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2014年9月

2014年9月29日 (月)

日本におけるインテリ=知識階級の変遷

インテリとは何か?以下引用はウィキペディアより。

>知識階級とも表現されるこの社会的な階層は、主に学問を修め、多くの現象を広い見識をもって理解して、様々な問題を解決する知恵を提供したり、その知識によって発見・発明された成果物を提供する事によって社会から対価を得て生活する。<リンク

具体的には、政治家や経営者、芸術家やクリエイター、学者、教師、報道関係者や評論家だとウィキペディアは言う。

>日本では明治以降に、学問が広く大衆に開かれたものとなっていく過程において、労働者階級の対比語として略語のインテリが用いられるようになっていった。(中略)更に時代を下がって1970年代以降に、学問が単なる就職のための踏み台として利用されるようになり、他方では知識を持っている事と選民思想が連携して、知識の無い層を否定的に扱うような風潮が出始めた辺りから、世相の上でインテリの在り様に対する否定的な見解が現れはじめた感は否めない。<

貧困の消滅。序列原理から共認原理へ移行したわけだが、反序列運動の失敗から庶民が観念を捨て去ったのに対し、一方では知識階級が新たな身分序列として浮上してくる。しかし、

>1980年代に入るとこの就職のための大学という位置付けはますます加速し、同時に学問を修める過程でその理解の度合いを計測するための試験(テスト)が、試験のためだけに学習する、言い換えれば学問を修めるのではなく、大学の教育課程を通過するために学習するという逆転現象が発生するに至り、学徒(学問の習熟過程にある存在)としての学生は減り、単に大学に在籍しカリキュラムを消化するだけの「大学生」の増殖によって、その学習意欲面での質の低下も懸念された。<

私権獲得の可能性が庶民にも開かれたこと、そして共認原理による知識階級の特権化はまさに現実に役立たないインテリを増産してきたのだろう。

>1990年代に至っては、この「大学生」の質の低下は「小中学校で教わっている筈の基本」すら理解できていない学生の増加や、学習意欲の欠落による活字離れの問題もあり、また大学を出てなお非科学的な物を平気で信じる理科離れの問題もはらんで、「学問」という社会基盤の崩壊が危惧される事態まで発生している。<

中身はどうでもよく、インテリという身分だけが先行した結果、そもそも勉強するものたちがその中身の無用性に気付いたことは非常に皮肉な結果だ。

>1970年代以前より所謂インテリが、その学問をもって他を貶めるようなネガティブな印象は存在したが、特に近年ではネット・コミュニティ上にて発生しては物議を醸している学歴差別に見るような、修めた学歴を一つの指標として優位性の誇示を行う人間の存在が、なおもインテリの失墜を招いている。また他方では、インテリが専門分野でのみ優れた知識を有し、それ以外では常識にも欠ける者も見られた事から、オタクとの同一視も発生している。<

まさに「高みにたった姿勢への」違和感の顕在化。そして知識はあっても現実の役に立たないことも明らかになってくる。ここでは中身以前に、その姿勢が問題となる。だから、

>元よりインテリは知識面での優位性を持ってその地位が確立されるのではなく、知識を用いて社会に奉仕するからこそ、社会から大切にされるという物だけに、そこを履き違えて知識だけを溜め込んだだけの存在は、度々周囲から否定的に扱われては当人らが憤慨するという現象を招いている。<

まさに、
>かつて善とされたこれらの高見に立った姿勢=傍観者的姿勢も、現実の変化とともに、その欺瞞性自身に断が下されるのだろう。(32528

かなめんた 

2014年9月27日 (土)

倒錯観念に陥っていませんか?

観念機能は、本来「現実」を対象化して使うものである。しかし、現実不在のものを対象化したり、先に観念機能を使って考え、それに合う現実を後で取捨選択したりするのが倒錯観念である。

普段仕事をすれば、データをもとに色々考える事がある。だが先に答えを自分の中で決め付けて、それに合う都合の良いデータだけを揃えていたりはしないだろうか?それこそが観念機能の誤った使い方であり、倒錯観念である。

もともと仮説を立ててデータの整理をするにしても、そこからズレるデータ(現実)があれば、それを捨象するのではなく、もう一度仮説を立て直して、現実をもとにして観念機能を使っていかなければならない。

観念機能がDNA組み替えを超えた新たな進化機能であるという事は、その機能を獲得した人類は、その共認=観念内容によって進化もすれば退化もする可能性を孕むことになる。(実現論1_6_04

共認内容を無限に組み替えられる観念機能を獲得した私達は、その共認内容が現実に基づくものでなければ、大きな過ちを犯してしまうことにもなる。

かなめんた 

2014年9月25日 (木)

近代思想の全面否定

古代宗教は、因果関係から言えば、現実の不可能視から生まれている。どうにもならない現実の代償充足である。
しかし、近代思想は現実の可能性を欺く為に、自我・私益の正当化の為に、観念世界から捏造されたと見るべきだと思います。成立構造に、現実との関連性が皆無という狂った観念群と認識すべきだろう。

それ故に、近代思想の欺瞞性は厄介であると思う。

養老猛氏が都市を「脳化社会」と言っているが、観念世界で構築されたことを無理矢理、現実にしている、という意味と理解している。
昨今の社会問題の大部分は、近代思想による欺瞞に満ちた観念世界の具現化によるものと言っても良いだろう。生き物としての人の現実と観念世界のズレと言っても良いように思う。

また、観念世界の欺瞞であるが故に、欺き方は(屁理屈)は無限にある。
それも、欺瞞である以上、現実を否定または捨象した狂った方向ばかりの観念群である。

るいネットでは、「みんな」の実感とか、現象事実とか、生き物としての人という現実の事象へ立ち戻って考えようと呼びかけている。
つまりは、近代思想の全面否定ということだが、その重要性は非常に大きいと思う。

鈴木龍也

2014年9月23日 (火)

傍観者=ウソつき

>およそ社会を考えるものや、公的な立場に携わるものは、その私権闘争や私権対立から一歩外に身を置くという仮装が必要があったからであろう。32528

「仮装」という言葉をもらって、気付きを得ました。

私権時代の現実は、私権闘争や私権対立。
およそ全ての人が自らの金や地位のために“自己中”に争う現実です。そして、その現実から誰も逃れることは出来ません。

このような状況のもと、現実から一歩外に身を置くとは、“自己中”に相争うことをしない仮初めの理想像を演じること。
誰しもが“自己中”ななか、“自己中”ではない姿というのはまさに理想像であり、そのような姿が高尚であると思われ、もてはやされたのでしょう。

ところが、いくら高尚な姿を演じたところで、演じている本人も別のところでは“自己中”な私権闘争をしているわけですから、はっきりいってウソ。表向きは高尚でも、中身はウソつき。はなはだ“自己中”です。

「その欺瞞性自身に断が下されるのだろう。」と最後に仰っている部分が良くわからなかったのですが、この気付きと共にわかりました。

そして、そう考えてみると、傍観者的な姿勢は、全くのウソなのだから、過去も未来も全く無用のもの。ましてや、現実が変わった今、そんな姿勢を続けていたのでは誰にも相手にされなくなっていくのだと思いました。

多田奨

2014年9月21日 (日)

精霊信仰が分かった!

精霊信仰って聞いた時、私のイメージでは“木とか山とか感情のないものに精霊を見いだすとかなんか難しいなあ、ちょっと宗教チックだなあ”という感じでした。
しかし、今日いろいろ仲間と話してみて、すごくすっきり理解できました。私達の祖先は意味もなく自然に精霊を見いだしていたのではなく、自然外圧に適応する必要性があったから精霊を見いだしたのです。

なるほど~、「同化しよう」と意識するのではなく「外圧がすべて」だったんだ!!無意味に自然に同化しよう、しようという意識だけが先行してもできるものではなかったのだな。

山で木々のざわめきを聞いたとき、「それは精霊が走り去ったのだ。もうすぐ嵐が起きる!」と捉えた。このことは、得体の知れない嵐という外圧をみんなで共有できる精霊を見いだすことで、不安を取り除き、また嵐が来ることを予測させた。意味が分からないものほど不気味で恐ろしいものはない。だからみんなで自然現象(ここでは外圧)に同化し、みんなで共有できる事実として捉えようとした。

当時の外圧を想像すると、精霊信仰がどういうものだったのか、すっと捉えることができました。

中北千奈美

2014年9月19日 (金)

「自然」も「社会」も欺瞞観念では。

 もともと自然の中でそれを現実として徹底的に対象化、あるいは同化してきた日本人にとって「自然」といった概念はなかったのではないか。

 どうも「自然」とは近代以降入ってきた西洋思想の訳語でしかないように思う。だから人工⇔自然といった対立概念でしか捉えられない。西洋にとっての自然は支配する対象であったのに対し、日本のそれは全く違う。なのに今や西洋的な概念がまかり通っている。

 「社会」も同様に、共同体の中で暮らす本源的な集団に「社会」といった概念はなかったのではないか。だから「社会」とは「個人」に対峙する言葉として使われることが多い。

 日本的には「世間」の方がよっぽどしっくり来るけど、英語ではそれにピッタリ当たる言葉が見当たらない。
 the world,the public,life,ordinary・・・辞書からはいろんな単語が出てくるけどどれも日本語でいう「世間」とはちょっと違う。

松下直城

2014年9月17日 (水)

イメージできないから「具体的な事例がほしい」ってホント!?

「イメージが湧かないからもっと生々しい具体的な事例を教えて!」

なんかすっきりしない…と思うとき、もっと具体的な事例があればなあ、と考えがちでした。

でも実は、それは違う。
「イメージができないのは論理構造が理解できていないからだ」と言われました。

そう言われれば…全体を構造的に理解できたときに、「ああ、あのこともそうだったんだ!そういえばこのときもそうだった!」ということ、よくあった!

つまり、今までに事例はたくさん持っているんです。
でも、そのひとつひとつがつながりを持って捉えられていないから、しっくりこない。
なのに、「もっと具体的な事例を」なんて全然意味がなかった。

ひとつひとつの事例がすっきりとイメージできるのためには、全体を構造的に理解することが不可欠なんだ!!

春風 

2014年9月15日 (月)

「支配観念の全否定」が最初の関門

>しかし、大多数は支配観念を明確に全否定しておらず、その結果、観念回路の大部分が支配観念に染脳されて終っており、その観念が思考を支配して本源収束の出口にフタをしたり、異端視共認を形成したりしている。
19274)

「支配観念による染脳」を考える時、旧世代と新世代では異なるのではないかと思う。我々旧世代は、思想やイデオロギーの旧観念によって観念支配されていた。常識と言われる社会通念も社会規範も全てが旧観念であった。しかし、近年の社会における現象事実をみるにつけ、旧観念が無用であり、明確に全否定することの必要性は認めざるを得ない。

 一方、新世代にとっては、思想やイデオロギーなどによる旧観念による染脳ではなく、例えば、自由、愛、男女平等、などの潜在思念による染脳
が中心だと思う。更に、時代の意識潮流も明確なものではなく過渡的に浮遊している。そのような状況で支配観念を明確に全否定する為には、潜在意識に踏み込んだ全否定が必要ではないかと思う。

 いずれにしても、旧世代、新世代の両世代とも

∴支配観念を全否定することが最初の関門=突破口となり、支配観念からの脱却度と実現回路の発達度が、戦略ターゲットの選択基準となる。

ことは明白である

大木康子

2014年9月13日 (土)

奪還すべき観念とは?

>何より政策サークルからネオコンやキリスト教右派系が淘汰されても、彼らが残した爪痕を簡単に払拭できるとは思えない。ここで言う爪痕とは特定の政策ではなく、彼らの手口や思考である。
露骨に言えば、それは「デマゴギー」の害毒だ。詭弁やすり替えと言い換えてもよい。イラクでの大量破壊兵器やサダムとアル=カーイダの関係といった具体的な話もさることながら、その根底にある論理や言葉の破壊こそがこの5年間の負の遺産だ。>

>言葉と思考を奪還できるか否か。振り子の軸はそこであり、その行方は私たち自身にかかっている。>

(上記)
直言:田原牧【聖戦の風景】2006年11月16日 (木)第15回「ネオコンの爪痕」より引用リンク


50941近代思想は宗教と同根>

バラバラの個人が己の都合を優先させて争う市場競争時代に発生した近代思想(自由・平等・平和・博愛など)は、市場での経済的利益の追求を正当化するための観念であり、自分さえ良ければいいという醜い己の欲求を綺麗に覆い隠そうとする倒錯した観念です。

ですから、現実の実体が無いその観念は、いかようにも自分の都合のいいように(田原さんのいう)「デマゴギー」に加工できてしまうのでしょう。

だから、「言葉と思考を奪還できるか否か」と田原さんが仰るように、
倒錯した旧い観念を放棄し、現実対象に立脚し可能性を構造化できる「事実観念を再生できるか否か」が、私たち自身にかかっているのだと思います。

麻丘東出

2014年9月11日 (木)

構造認識にすべてを委ねる覚悟を

> 観念が捨象されてゆくのは、貧困や抑圧の消滅によって旧観念が単に輝きを失ったからというだけではない。現実に、(特に仲間関係では)本源充足の可能性が開かれた以上、その可能性の実践的な模索に収束するのが当然で、その代償観念にすぎない感応観念(価値観念や規範観念)はもはや無用となったのである。18571

感応観念を“捨象”する段階と、感応観念を“無用”とする段階とがあるように感じた。「捨象している」だけでは、ちょっと頭を使った途端に、支配観念に絡め取られてしまうだろう。頭を使い、構造認識にすべてを委ねる覚悟が、「感応観念は無用だ」とする認識であると思った。
そうなってはじめて、可能性を見出すことができるし、実現もできる。
 

匿名希望

2014年9月 9日 (火)

否定意識は、もう要らなくなった

>現実の中に可能性を求める充足基調⇒本源収束の下部意識を、現実否定のパラダイムで導くことなど出来る訳がない。
21090:四方さん)

何かミスをした時、活力が出ない時など。よく出てくるのが、「私の自己中な意識が原因でした、ごめんなさい」という言い訳。

こんな風に言われても、周囲のみんなはモヤモヤするばかりで、納得できない=可能性を感じない。

自我私権を否定することにこだわるよりも、その奥にある新しい充足基調⇒本源収束という可能性の実現に、意識の焦点を当てた方が良い。

ミスや活力が出ないという現象の、更に奥を見つめていくこと。そこには必ず、充足を求める下部意識を否定してしまっている、思い込み=既成観念がある。

意識の焦点が下部意識のいちばん奥まで届き、素直に充足を求めて、かつ必死に可能性探索が始まった時、余計な思い込み=既成観念が入る余地は無くなる。

そうなって初めて、言い訳が無くなり、実現に向かっていける。

ジャック・ダニエル 

2014年9月 7日 (日)

「生きる」=「現実の対象化」

 始原人類は、「獣や自然など、自分には関係ないよ」などと言っていたら死んでしまうのは当然。つまり、獣や自然という「現実」を受け止めて、対象化することによって生きてきた。


>貧困が消滅して生存圧力が衰弱し、同類圧力が中心的な圧力になってくると、パラダイムは一転する。同類圧力は、人々の共認が形成する圧力である。従って、『現実』とは人々の意識に他ならなくなる。(20355)

 現在、「現実」とは「人々の意識」であり、これを素直に受け止め、対象化することによって生きていくことができる。この現実を否定していたら、生きていくことはできない(狂ってしまう)。その極端な例が、自殺や殺人なんだと思う。

 つまり「生きる」=「現実の対象化」。

 今の時代、生きていくためには、「人々の意識を対象化」することが必要。「人は人、他人の意識なんて自分には関係ないよ」などと言っていたら生きていけない。

米澤祐介

2014年9月 5日 (金)

課題や圧力を把握すると活力が湧いて来る!!

>物的生存圧力(自然圧力と外敵圧力)⇒物的生存課題をほぼ克服し得たのだとすれば、あるいは少なくとも動物的な生存圧力はもはや主要な活力源たり得ず、従って物的生産はもはや第一義課題たり得ないとしたら、残るのは同類圧力の活力源しかない。(実現論4_1_08)

物的生存圧力を克服したことにより、これまでの人類課題(物的生産)は主要な活力源たり得なくなった。確かに考えてみれば、数十年前と比べて私達の暮らしは随分と豊かになり、誰もが物的に不自由する事なく生活をしている。
しかしマスコミや政治家により、未だに物的生産こそ活力源だと思い込まされている私達は、新しく出て来た重要な課題に気付けていないのではないだろうか。その課題に気付ければ、近頃の活力衰弱に関する問題は全て解決するのかもしれない。

私達人類の前に立ちはだかっている大きな課題とは何なのか?それは、物的生存圧力を克服した(=市場社会を創り上げた)からこそ派生したものばかりだと思う。市場社会における「利益追求」や「利便性追求」が元となって、環境破壊、精神・肉体破壊などが引き起こされ、経済の破綻も懸念されている。更にその根本には、男女の性に関する問題なども実は隠れている。

これらを人類的な課題として万人が認識すれば、つまり新たな圧力を万人が捉えられれば、活力衰弱問題など出て来る暇もなく、みんながどうすれば良いのかを考え始めるのだろう。課題は無限にある。今はみんながその課題を、圧力として把握出来ていないことが大きなネックになっていると思う。

清水志保

2014年9月 3日 (水)

お金の使い方を意識して私的充足から社会統合へむけよう。

>ところが、市場(交換取引)は私権闘争を原動力としており、従って、お金が万人の評価指標として社会的に共認されたものであるにも拘わらず、それは専ら私的な充足の為にのみ使われ、社会統合の為には(国家以外)使われない。従って、市場は社会統合には、殆ど寄与しない。(30710)

 「何をするにもお金がかかる」というのは、日常的に実感できる部分です。しかし、私たちは、お金が私的充足にのみ使われていることは、日常的に意識していません。ましてやその消費行為において「必要な否か」という判断さえしていないこと。そして、その結果が現在の社会不全状況を招いたことに思い至り、改めて愕然としました。

  一方で、日本国民は毎年所得税を国に(社会統合のために)納めていながら、税金の運用がまともに(社会の為に)されているかを普段から注意している人はこれまた少数のような気がします。毎年10~37%の税(平均的には実に20%!!)を納めていながら、です。その納税も、「納る」というより「徴収されている」という意識ですから、国の統合活動予算の執行に対する審判がまともにされてはいないのでしょう。
 
 社会の構成員の意識の持ち様で、市場における消費行為や行政の統合活動の中味は大きく変わって行くのではないでしょうか。そして、社会の潜在意識はむしろそうした方向に流れ始めたような気がします。

原田昭雄

2014年9月 1日 (月)

誰がために社会を変える

社会に閉塞感を感じ、社会を変える必要性を誰もが感じている。

「社会のため」「みんなの期待に応えるため」政治家やマスコミに入りたいという若者に出会うことがある。しかし、その気持ちを持って政治家やマスコミに入ったとして、実際に社会を変えることができるのだろうか?

政治集団はもちろん、マスコミも学会も国家(行政組織)も、夫々は単一の集団でしかない。ところが、集団というものは自己収束(もっと言えば自己閉鎖)性が強い。従って当然、彼ら官僚や学者やマスコミや政治家たちの、自集団の利益が第一になってしまう。(実現論9_7_02)

「社会のため」「みんなの期待に応えるため」・・・最初は本心から言っていた言葉もいつしか集団への利益をカモフラージュするためのイデオロギーへと姿を変えていってしまう。そしていつしか「平和のため」といっては戦争を行い、「自由のため」といいながら他者の自由を奪い、「愛のため」世界は自集団しか愛せず、他集団への憎しみを募らせていく。そして変わっていく社会の先に、もはやみんなの期待を感じることは決してない。

万人が属している社会。だからこそ、その社会を統合する仕事は万人によって担われなければならない。

「万人による社会統合の場を作ること」それこそが、唯一みなの期待に応える「答え」となることを忘れてはならない。

東努

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