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2015年2月

2015年2月28日 (土)

認識闘争は、現実を認めることから始まる

統合不全に晒される日常において、「答え」に導いてくれる統合者が不在である現実は苦しい。

現実は「私一人」ではないから、ますます外圧に対する活力源も、圧力源もかみ合わず、収束する道筋が見えないままに混乱してしまう。

>人々の認識欠乏に応える認識競争の圧力こそ、まぎれもなく新たな同類闘争の圧力である。この認識闘争の圧力が最末端をも貫く圧力にまで成長すれば、それに応える『認識闘争の場』は人類の最先端機能となり、全てをその下に収束させた社会統合機能となる。
つまり、私権闘争・掠奪闘争を止揚した次代の人類の最先端機能とは、最先端の認識闘争=評価競争の場となる『認識形成の場』そのものに他ならない。(31767

「認識競争」「認識闘争」とは中高年にとって、益々高い壁を突きつけられているように逃避しがちであるが、
「自分」の認識では現実を突破しえない現実を認めることから始めることだ。心許ない現実、事実を明らかにした上で、課題突破に向けた最適解であつと共有された事実を一つの認識として積み上げていくことが、第一歩であると思った。

匿名希望

2015年2月26日 (木)

今の社会活動がおとなしいのはなんで?

>とにもかくにも世間の目を引く為には、「決起」するしかなかった時代のスタイルである。(9234)

街角で「決起」しているひと・集団を見かけなくなった。かつて、わたしがこどもの頃は、学生運動や労働争議(メーデー等)で、ねじりハチマキにこぶしをふりあげてシュプレヒコールを喚起する場面を目にした記憶がある(目前orテレビ画面にかかわらず)。

今の社会運動といえば、おとなしそうな学生や上品そうなリタイア組が集って語り合う環境運動や、キチンとした身なりの主婦が朝早くから駅前に立って、「家族」とか「平和」というキーワードを掲げて静かに冊子を配る新興宗教の布教活動が思い浮かぶくらい。

いずれも、熱気とか殺気とは無縁で、おとなしいことこの上ない。

昔は、学生も労働者も、生存圧力、飢えの圧力を下半身で捉えており、「失業すれば飢える≒死ぬ」という外圧にさらされていた。いわば、存在と一体となった不全を、社会運動によって拡げ、解決しようとしていた。問題を現実否定の旧観念でとらえていたので、答えは永遠に出なかったが、下半身直撃がひとを突き動かすエネルギーは、伝播した。

貧困が消滅し、生存圧力にさらされることのない現代の新しい不全、財政破綻にしろ、環境破壊にしろ、これらは観念で捉えるしかない。表面上は醒めた、落ち着いた活動になる。事実(観念)に立脚することで、漸く潜在思念とつながり、実体的で着実な運動=共認革命になっていく。

先に述べたおとなしい社会活動も観念発だ。しかし、少なくとも社会活動という以上、社会=ひとびとの意識と繋がっている必要がある。そうでなければ、単なるサークル、同好会。身内で集まることだけが目的とされる限り、何を語っても、何を配っても、説得力はなく、実現されるものはなにもない。

答えを出す気がない、社会を変える気がない活動は、意識が内向し、どんどんおとなしい活動になっていく。

阿部佳容子

2015年2月24日 (火)

感応回路と観念回路の認識位相の違い

自我私権やそれを正当化した規範観念や価値観念は肉体的に(=自我回路や共認回路で)感応するのに、危機・課題は観念によってしか(超肉体的=超感応回路的にしか)認識できない。この感応回路と観念回路の認識位相の違いが、パラダイム転換を超困難にしている直接の理由である。(18571

本能回路は、欠乏対象や危機対象を認識(発見)すると、即座に反応し行動に出る。これは、固定的だが本能回路の対象別に、ごく短時間に±判断をして行動に移せる(=行動スピードのアップ)ことにより適応可能性を高めているからだ。これも判断過程といえるが、人類のそれに比べれば、YESかNOかの自動的判断行動に近い。

次に、自我回路や共認回路に規範観念や価値観念が入ってきた場合は、感応する(心に響く)。これは、本能⇒共認回路の先端の観念回路で、価値観念や規範観念を捉えた場合、その価値観念等に合った内容は+、反対の内容は-と認識され、行動を価値観念等が逆規定していく構造だ。ここでは、外圧や状況認識と無関係に、価値観念等により行動が決まっていく。だから、外圧変化の大きい時代では、適応できなくなる。

ところで、人類にとって規範は、本能の代替物で、外圧や状況認識に適応的な内容であれば、いちいち熟考して時間を使うことなく、即座に行動に移せる判断基準という優れた側面を持っている。そのときの判断は、即時的で本能に近くすばやい。しかし、時代の変わり目(=外圧変化の時期)では、過去の規範は役に立たなくなる。

そうすると、現代のような時代変化の中では、古い規範に変わる新しい規範を創ることが必要になる。そのためには、正確な状況(危機)認識と、それに対する答えを出すことが大前提になる。それは、出来合いの観念や規範を使い、即時的(≒本能的)に判断するのではなく、本能⇒共認回路で感じた事実から、新しい構造観念を創りだしていくという思考過程になる。

この思考の位相には即時性は無く、多くの事実群から、もっとも充足可能性のある答えを探すという、価値判断を一旦保留にして思考するというプロセスをとる。これが、感応回路と観念回路の認識位相の差であり、即時的な判断を超えて、超感応回路的に認識するという本来の観念の使い方である。このような思考過程を経て出来上がったのが新理論である。

本田真吾

2015年2月22日 (日)

「頭の中の内在価値」を対象化すると、潜在思念の動きが封じられてしまう

>現在は、(本源価値の)実現の時代である。従って、大切なのは(原始以来、一貫してそうであった様に)現実そのものを対象化することである。即ち、頭の中の内在価値を対象化するのではなく、既に頭の中にある内在価値(潜在思念)をもって、頭の外の現実世界を対象化することである。(7453

同世代の中には、「頭の中の内在価値」を追求してorそこに縛られて、行きづまったり、深刻な悩みを抱え続ける者が少なくない。

古代や近代においては、“救い”や“生きる目標”にすらなりえた「内在価値」が、現代では“障害”にすらなるのは、なぜか?

潜在思念は「(本源価値の)実現」の可能性を、キャッチしているからだろう。

にもかかわらず「頭の中の内在価値」を対象化することによって、潜在思念の動き(実現のための探索)を止めてしまうから、行きづまったり悩んだりするのだろう。

矢ヶ崎裕

2015年2月20日 (金)

人類本来の「同化」思考が可能になった!

>同化という人類本来の思考法(171139)
>異化という近代科学の思考法(171141)

近代科学の恩恵によって成り立っている現代社会に身を置く者として、また近代科学を単純にすごいなーと思うところもあって、近代科学における「異化」という重大な欠陥を孕んだ思考法というのが、なんとなく掴めないでいました。

ですが、上記投稿と以下の内容

>これまで私権闘争やその私権圧力は、永い間人々の本源的な社会収束を封印してきた。とりわけ、その私権闘争(やその奥の私権欠乏や自我欠乏)を正当化した「お金だけ」「自分だけ」etcの私権観念は、もともと強く社会捨象を付帯させている。(24980)

を照らし合わせて読んでみて、わかってきました。


結局、私権闘争(やそれを正当化する私権観念)やそれに基づく私権圧力下においては、人々の本源的な社会収束は押さえ込まれ、そこでの思考、行動は必ず社会捨象を付帯させている。
そこでは、対象に全的に同化する(肉薄する)ことはできず、必ず自分に(私権獲得に)都合のいいもののみが取捨選択される。これが「異化」という思考の根本にあるんですね。


>そして’00年頃、私権統合の崩壊が決定的となり、閉塞感が強まって、遂に私権観念が瓦解した。(24981)

これにより、ようやく本源的な社会収束の可能性が開かれる。
つまり、「異化」思考からの脱却と、その社会収束を土台とした人類本来の「同化」思考が可能になるってことなんですね!

西村典綱

2015年2月18日 (水)

異化から同化への観念パラダイムの転換

「同化」と「異化」という概念が与えられて、観念パラダイムの逆転がより現実味を帯びてきた。

同化対象を現実世界(人や自然など)に求めれば、主体側の認識は事実認識となり、無限の追求課題になる。人類誕生以来の本来の認識方法である。

しかし、掠奪闘争以降の私権時代は、同化対象が現実対象に求められないので(人は警戒や序列比較の対象、ものは私権の対象)、架空の同化対象を措定せざるを得ず、主体側の認識は架空認識になった。これは現実を異化した(現実対象のない)主体(自我)だけに自閉した認識方法である。

ところが、‘90年以降、仲間収束や自然収束の本源収束が生起し、再び現実世界の同化対象が復活した。
この現実対象に対する異化から同化へのパラダイム転換が、現実否定から現実肯定の観念パラダイムへと逆転させていく。もはやパラダイム転換は止められない。

岡本誠

2015年2月16日 (月)

異化という近代科学の思考法

国家時代(市場時代の前)のキリスト教世界において、理性という言葉は神の意思とか本性をさした。道徳とは、神の意思を知り守ることというニュアンスがあった。この辺が、一般的な日本語の意味とは異なり、キリスト教の影響を受けた言葉であることを意識しなけば彼らが何を言わんとしているのか解からなくなることがある。

だから、国家時代のキリスト教世界では、一般大衆の倫理観は神の理性に従うことで、自分の内面だけから来る判断は、ほとんど封鎖されていた。ここで、ほんの一部の支配者だけが神の代理者になり、自分の内面の意思をもとに、好きなように判断・行動をすることが出来た。

それに対して、現在のように、すべての人間に理性があると考えるようになったのは、市場時代になってからである。このときすべての人間が、自分の内面だけから良し悪しを判断することの出来る理性をもつと考えるようになったのである。

このような、市場時代の黎明期に、デカルトは登場した。彼が提唱したのは『我思う、故に我あり』、神もみんなも無く、ただ自分の内面から全てを判断していくという、倒錯した思考法である。その後、この思考法が定着してきたとき、ニーチェは『神は死んだ』といった。換言すると『市場社会の人々がそれぞれ神になった』のである。

このように、近代科学の思考法=市場社会の思考法の根源に、デカルトの『方法序説』がある。正確には、『理性を正しく導き、もろもろの科学における真理を探究するための方法序説』である。ここで述べられている主題は、平たく言うと客観性の重視ということになるだろう。そのためには、主体と対象の分離がまず前提になる。

そして、客観性を重視するため、必ず主観を排除するという意識で物を観る。しかし対象を観察する自分は絶対的で排除されることはない。つまり、事実は主観を排除しているのではなく、絶対的主観(我)が、観察できる範囲の限定した対象を事実とし、それ以外は事実ではないと断定していく、という傲慢な思考なのだ。

だから、主観的には一生懸命考えていても、その背後に起きる現実とのズレを認識できず、問題は解決しない。なぜならば、全ての現実を受け入れ、問題解決に当たるという意識が最初から排除されているからだ。環境問題はまさにこの状態にある。問題の発端になる科学技術の(偏った)発達そのものが問題視されたことがないことがその証左だ。

それに対して、主体と対象の可能な限り一致させ、対象に肉薄していく思考法が同化である。事実をありのまま捉え、現実対象に限り無く近づくことで、現実課題を突破することが出来る。そのとき、(主観)客観思考のような、切り捨てて燻っている潜在問題はない。

あるのは、いくら追求しても、完全に同化することは出来ないという感覚だけだ。つまり、対象に超越性を感じるという、謙虚な思考法である。

このように考えると、(主観)客観思考は、対象に同化するのとは全く反対で、自分の内面だけから、観察対象を限定し、その世界が全てであると思い込む、異化思考と言えるかもしれない。これは、近代科学的思考法の重大な欠陥であると思う。

本田真吾

2015年2月14日 (土)

事実や潜在思念を固定化することと固定観念のちがい

潜在思念を言葉化することによって、その中味は鮮明になり「固定化」される。事実を捉えて言葉化すると、その内容は固定化され、「固定圧力」を持つようになる。

「固定」という語を含む言葉で「固定観念」というものもありますが、潜在思念や事実を捉えるかわりに架空の理想を捉えて観念化している。
その背後には否定意識が存在するので「○○であるべき、(でもそうなっていない)」→だからだめなんだ・・・に、つながっていく。

露店などで「男は闘争存在」や「女は充足存在」といったカードの言葉をみて、「いや~ちょっと・・・(逃)」という反応と、「そうだったんだ~^^」という2通りの反応があるのはどういう心の動きの違いなんだろうと思っていたのですが、固定観念として(否定意識で)捉えると自分はできていないとダメ観念に陥るのか、事実を言葉化したものだと捉えてみんながそういう存在構造を持っているんだと気づくのかで、全く見えてくる世界が違うものなのですね。

潜在思念を言葉化する・事実を言葉化して固定圧力を作っていくこと。
そのために「なんでそうなっているのか?」を構造的に捉えていく思考方法を伝えていくことって本当に重要だと改めて考えさせられました。

長谷川文

2015年2月12日 (木)

「抽象」ということばの変化

抽象(=捨象)とは、ある性質・共通性・本質に着目した要素を抜き出すと同時に他の側面を排除し把握する行為を言う。

自然科学では重要な概念で、人間のより高度な知的行為の表出として説明される。

物事を理解したり、分析する時に、変動する要素と普遍の要素に切り分ける作業が出来れば、仕事はあらかた済んだも同然だ。

しかも、抽象・捨象に成功したならば、抽象された事象を自在に組み替えたりして予測し工夫することができる。

これらは現実を直視することによってしか為し得ない人間の観念機能において特有な性質の一つであり、この機能無しには数さえ勘定することができない。

しかし、近代思想においては、抽象化の目的がむしろ、物事の本質を具体的・明確に言い表さないことで、その目的を覆い隠そうとしたりねじ曲げようとする心理作用、つまりは欺瞞へと変化する。

>「自然」や「社会」は、問題を直ちに解決で
>きない(むしろ、実現可能性がない)ので、問
>題世界を一括りにしただけの概念である。直
>ちに解決できないので、現実否定の倒錯思考
>という観念パラダイムに陥って終い、問題世
>界を一括りにしただけの「自然」「社会」「
>変革」etcの概念しか作れなかった訳だが、そ
>うである以上、それらの言葉(自然、社会、変
>革etc)は単なるお題目にすぎない。
21496 観念パラダイムの逆転7 新しい認識だけが、現実を変えてゆく】

抽象という行為が、物事の本質を選び取ることから、都合の良いものだけを選び取ることに、そして捨象が都合の悪いものを排除することに変化しているのである。

だから、「君の話は抽象的でよくわからない」、とか「この問題は捨象して放置しておこう」という表現や発想そのものが近代思想の産物なのである。

本来は広汎な現実世界を対象にし、その普遍原理を構造化するという実現回路の働きが、近代思想の欺瞞性によって真逆の行為に堕してしまった一例であろう。

この害は「役に立たない」という一点につきるのだが、近代思想の恐ろしいところは、現実の都合の悪いところを捨象した概念を操って普通の人の理解を妨げ、目的を見えなくさせることそれ自体を目的としているところにある。

だから、環境運動だの平和活動だの社会変革だの人間革命だのと先ず口にする人は、「その人間とは何を指しているのか」という問い一つにさえ答えられないはずである。

役に立たない=答えが出せない、これらの活動はもはや、単に暇つぶしの域を超え、人々の活力を削ぎ社会を閉塞させる原因の一つになっているのであれば、看過すべからざる問題であろう。

渡辺卓郎

2015年2月10日 (火)

思考パラダイムが一つの時代に一つしか成立しないのはなんで?~観念共認によって社会が統合される以上、必ず一つに収束する

>単なる思想なら一つの時代に何種類か存在し得るが、思考パラダイムは一つの時代に一つしか成立し得ない。しかも、旧パラダイムから新パラダイムへの移行は、不可逆的である。(21495)

なぜある時代に思考パラダイムは一つしか成立しないのか・・・についてみんなで議論した結果、その構造が見えてきた。


①外圧⇒潜在思念⇒思考パラダイム⇒観念→社会統合システム といった構造であるため

◆例えは、私権時代であれば・・・

生存圧力(とそれを背景とした私権圧力)
↓↓
(性闘争本能を下敷きとした)「自分以外は敵」の潜在思念
↓↓
(“下半身”や現実を否定した)「現実否定→倒錯思考」のパラダイム
↓↓
倒錯観念に基づく、一部の統合階級による私権統合システム

※ある外圧下にて生起する潜在思念や、それに基ずく思考パラダイムは、その時代においては万人共通となる。
だから、ある時代、ある外圧下で思考パラダイムは一つとなる。

◆貧困の消滅=生存圧力が衰弱した現代においては・・・

同類圧力(期待応合圧力)
↓↓
充足基調→本源収束」の潜在思念
↓↓
「現実肯定(直視)→実現思考」のパラダイム
↓↓
事実観念・構造観念に基づく、万人による共認統合システム(=統合サイト)

※但し、現在は、倒錯観念・欺瞞観念が邪魔することで潜在思念は半顕在化状態。
※また、絶えず外圧が変化し、決して元に戻らない以上、「旧パラダイムから新パラダイムへの移行は不可逆的」と言える。


②共認によって社会が統合される以上、ある時代においては必ず一つの観念共認に収束してゆく。(でないと統合されない)

これは、観念を紡ぎだし、共認形成することで集団や社会を統合する人類にとって必然的な構造。
もし、同一外圧下で思考パラダイムが複数存在するとすれば、その社会は統合されているとは言えない。(→滅亡する)
例えば現代社会こそが、まさに“統合されていない”(=収束不全)事例であり、必然的に外圧適応可能な新思考パラダイムの共認確立を目指して“観念闘争”が勃発するはず。

こうた

2015年2月 8日 (日)

芸術が再び力を取り戻す時代

>それどころか、このパラダイムは自ら変わることができないが
>故に、それが作り出した既成観念群が人々の上部意識(観念回路)
>を覆い尽くし、新しい時代を形成してゆく筈の下部意識=本源収
>束の出口を塞いで社会を全面閉塞状態に陥らせている。
21090 観念パラダイムの逆転5 現実、その下部意識と上部意識】

私権時代のパラダイムが生み出した既成観念群は、古代宗教から始まり、おびただしい数の欺瞞観念や感応観念を生み出してきた。人類の芸術とか文化と呼ばれるものの多くがそれである。

貧困という凄まじい生存圧力を止揚する私権共認の上部意識としての観念化された言葉の質や統合度は、それらを生み出す圧力そのものに規定される。だから、古代宗教はこの上なく精緻な観念世界を構築して多くの人の収束先となり得たし、極限時代の自然圧力を生き延びた人類が描き残した壁画や、過去の芸術遺産は今でも多くの人の胸を打つのである。

翻って、生存圧力が極限まで低下した現代社会では、文学も美術も音楽も建築もことごとく劣化し、弱々しい力しか持ち得ていない。何も新しいものを作れないので、芸術家達は先人達の仕事をただ並べ替えたり、誰も美しいと感じない奇怪な様式を前衛であると強弁したり、異常な性癖の持ち主だけに向けたメッセージを発信するしかないのである。

これが、下部意識=本源収束の出口が旧パラダイムによって創りだされた既成観念群によってふさがれている実態の一端であろう。

>常に次代へ向かう人々の先端意識は、すでに私権収束から本源収
>束へと転換した。従って、現実は、既に大勢として生存圧力の場
>から同類圧力の場へ転換したと云えるだろう。残存する自我・私
>権意識は、放っておいてもとことん衰弱してゆき、いずれは消滅
>する。
>従って、自我私権を否定することにこだわるよりも、その奥に
>ある新しい充足基調⇒本源収束という可能性の実現に、意識の焦
>点を当てた方が良い。

旧い私権意識の残滓でしかない既成観念群が、新しい認識に置き換わることによって、次代の芸術とか文化と呼ばれるものは(倒錯観念や欺瞞観念から解放されることで現在のそれとは全く異なった様相を見せるだろうが)、再び人々を惹きつけるものになるだろう。

渡辺卓郎

2015年2月 6日 (金)

市場の延命は、圧力の捏造でしかない

人類は一貫して、「生存圧力の克服」を掲げて頑張って来ました。
ところがそれが達成された途端に、思考停止と活力衰弱という新たな「生存の危機」に直面してしまったと言うのは皮肉というほかありません。

いままで克服しようと必死になってきた圧力こそが、実は統合軸であり活力源であった、という現実を突きつけられたのだと思います。

私権圧力が消滅したにも拘わらず、現代の統合階級は景気対策などで従来の「市場経済」というシステムの中に答えを見出そうと躍起になっていますが、これは圧力の捏造であり真っ当な活力源にはなりません。

今求められているのは、私権に代わる新たな圧力源=活力源の創出です。
現実が人々の意識であるならば、その最基底までを徹底的に対象化する必要があり、そこにこそ新たな活力源があるのだと思います。

山田孝治

2015年2月 4日 (水)

「期待する」って、どう言うことか?

期待上手ないい女になりたいと思う。
みんなの活力をUPできるような女になりたいと思う。

一方で、イマイチ、「期待」ってどう言うものかわからなかった。

期待しているつもりが、押し付けや、過剰反応になったり、最悪な場合は、「なんで、こんなに期待しているのに・・・」なんて、否定視まで出てきてしまう・・・。

・・・・・カラマワリ・・・・(´ヘ`;)

な ぜ か ?

>現実=下部意識を対象化すること、そして現実否定→倒錯思考の既成観念を全的に否定すること(現実否定の否定)。これこそ、窮極の観念パラダイムの転換である。(22203

いい女になれるのも、期待上手なのも、全ては思考パラダイムが転換しているからこそ。

つまり、自らの思考が転換できていなければ、目の前の否定的現実ばかりに気を取られ、相手に「期待」したつもりでも、それは、ただの「要求」(もしくはダメだし)にしかならない。

自らが新しい思考パラダイム(新認識)に可能性収束しているからこそ、相手の潜在思念(人類、男、女、・・・etc)に同化することができ、目の前の現実(相手)への肯定視がでてくる。
そして、それが「期待の言葉」となって、相手に届く。

期待するとは、こうゆうことだろう。

西田美和

2015年2月 2日 (月)

頭を使うとはどういうことか

仕事で惨敗or大失態をし、総括を求められているのに、『出来ない理由』しか出てこない場面にしばしば出くわす。
例えば、「なぜ営業成績が上がらないのか」という議題に対し、「他社に負けたからです」と答えたり、「なぜトラブルが起きたのか」という議題に対し、「チェックしていなかったからです」と答えたりして、平然としている。
そしてその結論は、「頑張ります」「気をつけます」といった中身のない的外れな言葉で締めくくられる。

それがずっと不思議だった。
なぜ、他人事のように平然としていられるのか。
なぜ、分析になっていないことに気づかないのか。
なぜ、そんな結論でモヤモヤしないのか。

でもこれが、近代の思考パラダイムそのものなのかもしれないと思った。

彼らは、現実を対象化し、探索し、可能性を見出すために思考しているのではない。
私権圧力が強い頃は、自分に有利になるようにだが、私権圧力が衰弱するとただひたすら)なるべく自分に非が被らないように、あるいは少しでも問題を直視しなくてすむように、最も有効そうな現象を引っ張ってきているにすぎない。

ところが、「現実を対象化すること=思考すること」だとすれば、これは、「思考することから逃げるために思考している」という、倒錯思考に陥っている状態だということになる。
それでは当然、何も実現しない。

“考える”ことを武器に状況を突破してきた人類にとって、

>思考する=探索、可能性収束して統合する

という認識は極めて明快で、「頭を使うとはどういうことか」の規範となる認識だと思う。

西知子

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