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2014年11月

2014年11月30日 (日)

観念パラダイムの逆転から、婚姻制を捉えてみる

個々人の価値観の問題は別として...
現象事実としての晩婚化や離婚率の上昇、更にセックスレス蔓延や少子化、児童虐待等など、現在の婚姻制(子育てを含む)は疲労し、制度限界に達しているように思う。

しかし、この問題を“父系一夫一婦制の否定”という視点で捉え、答えを探そうとしても(≒相手に説明し、共感を得ようにも)、出口を塞がれてしまう。
これは、問題の捉え方が、言い換えれば観念パラダイムそのものが旧いのではないだろうか。

>これまで、我々は現実否定の意識によって、重い鎖につながれていた。実現の構造認識さえもが、現実否定(or社会変革)の為の構造認識という鎖につながれていて、充分な活力を生み出せなかった。しかし、今回、パラダイム転換によって最後の鎖を断ち切った事によって、大きな活力上昇が期待できる。(22203

現実の課題から出発し、どうしたら子育ての安心基盤が確保できるか、とことん充足可能性を探っていくことが、次代の婚姻制を考えていく上で重要だと思う。
現実肯定の視点で捉えると、実現基盤が見えてくる。。。

松井英仁

2014年11月28日 (金)

赤ちゃんに学ぶ好奇心

>つまり、厳しい外圧という切迫した状況を何とか突破しようとする意識・行動が探究心・好奇心の原点です。130610

好奇心・探究心の塊りの代表といえば赤ちゃんです。
どんなことにもなんで?なに?って興味を示していろんなことを短時間のうちにたくさん吸収していきます。

ところで赤ちゃんは「厳しい」外圧という状況を頭で理解しているか?といえば、決してそんなことはないでしょう。厳しいとか厳しくないとかを考える以前の、生物みなに備わっている適応欠乏がまっとうに作動しているから、あらゆるものが探索の対象となっているのだと思います。

現代人の多くが好奇心・探求心を失っている理由、それはこの適応欠乏が作動しないことにあると思います。
頭では「厳しい」といいながら、原始人類に比べたらはるかに恵まれた圧力状況ゆえに、切迫さに繋がらないことも一因ですが、「厳しい」→「不可能」・「答えなんてない」という短絡的な思考に繋がっていく思考回路こそ、探求心・好奇心を失っている大きな理由だと思います。

匿名希望

2014年11月26日 (水)

マスコミは「事実」よりも「思い込み観念」

20055
>何であれ、現実を否定すれば自己欺瞞(そして意識と存在の断絶・分裂)に陥る。だが今、その現実は自我私権を残存させつつ、充足基調から本源収束へと根底的な地殻変動を起こしつつある。つまり、今ようやく肯定可能な現実基盤が形成されようとしている。
ただ、その潮流は、欺瞞観念にフタをされて出口を見つける事が出来ず、その結果、社会不全(危機と閉塞)が高まっている。そして、高まった本源収束と社会不全のマグマは、出口を求め、可能性収束⇒答え欠乏を上昇させつつある。

 近代社会のように体感共認を超えた超肥大集団のおいては、上記の現実と観念とつなぐ位相に社会共認の形成を担う機関である「マスコミ」の存在を無視できない。

 現実が自我私権衰弱⇒本源収束へとパラダイム転換し、大衆の下部意識(潜在思念)は社会不全の上昇⇒可能性収束⇒答え欠乏へと収束しつつある。にもかかわらず、相変わらず現実否定の欺瞞観念(自由、平等、人権)を撒き散らすマスコミが社会共認を牛耳っている。ただ、旧来からのマスコミの反体制、否定の報道内容だけではマスコミ離れがすすんでゆくため、マスコミは「正義(都合の良い価値観念)」という欺瞞観念を掲げ、「社会的弱者を守る」「企業、官僚の不正を叩く」「環境にやさしい」などの報道姿勢に転換していく。 

 社会が豊かになり虐げられる序列弱者(貧困、差別、公害被害者等)が少なくなると、今度はマスコミは自らの報道によって新たな弱者を捏造する。それが「殺人犯の人権を守れ」「ホームレス(働けるにも関わらず働かない人たち)への保護をせよ」「ニートへの就職支援を整備せよ」などさまざまな主張につながっていく。そうして、それらの弱者を守るマスコミという立場(共認形成者という既得権)を守ろうとする。環境問題においても、マスコミが企業や政府を叩くべく自ら捏造したに近い。

 しかし、私権収束さえ崩壊し、本源収束、答え欠乏が上昇することによって、さらに大衆のマスコミ離れが進む。マスコミは部数を稼ぐ為に、あるいは紙面を埋めるためにさらに捏造を繰り返し、ついに現実がその報道被害によって破壊されていく。

 もはや、マスコミは「事実」よりも「思い込み観念(事実に基づかず一方的な主張による)」を重視する権力者でしかない。可能性の流れをせき止め、何ら役に立つ事実情報さえ報道しないとすれば、そのような機関は社会によって全く役に立たない存在でしかない。

 そのようなマスコミに代わり、自分達の共認形成の場とそれを可能にする理論(事実の共認、構造認識)が不可欠になってきたのだと思う。

匿名希望

2014年11月24日 (月)

これからの社会は緻密でなければ適応できない

>「答えること」従って「分かり易くまとまっていること」が倒錯観念のパラダイムだからである。(7674)

最近の若者を見ていると、上記の傾向は殆ど見られなくなっている。
その意味では、倒錯観念のパラダイムは完全に崩れてきている。(観念を商売にしている人意外は・・・)

ただし、一つ問題がある。
それは、非常に感覚的で、論理的な思考になかなか向かえない。ということ。

現在、社会では、ミス爆発や偽造・捏造問題などをきっかけに、行動や発信内容の“論理整合性”が強く求められてきている。別の言い方をすると、これからの社会は緻密でなければ適応できない。その外圧に対して非常に非力という印象だ。

それは一定無理の無いことで、以前の投稿(127953)で、
「この二つ(親、仲間)の“対面(期待)収束”意識とそれによる、対面を超えたより深い充足を得た経験が乏しいことが積み重なり、対面の相手には“素直”に反応(応望)するが、先々の充足を予測(=期待)してより高い充足を得たいという予測思考や実現思考が阻害されている」と書きましたが、それ故に、「発信したい!」、そして「共認充足を得たい!」という期待が押さえ込まれてきたこと。

そして、親や学校教育で与えられる課題は、常に「自分の(知識の)ための」、しかも決まった答えに辿り着くための課題で、評価は自分が獲得した点数という徹底的に自分課題でしかなかったこと。

さらに決定的なのは、使い物にならなくなった倒錯観念(私権観念)しか教えられてこなかったこと。(考えるための道具が古いので、誰も物を考えようとしなくなった。)

など、原因は彼らを取り巻く環境にある。

現実社会では、お客さんの依頼(期待)を受け、お客さんの身になって考え、提案し、喜んでもらうという課題で、「こうあるべき」の答えは初めからあるわけが無いし、“お客さんが満足してくれる”ことが評価で、“自分がいかに一生懸命やったか”という過程は全く評価されない。徹底的な自分の外の世界(社会)の対象化、同化能力が必要になる。

そのための武器なら既にある。『実現論』など、「るいネット」で取上げられている事実認識がそう。パラダイム転換をなし得た彼らの次代の目標は、事実認識を積み重ね繋げていくという論理的思考だと思う。(勿論、倒錯観念に染まってきた、おじさん世代も同様だが・・・)

佐藤祥司

2014年11月22日 (土)

私権闘争(=奪い合い)と観念闘争(=充たし合い)

>既に、最も重要な下部意識は、私権収束から本源収束へと転換した。従って、今後(30年間)は、上部意識=観念に焦点が移る。社会の最先端では、旧来の私権闘争に代わって、観念闘争が、最もホットな場となるだろう。21495

私権闘争と観念闘争は、同じ闘争という言葉を使っているが、
私権闘争=奪い合い
観念闘争=充たし合い
180度違う。

私権闘争
私権(お金、権利、女)”をめぐっての個々人同士の闘争=奪い合い。

■観念闘争
みんなが充足できる現実に役立つ“答え=新観念”をみんなで(切磋琢磨し)創り出す闘争=充たし合い。
その“答え”はみんなが期待している。期待に応えることは、すなわち充足に繋がる。
だからホットな場になる。


下部意識では、本源収束
“自分”から“みんな”へ
“物”から“心”へ
と転換しているのに
※“心”=共認充足をより高めるための“観念”が旧観念(現実否定→倒錯観念)に犯されているために
下部意識と上部意識が繋がらず、収束不全を起こし、社会は閉塞してしまっている。

⇒(どうする?)

>本源収束の下部意識に立脚する新観念が、旧観念を全的に爆破しても、何ひとつ困ることはない。数億年・数百万年の塗り重ねによって形成された下部意識を、頭で都合良く変えることなど出来ないが、観念は頭で塗り替えたら終いだからである。21495

元凶である、旧観念は、爆破し、塗り替えたらしまい。
でもあり、どちらが、充足できるかは、明らかである。


(参考)140929 ■観念の正しい使い方
>①観念そのものには、充足回路は伴っていない。
『あくまで観念(言葉)は、本能(体)や共認(心)の充足をより高めるためにある。』

西村真治

2014年11月20日 (木)

誰のために記事を書くのか。「読者」の存在を忘れた記者達…個人主義者の詭弁と根っこは同じ

>ただ、'70年以降、あまりにも自分主義の弊害が大きくなってきたので、「他人の自由や権利を最大限に尊重するのが、本当の個人主義だ」という論調に変わってきました(そうでないと人々の共認が得られない)。しかし、そうなってもなお自我は肯定視されたままで、否定できないでいます。それも当然で、自我こそが個人主義の核心を成すものであり、もし自我を否定して他人の尊重を第一にすれば、個人主義は相手主義に大転換して終うからです。それほどに、自我(という観念)と個人(という観念)は、不可分なものとして形成されています。『個人主義者の詭弁 個人と自我』より(972)


最近の(といっても20年ほど前から感じている事だが)新聞や雑誌の記事を読むと「誰のために記事を書いているのだろうか」と思う事が多い。

記事の内容が確かに「社会的に意味がある」と思われる物が年々少なくなり、新聞の看板である「社説」の記事も三面記事にあるような出来事の羅列であったりする事が多い。

そのような記事を見ると、「社会のため」でもなく「会社のため」でもなく、「個人ノルマ」のためかと思ってしまう。

そのような危機感を感じている元新聞記者のブログの記事が元同業者であるだけに的を射ているので引用紹介する。
『ガ島通信」より 以下抜粋引用リンク
******************************************************
>新聞の危機を説明するときに、私はいつも「たとえ話」を持ち出します。もし、新聞社が老舗和菓子屋だったら…。

>和菓子屋は、創業100年の老舗。「安心」と「信頼」が売り物で、中高年に人気です。社会的ステータスもあり、贈答品としても喜ばれています。しかし、店員は評判の上に胡坐(あぐら)をかき、態度が横柄です。そして、最近味が落ちたのではないかと一部の人が噂しています。従業員の一部は「昔ほどの味ではなくなった(報道内容の質が低下)」、「イメージが古い(デザインやレイアウトが古い)」と危機感を持っていますが、ほとんどの人がのんびりしています。なんと言っても、まだまだ売れているし、給与も高い…。

>最近、近くには洋菓子店がオープンして、若者に人気が出始めました。以前から若者離れに頭を悩ませていた和菓子屋の旦那は、ケーキや創作和菓子に挑戦するよう従業員に命じますが、職人はプライドが高くて、お客のニーズを聞かないこともあり、あまり売れません。そして、じわじわと売り上げは落ちています。そんな和菓子屋に将来はあるのでしょうか?  …こんな感じです。

>新人研修会で同じようなことを話したこともあります。新聞社に入った理由(記者以外もいるので)を尋ねると、「世の中の役に立ちたい」というようなことを言いますが、「新聞を読んでいる?」、「友達は読んでいますか?」と聞くと、ほとんどが「読んでない」、「自分は読んでいるが、友達は読んでない」と答えます。「お菓子を食べたことがないし、友達も食べていないのに、よく入るね?」と言うと、ハッとした顔をする人もいます。

>「そんなことも気づかないの?」と言うのは簡単ですが、世の中には良くわからないけど「確からしい」と思っていることはたくさんあります。それを、掘り起こしたり、違った角度から切り取ったりするのがマスメディアの役割でもあるわけですが、多くの人がそうであるように自分のことには鈍感です。

>この話をマスコミ関係者とすると「けどね、マスコミは和菓子屋じゃない(当たり前!)」、「商売とジャーナリズムを一緒にしてもらったら困るよ」などの意見が出ます。つい先日も「いい報道をしたい」と、努力している民放のカメラマンと話したときもかみ合いませんでした。和菓子屋さんだけでなく、どのような職業の人でも、良心的な人はコストや組織の体質と闘いながら「お客さんにいいものを提供したい」と頑張っているはずです。ジャーナリズムを担っていることに社会的責任があることを、いつしか特権と思い「自分は違うのだ」と思い込んだら終わりです。

~以下省略
*************************************

「社会のため」「みんなのため」という思いが、いつしかお題目化し、結局は「自分の会社のため」、「自分のノルマのため」にずり下がっている。

他人を批評するだけで、自らが評価されることが少ない彼らは、自らを騙している詭弁の罪の重さに気付いていない。

ギニュー特戦隊

2014年11月18日 (火)

傍観者=高尚の時代から、傍観者=無用・無縁の時代へ

>一昔前から現在にかけて、新聞の売り物は中立・不偏不党であった(実際にそうであったかはここでは問わない)。社会に対する監視人=チェックマンとしての自己規定=基本姿勢である。

私権圧力下の現実は私権闘争。万人は私益を求めて争う対立関係にあり、その現実から逃れることはできない。意識は中立を貫こうとしても、存在は私権闘争の中にある。
それは、一見して俗世=現実から離れているように見えた知識人達であっても同じこと。

当時、統業を担う立場にあった知識人達が現実を捨象した観念に収束→傍観者化したのは必然であっただろう。ゴマカシであれ、統合観念を示さなければ彼らは現実の存在基盤を失ってしまう。

しかし同類圧力下に転換した現在、万人の意識は人々の期待に対する応望に収束している。
現実に共働関係を築いていくことが、その可能性収束をより強く、太いものにしていく。

開花した期待・応望の欠乏を実現へと導くものは、現実に即した理論以外に有り得ない。

傍観者=高尚と評価された時代も確かにあっただろう。
しかし現在、傍観者=無用・無縁となるのは必然であると思う。

根木貴大

2014年11月16日 (日)

「人類史」は「共認史」

>民主国家は、既に社会共認に従う一個の共認体となっている。しかしそれは、共認動物が棲息する場である以上、当然のことなのであって、共認動物が形成する集団は、国家であれ企業であれ、当然全て共認統合体である。その意味で、本来的(=潜在的)には、国家は私権闘争の統合体である以前に、何よりも国民の共認体である。(実現論4_7_01

序列・私権国家でさえ、国民の共認体であると言うのは、重要な認識であると同時に、目から鱗の認識転換だと感じた。

この認識が意味することは、「人類史は全て共認原理で説明できる」と言うことであり、「共認を形成できれば、集団・社会は統合できる」と言うこと。
そして、逆に言えば、何を共認し、どのように共認内容を形成していくかで、全てが決まると言う事。

序列・私権国家は、生存圧力の中、力の原理とそれに基づく秩序収束によって、序列共認を形成した。そして、生存圧力の消滅と言う生物史を覆すパラダイム転換は、この序列共認による集団・社会統合をガタガタに崩した。

現在の日本を見ていると、集団統合もままならず、全てはバラバラになったように感じるが、人類が共認動物である以上、社会共認さえ形成できれば、社会は必ず統合できる。「共認原理で全て説明できる」人類史がそれを証明している。

社会統合に必要なのは、生存圧力の場に変る新たな場=同類圧力の場を導く、新観念の共認形成のみである。

西谷文宏

2014年11月14日 (金)

社会=現実に直結した勉強が必要

一昔前(私権獲得が第一義的だった頃)であれば、
これを、覚えれば、試験に合格する。
すなわち、将来に亘って私権を獲得することに直結していた。

今や、私権が衰弱し(私権獲得が第一義的でなくなり)、人の役に立ちたい、社会の役に立ちたいという本源的な意識が、顕在化してきている。

これを、暗記すれば(知っていれば)、みんなが喜んでくれる。期待してくれている。
だから、勉強を頑張る(覚える)。また、友達と一緒の学校に行きたいから勉強を頑張ると言った子供たちが増えている。といった仲間との共認充足からくる勉強意欲は、高まっている。

一歩踏み込んで、
この勉強は、社会のどういった事に役に立つという結びつきが不可欠。
ますます、消費と生産の場が分断された家庭や学校において、将来、生産を担う子供たちに、社会(生産)に直結した勉強をもっと伝えていく必要があり、またそれが、(社会の役に立ちたいという潜在思念と結びつき)勉強(記憶)の原動力になるのではないでしょうか?

西村真治

2014年11月12日 (水)

事実は忽ち共認され万人のものとなる!

>欺瞞観念に浸り切った支配階級やその支配共認に染脳され続けてきた大衆は、未だに『同類闘争』という概念も、『共認』という概念も、何も知らない。それでは『場の大転換』を、見抜ける訳がない。もちろんそれらは、そうと教えられれば誰でも確認できる、簡単な事実に過ぎない。それが人類固有の観念機能の凄さであり、誰かが(たった一人でも良い)可能性のある事実を発見できれば、その事実は忽ち共認されて万人のものとなる。

「事実は忽ち共認され万人のものとなる・・・」

旧観念による支配共認で出口を塞がれているのに、ほんとうか?と疑う人も多いと思う。

しかし「ほとうか?」と考えていしまっている人が、旧観念に気付かずに支配されている。


人類は500万年の歴史を持ち、その殆どの期間(99.9%)を、期待応望を活力源とする共認社会として結実させ、進化・発展してきた。

私権社会に変わったのはつい3000年前、人類史全体からみると「ついさっき」ともいえる。


「観念は塗り替えたら終い(21495)」なのである。


事実は忽ち共認され万人のものとなる!

バスケットマン

2014年11月10日 (月)

なんで思考で暗記思考を突破する。

試験勉強であれなんであれ、人は重要だと感じた情報は身につきます。

ただ現実がそうなってないのは、人の記憶力は『覚えることに価値を見出している』かどうかに左右されるからなのではないでしょうか?

この仮説を一旦正しいとすれば、記憶力が上がらない原因は2つ考えられます。
1、『丸暗記は価値がない』という固定観念
2、『暗記思考』の欠陥

自分は記憶力がないという人は幼少期からの教育≒刷り込みによって、そう思い込んでいるだけの可能性が濃厚です。

この問題を突破するには、『知識は豊かなほど応用が利く』という逆転の発想を出発点にすることが不可欠です。

そして、目の前の対象に「一体どうなってるのこれ?」と問い掛ける『なんで思考』の面白さを体感すれば、記憶力向上への突破口が開かれます。

『丸暗記は価値がない』から『知識は豊かなほど応用が利く』への塗替。
『暗記思考』から『なんで思考』への転換

教育の根本理念にメスを入れる必要があると強く思います。

走馬灯

2014年11月 8日 (土)

「考えている」とは?「悩んでいる」とは?

>考えるとは、何かがうまくいき、充足するための行為なのだから、自ら可能性を閉ざして、しんどい思いをすることはない。<(146045


■いつもあれこれ「考えている」つもりだけど、なぜか何も状況が良くならない…

こんな事って日常生活では、たびたび起こる事ですが、


現実直視⇒現実の構造認識を解明する

という「実現思考」という観点から見れば、「全く考えていない=思考停止」の状態と同じです。

結局のところ、「~~~をしたいけど、自分の評価が気になる…」といったように、潜在思念発の観念と倒錯思考(自我)発の観念がお互いに綱引きをしている状態なだけ。

つまり、現実を直視できていれば、素直に可能性を探ることができるのですから、
現実の壁を乗り越えて充足するために一生懸命「考える」ことができるはずです。


■「考えている」=可能性収束先を特定しようとしている状態(=実現思考)

「悩んでいる」=可能性収束先に蓋をしている状態(=思考停止)

ってことでしょうか?

安藤広海

2014年11月 6日 (木)

みんな充足を求めて観念を塗り替えてきた

観念は頭で塗り替えたら終い 21495

でもそんな簡単に出来ないよぉ!って思ってました。
観念を塗り替えるって、自分の性格が変わっていくみたいで怖いと思ってた。“変わった後、自分はどうなっちゃうんだろう(>_<)”って。
「性格(=個性)は変えられないもの」「変わらないことが良いこと」って教えてこられたのもあったから、昔は「性格変わったねぇ~」と言われるのがビミョーだった。でも怖いのはしがみついてた観念が壊れるのが怖いだけ。
現実には、固定観念が壊れ(塗り変われ)れば、あとにはその分、素直に充足を感じてる自分がいるだけなんだ。

実際に今までも、充足を求めて、観念を塗り替えてきた事はたくさんあったんだって皆に気付かせてもらいました。苦手意識とか不安や悩み、、乗り越えてみると「なんであんなことで悩んでたんやろ」「意外と面白いじゃん」っていう感じ☆

きっとこういうことの繰り返しで、可能性(充足)の波って生まれるんだと思いました。
充足体験を元に考えると、充足に向かっていく・可能性に向かっていくことでいくらでも観念の塗り替えは可能!って気付く。
(というか実際、結構変わってきたことに気付く(^^)
観念も性格も、変えていくって意外と簡単なのかも♪って思いました。

鹿村幸代

2014年11月 4日 (火)

共認革命が旧革命と決定的に違うトコ

革命のイメージと言えば、デモ行進、街頭演説、暴力行為。
これらは力の序列に対する力によるアンチ。
力を持つ者に力で抵抗する。あわよくば力を得る。
主張はそれぞれあるにせよ、結局、序列社会で己らにも力をよこせ。これが旧革命。

それに対して共認革命はこれまでのそれとは全く位相が異なる。
序列社会が崩壊し社会がガタガタになった→人々の活力が衰弱してゆく⇒この現状に対して適応していこう!
これが共認革命。

旧革命が序列社会における個、若しくは限定された集団の優位性獲得を目的にしているのに対し
共認革命は種としてどう適応するかを目的とする。
ここが決定的に違うトコ。

野田晋一郎

2014年11月 2日 (日)

外圧はなくならない

 人類は生存圧力を克服する為に、共認機能観念機能を進化させ、これまで生きてきた。その生存圧力を克服した現在、じゃあ次の目標は?活力源は?…そこが見えずに活力が出ないというのが現状だと思う。

 外圧は常に変化している。ということが分かれば見えてくる。例えば、人類は生存圧力を克服する為に、科学技術を進化させてきた。しかしそれに伴って、環境問題etcこれまではなかった新たな問題も多く生じている。これは新たな生存圧力である。

 この新たな生存圧力は、これまでのそれとは異なり、本能を直撃するような分かりやすいものではなく、観念機能でしか捉えることができない。のほほんと生きていては、気づくことすらできないということ。
 
 外圧は常に変化し、なくなることはない。従って、現在の外圧も含め、どんな外圧、状況にも適応(気づき、解決に向かってく)できるよう、共認機能観念機能を更に進化させていく必要がある。つまり活力源が本当になくなるということはない。

米澤祐介

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