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2014年8月

2014年8月29日 (金)

■なんでだろう?が実現基盤を発掘する。

>図解化して構造化を試みるうちに、上記の発想はそもそも、一体どこからでてきたのか?との驚きが強くなった。

なんでだろう?をとことん繰り返すことで、『集団と社会』の原理を解明し、実現基盤を発掘していったのだと思う。こんな風に↓

まずは、統合階級(政治家・官僚・学者・マスコミ等)が、社会を統合できていない事実・現状を捉える。

・統合階級が社会を統合できない(のはなんでだろう?)
   ↑
マスコミも学会も国会も単一の集団

・単一の集団だと社会を統合できない(のはなんでだろう?)
   ↑
単一の集団⇒自己収束性(自己閉鎖性)が強い→自集団の利益第一になる→社会が歪んでいく

つまり、(各集団を超えた次元にある社会を統合する組織が)単一の集団だから、社会を統合できないという『集団と社会』の原理を発掘。

その上で、
⇒じゃあ、どうする?⇒万人が属する社会を統合する仕事を、集団を超えた万人によって担えばよいという実現基盤(=可能性収束先)を発掘。

素朴な『なんでだろう?』が、実現基盤の発掘に繋がる。
もちろん、それらを繋ぐ(構造化する)ためには、万人が認めることのできる『事実体系』が必要になってくる。

『なんでだろう?』と『(万人が認めることのできる)事実体系』、どちらが欠けても原因分析はおろか、実現基盤も発掘できない。

『なんでだろう?』に蓋をすることは、実現基盤=可能性の芽に蓋をしている事と同義なのだと思った。

高田康史 

2014年8月27日 (水)

黙っている場合じゃない

>自分自身を否定し、どこかで「どうでもいいや」と捨象した瞬間から、「頭は回っていない」事を自覚しなければ、現代人は変われない。

個人課題などどうでもよくなってきた現在では、切実に答えが必要になる課題には必ず「みんな」が関わっている。しかし、「どうすんねん?何かおかしいで」 と思いながらも、相手によっては言っても無駄かなと諦めてしまうことも多々ある。結果、その課題は捨象され不全だけが残ることになる。

そんな人は遅かれ早かれ淘汰されていくのだろうが、私権規範の残骸の中ではそんな人が上司だったりすることが結構あって、不全は益々たまっていく。

「戦えよ!現実を見据えれば、「ごめんなさい」言ってる場合じゃないだろ!」

と言いたい思いをぐっとこらえてきたのだろうが、そんなのはもう古い。

>高まった本源収束と社会不全のマグマは、出口を求め、可能性収束⇒答え欠乏を上昇させつつある。

もう黙っている必要はない。真正面から指摘し、一緒に課題に向かうべきだし、時代はそれを求めている。そして、そうすることによってのみ「そんな人」も淘汰されずに済み、救われるんじゃないかと思う。

サーティーン

2014年8月25日 (月)

閉塞感⇒本源収束の構造

> '70年以降ここまでの、私権圧力の衰弱⇒本源収束の潮流を堰き止めているものの正体は明らかだろう。既に生命力を失った私婚制度・私権制度という、制度の堰である。

そして、社会が行き詰まるにつれて人々は閉塞感を強め、今や大半の人が「この社会を変える必要」を認めるに至った。こうして本源収束の潮流は遂に、社会統合へと収束し始めた。

私権制度の行き詰まりから社会の閉塞感が生まれだしたが、よりこの閉塞感が高まるのは、皆の意識が本源収束に向かっているからではないか。

私権⇒本源収束に向かうことで、既存の制度への違和感を感じ易くなり、社会の閉塞状況に気付き出す。その繰り返しが閉塞感の高まりに繋がり、人々の意識が社会変革⇒社会統合へと向かうのだと思う。

私権制度の中での閉塞感の高まりと本源収束の関係は、
閉塞感⇒本源収束
つまり、成否二通りの逆←が成立し、
・本源収束が実現できないので→閉塞感が高まっていく
・本源収束が実現できたので→閉塞感が解消された
という関係といえる。

内山竜太郎

2014年8月23日 (土)

改めて「生きる」って何?

>もし、これらの危機が「本能を直撃するような危機」であれば、捨象するなんてできるわけがない。その先には「死」が待っているのだから。
でも、今捉えられる危機は全て『本能を直撃する様な危機ではない』。だからこそ、危機と課題を捨象することができるんだ。

生きるって何?をなんで屋で話していて思った。
生きることとは外圧を捉え内圧に転化して適応すること。
言い換えれば本能を直面するような外圧であれば常に生きる為の活力は自然と出ている。でも現在はそれを観念で捉えるしかない。だから生きるのは確かに難しくなった。

今、生きるって何?とか生きている感じがしないとか言ってられるのは、近づいている危機を捉えられていないからに過ぎない。

しかしこの間、るいネットで様々なデーターで示される危機の事実群は状況を捉えるのに有効だ。
そしてそれらを知ることで
>間違いなくこの先『本能を直撃するような危機』に直面する
という事実を捉えることはできる。その事実を前にしてまだ同じ事を言っていられるのならそれは本当に捨象している事になり、そんな人に生きる資格はない。

捨象の先に待っているのは死である。実現論の最後に・・・。
>彼ら電源の切れかかったロボットたちは、何もしようとせず、ただ廃棄処分される日をじっと待っているだけではないか。

生きるって事はまずは事実(=外圧)を正視することである。

田野健

2014年8月21日 (木)

現実否定の意識。

>事実、私権時 代の全ての既成観念(古代宗教と近代思想)は、この異常な現実否定意識に基づいて作られている。その証拠に、これまで現実を否定する意識は、常に暗黙の内 に正(義)として意識され、現実を否定する意識そのものを疑うような意識は、全く登場してこなかった。これは、現実否定→倒錯思考が、私権時代を貫く思考のパラダイムである事を示している。

 現実否定の意識で一番実感がもてるのは「仕事はしんどいもの」という捉え方です。

 就職活動の時、当時人気のあった業種を漠然と探していましたが、企業を選ぶ上では、初任給、休日、福利厚生が充実していることも当然必須だと思いました。
 父から、「週休2日は必須だと思うよ。そうでなかった時は、ほんとにしんどくて大変だったから。」、先輩から「休めないとしんどいよ~」と聞かされていたことも少なからず影響していました。

 確かに、企業が週休2日であることや、働きすぎて体をこわさないようにと忠告したりすることを、誰も否定はしません。

 ただ、就職活動を重ねるうち、自分なりにやりがいを求めていながら、「なんで休むことや給料ばっかり気にしてるんだろう?」と思い出してからは、それ以上会社をまわることも空虚なものに感じられました。

 「仕事はしんどいものだ」、自由、平等、人権など、現実否定の意識では、もはや何も実現できないことは明らかです。
 誰もがあえて否定しようとはしなかったこれらの既成観念を、改めて「現実否定の意識」ととらえ直すことは、現実の中に答えを探し、実現していく大事な第一歩になると、今思います。

猪原裕子

2014年8月19日 (火)

新しい認識の数々から、同類圧力は生まれてる

『新しい潮流7 同類圧力は、新しい認識によって生み出される』

の事例として…
● 『観念パラダイムの逆転3 現実とは、人々の意識である』
>貧困が消滅して生存圧力が衰弱し、同類圧力が中心的な圧力になってくると、パラダイムは一転する。同類圧力は、人々の共認が形成する圧力である。従って、『現実』とは人々の意識に他ならなくなる。

となれば、現実否定のタブー!現実を捨象していては何も進まない!
~などの認識が同類圧力を生み出す。

●『素人の社会活動16 素人は、全て生み出すことが出来る』
>素人の生み出す最大のものこそ、人間関係(繋がり・広がり期待と応望の充足)である。
素人が生み出す最大の価値こそ共認充足であり、素人にできる最大の活動こそ応望性の発現である。

だから、「素人だから何も出来な~い…」じゃなくって、素人だからこそ、評価共認、規範共認を形成していく!
~という認識から同類圧力が生まれる。

● 『新しい潮流6 解脱仲間から認識仲間への逆転』
>今求められているのは、解脱仲間から認識仲間への転換である。(注:解脱仲間とは、古い私権時代の仲間様式であるに過ぎない。活力源が既に私権圧力から同類圧力へと転換した今、求められているのは、本源収束・外向収束を体現した認識仲間である。)

だから、いつまでも昔のままの解脱仲間で居るんじゃなくって、新しい認識を持って認識闘争していきながら、認識仲間を作っていく!
~という錦から同類圧力が生まれる。

・・・などなど、るいネットの中にはたくさんの“新しい認識”があって、つまりその分だけ同類圧力が生まれてる、ってこと。

小山瑠里

2014年8月17日 (日)

止揚と統合とはこういう事なのだと気がついた

>つまり人類は今、史上はじめて、人類本来の共認機能に基づく共認闘争によって掠奪闘争や私権闘争を止揚し、社会を再統合し直す段階に来たと云えるだろう。<

みんなで集まって一つの認識について話し合い、図解化し、その図解を一つにまとめてみると、止揚し、統合するイメージが少し違っていたことに気がつきました。

それは、一つは認識闘争をしているのだが、当たり前だが順位を決めているわけでない事に気づいた事。一番答えに近い図解をを皆でまとめていく。その図解を 更に広くみんなに提示し一つ上の段階の評価競争の場に出す。この繰り返しで更に進化する。とてもおもしろい。これが統合されていく事なのだと思った。

又対立する認識に対しては、認識バトルを経てでないと止揚できない物かと考えていたのですが、自然とフェードアウトし、結果として新しい認識で再統合される事で、古い認識を止揚すると捉え直しました。

つまり新しい認識は常に精査、検討されて更なる新しい認識に昇華する事が求められ、それが結果対立認識を止揚する事になるのだと思います。

山本豊

2014年8月15日 (金)

「わかる」ことは「かわる」こと

以下、解剖学者養老猛司と物理学者佐治晴夫の対談「わかることはかわること―河出書房新書―」からの引用

*****************************

養老:ハローワークに垂れ幕があって、「自分に合った仕事が見つかるかもしれない」と書いてある。僕はふざけるんじゃない、と思いましたよ。つまり、仕事 には自分をあわせるのであって・・「自分に合った仕事」というのが堂々と看板として通るというのは「自分がある」ということが大前提になっている。

佐治:それはやはり問題ですね。「私」と「あなた」となっているのは間違った考えですよね。相手が人間であれ自然であれ、それをひっくり返して「あなた」と「私」という考えをしていかないと、これは必ず破滅しますよ。

佐治:僕は高校で理科を担当している先生がただけの研修に呼ばれて話をしました。・・「宇宙のことを知るということは、宇宙のことをあなたが勉強して知る ことによって、あなたの人生がどう変わったかということをもって、知る、ということなのです。あなたは生徒に、授業を通して彼らの人生をどのように変えら れるかということを念頭において、地学の講義をしていますか?」・・一番そこが問題ですよね。だから僕は「わかる」ということは「わ」と「か」を入れ替え て「かわる」ということだと思っています。

養老:変わらないけど頭に入っているものをただの「知識」というのです。・・ただの知識じゃないものは自分の中に入ったときに自分の行動を変えるということです。それはむしろ現実と僕は呼ぶ。もはや知識ではなくなって、その人にとっての現実に変換しているということです。

佐治:新しいパラダイムをつくるということが、学んで理解するということ。それをさせるのが教育だと思うんですよ。

養老:教師の仕事で一番難しいのは、それが実は非常に楽しいことであると教えることなんですよ。

佐治:そうですね。

******************************

正しい認識法とは、‘識る’ことで自分を変え、(自分を含んだ)新しい現実を作り出していくものである。それが人間本来の実現思考⇒科学的思考であり、観念によるパラダイム転換=進化という人類の可能性である。

>人類の最先端機能たる観念機能は・・・現実課題に応えるためにあり、行動を導く為にある。従って、観念機能は、精霊信仰以来一貫して目の前の現実世界(自然や同類)を対象化してきた。そして現実対象⇒事実認識の蓄積によって、人類の生存様式を進化させてきた。実現論1_6_05
>万人を導く統合理論も、志ある人々の協働によって、進化しつづけてゆくべきものであり、その為にはこの統合理論はあらゆるイデオロギーから脱却し、確かな事実だけに立脚した科学的な理論体系でなければならない。

縄文体質(従って精霊信仰的思考)を今に受け継ぐ日本の自然科学者の中から、本来の観念機能の再生が語られ始めたということは、滅亡回避に向けての可能性の兆しといえるのではないだろうか。

山澤貴志

2014年8月13日 (水)

無思考の中での「常識」と「新観念」の価値対立

新観念を吸収していくうちになんとなく価値対立が生じているのに気付いた。
結婚式とかで昔の友人とかと会うと顕著にあらわれたりする。
はじめ価値対立がどこにあるのか?どこが納得できないのか?という思考をしていた。
共同体?婚姻?社会統合?NW運動?自問自答しながらいろいろ考えた。
あるにはあるんだけれど、これだという明確な価値対立は見つからなかった。頭でこねくりまわしているうちにどんどん疲弊していった。
そのうち価値対立はどこ?と自問自答してゆく思考は間違いだと気がついた。

そもそも、常識(観念、共認)は長い間かけて刷り込まれて(刷り込んで)きたのだが、その時になんでそうなるかなど一切考えていなかった。
だから確固たる確信があるわけではない。もちろん頭の中で、論理的に整合しているわけでもない。けれども肉体には刷り込まれている。

一方、構造認識(新観念)の方はといえば、なんとなくこんな感じ。この部分イイとか、ここは納得できる。といった程度の吸収の仕方だった。
常識も新観念も自分にとって都合のよいor興味あるところだけを吸収して使っている。確固たる確信はない。論理整合も無い。両方ともほとんど無思考に近い。
だから、自信をもって発言する人に対しては、それが合っていようと間違っていようとすぐにぐらつく。
また、行動する際の判断軸、人を見る目も感覚的でぶれる

2ヶ月くらい前から、意識的に構造認識を根気よく一つ一つ丁寧に積み上げてゆく作業をはじめた。
主には生物、人間がどういう外圧をこれまで受けて、どう適応(思考、行動、進化)してきたか。すごく基本的なところ。
一つ学ぶのに、かなりの時間がかかるが、ゆっくりと丁寧に積み上げてゆく。
すると序々にですが思考のベースができてゆく感じがする。
個々の常識郡に対しても、どこがどうおかしいのかがこれまで点でしか見れなかったのが、構造?として捉えられるようになってくる。
少しづつですが、ぶれが少なくなっていくのが分かる。

考えてみれば構造認識は、事実郡を構造的に押えたもの。ただそれだけ。そこには好きも嫌いもへったくれもない。
好きとか嫌いとか、納得できるとかできないとか、認める認めないとかを持ち込むこと自体そもそもおかしな話。
だからただ、事実群の構造としてそのまま吸収してゆけばいい。

構造認識を一つ一つ真剣に丁寧に積み上げてゆく中で、価値対立は自然と消えてゆくというのが最近の確信です。なぜならこれまで無思考の中での価値対立だったから。

野田晋一郎

2014年8月11日 (月)

もう旧観念にすがる必要なんて無いのだ。

>発信階級たちの旧観念が全く役に立たない(現に、彼らは未だに何の答えも出せないでいる)ということであり、旧観念を全否定した全く新しい認識が必要だということである。それは、これまで彼ら発信階級が撒き散らす観念をただ受信するだけであった『みんな』の協働によってしか生み出せない。

私権時代は変えようの無い支配や貧困から逃れるべく、頭の中だけの代償充足でしかない旧観念であっても、皆それを必要としていた。それがなければ生きてはいけなかった。

しかし、時代は換わり圧力構造は私権⇒共認へと大転換した。
それは貧困が消滅し、否定すべき現実は無くなったという事。生きる為に序列支配に従う必要は無くなった。という事は、頭の中だけでしか充足出来ないのではなく、現実の中で充足出来るようになったという事。
つまり、旧観念を拠り所にする必要が無くなったのである。

なのに、あきらめで終わってしまう旧観念しか判断基準が無い為、それを基にしか考えられない。現実を否定する為にしか考えられない。だから現実の中で充足出来ない。それで活力なんて出るはずが無い。

現実の中で充足するには、現実を対象化して、可能性に向かって行く事。
貧困が消滅して、収束不全下にある今なら、そこには生きる為だけの個人課題ではなく、皆の不全を解消し、活力を再生するという大きな課題が見つかるはず。

そして課題を見つける為には現実を対象化する新概念がある。
もう現実否定に止まるだけの旧観念にすがる必要なんて無いのだ。

匿名希望

2014年8月 9日 (土)

三つの事実

>つまり、”事実追求”と言う行為は、「当事者」であることの前提条件であり、逆に「事実は一つではない」「事実なんてない」と事実追求を否定する人は、単なる傍観者に過ぎないことを示していると思う。

「事実」は都合3種類に分類されると思う。

 一つ目は、現象事実。そしてそれらから導き出すことが出来る構造事実のことである。例えば、アイスクリームが一日に50個売れたという現象事実と、その日の気温が40℃であったという現象事実から、暑い日にはアイスが売れるという構造事実が導き出せる。

 二つ目は、原因構造と実現構造である。原因構造とは、ある現象の原因をそれにまつわるあらゆる現象事実と構造事実から構造化することであり、実現構造とは、逆境⇒どうする?を突破するために、逆境の原因構造から導き出される可能性のことである。

 そして三つ目が、二つ目の実現構造の中で、相対的に最も可能性があると皆で認めたもの、すなわち「答え」である。

 「事実は一つではない」という人は、おそらく一つ目の現象事実の発掘、或いは二つ目の原因構造または実現構造の構造化で思考がストップしているのだと思う。

 しかし、皆が本当に必要としているのは、三つ目の事実である。そしてこの三つ目の事実は、逆境⇒どうする?を皆で共有することではじめて導き出されるものである。

加藤弘行

2014年8月 7日 (木)

原因→逆境(不全)⇒どうする?⇒可能性収束

生成関係(実現関係)とは、どういうものか、それを習得するために、いくつかの事例を挙げておこう。

同類闘争→本能不全⇒共認機能
  この図解では、本能不全←共認機能は、成立しない。
  従って、この図解は厳密には成立しない。正しくは、
同類闘争→本能不全⇒どうする?⇒充足可能性⇒共認機能
  ここでは、共認機能を獲得できたので→充足可能になり→本能
  不全を解消できた、という逆←が成立する。

貧困の消滅→私権の衰弱→収束不全⇒共認収束
  この図解も、収束不全←共認収束は、成立しない。
  従って、この図解も厳密には成立しない。正しくは、
(貧困の消滅→私権の衰弱→)収束不全⇒どうする?⇒共認収束
  ここで、貧困の消滅→私権の衰弱→を( )に入れたのは、そ
  れらが、収束不全という逆境の原因にすぎないからである。
  ここでは、成・否二通りの逆←が成立する。即ち、
  共認収束を実現できたので→収束不全を解消できた。
  共認収束を実現できないので→収束不全が強まってゆく。

この様に、実現図解は⇒で表現されるが、逆←が成立しない時は、その図解は(厳密には)成立していないので、⇒イコール←が成立しているか否かは、実現図解が間違いなく成立しているか否かの、判定基準となる。

もう一つ、少し複雑な事例を。

貧困の消滅 ⇒ 工業生産から意識生産へ ⇒ 権力体から共同体へ
 |(下1本矢印)   |(上2本矢印)  |(下1本矢印)  |(上2本矢印)
 (欠乏の)収束不全⇒どうする?  (組織の)統合不全⇒どうする?
これが正解だが、ここで逆境(不全)⇒どうする?という実現図解の生命部を捨象してしまうと、
貧困の消滅⇒意識生産⇒共同体という単純図解となり、そうすると、
共同体が実現する為には⇒意識生産が、意識生産が実現する為には⇒貧困の消滅が必要だから、むしろ、
共同体⇒意識生産⇒貧困の消滅、従って、貧困の消滅→意識生産→共同体という因果関係の方が正しいのではないかという疑問が生じる。

しかし、貧困の消滅→意識生産→共同体が、左項の物理的な結果ではなく、その因果図解では捨象されて見えない項目である逆境(不全)⇒どうする?⇒可能性収束の結果であることは明らかであろう。
従って、貧困の消滅、意識生産、共同体は、一見、因果関係の→でも結べるように錯覚してしまいがちだが、実現の生命部である『逆境(不全)⇒どうする?』を各項に組み入れることで、因果図解に陥る危険を防ぐことができる筈である。

四方勢至

2014年8月 5日 (火)

因果関係と生成関係(実現関係)の矢印

実現の可能性を封印され、現実に対する否定意識と(変革)不可能視だけを深く刻印された旧観念パラダイムの下では、物事の摂理を原因→結果という因果関係で理解することが、当然の思考法となっている。
しかし、当然のことながら、その思考法or因果関係からは、決して実現可能性は導き出されてこない。

進化(=実現)の歴史が、常に逆境発の⇒探索(どうする?)⇒可能性収束⇒(新機能の)実現態の塗り重ねであるとすれば、実現の摂理は常に、逆境⇒課題 (どうする?)⇒可能性収束⇒実現態という生成関係or実現関係(⇒)で表現されることになる。(かつ、時間軸上では、常に、古い左項から⇒新しい右項へ と、⇒が引かれることになる。)

そして、因果関係などというものは、生成関係(実現関係)の中の、最初の逆境という項目の内部を説明するだけの公理にすぎないということも、一目で分かる 筈である。もっとも、それ(因果関係の解明)はそれで必要で、徹底した原因分析によって窮極の原因に達することなしには、可能性収束が可能な実現基盤を発 掘することはできない。(窮極の原因を打ち破る、より深い実在物が、即ち実現基盤である)

例えば、貧困という逆境の原因として、「資本の運動」という動因を明らかにするだけでは全く不充分で、そこには(「万国の労働者、団結せよ」という観念論以外に)、何の実現基盤も提示されていない。
更に深く「資本の運動」を成立せしめている根本原因をつきとめ、それが生存圧力を基盤にした私権意識にあることを明らかにしてはじめて、’70年に実現した科学技術etcによる「貧困の消滅」が、「資本の運動」を解体してゆく実現基盤であることに気付けると共に、現代という時代が人類史を覆すような大転換期であることをも教えてくれるのである。

四方勢至

2014年8月 3日 (日)

「構造化された事実発掘」の思考。

普段使っている「共認」という言葉。僕らは教えてもらったから知ってるけど、発見した人はどうやって見つけたんだろう?どんな思考をしたんだろう?素朴な疑問でした。

①人類は本能機能と観念機能を使う。
②一般動物は本能機能のみを使う。

という事実のもとで以下のA.Bの事象が説明できるかを検証。

A.母と赤ん坊のスキンシップ、その中で笑顔のやり取りがある。
B.サルは、序列規範を作って、挨拶したりする。

A→一般動物(主に哺乳類)はスキンシップはするが、笑顔のやり取りはしない。赤ん坊は笑うが言葉は喋れない。つまり笑顔は本能でも観念でもない。→人類の習性は①だけでは説明がつかない。
B→サルにも挨拶がある。一般動物には挨拶という様式がみられない。→サルの習性は②だけでは説明つかない。もちろんサルは観念機能は無い。

人類はサルから進化したという事実から、人類とサルには①と②の間にA.Bを説明できる「心」=「共認機能」があるのではと仮説をたててみる。
仮説を立てた「共認」という領域を使い、人類、サルの他の行動を説明できるか検証してみる。矛盾がないので「共認機能の存在」を事実として固定する。

ある事象で説明できない領域に対して仮説を立てる。→それをあらゆる角度から検証してみる。→矛盾がなければ事実として認める。
このような一連の作業を膨大なデータの中から地道に発掘してゆく。このような思考なのでは?

野田晋太郎

2014年8月 1日 (金)

感情論なのか事実に立脚したものなのか?

>「民族主義」という言葉に何か違和感を覚えるのは私だけでしょうか??

あぁ、わかります~。なんかナチスファシズムを連想しちゃうんですよね。選民思想とか民族浄化とか・・・。

でも先日の劇場で、ファシズムって何?って話になって、私ははっとしました。
平和教育を受けた私たちは「ファシズムなんてとんでもない!、ダメ!!」ってそこで思考停止させられている。良くて一部の人の主張がまかり通る独裁政治・・・みたいな理解でした。

だから、
○それが一部の人だけでなく、広く一般大衆も巻き込んだものであったこと。
○なにより、根拠のない感情論が、「ユダヤ人や障害者は殺してもいい」みたいなとんでもない暴走力を持ってしまったこと。
こういった成立構造を全然分かっていないことに気づいたのです。「感情論の恐ろしさ」として歴史を学びとってはいないのです。

るいネットは、事実を根拠に追求しています。
民族主義も、感情論なのか事実に立脚したものなのか、そこを問うていくものなのではないでしょうか?

谷光美紀

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