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2015年3月

2015年3月30日 (月)

統合する気がない統合階級

>私なりに解釈すれば、専門分化そのものの善し悪しの問題ではなく、「分化」(あるいはタコツボ化)ばかりが進み、「統合」がまったくなされていない、ということではないでしょうか。<

その通りだと思います。
しかし、

>社会に関する諸学は、極めて広大な領域を覆っているので、細分化はまぬがれないという部分があると思います。しかし、分野ごとにタコツボ的になっている状況ゆえに、非常に稚拙で、ずさんな時代遅れの議論が相変わらず権威の衣をまとったまま流通するということが起こっています。このことは、専門分化とはまた別の問題です。<

タコツボ化→稚拙な議論→統合できない

では無いと思います。

私は、統合する気がないからタコツボ化するのではないか?と思います。

物づくりや商品開発など、統合する必要のあるものは統合されています。
例えば、自動車の製作に関わる技術は、非常に細分化されています。
しかし、製品として我々に届く時には、ちゃんと快適に走る自動車として、その様々な技術は立派に統合されています。逆に言えば、役に立つものは、たとえ不完全でもあっても、何らかの形で統合されていなければならないのではないでしょうか?

専門分化(細分化)とは、統合されることを前提にしているのが普通なのだと思います。

しかし、社会に対する「傍観者」である統合階級は、その職能を端から放棄した存在なのだと思います。

>今、大学のみならず、在野の研究者・評論家も含めて、いわゆるグランド・セオリーの研究者と言われる人間はほとんどいないという状態です。<

グランドセオリーなどの統合に取り組む者がいないという状況は、研究者・評論家と言われる人たちは、最初から社会の役に立つ気など無いことを証明しているのではないかと思います。

社会の役に立つ為に研究している(税金で研究している)とか、社会の事象をお金を取って実しやかに語るのであれば、研究領域が広範であるとか、専門の研究に取り組んでいるため社会に疎いなどの言い訳を許してはいけないのだと思います。

鈴木龍也

2015年3月28日 (土)

「方法序説」と「るいネット」の違い

>自然科学さえ、倒錯観念の支配から完全には脱却できず(exデカルトの「方法序説」)、未分明な根本ドグマに基づいて命題や定理が作られ、現実そのものからかけ離れた条件下での実験が行われてきた。従って、科学法則の多くは、現実そのものを対象化した事実認識とは(厳密には)云えない。(7246

 デカルトは『方法序説』において、「一人の常識ある人間が自分の目の前の事柄に単純に下す推論は多くの異なった人々によって形成された学問より優れている。賛成者が多いということは、発見しがたい真理に対しては何の価値もない証明である。」と結論付け、精神を導くものとして4つの準則を定めました。

1.私が明証的に真理であると認めるものでなければ、いかなる事柄でもこれを真なりとして認めないこと
2.検討しようとする難問をよりよく理解するために、多数の小部分に分割すること
3.もっとも単純なものからもっとも複雑なものの認識へと至り、先後のない事物の間に秩序を仮定すること
4.最後に完全な列挙と、広汎な再検討をすること(リンク

 これは、るいネットにおける事実の追求過程とは全く逆のアプローチです。

【大転換期の予感と事実の追求】
>例えどんな仮説であっても、皆の知っている限りの知識に照らし合わせて論理整合していれば、私はその仮説をいったん事実として認めます。もちろん、いったん認めた事実に反する現象事実が出てくれば、皆さんと共に速やかにその現象事実を組み込んで論理=構造事実を組み替えてゆきます。この様にして、(自由・個人・人権etcの固定観念を捨てて自在に思考することさえできれば、)事実の認識体系は無限に進化してゆくことができる筈だと考えています。(967
 
 まず、自分が真理であると認めたものからのスタートというのは、支配観念から脱却出来ていない証なのではないでしょうか。そこからいかに追求しようとも事実にたどり着かず、皆の評価の羅針盤も無しには進化することも無い理論になってしまいます。

唐龍

2015年3月26日 (木)

『真似をする』の真髄は、普遍性への同化

『わからないままに真似ること』

>実際に、身の回りの人たちを見ても、マネルことのできない人ほど、構造認識(理論)を構築できないどころかほとんど何にも語れない人が多いように思う。そしてそのような人ほど「自分の納得」に拘り続け、「自分の言葉」で焼き直さないと語れない、いわば自己決定主義の人が多い。だから、自己決定主義の人ほど実は頭を使わないので認識がなかなか進化しないということになる。「わからないままに真似る」という認識転換が必要だろう。(75159

真似ることに抵抗感を感じる人は、その真髄がわかっていないからだろう。例えば、デザインの仕事で、いい成果をあげるためには、まず手本となるデザインを真似るところからはじまる。

ところが、真似の仕方にも追求度の差が出てくる。あまり追求出来ない人は、ただの『パクリ』になって、参考にした、デザインのよさが何にも反映できない。

まして、真似をしないで、自分の頭の中だけで考えた作品は、ほとんど評価されない。一見、オリジナリティーという言葉と正反対に感じるかもしれないが、優れた作品を残している人は、ほぼこの様な過程を経ている。

その理由は、成果度の高いデザインをする人は、参考にしたデザインの普遍的な構造に同化し、その普遍的構造を組み込み、自らのデザインを創っていく。

そして、同化した普遍的な構造とは、歴史の中で淘汰を潜り抜けてきた『様式』だったり、もとの作家が、その作品の深層に描いていた、『自然の美しい構造』であったりする。

要するに、真似るということの真髄は、とことん対象に肉薄し、対象の背後にある普遍構造に同化することなのだ。ここでは、質の高さや、オリジナリティーが、ただ人と違うだけのものとは異なることを、理解することが重要だ。

だから、評価に値する=質の高いとは、普遍構造をどれだけ反映しているか?にかかっている。これは、より多くの要素を組み込んで統合されたものと言い換えることも出来る。

このレベルまでくると、導入部は真似でも、成果は創造性のあるものと評価される。これは、真似に対する否定視を脱してはじめて可能になる。そして真似ることは、本気で何かを実現しようと思えば簡単に出来てしまう。

そうすると、真似ることに対する否定視の原因は、実現の意思が弱く、自分にこだわり続けているから、ということになる。ここから脱出することが出来れば、高い充足が待っている。

本田真吾

2015年3月24日 (火)

実現の意志を

>転換できてないと感じている男の人には、「柔軟性」より「実現の意志」を持って欲しいな☆と思いました。

ですね! 
答えを出せる人と、出せない人の分かれ目って、この「実現の意志」にあるんじゃないでしょうか。

実現しようという意志があればこそ、周りを見渡して、より現実を明確に捉え、新たな答え(仮説)を提示できるんだと思います。

逆に実現の意志がない(or弱い)と、傍観者になったり、周りを見渡さずに自分の中(今までの経験等)だけを探してしまい、いつまでたっても現実を捉えることができなくなります。
それこそ、周りからは自己防衛に走っているかのごとく見えることも(実際は防衛にもなってないけれど・・・)。

実現の意志を持ち続けることによってしか、現実を突破していく(答えを出していく)ことは出来ないのだと思います。

ベジ紀

2015年3月22日 (日)

要求し与えられるだけの運動から、自ら参加し創り出していく運動へ

>そして’70年、貧困の消滅をもって、先進国の社会運動は終焉した。

かつての社会運動は、大きく捉えれば、貧困からの脱出、言い換えれば豊かさに対する渇望からくる要求運動だった。
貧困の消滅と共に、社会運動が衰退したのはその証左であろう。

確かに現在においても、社会運動は行なわれてはいるが、運動の内容こそ違え、その実は、要求運動であるという枠組みは変ってはいない。

現代の多くの社会運動が、要求運動だとすると、その「要求」し「与えられる」だけという、「待ち」の姿勢にこそ問題があるように思えてならない。

現代は、共認の時代である。そこでは、自らが必要とするものが、本当に社会にとって必要なものであるならば、みんなと共に創り出すことが可能になった社会である。

そこでは、本当に必要とされるものに対する答え(認識)を、共認形成の場で、自らが、みんなと共に紡ぎ出し、創り出していくことである。

その場では、単なる要求は、相手にされず、一掃されていくだけである。

共認社会である現在において、多くの社会運動が盛り上がらず、ほとんど相手にされていないは、至極、当然な状態なのだ。

匿名希望

2015年3月20日 (金)

「思考次元2 否定意識の倒錯思考」を図解化してみて。

「思考次元2 否定意識の倒錯思考 (19060)」を図解化しました。

この投稿は、以前にも何度も読みました。
初めて読んだときは、あまりにも自分に当てはまり、衝撃を受けた投稿です。現実を否定していてはだめなんだと、深く反省しました。

図解化してみると、現実否定から始まる倒錯思考の中では、どう構造認識に向かおうと、可能性がないことに改めて気付きました。
以前は、「現実を否定しないでおこう」くらいにしか思わなかったのですが、今回は、「じゃあ、このループにはまらないにはどうすれば?」という気持ちが生まれてきました。

みんなに評価されている投稿を図解化して、投稿者にもっと同化することで、自分の意識も可能性探索に向かえたのだと思います。

匿名希望

2015年3月18日 (水)

『発信できる』人になるためのヒント☆ ~投稿集~

「何を質問したらいいのか、分からないんです・・・」
「どうしたら、発信できるようになりますか?」

最近、後輩達から相談を受けた。そこで、発信力を高めるためのヒントを集めてみた。

★何を発信すればいいの?!
 172638 キッチリと言葉にできなくても、とにかく発信してみる
  74467 『なるほど!』と思ったことを、そのまま伝えればいい。
 107241 「みんなの気付き」なら、星☆の数ほどある!

★何のために発信するの?!
  94274 誰にでも出来て、役に立つ事
 162005 皆への発信なくして仕事(追求)しているとはいえない
 172693 質問上手なのは周りの充足を考えているから

★発信力を高めるには?!
 169280 発信力を高めるには発信してメモ(紙、携帯、頭、パソコンのメモ帳)の空き容量を増やす!
 159817 すっきりと質問できる先輩に聞きました☆~2つの判断軸~
 172436 最も発信したくないことを選んででも発信せよ!


「発信したい(質問したい)」という気持ちさえあれば、

>あとは発信訓練あるのみ!なのです♪(170333

まずは発信してみよう!!

矢ケ崎裕

2015年3月16日 (月)

内部意識を探索して得られるものは・・・

最近ミスについての自己総括をした。

まずは自分の頭だけで自己総括の文章を作ってみた。

出来た文章は、自分のしたことに対しての言い訳や、自分が悪かったということばかり。

周りにどういう影響を与えたのか、周りは何を期待してくれているのかなど一切考えられていない文章になった。

そして、恐ろしい事に、自分では出来た文章のどこがおかしいのかが全く分からない。

周りの人に言われて初めて、しかも何となく感じるくらい。

内部意識を探索しても得られるものは何もない。

それどころか、更に周りの活力を奪っていく事になる。

答えは自分の中にはない、みんなの中にあるということを強く実感した。

匿名希望

2015年3月14日 (土)

観念機能ってスゴイ★人間の進化ってスゴイ★

>本能生物の世界では環境(=外圧)が変わる時、その新たな環境に適応すべく生み出された最先端機能の下に旧機能が収束して、全体が再統合される。(35729

本能レベルで適応するってことは、もはやその生物ではなくなる程の変化のこと。
(極端に言えば、人間が本能レベルで適応したときは、もはや「人」の形は成していないってこと。)

それはとてつもなく長い時間をかけて、何世代もの塗り重ねで変化させていくこと。

・・・・・・・うう~ん。とても大変・・・・(´ヘ`;)。

しかし、人類は観念機能という最先端機能のもとで適応することができる!!

これって、スゴイ!!
だって、「観念は塗り替えたら終い」なんだから!!(79008

姿・形も変えず、ただ1個体で(何世代も掛けずに)、適応(=進化)できるんだもの・・・・★スゴイ★

西田美和

2015年3月12日 (木)

規範は成功体験の積み重ね

「規範」は、学校や会社、日常生活を送る上でたくさん存在するが、みんなが共通して「守らなければいけないもの」、ルールだというふうに考えていました。
たぶん多くの人が、「規範なんて息苦しいだけだ」「規範がない方がいいのに」と考えているのではないか。

そもそも「規範とは何か?」について話をする機会があった。

そのときに「規範とは成功体験の積み重ねだ」ということを教わって非常にすっきりした。

例えば、営業の仕事などでは、「トークマニュアル」が作成される。これは、みんながこうしたらうまくいった、という経験を集約して作成されたものだ。だから、その内容に書かれている意味を深く理解してトークすれば、必ず相手に喜んでもらえるというもの。

課題があってそれを突破するために試行錯誤し、そしてみんなが成功した事例をまとめる。みんなで共認すればそれは「規範」で、当然もっといい方法が見つかったり、課題の内容が変われば「規範」も当然変わっていく。

全然堅苦しいものではなくて、
「規範」とは、先人たちが積み重ねてきた充足そのものだ!と気づいたのです。

「こうしてはいけない、こうしなければならない」という否定的な縛りは、規範ではない。
「こうしたらうまくいく、うまくいった」積み重ねが、つまり「充足」の塗り重ねが「規範」なのですね。

橋本宏

2015年3月10日 (火)

二択はトリック

>専門分化そのものの善し悪しの問題ではなく、「分化」(あるいはタコツボ化)ばかりが進み、「統合」がまったくなされていない、ということではないでしょうか。(32827

人は、事の良し悪し等の二択を求められると、どちらかを選択する。
(試験でもそうですが選択肢が少ない方が、悩んでしまう事が多い)
2者択一は、多くの場合、僅差で片方を選び、選択しなかったほうの少なくない部分を諦める事になるからなのではないでしょうか?

実際、実現課題に取り組んでいる中で判断を求められる場面では、二択となるケースは稀である。
求められるのは「統合」方針である。
進路もしかり、ビジネスにおける方針もしかりである。
例えば、今回の選択で将来的にどのような可能性が開けるのか?今回の選択の後、どうして言ったらよいのか?それは出来るのか?
進路も、ビジネスもここが悩みどころなのである。

ところが、昨今、「わかりやすい選挙」「わかり易い政治」等として、二択を求める政治家や、二択に置き換えるマスコミ報道がやたらと多い。
先の、「郵政民営化是か非か?国民に問う!!」などとしたばかげた選挙が代表的。
「○○○是か非か?!」等と打ち出す朝までテレビ等と言う討論番組も同根である。しかもこれなどは結局答えは出ないからあきれるが・・・・
どちらも、結論を誘導する為のトリックである事は疑いようも無い。
騙されてはいけない。

社会不全の高まる中で、
本当は「統合」(≒答え)を求めている、「統合」が必要という認識を再認識する必要がある。

斎藤一浩

2015年3月 8日 (日)

当初仮説の発案を行うのは、指導者である必要はない

多くの指導者たちが疲れている。

リーダ論を説いたビジネス書が多数出版され、実際に売れているのは、そんな時代状況を反映しているからでしょう。

>『指導者の名に恥じぬように○○し無ければならない』などの、序列原理上の古い規範で、現実を変えようとしてしまう。この場合、指導者という言葉を自体、序列上の身分のように固定的に捉えている。<(172814

良い仕事をする上で、当初の仮説=突破方針=『架空の収束先』の提示が不可欠なのは、いつの時代も一緒です。

しかし、「指導者の名に恥じぬように課題を突破するための当初仮説=『架空の収束先』を立案せねばならない」という古い時代の役割規範意識が、「当初仮説=架空観念」への執着(固定観念化)を生み、序列原理に依拠したそのような意識(ex.独りよがりの「責任感」)が現在の共認社会の現実(周りの意識)との間でズレを生み、多くの指導者に疲れを生じさせている。

おそらく今の時代は、当初仮説の発案を行うのは指導者である必要はない。

むしろチームメンバなりから出てきたその仮説を、課題として一旦固定化し、自らその課題(外圧)に真正面から向っていくことでチームをリードしていく(チームが自ずと収束・統合されていく)。それが指導者に求められている。

であるがゆえに、序列(権威)の後ろ盾もなく、今まで以上に現実と向かい合うことが求められている現代のリーダの闘う姿とは、まさに「死闘」のイメージに近いのだと思います(己の過去の成功体験が従来ほど役に立たなくなったからこそ、当初仮説立案の重要度が以前に比べて低下してきている、とも言えます)。

青龍

2015年3月 6日 (金)

内面探索を止めれば、目覚めもスッキリする?

>内面を対象化するのは、タブーである。今更、内面を都合良く探求した言葉など時代遅れであり、誰にも共認されない。(7675

朝、なかなか起き上がれない。目覚ましが鳴って一度目が覚めても、すぐに眠気が襲ってくる。

そのたびに「なぜこんなに眠いのか?」と自問自答していた。すぐに起き上がれない自分を責めたりもしていた。

実はこれこそが、内面探索の袋小路だったのではないか?

最近そう思い当たり、目が覚めない原因を探るのを止めた。代わりにやっているのは、期トレ(87972)のように、会社の仲間達の笑顔を思い浮かべることだ。

すると(起き上がるための)ジタバタが減り、眠気から解放されるまでの時間が短くなってきた。

しばらく続けてみたい。

匿名希望

2015年3月 4日 (水)

キッチリと言葉にできなくても、とにかく発信してみる

私は論理立てて喋るのが苦手なのですが、最近心掛けてるのは、「考えがまとまっていなくても、思い付いたら即発信する。」ということです。

何故ならうまくいえなくても、誰かがうまく発信し直してくれるからです。

 ぼそっと言ったことが、答えにつながるきっかけになることもある。

 だから、認識形成の場はだれでも参加できるのです。

清水誠

2015年3月 2日 (月)

柔軟性の獲得が先

>「応望存在ゆえに柔軟であり、柔軟ゆえに支配観念からの脱却も容易であり、(本源共認の)可能性が開かれて真っ先に順応する。」
だから「女が社会の流れを変える」のではないでしょうか(770

私を含めて中高年を中心に、場は既に転換しているにもかかわらず、未だに社会の流れを変える女を見ても、自分のフィールドから抜け出せなく、支配観念にとらわれ、変われないダメ男が多い。

どう抜け出すか?のひとつの答えがここにあるのに、以前この投稿を読んだときは、きちんと理解できていませんでした。


まず女の持つ柔軟性に同化して、本源共認を受け入れる。

そしてその段階を経て、まともに社会の流れの変化を理解できるのだと思います。

この方法の良いところは、安心感、充足感が得られること。その結果支配観念から脱却でき、更にそこから、今度ははっきりと同類圧力を活力源にすることが出来るのではないかと思います。

この活力が生まれれば、次に

>「女が可能性の流れを生み、男が可能性の実現を形にする。」

まともに、この役割分担を担うことが可能になり、社会変革に向かえる。

支配観念による、とらわれ方は世代によって違いますが、
既に支配観念にまったくとらわれていない世代も登場していると聞きました。

こうしていてはいられない、こうしなければと思う以前に、この柔軟性の獲得が先だと思いました。

山本豊

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