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2014年12月

2014年12月30日 (火)

共認が最大目的ではなく、外圧に適応することが最大の目的。

「共認されることが最大目的化」(154944

探求の目的は、何らかの不全=課題の突破口を見出すことで、その突破口への共認は一つの評価として自然に湧いて来るものでしょう。
158050

 共認が最優先課題となるとどうなるか?その探索過程は、現実とかけ離れても、どんな共認内容であってもよく、又は、捨象され、できるかぎり多くの人に共感を得られればそれでいいと倒錯し、もっと言えば、詭弁・思弁・ごまかし・辻褄合わせの欺瞞に陥る。

 共認が最大目的ではなく、外圧に対する適応が最大の目的。そのための観念機能があり、共認機能があり、本能があることは言うまでもない。
 生物が進化適応してきた自然の摂理の歴史は、上記のように教えてくれるのではかなろうか?

近藤文人

2014年12月28日 (日)

思考とは集団単位で行なうものでは?

7452
>●重要なのは、探求過程の潜在共認であり、文字面の共認は第二義的な意義しか持たない。
>潜在回路は広範に相互連結しており、探求投稿(史論や実践論探求の投稿や、自我封鎖=規範探求の投稿)は、潜在回路と各所で結びつく。だから面白いor興味を感じるor共認が深くなる。

 改めてこの投稿を読んでみると、いろいろなことに気付かされました。「潜在回路は広範に相互連結」は、個々人の潜在回路内でも起きている以外に場を共有する成員同士での潜在回路による潜在共認においても、自分と相手、さらには仲間の潜在回路が相互連結しているのだと実感されます。

 例えば、会議やミーティングなどで何かの課題を追求している際に、あるメンバー1人の潜在回路上に発する「違和感」という言葉にならない情報は、他メンバーの潜在回路上に同様の違和感を生起させるように思います。その際に、たった1人であっても、些細な疑問や違和感であっても、その情報を対象化し(拾い上げ)、観念回路によって整除し統合していくことは非常に重要。1人1人の疑問や違和感を流さないことが場の活力にもつながっていく。

 とすれば、思考とは、集団各員の潜在回路が通底した状態でその一部を言語で対象化して整合していくことだと捉えれば、まさに個人の頭の中だけで行なわれるものではなく、「集団思考」がむしろ常態なのではないでしょうか?

浅野雅義

2014年12月26日 (金)

「構造を学ぶ」と、どんなことができるか?

今日は、共認機能とその派生物である自我の構造を学んだ。
「構造を学ぶ」と、どんなことができるか?

◆感情のコントロール
自分がイライラ(=自我)しているとき、「ああ、自分は今、みんなからの評価(共認充足)を得られなかったから、自我っているんだ」とわかる。

潜在思念に耳を傾けられる
イライラしているのは「自分がそういう性格だから」などと決めつけて済ませず、「本当は、みんなからの評価(共認充足)を得たかったのだ」とわかる。

◆倒錯観念に陥らない
イライラを対象への否定に向けても、無意味であることがわかる。

実現回路の探索が出来る
「では、どうすればみんなからの評価(共認充足)を得られるか?」の可能性・実現回路を探すことに頭を使うことができる。

つまり、
潜在思念が正しくて、旧観念が間違っていることが分かれば、どれだけ救われるか。そして潜在思念の感じる可能性を導く答え=構造認識が与えられれば、どれだけ活力になるか計り知れないものがある。
しかも現実を対象化する概念装置でもあるので、人々の意識や社会構造を捉えることができ、いくらでも突破口を考えてゆける。それが共認されればさらに活力が上昇する。

「構造を学ぶ」って、すごい!!!

山田純子

2014年12月24日 (水)

個々人が意識を変える≠人々の意識を変える

環境問題等の社会活動を行っている人と、問題の解決について話すと「個々人が意識を変える(高める)ことが大事」という話がよく出てくる。
その言葉に対していつもひっかかりを感じていた。

今回、「共認革命8 運動信仰を捨てて、共認革命を」(9235)を読んで、そのひっかかりが何か明確になった。

「個々人が意識を変える」ことと「人々の意識を変える」ことは、似ているようで全く別物なのだ。

「個々人が意識を変える」という場合、変える内容や程度を判断するのも、評価するのも個人。
自分は何かをやったような気にはなるが、そもそも個人ではどうにもできない現実の問題に対して、それで解決するわけがない。

実は“個人(の自由)”という旧思想に依拠して、解決は二の次で“個人(の自由)”を保障してくれる体制の補完運動をやっているのだ。


「人々の意識を変える」というのは、人々が立場を超えて現実の課題を共認するということと言える。
そのためには“個人”の都合ではなく、“事実”に基づいた判断や評価が必要になる。

共認革命は、みんなで事実を追求して、その構造を解明していく中で、実現していくのだろう。

西村秀彦

2014年12月22日 (月)

運動=身体<共認

>この投稿で興味深く見られるのは、貧困が消滅する以前=前世紀初頭から、「豊かさ追求」という課題共認が先進国の間ではされており、武力社会から共認社会への移行が見られる、とした点である。(156153 渡辺さん)

18世紀後半から近代が始まるとすれば、アメリカ独立戦争(1775年)、フランス革命(1789年)以降、先進国では武力革命は姿を消し、ナポレオン帝政でさえ国民投票により成立している。先進国が再び武力闘争へ突入するのは、第一次世界大戦(1914年)であるが、この時点で連合国に対して劣る同盟国は勝利することが出来なかった。

一方18世紀後半から19世紀にかけて海外植民地を当てにした産業革命が起こって工業化が進み、経営者階級、資本家階級の成長とともに金融業も発達していく。ここでの人々の意識は、抑圧された社会的な権利(地位)闘争の後で、既に私権主体としての個人の資金競争へと傾斜しており、その前提となるのは豊かさ追求の可能性が一般市民にも開かれつつある状況である。

国家と市場が供託した近代国家は、もはや後進隣国とは比較にならない国力を有するにいたる。実際の武力闘争(2回の大戦や以降の地域紛争)で先進国が負けることは既に無くなった。そして先進国では武力闘争の主体も革命当時のような一般市民ではなく、職業軍人であり、武器は軍需産業が製造し、作戦、交渉は国家の外交担当が担うシステム化された分業制となっていて、全ての国民が兵隊となった日本とは対照的である。

これらの過程では、武力闘争のみをその主力と位置づける後進国に対して産業的な対応をする先進国の対比が鮮明で、もはや武力による統合ではなく、「豊かさ」による統合であることが顕著である。戦争も豊かさの一環でしかないという先進国の共認統合が既に後進国を凌駕しているのである(戦前、戦中の日本の天皇を中心とする共認統合は相応の強さを持っていたが、豊かさへの共認という点ではむしろ自制的でその意味で産業構造には未成熟な部分が多い)。更に戦後米国主導で一気に豊かさ追求へと舵を切った日本は未曾有の高度成長を達成し70年に貧困を克服している。

しかし、高度成長の過程にあっても民主運動といえば権利闘争であり身体的な闘争をイメージしてきた。豊かさ追求の共認が既に趨勢を決していることを見抜けぬ前時代的な意識の残存であるといえる。

武力による革命は既に不可能で、共認を大前提としなければならない事は重要である。既に「運動」という呼称でさえ身体的で古い。問題は形式ではなく、共認の内容なのである。

斎藤裕一

2014年12月20日 (土)

「エコ」も旧観念群に仲間入り

今やエコと言えば何でもOKらしく、エコカーだのエコ家電だの、どう考えても存在自体が矛盾した商品が並んでいるが、今度は「エコバッグ」なるものが流行っているらしい。

レジ袋を削減する動きの中で、買い物袋を持参する人が増えているらしいが、そのマイバッグがなぜかエコ専用をうたい文句にしていたり、高級ファッションブランドのロゴ入りだったりするのである。

特に騒ぎになったのが、アニヤ・ハインドマーチの日本限定エコバッグで、これは売値で2000円もするのだが、徹夜して並んでまで買おうとする人で店の回りは長蛇の列となった。

しかも、このバッグはオークションで3万円以上で取引されている。今調べたら38,500円にまでつり上がっている。レジ袋は一枚3円くらいだから、このエコバッグはレジ袋1万枚分以上の価値があるらしい。

レジ袋を1日1枚使うとしても、27年かかってやっと取り戻せる額である。27年後には、この安っぽいバッグはボロ雑巾になっているだろうから、生ゴミ袋としても使えなくなっているはずである。

これは、単に消費者が馬鹿である、と言う問題で片付けられるのであろうか。エコを売りにして阿漕な商売をするアパレルメーカーの浅ましさ、という問題なのだろうか。

ニュースサイトで、このバッグを購入するために台風4号が接近する中、前日から並んでいる人の声が紹介されていた。

「海外の女優がこのバッグを持っている写真を雑誌で見たのがきっかけ。エコに興味があるし、限定商品なので自慢できる。天気はあまり良くないけれど、あと数時間でバッグが買えると思うと平気」
【アニヤ・ハインドマーチのエコバッグが日本上陸、先行販売に長蛇の列 国際ニュース : AFPBB News 7/14】
リンク

言ってることが支離滅裂だが、「エコ」という言葉が自由・個人・人権・愛だのという旧観念そのものに変化を遂げていることが注目される。

これらの旧観念は、人々を事実の認識体系から目を逸らさせ思考停止させるだけでなく、実際に共認を破壊し、精神を破壊し、環境を破壊することで社会に害をなしてきた。

かつて環境運動と言えば、経済至上主義や企業活動を優先する政策に対しNOを突きつけ変革を求める運動の一つだったはずである。

しかし、今や、「エコ」というイデオロギーは、はっきりと旧観念の仲間入りをしたことを確信する。(もっともこれは、要求運動ですらなく、単に気分の問題でしかないという貧弱なイデオロギーではあるが。)

渡辺卓郎

2014年12月18日 (木)

『現実』=自分の意識。だから現実を否定しても、何も始まらない。

同類圧力は、人々の共認が形成する圧力である。従って、『現実』とは人々の意識に他ならなくなる。
しかも、主体=対象である以上、人々の意識とは、自分の意識に他ならない。つまり、自分自身の意識が、『現実』=同類圧力を形成していることになる。もっと簡単に云えば、現実とは自分自身に他ならない。
こうなると、もはや現実を否定することは出来なくなる。
20355

人々の意識=自分の意識が『現実』を形成している。だから、現実を否定することは出来ない(否定しても何も変わらない)。

だから例えば、職場で上司や部下と上手くいかないとき、相手を否定しても始まらない、ということだ。

なぜなら、上手くいかない『現実』を形成しているのは、自分自身でもあるのだから。相手や、周りの人々に働きかけることなしに、『現実』は何も変わらない。

矢ヶ崎裕

2014年12月16日 (火)

観念発で生まれた社会運動

古代の私権強制共認からの現実否定⇒感応観念による本源価値の代償充足、近代の私権拡大の可能性→自我私権の正当化→欺瞞観念 のいずれもが「現実」発の観念統合である。

>開かれた現実の可能性を、欺瞞観念(恋愛・人間・自由etc)の実現の可能性だと都合良く錯覚した。これは、明らかに「現実」のスリ代えである。(20055

「現実」が頭の中でスリ代わることで、現実発から観念発に逆転して生まれたのが社会運動である。

そのような社会運動が現実とずれ、また、社会運動のために生まれた観念(運動スローガン等)がますます現実から遊離していくのは必然であろう。

前上英二

2014年12月14日 (日)

答えを「可能性の起点」と捉えると探求思考に向かえる

> 説明思考って、まずは答えありき。
用意しておいた答えをいかに相手に納得させ、共認を得るか。<(155820

説明思考の場合、答えありきである上に、その答えが固定的なものになっていることが多い。

“答え”は現実の課題(=外圧)を突破するためのものであり、状況の変化や課題の把握度合いによって、塗り重ねられていく。

答えは最終到達点ではなく、「可能性の起点」であると捉えると、常に探求思考で物事を対象化できるのではないだろうか。

【参考】“答え”とは、可能性の起点となるもの(61028

西村秀彦

2014年12月12日 (金)

おかれた環境を把握するための「なんで?」

現在は、私権圧力が衰弱し、豊かさが実現した時代。

私権圧力を統合軸として見たままでは、おかれた環境が、把握できない時代でもある。

しかし、環境問題や教育問題、政治経済の行き詰まり等を考えれば、私たちにかかる圧力は以前にも増して存在しているはずだ。

>実は、最も重要なのは、その統合様式の大前提をなす、置かれた環境を貫く闘争圧力の把握である。

この、置かれた環境を切り拓くきっかけとなり、かかる圧力の状況を把握・認識、闘争圧力へと導くのが、追求力を伴う「なんで?」思考なのだ。

yuyu

2014年12月10日 (水)

るいネットの真骨頂

ポールシフトに関する投げかけは、地学関係、宇宙関係が手薄なるいネットにとっては、新しい視点だと思います。私自身、この間のやり取りの中で、そのことに気づきました。なのでポールシフトや磁場の弱化に関しては、どこかのHPからの引用や、学者の論を貼り付けて、すぐに片付けるのではなく、今後も継続的に追求していく課題のひとつだと思います。

その場合、

1.そもそもポールシフトってなに?どういう現象?どうして起こるの?
どんな学説があるの?といった基礎知識を抽出し、共有し合う。

2.次に、それらを再度、地球上で起こっている現象事実と照らし合わせて、(世間で言われていることが)事実か否かを検証する。

3.整合しないところがあれば、別の現象と繋げてみたり、ひとつひとつの反証をつぶしていく。

4.その過程を通じて、ポールシフトのしくみを仮説として構造化する。

おおざっぱに考えても、ポールシフトという現象を捉えようとすると、この程度の段階を踏む必要があると思います。

なので、

>例えばポールシフトが生存危機につながると仮定すると
そういった自分を直撃する捨象したくなるような問題があっても
肯定視を維持し、そのつらい現実を皆で乗り切って充足する
155412)

というるいネットに対する捉え方には、飛躍を感じます。「ポールシフトが生存危機につながると仮定する」ことに行き着くまでに、ポールシフトなるものを丸裸にしてしまう訳です。その追求過程には「捨象」は不要で、あるのはただ「なんで?」という追求思考、事実思考のみ。これをるいネットでは「肯定視」と呼んでいます。

>とにかく何事も肯定視することが大事(155412

るいネットの傾向として上記をあげられていますが、この捉え方はむしろ思考停止に近く、「肯定視」とは真逆であるといえます。

協業による認識の塗り重ね-。

素人で創造していくるいネットの真骨頂はここにあると思います。

阿部佳容子

2014年12月 8日 (月)

団塊世代も、運動信仰から脱却すれば、可能性が開かれる

>社会に関心を持つ人の多くが、未だに社会変革と云えば身体を張って行動することだという行動信仰(古いパラダイム)に囚われ続けている。

団塊世代には、デモ・集会という行動信仰が潜在的に刷り込まれている。

団塊世代が、改めて社会問題に関心をもった場合に、その変革イメージが直ぐに、行動イメージに直結してしまう。「集会=主張講演会にどれだけ人が集まるか、集まった人で、どんな示唆行動ができるか」を想像したくなってしまう。

しかし、単なる問題意識、変革意識だけでは、行動イメージは生起しない。直ぐに、不可能視に陥ってしまい、問題意識が流産してしまう。

意識して、過去の運動信仰から脱却する事がまずは必要なのである。

運動信仰から脱却できれば、問題意識⇒事実の追求⇒事実の発信という、人々に求められている「営為」が開かれる。

村田貞雄

2014年12月 6日 (土)

説明思考とは、現実との断層を埋める為の思考。探求思考とは、現実そのものを追求する思考。

私権追求に収束している)現実の存在と、(頭の中の倒錯観念に収束している)非現実の意識を完全に分裂させ断絶させてしまい、(7245)現実と行動を捨象した観念思考にはまれば、その断層を埋めるがごとく、

■倒錯観念(古代宗教)は、
1】現実の引力に負けない脳内引力を作り出さなければならない。(=探求過程)
2】より多くの人々に「共認されること」を最大の目的としなければならない。(=説明過程)
3】答えになっていること、分かりやすくまとまっていることが至上命題(=実践過程)

となり、

■欺瞞観念(近代思想)は、さらに
4】一段と説得性や思弁性や欺瞞性を強くしなければならない。(=探求過程)
5】どんどん説明思考に陥り、探求思考は消え失せ、辻褄あわせや思弁、詭弁、ごまかし、捏造、でっち上げを作り出す。(=説明過程)
6】強迫観念化する(=実践過程)

ということになる。

どんどんと現実を捨象し、逃避し、離れて、現実を突破する答えや現実を変える力になるどころか、適応すべく本来の圧力を対象化することを阻害してしまうことになり思考停止を促すことになるのだと思った。

私権闘争上、優位に立とうとする、倒錯・欺瞞観念へと収束し、その説明や説得や解釈を発信するよりは、もっとより奥の潜在思念で捉えた(69847244)、探索思考の過程(7675)そのものを発信するほうが、よりみんなのためになるのだと思いました。

 私たちがこの説明思考に陥るときは、必ず、現実とかけ離れていると感じたほうがよいだろう。

近藤文人

2014年12月 4日 (木)

欺瞞観念=マスコミ

>いま、現実を否定するだけの最たる存在がマスコミだろう。(155279

その通りですね。

返信元の投稿『観念パラダイムの逆転1 現実捨象の倒錯観念から、観念捨象の現実直視へ(20199) 』の“欺瞞観念”を“マスコミ”と言う言葉に置き換えて読むと非常にスッキリする。

 例えば・・・

社会は、人々の共認内容が変わってゆくことによって、自ずと変わってゆく。現在、その共認内容は自我私権を残存させており、何よりそれを正当化する“マスコミ”に支配されている。しかし、現代が古代や近代と決定的に異なるのは、自我私権の衰弱→終焉が既に明らかであり、それに伴って否定意識に代る充足基調⇒本源収束の潜在思念が顕在化しつつあるという事実である。

従って、潜在思念(=下部意識)の充足基調⇒本源収束を実現に導く、現実直視の状況認識(事実認識or構造認識)さえ提示すれば良い。そこでは現実(下部意識=潜在思念)を肯定こそすれ、否定する必要はない。
ただ、“マスコミ”だけは、全的に否定しなければならない。でないと、欺瞞になる。“マスコミ”を捨てて、事実認識に置き換えても、下部意識=本源収束が実現され易くなるだけで、何の矛盾も自己欺瞞もない。

欺瞞観念=マスコミってことですね。

R

2014年12月 2日 (火)

定義つけるという思考は旧観念思考

『定義つけるという思考は旧観念』と言われて、はっとした。
確かに、それは、「こうあるべき・・・思考」

辞書では【定義】とは、
>ある概念の内容やある言葉の意味を他の概念や言葉と区別できるように明確に限定すること。また、その限定。

とある。確かに、この思考は、物事を区別して明確にする思考であり、逆に言えば、思考を限定することであり、思考の自在さを奪うことであると・・・

>探求過程は、一貫して共認過程であり、皆との期待と応望の交信(やりとり)の中から全ては生み出される。
>追求過程は、当然、素人=みんなとの期待と応望の交信(やりとり)の真っ只中で、営まれる(7453
の投稿の【創造(=探求)のパラダイム】とは、全く無縁であり、むしろ邪魔になることが分かる。

 山奥にこもり、私権に塗れた現実から身を引き離し、完全に遮断し、頭の中の本源価値を確立した価値を作り出した古代の哲人(シャカやキリスト)や研究室や図書館にこもって、現実の性闘争自我に立脚し、それらを本源風に装飾し直し、観念体系を構築した近代の哲人(カントやマルクス)も、失われた本源価値を定義付けし直すことをづっとやってきたのだと思う。
 
 特に近代思想といわれる愛、平和、自由、平等、人権、個人主義などの旧観念は、事実とかけ離れた定義付けがなされているがあまり、個人主義と平等を同時に実現しようとすれば、矛盾が生じ、苦しい言い訳に終始せざるを得ない構造を持っているのだろう。

 【定義】することは、後付であり、現実の事象を追認識して、人間が考えやすいように勝手に作っただけである。だから、事実の探求過程には、定義はいらないし、邪魔である。定義は固定観念そのものであり、定義つける思考そのものは、旧観念思考そのものなのだと思いました。

彗星

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