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2015年1月

2015年1月31日 (土)

潜在思念を対象化した事実観念が必要

「残る観念は、頭で塗り替えたら終い」(21495)
>この新パラダイムの登場をもって、共認闘争=観念闘争の幕が切って落とされる。現実否定(or捨象)の既成観念を、全的に爆破せよ。旧観念は、現実を否定(or捨象)することによって、自己欺瞞(上部意識と下部意識の断絶)に陥った。それに対して、本源収束の下部意識に立脚する新観念が、旧観念を全的に爆破しても、何ひとつ困ることはない。数億年・数百万年の塗り重ねによって形成された下部意識を、頭で都合良く変えることなど出来ないが、観念は頭で塗り替えたら終いだからである。(21495

 何かを変えようとしたら、思考のパラダイムを変える必要があるというのは解り易い。それが、現実否定→倒錯観念という旧パラダイムではなく、現実肯定→事実観念という新パラダイムに可能性収束するのも何となく解り易い。
 しかし、ここで言っている、観念は頭で塗り替えたら終いは、もっと奥が深い構造にあるのだと思った。ポイントは、その思考の原動力である潜在思念(本能、共認)が、自我私権から共認充足へと変わってきているから、それに適応する観念も変わる必要が有る。私権を第一にを追い求める必要が無くなった以上、潜在思念は、みんなの期待に応えたい、共認充足を得たいと感じている。その原動力があってこそ、その答え=可能性として現実肯定→実現思考に収束している構造にある。
 だからこそ、まず、自分も含めた人々の潜在思念に耳を傾けることが必要だし、その下部意識を対象化した事実観念(そして勉強)が必要なのだと思う。

STP

2015年1月29日 (木)

近代欺瞞観念の誕生

中世と近代の境界に位置する歴史上の重要な人物にマルチン・ルターがいる。
wiki→リンク

学校で習ったのを記憶している人もいるだろうが、ルターが行ったのは「宗教改革」であり、これが生み出したのが「重商主義」だ。

この2つは一見相容れないように見えるし、実際歴史の授業でも、それがどのように関係しているのか、深く追求されることはなかった。

「宗教改革」は、当時「免罪符(=煉獄行きから免れ、天国に行けるための切符、当然有料)」を売るなど、腐敗していたカトリック教会に対して異議申し立てをし、新しくプロテスタントの一派を作ったというもの。

「重商主義」は、宗教改革がもたらした教皇権力の相対的な低下の下、世俗権力が教会の呪縛から逃れ、国家主義的な方策を用いて自由市場で台頭した豪商を保護し、大航海時代、植民地主義をもたらすことになったというもの。

もちろん教会の腐敗を批判し、規律の回復を唱えたルターは、利息の禁止や贅沢品の輸入禁止など、スコラ派よりも厳しい経済政策を説いていた。

しかし、エンゲルスがアダム・スミス以前の経済学の祖達(ルターを含め)を「「重商主義はまだ、一種の天真爛漫なカトリック的率直さをもっていて、商業の不道徳な本質を少しも隠さなかった」と皮肉を言うように、私益の確保という真の目的を覆い隠した宗教改革という欺瞞観念が、そこには既に芽生えていたのである。

そもそもキリスト教の教義と商行為は全く矛盾するものだ。キリストは教会の前で商売をする露天商の店を追い払っているし(※1)、財産を投げうち、ラクダ一頭のみを持つ青年に対してさえ、「天国に入ることはそのらくだが針の穴を通るよりも難しい」と言っている(※2)。
[※1 ルカ福音書Ⅳ19章45~]
[※2 マタイ伝19章23~25節]

ちなみに、ルターは聖職者でありながら「聖書に結婚してはいけないとは書いていない」といって結婚し、プロテスタント教会の妻帯の伝統を作ったと言われている。

こうした、金儲けをしたい、女を抱きたいという下半身の欲望と、キリスト者としての贖罪という頭の中だけの架空の観念を両立させるものは、まさに欺瞞観念でしかあり得ない。

男女の交わりを原罪とし、商売を根本的に不道徳な行いとして説き、「私は剣を投げ込むために、火を地上に投じるために来た(※3)」というキリストの言葉として伝えられる聖書は、自由主義者にとってもっとも居心地の悪いものなのである。
[※3 マタイ伝10‐34、ルカ伝14-49]

近代キリスト教の成立過程において、教会は、都合の悪い言葉を覆い隠す一方、愛だの家族だのという感応観念を捏造し、欺瞞観念を成立させるための理屈を次から次へと編み出す役割を果たしてきた。

現代において、キリスト教は、自由とか平和・人権などという民主主義的妄想と聖書の教えを整合させるのに躍起である。(本来のキリスト教は、現代の市民社会からは排斥されるカルト狂信者集団に近しい危険な性質を持っているのだが)

>近代思想家は古代宗教家と同じく、現実
>そのもの(=自我・私益・力そのもの)を
>直視しようとはしなかった。なぜなら、そ
>れらの都合の悪い本質部分は、あくまで
>否定すべきものとして捨象したからである。
>そして、開かれた現実の可能性を、欺瞞
>観念(恋愛・人間・自由etc)の実現の可
>能性だと都合良く錯覚した。これは、明ら
>かに「現実」のスリ代えである。
20055 社会運動の自己欺瞞】

このように、歴史を構造論的に捉えた実現論を通してみると、人物名や事象の無味乾燥な羅列だった歴史の様相は一変する。

何より面白いし、社会問題の解決に繋がる現実社会の理解に役立つものになるのである。

渡辺卓郎

2015年1月27日 (火)

日本人がザビエルに求めたのは

ザビエルは随分と日本での布教活動に苦労したようですが、当時の日本人がザビエルにした質問も、決してザビエルを困らせるためにした訳ではないでしょう。

自分が安心できるかではなく、みんなが安心して過ごしていくことが意識の中心にあるから、みんなが認められる根拠を求める。
その「みんなが認められる根拠=事実」を知りたいという意識が、質問に現れたのだと思います。

> ザビエルは、1549年に日本に来て、2年後の1551年に帰国しますが、日本を去った後、イエズス会の同僚との往復書簡の中で「もう精根尽き果てた。自分の限界を試された。」と正直に告白しています。<(Mr.カトーさん:164843

日本人はザビエルの限界を試したのではなく、現実を対象化していない観念では決してみんなの共認は得られないこと、つまりキリスト教の限界を示したのだと思います。

西村秀彦

2015年1月25日 (日)

共認圧力を対象化すること

>私権圧力が衰弱した現代においては「共認圧力は単なる対象物ではなく、自分自身(の生み出したもの)に他ならない」という現実は、何を共認するかで、社会は良くも悪くもなるということも示している。154025

現代の共認圧力も、観念機能を使えば対象化できるでしょう(その際の観念内容は旧観念でないことは明らかですが)。古代人も現代人も、殆どの場合はある共認域(集団や社会)に所属しているのですから、本質であれ、表層であれ、自分自身も何らかの共認(内容)を作り出しているでしょう。問題は、その共認内容が、否定したくなるものなのか、肯定して受け入れられるものかによって変わってくると思います。

例えば、古代人はおおよそ生存本能(生殖本能や食の本能)を保持するがために、共同体的な共認の不全を捨象した=自分以外は全て敵で、専ら自らの本能充足(=欠乏や欲望)に向かうしかなかった、一方そうした考え方は人間的には「後ろめたい」ことであり、そうした欲望が否定の対象となって、「否定的に捨象する」ことを繰り返し次第に感応観念に収束して行った、と言えると思います(この結果登場するのが禁欲的な戒律を重んじる宗教です)。

対して現代は、本能次元の欠乏はもはや重大な欠乏ではなくなり、従って自我も衰弱して、欠乏の対象は専ら共認充足そのものへと変わってきています。しかも、共認の充足を第一とするからには、もはや自分に拘っていてはダメで「自分からみんなへ」と価値の対象も転換します。ここでの「みんな(の充足)が第一」という共認内容は、否定どころか肯定的に捉えられ、「何故そうなるのか?」という探索思考=新しい観念の導きにもつながることでしょう。

今の我々に必要なことは、こうした潮流や圧力(=共認圧力)ををまさしく「対象化」して、新しい観念内容を創造していくことだと思います(例えば、現代の一方の潮流である「自己中」は、上記の様に高まる共認圧力=同類圧力に対する対象化の欠落という問題と捉えることも出来るでしょう)。

斎藤裕一

2015年1月23日 (金)

私の場合は

私はこの数日でスタッフからいくつかの提案を受けました。塾長として取り入れたものもあれば却下したものもあります。

取り入れたものはみんなの時間の無駄がいろいろな意味で減ることによって浮いた時間が有意義に変わることが期待できるアイデアでした。無駄が余裕に変身するわけです。取り入れることによって他の何か大切なことが削られるようでしたら議題は却下、保留、試行、再考のどれかになると思います。

却下したものは上記の取り入れることによって他の何か大切なことが削られる(≒退化する)ことのほかに、私の仕事は子供たちが相手ですから、間違ったことを「教え込んだり」、迷路をさまよったりさせることはできないですので、やはり一番却下率が高いのは子供たちの活力が下がった場合、下がる可能性がある場合です。(ただし却下した場合は代案を必ず出すようにしています。)

私が転職を考えるとしたら、社員の活力がでることを全く考えていない、仕事の対象の活力を考えていないなどのときのことですが、上司は少人数、部下は多人数であることを考えると、大多数の部下が無能な上司のロボットと化しているようなとき(能力ヒエラルキーと反比例した序列原理が慣習化しているようなとき)や、逆に有能な上司と思われるのに上司というだけで悪口ばかり言っていて衰弱した序列原理への反動のためにエネルギーを浪費しているときなどが考えられます。

会社と社員の器が大きければそのような現状さえも変えてしまう実現派になれるのですが、そのヒントとして、仕事の対象の活力を上げつつ、社員の共認充足も上げる、ような持って行き方ができるようになることが新理論の真骨頂と言えると思います。

ちなみに上司がマニュアルを右から左に聞き流すようなときには、長年の間に自分流でやってきたそつなくこなす方法があることが多いです。特に営業や製造のように上司自身がある程度の実績を持っているけれどもその方法論は確立されているわけではなく、他人がまねしにくいセンスのようなものから成り立っているようなときには、実績の秘密を上手に聞き出すことから始めなければならないので、部下同士の共認が一つのマニュアルになるといえます。時代遅れだと指摘するのはその後でも遅すぎません。

佐藤英幸

2015年1月21日 (水)

問題はこちら側の意識だったんだ!

自己中な仕事ぶりをする人、サボることしか頭にない人、もっと期待に応えて欲しい人etc
「変わって欲しい人」がいる。

そういった人に、期待をかけていくには、労力がいるし、活力もなかなかでない。

しかし、これを読んでハッ!とした

>現実は、既に大勢として生存圧力の場から同類圧力の場へ転換したと云えるだろう。残存する自我私権意識は、放っておいてもとことん衰弱してゆき、いずれは消滅する。
従って、自我私権を否定することにこだわるよりも、その奥にある新しい充足基調⇒本源収束という可能性の実現に、意識の焦点を当てた方が良い。21090

活力が出ない原因は、まさに、自分自身が「自我私権を否定すること」にこだわり続けていたから。
そうじゃなくて、その奥にある新しい可能性=共認原理に転換している人材を育てていくことにもっと意識を注力する!

そういった人材を育てていくことで、全体の活力もアップするし、場の圧力が高まれば、「変わらない人」も自ずと変わっていく!!

問題はこちら側の意識だったんだ!

三輪歩未

2015年1月19日 (月)

転換を待っているほど、悠長な時代ではないのだ!

今、組織に、「自我私権」にしがみついている人たちがいる。
みなの意見を受け入れられずに、いつまでも、私権意識をふりまく。
今までは、みんな
「それではダメだ。転換してほしい。」
と期待をかけていた。

が、

自我私権を否定することにこだわるよりも、その奥にある新しい充足基調⇒本源収束という可能性の実現に、意識の焦点を当てた方が良い。(21090

これから、勝っていくには、共認原理に転換している人へ期待をかけていくことが必然。
必然なんだ。

>★自我私権意識は「いずれ」は消滅するが、消滅するまで待ってられない!! (164818

古い人の転換をまっているほど、悠長な時代ではないのだ。

西田美和

2015年1月17日 (土)

現実をありのままに見るには“共認回路”が不可欠

ふつう、ある物が目の前にあれば、その目の前の物の姿・形を正確に認識することが出来る、と考えます。ところが、私たちは目で“見る”だけでは正確に認識することが出来ないようです。

現実をありのままに見るため不可欠なのが“共認回路”が働くこと。周り人たちと一緒に、目の前の物を見ながら、話をすることが必要なようです。

少し長いですが、それを示す事例があったので紹介します。
(以下、日高敏隆著『生きものの流儀』より、要約引用)

●ある先生が、小学校の教室でいきなり子どもたちに画用紙を配り、「さあ、アリの絵を描いて下さい」と言った。子どもたちはアリの絵を描こうと、アリのイメージを探りはじめた。しばらくして子どもたちがイメージするアリの絵が出来上がった。

絵ではアリの体は頭と胴体の二つに分かれ,頭に2本,胴体に2本の肢が生えている。ひげは2本,頭から生え胴体のほうへ向かって,つまり体の後方へ向かって伸びている。このひげに、たいていの女の子は赤いリボンをつけていた。

アリは昆虫だから、体は頭と胴体でなく、頭と胸と腹の三つに分かれている。そして、肢は4本でなくて6本。それが全部、胸から生えている。子どもたちが絵に描いたアリの絵は、まさに人間がイメージしている「動物」の姿だった。

●その次に、子どもたちにシャーレにいれた「実物」のアリを渡して、子どもたちに描いてもらった。まったくソラで描いたアリの絵と、同じ子が実物のアリを見ながら描いた絵が出来上がった。

ふつう、実物を見せられた子どもはそれをよく見つめてできるだけそれに近い絵を描こうとするものだと考える。ところが子どもたちの絵では、ほとんどまったくそのようにはなっていなかった。

子どもたちが実物のアリを見て描いたはずの絵でも、その多くは依然としてアリは頭と胴、足は4本だった。もちろん、ちゃんと体が頭、胸、腹と3部になり、肢が6本になったものもあった。けれど、多くはそうではなかった。1枚目の絵を太い鉛筆で自信満々、頭と胴、4本の肢と描いた子の絵は、実物のアリを見ても何一つ変わっていなかった。

●その次に、先生が実物のアリを子どもに見せ、先生が質問をして、子供たちがそれに答えながらアリを観察した。

【先生】「うん、ますますよく描けてきたなあ。えらい、えらい。だけど、アリの体ってほんとに頭と胴体しかないのかい?」

【子ども】「あれ?もう1つあるよ。」「ほんとだ。3つに分かれてる。」

【先生】「そうか、それが胸なんだよ。アリの体は頭と胸と腹の3つに分かれてるんだよ。」

そんな会話が繰り返された後、ついに体は頭と胸と腹の3つにわかれ、胸から6本の足が生えた、実物と同じアリの絵が出来上がった。こうしてできた3枚目の絵の、ちゃんと前を向いたひげ(触角)に、女の子たちはちゃんと赤いリボンをつけていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・以上、要約引用

子どもたちは実物を見ていない訳ではありません。しっかり、十分まじめに見ています。けれど、その実物が“自分の思っている”ように見えてしまう。

それを現物そのままに見せてくれたのが、先生の投げかけた質問であり、みんなでじっくり見ながら会話を繰り返したこと。みんなで“見て”、質問・会話で“共認回路”を働かせ、みんなで“観察、追求”することで始めて現実をありのままに認識することができるようです。

※これは子どもに限ったことではないように思います。仕事の場面の「見ていたはずなのに気が付かなかった」や「思い込みによる単純ミス」なども、見ているようで実は“自分の思っている”ように見てしまっている、ということではないでしょうか?

斎藤幸雄

2015年1月15日 (木)

図解化を勉強してきて良かったです。

 最近、なんでもかんでも頭の中で気が付けば図解化している自分がいます。

 たとえば、誰かとのやりとりにおいて。

相手と対立または平行線な状況になってしまったとき、以前であればすぐに自我回路を使っていたので

  自分を正当化→相手を否定→思考停止

だったのだけど、今は

「なにが呼び水となって相手はそういう反応をしたのか、相手はどういう思考をする人なのか」

と相手に同化して考え、頭の中で整理しようとしています。そしてそのあとで、「どうしたら分かり合える?」を考えてます。

 また、頻繁にミスをする後輩に対しても、以前ならばきっと精神論を展開していたと思うのですが、 今は

 「仕事量を含めどういう状況のときにミスが起りやすいのか、ミスをするときの後輩の思考パターンはどうなのか」

と後輩に同化して考え、整理し、そのあとでどうする?を考えています。


 
 サロンで図解化を勉強し始めた最初の頃は、慣れないこともあってか図解化作業がただただ難しく感じ、また何がどう役に立つのかも分からなかったので、しょうじきサロン出席が辛いなあと感じていました。

 でも、いまこうして「なぜ?どうする?」と考えるようになったのは、何度も図解化練習を重ねた結果だと思います。

 図解化をするとは、構造化するということですよね。
それは、原因分析をした上で、突破口を探るということですよね。

 いつも思うのですが、構造化して考えるようになっていちばん良かったなあと実感することは、終始可能性探索なので、物事を簡単にあきらめなくなったことです。

ばきちょこ

2015年1月13日 (火)

「既成観念の全的否定」とは、意識的に”検証”し続けること

「既成観念の全的否定」の認識を、善悪の価値判断で捉えると、否定のパラダイム思考から抜け出せない。

この認識の意味するところは、己の思考している中身や無意識に鵜呑みにしている中身そしてマスコミから流れてくる情報や社会的通念に対し、まず価値判断を棚に上げて、常に意識的に検証する(事実を追求する)ことを意味しているのだと思う。

この意識的な検証、つまり”なんで?思考”が、

>既成観念(=自分の観念世界の全て)を全的に否定し、否定から実現へと思考ベクトルを明確に逆転>18719

につながっていくトビラである。

麻丘東出

2015年1月11日 (日)

現実肯定の事実観念に転換できた者から、新たな外圧=共認圧力が生み出される。

私権圧力から同類圧力へ外圧が移行する過程の意識構造が、本能次元の適応欠乏に加え、【観念次元の「現実否定の倒錯観念」⇒「現実肯定の事実観念」へ可能性収束することが不可欠である】ということだと思う。

私権圧力が衰弱し、序列圧力から開放された現代、頭の中だけの充足(=倒錯観念)を作り出す必要がなくなったどころか、そのこと自体が現実直視の実現思考を阻む元凶となっている。このことに気付けるか否か。

私権時代は、私権追求を共認することで意識が統合されていたが、生存圧力を克服した現代、待っていても外圧は訪れない。すなわち、新たな圧力は同類同士の関係の中から生み出さなければ、意識は統合されない。=活力が出ない。

現実否定の観念を現実直視の事実観念に転換させられたものだけが「外圧=内圧」になり、活力が沸き、そのような活力のある人たちから新たな外圧が生まれる。

これが、同類圧力が外圧である現代の活力を生み出す構造である。

門奈津子

2015年1月 9日 (金)

「行き詰まりを認めた先にこそ充足可能性がある」

>「行き詰まり」自体は感じていても、それが「社会の行き詰まり」だとは認識できていない!!

「行き詰まり」自体は“感じて”いても、行き詰まっていることを“認め(たく)ない”という状況ってことでもありますよね…!
感じている危機感を正面から受け止め、追求へと向かわないのはなんでだろう?何か感覚的には「環境破壊」「肉体破壊」「結婚→家庭崩壊」も感じてはいるけれど…と思っていた。

『【幹図解】大転換期の予感と事実の追求(163856 )』を見て、またまたハッとした(゜o゜ )!

行き詰まっているかどうか、「ヤバイ!→なんとかしなくては!」と危機感を受け止めるには、判断軸が必要。
生まれてこのかた、排気ガスの中を歩いて、食塩・砂糖たっぷり、栄養なし野菜、肉食の食事をしてきて、父・母・私の核家族で自己中に生きてきた。だから、事態が相当悪化しない限り、「ヤバイ!!→なんとかしなくては!」なんて思わないのかもしれない。次の可能性を掴んでいないのに「これでは行き詰まる」なんて認めてしまったらどうなるの??という不安もあるのだろう。
つまり、生命の原理や自然の摂理を学ぶ中で、危機感も生まれ、現代社会の行き詰まりを認めることが出来る。同時に大転換の予感も顕在化してくる。固定観念を捨て、可能性へと向かうことができる。こういうことでは?!

「行き詰まりを認めてしまったら、充足可能性がなくなる…」という現状は、生命の原理や自然の摂理を歴史を遡って徹底的に追求することで打破出来る。
「行き詰まりを認めた先にこそ、充足可能性がある」
歴史構造の勉強を「難しい…」と言っている場合ではない!

中瀬由貴

2015年1月 7日 (水)

「共認域」を広めることが、実現のカギとなる。

>だから例えば、職場で上司や部下と上手くいかないとき、相手を否定しても始まらない、ということだ。
>なぜなら、上手くいかない『現実』を形成しているのは、自分自身でもあるのだから。相手や、周りの人々に働きかけることなしに、『現実』は何も変わらない。

うまく行かない現実を変えるためには、「共認域」を広めることが重要なんだと思う。

まずはうまく行っていない「現実」をみんなが共認しなければ事は進まない。そして、みんなで共認するためには「発信」し続けなければいけない。そして、いろんな方面からの発信が積み重なることが「なにが事実なのか?」を追求するということであり、発信なしに現実を動かす答えは発掘できない。

そして、共認域を広めることがなぜ重要なのか?というと、たとえ答え(半答え)を出せる人がいたとしても、その答えを共認(実行)する人がいなければ、結果として答えとはならない(実現しない)から。

現実を構造化できる人の発信に賛同する人を増やすことが、うまく行かない現実を突破するカギとなる。

門奈津子

2015年1月 5日 (月)

「個の確立」や「自由」がホントに絶対なんか?「派閥」や「談合」がそんなに悪いことなんか?①

『「個の確立」や「自由」がホントに絶対なんか?「派閥」や「談合」がそんなに悪いことなんか?』(ふしぶじゑ日記)リンクより転載します。
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否定するにつけ肯定するにつけ、「自己責任」だの「新自由主義」なぞという言葉が、注目されてる昨今ですけど、いずれも日本やアジアの伝統的な価値観からすると、ちょっと相容れないものがあるのではないでしょうか?

今やってる自民総裁選でも、「派閥」や「談合」を非難する一般の方々の声がよくTVニュース上で目に付きます。ただ、それらって確かに行き過ぎると、特定の個人や団体への利権と強く結び付くので良くないことですけど、日本の強さは、派閥や談合も含めた日本独自の利益分配システムがあったからでしょ。実際、日本の経済が弱くなって財政赤字が増えたここ10年と、派閥や談合の弱体化とが同時進行していませんか? 実際、原田武夫氏による「騙すアメリカ 騙される日本」リンクとかを読むと、談合や派閥といった日本独自のシステムこそが日本経済の強さの秘訣と理解したアメリカが、80年代後半以降それらを物心両面から潰しにかかってきて、ここにきてその成果が大きく現れてきてる、ということのようですから(ーー;)。

創業夢宿 「日米の構造摩擦は経済摩擦ではなくて文化摩擦だ」リンクより
(以前ここリンクでも引用させていただきましたが、再引用です。)

『日本だって……日本人の伝統の中には、伝統的な西欧近代の経済原理でないものがある。じつはこれが日米構造摩擦の原点なんです、専門家はまだ気づいていないんですが。経済摩擦は文化摩擦だといってますよね、いま。その本当の意味はそこなんです。経済法則も違う、アメリカとまったく違うんです。流通形態も、それから社内の価値の配分、全然違う。だから経済法則が違うんですよ。表立っては賃金、地代、利子の法則を使っていますが、実質のまわし方はまったく違う。ほかにも、例えばポリネシアとかアフリカとか、インディオの人たち、この人たちがそれぞれ近代化を遂げたら、やはり西欧近代とは変わった近代になるんです。』

テレビ上で、親米発言をしてる評論家、学者、経済人、政治家等、彼らは自分たちこそが一般人と違って、世界(?)の最先端・標準を理解しているってきっと思ってるんでしょうね。30年前ならいざ知らず、21世紀の今日に至っては、アメリカという狭い世界が全てである、と勘違いした単なる「井の中の蛙」であることも自覚しないままにね(笑)。

「保守」を名乗る政治家や学者が、保守を破壊する「改革」を叫び続けているんですから笑止千万です。そんな矛盾したことをやってりゃ、心労で入院するのもやむを得ないんでしょうかね(笑)。
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猛獣王S

2015年1月 3日 (土)

(本源価値の)実現のための思考ができるようになったことがパラダイム転換

>●現実の課題があって、はじめて探求(創造)が始まる。そしてそこに先駆者や先覚者がいたとしても、その探求過程は、一貫して共認過程であり、皆との期待と応望の交信(やりとり)の中から全ては生み出される。(7453 岡田氏)

「素人の社会活動34 創造(=探求)のパラダイム転換」では、宗教の祖及び近代思想家と素人を対比して、探求(創造)の構造を比較している。骨子となるのは「現実を対象化できるか否か」と解釈した。

けれども、近代思想家であれ、まず現実に対する不全を対象化し、現実を分析する。また、自身の頭の中で論理を組み立てると言っても、共認動物である以上、外界の情報もキャッチはするし、過去の書物を紐解いたり、知人とのやりとりも少なからずあるだろう。また、共認してもらうことが目的だから、手段の良し悪しは置いても、一生懸命本源風価値で「装飾」している。当時の状況を思えば、貧困→私権というみんなの期待とのやりとりもしているように思える。

一体、どこが分かれ道なのか?

決定的なのは私権時代においては、貧困という外圧から私権収束せねば生きられない(私権という現実しか見えない)。だから必然的に性闘争自我発になる(つまり、思考すら私権闘争)。しかも思考しようと思えば、キリストならユダヤ教、釈迦ならバラモン教、近代思想家ならば宗教などなんらかの(旧)観念を下敷きにするしかない。できることはそれらを否定するか肯定するかしてこねくりまわすしかないのだ。

翻って改めてタイトルを読めば、最初から書いてあった。「創造(=探求)のパラダイム転換」と。
>●現在は、(本源価値の)実現の時代である。

私権価値の実現の時代は終わったのだ。

>●現実の真っ只中に生きる素人こそが真の探求者だとすれば、その追求過程は、当然、素人=みんなとの期待と応望の交信(やりとり)の真っ只中で、営まれなければならない。

改めて、冒頭の3行は構造事実を書いている重要な認識だとわかった。私権時代が終焉し(た日本において)、真っ当な“共認”による思考の道が開かれたのだと思う。
そのみんなの欠乏(潜在思念)に応えるかのようにネット等のインフラは整えられてきた。
後は、このパラダイム転換の構造に気が付けば、だれでも(本源価値の)実現のための思考に参加できるようになる。

かなめんた

2015年1月 1日 (木)

「失敗」と「成功」という2元的な価値判断のアヤシさ

>実践し、結果⇒評価⇒成果は出せ、それが「現実を対象化する思考」(健全な思考)の在り様なのだ、と思いました。
そして、よく、何かを実践するにあたって、その根拠が問われる場合がありますが、根拠への拘りは、成果への弊害でしかない、と思いました。

これで閃いたのですが、物事の事象や推移というのは、一定の方向に
しか進んでいかないのですね?多分、生命の進化も同じで、”進化”
という一定の方向における「適応と淘汰」の差異はあっても、それが
「成功or失敗」であるか?を判定する根拠にはならない、と…。

そうでないと
●昆虫はダメで魚はマル…①
●飛行機はOKで船はNG…②

などという、オカシナ論理になってしまう。
そうではなくて、「手段=可能性とそれに対する最も適した形態」
という考え方で捉えれば、

①は環境に応じた適応の在り方の問題。昆虫と魚のどっちが優れた生命
 種であるか?などと論じる事自体に全く意味がない。(その個体の
 構成要因である機能や特徴のどちらが複雑か?で優劣を決めるにして
 も、行動様式が環境に応じて適応してきた経緯を要因として組み込む
 のであれば、優劣の判断は不可能)

②これは、一定の方向性という視点で言えば、輸送・運搬に対する
 適応の問題。船と飛行機ではどっちが優れているか?ではなく、
 「この場合は海上輸送が適している」、「この場合では飛行機の
 ほうが効果がある」という判断が最も順当ではないか?

こう考えると、その場(瞬間?)に際してそぐわないとされる行動や
事象は、それが失敗を意味するものではなく、一定の方向性における
過程にすぎないという見方ができるのではないでしょうか?

その、いわば「流れ」のようなものをわざわざせき止めて分断し、
「この限定された条件の中においては、これは失敗、これは成功」
と判断していくといのは、あまりにも不自然なのではないか?と
いう気がしてきました。

>しかし、自然科学さえ、倒錯観念の支配から完全には脱却できず(exデカルトの「方法序説」)、未分明な根本ドグマに基づいて命題や定理が作られ、現実そのものからかけ離れた条件下での実験が行われてきた。従って、科学法則の多くは、現実そのものを対象化した事実認識とは(厳密には)云えない。

↑この表現も、恐らく経過と事象が並行する中での状態を観察・記録
するのではなく、まず始めに「成功と失敗」という(ONとOFF、YesとNo
も恐らく同じカテゴリーでしょう)2元的な価値判断が前提に在って、
その価値と現実に起こった(または現在進行中の)出来事を、
その2元的価値観に当てはめるという手法で進化を捉え、定義してきた
事が根本的にオカシイということを指摘している文章なのだと思いました。


★「事象と時間の推移は同時進行です。その流れは多様性を派生させ、
 その先端で適応できるか否か?という現実はあっても、その事自体が
 正しいとか間違っているの判断では定義できない!」
              ↓
★「しかしながら、最も可能性に収束した事象が、より存在を強くさせる
 ものであれば、その瞬間を(現時点における)「成功」と定義しても
 よい」



したがって…
●結果⇒評価⇒成果は出せ、それが「現実を対象化する思考」



…ではなく、「”事実”と可能性という現象は現実を対象化する中に
おいて、その順位が最も適した形態の中から発見される。(事象と
時間経緯は並行するので)」


恐らくこれが『実現の論理』、そして『構造認識』なのだと思います。


つまり、これまで常識として刷り込まれた考察法や手法、そしてそれに
より大切にされてきた価値観は、根底的に、木っ端微塵に、跡形もなく
量子レベルの微細さに到るまで粉々に破壊し、未来永劫に葬り去らな
ければ、人類はその歪んだ観念機能を保持し続けるが故に滅亡してしまう可能性があるのではないでしょうか?

それが…『認識転換』。
(※認識転換も、”一定の方向性”の中から構造認識され、系統だって
 組み立てられる事によってしか成されません。)

つまり、「失敗と成功」など、一個人の判断や思い込みで判定できる
ものではないし、その思い込みを広く共認させる事で序列を構成させて
きたのが、いわゆる「学会のドグマ」なのではないでしょうか?

Silentservice

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