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2016年7月30日 (土)

仏教が日本で定着していくとは・・・共同体のほころび度合いと関係ないか?

網野氏は「日本の歴史を読み直す」という中で金融業や商人は元々共同体の外にいた人という切り口でその存在基盤を分析しており、なるほどと思わせられる。共同体と共同体の間には隙間があり、それを繋ぐ需要が発生する。日本では奈良時代以降も共同体が温存されたが、そこから何らかの理由で外れた人が一定規模で登場した。彼らは神仏の世界と繋がっていた。そう考えると仏門に入る人や仏教の日本での広がりは共同体の喪失や共同体から外れた勢力が背景にあるように思う。
下記はリンクから引用しました。
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神仏に直属する民

商品交換と似たことは、原初の金融にもいえる。日本における金融の起源、つまり「モノを貸して利息を取る」ということの端緒は、「出挙(すいこ)」にある。出挙は、稲作と結びついている。最初に獲れた初穂は、神に捧げられ、それは共同体の神聖な蔵に貯蔵される(その蔵を管理したのが首長)。その初穂は、翌年、農民に貸し与えられ、農民は、収穫期に「利息(の稲)」をつけて、蔵に戻さなくてはならない。これが出挙で、律令国家よりも前から行われていた。
 なぜ、利息を付けなくてはならないのだろうか。人と人との貸借では、その必要がなかったのに。私の考えは、こうである。その種籾aが「神に属していた」という事実が+Xの価値を生み出しているのではないか。神は、人間以上の超越的な実体だからだ。つまり、われわれがこうして安全に存在できているということ自体が、多かれ少なかれ、神のおかげだからだ。それゆえ、人は、神から与えられたときには、その「剰余価値X」の分までも含めて返さなくてはならない。

ともあれ、交易や金融の世界は、このように、共同体の外部にいる超越的な神々に直結している。したがって、交易や金融には、普通の俗人はたやすくかかわることができない。中世までは、商人、職人、金融業者は、神や仏の直属民という資格で活動している。神の直属民は、「神人(じにん、じんにん)」、仏の直属民は「寄人(よりうど)」、天皇の直属民は「供御人(くごにん)」とよばれていた。
 これら神や仏に直属する人々、つまり交易や金融に関わった人々は、市場から市場へと移動する民だった。彼らが移動したのは、陸路だけではない。彼らは、河や海をも、いやむしろ主として水路・海路を移動した。

もうひとつ、重要なことを付け加えておこう。網野によれば、後に「部落民」として差別されることになる人々、つまり非人や河原者もまた、商人と同じカテゴリーに属する民、つまり神や仏の直属民として、畏れられていた。非人の仕事は、死のケガレを清めることであった。彼らは、一般の俗人にはできない職能をもつがゆえに、神仏の直属民とされたのである。河原者の仕事は、「自然に大きな変更を加えること」(土木)であり、やはり、一般の人々の畏怖の対象となった。

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