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2016年6月

2016年6月30日 (木)

個人主義は幸せかい?

>食料が豊富で、他民族の略奪や戦争が殆ど無く外圧が緩かった日本は、闘争課題よりも、集団の維持をどうするか?といった課題が主要なみんな課題であり、「集団の充足⇒活力をどうする?」という統合課題があり、最基底部には性の充足があり、色んな慣習や規範(掟)が、村落共同体の中で育まれていきました。
現代、みんな期待・課題の最基底部であった、性・婚姻は、個人期待・課題となり、その分、充足も個人レベルへと閉塞していきました。274348

充足⇒活力に溢れた村落共同体の時代、対して閉塞した現代。
何が問題だったのでしょうか。

「週刊代々木忠 第209回 個人主義は幸せかい?」より紹介します。
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 昨年(2012年)、ストーカー被害が過去最多になったという。テレビや新聞、ネットで読んだ人も多いことだろう。警察庁によれば、その数、前年比36.3%増の1万9920件。長崎県や神奈川県のストーカー殺人事件で世間の関心が高まり、相談や被害を届け出る敷居が低くなったと見ているようだ。たしかにそういう面もあるだろうし、実際の件数自体も増えているのだろう。

 なぜかといえば、ストーカーに走るのは、人とコミュニケーションがうまく取れない人間が圧倒的に多いのではないかと思うからだ。ストーカーを擁護するつもりはないけれど、人とコミュニケーションを取れない人間が増えているのは、動かしがたい事実なんじゃないかと思える。

 人と意思疎通ができなくなれば、そこで溜め込んだストレスは、捌け口を求めてどこかに向かう。向かう先はストーカー行為に限らず、酒だったり、ギャンブルだったり、セックスだったり、人によってはドラッグだったりもする。

 たとえば、そうやって飲む酒は、苦しさから逃れるための手段だから、結局のところ、酔いさえすれば銘柄なんかは何でもいいのである。何百人とセックスしてしまう女の子は、僕からすれば、もう人間としていないわけで、相手は誰でもいいのだ。

 では、なぜコミュニケーションを取れない人間が増えたのだろう?

 いろいろ原因はあるはずだが、僕は「過度な個人主義」が最も大きな要因のように思う。個人の権利と自由を尊重する風潮のなかで、それがすでに行き過ぎているのではないかと。

 あたかも家のまわりを高い塀で囲むみたいに、他人が土足で自分の中に踏み込まぬよう、権利という壁を築いているように見えるのだ。プライバシーは保たれるものの、壁が堅牢になれば他者との風通しはおのずと悪くなる。ときに自分の壁に風穴をあけてみても、そこから見えるのは他人の壁だったりもする。

 個人主義は戦後に輸入されたものだが、たとえば欧米で小さな子どもを寝かしつけるとき、子ども部屋のベッドにひとり置かれた子が、最初の晩は30分泣いたとする。だが、慣れていくうちに30分が20分に、20分が10分になり、やがて子どもはひとりで寝られるようになるのだそうだ。これを欧米では、自立をうながすためのしつけだと言う。

 親子のスキンシップの重要性はこれまでも書いてきたけれど、幼児期にスキンシップが不足していると、大人になって「自我収束」が起こりやすくなる。自我収束とは、「どうせあの人は○○に決まってる」と相手を否定し、自分も心を閉ざして、何かに期待すること自体をやめてしまう心のありようだ。自我収束が起これば、当然ながら人間関係は孤立していくし、自らの活力も低下していく。要はどんどんネガティブになっていくのだ。

 それでも子どもの頃、たとえば集団で遊んだりしていれば、それは外圧へ適応していく模擬訓練・実践的訓練にもなるだろう。実際、集団遊びをくり返すほど、脳神経回路が発達するという報告もある。

 ところが、ひとりでテレビやゲームに興じていると、脳の回路が単純化されてしまい、結果的に特定の回路は強化されるものの、その他の神経回路を使わないように脳が習慣づけられるという。

 今やケータイやパソコンでネットゲームをやるために、親さえ殺してしまう事件が起きている。そこにハマッてしまった子どもにとって、ネットゲームはドラッグのようなものではないだろうか。ドラッグならば売った者も買った者も厳しく罰せられるけれど、ネットゲームはそうはいかない。

 「過度な個人主義」とは、人間が人間らしく生きられない世の中のように僕には見える。もしそれを克服し、自分の人生を取り返そうと思えば、つまるところ、友をつくって、遊びを持つしかない。とはいえ、すでに閉じてしまった人にとっては、友をつくることさえなかなか難しいかもしれない。

 そういう人は、呼吸法を実践して気血の流れをよくするといい。人間関係にも必ずや変化が訪れる。それから、音楽も効果がある。たとえば子どもの頃にスキンシップが足りなかった人には、本能を刺激するラテン系のリズムや太鼓がいい。とりわけ和太鼓は効果が大きい。感情をうまく出せない人には、フラメンコや演歌など、感情を揺さぶる音楽がいいだろう。いずれにしても、頭で聴くのではなく、リズムにのって自然に体が動き、声が出るようになれば、それは人間関係における自己表現へとつながっていくはずである。
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ET 

2016年6月28日 (火)

「声の文化と文字の文化」 ~どんな発明にもまして、書くことは、人間の意識をつくりかえてしまった~

人類は、長い期間、共同体体制で言葉しか持っていなかった。しかし古代帝国が生れるや否や文字が登場した。これは、帝国を維持する為に記憶できる文字(税金徴収や正当性を主張する)が必要であったからである。この「声(言葉)と文字」の差異を分かりやすく解説したサイトがありましたので紹介します。
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灰色の脳細胞(リンク
ウォルター・J. オング『声の文化と文字の文化』
(前略)
さて、知とは記憶と想起である。そして伝達もしくは交換されることに、その意義がある。その点を注視することにより、声と文字の文化の差異が見出される。

声の文化は、文字の存在しないそれである。したがって知は声により伝達されるしかない。声は運動であり、ひとたび聞き逃せば取り返すことは不可能である。したがって伝達されるべき重要な知は、幾たびも繰り返され、その内容は話し手と聞き手の双方が共有する知を基礎としなければならない。つまり声の文化において知は共同的である。これは声の文化において、知が精神の外に一度に与えられるものとしては存在しないことに由来する。

逆に文字の文化では、知をストックしそれを可逆的に受け取ることができる。文字は、発信者と受信者が同一の場所、時間にいあわせる必要をなくし共同的な知を解体する。声の文化における発信者は、共同体が培い伝達してきた知を、他者にもたらす語り部であった。したがってそこではまず記憶とその再現に重点がおかれ、記憶を容易にするための冗長な反復、類型的な登場人物、生活に密着した具体的な情報が際立つ。たとえば叙事詩と呼ばれるものは声の文化の産物である。当然「作者」という観念は存在しない。あるのは「知」のみである。

文字としての知は、物質として完結し諸個人が自由にひとりで対峙するものとしてあらわれる。共同体における人間関係とは乖離し、声の文化の諸特徴であった、冗長、類型的、具体的といった性格は失われてゆく。記憶と再現を重視しないこと、つまりテクストを自由に可逆的に往来することが可能な「読者」は、分析的な思考を獲得してゆく。過去からの伝達、忠実な知の継承といったことは重要でなくなり、新規な何ものかを「発見」することに価値が見出されるようになる。そのために「作者」「読者」双方に抽象的かつ分析的、そして共同体から無関係な「知」が尊ばれ、ここに諸学は発生することとなる。

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ウォルター・J. オング『声の文化と文字の文化』に関心がある方には、(リンク)をお勧めします。



岸良造 

2016年6月26日 (日)

マルクスの「生産力説」とは2

「生産力」「生産関係」が何を指すのかは、マルクス経済学派の中でも議論が分かれ、生産力説が曖昧とされる所以になっている。ウェブ上の探索では意外にも、敵勢力である国際勝共連合の定義が比較的明快にみえた。
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生産力 
簡単にいえば財を生産する能力のこと。生産力には労働力、労働対象、労働手段の三要素がある。このうち人間の労働力が最も重要な要素で、経験や熟練を踏まえて生産用具を使って生産する人間の力のことである。労働対象は原料など。労働手段は人間が生産のために必要な物質的条件=機械、土地や施設など=をいう。労働対象と労働手段を合わせたものが、生産手段と呼ぶ。したがって生産力とは「労働力+生産手段」という定式にあらわすことができる。

生産関係 
人間が生産過程でとり結ぶ社会的関係のことで、生産手段が誰によって所有されているかを基礎としてとらえる人間関係のことを生産関係という。たとえば資本主義的生産関係といえば、生産手段を所有する資本家と、生産手段を所有せず自らの労働力を商品として売らざるを得ない賃金労働者の関係をさす。マルクス主義の定義でいえば、生産関係は生産力との対立物の統一として存在し、ともに生産様式を構成するということになる。

生産様式 
生活手段を生産し、これを交換する仕方のことで、一般的には生産方式のこと。マルクス主義では「生産力と生産関係の対立物の統一」、つまり人間が自然に働きかける生産力と、人間相互の関係としての生産関係が、現実の生産様式として統一されるととらえる。生産力の発展によって異なった生産様式がうまれ、人類は歴史的に原始共産制、奴隷制、封建制、資本主義制、社会主義制の五つの生産様式を経験してきたとする。
リンクより)
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マルクスのいう生産力は、人間が自然に働きかけて自然を作り変える力、つまりもっぱら狩猟採集・農業・工業までの物的生産を指しており、おそらく現代のサービス業をはじめ、意識生産の領域は想定されていない。また、“生産力と生産関係の統一物”としての「生産様式」という概念も登場しているが、この概念が指し示す原始共産制や奴隷制といった内容は、生産の様式というより集団や社会の統合様式という方が近い。

2016年6月24日 (金)

マルクスの「生産力説」とは1

> 生産力説は概ねは正しいが、マルクスの提起した生産力概念は曖昧で、そのままでは現実を切り開く武器として使えない。268346

マルクスの生産力説、生産力の概念とはどのようなものか?
彼の唯物史観を定式化した文章として知られる、著書『経済学批判』(岩波文庫)序言の一節にはこうある。
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人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。

社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。
リンクより)
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生産(諸)力と生産(諸)関係が人間社会の下部構造(土台)にあり、政治や法律や社会的意識が上部構造にある。そして生産力が発展すると、生産関係との間で矛盾を来たし始め、やがて社会変革へ至る。この変革を通じて人類の生産様式(生活様式と訳される場合もある)は、アジア的、古代的、封建的、近代ブルジョア的(=資本主義的)なものへ変遷してきた(最終的に共産制に行き着く)。これが唯物史観の骨格になっている。



田中素

2016年6月22日 (水)

ならず者・不法者の寄せ集め集団が、一神教・選民思想と言う正当化観念・架空観念を生み出した

>確かにユダヤ教の旧約聖書には出エジプトやバビロン捕囚など、民族の苦難の歴史が記されています。これらはユダヤ教(ユダヤ民族)の創生としてよく語られる物語ですが、あまり鵜呑みにしない方が良いのではと思います。(266669

私も、旧約聖書等で語られてきたユダヤ教(ユダヤ民族)の創世は鵜呑みにできないと考えています。むしろユダヤ「民族」(ヘブライ人)と言う定義そのものが捏造であると思われます。

>「ヘブライ」という言葉がいつ頃から用いられるようになったのかは明らかでない。創世記ではアブラムが「ヘブライ人」と呼ばれており、ヨセフもまたそう呼ばれている。これで見ると「ヘブライ人」は人種あるいは民族を指していると思われるが、事はそう簡単でない。
 1886年にエジプトのアマルナで発見された粘土板文書群(アマルナ文書)に、エルサレム王アブドゥ・ヘパ(前1375年頃)からアメンヘテプ王に宛てた手紙があり、そこに「ハビル」という語が刻まれているのが認識された。手紙は当時の外交の公用語アッカド語で書かれている。当初この「ハビル」は、当時カナンに侵入しつつあったイスラエルの部族を指すと考えられた。ところがその後、この「ハビル」は、部族や民族名ではなく、ある社会的な階層を意味しているという説が浮上してきた。
 この語はおそらくアッカド語の「ハビル/アピル」から出ている。しかし、このアッカド語もさらにシュメール語の「逃亡者」「亡命者」から来ていると想定される。犯罪やその他の理由で土地を失ったり国を追われるかして脱出する人たちを広く指す用語であったらしい。エジプト語やウガリット語では「アピル」と言われ、この語は「不法者」「ならず者」の意味にも用いられた。ウガリット語では、用法がさらに広がり、都市の住民たちに一定期間契約によって奉仕する人たちをも指していた。いずれも「外国人」であるには違いない。エジプトでこの語は「外国人で建築などに雇われた肉体労働者」を意味していたようである。したがってこの「ハビル」には、様々な部族や人種が含まれていた。こうしてこの用語は、前2000年~1500年頃、青銅器中期から後期にかけてパレスチナを含む極西アジアで用いられるようになった。
 この時期、国々が群雄割拠し、各地に権力機構が成立するにつれて、負債を抱えた貧困層の農民たちが土地を奪われて奴隷になったり逃亡したりして、その結果、大量の「難民」が発生した。小国家群の境界が一定しないこともこのような「ハビル」を生んだ一因であったろう。こうして法令では支配できない階層が生まれてきた。「ハビル/アピル」の背景には、このように大きな社会問題が存在していたと推定される。したがってこの語は、本来社会的なもので、人種を指すものではない。彼らは居住者となった場合でも都市の居住者であって、農村の居住者ではない。いわば土地所有制度から排除された人たちであった。

>旧約では「ヘブライ人」は、社会的な階層よりもむしろ民族的人種的な意味に用いられている。しかし、この用語の背景に照らしてみると聖書の「ヘブライ人」の意味も単純ではなくなる。アブラハムは「移住の民で土地所有の権利を持たなかった人」として描かれる。ヨセフ物語で「ヘブライ人」はエジプトへ流れてきた民として差別されている。モーセの出生についても「ヘブライ人」が用いられる。これはエジプト人から区別された人種用語であるが、それでも「土地を持たない人たち」として、「建設に携わる外国からの労働者」の意味が加わっている。
(以上 引用:リンク

>彼らの出自としてはこの他にも、カナン諸都市の周辺部に居た半遊牧民達が山地に逃れて定住したとする説、カナンの諸都市の奴隷や下層民が都市を逃れて定住したとする説、アラム地方から移住してきたとする説など様々である。おそらくは多様な出自を持つ人々であり、この中からヤハウェ神信仰を共有する部族がまとまってイスラエル部族連合が形成されたのであろうと考えられている。 (266671

上記引用中にもあるように、古代ユダヤ民族(ヘブライ人)とは、私権闘争の中で追いやられたハビル=「逃亡者」又は「ならず者」や「不法者」の寄せ集め集団に過ぎないと考えられる。

ユダヤ教登場以前の神話(守護神信仰)は、いずれもその土地土地の民族的背景に基づいて形成され、それらが部族連合→国家として統合されていく中で神々が序列化されていく。この為、武力統合国家の神話は、例外なく「多神教」となっている。
一方で、ユダヤ教においては、突然唯一神(ヤハウェ)が唯一絶対の神として登場し、ユダヤ民族のみがこの唯一絶対神に選ばれた民族であると定義する。
その排他性は「ユダヤ人以外は人類にあらずして獣類(犬にも劣る豚=ゴイム)である」「ユダヤ人がゴイムを殺しても責めは負わない」「ゴイムの所有物は全てユダヤ民族に属すべきもの」(いずれもモーゼが伝えたと言うユダヤ教の口伝律法 タルムードより)など常軌を逸している。

以上から考えると、本源的な集団に全く根ざしていない「ならず者の寄せ集め集団」を統合し、更に自分達を正当化する為に作られた架空観念こそが、一神教・選民思想と言う異常な観念体系の正体であると言えるだろう。

西谷文宏 

2016年6月20日 (月)

モーゼの十戒の騙し

モーゼがユダヤの民をエジプトから脱出させる途中、シナイ山のふもとで神から啓示を受けたとされる「十戒」は、その後のユダヤ民族に対する厳しい戒めとして、その道徳性の高さを印象づけますが、実態はそうではないようです。

倫理の話リンクより引用。

1.私はあなたがたの神である。私以外のものを神としてはならない。「唯一神」
2.像を作ってそれを拝んではならない。「偶像崇拝の禁止」
3.神の名前をみだりに口にしてはならない。「神の名」
4.6日働いたら7日目は祈りのために休め。「安息日(あんそくび)」
5.父と母を敬え。「祖先を敬え」
6.殺してはならない。
7.姦淫してはならない。
8.盗んではならない。
9.嘘の証言をしてはならない。
10.隣人の家をむさぼってはならない。

上記を見ると、すごく道徳観念が高い民族の様に見えます。
しかし、一方、聖典とされる「タルムート」では、まったく異なることが書かれています。

世界の真実の姿を求めて!
リンクより引用。

ゴイがゴイもしくはユダヤ人を殺した場合は責めを負わねばならぬが、ユダヤ人がゴイを殺すも責めは負わず。
ゴイに金を貸す時は必ず高利を以てすべし。
他民族の有する所有物はすべてユダヤ民族に属すべきものである。ゆえになんらの遠慮なくこれをユダヤ民族の手に収むること差し支えなし。
ゴイに我らの信教を教える者は、ユダヤ人を殺すに等しい。もしもゴイが我らの教説を知ったならば、彼らは公然と我らを殺すだろう。
ゴイが我らの書物には何かゴイを害することが書いてあるのではないかと聞いたら、偽りの誓いを立てなければならない。そして、そのようなことは誓って書いてないと言わなければならない。
涜神者(非ユダヤ人)の血を流す者は、神に生贄を捧ぐるに等しきなり。

ここでゴイとは「非ユダヤ人」のことを指すそうですが、非ユダヤ人は人間として扱っていないことがわかります。

つまり、先のモーゼの十戒での「盗むなかれ。殺すなかれ。姦淫するなかれ。」などは、すべて同胞であるユダヤ人に対してのみのことであり、一方非ユダヤ人に対しては「騙してもよい。盗んでもよい。殺してもよい。」など、何をしてもよいと言ってるわけです。

一見道徳性が強いユダヤ教も、実はこれほど欺瞞性の高いものであることが分かります。

2016年6月18日 (土)

愛は世界を救わない

仏教は愛を説かない、仏は我欲を排する、仏の望むのは無我。仏教の説くのは、『愛』では無く『無我』である。キリスト教が愛を説いているのとは、あきらかに異なる。愛は欲につながる。

サンナシ小屋&京都から世界の愛する人たちへ(リンク)より

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近くにある有名なお寺に、気軽に散歩に行った。ちょうど、このお寺の住職が法話を話すときだったので、気軽に聞きに行った。このお坊さんは、まだ若いが、かなり有名な人のようで、いろんな人から噂を聞いてはいたが、会うのは(見るのは)初めてだった。

 最初はちょっと聞いて途中で出ようと思っていたが、話を聞いている人が10人くらいと少なかったことも有り、途中で出るのも勇気がいる。観光客と思われる若い女の子の二人連れは、途中でさっさと出て行ったが。でも、法話の内容が面白くて、為になるので、最後まで話を聞いた。終わっても去りがたくなり、しばらくお坊さんと話をした。

 この法話の中では、仏教における宗派の違いについての話があった。キリスト教などでは、カソリックとプロテスタント、その他いろいろな宗派があり、それらの間には決して超えられない確執や憎しみがあると、聞き及んでいた。しかし、仏教の宗派にはどうもそういう気配が薄い。いったい仏教の宗派とはなんだろうと、常日頃から不思議に思っていた。浄土宗と浄土真宗、天台宗。最澄、空海、法然らの間にはどのような確執や憎しみがあったのだろうか。その疑問が彼の法話ですっかり解けた。日蓮は少し違うが、最澄、空海、法然らの教えには、根本的な違いは無い。他力本願は、仏の情けにすがって浄土へ行こうという庶民の願いが反映されている。本願成仏も、自分の努力と勉強で、浄土へいけるというもの。どちらも阿弥陀浄土へ行くことの願いを説いたもので、そのちがいはほとんど無い。多少のお経の解釈の違いがあるだけである。だから、日本では、葬式や法要などでは、違う宗派のお坊さんがきてお経を上げていくことも、普通のことなのだ。キリスト教との違いは、はっきりした。

 宗派のことも面白かったが、もっとも印象に残ったのは、「愛は世界を救わない」というお説教だった。「愛が世界を救う」「愛さえあれば」「愛こそ平和」などという言い方を良く聞いている私には、「愛は世界を救わない」という言葉は一瞬、耳を疑った。でも、お坊さんの説教は、すぐに理解できた。「愛は我欲である」「欲は、愛を要求する」「自己愛、夫婦愛、家族愛、故郷への愛は、日本への愛、愛国心へとつながっていく」「これは平和では無く戦争につながる」「仏は愛を説かない」「仏は我欲を排する」「仏の望むのは無我」と法話は私の理解を導いていった。仏教の説くのは、『愛』では無く『無我』であることを教えてもらった。キリスト教が愛を説いているのとは、あきらかに異なる。愛は欲につながる。これは、今日の私にとって極めて大きな収穫だった。散歩はしてみるものだ。京都はそんなことが散歩の効用にある。

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大西敏博

2016年6月16日 (木)

宗教改革という運動を実質的に推進した勢力

16世紀のルターとカルヴァンによる宗教改革は、免罪符販売で収益を上げようとしたカトリック教会の腐敗に対して、信徒の反発が大規模化した、キリスト教世界での改革運動、と一般的には捉えられている。

しかし、運動を実現するには必ず「余力」が要る。
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運動を立ち上げるには、余力と拠点が要る。更に、運動を成功させるには、理論が必要になるし、広宣活動も必要になるし、情報収集も必要になるが、理論を追求するにも、広宣活動を展開するにも、情報を収集するにも、膨大な余力(時間)が必要になる。264228
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ルターもカルヴァンも、地方の小鉱業や職人の出自であり、これほどの運動を立ち上げる力は元来持たない。彼らに“余力”を与え、宗教改革を実質的に推進した勢力は、十字軍の修道会「ドイツ騎士団」の末裔である封建領主だった。なぜ彼らは宗教改革を起こしたのか。

当時、ローマ教会は、ミケランジェロら天才職人たちの活躍によって、華やかで自由な風土を欧州にもたらしつつあったルネサンスの異教性に対して、次第に異端視を強めていった。そして、欧州中で売り出した免罪符収入の目的の一つは、サン・ピエトロ大聖堂の造営にあり、この巨大建設プロジェクトの狙いは、近世社会で力を持ちつつあったヨーロッパ中の自営職人をローマ教会の下に再編・組織化することにあったという。

以下、リンクより引用。
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 そして、一五一七年、北ドイツのヴィッテンベルクのルター(1483~1546、二七歳)が、「大聖堂免罪符」をきっかけとして「宗教改革」を起します。しかし、その実際の抵抗運動の中心は、ヴィッテンベルクの領主エルンスト=ザクセン大公国の選帝「賢明」大公フリードリッヒ三世(1463~1525)、プファルツ宮廷選帝伯ルードヴィッヒ五世(1478~即位08~44)、ヘッセン方伯フィリップ(c1495~即位1509~67)、さらには、「免罪符」のドイツでの販売元だったブランデンブルク選帝伯兼マインツ選帝大司教アルプレヒト(名目上は弟が伯位継承、1490~1525)らでした。彼らは、北方開拓を行った第三の十字軍修道会「ドイツ騎士団」の末裔であり、ローマ教会による自営職人の組織化は、彼らに対する武装解除命令にほかならなかったのです。

 彼らは、保守的で妥協的なルターをかならずしも好まず、カルヴァン(1509~64)の徹底的な改革を待って、再び国際的な反教皇のネットワークを構築していきます。とくに、フランス宮廷の内紛によって、新旧両教間の「ユグノー戦争」(1562~98)や「ネーデルラント独立戦争」(1568~1648)が起きると、プファルツ宮廷選帝伯フリードリッヒ三世(1515~即位59~76)が中心となって、旧教から拒絶されたイングランド女王エリザベス一世(1533~即位58~1603)、オラニエ「寡黙」公ウィレム一世(1533~84)とともに、南ドイツのバイエルンやスペイン=「イエズス会」などの旧教体制と戦うことになります。
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引用以上。

2016年6月14日 (火)

【社員の活力を上げるための投稿集】~“自分発からみんな発”が成果を上げる源泉~

仕事という「闘争場面」で、力を発揮するにはどうすればいいのか? 下の3つ目以降に紹介する一連のなんでや劇場レポートには、今後10年はまず『活力』の多寡が勝敗を左右する事、そして、今後求められる『力』について書かれています。 「私権原理から共認原理への大転換」という社会構造の激変を経て、それに応じて求められる『力』の中身が変わってきた事、そしてその様な『力』を身につけるにはどうするか?が示されています。 ------ ★自分主義は敗者のイデオロギーに転落した①(75283) ★自分主義は敗者のイデオロギーに転落した②(75284) >「自分」に拘ればどうなるか。ますます周りとずれて行き、その結果益々「自分」に拘ると言う悪循環に陥る事は必然である。 それを断ち切るのは、先ず周りの期待を探り、自分を改める道しかない。つまりトコトン周り発の思考に切り替える事しかない。 ★3/28なんでや劇場レポート(1) 闘争能力の基盤は、みんな発の充足性と肯定視(229226) >今後10年間は、自分発からみんな発への転換度が、闘争過程の力を基底する。 みんな発の充足・肯定視の先には観念力も必要になるが、自分発からみんな発への転換ができていないのに、下手に観念を吸収しても言い訳・へ理屈のネタにしかならず、害の方が大きい。 ★3/28なんでや劇場レポート(4) 課題を突破する力の源泉は可能性収束力(229250) >根幹にあるのは実現イメージを生み出す力=可能性収束力 ★3/28なんでや劇場レポート(5) 試験エリートは無能⇒10年後には社会統合気運(229291) >自らが担っていくという意識が、社会統合でも企業運営でも、どこで切っても求められる ★3/28なんでや劇場レポート(6) 充足体験が可能性収束力の土台(源泉)(229292) >充足体験の豊かさが可能性収束力の土台(源泉)である

2016年6月12日 (日)

3/11なんでや劇場5 金貸しが大衆を利用するための民主主義、大衆には名前だけの民主主義

引き続き、なんでや劇場で展開された議論の要約です。 【1】素朴な貧困からの脱出願望が私権欠乏にスリ変わる。 【2】救いの対象であった大衆が、単なる扇動の対象にスリ変わる。 これが、騙しの構造であると同時に、多くの若者が自滅していった構造でもあるが、更にもっと決定的な騙し=自滅の構造がある。 【3】大衆は民主主義によって金貸しに利用されるだけ そもそも、この民主主義というイデオロギーは、誰が何のために作り出したのか? 近代思想が登場した時代背景は次のとうり。近世~近代にかけて、十字軍による略奪戦争を皮切りにして、市場が拡大してゆく。それに伴って、力の原理の中身が武力から資本力に移行してゆく。 そして、第一権力となった資本力を武器にして、金貸し勢力が王侯・貴族から国家の支配権を奪うために作り出したのが、近代思想とりわけ民主主義である。その後、金貸し勢力はこの資本力と民主主義を武器にして、国家を動かし、自分たちに都合のいい制度・法律を作ってきた。 その中身は大きく2つある。一つは中央銀行制度による経済支配であり、もう一つが民主主義によって大衆を巻き込み、そのために大学・マスコミを支配して大衆を共認支配することである。 そして経済面では自らに都合のいい税制を作らせ、共認支配のために(大学だけでは全大衆を支配できないので)末端大衆まで組み込む学校制度を作らせていった。 その手先が学者や官僚・マスコミであるが、彼らの地位・身分は法的に聖域化されており、彼らの責任が問われることは殆どない。 このようにして、金貸し勢力は、資本力と民主主義を武器にして思い通りの制度や法律をつくってきたが、それに対して資本力を持たない大衆は何も実現できないままである。 金貸し勢力は民主主義を支配の武器として使えるが、大衆に与えられたのは、金貸しに利用されるための民主主義、つまり名前だけの民主主義である。 これが決定的な第3の騙しである。 学者もマスコミも活動家も、この騙しの構造によって金貸しに利用されているが、「民主主義は絶対正しい」と信じこんでいるので、彼らは死ぬまで騙されていることに気づかない。 それは民主主義が自我(他者否定・自己正当化)のイデオロギーだからである。このように、自我に導かれたイデオロギーが如何に恐ろしい結果をもたらすか、しっかりと見抜いておく必要がある。 まとめると、民主主義→社会運動には三重の騙しの構造=活動家の自滅構造がある 【1】素朴な貧困からの脱出願望が、私権欲求にスリ変わる。 【2】大衆が救いの対象から、たんなる扇動の対象にスリ変わる。 【3】民主主義は、金貸しにとっては資本支配を正当化する武器であるが、資本力のない大衆においては、利用されるだけの呪文にスリ変わる。そして、一旦、その呪文に染まってしまえば、死んでも騙されたことに気づかない。 元々、活動家の大半は大衆を救うという素朴な願いから運動に入っていったが、貧困から脱出する道は民主主義しか与えられなかったが故に、それに飛びついた。 そして一旦、この自己正当化観念に嵌れば、それは自我中毒と同義であって、脱出は極めて困難になる。 その結果、その後の活動家たちに刻印されるのは「社会変革に対する深い不可能視」だけではない。あらゆる運動に対する拒絶感が形成され、その後は一切の関わりを絶つことになる。

岡田淳三郎

2016年6月10日 (金)

9.新理論が登場してこない理由1 近代観念は共認収束に蓋をする閉塞の元凶となった

情報中毒による追求力の衰弱もその一つだが、新理論が登場してこない最大の原因は、近代観念が人々の共認収束に蓋をする閉塞の元凶となったからである。
近代観念も、市場の拡大期には私権拡大の可能性に誘引されて、その追求力が衰えることはなかった。しかし、豊かさの実現によって私権拡大が終息し、共認収束の大潮流が出現すると、私権欠乏を大前提とし自我を源泉として生み出された近代観念は、共認収束の出口に蓋をする閉塞の元凶でしかなくなる。
もちろん近代観念だけではなく、近代観念の教宣機関たる学校制度もマスコミも、あるいは私権収束を促す試験制度や試験エリート(学者・官僚・マスコミ人)の存在も、およそ私権統合を担ってきた法と体制の全てのものが社会の桎梏(手かせ足かせ)となったが、中でも、時代閉塞の真犯人と言うべきは、それら私権体制と市場拡大を導いてきた近代観念である。
人々の頭の中を支配する近代観念は、共認社会への出口を模索する人々にとって、この上なく厄介な障碍となっている。従って人々が、思考を閉塞させる近代観念やそれに基づく理論を、邪魔な物として忌避するのは当然である。だからこそ、’70年以来、人々は一貫して思想や理論を敬遠し、無思想・無関心が蔓延していったのである。今や大多数の人々は、理論=役に立たない厄介なものと見なすに至っている。

観念や理論がここまで忌避される原因は、時代=潜在思念が急速に転換していっているにも拘らず、近代観念が全く進化しなかった点にある。
では、近代観念は、なぜ進化できないのか?
近代観念は、自我発で形成された架空観念であり、その一つ一つの観念が、自己正当化観念として働いている。その結果、近代観念に染まったものは、無数の自己正当化観念に囲まれたその中心に強固な「自分」という観念を形成し、あたかもその「自分」観念こそが自分の本質であるかのような錯覚に陥ってしまう。
従って、いったん強固な「自分」観念を形成してしまうと、その「自分」観念を崩すことは自己の崩壊を意味することになるので、「自分」観念を疑うような根本追求に対する忌避回路が形成される。このような根本追求に対する忌避回路が形成されている以上、誰も近代観念を根底から覆すような大理論の構築に向かおうとしないのは当然である。
近代観念に代わる新理論が登場してこない原因の第一は、この「自分」観念による根本追求の忌避にある。

すでに、25年以上も前から、社会のいたるところで綻びが露呈し、その綻びが日増しに大きくなって危機的な様相を呈しているにもかかわらず、学者や官僚が小手先の弥縫策や矛盾を隠蔽する詭弁に終始し、決して根本追求に向かおうとしないのは、近代観念に刻印された、根本追求の忌避作用の為せる所である。
また、近代観念を見限って、予知や宇宙人やアセンション等の超常情報に収束している観念思考者たちも決して大理論の構築に向かおうとしないが、それは、彼らが「自分」観念を温存したまま超常現象に逃避しただけだからである。従って、その超常情報の発信そのものが、大きな騙しとなっている。実際、危機を煽るだけ煽って、後は祈るだけで何もしないこの連中は、金貸し勢にとって実に有難い援軍であろう。そんなことになってしまうのも、「自分」観念を温存したままだからであり、それほどに「自分」観念の根は深い。

しかし、自我私権の終息により、近代観念(=自己正当化観念)の源泉と誘引先が閉ざされ、どんどん風化してゆくので、その中心に形成された「自分」観念も、時と共に風化してゆき、いずれ消滅する。
代わって、本能回帰・共認回帰の潮流に応合した「もったいない」「役に立ちたい」等の新しい言葉が浮上し、古い近代観念を圧倒しつつある。そして、それら本能回帰・共認回帰の潮流の中で育った若い世代は、次々と「自分」観念から脱却し、素直に期応充足⇒課題収束を深めていっている。いまや、「自分」観念にしがみついているのは、仲間関係が上手くいかない等の関係不全から観念収束した観念病者か私権派だけである。



岡田淳三郎

2016年6月 8日 (水)

色即是空 空即是色について

ヤフー知恵袋に参考となる問答がりました。 khamtsinさん 仏教用語の【空】の概念がわかりません。深い意味深長な言葉でしょうが…宗教用語以外で、言い替えると、何になりますか?元々むずかしい概念ですから、いろいろな言葉が考えられます…他の方が言わない様な解釈も歓迎しますが、短めの説明を附けて、できれば包括的に、…数多く教えてください。個人的な解釈も結構です。 (以下、省略) ベストアンサーに選ばれた回答 tobaccoabkfrさん なぜ空の意味が難しいのかというと、もともとは概念として存在しえないものを言葉にしたからであり、厳密には空は概念ではないからです。存在も無も概念です。だから、それらが意味するものは明確です。存在とは無でないことであり、無とは存在ではないことなのです。概念とは、対概念がお互いにお互いを説明し合うような関係になっており、ではそれら両者はいったい何なのかということになると、わからなくなるのです。つまり概念とは、相対的には意味が明確で、絶対的には存在できないものなのです。空とは、概念がなくなるような絶対的なレベルでの存在のありようを、便宜上、言葉で(概念で)言い表したものなのです。別の言葉で、一言で置き換えるとすると、「実在」と言うこともできると思います。 空とは実在のこと(厳密には実在のありようのこと)であり、この世界でのそれ以外のものとは、概念そのものです。空は、概念としては存在しえない実在そのものであり、それと真逆なのが、「無」という概念です。無は、概念としては存在しますが、その意味は「存在していない」ということで、つまり無は実在しないのです。概念としてだけ存在し、実在はしていない「無」と、概念としては存在できず、実在そのものである「空」。 このように理解すると、空というもののありようがつかみやすいのではないでしょうか。 補足 (中略) 目の前に白い紙があるとします。その真ん中に線を一本引いて、片方を「存在」と名付け、もう片方を「無」と名付けます。この瞬間、人間は、存在と無の両方を、同時に理解できるようになります。存在とは無ではないことであり、無とは存在ではないことなのです。これが、概念というものの基本構造です。真ん中の線を消すと、概念が消えます。線のない白い紙の状態、そのありようが「空」なのです。線を引こうが消そうが、紙自体は何も変わりありません。ところが、線がないとそれは「空」であり、線が引かれた状態だとそれは「色」と呼ばれます。 「色即是空 空即是色」とは、このような話です。 ^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^上記の問答が明快で構造的に理解できました。教育・生産・芸能などあらゆる場面で、常に「色」に焦点が当たり、実在・・・すなわち「空」は捨象されがちです。観念に傾倒するほど現実をみなくなりやすいです。私権や試験制度に染まった特権階級においては尚更でしょう。色即是空・空即是色の上記のような認識の共有が図られれば、日本人はもう少し賢くなれるかもしれません。「色」の側には絶対のものは何もなく(ここが重要)、現実を対象化するとか対象に同化するとかの重要なテーマは、常に「空」=実在とつながっています。仕事ができる人は、観念と実在のバランスがとれていると思います。 過去の日本の思想家はこの「空」についてはっきり知っていたのでしょうか?このような知恵を受け継いでいきたいです。 hosop

2016年6月 6日 (月)

実現論:序3(下) 民主主義という騙し:民主主義は自我の暴走装置である

【民主主義と共認原理】 とすれば、いったい民主主義とは何だったのか? 私はこれまでも、新理論を構築するためには、近代思想を全的に否定する必要があると考えてきた。そして、「自由」「個人」「人権」等の架空観念を、近代思想の要と見てきた。 しかし、これまで民主主義については(その怪しさを重々知りつつも)、全的には否定し切れないでいたが、近代思想の本丸は実はこの「民主主義」にあったのではなかろうか。 実際、庶民レベルでは「個人」や「人権」という言葉はあまり使われなくなったが、「民主主義」だけは根強く支持されているし、今もアメリカが他国を侵略する口実は、「民主主義(ではない国は破壊すべき)」である。 人々が民主主義を肯定視する理由は、その「民が主」という主張が、いかにも共認原理に立脚しているもののように感じられるからである。私が全的に否定し切れなかった理由も、そこにある。 だが、「民主主義」は、本当に共認原理に立脚しているのだろうか? それを、人類本来の共同体の共認原理と突き合わせてみることによって、明らかにしていこう。 共同体では、まず第一に、自然の摂理に学び、部族の歴史に学び、先人の経験に学ぶことが、根本規範となっている。 従って第二に、共同体では、成員の誰もが自分たちの置かれている状況と課題を熟知している。 従ってまた第三に、何かを決めるのは、全員合意が原則であり、緊急時etcの長老一任も、この全員合意の延長上にある。 それに対して「民主主義」は、そもそも始めから共認原理を踏み外してしまっている。それは、成員の大多数が、ほとんど何も学ばず、何も知らないという点である。これでは共認原理はまともに作動しない。 例えば法律については、それが日常のあらゆる生活を規制しているものであるにもかかわらず、(専門家以外)誰も知らないし、社会がおかれている状況についても、大半の成員がほとんど知らない。 とりわけ、市民運動を中心的に担ってきたのは若者であったが、学びの途上にあり殆ど何も知らない未熟者が、いったいどうして何かを主張し、評価を下すことが出来るのか、何かおかしいと感じないだろうか? 【民主主義は、自我の暴走装置である】 何も知らずとも、主張し判断できる主体は、一つしかない。それは、自我・私権の主体である。自我・私権の主体なら、ほとんど学ばず、ほとんど知らなくても、己に都合のいい理屈を並べたてることは出来る。子どもの言い訳や屁理屈と同じである。 また、民主主義は、自我・私権に立脚しているので全員合意は望めない。だから、多数決で決着をつけるしかなくなるが、この多数決もまた、民主主義が自我・私権に立脚したものであることの証拠である。 事実、民主主義は、何よりも「発言権」や「評価権(議決権)」を優先させ、『まず学ぶ』という人類の根本規範を見事に捨象している。だから、「民主主義は正しい」と信じ込まされた人々は、『まず学ぶ』という根本規範を踏みにじり、身勝手な要求を掲げて恥じない人間と化す。 その先鋒となったのが、金貸しが生み出した共認支配の専門家たち=学者や評論家やジャーナリストである。彼らは現実と直対することから逃げて、もっぱら書物から学んで専門家となった連中である。逆に言えば、彼らは現実から何も学ばず、従って、現実を改善してゆけるような実現の論理を持ち合わせていないので、何事も批判し要求することしかできない。 だから、彼らは一様に、民主主義を根拠にして人々にも同じように批判し要求するようにそそのかしてきた。その結果が、自我ばかり肥大させ、何も実現できない(=批判と要求しかできない)無能化された人々である。 要するに、金貸し勢は、「民主主義」を人々に吹き込むことによって、人々の自我をどんどん肥大化させると共に無能化した上で、自分たちの好きなように染脳してきたわけである。 こうして民主主義は、『学び』をないがしろにし、「発言権・議決権」を優先(=批判と要求を優先)させることによって、とことん自我を暴走させると共に、とことん人々を無能化させてきた。 かくして、民主主義に導かれて暴走してきた近代社会は、ついに経済破綻と地球破壊の底なし沼に沈み、そこから這い上がれなくなってしまった。いまや、人類は滅亡の一歩手前にある。 それは、民主主義が自我の暴走装置であり、とりわけ金貸しの暴走を正当化する自我=悪魔の思想であることの、疑問の余地のない証であり、もはや、この期におよんで民主主義を正当化する一切の言い訳は通用しない。 以上で明らかなように、民主主義は、決して共認原理に立脚しているのではない。それどころか、民主主義は、共認原理を破壊する自我原理に立脚している。それが、民主主義の正体である。(※自我原理とは:リンク) (そもそも、「民が主」というのも自我発の言葉であって、共同体の人々が「自分たちが主」などと言うわけがない) 人々の意識の変革は、民主主義の正体を見抜くことから始まる。 すなわち、制度としての民主主義は自我の暴走装置であり、思想としての民主主義は自我=悪魔の思想であることを見抜いて、民主主義を全的に否定すること。全てはそこから始まる。 そうして初めて、人々は人類本来の共認原理に立ち戻ることが出来るようになる。 ここで改めて、マルクスを含む近代の思想家たちに、その限界と突破口を提示しておこう。 社会を変えるためには、まず、現実世界を動かしている力の構造を解明し、さらにその構造をもっと根底から突き破ってゆけるような、実現基盤を発掘しなければならない。そうして初めて、現実を動かす変革方針を提示することができる。 近代の思想家や彼らを踏襲する学者や評論家やジャーナリストに欠落しているのは、そのような実現の論理である。 すでに提示したように、実現の論理は、彼らとは全く逆の実現基盤と実現方針を発掘した。改めて、それを掲げておこう。 時代はすでに、私権原理から共認原理に転換した。 重要なのは抽象的な「社会変革」ではなく、現実の生産体の変革である。 つまり、もっとも身近な現実の場である職場を共同体に改革してゆくこと、本当の変革はそこから始まる。

岡田淳三郎 

2016年6月 4日 (土)

実現論:序3(上) 市民運動という騙し(社会運動が社会を変えられなかった理由)

【市民運動という名のペテン】 過去、’60年安保闘争にせよ、’69年全共闘運動にせよ、大衆の願いは実現された例がない。さらに遡れば、明治維新やフランス革命も同様であって、実現されたのは、金貸し(金融勢力)支配の体制だけであり、それらの革命に身を投じた若者たちは、金貸しに乗せられ踊らされてきただけであった。 それも当然で、すでに序2で明らかにしたように、近代社会を動かしているのは金融勢力であって、決して大衆ではないからである。 従って、「市民運動」は、甘言で染められたペテンであると断じざるを得ない。 しかも、この甘言を信じた結果、多くの有為の若者が出口のない袋小路に追い詰められ、自滅していった。これは騙し、それも、社会変革のすべての可能性の芽を摘み取る、皆殺し的な騙しである。 その後、市民運動は、’70年、貧困の消滅(豊かさの実現)を契機に急速に衰弱していった。つまり、市民運動は、貧困の圧力→私権圧力が強いときにはそれなりに盛り上がり、私権圧力が衰弱するや否や衰退していったわけで、これは、市民運動が私権欠乏をエネルギー源にしていたという証である。 私権欠乏に立脚している限り、どれだけ市民運動を続けても、私権社会が永久に続くだけであって、私権社会から共認社会への転換など、実現するわけがない。 同じことは、それらの運動を導いてきた思想についても言える。 マルクス主義を含む近代思想を生み出したのは、金貸し(金融勢力)である。ところが、市民運動の活動家たちも、同じ近代思想に立脚している。 同じ思想に立脚しながら、社会を変革することなど出来るわけがない。 あるいは、こうも言える。市民運動の活動家たちは、もっぱら大衆の意識の変革に期待してきた。逆に云えば、彼らは「大衆の意識」以外に何の実現基盤も持ち合わせていなかった。 しかし、現実の大衆は、金貸しが支配する検定教科書とマスコミによって、ほぼ完全に近代思想に染脳されてしまっており、近代思想に代わる新たな思想なしには、大衆の意識が変革されることなどありえない。 本当に社会変革を実現するには、まず、大衆の意識潮流を掴み、そこにどのような実現可能性があるのかを摘出しなければならない。ところが、彼らは、あたかも大衆に期待しているかのようにひたすら大衆に訴えかけていたが、実は、彼らが大衆の意識潮流を深く追求した痕跡はどこにも無い。これでは、本当の所は、大衆にさえ何も期待していなかったのだと言わざるを得ない。要するに、彼らは、自分に都合のいいイデオロギーを大衆に押し付けようとしていただけであり、彼らに在るのは、甘言で染められた自己正当化のイデオロギーだけであった。 大衆の意識を注視し続けていた私は、45年前、活動家たちに対して、マルクス主義に代わる新理論の必要を提起した。しかし、新理論の構築に取り組もうとした者は、(ごく少数を除いて)殆ど誰もいなかった。そして、次々と、大企業に就職し、あるいは学者になっていった。その後、彼らに残されたのは、社会変革に対する深い不可能視だけである。 それだけを見ると、彼らは本気で社会変革を実現する気などなかったようにも見えるが、むしろ、近代思想に代わる新理論の構築は、不可能に近いほどの超難課題であったということだろう。 【金貸しの暴挙にお墨付きを与えるだけの議会】 今、改めて、大衆はなぜ現実に社会を動かすことが出来なかったのかを総括すると、その原因は、大きく分けて二つある。 まず一つは、すでに序2で明らかにしたように、古代であれ近代であれ、私権社会は力の原理によって統合されており、力の頂点に立つ武装勢力や金融勢力が、官僚や神官(学者やマスコミ)を支配し、彼らが大衆を法制支配+共認支配することによって、現実世界を動かしているという厳然たる事実である。 従って、この支配構造を突き破るためには、その力の原理をも根底から解体してゆく新しい統合原理の実現基盤が発掘されなければならない。 その実現基盤こそ、’70年貧困の消滅によって実現された、私権原理から共認原理への転換である。 しかし、それだけでは不十分で、大衆が社会を動かすことが出来なかった原因はもう一つある。 それは、人々の変革期待をそこに収束させ、封印してきた議会と民主主義である。 上記の支配構造において注目すべきは、古代も近代も、支配構造が基本的には同じであることだが、さらに注目すべきは、その中での古代と近代の違いである。 古代と近代の一番大きな違いは、社会の統合力=制覇力が、武力から資力に移行したことだが、もっとも注目すべきことは、それに伴って、議会が登場したことである。 では、学者やマスコミが近代民主社会の象徴or要として称揚して止まない議会というものは、社会統合の仕組み上、どこに位置しているのか? 古代と近代の二つの時代の統合=支配の仕組みを図解化してみれば分かるが、驚くべきことに、議会は王侯・貴族と、まったく同じ位置にくる。 しかし、改めて考えてみれば、近代でも実権は官僚機構と教宣機関(大学とマスコミ)が握っており、議会は、王と同じく、名前だけのお飾りになっていることは周知の事実である。 市場社会では、本当の権力は金融勢力が握っている。金融勢力が官僚と学者とマスコミを支配し、彼らを通じて大衆を近代思想に染脳した上で、その大衆に選ばせたものが議員である。当然、左も右も金貸しの操り人形ばかりとなる。 したがって、議会とは、金貸しの操り人形たちの演舞場に過ぎない。 したがって、民主主義の建前上「国権の最高機関」たる議会の役割は、当然のことながら、金融勢力の暴走行為にお墨付きを与えることだけとなる。 事実、議会は中央銀行制度をはじめ、第一次・第二次大戦、バブル経済等、すべての主要な局面で、金融勢力の暴走にお墨付きを与えてきただけであった。

岡田淳三郎

2016年6月 2日 (木)

実現論:序1(下) 新理論を生み出すのは、専門家ではない普通の生産者

【新理論を生み出すのは、普通の生産者】

では、誰が近代思想に代わる新理論を構築するのか?
彼ら専門家が、専門家であるがゆえに転換できず、答えを出せない以上、近代思想に代わる新理論は、素人である庶民の手で生み出すしかない。

考えてみれば、いつの時代でも、現実の生活の変化=潜在思念の変化が先行し、後からそれが言葉化(観念化)されてきた。
もちろん、普通の人々にも、追求し理論化したい課題は多々ある。しかし仕事に追われて、理論追求できる時間はせいぜい1~2時間しかとれない。先頭に立って闘っている経営者なら、なおさらそうだろう。
しかし、たとえ机に向かう時間が取れなくても、日々現実課題に直面して闘っている人々の潜在思念は、間違いなく最先端の可能性を捉えている。

その点、学者や評論家やジャーナリスト等、モノを考えるだけでも飯を食っていける人々は、それだけで普通の人とは異なる特権階級である。しかも、現実そのものと直対することから逃げた只の傍観者なので、最先端の可能性を捉えることが出来ない。それどころか、そもそも人々の現実とは大きくズレているので、人々を出口のない袋小路に導くような観念しか生み出してこなかった。
要するに、普通の人々と存在基盤が異なるので、彼らには大衆の願いを叶えることは出来ない。

本来なら、認識のプロになった時点で、はじめからその資格はないと自覚しておくべきだろう。
とりわけ、近代の思想家たちに至っては、ほぼ全員が観念病という名の病人である。そんな観念病者の言説に踊らされて、抽象的な「社会」に向かって批判と要求を繰り返しているのが素人の社会派であるが、これでは、社会を変えられるわけがない。

新理論を生み出すことが出来るのは、旧観念でメシを食っている知識人ではなく、現業を通じて日々現実に向き合っている生産者であり、素人である。生産者なら、現実を直視しているので、その最先端の可能性を潜在思念で掴むことができる。それに素人なら、旧観念をメシの種にしているわけではないので、旧観念に縛られる必要もない。
もちろん、日々現業に追われながら、新理論を構築するのは、極めて困難なことだが、幸い、新理論を追求し続けている生産者は、少ないながら実在する。ある意味では、経営者の何%かは、新理論を模索している創造者だと云えるかもしれない。共同体・類グループも、40年に亙って、近代思想に代わる新理論の構築に取り組み続けてきた。


【新理論の統合軸は、事実の共認】

与えられた問題は、この危機を突き抜け、新しい時代を実現するための答え=実現基盤を発掘することである。そのためには市場時代を突き抜けて、全文明史を総括し直す必要がある。
しかし、文明史を通じて、国家が滅亡することはあっても人類が滅亡の危機に陥ったことは一度もない。とすれば、今回の危機を突破し、人類の進むべき方向を見定めるには、原始時代やサル社会にまで(必要なら生物史にまで)遡って、全人類史を見直す必要がある。
言わば、歴史の実現構造の解明、それが素人である庶民に与えられた課題である。
それは、膨大な知識を必要とする課題であるが、有難いことに多くの史実が断片的には蓄積されているので、それを皆で手分けして発掘し、組み立て直せば、構造は解明してゆける。

そこで、断片的な現象事実を組み立てる統合原理となるのは、『事実の共認』である。
類グループは、現実課題を対象とする長年の会議経験の中から、共同体の統合原理が事実の共認にあることを体得してきた。事実は一つであり、かつ誰もが認めることができるからである。
だから、共同体では、たとえ仮説であっても、皆の知っている限りの知識に照らし合わせて論理が整合していれば、それを事実として認める。もちろん、これまで認めてきた「事実」に反する現象が出てくれば、直ちにその現象事実を組み込んで、論理=構造事実を組み替える。このようにして、事実の体系は無限に進化してゆく。

『実現論』は、そのようにして構築された、生産者の手による最初の試論である。近代思想に代わる新理論としては、世界初の試論かもしれない。
これは、単なる物書きの空論ではない。40年に亙って、現実に共同体を経営してきた生産者が生み出した新しい認識群である。それだけに、とことん現実を突破しようとするベクトルに貫かれており、それゆえ、役に立たない旧観念は全的に排除されるので、近代思想を信奉してきた人たちには抵抗が大きいかもしれない。しかしそれ以外の普通の人々には、決して難しくはない。今まであまり聞いたことのない新しい認識群ではあるが、素直に同化して読めば、この閉塞した時代を突き破る多くの有効な認識を得ることができるはずである。


岡田淳三郎  

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