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2016年1月

2016年1月30日 (土)

内田樹がウケる理由

> ところが、大学(人文系)やマスコミは、既に生命力を失い、形骸化したそれらの観念に未だにしがみついています。実際、彼らは百年も前から同じ言葉を繰り返しているだけで、本質的には何の進歩もみられません。これでは、当面する社会の閉塞や危機に対応できる訳がありません。今や多くの人々が、学者(人文系)やマスコミの論調にはウンザリしているのも、当然のことでしょう。 > しかし、なぜ学者やマスコミや官僚は、生命力を失い形骸となったそれらの観念にしがみついているのでしょうか?それは彼らが、それらの観念を売り物にして現代の神官としての特権的な身分を手に入れた特権階級だからに他なりません。あるいは、本来万人が担うべき社会の統合という課題に自分たちだけが高給をもらいながら関われる身分という意味で、特権的統合階級と呼んでも良いでしょう。968 “現代の神官”の代表たる人文系学者の一人とも言える内田樹は、50歳を過ぎた最近になって頭角を現し、その縦横無尽の言説がるいネットでも度々取り上げられる人気作家になった。なぜ今、内田樹が受けるのか? 以下、内田樹の研究室2006 リンクより引用。 ---------------------------------------------------------------- 私は前に「プロの物書き」と自称する方からの批判に答えて「私は『プロの物書き』ではない」と申し上げたことがある。 私は「アマチュアの物書き」である。 批評性というのは「批評」が知的商品として市場価値を持つ場所においてしか成り立たないものではないと私は思う。 そのような場の成り立ちかたそのものを問う批評性を確保しようとするなら、人は批評以外の「たずきの道」を確保しておかなくてはならない。 私はそれはそれで、ある種の人間にとってはけっこう大切なことではないかと思う。 私は「アマチュアの物書き」であり、「アマチュアの学者」であり、「アマチュアの武道家」であり「アマチュアのビジネスマン」である。 どの領域でも「プロ」というほどにコミットしていないので、あちこちのエリアで小銭を稼ぐというかたちでリスクヘッジしている。 ---------------------------------------------------------------- 引用以上 このスタンスは、著作権に対する考え方にも表れる。リンクより引用。 ---------------------------------------------------------------- 私は著作権にかかわる議論については、一貫して懐疑的である。 テクストを「商品」だと考えていれば、著作権は保護されねばならないであろう。 けれども、テクストは本来的には「商品」ではない。 それが商品性をまとうのは、「商品として扱った方がよいものがたくさんの人に読まれる可能性が高い」という判断が成り立つ限りにおいてである。 ---------------------------------------------------------------- 引用以上 無自覚で不十分ながらも、その文才とバイタリティをもって、副業としての統業実現論9_7_03に近い状態を成立させているのが内田樹の立ち位置であり、それによって、形骸化した観念にしがみつかなければならない特権階級の陥穽を回避しえているからではないだろうか。 田中素

2016年1月28日 (木)

個人主義者は少数になっても甘く見てはいけない!

>つまり、個人主義とは人々を欺く為の仮面に過ぎず、彼らの正体は自我の塊なのだということが、この間の議論を通じてほぼ明らかにされたのではないでしょうか。974

自我は共認の鬼っ子なのでその存在自体は問題ではない。もちろん自我は集団を破壊する危険分子であり少ないに越した事はないが、人類史は99.9%は共同体を作って集団共認によって自我の発現を封印してきた。

個人主義の最大の犯罪性とはこの危険な自我を正当化する観念を作り出したという事に尽きる。

人類に刻印された共認原理とは普通に集団生活していれば自我はよくない、エゴは押さえよう、子供でも肉体化できる規範である。
個人主義の思想はそれを反転させて、「自我は別に悪いものではない。むしろ自我が原点だ」という意識を作り出した。万人に共認され法制化されそれはさらに強固に正当化された。その結果が現代の先進国に総じて見られる社会閉塞である。

普通の人々は潜在的に個人主義の原罪を見抜き、自我を起点とする私権社会には見切りを付け始めている。今では個人主義という言葉自体は形骸化し、使われる事も少なくなった。
しかし甘く見てはいけない。個人主義を母体とした法制は未だに残っている。それらを根拠に一部の個人主義者や特権階級の暴走によりマナーファシズムに代表される人権尊重はますます強くなり、個性の重視、自己責任など言葉を変えて個人主義は延命しているどころかより酷くなっている可能性すらある。
何より個人第一とした価値観や思想は集団や全体を原点とする共認とは反転しており、それが完全に否定されない以上、人々の中に常に矛盾と否定の因子を作り続けている。

万人が共認充足を得られる共認社会に転換する上で否が応でも戦わなければならないのは例え少数派とはいえこの自我を正当化する観念群とそれにすがって生きている特権階級である。その意味ではすでに8年前に投稿されている974の「個人主義の正体」は忘れないようにしておきたい。

2016年1月26日 (火)

パターン(理論)の形成とロスの減少

お金・肩書・所有・権利・女等の私権(特権)は本来ないものをあることにしたという意味では、現実を歪曲する欺瞞架空観念そのものである。 私権(特権)を追求する意識は、結果のみに焦点をあわせる傾向を生み出した。しかしプロセスを疎かにすることによって逆に結果が得られない疑いがあった。 プロセスで生じるロール・ルール・ツールを軽視することなく丁寧に自主的に管理することでこそ結果(実現)に結びつくはずで、場当たり的でなく未来予測も含めた意識生産の構想の通りに展開する世界を、その度合いに応じて体験できる面白さ・楽しさも生じる。 それは例えば食事からバッターボックスの所作にいたるまで徹底して定式化したイチロー選手のように、またプロ棋士が絶え間なく追求する定石のように、柔道の公式化された技のように効率化・単純化・美化を促進し、複雑で多様な球・手・技に柔軟に繰り返し対応できるひとつのパターン(新しい理論)の形成につながる。 事実に基づき人類の原基構造を解明した新理論によって、特権階級がこれまでしてきたような無理・無駄・無茶がなくなり自動的に世界が動きだす。 あるのは社会(世界)のと自分(共同体)が無理・無駄・無茶のない回路で一致した共認の形成(抵抗ゼロの推進力)である。心・身体・頭が一致したこの状態こそ、意識生産の目指すところだと思う。それは現在みられる充足・安定・節約という潮流ともぴったり一致している。 本来あるものを肯定し(現実を対象化し)、本来ないものを求めないこと即ち私権(特権)をできる限り少なくすることによって、それが実現する?!

2016年1月24日 (日)

なぜ同じような時期に同じような想いや行動が生まれるのか?

るいネットに参加していると、
“あれ、この投稿の内容、ちょうど書こうと思っていたのと同じだ!”
“この事象ネタはやっぱり要チェックだよね”
と、まるで申し合わせでもしたかのように想いが一致することがしばしばあります。

また、このような現象は、例えば芋洗いをする猿の数が臨界点を超えると群れ全体に一斉に拡がり、それが遠く離れた場所の群れにも伝播したという幸島の「百一匹目のサル」の話(13302)や、「直接的な接触が無くても、ある人や物に起きたことが他の人や物に伝播する」というイギリスのルパート・シェルドレイク博士の仮説(リンク)などで見聞きしたこともあり、非常に興味を持ちつつも、一方でこれらの言説にはどこかスッキリしないものを感じていました。

一体なぜこのような現象が起きるのでしょうか?その答えが過去の投稿にありました。

>本来人類は(どんな生物でもそうですが)、同じ環境で同じ外圧下に置かれていれば、考えることに大差はありません。もし全く違うことを考えていれば、そういう人のことは「きちがい」と言います。

西洋人は不思議がって、「共時性」だの「集団的無意識」と研究していますが、近代個人主義の洗脳度が低い日本人にとっては、「以心伝心」「あうんの呼吸」であって、取り立てて不思議なことではありません。(中略)

「共時性」や「集団的無意識」を本質的な概念で置き換えれば、『可能性収束』(「実現論 第一部:前史」参照)なのではないでしょうか。
刻一刻と変化する環境、外圧に対して、本能から観念機能までを駆使して可能性を探求します。そして、その結果が一致したとしても、驚くには値しません。<(13456「共時性」「集団的無意識」について)

外圧は万人にあまねくかかっている。それに対してとことん“なんで?”“どうする?”を追求している人は場所を問わず存在している。その結果として同じような状況認識や発見、あるいは行動が同時期に生まれるのは必然なんだ、と気づきました。



竹村誠一  

2016年1月22日 (金)

否定意識からは⇒(収束矢印)は描けない

>実現の可能性を封印され、現実に対する否定意識と(変革)不可能視だけを深く刻印された旧観念パラダイムの下では、物事の摂理を原因→結果という因果関係で理解することが、当然の思考法となっている。126261

>因果関係は、『自ずとそうなる』という状態を表している。202205

因果関係の思考とはつまり、現実否定意識を根本にしており、「自ずとそうなる」という主体性の無い思考に陥り、実現の意志は生まれない。
従って、収束矢印(⇒)が引けないのだ。

        ┌──────────┐
        |現実は何も変わらない|
        └──────────┘
          ∥      ∥
          ∨      ∨
  ┌──────────┐ ┌──────────┐
  | 否 定 意 識  | | 不 可 能 視  |
  └──────────┘ └──────────┘
          ↓(因果関係)↓
        ┌──────────┐
        |  主体性の衰弱  |
        └──────────┘
             ↓(因果関係)
      ┌─────────────┐
      |実現可能性は導きだされない|
      |=収束関係(⇒)が引けない|
      └─────────────┘
  ※「否定意識」と「不可能視」からは因果関係しか理解できない



土屋範明

2016年1月20日 (水)

共認形成の原点は逆境(不全)の共認から

>貧困の消滅→意識生産→共同体が、左項の物理的な結果ではなく、その因果図解では捨象されて見えない項目である逆境(不全)⇒どうする?⇒可能性収束の結果であることは明らかであろう。
従って、貧困の消滅、意識生産、共同体は、一見、因果関係の→でも結べるように錯覚してしまいがちだが、実現の生命部である『逆境(不全)⇒どうする?』を各項に組み入れることで、因果図解に陥る危険を防ぐことができる筈である。(126263)

仕事にしろ、社内での仲間にしろ、またなんで屋でのお客さんにしろ、結果や結論だけでは共認形成はできない。「何故そうなのか?」「何を実現したいのか?」という共認があって初めて結果の共認も可能になる。何故か?

思うに、原因→結果の”因果関係”だけでみれば、主に観念機能を働かせた論理の整合性が中心になる。しかし、同じ現象でも、その背後にある逆境(不全)⇒可能性収束の”収束(実現)関係”が見えてくれば、根っこが不全であるが故に共認機能が働き、観念と共認が一体となって理解できるようになる。この逆境(不全)発の収束関係の共認が、何をするにも共認形成の原点になっているのだろう。

>『逆境(不全)⇒どうする?』を各項に組み入れることで、因果図解に陥る危険を防ぐことができる筈である。(126263) <

は日々の共認形成でも要になる認識である。

2016年1月18日 (月)

自然の摂理に則ったお産・・・みんなにもっと伝えて、もっともっと、充足しちゃいましょ♪

本日も、お産のお勉強をしました!
今日は、異常分娩のお話。帝王切開や吸引分娩について、扱いました。
この分野、結構しっている知識が多いです。

「帝王切開って、結構普通らしいよ。」
「必ず切るんだって~」
「吸引した後の頭は、直るらしいよ~」
などなど・・・

”異常”な分娩の話は、結構みんなしているんですね~。

・・・・・ハッ!・・・・これって、変!Σ( ̄□ ̄;)

だって、
「お産の喜び」とか、「こうしたら上手く産める!」とか、そんな話しよりも、”異常”な話しばかりしているなんて!!

その上、こんな話ばかりして、最後には、

「え~・・・。子供いらなーい。」

なんて、共認を作り出してしまう始末・・・。

これって、確実に・・・充足逃していますよね・・・(゜ーÅ)

だって、本来のお産の勉強をすればするほど、お産のよさや充足を、知ることが出来るし、(詳しくは、リンクを、読んでみてくださいね☆)その重要性を知ると、みんなにもっと本当のお産を知ってほしい!と、当事者意識(=女としての役割意識)も湧いてきて、発信したい気持ちも高まってきます!

>「もうちょっと待ってください!!」と言えるのも、
そもそも現代の私たちに合ったありのままのお産を追求できるのも、
女しかいない!!204915

「もっと、充足するよ☆」「こうしたら、上手くいくよ♪」
は、女たちの得意分野♪
これで、今までも、色んなコト、実現させてきた♪

自然の摂理に則ったお産の勉強をして、みんなにもっと伝えて、もっともっと、充足しちゃいましょ♪
 



西田美和

2016年1月16日 (土)

現代女性の出産、異常分娩が約1/4!? ~この異常事態に危機感を覚えないのが、異常!~

今の世の中では、「異常分娩(吸引・鉗子分娩や帝王切開)」で出産する女性が、20~25%もいるそうです(*゜ロ゜)ノ

・・普通に考えて・・・σ(゜・゜*)
自然界において出産を手伝ってもらうメス、いないですよね。。
異常な出産も当然起こりますが、20~25%は多すぎですよね。。

こんなに異常があるのは、異常です!
そして、それに対して、
誰も危機感を覚えていないのは、もっと異常です!!

さて。女のみなさん、
これから、どうしましょうか(*^^*)?

上記の異常分娩ですが、その多くはより安全に産ませるために病院からので薦めで行なわれることが多いそうです。
そのため、私たちの認識を改めるだけで、実は、吸引分娩・鉗子分娩は全て、帝王切開もほとんどなくせるそうです。

「異常分娩は、生物としてありえない!」
「女には、産む力が備わっている!」

当たり前のお産ができる「妊娠生活の過ごし方」や「出産の方法」=「女の体の自然の摂理」を学べば、女の認識が変われば、お産は変わる♪

これからも、女たちで追求・発信していきましょ☆
(いつでも、仲間入り大歓迎です♪)

ぴのこ 

2016年1月14日 (木)

【図解】超国家・超市場論2 闘争(能力)適応 と 共生(取引)適応

      :                :
同類闘争圧力:      適応原理      :    実現体
      :  【    評価指標     】:
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
      :                :
私権時代】:                :
私権闘争圧力 ⇒闘争(能力)適応⇒集団(統合)適応 ⇒⇒⇒⇒⇒国家
     ∥:  【能力序列の 力・身分序列 】:
     ∥:                :
      ⇒⇒ 闘争を回避 ⇒共生(取引)原理 ⇒⇒⇒⇒⇒市場
      :  【能力とは無関係な お金  】:
      :                :
【共認時代】:                :
共認闘争圧力 ⇒闘争(能力)適応⇒集団(統合)適応 ⇒⇒社会統合機構
      :  【能力序列の認識力・共認力】 : (認識形成サイト)
      :                :
      :                :

人も含めて生物は外圧適応態である。

そして、外圧を対象化する適応原理は闘争(能力)適応とその発展形である集団(統合)適応の二つ。これが自然の摂理にあった能力序列を評価指標とする適応方式。

それに対して、市場のみが自然の摂理を踏み外した、能力とは無関係の評価指標である『お金』を用いている。だから、市場は外圧に適応できず社会を統合できない。

2016年1月12日 (火)

やる気は脳ではなく体や環境から生まれる(池谷裕二)2~ポジティブな刺激を無意識が捉える~

204438に続き、ベネッセ教育研究センター『やる気は脳ではなく体や環境から生まれる──「環境に存在する意欲」の捉え方──リンク』より抜粋
-----------------------------------------------------------------
ポジティブな言葉はその気にさせる

 やる気の発火点は脳ではなく、環境にあります。では、どのような環境のときに、淡蒼球の活動が促されるのか。当たり前のようですが、ポジティブな刺激がなければいけません。

・・・中略

最近発表された実験なのですが、握力計のようなものを渡して、モニターに「握ってください」と表示が出ている間だけ握ってもらいます。開始からの時間と握力の関係をグラフにすると、表示からコンマ何秒か遅れて一気にピークまで立ち上がり、次第に落ちていくような線を描きます(図表)。で、問題はここからですが、またサブリミナルの手法によって、開始の合図の前にほんの一瞬「がんばれ」と表示したらどうなったか。何と、通常の場合より握力が2倍にも伸びたのです。反射スピードも上がって、しかも力が長持ちすることが分かりました。
 ちなみに、何でもない単語、例えば「グレープフルーツ」と表示しても、少し反応は速くなりますけど、「がんばれ」と出したときのような効果はない。つまり、意欲、やる気、集中力などを発揮するのにプラスとなる情報を、私たちの脳は五官を通じて無意識ながらに取り込んで、それに体も反応していることになります。

・・・中略

 受験生がよく、勉強部屋の壁に「目指せ合格」とか「必勝」とか書いた貼り紙をしますね。あれを無益なおまじないのように思う人もいるでしょうけど、脳科学者としては逆に、あれこそが大切だといいたい。勉強に集中している間も時々は視野の隅に見えているわけで、意識に残らなくても、ああいうことをやっていると結構うまくいくものです。
-----------------------------------------------------------------
(つづく)

SE_Hacker  

2016年1月10日 (日)

やる気は脳ではなく体や環境から生まれる(池谷裕二)1~内発的に生まれる意欲などない~

ベネッセ教育研究センターの情報誌「BERD」から、大脳生理学者・池谷裕二へのインタビュー記事『やる気は脳ではなく体や環境から生まれる──「環境に存在する意欲」の捉え方──リンク』より抜粋
-----------------------------------------------------------------
内発的に生まれる意欲などない

 「意欲とは何か」とよく聞かれますが、意欲を脳の中に探しても見つからない、これが脳研究から見た私の結論です。「やる気を出せ」といわれて出せるものではない。

 では、勉強や仕事に対してやる気がわくとか、意欲的になるというとき、脳では何が起こっているのか。答えははっきりしています。大脳基底核の一部である「淡蒼球(たんそうきゅう)」から送り出された信号によって、モチベーションが高い状態になる。重要なのは、淡蒼球を活動させるのが脳そのものではなく体だということ。

・・・中略

最近は「脳トレ」がブームのせいか、皆さん脳を他人事のように自分から切り離して見ている気がします。少しは、脳の立場になって考えてみてほしい。脳の立場なんて、妙に思われるでしょうが、想像してみてください。脳はひとりぼっちですよね? 固い頭蓋骨に覆われ、外の世界とつながっていないのだから。脳が環境のことを知る唯一の手掛かりは、体です。五官や手足の動きなど、体を通じてしか、今の状況を知る術がないのです。

・・・中略

意欲とかやる気についても同様で、脳よりも、体や環境の側の条件を考えないと、論じても意味がありません。脳より体が大切なんて、脳科学者の発言としてどうかと思いますが。

 朝起きるのが苦手な人がいますけれども、しっかり目が覚めるまで待って、それから起き上がるというのはあり得ない。実際には体を動かすから脳も覚醒してくるのです。だからどんなに眠くても、とにかく布団から出る。新聞を取りに行ったり洗面所で顔を洗ったりして、それでようやく頭が冴えてくる。論文を書くのも同じです。書き始める前は面倒に思っても、始めて5分か10分もすると気分が乗ってくる。ああいう状況のときに、淡蒼球が盛んに活動していると思ってください。

 合格したい大学の下見をするのも、これと似たところがあります。教室とか講堂に入って、自分がそこで授業を受けている様子を想像してみると、よし、やってやろうという気分になる。こういう風に、目的の場所に体ごと持っていくのは、脳への刺激という観点からも大切な経験です。その点では、メールやインターネットのバーチャルな世界だけに浸るのは、脳の成長の点で若干の問題があるといえるでしょう。
-----------------------------------------------------------------
(つづく)

SE_Hacker  

2016年1月 8日 (金)

「手段」が「目的」に倒錯する旧観念パラダイム

最近、日常の仕事の場面も含めて様々な所で、手段が目的になっている思考をよく見る。

例えば、建築の設計において、実現するべきことの手段である設計が目的となってしまう(例えば、工場を建てるのは企業の経営課題を実現するため)。
例えば、子供が学ぶべき内容を習得する手段として宿題があるが、宿題をやることが目的になってしまう。

手段が目的になれば、思考はもともとの実現すべき内容が捨象されるので、思考が閉塞して(どうする⇒)対象が広がらない。

結果として、
仕事であれば、実現のための思考が閉鎖し対象の視野狭窄状態でミス爆発。そしてミスした時の思考も、「どうする?⇒」ではなく、ミスした原因探しが目的になってしまい、いつまでたってもミスがなくならない。
また、子供の勉強であれば、いつまでたっても身につかず成績も伸びない。そしてその時の思考も、「どうする?⇒」ではなく、宿題が出来ない原因探しが目的になってしまい、いつまでたっても成績があがらない。

なぜ、こんな思考になってしまうのだろう?

>実現の可能性を封印され、現実に対する否定意識と(変革)不可能視だけを深く刻印された旧観念パラダイムの下では、物事の摂理を原因→結果という因果関係で理解することが、当然の思考法となっている。
しかし、当然のことながら、その思考法or因果関係からは、決して実現可能性は導き出されてこない。>126261

私権時代の現実捨象・否定意識の旧観念パラダイムが、「手段が目的に倒錯」する根底にある。

麻丘東出

2016年1月 6日 (水)

実現可能性を導き出す思考が許された今

>実現の可能性を封印され、現実に対する否定意識と(変革)不可能視だけを深く刻印された旧観念パラダイムの下では、物事の摂理を原因→結果という因果関係で理解することが、当然の思考法となっている。しかし、当然のことながら、その思考法or因果関係からは、決して実現可能性は導き出されてこない。

因果関係で理解することが、当然の思考法となっていたのは何で?

圧倒的な身分序列があった封建時代。
下位身分の者は、私権を与えられないのが当然で、
変えられない現実に対して不可能視をしていた。

奴隷は奴隷の身分にいることが当然であり、
死にたいと思っても死なせてもらえないという状況にあった。
それでもなんとか観念上は救われようとした結果、
倒錯観念や欺瞞観念という旧観念が生まれることになった。

倒錯観念は、現実捨象の観念で、宗教がそれにあたる。
そこに実現可能性を導く思考はなく、キリスト教であれば
「全能の神を信じ、礼拝に行きさえすれば、あの世で救われる」
という現実捨象の浅い因果律の思考にとどまっていた。

欺瞞観念は、本音捨象の観念で、フランス革命に代表されるように、
本音では私権を求めておきながら、「自由」「平等」「平和」という実現性皆無のものを求める観念のこと。「戦争」が嫌だからその反対の「平和」を求める。という漠然とした浅い因果律の思考にとどまっていた。

現実直視していると救われず、変えられないのが当然であった時代には
因果律の思考で止まっているのが当然であった。

では、現代はどうか。
圧倒的な身分序列もなく、変えられない現実は無い。
なのに、なにか都合の悪いことが起こると、原因を探し、
そのせいにして観念上で救われようとしている。
そして現実は一向に変わらないどころか、閉塞していく。
この思考は、封建時代と変わらない。

現代には、実現可能性を導く思考が許されているのだから、
なにも奴隷のような思考でとどまっている必要はない。

「なにが原因かを考える」で留まらず、「どうすればもっとよくなるか」を考えることが「できる」時代になっているということに気づけました。

佐々木尊一 

2016年1月 4日 (月)

生産様式の転換と観念の変遷

          古代宗教 近代思想 構造認識
            ∧    ∧    ∧
            ∥    ∥    ∥        
           身分制度 資本主義 認識闘争
            ∧    ∧    ∧ 
            ∥    ∥    ∥        
 観念機能の獲得 → 農業生産 工業生産 意識生産
    ∧       ↑    ↑    ↑
    ∥       |    |    |
<極限的な自然外圧><--物的欠乏--><類的欠乏>
----------+---------+------
○認識のベクトル
<--「対象」--><--「自己」--><「対象」>

①極限的な外圧⇒自然を注視→観念機能の獲得→採集生産・農業生産へ
足の指が先祖がえりして本能上の武器を失った初期人類は、洞窟に隠れ住み、他の動物の目を盗んで死肉や骨、植物の根を食べる(密猟生産)しかないような存在だった。この極限的な状況において、徹底的に自然を対象化し注視する中で、共認機能を自然に対して向け、観念機能を生み出した。(実現論1_6_03
観念機能の発達に伴う弓矢の発明などにより防衛力が上昇し、洞窟から抜け出て採集生産に移行することが可能となった。そして自然を注視しそのサイクルから暦を発明することで、人口拡大に伴う農業生産への移行が可能となった。

②農業生産⇒武力支配の身分制度⇒古代宗教に収束
農業生産においては、生産力の基盤は耕すことのできる特定の土地である。土地の奪い合いに決着を付ける力、すなわち武力が制覇力となり、武力支配の下での生涯固定の身分制度が成立する。特に奴隷身分においては、身分制度や絶対権力によって、一切の可能性を封印されていたため、本来の人間の可能性やあり様を、自己の頭の中にしか存在しない「あの世」「神の世界」を措定し、それを持って意識を統合しようとする。こうして古代宗教が誕生し、広まっていった。

③工業生産⇒資本主義⇒近代思想(近代個人主義)
農業から工業へと生産様式が転換すると、生産力の基盤である機械を備えるための資本が社会の制覇力となる。いわゆる資本主義社会の登場は、人々を身分制度から解き放ち、市場での経済的利益追求の「自由」が登場した。私権拡大の可能性が開かれ始めると、経済的利益を追求する個人を正当化するために、古代宗教における「神」を「人間」に取って代えた近代思想が登場した。この近代思想の導きによって、ばらばらに分解された個人が一個の労働者あるいは消費者として市場拡大の主役となっていく。

④意識生産⇒類的価値の創出⇒人間・社会を対象化する構造認識
自然を対象とする価値を「物的価値」と呼び、人間・社会を対象とする価値を「類的価値」と呼ぶならば、これまで人類は、物的価値の生産に大半のエネルギーを費やしてきたことになる。ところが、工業生産の目覚しい発展によって、「物」の生産と消費が飽和限界に達した。「物」が過飽和状態になれば、残るは類的価値の生産と消費しかない。実際、どんな物的生産であっても、類的価値を付け加えないと売れない時代となった。つまり、人間または社会を対象として類的価値を生産する意識生産の時代となった。
意識生産の時代では、生産力の基盤が生身の人間の認識力・創造力そのものとなる。誰もが、人間あるいは人間相互の関係(=社会)を対象とする認識闘争に巻き込まれ、認識闘争の圧力(同類圧力)が主要な外圧となる。ここでは、外圧を把握するためにも、類的価値を創造するためにも、現実の社会の原基構造及びそれを支える人間の意識の原基構造を解明する構造認識が必要となる。 

内藤琢

2016年1月 2日 (土)

子供の行動は個人主義とは正反対

>自分は個人主義の枠の中で考えてるから出口が見つからなかったんだなぁって気付けたことはすごい収穫だったと思います!214224 とても大切なことに気付けてよかったですね。僕も嬉しくなりました。 我が家に3歳になる幼児(男)がいるのですが、以前、彼の行動を観察していて「個人主義」とは正反対の事をやっていると気付いたことがあります。具体的には・・・・・・ ・真似をしまくる (ほとんど反射的に真似する) ・みんなと一緒であることが喜び (自分だけ違うのは不安) ・仲間第一=お友達が大好き (ケンカをするととても気になるらしい) ・みんなで一緒に居る時が一番楽しい (仲間の人数は多いほど嬉しい) といったあたりです。 3歳といえば、思想や観念には当然染まっていません。余計なものがない純粋な人間として子供たちを見ると、その行動から本来的な人間のありよう(生まれもっている感覚等)が見えてくると考えます。 逆に言うと、私たちが多かれ少なかれ染まってしまっている「個人主義」は、子供の頃にはもっていなかったものと断言できます。その後のいつからか染み付いていったものであって、人間本来がもっているものではないわけです。したがって、嫌なら塗り替えられる(=観念は塗り替えたら終い)とわかりますよね。 出口が見つかるという可能性を感じられたなら、すぐに塗り替えられると思います。

匿名希望

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