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2015年12月

2015年12月31日 (木)

新たなダマシに取り入られないためにも、「事実追求→観念の塗り替え」は私たちに必要な課題となる。

toragaさんの投稿にもあるように、経済破綻はすでに始まっていますが、間違いなく今後も世界中のあらゆる金融機関が、負債をどうする?の対応に終われる事になります。 しかも、今まで以上に惨い有様になることでしょう。 そもそも金融市場は、1985年以降に「金融工学」などと称して、CDS商品含めたデリバティブが世界中に派生することで成立していきました。 蓋を開ければ単なる「ダマシ」が増長したことによって引き起こされた金融バブルなのですが、昨年のリーマンショックでバブルがはじけ、現状はどの金融機関もバブルの清算に迫られているという状態です。 世界中を巻き込んだ経済破局(=金融バブル崩壊)は、ソフトランディング(軟着陸)かハードクラッシュ(大暴落)かの違いはあれど、結果的には避けて通ることはできません。 なぜなら、ダマシが未来永劫、共認を支配することはないからです。 日常の「嘘」も同じ構造ですが、ダマシには、必ず事実を隠蔽する部分、観念によって正当化している部分が潜んでいます。 つまり、弱点=綻びを常に孕みながら、バレないように周りを巻きこんでいくことでしか成立しないのがダマシという構造なのです。 だからこそ、金貸し含めた支配者層は、綻びを一番恐れているので、共認形成ツールであるマスコミを執拗に統制しようとしてきたのです。 しかし、今やマスコミ不信やリーマンショックを期に、ダマシの綻びは解れ、完全に決壊しました。 そういう意味では、今起こっている経済破局は、詰まるところ、『ダマシの終焉』を意味しているので、生産にしろ何にせよ、人間の本源性に照らし合った真の生産活動を創造できるチャンスともいえます。 ただし、そのチャンスを活かすために、私たちに必要な課題があります。 ダマされていたとはいえ市場原理というダマシに乗っかって生産活動を担っていた私たち、あるいは金貸しの思いのままに単に市場に参加して消費を貪っていた私たちの「認識」そのものを見直し、事実追求→観念を塗り替えていくことです。 そうでないと、また同じこと(新たなダマシ→バブル創生)の繰り返しになると考えるからです。

やっさん

2015年12月29日 (火)

「言われた通りにできる練習」の重要性について

一斉授業で、口頭で問題の答えを言って、生徒が聞いて答え合わせをするということがあります。 一度しか答えを言わないと聞き逃すこともあるので、二度繰り返して言うようにしています。大半の生徒は二度繰り返せば聞き取れるのですが、ときどき二度でも足りなくて「もう一回答えをお願いします。」と聞いてくる生徒がいます。 それはいつも同じ生徒です。どうして他の人が聞き取れるのにあなたは聞き取れないかをたずねると、理由は解答を聞いて自分の答えが間違っていたとき、とくにおしい間違いをしたとき、「間違い」という評価を与えられた問題に立ち止まりすぎて、次の問題の答え合わせに移れないということでした。 言われた通りにできない理由の一つは、答え合わせをするという作業中に、間違えた理由探しになってしまい、それが自分探しになってしまうことです。個人主義のこわいところは自分を中心に適応を考えてしまうことによって、他の人の適応を無視してしまうことです。まず自分をみんなの真っ只中において、考える中心そのものがずれていることを自覚し、同心円となることによって半径(器)なり角度(視野)なりを修正することが重要なのだと思いました。 言われたこともできないのは、言われたこと=扇形を塗りつぶすことを異なる自己中心円から書こうとするからであり、言われたこと、が努力の最大値となるから言われたことしかできないのではないかと思います。 言われた通りにできる練習、すなわち型の練習はどんな型でもみんなの円(輪)の中心発の作図の練習をすることになるので、自分を含めた共認の中心を求めることができるようになるのだと思います。

2015年12月27日 (日)

「現実=人々の意識」どまりから、「現実=人々の意識=自分自身」へ

「型」=構造認識であるということは、個人レベルの都合やものの考え方がその習得の邪魔をするということである。

再び武術操身法・遊武会さんのHPリンクの中の
「型と個性」~ ベルリン自由大学でのワークショップに寄せて(武術操身法・遊武会主宰 石田泰史)という文章リンクから一部引用です。
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【前略】

話を型に戻そう。

 質的に違う身体操法を得る為に型があるのだと述べたが、その型を学ぶ上で邪魔になるのが「個性」である。この段階で言う個性とは、個人レベルの日常的な体の使い方であり、ものの考え方である。

 武術などの身体操法における型とは、個性を排除するところから始まるものである。型を単なる手順としてしか捉えることができなければ、表面的には似たような、それでいて一人ずつ全く違う動きを繰り返すに留まることになる。そこに共通した質を培うことは非常に難しくなるのである。

 優れた型には明確な主張がある。それは一見して気付くことのできるようなものではないが、それを見ようとする意識があれば、やがて見えるようになってくる。ここに個性の排除が必要なのである。型の本意に身を委ね、個性を排除できたときに違う次元の質を獲得できるようになる。質の違う身体を自覚したときに、初めて個性の発現が可能になるのだ。新たな質を得た意識と身体からは、新たな型の創造も可能になる。こうした繰り返しによって、表面上の差異に左右されない質が伝わっていくのである。

 弓道に「正射必中」という言葉がある。正しく射れば必ず中るという意味だが、正に型の本意を捉えた言葉であるように思う。的に中るかどうかは結果であり、中てる為には様々な方法が考えられる。しかし弓を引き矢を放つまでを教え通り正しい型で行なえば、結果は自ずと決まってくるというのである。弓道では一連の動きを「弓道八節」と言って八つの段階に分けているが、その一つ一つが独立した型であると考えると、「正射必中」という言葉に大きく頷ける。弓道の練達者は射る前に中るかどうかが分かるという。これこそ質を獲得した者だけの感覚と言えるだろう。

 個性の排除は外的な働きかけによっても促すことが可能である。能楽で使われる能面などがその代表ではないかと思われる。生の表情を消し、視界を極度に狭くすることで、必要な動きのみを引き出すことが、能面に内包された役割と言えるのではないだろうか。

 武術では稽古の前後に黙想を行なうことが多い。心を穏やかにし、無念無想の状態を得ることで心身をクリアなものへと変換させることが黙想の意義である。黙想するときには目を完全に閉じることもあるようだが、筆者が幼少期に剣道を学んだ際には、「黙想は半眼で行なう」と教えられた。目を閉じると逆に様々な念が湧き、無の状態になれないと言うのである。これは比較的誰にでも実感し易い感覚であると思う。半眼の場合は半眼の状態を保つことに意識が集中するので、厳密には無心とは言えないが、少なくともそれ以外の雑念が湧きにくくなるのは確かである。
 半眼の状態は、能面の視界とも重なってくる。無心の境地とは即ち個性が取り払われた状態であると言える。それを瞬間的に作り出す役割が、能面や半眼黙想にあるのだと考えられよう。

 固定理論や相対変化などは、「動かさないことで作る変化」と言ってもよいだろう。見えざるものを変化として捉える感覚は、自身を内観することにもつながるはずである。

 型はどこで切り取っても、それぞれの瞬間に意味がなければならない。そこに個性の入る余地は元々ないのである。繰り返しになるが、型とは見える部分での動きの手順ではない。それは質を獲得する為の暗号とも言えるもので、ひたすら反芻を続けることによって、そこに隠された本意に気が付いたとき、初めてその存在意義が理解できるというものであろう。

 型とはそれを作り上げた者たちの優れた身体観そのものであり、時空を超えて我々の身体に語りかけてくれる声でもある。
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2015年12月25日 (金)

「型」=構造認識の習得には個性の排除が必要。

「型」=構造認識であるということは、個人レベルの都合やものの考え方がその習得の邪魔をするということである。 再び武術操身法・遊武会さんのHPリンクの中の 「型と個性」~ ベルリン自由大学でのワークショップに寄せて(武術操身法・遊武会主宰 石田泰史)という文章リンクから一部引用です。 ********************************* 【前略】 話を型に戻そう。  質的に違う身体操法を得る為に型があるのだと述べたが、その型を学ぶ上で邪魔になるのが「個性」である。この段階で言う個性とは、個人レベルの日常的な体の使い方であり、ものの考え方である。  武術などの身体操法における型とは、個性を排除するところから始まるものである。型を単なる手順としてしか捉えることができなければ、表面的には似たような、それでいて一人ずつ全く違う動きを繰り返すに留まることになる。そこに共通した質を培うことは非常に難しくなるのである。  優れた型には明確な主張がある。それは一見して気付くことのできるようなものではないが、それを見ようとする意識があれば、やがて見えるようになってくる。ここに個性の排除が必要なのである。型の本意に身を委ね、個性を排除できたときに違う次元の質を獲得できるようになる。質の違う身体を自覚したときに、初めて個性の発現が可能になるのだ。新たな質を得た意識と身体からは、新たな型の創造も可能になる。こうした繰り返しによって、表面上の差異に左右されない質が伝わっていくのである。  弓道に「正射必中」という言葉がある。正しく射れば必ず中るという意味だが、正に型の本意を捉えた言葉であるように思う。的に中るかどうかは結果であり、中てる為には様々な方法が考えられる。しかし弓を引き矢を放つまでを教え通り正しい型で行なえば、結果は自ずと決まってくるというのである。弓道では一連の動きを「弓道八節」と言って八つの段階に分けているが、その一つ一つが独立した型であると考えると、「正射必中」という言葉に大きく頷ける。弓道の練達者は射る前に中るかどうかが分かるという。これこそ質を獲得した者だけの感覚と言えるだろう。  個性の排除は外的な働きかけによっても促すことが可能である。能楽で使われる能面などがその代表ではないかと思われる。生の表情を消し、視界を極度に狭くすることで、必要な動きのみを引き出すことが、能面に内包された役割と言えるのではないだろうか。  武術では稽古の前後に黙想を行なうことが多い。心を穏やかにし、無念無想の状態を得ることで心身をクリアなものへと変換させることが黙想の意義である。黙想するときには目を完全に閉じることもあるようだが、筆者が幼少期に剣道を学んだ際には、「黙想は半眼で行なう」と教えられた。目を閉じると逆に様々な念が湧き、無の状態になれないと言うのである。これは比較的誰にでも実感し易い感覚であると思う。半眼の場合は半眼の状態を保つことに意識が集中するので、厳密には無心とは言えないが、少なくともそれ以外の雑念が湧きにくくなるのは確かである。  半眼の状態は、能面の視界とも重なってくる。無心の境地とは即ち個性が取り払われた状態であると言える。それを瞬間的に作り出す役割が、能面や半眼黙想にあるのだと考えられよう。  固定理論や相対変化などは、「動かさないことで作る変化」と言ってもよいだろう。見えざるものを変化として捉える感覚は、自身を内観することにもつながるはずである。  型はどこで切り取っても、それぞれの瞬間に意味がなければならない。そこに個性の入る余地は元々ないのである。繰り返しになるが、型とは見える部分での動きの手順ではない。それは質を獲得する為の暗号とも言えるもので、ひたすら反芻を続けることによって、そこに隠された本意に気が付いたとき、初めてその存在意義が理解できるというものであろう。  型とはそれを作り上げた者たちの優れた身体観そのものであり、時空を超えて我々の身体に語りかけてくれる声でもある。 *******************************

2015年12月23日 (水)

「型」とは構造認識に他ならない

日本人の身体技法といっても、武術や芸能における本格的、専門的な世界の秘伝から、大衆全般に見られる共同体の中で伝え、守られてきた所作まで含めて対象は非常に広範である。 それらを伝達、共有、継承していくために「型」という概念が生み出された。 「型」といっても、ただ形をまねればよいのだろうか。 ファーストフード店でマニュアルどおりの応答をされても、全くありがたみを感じない。形だけを伝えることにたいした意義はないし、そんなものが何百年も伝承されるわけがない。形を伝えることが真意ではないはずだ。 さらに形は環境によって変化するし、変化すべきだろう。 「型」とは何か。 端的に言い換えると、「型」とは構造認識に他ならない。 反復練習によって「型」を習得するということは、構造認識を理解し体得するのと同じことなのだ。 再び、武術操身法・遊武会さんのHPリンクの中の「型を読む」~構造を読み取る力(武術操身法・遊武会主宰 石田泰史)という文章リンクから一部引用です。 ********************************* 【前略】  結論から先に言うと、「型」とは特殊な身体運用の理論そのものであり、「形」とはその理論を各自の身体を通して表現した結果である。「型」は方程式の如く真理のみで構成されており、そこから派生した「形」には身体性などの違いによる個性が生まれるということになる。このことを誤解した指導者が、枝葉の部分ばかり整えようとしているのが、現代の型武道に多く見られる実態である。理論を踏まえた結果としての個性を認めようとしない姿勢は、武術としての本質を踏み外しているとしか言えない。同時に、「型」の踏襲なき個性は、本質を伴わない故に、武術的意義を認められないこということになる。日常の生活にあてはめると、「型」とはルールや規範といったものであり、それらの意味を充分に理解した上で遵守してこそ、個性の表現が許されるということである。 「型」というものをどのように捉えればよいかを、もう少し幅を広げて考えてみたい。 先述の通り「型」とは暗号である。居合術の「型」には想定というものがあり、一定の攻防が手順として決められている。その手順を、角度や高さ、速さ、視線など、決められた寸法の範囲で表現することによって第三者の評価を得られるのが、一般的な古流居合術の世界である。しかし本来想定や手順といったものは本質の部分を導き出す為に与えられた情報であると捉えるべきであろう。「型」について本当に考えなければならないのは、なぜその想定や手順を作る必要があったのかということである。 一輪車を与えられた者が、それを発展させオートバイにたどり着いたとしよう。後の人間がその結果としてのオートバイを与えられ、そこから一輪車まで正確に逆をたどれるかということを考えてみると、いかなる必然性がそのものを成り立たせているかということを求める難しさが想像できる。 機械的な物の構造を理解するということについては、分解してみるのが一番確かな方法であろう。各部品の関係性を観察し、分析が進めば設計図が描けるようになる。そうなって初めてその機械のメカニズムを知り、基本的な機能を成立させている本質の部分を感得できるのだ。車輪と動力の関わりがオートバイの機械的な本質であり、武術においてはそれが「型」の持つ意味となる。 「型」に秘められた本質が理解できれば、それをどのように再構築して表現するかは、各個人に委ねられるべきであろう。同じレシピに基づいて料理を作ったとしても、本人の意思に関係なく、鍋の大きさや火力の違いなど外的要因によって結果には必ず個性が生まれるものである。レシピという「型」は、近似値を再現するためにあるものであり、決してコピーを求めるためのマニュアルではない。鍋や火力といった諸条件は、即ち体格や身体性の差異として武術に当てはめることができる。  先に「型」とは暗号であり情報であると述べたが、別の角度から見れば、それは「制約」であるとも言える。「型」の手順や想定は本質を導き出す為の制約であると位置付けると、その役割がはっきりとする。  一つ一つの動きに意味があり、それらが渋滞なく連続することで流れが生まれるが、最初から一つの流れとして捉えると、本質がぼやけてしまい易い。できる限り短い動きのセンテンスを単位として明確に認識するほど、「型」は整い、身体上で理論化されるのだ。 世界的なバレエダンサーであるシルヴィ・ギエムが「クラシックの振り付けについて指導する際、『伝統だから』ということではなく、『何故そうするのか』を説明するべきである」という意味合いのことを言っていた。あれほどの突出した感性と身体能力の持ち主をして、一つ一つの動きに明確な意味付けを求めているのである。「型」の世界の深さと、そこに求め るべき意義を感じることのできる言葉であったと思う。 【後略】 ********************************

2015年12月21日 (月)

「言われた通りに言われた事が出来る」ことの大切さ

個人主義の害はいろんな所に潜んでいます。「言われた通りに言われた事が出来る」ことを「言われたことしかできない」「自分の考えがない」などとマイナスに捉えられがちなのもその一つ。実は、「言われた通りに言われた事が出来る」はとても大切なことなのです。

 以前、上司の指示を受けて言われたとおりの成果品を作って、「よく出来たな」とほめられたことがありました。実は、そのときは「言われたとおり作ったのだから、自分の成果というよりこれは上司の成果・・・」と、素直に喜べませんでした。でも、今は同じ言葉に素直に喜べます。なぜなら、言われたとおりの成果品が出来るのは、その上司に同化出来た、上司が対象化している相手先の期待にも意識を重ねることが出来たからなのだと気付いたからです。

当然、上司は自分以上の能力を持ち、より広く深く対象を捉えています。それは自分の考えでは推し量りきることはできません。そこで、まず、指示されたことに対して自分で解釈して分かったつもりにならず、言われたことをしっかりと受け止めること。次に今は自分には理解できないもっと深い相手の期待があることを確信すること。後は、それは何かを考え、仮説を立て、ポイントごとに確認することを繰り返す。その過程を通じて初めて「言われた通りに言われた事が出来る」。それが成果度の上昇となるし、成長にも繋がるのです。

>そして、個人主義の害に気付けたら、素直に現実や可能性に向かえ、
「自分からみんな」へと意識転換する事でいくらでも充足を積むことができる☆(213902

そうですね。みんなで充足体験や成功事例を発信して、「個人主義」という古い枠を超えて自在に可能性に向かっていきましょう。

2015年12月19日 (土)

【幹図解】新しい潮流14 社会空間における本源共認の実現形態

        ┌────────┐         |  社会不全  |         └────────┘             ∥             ∨     ┌──────────────────┐     | 仲間欠乏と答え欠乏が同時に生起※ |     └──────────────────┘             ∥             ∨      ┌───────────────┐      | 外向仲間収束=認識仲間収束 |      └───────────────┘             ∥    ┏━━━━━━━━∨━━━━━━━━━━┓    ┃┌─────────────────┐┃    ┃| 集団を越えた仲間収束の場で協働 |┃    ┃└─────────────────┘┃    ┃        ∥          ┃    ┃        ∨          ┃    ┃┌─────────────────┐┃    ┃| 新時代の認識を紡ぎ、織り上げる |┃    ┃└─────────────────┘┃    ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛      ┗社会空間における本源共認の実現形態 ※重要なポイントは、社会不全を受けての【答え欠乏と仲間欠乏は一体であり、同時に生起する】という点。考えてみれば当たり前で、私たちも日常の場面で、社会について疑問を持った時は、誰か知ってそうな人に話しを聞いてみることが多いはず。 したがって、【同時に生起した欠乏を同時に満たすことのできる場】を作ることが必要であり、「答えと人が一体の」仲間収束の場で認識を紡ぐことのできる場に人々は収束していく。 サロンの場がまさにそのような場であり、皆で疑問を出し合い、図解化演習を行なうことで、その中で参加メンバー皆が一番納得できる答えを紡いでいく。 みんなで参加して答えを出していけたという充足があるから続けていける!

安藤広海 

2015年12月17日 (木)

個人主義の枠を取り払えば、出口がみつかる☆

今日は個人主義っていう考え方がどれだけ自分に染み付いてるか実感しました。 あたしの中で、自分らしく生きる=幸せな人生みたいなイメージがどこかにあって、じゃあ、人と違う独創的な人生を送らなきゃとか、人のマネして楽しくてもそれは自分の人生を生きてることにならない!とか思ったりして…。 でも、何が自分らしさ?って言われると難しいし、自分らしさを実現しようとして無理に自分の好きなことに固執すると、好きなことも楽しくなくなるし。でも別にこだわらなくてもよかったんですね☆確かにマネすることも悪いことじゃないですよね! 自分は個人主義の枠の中で考えてるから出口が見つからなかったんだなぁって気付けたことはすごい収穫だったと思います! いろんなモヤモヤがスッキリした気がします☆ あっこ

2015年12月15日 (火)

自立とは何か

『下流社会:内田樹著』、リスク社会の弱者達より参考。 本来、リスクヘッジという言葉は、集団として生き残るために集団としてリスクを分散するシステムに収束という意味だった。 しかし、現代使われるこの言葉の中心は自分にある。 自分にとってどれだけそのリスクを回避できるかと。 貧困の時代、人々は相互扶助を基本とし、生きるということは、集団で生きるということだった。 しかし70年、貧困の消滅から、「一人で生きていく。一人で判断する。」という個人主義が評価されるという意識が社会を侵食していった。 そのころから、自立という言葉は、一人をさすものになっていった。 この自立が実現したものは何だったのか。 自分のことは、自分で決める。 他人に迷惑はかけない。 そういった意識(教育)のもとで生まれる潜在思念の底には、全てが自分の判断、他者への壁が見られる。その結果、人々は活力を無くし、若年者のニート・ホームレスの問題等がうまれていった。 改めて、現代の自立とは孤立である。 本来、自立とは、多くの他者に囲まれる中で、その集団がさらされる外圧(常に変わる課題内容)に、対応できる(役割を常に一新できる)人間となるために、みなの評価を羅針盤に成長することをさしていた。 みながいることで、自らも生かされている感覚を忘れている限り、集団の中で自らの役割を果たすということが、真の自立ということだと気付くことはできない。  リンゴヨーグルト

2015年12月13日 (日)

可能性の実現に焦点を当てたら、前向きに取り組めるようになった

『できない上司』や『できない自分』にこだわっていた後輩。 今まで「上司とは、こうあるべき」とか「これは上司のするべき仕事」などと、『○○とは・・・』という理想像があって、それが出来ていないと、「なんで出来ないの?」とイライラしていた。 それが、現実を受け入れた上で『実現するには、どうすればいい?』⇒『そのためには、何が出来る?』と考えればいいんだと気づいた途端、一気に可能性が開け、前向きに仕事に取り組めるようになった。 >自我・私権を否定することにこだわるよりも、その奥にある新しい充足基調⇒本源収束という可能性の実現に、意識の焦点を当てた方が良い。(21090) これは、仕事でも普遍的に通用する。

2015年12月11日 (金)

線引きをやめたら、もっと応えていける(^-^*))。。もっと充足できる♪

仕事に焦り、なんとなくいつもいっぱいいっぱい。
だから、
「これ、お願い」
って、言われるとついつい
「ダメです。わたし・・・できません。」
って、自分のできる範囲に線引きしちゃう・・・。
「だって、こんなにたくさんやっているのに・・・どうしてみんな分かってくれないんだろう?」

こんなことって、ありませんか?

これってね、実は、「個人主義」が元凶ではないですか?

>「個人が絶対(善)」という思想のせいで、これらの大事な現実が全て捨象されて、思考が「個人(と、個人から分断された相手や環境)」という枠に閉じ込められることになる(>_<)213819

仕事って、みんなのものだし、成果もみんなのもの。
全てを一旦みんなの中に預けて、その中で役割を決めていく。

だから、みんなが「できるよね?」って言ってくれた事は必ずできるし、それでもあふれた仕事(や、上手くいかなかったこと)も、必ずみんなで何とかできる。

だから、線引きする必要なんて無い。
「できるよね?」
っていわれたら、
「できます!」
って、やってみたらいい(^-^*))。。。

線引きをやめて、狭い枠を飛び出すと、周りの全てのことに応えていける。

そうすれば、もっともっと充足する。

2015年12月 9日 (水)

【組み換え図解】危険なインテリ支配から安定した社会へ~認識形成サイトの協働で共認(人類の命綱)を形成していこう~

●試しに、「充足・安定・保守」の意識潮流に合わせて、大胆に構成を変えてみました。(タイトルも変えてみました)

「命綱は共認」を大幹とし、
「認識形成サイトで協働」⇒「安定」を幹、
「インテリ統合階級は傍観者」→「誤った認識で共認支配」→「人類滅亡滅亡の危険」を枝としました。

普通の人が認識形成サイトで協働していくことが保守本流の流れ(⇒安定)であり、マスコミや学者の発信や存在が危険なものというストーリーです。

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃      共 認 は 人 類 の 命 綱      ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
   ∥                            
  認識形成は ──────>  インテリ統合階級が     
 社会の生命部分        共認の要の位置に陣取ると  
   ∥             ↓      ↓      
   ∥ ┌────┐   ┌─────┐┌────────┐
   ∥ |外向収束|   |人々を洗脳||インテリは傍観者|
   ∥ | ↓↓ |← 閉塞  ↓  ||  ↓     |
   ∥ |認識収束|   |共認支配 || 誤った認識へ |
   ∥ └────┘   └─────┘└────────┘
   ∥   ∥         |      |       
   ∨   ∨         |      |       
┏━━━━━━━━━━━━┓   ∨      ∨ 
┃「自分達の手で共認形成」┃  誤った認識が共認される     
┃  ∥   の潮流   ┃     |
┃  ∨         ┃     |
┃┌──────────┐┃     |
┃|認識形成サイトで協働|┃     |
┃└──────────┘┃     |
┗━━━━━━━━━━━━┛     |
   ∥               |
   ∨               ∨
  安定する          人類滅亡の危機へ! 

田村正道 

2015年12月 7日 (月)

『個人主義』って、“規範の一部”でなく、“唯一絶対の支配観念”なんです(>_<)

『個人主義』は、“個人を大切にする”というような単なる関係規範(の一部)ではなく、“個人を原点”とし、“それこそが善”とする、れっきとした統合観念(社会の根底をなし、社会を統合する観念)なんだと、改めて気付いた。 だから、無思想(のつもり)の若者であっても、例外なくその思想に染まっており、それゆえ疑いも無く、「主体性(=誰にも左右されない自分の意思)が大事」だと信じて悩んだり、「真似することはいけないこと」だと信じて罪悪感を抱いたりしてしまう。。。(213814など) でも現実は、相手や環境に反応して感情や行動が生じたり、同じであることに一体感や安心感を感じたり、マネすることで成長したりすることの方が、大部分を占める。 なのに、「個人が絶対(善)」という思想のせいで、これらの大事な現実が全て捨象されて、思考が「個人(と、個人から分断された相手や環境)」という枠に閉じ込められることになる(>_<) だからこそ、個人主義に導かれた社会や個人は、ここまでおかしくなってしまった。。。 現実の一部を切り取って美化されているから、一見否定しにくいけれど、こうやって考えたら、個人主義の害は一目瞭然! そこに気付けば、私たちはいくらでも、枠を超えて自在に可能性に向かっていける☆

西知子

2015年12月 5日 (土)

女の充足・安定が男達を変化・闘争へと促す!

>充足から安定・保守へ向かうのは、周りの人たちを見ていて感じていますが,やはり女原理を実現するために、男原理としての変異・闘争なども必要かな,と。
そして、行動することが、大事なんですね!!213144

まさにその通りだと思います。
そして、それは相互に影響し合う関係にあるのです。

今、会社の女性達の中で「感トレノート(感謝と謝罪のトレーニングノート)」というのを廻しながら、その日あった(その日に限らず)出来事で嬉しかったことや感謝したこと等が書き綴られているものです。
そのノートには、男達では気付かないであろう、ほんのささいな出来事に対する充足話でさえいっぱい詰まっています。

最近そのノートが社内の男達の目に触れることが多くなりました。
そのノートに男達がコメントを残すこともしばしば。

すると、どうでしょう。日に日に男達の活力がアップしているのです!
かくゆう私もノートを読むと、ものすごく充足して、仕事に向かうことができます(笑)。
この間、ある営業の人が、その話をある事業仲間の男性に話をしたら(その人に対する評価などが書かれてあったそうです)、その男性のやる気がアップし、ますます闘争に向かってくれたそうです。
女の充足が男達を変化・闘争へと向かわせる一つの例ですね。

こんな事例もあります。
ある後輩が仕事への不満(?)などから、周りへの否定視を続けていた時期があったのですが、女性の後輩からある置手紙をもらってからガラリと変わったのです。具体的な中身は割愛させていただきますが、「不安定⇒充足したい!⇒期待(置手紙)」というような、充足への収束が彼を変えさせました。

女達の安定・充足が男達に変化・闘争を促し、女達の安定・充足にも男達の変化・闘争が不可欠なのです。

土屋範明

2015年12月 3日 (木)

どこまで源流をさかのぼれるか?が生命線

「現実を対象化する=思考する」(7244)とは、そのもの(対象)の源流をたどる、原基構造をとらえるということに他ならない。そこでは、どこまで源流をさかのぼれるかが生命線であり、その全体をつかむ過程そのものが、答えをつかむことに直結する。 本源集団における「提案」とは、その上で出される実践方針であり、集団の中で、よりよいものを求めて、さらに掘り下げられ(原基構造の解明に奥深く入り)、より磨かれていくものである。すべての事象は根底からつながっているので、向かうところ、進むべき方向にゆらぎはない。 それに対して「主張のし合い」というのは、お互いの立場・利害が微妙に異なる(対立する)者(集団)同士の、それぞれの立場を擁護する価値観のぶつかり合いだ。少しでもコトを有利に進めた方が勝ちだから、源流や原基構造をたどる=現実を対象化する必要はない。いかに(詭弁を弄してでも)その場を凌げるか、のみが競われる。 >∴私権時代(特に近代)の主張や議論とは、欺瞞共認を形成する(事によって私権闘争で優位に立つ)為の様式にすぎない!(7244) 貧困の消滅から40年―。 現在、社会は、ガタガタのどんづまり。どんな楽天家でも、潜在思念でそう感じざるをえない状況に人類は追い込まれた。言い換えれば、それは、より原基構造に根ざした「提案」が渇望される時代を迎えたということだ。 最近のるいネットへの来訪者数の増大をみて、共認の輪をひろがりを実感する。より多くのひとたちと、ものごとの源流・原基構造、本質を掘り下げていきたい。

阿部佳容子

2015年12月 1日 (火)

修験道の派閥史 …南北朝の争いは修験の内部闘争でもあった

葛城
(役小角)←天武天皇
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 ↓
吉野山・金峯山寺
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(行基・・→東大寺建立に利用される)
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 |←-密教の輸入(空海、最澄)
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 |          朝廷(北朝)
 |          |
 |          |結びつきを強める
 |          |
 ├-天台宗---┬-→山門派・・・・・・・・・→鎌倉新仏教       
 | (台密)  |  (円仁・延暦寺)
 |       |            ┌---┐
 |   ┌・・・└-→寺門派-------→本山派|
 |   |      (円珍・園城寺)  |   |
 |   |                |   |
 |   |                |   |
 └-真言宗---┬-→金剛峯寺(総本山) |   |
   (東密)  |  (高野山)     |   |
         ├-→教王護国寺(大本山)|   |
         |            |   |
         └-→醍醐寺-------→当山派・・・→南朝
                      └---┘ (後醍醐)
                      中世修験道

○役小角(役行者)を開祖とする修験道ネットワークを基盤に、天武天皇は壬申の乱を起こし皇位を簒奪した。
○修験道は、葛城から吉野山の金峯山寺(きんぷせんじ)に、その中心地を移す。
○修験道と密接な関わりをもっていた行基は当初弾圧されていたが、聖武天皇により引き立てられ、東大寺大仏建立の立役者となる。
●修験道はその後、平安時代初期に持ち込まれた密教と融合し、大きく2つの潮流(台密・東密)に分かれる。

○天台宗(最澄)は密教の経典を真言宗(空海)から借り受け、密教を取り入れる。
○その後、密教への傾斜を強める寺門派(園城寺)が分離。山門派(延暦寺)と対立する。
・山門派(延暦寺)は朝廷との結びつきを強め、鎌倉時代に多様な仏教の宗派を生み出していった。

○真言宗(空海)は、高野山の金剛峯寺と京都の教王護国寺(東寺)を二大拠点として発展。
・平安時代に入ると、皇族、貴族などの金峯山参詣が相次いだ。
・平安時代中期には、山深い醍醐山頂上一帯を中心に多くの修験者の霊場として発展し醍醐寺が建立され、醍醐天皇の庇護の下、発展して行く。

○平安時代末期~鎌倉時代には、修験道は本山派と当山派の二大派閥に統制される。
・両派とも最重要視していた山は金峯山(きんぷせん)だったが、熊野を重要視していた本山派は熊野から入り、逆に当山派は吉野側から大峯山へと巡礼した。
・この醍醐寺-当山派が、後醍醐天皇を支え南朝を樹立する。

206214 修験道史1 なぜ「葛城」は特別な土地となったのか?
206244 修験道史2 律令制の確立→修験道の広がり
206795 修験道史3 密教と結びついた修験道

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山岳仏教と修験道における山岳信仰変遷リンク
修験道の歩み
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