらの国の導き役として機能した可能性がある。

以下はインターネット講座「チベット仏教文化」リンクより抜粋しました。
>チベット仏教は、もっぱら八世紀以降のインド後期仏教を受容しそれがチベット流に変容展開したものである。インド仏教は、大別するといわゆる小乗仏教と大乗仏教に分けられる。大乗仏教はさらに顕教と密教に分けられる。七、八世紀以降、インドでは、顕教の分野では例えば論理学や認識論という難解な学問が緻密に研究され、又密教の分野では、『大日経』『金剛頂経』以後に、中国、日本には伝わらなかった発達した密教が展開した。

これらのインド仏教の二つの側面が当時文化水準の低かったチベットにそっくり流れ込み、それがチベット古来の宗教とも習合しながらチベット独特の仏教を生み出していった。それは、一方では僧院のなかで綿密に組織されたカリキュラムにしたがって論理的に仏教教理を研究する顕教的側面と、他方では実践的な儀礼を重視する密教的側面が不離に連繋したかたちの仏教である。 
チベット仏教というと、一般に曼茶羅や父母仏に代表される神秘的な密教が連想されがちである。しかしチベットの僧侶、とくにダライラマ政権を樹立したチベット仏教最大宗派のゲルク派は、顕教の学習に非常な力を入れている。総じてチベットの僧院は、初歩的な読み書きから高度な仏教哲学まで教える総合教育機関の役割をはたしてきたと言える。

 インド以来の仏教の伝統に、「五明」という学問の枠組みがある。これは、菩薩が修行を重ねて最終的に一切智者のレヴェルに達するまでに修めるべき五つの学問分野で、一般につぎの五つがあげられる。
工巧明:工芸、美術、天文暦学。
医方明:薬学、医学。
声明:文法学、言語学。
因明:論理学。
内明:仏教学。 

五明のうち始めの四つは世俗の学問であり、にもかかわらずその学習が重視されたのは、「菩薩はある時は医術により人々を益して導く」「ある時は仏師絵師であり仏像を彫ったり仏画を画いたりして人々を導く」「ある時は異国の人や方言を話す人に不自由なく説法するために文法学や言語学に通じていなければならない」「ある時は異教徒を論破して仏教に改宗させるためには論理学にも通じていなければならない」という理由による。  

チベットでは古代から中世にかけて仏教を受け容れそれが定着していった。その理由は、より広くみるなら、チベット人はこうした「仏教のもつ文化としての総合性」に関心をもったからではないか。
チベット周辺の諸民族やモンゴル人がチベット仏教を採用したのも、それの宗教性もしくは神秘性に惹かれたというばかりでなく、むしろその文化的総合性をもって蒙昧な民衆を教化してゆくことを目的としたからだろう。

2016年8月29日 (月)

追求のススメ1.未知なる世界への収束と自考(4)

人類は、精霊を見ることによってはじめて、不整合な世界を部分的に(かろうじて)整合させることができたが、それは、現在も同様である。
人類にとって、世界は根本的に不整合であり、その不整合な世界を何らかの観念によって部分的に整合させて生きているにすぎない。
しかし、部分的に整合させているだけなので、絶えず問題(=部分的な不整合)が生起し、その都度に未知収束⇒可能性探索の回路が作動する。また、共認圧力は「いつ、どう変わるか分からない」恒常的に未知なる圧力であり、人類はその共認圧力に対しても、常に未知収束⇒可能性探索の回路を作動させている。
生物にとっても外圧の把握は最先端課題であるが、とりわけ人類にとっては未知なる外圧への収束と自考が何よりも第一義の課題となっている。この未知収束の回路こそが、自考充足と観念機能を生み出した源泉であり、人類の知能を著しく進化させた本体である。
(たいして中身がないと分かっていながらも、メールやラインやテレビを見ずにいられないのも、彼らにとって仲間圧力が、未知なる世界=「いつ、どう変わるか分からない」外圧だからである。)

なお、人類500万年のうちの99%は単一集団であり、人類が集団を超えた贈与関係を皮切りにして、社会の形成に入ったのはわずか1万年前であるが、社会を形成したのは人類だけであるという事実にも注目しておきたい。
共認機能は、相手の表情や身振り・手振り(=身体言語)に頼っているので、目に見える範囲でしか(≒集団という次元までしか)機能しない。それに対して、観念は集団を超えて共認することができる。従って、観念機能に先端収束した人類が社会の形成に向かうのは、必然であった。なぜなら、同類闘争の集団である人類集団において、ある集団の観念能力が他集団を上回れば、その観念力を武器に周りに進出してゆくのは必然だからである。
このことは、逆に言えば、対象世界が拡がり未知なる外圧が大きくなるほど、ますます観念能力が発達してゆくということを示している。つまり、対象世界が身近な狭い空間から集団へ、更には社会へ広がるほど、観念能力(≒言語能力)は高度に磨かれてゆく。(そのことは、とりわけ言語能力を磨き直す必要に迫られている現代人が深く意識しておくべきことだと思われる。)


岡田淳三郎

2016年8月27日 (土)

追求のススメ1.未知なる世界への収束と自考(3)

足の指が先祖返りして、それ以前の獣たちがそうであるように、足の指で枝を掴むことが出来なくなったカタワのサル=人類は、樹上に棲めるという本能上の武器を失った結果、想像を絶する様な過酷な自然圧力に直面した。とうてい外敵に対応できない原始人類は、洞窟に隠れ棲むしかなかったが、彼らは恒常的に飢えに苛(さいな)まれていた。だが、洞窟の外は外敵が一杯で、夜中に他の動物が喰い残した動物の死骸の骨を密猟するのが精一杯だったろう。(人類は、動物の骨の髄や脳みそをすすって生きてきた。)
つまり、人類は、外圧に対して、本能という機能でも共認機能でも適応できない、完全なる不適応態となってしまった。主体(本能・共認機能)と外圧(世界)が全く整合しない、全面的に不整合な世界=絶望的な逆境の中に置かれたのである。
彼らは常に生存の危機に晒されており、当然「どうする?」⇒「世界(自然)はどうなっている?」という未知への収束と自考回路に全面的に先端収束する。そして、人類は、直面する未知なる世界=不整合な自然世界を「なんとしても掴もう」と、自然を凝視し続けた。それは、生命の根源をなす適応本能(整合本能)と共認機能を深く結びつけることになった。そのようにして、みんなで毎日毎日自考し続ける、その中で、自考共認⇒自考充足の回路が、共認回路の奥深くに形成され、その共認充足が更に強く皆を自考に向かわせていった。

そして遂に、未知なる自然(例えば、一本一本の木)の背後に、整合する世界=精霊を措定する(=見る)。人類が万物の背後に見たこの精霊こそ、人類最初の観念であり、人類固有の観念機能の原点である。直面する未知なる世界(例えば自然)の背後に精霊を見るのも、物理法則を見るのも、基本的には全く同じ認識回路であり、従って精霊信仰こそ事実認識=科学認識の原点なのである。

生命は、常に最先端の可能性に収束する。サルは本能(という機能)の限界を突き破った共認機能に先端収束し、人類はその共認機能の限界を突き破った観念機能に先端収束する。かくして、人類は、生存課題の全てを本能⇒共認⇒観念へと先端収束させる事によって、観念機能を発達させ、その事実認識の蓄積によって生存様式(生産様式)を進化させていった。そして遂に1.3万年前、弓矢の発明によって外敵と対等以上に闘える段階にまで生存力を高め、過酷な生存圧力を克服していった。(更に、その後は、自然圧力を動物一般のレベル以下にまで低下させてきた。)
このように、人類は、その最先端の観念内容を組み換えることによって、極限的な生存圧力に適応してきたのである。
ここで、人類の意識構造に焦点を当てて見ると、人類の意識=脳回路は、哺乳類(原モグラ)時代に形成された本能(機能)の上に、サル時代に形成された共認機能が塗り重ねられ、その上に人類固有の観念機能が塗り重ねられて成り立っていることが分かる。(この、本能⇒共認⇒観念という人類の意識の三層構造は、脳回路や意識潮流の分析をはじめとする様々な問題を突破するために不可欠な認識である。)



岡田淳三郎 

2016年8月25日 (木)

追求のススメ1.未知なる世界への収束と自考(2)

この様に、不全感を揚棄する為に、相手の課題=期待を自己のそれと重ね合わせ同一視することによって充足を得る回路こそ、(快感物質β-エンドルフィンを情報伝達物質とする)本能を超えた共認機能の原型である。そこでは、相手の期待に応え充足を与えることは相手に期待し充足を得ることと一体である。従って、相手の期待に応えること自体が、自己の充足となる。
共認機能の真髄は、そこにある。共認の生命は、相手(=自分)の期待に応合することによって充足を得ることである。
こうして、未知なる世界に直面したサルたちは、その唯一の開かれた可能性=共認機能が生み出す共認充足へと収束することによって、はじめて不整合な世界を整合させることができた。
(赤ん坊が、母親の胎内で本能的に整合していた状態から、産まれた瞬間に全く未知なる不整合な世界に放り出され、どうすればいいのか全く分からない中、まず最初に充足(母親の笑顔など)に可能性収束するのも、原猿が共認充足へ収束した構造と同じである。)

もちろん、充足共認(スキンシップなどの親和共認)によって不全感を和らげただけでは、縄張りを確保することはできない。そこでサルたちは、唯一の開かれた可能性である共認機能にとことん可能性収束することによって、縄張りの確保という課題を共認し、互いの評価と役割を共認し、守るべき規範を共認するレベルにまで共認機能を発展させ、遂に縄張り闘争を闘う闘争集団を形成した。それが、真猿である。
言い換えると、真猿集団は、縄張り確保という課題共認⇒評価共認⇒役割共認⇒規範共認という一連の闘争共認を形成することによって、はじめて同類闘争という未知なる世界を突破する(=不整合な世界を整合させる)ことができた。

ここまでの流れを整理しておこう。同類闘争という未知なる世界に直面して、まず原猿が充足共認の機能を形成し、それを母胎にして真猿が闘争共認の機能を形成した。ここで最も重要なのは、原猿も真猿も、不整合な=未知なる世界に直面して、互いに「どうする?」と未明世界を自考し続けたからこそ、本能を超えた共認機能を形成し、知能を著しく進化させることができたという点である。サル・人類が霊長類と総称される由縁も、そこにある。

サルたちが形成した、この未知なる世界への収束と自考の回路は、人類において更に第一義的に重要なものとなる。

岡田淳三郎
 

2016年8月23日 (火)

追求のススメ1.未知なる世界への収束と自考(1)

生きとし生けるものは、全て、外圧(外部世界)に対する適応態として存在している。従って、全ての生物にとって、外圧の把握が最先端の課題となるが、動物にとっては、獲物であれ敵であれ、それらは本能に対応した、言わば常態的な外圧であり対象である。
なぜなら、もともと本能は外圧に適応すべく形成されてきたものであり、従って本能と外圧は整合している。従って、本能を主体とする動物たちは、基本的に外圧と整合した世界で生きていると言えよう。

しかし、サルになると、世界は一変する。
サルは、足の指で枝を掴めるように進化したことによって、陸・海・空とは別の樹上という第四の世界を手に入れた。そこには、栄養価の高い果物や木の実がふんだんにあり、外敵に襲われる危険も少ない。かくして、樹上に棲息することによって最高の生産力と防衛力を手に入れたサルたちは、忽ち森林という森林を埋め尽くしてその食料限界まで繁殖していった。
しかし、樹上を埋め尽くして繁殖したサルたちは、絶えざる縄張り侵犯に頭を悩ませることになる。彼らの前に現れた世界は、同類同士で縄張り闘争を繰り広げるという、他の動物には見られない同類闘争の世界である。しかし、本能は、異種間の闘争に対応するために形成されたものであり、同類闘争に対応する本能など存在しない。かくして、サルたちは、本能では対応できない不整合な世界(未知なる世界)に足を踏み入れることになった。

同類闘争という未知なる世界に直面し不整合感に苛(さいな)まれることになった原猿たちは、この未知なる外圧に適応すべく、その不整合な世界の把握⇒自考という、この絶望的な逆境を突破し得る唯一の可能性を秘めた『自考』(自らの頭で考えること)という最先端の可能性に向けて本能などの全機能を一点に先端収束させた。
その未知なる世界とは、まさに同類の世界そのものであり、原猿たちは、未知なる世界の突破口(=整合の可能性)を同類=仲間に求め、仲間をとことん注視する。そして、互いに「どうする?」と相手を注視し続ける内に、遂に、相手も同じく自分に依存し期待している事を発見し(探り当て)、互いに、相手の課題⇒期待を自己の課題⇒期待として同一視し合うに至った。
自分以外は全て敵と思い、いつ襲われるか分からない状況下で怯えていた原猿にとって、「相手も同じく自分に依存し、期待しているんだ」という事を共認し合えた意味は大きく、双方に深い安心感を与え、互いの不全感(=不整合感)をかなり和らげることが出来た。



岡田淳三郎

2016年8月21日 (日)

ロシア正教とカソリックの本家争い

プーチンはロシア正教を復興させるとともに、バチカンとの融和にも努力している。以下の記事によると、キリスト教はそもそも(ギリシャ哲学が衰弱したあとの)ギリシャが起点になっており、イタリアよりもイスタンブール(トルコ)こそ、その聖地であった。

ところが南ヨーロッパとアフリカがイスラムの商人たちに占拠されると、イスタンブールなどの聖地は衰退し、キエフさらにはモスクワと辺境へ布教先を見出していった。こうしてギリシャ起源のキリスト教の正統の後継者としてのロシア正教が誕生する。

それに対して、ギリシャの衰退をいいことにバチカンこそが聖地と主張するのがカソリック教会であるが、史実から見れば、バチカンは数ある聖地のひとつでしかない。

こうしてロシア正教とカソリックの本家争いが続いているというわけだ。しかしプーチンのバチカンへの接近は、このような不毛な対立を乗り越えようとするものなのだろうか。あるいはP2ロッジ事件をはじめ、汚職問題に揺れるバチカンに対する牽制か。

いずれにせよロシアの台頭によって、バチカン中心史観も相対化されていくことは間違いないだろう。

リンク

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 イエスの死後、キリスト教は邪教としてローマ帝国の弾圧にさらされる。なかでも“暴君”ネロがローマ大火をキリスト教徒による放火として信者を処刑し、初代ローマ教皇ペテロが逆さ十字にかけられて殉教したことは広く知られている。こうした逸話から、カトリック史観では、初期キリスト教の歴史はエルサレムからいきなり帝都ローマへと移ってしまう。

 しかしこれは、徒歩やロバで移動するしかなかった当時の交通事情を考えればあり得ない話だ。

 キリスト教は、ユダヤ教の選民思想を否定することですべての民族に開かれたグローバル宗教となった。だがこれは、当のユダヤ人にとってはキリスト教を積極的に信仰する理由がない、ということでもある。わざわざ自分たちの既得権(全知全能の神によって選ばれた民族)を放棄する必要はないからだ。

 それでは、初期のキリスト教は誰に対して布教したのか。

 イエスの生きた紀元前後は、アテネやスパルタといった古代ギリシアのポリスは衰退し、文化や学問の中心はアレクサンドリアをはじめとする地中海沿岸の諸都市に移っていた。キリストの教えを最初に受容したのは、こうしたヘレニズム(ギリシア)の知識人たちだった。

 初期のキリスト教は、「ギリシア人の宗教」として始まった。だからこそ新約聖書は、ギリシア語で書かれているのだ。

「ヨーロッパ文明は、ヘブライズム(キリスト教)とヘレニズム(古代ギリシア文明)の融合だ」といわれる。だがここでいう「ヘレニズム」は、ルネサンスの時期に西ヨーロッパで“再発見”された古典古代のことを指している。だがこれも歴史の歪曲で、イエスの死の直後から、アレクサンドリアやアンティオキアといったギリシア人の都市でキリスト教とヘレニズムは融合していた。

 その当時、ローマは政治の中心ではあっても文化はなかった。ローマのひとびとはラテン語を使っていたが、知識層はギリシア語でギリシアの古典を学んでいた。そんなローマに、文化の中心だったギリシア(ヘレニズム)世界から最先端の思想/宗教としてキリスト教が伝えられたからこそ、弾圧にもかかわらず急速に信者を増やしていったのだ。

 キリスト教の画期は、紀元330年にコンスタンティヌス帝が都をコンステンティノポリス(現在のイスタンブール)に移し、キリスト教を公認したことだった。コンスタンティノス帝は、この新しい都を「新ローマ」と呼んだ。この遷都によって、ローマ世界にはキリスト教の5つの「聖地」が生まれた。イエス自らが布教を行ない殉教したエルサレム、帝国の首都ローマ、初期のキリスト教が拠点としたアレクサンドリアとアンティオキア、そして帝国の新首都であるコンスタンティノポリスだ。

山澤貴志

2016年8月19日 (金)

キリスト教の危機!?トルコで発見された1500年前の聖書「イエスが十字架に磔刑にされていなかった。」

世界に君臨するバチカン。「イエスが十字架に磔刑にされず、イエスは生存しており、彼の代わりにイエスの弟子の一人が磔にされた」としたら、キリスト教の信者の一部は、主柱を失う=世界秩序の崩壊に向かうのではないだろうか?
経済は、ガタガタ。信じる宗教は、実は嘘だらけ。旧観念の根本が揺らぎ、真実は何か?事実はどうなっているのか?あらゆる場面で探索へ向かう可能性が拡がりつつある。

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真実を探すブログより
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トルコで1500年前の聖書発見!⇒バチカンで賛否両論に!「イエスは十字架に磔刑にされず、さらに彼は神の子ではなかった」

トルコで発見された1500年前の聖書がバチカンやキリスト教徒の間で話題になっています。この聖書には今までキリスト教の柱となっていた教えを全面否定する記述があり、バチカンは古代聖書に対して激しい懸念を表明しました。

報道された情報によると、古代聖書には「イエスは十字架に磔刑にされず、さらに彼は神の子ではなかった。イエスは神の預言者だった。イエスは生存しており、彼の代わりにイエスの弟子の一人が磔にされた」と書いてあるとのことです。

今までのキリスト教では 「イエスキリストは一度死んで生き返った」等と教えていたため、これはある意味で重要なネタばらしをしていると言えます。バチカンはこの書物の発見に強い 懸念を表明すると同時に、トルコ政府に対して古代聖書の調査を要望しました。ローマカトリック教会の関係評議会は「検閲されて内容が省略されている」とも 述べ、キリスト教側はこの聖書に疑いの目を向けています。

イエスキリストが弟子と入れ替わった説はかなり前々から一部の専門家が指摘していましたが、1500年前の古代聖書でそれが裏付けられた形になりました。キリスト教側は色々と必死のようですが、いずれはバレるような嘘だったということなのでしょう。
それでも、世界中に数十億人単位でこれを信じている方が居ることには驚きますが・・・(苦笑)。

☆バチカン、トルコでの1500年前の聖書発見に懸念
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引用:
バチカンが、トルコで、イエス・キリストが十字架に磔にされたことを否定する、1500年前の聖書のページが見つかったことに激しい懸念を表しました。

プレスTVによりますと、この聖書はバチカンを強く懸念させており、それはこれに「バルナバスの福音書」が含まれているためだとしています。バルナバスはイエスの弟子です。
この書物は2000年に発見され、アンカラの民俗学博物館に保管されているということです。
この書物は皮でできており、イエスが使っていたエラム語で書かれています。この書物の一部のページは時間の経過により黒くなっています。情報によりますと、この書物は専門家によって調査されており、その真正性が認められています。
研究者の一部は、この聖書を調査し、「イエスは十字架に磔刑にされず、さらに彼は神の子ではなかった。イエスは神の預言者だった」と述べています。
この書物の最後には、「イエスは生存しており、彼の代わりにイエスの弟子の一人が磔にされた」と書かれています。
この書物ではさらに、イスラムの預言者ムハンマドの出現が予言されています。
:引用終了

(以上、転載終わり)
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アールティ

2016年8月17日 (水)

欧州民族は貧困時代の歴史を捏造し、中世以降に優れた民族を演出する

リンク
地方政治家 山本正樹

【うそだらけのヨーロッパ世界史】 岸田秀著書

<ヨーロッパ中心主義の悪魔的魅力>

「アーリア主義を頂点とする、ヨーロッパ人しか文明をつくれないとか、ヨーロッパ文明は最高の普遍的文明であるとか、ヨーロッパ民族は世界を支配すべき優秀民族であるとかの近代ヨーロッパ中心主義の思想をヨーロッパ民族がつくった動機は、ほかの諸民族に対する嫉妬と劣等感である。隠蔽されているというか、あまり認識されていないようであるが、世界の各民族がそれぞれ主として自分たちの土地の産物で暮らしていた近代以前においては、土地が痩せていて気候条件にも恵まれなかった(もちろん、不利な条件はそれだけではなかったが)ヨーロッパ民族は世界の諸民族の中でいちばん貧しい民族であった。
もうとっくに嘘がバレているが、いわゆる「未開人」が貧しく惨めな野蛮生活を送っていることを「発見」したのは、近代ヨーロッパ人の探検家たちであった。ところが、いわゆる「未開人」を貧しく惨めな生活に追い込んだのは近代ヨーロッパ人であって、そのような「発見」はこのことを隠すために必要だったのである。

近代ヨーロッパ人は、世界の情勢を知るにつれ、ますます他民族への嫉妬に駆られ、劣等感に苦しめられ、そして、貧しさに苛まれて、どこかほかにいいところがあるような気がして故郷のヨーロッパに安住できず、難民あるいは出稼ぎ人となって世界各地に押し出されてゆくようになった。そして追い詰められた者の強さで必死にがんばったのであった。
ヨーロッパ中心主義の歴史観では、「大航海」時代のヨーロッパ人は、冒険心に富み、進取の精神に満ち溢れ、あらゆる危険をものともせず、未知の世界の果てまで余すところなく探求して飽きなかった勇敢な人たちだったことになっているらしいが、それは自己粉飾である。なかには、そういう者もごく一部いたかもしれないが、故郷のヨーロッパをあとにした者の大部分が飢餓や宗教的、人種的迫害から必死に逃れようとした難民であった。
地球規模で言えば、近代はヨーロッパに大量の難民が発生した時代であった。故郷で何とか過不足なく暮らしてゆけている者がどうして故郷を捨てて見知らぬ土地へ逃げてゆきたいと思うであろうか。

その結果、必然的に、ヨーロッパ以外の世界の各地でヨーロッパ民族と他の諸民族とがぶつかることになった。ヨーロッパ民族と他の諸民族との争いは、貧しく惨めな家に生まれ、そのため、いじけて意地悪ですれっからしで疑い深く、せこい性格に育ち、争いの絶えない厳しい環境のなかで場数を踏んでいるために喧嘩が滅法強く、暴れん坊で、家にいたたまれず飛び出してきて帰るところのない餓鬼と、お金持ちの裕福な両親のもとに生まれ(自然に恵まれ)、可愛がられてのんびりした性格に育って、人の悪意というものをあまり知らず、のほほんとわが家で豊かに暮らしていたお坊ちゃん(中略)との争いであった。

勝負は初めから決まっていた。この争いの最も典型的な例は、十六世紀初め(1531~1533年)のスペイン王国のごろつきピサロとインカ帝国の皇帝アタウァルパとの争いであった。要するに、ヨーロッパ人と比べれば裕福に暮らしていた他の諸民族の多くは、無警戒だったということもあって、手もなくやられてしまったのであった。それ以来、貧富は逆転し、ヨーロッパ民族は世界の諸民族の中でいちばん豊かな民族となった。

そのときに、惨めで劣悪な過去を隠蔽し、立派な過去を捏造しようとするヨーロッパ人の大掛かりな企てが始まった。その結果できあがったのがヨーロッパ中心主義の思想であり、ヨーロッパ製世界史である。
それは近代ヨーロッパ人の他の諸民族に対する嫉妬と劣等感に基づく何かに駆り立てられたような残忍さ(中略)、すでにヨーロッパ内の少数民族を相手に習得していた技術を応用した他の諸民族の支配と搾取を正当化し、それに伴う罪悪感をごまかすということを動機として形成された思想であった。

ローマ人から蛮族と呼ばれていた古代ヨーロッパを古代ギリシアにすり替え、あまり自慢にならない中世の「暗黒時代」をすっ飛ばし、近代ヨーロッパ文明を栄光ある古代ギリシア文明の直系の子孫とする歴史の捏造もこの思想の一環であった。
それは、卑賤から身を起こして成り上がった一家が滅亡した昔の名家の系図を買い、過去を隠してその末裔と称するようなものであった。だから、「お家復興」というか、再生、すなわちルネサンスと称したのである。」

今井勝行 

2016年8月15日 (月)

社会を運営する気などなかったキリスト教、社会を運営するためにできたイスラム教。

大衆に現実を否定させ幻想観念に収束させることで社会運営から遠ざけ、政教分離という壮大な騙しを徹底してきたキリスト教。そこには、万人が社会に参加するというような意志は存在しない。

一方のイスラムは当時のアラブの上位層=商人を中心として構築されている。
その目的意識とは
『当時のメッカの退廃とは、彼らがもともと備えているそうした商業的機略が近視眼的欲望と結び付いて自家中毒を起こしていたものなのであり、それに対するワクチンとして要請された』
と文末にあるとおり、混乱する社会をどう統合し、運営してゆくか、というベクトルに貫かれている。

この状況は、資本主義の崩壊を目の当たりにする我々のものと同様であり、だとするとイスラムの考えはそのままに近い形で現代にも適用できる可能性が高いということでもある。

《以下引用》リンク

こうしたエリート優位の文明として出発したことは、イスラム文明に次のような特徴を与えることとなった。その特徴を一言で言えば、それは非ハーモニック系の社会をいかに運営し、社会がコラプサー(引用者注:秩序崩壊)状態に落ち込むことを阻止するかという主題で貫かれているということである。

これはあるいは言い方が逆なのかもしれない。むしろライバルであるキリスト教文明の側が、度を超した強烈なハーモニック・コスモス信仰を抱えこんだ特異な存在だと言うべきなのである。そしてなぜそんな違いが生まれたのかは、先ほど列挙したイスラム初期の登場人物たちの横顔をキリスト教初期においてそれに相当する人物たちと比較すればよくわかる。

イスラム教団初期の、馬に乗って戦場を疾駆した名将・智将たちに比べると、貧民たちの中にうずくまって左手で捨て子を抱き、右手で天を指差して神の道を説くパウロやぺテロなどキリスト教団初期の人物たちの姿は余りにも対照的である。そして二つの宗教がその揺籃期を過ごした環境の違いをこれ以上よく物語るものはない。

ローマ帝国の辺境で生まれたキリスト教には、首都にいるギリシャ的教養をぎっしり頭に詰め込んだ官僚たちやローマ軍団を率いる司令官を押しのけて国家の指導権を手に入れるなどいうことは、権力基盤の点で不可能である以前に、それに必要な知識すら十分に備わっていなかった。そのため彼らは、神の愛弟子を自称する諸君は社会をどう運営するつもりなのかね、と問われたとき、そんなことは抹消的な問題であると宣言してそれをあっさり無視し、一足飛びに神様に向かう以外なかったのである。

これは社会を運営する立場から見れば短絡以外の何物でもなく、本来なら指導者として失格の烙印を押されても仕方がない。しかしそんな彼らにとって救世主となる概念が一つ存在している。言うまでもなくそれがハーモニック・コスモスの概念であり、そういう宇宙においては社会という複雑な系の振る舞いをバイパスすることができる、というよりそんなものは本質的価値をもたなくなるのである。

               (中略)

そのため彼らはその本能を刺激し、下層階級の不満と混合してそれをちょっとギリシャ的論証技術で味付けすれば、実に見事な神学を作り上げることができたのである。(その過程は、近代においてプロレタリアート支配をうたったマルクス理論が成立する過程にかなり似ている。)

この点で言えばイスラムは全く異なっている。何度も言うようにメッカそのものが商業のネットワークによって成り立つ社会だった。つまり腐敗したエリートどもを一掃するなどということを考えようにも、その革命が商業ネットワークも一緒に壊滅させてしまうようでは、メッカの自滅を招く以外の何物でもない。これは、たとえ資本主義が悪いということがわかっていたとしても銀行を核爆弾で吹き飛ばすわけにはいかないという、現代のわれわれの立場に少々似ている。

               (中略)

このように本質的に商業社会であるイスラム世界においては、商業的機略というものは称賛の対象にこそなれ、決して否定されるものではない。そのため「策略」という言葉は必ずしも否定的意味をもたず、「策略をもたない頭はカボチャより劣る」という言葉があるほどである。

当時のメッカの退廃とは、彼らがもともと備えているそうした商業的機略が近視眼的欲望と結び付いて自家中毒を起こしていたものなのであり、それに対するワクチンとして要請されたのがイスラムだった。そのため宗教の体系そのものが社会というものを深く洞察し、むしろその欠陥を巧妙に補完しようとする意図をもっており、イスラム世界においては政治家であることと宗教家であることは本来矛盾しない。それは、神も含めたこの世界が本質的に巨大にからまった毛糸玉のように複雑な非ハーモニック系であるという認識とは表裏一体のものである。

これは全くキリスト教圏とは対照的であり、キリスト教圏では宗教的要素すなわちハーモニック・コスモス信仰が社会運営技術の中に入り込んでくると、とかく物事を単純かつ強引に善と悪に二分し、外科的切除の要領で悪を人間集団ごと撲滅するということになりがちであり、たちまち火あぶりだの虐殺だのといった惨々たる結末に終わってしまう。

そのためキリスト教圏では「政教分離」というものが絶対必要であることが経験的に理解された。しかしそれは実はハーモニック・コスモス信仰を分離するという目的のために必要だったのであり、宗教自体が非ハーモニックの体系をもっている場合、政教分離は必ずしも絶対的に必要なものではない。

むしろ皮肉なことだが、政教分離の先進国だと自ら信じ込んでいる米国こそ、現代において最も「政教分離」が必要な国家であるように思われる。なぜなら米国の平等・人権思想やベンサム的自由思想こそ、首までどっぷりハーモニック・コスモス信仰に漬かっているという点で、キリスト教において最も問題をはらんだ部分にラベルを貼り変えたものに過ぎないからである。

今から思えばそれは単なる錯覚に過ぎなかったのだが、近代西欧があれだけの「進歩」を遂げられたのはまさしくその思い込みの故だった。ハーモニック・コスモスの思い込みを最初から持たなかったアラビア科学は、中世を通じて西欧の先生であり続けたにもかかわらず、ついに微積分を生み出すことがなかった。そして圧倒的な豊かさを誇ったイスラム経済は、徹底した規格化・画一化による量産技術を確立しなかった。逆に言えば物事をなまじきちんと洞察していたからこそ、イスラム文明は近代文明に乗り遅れてしまったと言える。

しかしそれらの西欧的な画一化による進歩というものが限界を暴露してハーモニック・コスモス信仰そのものを放棄しなければならなくなったとき、人類が振り返って見て参考にできるものと言えば、それはまずイスラム文明だということにならざるを得ない。非ハーモニック系を仮定した社会運営のための技術体系をもち、しかもそれにかなりの程度成功した文明はそれしかないからである。

《引用以上》

匿名希望 Z
 

2016年8月13日 (土)

半人前ならお給料はなくて当たり前!弟子や丁稚奉公のシステムってすごい☆ ~“会社に入ったら、3年は辞めないほうがいい理由”~

昔は、ある仕事で一人前(お客様からお金をいただけるほど)になるためには、数年の修行期間が必要であり、日本にはそのシステムが根付いていました。(弟子や丁稚奉公etc)

でも今は、入社してすぐにお給料を支払わなければ法律違反になってしまいます。
この制度が、早く戦力化しようと急いで教えてしまう上司の意識・何もできないのに一人前のような気になってしまう部下の意識を生み出し、無能化を促進しているのかもしれません。

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ダイヤモンド社のビジネス情報サイト「夢は9割叶わない(著:弘兼憲史)リンク」より抜粋紹介

■「仕事の向き不向き」は、自分で勝手に決めつけているもの

「会社に入ったら3年は辞めないほうがいい」、これが僕の考えです。その理由を述べていきます。

入社してすぐに会社を辞める人の多くは「こんなはずじゃなかった」「想像していたのと違う」などの思いを持つと思います。

でも、まず考えて欲しいのは、会社側だって「あなたに何が向いているのか」を正確に把握できるわけじゃない、という点です。

とりあえず何かをやらせてみて、その過程で能力、向き不向きを判断していくのは当たり前ではないでしょうか。会社とて、あなただけを見ているわけではありません。

それと理由をもう1つ。
「仕事の向き不向き」というのは「自分が勝手に思っているに過ぎない」のです。

■「900人が採用され、100人が辞めた」と言われる研修

ちなみに、僕が就職した松下電器のような大きな会社では、希望する部署に配属されないのは当たり前でした。今はどうかわかりませんが、当時は大卒、高卒、高専卒などを合わせて約900人が毎年採用され、そのうち100人くらいが研修中に辞めたなんて話も聞いたことがあります(あくまでも噂ですが……)。

当時の研修は、文系も理系も関係なく、とりあえずいろんなことをさせてみる、という感じの内容でした。入社直後の3ヵ月は会社全体のことを学びます。「松下の世界の工場ではどんなことをやっているのか」などを徹底的に学ぶ時間。

それが終わると、次の3ヵ月では系列販売店での実習が始まります。当時、販売店にはお客さまから「テレビが故障したので見に来て欲しい」などの連絡が入り、僕らのような新人が派遣されるわけです。

その現場では文系、理系は関係なく、大学院でものすごく高度な研究をしてきた人でも、同じように販売店の仕事をしていました。

専門的なことを学んできた理系の人たちにしてみれば「こんな単純なことしてられるか!」と不満を持っていた人も多かったに違いありません。そして、販売店実習が終わると、次の3ヵ月は工場実習です。

■どこに配属されるかは、完璧に運の世界。

新入社員全員はそれぞれどこかの工場に配属されて、工員として仕事をします。配属先の希望なんて受け入れてもらえるはずはなく、「どこの工場へ行くか」によって処遇が大きく変わってきます。これは完璧に運の世界でした。

当時、人気が高かったのが録音事業部という、オーディオなどを作る部署。この部署には若い女の子がたくさんいて、1日中いい感じの音楽が流れ、まさに「楽しくおしゃべりしながら働く」という感じでした。

しかし、僕が配属されたのは、電気事業部という外れ部署。鉄板を打ち抜く音が1日中ガンガン鳴り響いている工場内で仕事をするので、働く人は全員が耳栓をしていました。身振り手振りをしなければ、ロクに会話もできません。

また、「打ち抜いた合板をアルミで固める」という作業をする関係上、夏でもクーラーは一切なし。室温が下がると作業効率が下がるので、仕方がない措置とは言え、まさに地獄のような部署でした。

■何もできない人間が一人前になるには、相応の修業期間が必要

それだけの研修を経て、11月に配属が決まります。すでに述べたように、研修中に約1割が辞めていくし、研修を終えたからと言って、自分の希望の部署に配属されるわけではありません。

でも、僕は社会とは、そもそもそういうものだと思っています。何もできない人間が、一人前になるためには、やはり相応の修業期間が必要なのです。

だから、せめて最初の3年くらいは、好きな仕事だろうが、嫌いな仕事だろうが、向いていようが、向いていなかろうが、上司の言うことに納得できようが、できなかろうが、とにかく文句を言わずにやってみることが一番大事だと、僕は考えます。

懸命にやってみて「自分は何ができるのか」「何ができないのか」をきちんと知る。これこそ社会人としての第一歩ではないでしょうか。

根気良く、懸命にやりもせずに「これは自分に向いていない」「こんな仕事に興味が持てない」「上司の言うことは間違っている」なんて言うタイプは、結局は何をやっても結果は出せません。そして、その言い訳として「自分に向いている業務ならば、もっと成果を上げられる」と言い出す人も見かけます。

しかし、社会はそんな甘えた言い訳に耳を貸してはくれません。自分の好きな分野、向いている仕事に就きたいと思うなら、まずは、「社会人として一人前になるべく、目の前の仕事を懸命にやってみる」というスタンスが必要なのではないでしょうか。

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西知子
 

2016年8月11日 (木)

釈迦が開いた悟りとは未知収束の一形態ではないか?

古代宗教はキリスト教、ユダヤ教、イスラム教そのほかのものも含めて神を信じれば救われるという極めて単純で解りやすい構造をもっている。それに対し、同時代に北インドで始まる初期仏教は他の一神教とは構造が異なり、極めて解りにくく、悟りを開かなければ得られない。またその教えを一言で示す事は難しく、比較すれば解りにくく、捉えようがない。

下記は「釈迦の人生を知ろう」リンクというブログから抜粋した。(釈迦の悟りとその先に発見した空という概念を表している部分)

>●釈迦の悟り
釈迦は「苦」を克服する為に何を悟ったのか。結論から言うと「執着を捨てろ」ということ世のすべてのものは移ろいゆく。釈迦は“縁”をキーワードにして、「苦」の根源に迫った。結果、万物が変化するという事実を認めない「無知」が「迷い」を生み、迷いが「欲望」を生み、欲望が「執着」を生み、執着が「苦しみ」を生むとする結論に至った。「無常」という真実をあるがままに受け入れることでしか心の平安(悟り)は得られないのだから、心が勝手に真実を曲げて解釈しないようにしっかりと現実を直視し、すべてのものに対する執着を断てと釈迦は説いた。釈迦は「無常」を受け入れた時に、初めて人は解脱(げだつ)できるとした。

>●すべて空なり
仏教の「空」は虚無を意味する空ではない。人の命は肉親と繋がっているだけではなく、これまで食べてきた全ての命とも、日光や水、酸素を生む植物、この宇宙にある全てのものと繋がっており、誰しも他から切り離されては存在できず、あらゆる物質と溶け合っているという、極めて深い感動的な意味での「空」だ。この世の全てが巨大なひとつの生命であること、これを一文字で表したものが「空」だ。ゆえに「色即是空、空即是色」(世の全てが空であり、空はまた世の全てである)となる
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

上記から、釈迦の「煩悩からの解脱」とは何で、その先に見た「空」とは何か?それについて考えてみた。釈迦の生きた時代はインドのバラモン教に代表される古代思想が否定され、思想の混乱期にあり、かつ16の小国、大国が戦乱を繰り返し、秩序という意味では上(頭)も下(体)もバラバラの状態にあった。

そんな中で釈迦が求めたのは秩序の整合であり、それを導く世界観の発掘だった。だから現在生きている世界を全くゼロにして一から見直してみる、そういう作業をしたのだと思う。それをする上で自らの主体を動かす心=煩悩を一旦否定し、それに拠らない状態を作り出すことで、古い観念に捉われない世界を見つけ出そうとしたのではないか?

煩悩からの解脱とは、釈迦が世界(身の回りの全て)を捉える上で求めた心の状態であり、それを成した上で見つけた原理が「空」という観念~「誰しもあらゆるものと溶け合って存在している」という事実認識であったのだろう。

つまり釈迦とは宗教家ではなく追求者ではないか、彼が発見したのは、そして教えたかったのは世界は追求の果てに見えるという未知なるものへの追求の態度だったのだと思う。そういう意味では、この2600年前の釈迦の登場とは、社会が国家過程に入る段階で登場した、人類史における先駆的事象と見る事ができるのではないか?

現在私権社会の秩序が崩壊し、あらゆる既存観念が根底から揺らいでいる中、新しい社会秩序を求めて追求の機運が立ち上がっている。
近年、仏教が注目され始めている事と何らか関係しているのかもしれない。

2016年8月 9日 (火)

権利のあとに責任を発生させない日本的構造

以下、「教育の崩壊 教育改革と自己責任の危うさ」リンクより権利のあとに責任を発生させない日本的構造

***以下引用***
西洋では
①各人が自分の権利を主張することから始まる。
②そしてその権利の見返りとして社会の側から責任が要求される。

ところが日本では
①まず社会の側から個人に対して保護が行われる。
②するとその保護に対してその受けた分の保護に対する責任を各人が自覚するようになる。そして自らその責任を果たそうとする。
③そのような責任を果たす者にだけ、今度は社会の側から権利が与えられる。

そういう意味で日本人にとって権利とは終着点である。終着点とはそれ以降何も発生しないという意味である。
この終着点である権利を年端もいかない子供に与えるとどうなるか。
そこからは何も発生しないのである。それと同時に子供の成長も止まる。
日本人にとっても『もらったものは返す』というルールは厳然としてあるのであるが、最初から権利をもらってしまうと「どこに返してよいか分からない」のである。
それは日本の権利と責任の関係が、武士社会の御恩と奉公のように、もともと私的なものだからである。

私的なものをいかに国家ルールとして再構成していくかということに日本の政治思想の最大の努力が傾けられてきたというのが日本の歴史の特徴なのである。
しかし、最初から権利が与えられてしまうと、それが誰からもらったものなのかが分からなくなってしまう。
そして私的なものの上にいかに公的なものを築き上げるかという文化的伝統が破壊されてしまい、
その権利と責任の論理構造が破壊されて、あとには何も残らなくなってしまうのである。

子供たちがおかしいと言いながら、そういう権利と責任の日本的論理構造を無視したことをするから、ますますおかしくなるのである。このままでは子供たちはますます混乱するだけである。
 そして今、最悪なのは、子供の責任感や権利意識を育てていく最初のきっかけである子供に対する保護を強調していくはずの政府や文科省自らが、その責任を放棄して、逆に子供の『自己責任』を強調していることである。
そんな責任感など今の子供たちの心の中のどこにも発生しようがないのであるが、それを正当化する言葉が子供の『自己決定権の尊重』という甘いささやきなのである。

日本では抽象的な権利をいくらもらっても、それ以降何も生み出さないのである。それは子供の人格上の問題ではなく、日本の文化の論理構造上の問題である。そのことに早く気づくべきである。

今の子供たちにとって権利はタダである。
それは大人たちがそういう与え方をしているからである。
タダでもらったものは何も生み出さない。
それはもらい得であって、あとは自分が自由に使うだけである。
どう使おうと勝手である。
そこにはなぜもらえるのかという論理性もなければ、どう使わなければならないかという倫理性もない。

それは明らかに、西洋流の神から与えられた自然権とは別物である。
日本にはもともと神もなければ自然権もない。
西洋の自然権は自然に発生したものではなく、神が与えたものである。
だから神に対する自己の責任が発生しうる。

ところが日本では与えた者の姿が見えないのであるから、それに対して自分がどういう責任を果たすべきかという意識も発生しない。
全く宙に浮いた謎の物体、それが今の日本の権利である。
今の日本の権利は、気持ち悪いほどどこからともなく発生した権利である。

それは例えて言えば、何の秩序もなくゴミや汚物が散乱した公衆便所で、どこからともなくわいて出てくるナンキンムシのようなものである。
そのいかがわしさは誰もが気づいてはいるが、誰も手に取ってみようとはしない。政府もそれを消毒するどころか、いつも適度の湿り気を与え、それらが増殖しやすい環境を整えてやっているのである。
***以上引用終わり***

mosimobox 

2016年8月 7日 (日)

【本当に美しいって何?】①

【美しいって何?】
リンク
より引用

--------------------------- 以下引用 ---------------------------

原研哉氏によれば、もともと人類はシンプルさ、単純さを美しいなどとは考えてこなかったという。デザインや意匠は単純なものから複雑なものへ移っていくと考えられがちだが、そうではなく、いきなり複雑なものから出発したというのだ。例えば中国の鼎などは、極めて複雑な文様が施されているが、あのような複雑精緻なデザインであることが権力の誇示であり、ロココ調の豪華絢爛さも同様であるという。

それが変化したのは、貴族社会から市民社会へ移行したからだ。権力の象徴である複雑で絢爛豪華なデザインから、誰でも入手できる工業製品を含む単純な美しさへと、美の領域が広がっていった。そこで初めてシンプルという概念が誕生した。

<美しさ・美の基準というのは時代によって移り変わる>

美が人間の感性、あるいは概念である以上、それは当然のことだが、平安時代の美女であるおたふく顔が、現代の美女の条件ではないことを考えれば簡単に納得がいく。

私たちは旅に出て美しい自然の風景に感動する。ところが昔のヨーロッパ人は、山を見て美しいなどとは感じなかったのだそうだ。初めて「山がきれいだ」と書いた最初の記述が確認されたのが1336年のことで、イタリア人の詩人だったという。彼がそう書くまで、山は単なる醜い天地のイボだと人々は感じていた。

ヨーロッパでは18世紀から自然の風景が受け入れられるようになっていったが、その受け入れ方は「絵のように美しい」ことが重要なポイントだった(ピクチャレスク)。つまり、美しいとされる風景画のように美しい風景なら人々はようやく受け入れることができるようになったのだ。

これと似た受け止め方を、日本人も風景を受け入れるときにやっていた。山水画のように美しい風景を日本人は愛でてきたという。

<人間は美しいという概念を定型化することなしに受け入れることはなかなか難しいのだ。>

誰かが、これは美しいと言い出す。それに賛同する人が増える。そうするとその美しさが初めて一般化して、市民権を得るということだ。こういうことは現代でもよく行われているという。

例えば、ひところ流行った「工場萌え」もそのひとつ。無機質な金属の工場を美しいと誰かが言い出すまで、工場はただの工場にしかすぎなかった。これが広く市民権を得ているかは今のところ不明だが、現代美術なんてのは、結局美しいのかどうかわからないままの作品も多いのだから、そうやって「新しい美」は、現代でも続々と生み出されているといっていい。

--------------------------- 引用以上 ---------------------------

流行、文化(サブカル、その他)、美意識が次々に生み出される現代において、
「美しい」の概念は次々と塗重ね、塗替えを繰り返し、
純粋に「美しい」とは何か?ということを追求する機会がなくなってきているように思う。捉え方次第ともいえる「美しい」の蔓延が起こっており、これは「美」の多様化という観点においては肯定視することもできる状況ではあるが、今一度軸足をかため、「美しいとは何か」について考え直す必要があるように感じる。

川内麻生

2016年8月 5日 (金)

ピラミッドの石を運ぶ方法がついに解明!?

リンクより引用します。

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2.5トンの石をどう運んだのか? 考古学者と機械工学者を悩ませてきたピラミッド往年の謎がついに解明の時を迎えたようです…。アムステルダム大学研究班が辿り着いた回答は、実に灯台下暗しなものでした。


ピラミッド建造方法については諸説ありますが、一番のネックは「摩擦」。古代エジプト人は岩を採石場から建造場所まで大きなソリに乗せて運んできました。ただの板切れで、端が上にくるんと曲がってる、何の変哲もない普通のソリです。


でも、こういうソリに2.5トンの荷物を乗せて引っ張ると、どうしても砂にめり込んで、小さな砂山が前にできてしまいます。あんまり大きな山にならないうちに、いちいち砂を除けてやらないと、前には進めません。


しかし、砂が濡れていたらどうでしょう? 
そう、山はできません。


砂を適度に湿らせてやると、「capillary bridges(毛細血管ブリッジ)」という、砂粒同士を繋ぐ毛細血管状の超微量の水滴…が砂に行き渡って、砂粒同士が2倍硬くなるんですね。それだとソリの前にも山ができないし、引っ張るのに必要な力も半分になるのです。半分!


たぶんそうやって運んだんじゃないかって言うんですね。大学のプレスリリースにはこうあります。


物理学者らは、エジプトのソリの実験室バージョンを砂のトレイに入れ、引っ張るのに必要な力と、砂に染み込ませた水の量ごとに砂の硬さを調べてみた。硬さは血流計で測り、ある一定の分量の砂が崩れるのに必要な力を調べた。


すると、砂が硬ければ硬いほど、引っ張るのに必要な力は少なくなった。...乾いた砂だと前に小山ができてしまうので、地面が硬い砂の方がソリの移動は遥かに簡単だった。


言われてみれば、これってヴィクトリア朝時代に発見されたジェイホテプ墓(Tomb of Djehutihotep)にはエジプト中期王朝の王の巨像をソリに乗せて引っ張る奴隷の絵が残っていたんですが、そのソリの前の方には砂に水を撒く男がばっちり描かれているんですよお。


ホームラン

2016年8月 3日 (水)

「成長する発想」と「成長しない発想」(2/3)

引き続き、sogitani.baigie.blog『「成長する発想」と「成長しない発想」』リンクより転載します
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●環境よりも大きかった自分自身の物事の捉え方

最初の4年間と比べれば、このときの職場環境は恵まれていませんでした。年収も大幅ダウンしました。何日も徹夜することは当たり前でした。プライベートの自由な時間もほぼなくなりました。「自分らしさ」なんてものがどこにあるのか分からなくもなりました。完全に量産型のWebデザイナーになりました。

しかし、今、客観的に見ても、最初の4年間より、この2~3年の成長の方がはるかに大きかったと断言できます。知識や技術だけじゃなく、モノの考え方、人との接し方、社会で起こっていることの捉え方、仕事観、人生観、会社とは何か、人に何かを伝えるとはなんなのか、自分のしたいことと世の中のニーズと重なるところ/ずれているところ、などなど。あらゆる面の意識が大きく変わりました。

本当は社会人1年目で身に付けなければいけないものが、まったく身に付いていなかったので、成長して当然だったわけでもありますが・・・。

社会人最初の4年間と、Webデザイナーに転職してからの2~3年。その期間で、私自身の基本的な能力のポテンシャルに大きな違いはなかったでしょう。働く環境でいえば、最初の4年間の方が圧倒的に恵まれていました。

しかし、職務内容の違いを考慮に入れても、今の自分の礎になる大事な成長を経験したのは、明らかに、恵まれていない環境で働いていた期間でした。悪い環境の方が成長する、などという極論を論じる気は毛頭ありませんが、労働環境や教育体制と、成長の度合いは、私の場合は無関係でした。

●「自分らしさ」が生んだ多くの「成長しない発想」

人間は誰しも、成長する可能性を秘めています。しかし、その可能性を一番閉ざしてしまうのは、実は働く環境ではなく、自分自身の心の持ち方なのだと思います。

特に、すぐに他者や環境を否定し、自分の行動や変化を抑制するタイプのネガティブ発想は、成長の最大の敵です。せっかく成長する機会が目の前に現れても、安易に乗っかるのを恥ずかしいと思い、それを否定し、チャンスを放棄し、自分は軽くない人間だといってその行動を正当化し、ずっと同じ場所に居続けてしまいます。結果、成長する周囲に差をつけられ、時代に取り残され、やがて「できない人」になっていくのでしょう。

逆に、この、他者否定型・行動抑制型のネガティブ発想=成長しない発想をしなくなるだけで、成長のチャンスは大きく広がります。ただそれだけで、可能性が広がります。

過去の私自身を振り返ってみても、自分の成長を分けたのは、環境を変えたことそのものではなく、「成長しない発想」をやめて、「成長する発想」に転換したことが非常に大きかったです。私が陥っていたこの「自分らしさ」病に起因する「成長しない発想」と、その後の「成長する発想」の違いを、少し整理してみました。

■めんどくさそうだ、やめておこう→面白そうだ、やってみよう
未体験のことを、めんどくさそうと思うか、面白そうと思うかで、チャンスの多い・少ないが決まります。

■それをしたら損をするのでは→それをしたら得をするのでは
未経験のことをするときに、そのメリットより、デメリットにばかり目が行って尻込みすることは、その時点で多くのものを失います。

■どうせ無理→なんとかなるかも
立てた目標を達成できるかどうかは、能力の差ではなく、時間があるかどうかでもなく、とにかくなんとかしようと思うか、あるいは最初からあきらめる準備をしているかの違いだったりしないでしょうか。

■それは嫌い→それは好きになるかもしれない
やったことないこと、精通してないことに、好きも嫌いもないはずなのに、それを最初から嫌いといって拒絶するのは、チャンスを失いやすい発想です。

■そのことは自分には向いてない→そのことはやるべきだろう
向き不向きなんて、本当はやってみるまで分かりません。なのに、やるべきか、やらざるべきかの判断ではなく、最初から自分には向いてないと決めつけてかかるクセがあると、多くのチャンスを失うでしょう。

■参考にならない。無駄だった→何か参考にできることがあるはずだ
いつも最高の経験ばかりで人生を過ごすことなんてできません。良くない経験もそこから学べること、反面教師にできることは色々あるはずです。経験を無駄にしているのは、他人でも会社でもなく、自分自身ではないでしょうか。

■それは自分の役割じゃない。関係ない→自分の周りのことはできるだけ知っておこう
自分の責任範囲しか見ないで仕事をする人と、周囲で起こっていることも自分事としてとらえる人では、同じ1日8時間の労働時間でも、経験することの量も質も変わります。これが1年、2年と続くと、成長する人としない人の、大きな差になるのではないでしょうか。

■流行に乗るなんて恥ずかしい→流行ってるのはなぜだろう?何か理由があるのでは?
世の中で起こっていることをシャットダウンしても、成長はしません。好き嫌いではなく、なぜそうなのかを考えられれば、自然と耳に入ってくる雑音も、貴重な情報源になるでしょう。

■簡単に動かない、変わらない自分は冷静沈着でクレバーだ→何か行動しないとまずい
動くべきか、動かざるべきかは状況にもよりますし、無計画な行動が良いわけではありません。ただ、いつも流行に乗ることを嫌い、いつもじっとしている自分が好きな人は、いつも出遅れ、いつも成長機会を失っていると気付くべきでしょう。

■もうできない→まだやれる
物事、工夫をすれば、無理な状況を覆したり、代替案で近い効果を得る方法を考える余地はあったりします。目標まで到達できるかは、やれると考えるか、諦めるかの違いだけだったりしないでしょうか。

■失敗例があるから、やらない方が利口だ→成功例があるから、できるかもしれない
物事には、成功も失敗もあり得ます。なので、単に億劫で自分がしたくないということにだって、さも正しいかのような例を集めてくることはできるのです。その判断は本当に、冷静な「撤退」の判断なのでしょうか。ただ単に、変わりたくない自分を正当化しているだけじゃないでしょうか?

 ====================================================つづく



匿名希望

2016年8月 1日 (月)

「成長する発想」と「成長しない発想」(1/3)

> (「自分らしさ」や「オリジナリティ」こそ、民主主義などの近代思想が生み出したまやかしです。) 254805

「自分らしさ」へのこだわりを捨て、
 ・役割分担を超えて他の領域の仕事へも関わる
 ・そういった領域について本で勉強する
 ・その領域を得意とする人に積極的に話を聴きに行く
その結果、あらゆる面の意識が大きく変わって、成長できた。

そんな、体験談を紹介します。

sogitani.baigie.blog『「成長する発想」と「成長しない発想」』リンクより転載します
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●「自分らしさ」にこだわって働いた結果

私が社会に出たのは1997年。今から17年も前のことです。最初に勤めた会社は、福利厚生も充実し、経営も安定し、勤めているだけで社会的な信頼も担保される、とても良い会社でした。

学生の頃までは、私は人とは少し違った視点で物事を捉えると、友人からは評価されていました。流行もの、ありがちなもの、浮ついたもの、軽薄なものに与せず、メジャーなものではなくマニアックなものを好む自分でありたいと思い、自分だけは本質が見えていると信じ、鋭い指摘を入れ、否定する。それが「自分らしさ」でした。

社会人になっても、その「自分らしさ」は絶対に失いたくない、会社に染まりたくない、ありがちなサラリーマンになりたくない、と強く思って働いていました。今風の言い方をすれば、社畜になってたまるか、という気持ちです。

重要ではないプライベートを優先し、部署の飲みを欠席することは当然でした。なんで残業代も出ないのに飲み会に出ないといけないのか、と思っていました。飲みに参加しても、最初の「みんなでとりあえずビール」が嫌で、自分だけ違うお酒を飲んでいました。紺のスーツに白いシャツというありがちな格好が嫌で、絶対に白シャツは着ませんでした。

余暇が充実してない人生なんて終わってると思い、プライベートのほとんどを趣味に使いました。会社は定時に上がり、好きな音楽を聴き、ライブに行くのが楽しみでした。当時は年間300枚以上のCDを買い、年間30~50本くらいのライブを観に行っていました。

もちろん、プライベートまで仕事のことを考えるなんてありえないという考えなので、仕事の持ち帰りや自宅学習なんて一切しませんでした。

日本中が沸いているオリンピックやサッカーの話題に加わるのは負けになるような気がして、自分からは決して話に加わりませんでした。自分の役割分担は明確にし、それ以上の仕事はできるだけ受けないようにしていました。正直、挨拶とか社会人としてのマナーとか、そういうのすごくくだらないと思っていました。

一つ一つの行動やこだわりは、別に悪いことではないでしょう。しかし、そういう姿勢で臨んで働いた4年間は、今、客観的に思い返してみても、あまり成長しませんでした。

もちろん新入社員がまったく成長しないなんてことはありません。別にサボっていたわけではなく、基本的には与えられた仕事は真面目にこなしていました。その会社で身に付けて、今の自分に繋がっている部分は、潜在的には色々あります。

でも、4年間も過ごした割には、優秀な人たちに囲まれた環境にいた割には、様々な学習の機会に満ち溢れていた割には、たいしたことを身に付けることができませんでした。恵まれた機会をもっと有効活用できたな、現在に繋がる何かをもっと獲得できたな、と今はとても後悔しています。

●「自分らしさ」が無効化された環境

しばらくして、会社にいるだけの人生は空しいと思い、会社から独立して生きていきたいと思いました。

どうせなら、元々興味があったデザインの仕事がいいと思い、仕事をしながらグラフィックやWebの勉強をしました。ただ、大学も美術系ではなく、実務経験も一切ない私のデザインのスキルというのは、完全に素人の思い込みレベルのものでした。なので、いきなり独立ではなく、いくつかの会社で経験を積んでから、独立しようと思っていました。

そんな私を雇ってくれるありがたい会社がありました。私は、高校受験をして高校に入り、浪人をして大学に入り、就職浪人をして大企業に入るという、失敗をしながら長い時間かけて繋ぎあわせてきた人生のレールを断ち切り、10人にも満たない小さな広告会社に、未経験のWebデザイナーとして就職しました。2001年、28歳の時でした。

その新しい環境では、学生時代から保持してきた「自分らしさ」なんてものにこだわっている余裕は一切ありませんでした。

28歳はデザインを始めるには遅すぎると言われたこともありました。だから、仕事に付いていけないと会社に捨てられるかも、と思っていました。年齢に関係なく、周りにいるすべての人が先輩で、できる限り短期間で吸収しないとやばいと思っていました。ランチや飲み会などの社内交流には積極的に参加し、できるだけ話をし、少しでも知識や考えや彼らの体験を学ぼうとしました。

サッカーには元々まったく興味がなかったけど、2002年の日韓ワールドカップも、同僚や先輩がそれに関わる仕事をしていたので、自分もできるだけ関心を持って関わるようにしました。

広告に関わる仕事なので、流行が嫌いだのなんだのと言っていられないと思い、できるだけ流行を受け入れるようにしました。それが軽薄だろうが、下世話だろうが、何かが流行るには理由があるはず、という目で見るようになりました。

仕事の中のスキルアップだけだと明らかに不十分だったので、プライベートの時間もできるだけ勉強に費やしました。自分のWebサイトを作ったり、デザインポータルを立ち上げたり、好きなデザインを模倣した作品を作ったりしていました。

この時期は、大好きだった音楽からも遠ざかり、新しい音楽もほとんど買わず、ライブには一切行かなくなりました。

独立するからには、自分が仕切れないといけないと思い、役割分担とは関係なく、デザイン以外の役回りも自分から行いました。営業やシステムにも、可能な範囲で関わりました。デザインを説明するのに設計やマーケティングの知識も必要だから、そういう本を読んだり、そういうのが得意な人がいたら積極的に話を聴くようにしました。

そうやって仕事の幅を広げていくと、いろいろな業界や年齢の人と接しなければならなくなり、挨拶やビジネスマナーの大切さを思い知るようになりました。

 ====================================================つづく



匿名希望 

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