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2015年9月

2015年9月30日 (水)

共認形成の原点は逆境(不全)の共認から

>貧困の消滅→意識生産→共同体が、左項の物理的な結果ではなく、その因果図解では捨象されて見えない項目である逆境(不全)⇒どうする?⇒可能性収束の結果であることは明らかであろう。
従って、貧困の消滅、意識生産、共同体は、一見、因果関係の→でも結べるように錯覚してしまいがちだが、実現の生命部である『逆境(不全)⇒どうする?』を各項に組み入れることで、因果図解に陥る危険を防ぐことができる筈である。(126263)

仕事にしろ、社内での仲間にしろ、またなんで屋でのお客さんにしろ、結果や結論だけでは共認形成はできない。「何故そうなのか?」「何を実現したいのか?」という共認があって初めて結果の共認も可能になる。何故か?

思うに、原因→結果の”因果関係”だけでみれば、主に観念機能を働かせた論理の整合性が中心になる。しかし、同じ現象でも、その背後にある逆境(不全)⇒可能性収束の”収束(実現)関係”が見えてくれば、根っこが不全であるが故に共認機能が働き、観念と共認が一体となって理解できるようになる。この逆境(不全)発の収束関係の共認が、何をするにも共認形成の原点になっているのだろう。

>『逆境(不全)⇒どうする?』を各項に組み入れることで、因果図解に陥る危険を防ぐことができる筈である。(126263) <

は日々の共認形成でも要になる認識である。

2015年9月28日 (月)

【図解】共認革命7 錯誤の根は、古い武力闘争のパラダイムにある (☆人類史上初、「社会のことどうでもいい世代」!)

略奪闘争 ⇒ 武力支配 → 武力社会 ⇒ 体制転換 ⇒ 武力闘争              ∥              ∨           国富(国力)を           市場拡大に依存              ↓            豊かさ追求を ⇒⇒⇒⇒⇒⇒ 要求運動            共認した社会              ↓            貧困の消滅 ⇒ 体制転換 ⇒ 共認運動 武力社会では、自らが社会の統合者(支配者)になるべく、武力闘争を繰り広げていた。 でも市場社会になると、もっぱら、己の私権を獲得するためだけに、要求運動を続ける。(ただし様式は、古い武力闘争の残影のような示威行動となる。) そして貧困が消滅した今、市場や国家に変わる新しい体制を、誰もが探索している。 ・・・と、ここで今日のプチ気付き!!(☆o☆) 市場時代って、人類史上最初で最後の、『社会の事なんてどうでもいい世代』なのかもッ!!

西知子

2015年9月26日 (土)

国家が市場に可能性収束した段階で、共認社会に移行していた

>しかし、逸早く市場拡大の道を歩み、国富(国力)を市場拡大に依存するに至った先進国では、既に戦前(前世紀初頭)の段階で、戦争であれ革命であれ、弱者側(独・日や労働者・農民)の武力闘争による勝利の可能性は、とっくに無くなっていた。それは、武力によって統合された武力社会から、人々の共認によって統合される共認社会に既に移行していたからであり、かつその最強の課題共認が豊かさ追求=市場拡大だったからである。
(9234)

先進国では、国家が市場拡大に可能性収束した段階で、共認社会に移行していた。

但し、それ以前の武力社会からの根底にある私権収束自体は変わっていない。よって、社会統合原理(体制)としての序列原理もその段階では変わってはいない。

2015年9月24日 (木)

現実を否定しても意味がない!現実が自分自身だから

同類圧力は、人々の共認が形成する圧力である。従って、『現実』とは人々の意識に他ならなくなる。
しかも、主体=対象である以上、人々の意識とは、自分の意識に他ならない。つまり、自分自身の意識が、『現実』=同類圧力を形成していることになる。もっと簡単に云えば、現実とは自分自身に他ならない。

現実ってどこにあるんだろう?
自分とは、離れたところにある感じ。だから、現実逃避や現実否定といった否定的な言葉が出てきてしまう・・・

でも、現実を否定したって何も変わらない。
それは、『現実』が人々の意識であり、自分の意識であったからなんですね。

現実を否定することは、自分の周りの人や自分自身を否定すること。
確かにそんなことをしても、変わるものはないし、意味がない!

うまくいかないと感じている現実を形成しているのも自分自身。だったら、自分の意識を変えてみたり、自分から行動してみる。
そうやって、相手や自分の周りの人々に発信することで『現実』も変わるし、変えれると思いました。

谷口知世

2015年9月22日 (火)

『“現実=人々の意識”になった』という可能性

●現実=自然圧力の時代
自然圧力は固定圧力
だから、変えることは出来ない。
それに大して…
精霊信仰や自然崇拝で肯定ししたり(本源性の残る日本はこれ!!)
自然を否定し、変えていこうとしたり(西洋の異化思考はこれ!!)

●現実=私権圧力の時代
私権圧力は、人々の意識(共認)によって生み出されたもの。
だから、共認内容が変われば、変えていくことはできた。
しかし、生存圧力を克服していた訳ではなく、私権の獲得が、生存に直結していたため、固定圧力化していた

●現実=同類圧力の時代
同類=人々=自分の意識が圧力を作る時代。
“意識”という固定化されていない(出来ない)ものである以上、人々の共認内容が変われば、意識=現実を変え、もっといいものにしていけるようになった時代

こんな大きな可能性が生まれた時代
「国が悪い」「社会が悪い」って否定しているだけではもったいない!!
現実は、私達でどんどん良くしていけるんです☆

樫村志穂美 

2015年9月20日 (日)

【幹図解】現実とは、人々の意識である ~もっと充足できる時代になったんです♪~

   ┏━━━━━━━━━━━━┓
   ┃   貧困の消滅    ┃
   ┗━━━━━━━━━━━━┛
         ↓
   ┏━━━━━━━━━━━━┓
   ┃  生存圧力の衰弱   ┃
   ┗━━━━━━━━━━━━┛
         ∥   
         ∨  
   ┏━━━━━━━━━━━━┓
   ┃同類圧力が中心的な圧力へ┃
   ┗━━━━━━━━━━━━┛
         ∥   
         ∨              
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃現実=人々の意識=自分の意識を対象化┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

★ポイント★
生存圧力から同類圧力に場が移行した現在、
可能性は「人々(=自分)の意識」を対象化する中にある♪♪

…ということは、
みんなを羅針盤にしたり、自分の潜在思念に素直に行動することで、
みんなと充足できる機会が、今までよりもっと増やしていける(≧∇≦)ノシ
ってことなんです(*^^*)b

みんなで作っていける、これからの社会が楽しみですね(≧▽≦)♪

ぴのこ

2015年9月18日 (金)

常に可能性を探索していくのが生物の原理

生存圧力を克服してしまった人類。
それはすなわち、活力源を失ってしまったことと同義。
だから、収束先が定まらず、活力がでず・・・
そんな現象がいたるところでみられる。

そんな状態でも、常に可能性を探索していくのが、生物の原理、自然の摂理!
次代の活力源の萌芽は、あちらこちらでみられます☆

仕事においても、勉強する意味においても、今や活力が湧いてくるのは、
「相手が喜んでくれたら嬉しい」
「社会の役にたてたら嬉しい」
etc「期待・応合」をベースとしたものが活力源になっている!

この実感ベースのものをより、言葉化、認識化、さらには、それを制度etcに組み込んでいければ、どんどん活力は湧いていく!

三輪歩未  

2015年9月16日 (水)

なんで屋劇場/生物史をめぐる議論上で行き場をなくしたもの

3月29日、なんで屋劇場に初めて参加しました。お題は「生物史から学ぶ自然の摂理⑯ ~突然変異説・自然選択説」を越えた進化論へ~」でした。 もともと自然科学の分野は苦手なうえに予備知識もなく参加したため、私は当日の議論の中身を云々するレベルにはありません。ただ隙のないロジカルな議論の様子を眺めているうちに、自分の中である種のもやもやが大きくなっていきました。 それは命にかかわることを客観的な因果関係だけで捉えていくと、一番大事な何かが欠落してしまうような焦り・危うさを感じたせいだと思います。 世の現象の大半は、るいが採っている方法のように因果関係で論理的に説明できます。一方で因果律に拠らない現象が起こったとき、私たちはそれをどう受け止めればよいのでしょうか。たとえば次のような事例。 ◆ある問題にぶつかって困っていたとき、たまたま参加した会合で隣に座った初対面の人から、問題解決に有益な情報が得られた。 ◆飛行機事故の夢を見て胸騒ぎがしたので、当日のフライトをキャンセルしたら搭乗予定の飛行機が実際に事故に遭った。 ◆旅先で知り合った人と連絡先も告げずに別れたが、帰国してから街角でばったり再会し、それが縁で結婚した、など。 心理学者のC.G.ユングは、患者の心理治療の過程でしばしばこのような非因果的関連の原理が働くことに注目し、これを共時性と呼びました。たとえば頑なな合理主義者である患者の治療がうまく行っていないときに、機が熟したかのように共時性が働いた結果、患者の知的抵抗に風穴を開け以後治療がうまく進んだというような事例は一つや二つではなかったようです。 上記の現象は、実際に体験したことはなくても、誰でも類似の話を見聞きしたことがあると思いますが、これらの出来事についてなぜそうなったか解明しようとしても、まず合理的な説明はつきません。しかし、こういう出来事が自分の身の上に起これば、直観的にこれは何か「意味のあること」だと感じられるでしょう。合理を超えたものにぶつかったとき、人には畏れの感覚が引き起こされ、ときには人生や命の意味・真理について考えるようになります。 完全に因果律に支配されている経済や政治の分野の議論なら、私もこのようなもやもやを感じることはないはずです。ただ命に関わる問題においては、合理性の追求の過程でこぼれ落ちてしまった、あいまいさや非合理の中に、人の心理的・精神的な成長・飛躍に役立つ考え方(理性ではなくむしろ直観によって感得されうるもの)が含まれており、それは決して見過ごすことのできないものだと思っています。 因果律と非因果律、左脳的・理性的・男性的モードと右脳的直観的・女性的モード。どちらか一方に偏ることなく両者をつなぎ合わせることで、全体性を実現できるのではないでしょうか。 科学的手法や合理性に重きが置かれる現代にあって、るいが社会を相手にしている以上、多数派が受け入れやすい方法として、物事の客観的な因果関係を左脳モードをフル活用しながら明らかにしていくのは賢明なやり方であり、当然のことです。矛盾するようですがその態度ゆえに私も安心してるいの活動に関心を寄せ、志の高さを頼もしく思っています。 一方で、るいの事象解明の方法論からはみ出た対象や右脳モードの感性は、行き場をなくしてしまう場面が間々ある。これを自覚している人は、自分の右脳モードにぶら下がるあれこれが迷子にならないよう自重しながら、るいの活動には左脳モードで臨み応援するのがよい---これがなんで屋劇場に初めて参加した私の感想です。

ももべえ

2015年9月14日 (月)

東洋と西洋3 言葉と心の間

東洋的な認識論での”調和性”203432は、人間の意識のどの部分が発見したのでしょうか?
対象が目の前にないという意味では人間だけが持つ言葉の領域(観念回路)で思考しているようにも思います。しかし一方で、言葉を使って考えているわけではなく、感覚を研ぎ澄ました果てに発見できるような種類のものであるという意味では、潜在的な意識が動いているようにも思います。

自然世界での”調和性”などは、この「言葉と心の間」のような領域で発見されるものです。「合理的に言葉で説明可能なわけではない」そして「時間と空間を飛び越えられる」。このような認識回路が、人間に備わっているとしか思えません。合理的な説明を与えられないために、「超能力」「第六感」と呼ばれることも多い領域ですが、現代の科学では解明されていないだけで、人間にはそのような能力があるはずだと私は思っています。
(※これは、「合理的な因果関係だけを追っていくだけでは、仕事の成果は上がらない」という日常の実感とも合致します。)

極限的な外圧の中、自然の背後に精霊を見、精霊信仰を作り上げた初期人類と比べて、私たち現代人の”感覚”は非常に鈍っています。そのような中、少しでも自然世界の調和性や自然の摂理に同化しようとすれば、自然世界を”言葉の世界”で(観念回路を使って)解き明かすしかありません。生物史の追求・構造化というのは、自然の神秘・自然の摂理に同化するために行うのであって、現実世界と切り離された世界で追求するものではありません。

つまり、右脳と左脳、顕在意識と潜在意識、言葉と心(感覚)、それぞれ両方を駆使しながら肉薄し続けないと、自然の摂理を解き明かし、そこに同化することはかないません。
全てに合理性(因果関係)を要求して突き詰めて考えるだけでなく、またよく分からない事は”神秘”だと割り切ってしまうのではなく、『事実の追求からその構造(事実の体系=自然の摂理)を解明し、自然の摂理に同化しようとする』姿勢こそ、現代に求められているのではないでしょうか。

2015年9月12日 (土)

東洋と西洋2 科学(的認識手法)には致命的な欠陥があるのではないか

因果律(因果関係)だけで物事を捉え、その成り立ちを説明しようとする合理的な思考203430は、西洋の「科学」という認識方法に代表されます。ここでの「科学(的認識手法)」そのものは、客観・中立であらねばならず、科学的であるためにあらゆる価値観を排除し続けました。

この科学者の認識論の原点に、デカルトの心身二元論27731が存在します。デカルト以降、とことん『現実』と切り離して対象を分析・追求し続ける方法が広まり、現実に背を向けて「科学的に」徹底的に追求されてきました。(ですから、「個人主義」と「科学(的認識手法)」は一体不可分です。)
こうして誕生した科学の体系はあらゆる現実を客観的に捉えており、あらゆる現実から中立であるとされました。そして、現代科学の進展が生み出した大量破壊兵器も、環境破壊も、中立である科学(的認識手法)に誤りがあるのではなく、使い方の問題なのだという言説が一般に流布されていきます。

しかし、現実の問題から出発せずに、実験室で追求しつづけ得られた認識体系であるからこそ科学は「使い方次第」となってきた訳ですから、科学的な認識論そのものの中に現実を破壊する危険性が潜んでいることは疑う余地がありません。実際、科学的な追求が続けられてきた結果として、現実世界での(大量破壊兵器・環境破壊のような)恐ろしい成果品が作られ続けてきました。

豊かさを実現し、貧困以外の社会問題が噴出するにつれ、科学の限界を感じる機会が増えてきています。そして科学的思考(≒現実に背を向けた合理的思考)に対する疑義が唱えられ始めました。「世の中の出来事全てを(現実とは切り離して)合理的に捉えられるのか」と。そして注目され始めたのが、現実世界の全体性や全体の調和を解明する東洋的な認識方法です。
東洋的な認識論では、現実(自然世界)を形作っている構造と、その構造が持つ調和性に焦点が当たっています。”陰と陽”などは、その典型例です。(純粋な)観念だけで、この調和性が発見できる訳ではありません。自然への深い畏敬の念と、そこから生まれる自然との同化によって、潜在意識が発見するような種類のものです。ですから、発見された調和性は、西洋的世界(合理的世界)から見ると非常に神秘的に見え、「(西洋的合理性がないため)異種ではあるが、自然の神秘を解き明かすもの」として、時に異端視され、時に学ぶべき対象となってきました。

内藤琢
 

2015年9月10日 (木)

東洋と西洋における自然観:「うまれてある」と「つくられてある」の大きな違い②

①の続き

3.イデア論
 古代ギリシアでは、ソフィストが詭弁をつかい、アテネを混乱に陥れる。ソクラテスも闘争に巻き込まれ毒杯を仰ぐ。ソクラテスの弟子のプラトンは、秩序回復のために、超自然的原理であるイデア論を提起した。つまり、真に存在するものはイデア界であり、触れることの出来る自然はイデア界の投影されたものに過ぎないと、主張した。西欧文明の正体が誕生した瞬間だ。日本人の目から見れば、随分不自然な発想だ。しかし、動き始めた歯車は自己回転する。

ローマ帝国は、成長著しいキリスト教の進入を正当化する必要に迫られた。そこで、アウグスティヌスは、プラトンの二元論を「神の国」と「地の国」という別の形で継承し、イデアに代えてキリスト教的な人格神を原理として組み立てた。イデアは世界創造に先立って神の理性に内在していた観念と考えられるようになった。これは、木田元中央大学名誉教授の受け売りだが、哲学と宗教の合体だった。

4.理性の誕生
 デカルトは懐疑主義者だった。全ての存在を疑い始める。最後に行き着く先は、疑っている我の存在はどうやっても疑うことができない。これは、有名な「我思う故に我あり」ということばで端的に言い表されている。一方、キリスト教の世界創造論では、世界は神によって創造されているので、世界は神性理性が支配しており、神は人間に理性を与えたと言う。それは不十分なものかも知れないが、それをうまく活用すれば、世界を成り立たせている理性法則を認識することができる。人間理性の誕生だ。これにより、近代科学が急激に発達する。人間に備わる理性を使えば、神が創造した世界の法則を認識することができるという訳だ。まだ、このときまでは、神性理性と人間理性が共存していた。まだ、神は死んでいない。

5.絶対精神の誕生
 カントは、人間の認識が対象に依存しているのではなく、対象が人間の認識に依存していると、反転して考え直すことにより、人間理性は自然界を妥当性を持って認識することができると主張した。つまり、人間理性は 自然界の創造者になれると言い出し、もはや神性理性の後ろ盾がなくても、自然界に何が存在し、何が存在しないかを決定できると主張した。人間理性はついに超自然的原理まで到着したのだ。カントは神の殺人者といえるかもしれない。

ヘーゲルは、カントの発想をさらに推し進め、精神は自分も世界によって働きかけられ、その対話を通じて生成していくとダイナミックに発想する。精神が世界を次々に自分の分身に変え、絶対の自由を獲得したとき、絶対精神として現れる。歴史さえ精神との対話によって自由に変えられると考えるようになる。これが、マルクスやエンゲルスに継承され、社会主義思想として発展していくのだ。しかし、20世紀の歴史を見る限り、社会主義の歴史的実験は見事に失敗する。絶対精神は人間が神の位置を獲得したようなもので、自然に発想すればそんなことはあり得ないのだが。しかし、西洋哲学のスタートは、超自然的な発想をしてきたが故に、不自然な結論に到るのはその運命だったとも言える。

絶対精神は社会及び自然に君臨する。物質的、機械論的自然観は技術文明を加速化させる。西洋文明の絶頂期である産業革命はこうやって生まれるが、その達成感はニヒリズムとなって現れた。人間の理性は世界を支配したのだからこれがゴールだ。しかし満たされない。なぜ文明がニヒリズムに陥ったのか。それを考えたのがニーチェだった。彼の言葉である「神は死んだ」の神とは「超自然的価値観」のことだ。虚無的心理状況からの脱却方法を彼は考え抜いた。答えは簡単だ。原因は、そもそも存在していない超自然的原理を信じていたからなのだと結論付けた。そして、より強くより大きくなる特性を持つ「生命」の特徴に着目し、認識と真理を「生の領域」に戻すこと、つまり、芸術と美という価値を謳いあげる。

ニーチェの考えを受け継いだ、ハイデガーは、存在者の全体を生きて生成するものとみる生きた自然観の概念を復活させることにより、西洋文明の転換を図った。「つくられてあるもの」という西洋文明の始源から、「なりてある」という自然的な自然観に戻ってきたのだ。なんのことはない。日本人が本来感じていた自然観と同じに過ぎない。超自然的原理を設定してプラトンから始まった西洋哲学は、アウグスティヌスでキリスト教と合体し、カントで超自然的原理=神と分かれて人間が主人となり、ヘーゲルの絶対精神(つまり、人間が存在の主人公)で絶頂に達した後、一転してニヒリズムに陥り、ニーチェ、ハイデガーで生命観を吹き込んで再生を試みている。現代ヨーロッパ人の環境重視の姿勢は、このような思索の到達点である。

6.現代
 西洋哲学は日本人には理解しがたいものだ。理由は簡単だ。そもそも不自然な考え方であるからだ。分からないのはこちらの頭が悪いのではなく、そもそも不自然で人間的でない発想であるからだ。難しくても学習する価値はない。明治維新以降、日本は西洋から学問を輸入してきた。学者は横文字を縦文字に変換してきた。知識人とはそれを理解できる人であるとされてきたが、国民は心の底では「俺には分からないし、役にも立たない」と、西洋文化を冷静に、かつ相対的に捉えてきたのではなかろうか。学者の言説は現実的でないという言葉に、異質な文化への沈黙の抵抗があったとも言える。日本で博士が他国と比べて余り尊敬されていない理由はここにあるのかも知れない。

西洋哲学は21世紀には不適切で不用な学問だ。西洋文明からの決別は前世紀から始まっている。これを変革し、21世紀の人類の危機を克服するには、人類を納得させうる考え方が必要だ。それは自然との協調や共存の特徴を有することは言うまでもない。

西洋文明は自然を無機質なものとして、不当に低い位置に貶め、それから富を収奪し、それへの影響を無視した結果が現状を招いている。自然を極度に利用し、その生命性を否定してきた物質文明が問われているのはまさにここに問題があるからである。そもそも自己と身体と自然を切り離してはいけなかったのである。頭脳だけでなく、心臓でも、身体でも、ものごとや宇宙を感じたり考えたりすることができるのである。文明を正常な姿に戻すことが必要である。

日本そしてアジアこそ、その次代の任務を担うに違いない。

Mr.Crowley 

2015年9月 8日 (火)

「和」の精神(2)~自然と同化する~

続き(2)です。

「和」の精神は、日本の厳しき自然外圧が生み出したということに共感します。確かに、日本は自然を対象化せずに生きていくことが出来ないぐらい厳しい環境下であるともいえます。その結果、自然を同化対象として捉えてきたことが、西洋と全く異なることに気が付きます。

ほそかわ・かずひこの<オピニオン・サイト>
リンク■日本の自然の中で「和」の精神は発達した

以下引用です。

■日本の自然の中で「和」の精神は発達した

 「和」の精神は、日本列島に移住した人々を融合させ、日本民族を形成した原動力でした。この世界にもユニークな精神は、日本の自然の中で発達したものと言えるでしょう。

 日本の気候は、温暖・湿潤なモンスーン型です。日本列島は四季の変化に富み、雨量が多く、照葉樹林を中心とする森林に覆われています。海・山の食糧が豊かで、猛獣が少なく、大変生活しやすい自然環境です。こうした風土が長年のうちに人々に影響し、「和」を好む性格が形成されたと考えられます。

 この性格は、人間だけではなく、日本の動物にも見られる特徴です。例えば、日本蜜蜂の群れの中に西欧蜜蜂の一群を放すと、日本蜜蜂は平気で西欧蜜蜂と一緒に同じ蜜を集めて、共存共栄します。しかし、西欧蜜蜂の一群の中に日本蜜蜂の一群を入れると、西欧蜜蜂は襲いかかって日本蜜蜂を全滅させてしまいます。日本の風土は温暖・湿潤で花が多く、蜜を集める対象が豊かです。したがって、蜜蜂は新来者とも共存共栄ができます。ヨーロッパの場合は花が少ないので、共存していたら、蜜が足りなくなって冬が越せなくなってしまいます。同時に、熊蜂など天敵がひじょうに多いので、用心が要り、攻撃的です。日本では天敵が少なく、受容的です。こうした風土の違いが、日本の蜜蜂の性格を温和にしているのでしょう。

 日本文化に深い理解を示したアンドレ・マルローは、「日本以外の美術は必ず何らかの形で闘争が表れているが、日本美術だけは闘争を表していない」と指摘しています。マルローの研究家・竹本忠雄氏は、この違いを「大陸的~コンチネンタル」と「非大陸的~ノンコンチネンタル」の違いと表現しています。竹本氏は「日本だけがノンコンチネンタルなのです。コンチネンタルなものの考え方の特徴は、ものを対立的にとらえることです。それは西洋に限らず日本以外の国はほとんどそうである。一方、日本人は対立よりは和合をという国民性なのです」と言っています。(1)

 「非大陸的~ノンコンチネンタル」とは、海洋的ということです。日本民族の性格への自然の影響では、海洋の存在が見逃せません。日本は、四方を海に囲まれた島国であり、太平洋、日本海、東シナ海などに全体を包まれています。このことが、日本列島のユーラシア大陸とは異なる自然環境となっています。陸地が固定的であるのに対し、海は、常に躍動して変化に富んでいます。船に乗るとわかるように、海では波が休むことなく上下動し、潮流が刻々と変化して流動しています。また、海は生命発生の場所であり、海には生命のエネルギーがみなぎっているのです。特に日本列島付近では、暖流と寒流がぶつかりあい、豊かな漁場が生み出されています。ユーラシア大陸から日本列島に移住してきた諸民族は、こうした海洋の影響を受け、大陸型の性格から、海洋型の明るく、陽気で、平和的な性格に変化していったと考えられます。

 このように、日本の自然は人間の性格に影響を与え、独自の民族性を育んできました。日本精神の特徴は、「和」の精神と言われるように、共存共栄・大調和の精神です。この精神は、今日の地球で求められているものです。地球は、人類にとってかけがえのない星であり、地球という限られた環境で様々な人種・民族・国民が、一緒に暮らしていくためには、戦争や対立ではなく、共存共栄していかなければなりません。私たち日本人は、世界にもユニークな精神的特徴を発揮し、世界の平和と発展に貢献したいものです。

以上、引用終わり。(3)に続く。

復讐の叫び 

2015年9月 6日 (日)

日本人の可能性 共同性の差がもたらす東洋・西洋の観念体系の違い

西洋人/東洋人(その中でも日本人)の民族性の違いは、人間の本性である共同性がどれくらい残っているかによって規定されています。(『人類の本性は共同性にある』128695 128696
東洋であれ西洋であれ、始原人類はこの共同性を育みながら、共認充足を最大の活力源として何とか生き残ってきた存在です。

約5000年前にイラン高原で勃発した人類最初の略奪戦争は、玉突き的に東西に伝播していきますが、皆殺しが常態となっていった西洋に比して、東洋は支配・服属という形が主流となります。特に、日本列島では、大規模な略奪戦争は発生せず、中国大陸の負け組みが渡来人として定着していきました。
この大規模な略奪戦争の有無によって、西洋人、東洋人、日本人、それぞれの共同性に大きな差が生まれ、民族性の違いを生んでいます。つまり、皆殺しにまで発展した戦争を経験した西洋人は周囲に対する警戒心が高まり共同性が失われ、そのような戦争を経験していない日本人は警戒心がそれほど高まることなく共同性が保持されています。

この「共同性」が影響を与えるのは、何も人間関係だけではありません。共同性の根本にある自分と相手を同一視する機能は、観念機能のあり方にも大きな影響を与えます。(対象物である自然との同一視を通じて作り上げられた日本の観念体系と、自然を警戒すべきもの→征服すべきものとして捉えて作り上げられた西洋の観念体系)

この観念のあり方の違いが、その後の文化・芸術の発展過程をも分けていきます。日本では、できるだけ主観や自身の感情を排して対象をありのままに描写する方向で文化・芸術が発展していきますが、西洋では自身の感情を(大げさに)描写する方向で発展していきます。(日本の浮世絵⇔西洋の宗教画/日本の俳句⇔西洋の叙情詩)

1970年前後、ヨーロッパ(特にフランス)において、西洋の(主観的な)言葉・観念のあり方が大きく見直される中、最終的に注目されたのは「俳句」でした。俳句では自然への描写を重んじるだけでなく、先人たちが築き上げた「型」に当てはめることによって、言葉の使い方にまで人間の主観的な要素が入り込まないようにしている様式です。(そして、今ではフランスの中学・高校で「俳句」が教えられています)

自然への同一視、共同性が残っていたため、ここまで人間の主観を排除し続ける観念体系を築きあげることができたのでしょう。このような観念機能のあり方(頭の使い方)によって、現実を直視し続け、その本質をつかみ出すことができると考えています。

内藤琢
 

2015年9月 4日 (金)

『凡才の集団は孤高の天才に勝る』~素人の創造力

『凡才の集団は孤高の天才に勝る--「グループ・ジーニアス」が生み出すものすごいアイデア』
キース・ソーヤー著
金子 宣子(翻訳)
リンク 

田中優子氏の書評
毎日新聞 2009年3月22日 東京朝刊
リンク より転載。
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◇日本の伝統とも共通する創造力の秘密

 ビジネス書の書棚には近づかない方なのだが、この本の題名を見て思わず手にとった。それは私が、江戸時代の都市部で展開していた「連(れん)」というものに関心を持ち続けてきたからである。連は少人数の創造グループだ。江戸時代では浮世絵も解剖学書も落語も、このような組織から生まれた。個人の名前に帰されている様々なものも、「連」「会」「社」「座」「組」「講」「寄合」の中で練られたのである。

 私はこの創造性の秘密は、日本人固有のことではなく、人間の普遍的なありようではないのかと、常々考えていた。江戸時代では、個人が自分の業績を声高に主張しなかったので、連による創造過程があからさまに見えるのではないだろうか。コーディネイターとして人と人をつなげながら自分の能力を発揮した人こそが、日本の文化史には残っている。

 さて本書は原題を「グループ・ジーニアス」という。著者は経営コンサルタントを長く経験し、企業にイノベーション(革新)の助言をすることを仕事にしてきた。同時に心理学博士で、そしてジャズピアニストだ。この組み合わせには納得。江戸の連はジャズのコラボレーションに酷似している、と私も考えてきたからだ。そういう著者であるから、本書には即興演劇集団がどのようなプロセスで芝居を作ってゆくのか、ジャズセッションはどういう過程をたどるのか、著者自身の詳細な記録に基づいて述べられている。それと全く同次元で、ポスト・イット(付せん)がどう生まれたか、ATMやモールス信号がどのように発明されたかを書いているのが面白い。そこから見えるのは、個人の発明だと思っていたものが、実は様々な人々からの情報提供と深い意見交換を契機にしているという事実である。また個人のレベルでは十中八九失敗であるものも、最終的には画期的な発明がなされている。失敗が新しい時代につながる理由こそ、コラボレーションの力なのだ。

 江戸の連には強力なリーダーがいない。町長や村長など「長」のつく組織は明治以降のものであって、町や村もピラミッド型組織にはなっていなかった。それは短所だと言われてきた。戦争をするには、なるほど短所であろう。しかし新しいアイデアや革新を起こすには、社員全員で即興的に対応する組織の方が、はるかに大きな業績を上げている。本書はブラジルのセムコ社やアメリカのゴア社の事例を挙げ、現場のことは現場で即時対応することや、規模を小さくとどめるために分割することに注目している。それが伝統的な日本の創造過程とあまりにも似ていることに驚く。

 本書で提唱しているのはコラボレーション・ウェブ(蜘蛛(くも)の巣状の網の目)である。その基本の一つが会話だ。事例として日本の大学生の会話も収録されている。そこに見える間接的な言い回しが、可能性を引き出し創造性につながるものとされている。日本語(人)の曖昧(あいまい)さと言われるものが、実はコラボレーションの大事な要因なのだ。相手の話をじっと聞き、それを自分の考えと連ねることによって、新たな地平に導く可能性があるからだ。これは相手まかせではできない。能動的な姿勢をもっていてこそできることである。人を受け容(い)れるとは能動的な行為なのだ。

 江戸時代までの日本人は、集団的なのではなく連的であった。本書もピラミッド型集団とコラボレーションとの違いを明確に区別している。こういう本を読んで、日本のコラボレーションの伝統と力量に、今こそ注目すべきだ。
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(引用以上)

6590 素人の社会活動19 素人と創造
●本当の創造は、素人が担ってきた(言葉を作ったのも、火を使ったのも、弓矢や舟を作ったのも、栽培や飼育を始めたのも、銅や鉄を精錬したのも、また壁画を描いたり、工芸品を作ってきたのも素人である)。真に偉大な思想(統合観念)を創ったのも素人であって、専門の神官や学者が、真に新しい価値を作り出した例は極めて少ない。実現論も又、素人が創ったものである。

7453 素人の社会活動34 創造(=探求)のパラダイム転換
●現実の課題があって、はじめて探求(創造)が始まる。そしてそこに先駆者や先覚者がいたとしても、その探求過程は、一貫して共認過程であり、皆との期待と応望の交信(やりとり)の中から全ては生み出される。

7673 素人の社会活動35 素人こそ創造者(論点の整理)
●実現の時代、現実を対象化する為には、現実の真っ只中に居なければならない。現実の真っ只中に居る者、それこそが素人であり、従って、素人こそ真の創造者である。
潜在思念こそ探求(創造)の生命であり、潜在思念(⇒とその行動)の共認こそ共認の生命である。
●従って(直ちに行動できない現在)、素人の探求過程での潜在思念(⇒とその表出)のやりとりこそ、創造の漁場(狩場)であり、その場こそがるいネット(の会議室)である。

岩井裕介 

2015年9月 2日 (水)

おしゃべり(会話)は、思考そのもの

一人でウンウン唸って考えるよりも、誰かとおしゃべりした方が、案外答え(気づき)が出る。

そういう感覚、よくありますよね?

投稿前によくおしゃべりするって方に聞くと、「会話すると案が出て、軸が決まってくる(潜在思念が動き出して、統合律を発見できる)」んだそうです。

これってどういうことなんでしょう?

教えてもらいました(*^ー^*)!

これは観念回路の性質(=タコツボ構造)に起因しているんだそうです。

>観念回路は本来がタコツボ構造で、よほど観念操作に習熟したプロでもない限り、観念回路相互の結びつきは弱く狭い。だから文字面だけの投稿は面白くなく(むしろ苦痛で)、共認されないのである。7452

>観念回路そのものには統合力(従って創造力)は、ないらしいと考えられる。だとすれば、観念以前の回路、つまり本能回路・共認回路・(自我回路)が、意識の統合の(従って創造の)カギを握っているという事になる。6983

一人でウンウン唸っていると、観念思考(→文字面だけの投稿)に陥りがち。だれかと会話(おしゃべり)することで観念思考から脱却でき、潜在思念(本能・共認回路)が作動し、統合力(創造力)を発揮することができる、ということなんです!!

確かに。周りの仕事が出来る方々って、よく喋ってます(^▽^)♪

匿名希望 

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