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2014年7月

2014年7月30日 (水)

「みんなの成功体験」ならいくらでも積める

闘える男になるには成功体験が必要。
だけど、闘えないから成功体験は得られない。。

こうなるともうお手上げ。
永遠に闘えるようになんてなれないという気分になる。

でもそれは、「自分だけの成功体験」にこだわっているからだ。

誰かが成長したとき、仕事が上手くいったとき、部門がまとまったとき、会社が評価されたとき、それら全ては「みんなの成功体験」。
だから素直に、「=(イコール)自分の成功体験」として充足すればいい。
そうすれば、いくらでも成功体験を積めるし、自信もつく。
どんどん闘える男になってゆく。

自分は変われていない、自分は出来ていない、自分は勝てていない。。
そんな風に「自分だけの成功体験」にこだわって、成功体験をなかったことにしてしまうなんて、バカだ。

西知子

2014年7月28日 (月)

観念の塗り替え(外圧=内圧)

似た事例がありました。

「欲望」と「抑圧」という言葉で現実(自分自身)を捉えていた人の話しを聞きました。そして、活力を出すために、とにかく抑圧を除こうと考えておられました。(→しかし上手く行かない)

一方、実現論では「外圧」=「内圧」という概念が使われています。この概念は、生物と人類を貫く原理として抽出されていますから、欲望と抑圧のような自我と強制圧力の相克が第一課題だった私権社会ばかりでなく、より普遍的に使える構造概念です。

当然、強制圧力ばかりでなく、期待応合の圧力を鮮明にするにも使える概念です。
だから期待応合の活力を鮮明にして活力を出していく事ができる。

問題は、圧力を全て「抑圧」という概念で捉えて忌避して場合、(強制圧力だけでなく)期待圧力も避けてしまって活力衰弱に至るの必然。

(これが現代社会の閉塞の元凶?)

田村正道

2014年7月26日 (土)

考えない者は淘汰される。

職場で仲間のことを思っているつもりなのにギクシャクして上手くいかなくて話し合っているとき、アドバイスを頂いた。

その中で、「貧困の時代は物を作れば売れる供給者優位で、サラリーマンは気楽な仕事と思っていたが、貧困が消滅し供給者優位から消費者の期待に応える物を 作らないと売れない消費者優位の時代に転換した。それは、自分発の仕事から、相手発の仕事への大転換を迫っている。今や、頭を使ってものを考えない者は闘 争の邪魔、相手が何を考えているか何を必要としているか自分発から相手発へ認識を転換しないと、淘汰される時代になっている。」と教えられた。

職場のことを思っているようで、実は相手との衝突を避け、結局、自分を守るだけの姿勢になって闘争に向かえていないこと、その現実を認識し、意識転換が出来ると最強の職場になること、そこでは事実の追求こそが答えを与えてくれること、旧観念は無用ということを教えられた。

浦野てる代

2014年7月24日 (木)

新概念=道具!

>それより、現象を構造的に理解できると同時に概念の意味も鮮明になる(≒理解できる)というのが現実である。そのように体得した感覚と言葉で、眼 前の新しい課題を切り開いていくことが、新概念を使いこなすということだ。切り開くための道具=概念装置という理解が近い。

>それに対して、最初に観念上の定義があり、それを組み合わせて思考する、旧観念的思考法では、与えられた観念の定義を超えられない。観念によって、現実の一部を切り取っているのと同じだ。これでは、状況認識が極めて不十分になり、課題突破の可能性は激減する。

これ、めっちゃ共感しました!
そうそう、それだよ、そうなんだよっ!!って感じです。

道具はそもそも頭を使わないと使えません。
けれど頭の使い方によって、色んな時、色んな場面で、色んな使い方が出来るものです。

そして、道具はもちろん、使いながら使い方を覚えるものです。
使わずに頭だけで使えるものでもありません。

だから、
「新概念=道具」

これ、すごく重要な認識だと思います。

ここさえ認識できれば、後は使う時、使う場所、使い方を捉えていくだけ。(それらのタイミングさえ、るいネットには数多く投稿されています。)

で、ここまで肉体化すると新概念への見方が変わるはず。
この道具は、ただの道具ではなく、
私たちの生活”全て”の場面に使っていたものだった!

匿名希望

2014年7月22日 (火)

現在は個人主義について考える事に意味がなくなった時代

「我思う故に我あり」とデカルトが言い始めたのが個人主義の源流であるが、350年も前の観念に現在も囚われている。
現実世界が劇的に変化しているにも関らず、なぜこれほどまでに事実とかけ離れた観念に囚われてしまうのだろうか?

今日、みんなで個人主義の事について話し合った。
若い世代は個人主義自体がすでにピンとこないと言う。個人主義は死語に近いのかもしれない。しかし人それぞれとか他人に踏み込まないという現象は確かに個人主義の影響であることはなんとなくわかる。現在は個人主義がさらに狭義の自分主義に変質している事も理解できる。
しかしそこから個人主義まで遡り、なぜそうなったのか、個人主義のどの部分が残っていてどうすればいいのかの議論に移った途端に追求が閉塞してしまった。

個人主義の事を考える時についその意識状況に同化しようとしてしまう。そうすると苦しくなって意識が拡がらなくなる。これも閉塞の元凶が個人主義である事の一つの理由ではないかと思えてきた。
同じように自我とは何かとか、自分とは何か?等も考えれば答え(=可能性)が見えなくなる。追求が閉塞するという事はその観念事態に最早同化できなくなっている事を示すのではないか。

普通の人が個人主義を考える事自体に意味を感じなくなった事・・・この事実は大きいのではないか。そしてその事はまさに個人主義の囚われから半分以上自由になっている事を示しているのではないか?

>上手くいかなかった時の問題指摘が、「誰か」に対するものになってしまう、という現象は、現代人が如何に「個人主義」から脱却できていないか、を示していると思う。

残りの半分は内藤さんが言う脱却できていない部分である。しかしそれに対する突破口はなぜ脱却できないか=個人主義の残存部分を明らかにする事よりそれに 代わる新しい認識や方法論を作り上げていく事で塗り替えていけるのではないかと思う。観念とは本来可能性のある方向へ導かれる。

つまり、人それぞれになるのはなんで?を考えるより課題共認するにはどうする?を考えた方がずっと有効であり先の可能性が見通せる。
人々の意識において「なんで?」が減って「どうする?」に移っている背景にそのような意識があるのかもしれない。

だから今日一番響いた言葉が

>もし本当に何かを実現する(変えたい)なら、共認圧力を高めるしかない。共認圧力を高めるような行動や言葉しか、「答え」にならない。その対象の背後にある「場」に対して、期待を投げかけ続けるしかないだろう。

田野健

2014年7月20日 (日)

新しい観念が人々の行動を統率?

そもそも環境破壊の原因はどこにあるのかを考えてみると、市場社会にその根本原因はあるだろうということはみんなうすうす感づいていると思います。
でも、そこをなんとかするのは無理だろうというあきらめ(不可能視。つまり実現するつもりなんかない)があると、「ひとりひとりができることをやる」とか、「利益の一部を使って木を植えました」ということでなんとか良心の呵責をやりすごすというのが旧観念の枠組みの中でなんとかしようとするパターンなのだと思います。

>どこかのNPOが作成したシールをある会社のバナナに貼らせ、その売上げを植林事業などの環境保全の資金にする。その活動の際にバナナ会社のPRをするのでバナナ会社は益を得る事が出来る。という仕組みをそのNPOは立ち上げていました。<

の事例も、市場の根本問題には触れずに周辺の課題に劣化してむしろ問題の核心からは離れていっている。旧観念の恐ろしいところだと思います。

しかし同時にこの事例から感じる可能性は、環境に対する関心が高まっているからこのようなしくみが有効なのではないかと思いついたということ。すでに人々 の深いところにある欠乏は豊かさよりもみんな期待に応えることに転換しているということを意味してるのではないでしょうか。
だったら、周辺課題にいくのはやめてもっとストレートに環境破壊の原因である市場とはどこから・なぜ発生したのかというところの解明から始めたほうが近道。

新認識は何かを統率するものではなく、何かがうまくいってないときの「なんで?」、何かを実現しようとするときの「どうしたらいい?」を追求するための道具です。一緒に勉強しましょう!

長谷川文

2014年7月18日 (金)

人が変るための条件

>私自身が、この「否定意識」からの脱却を試みてきた経験から、有効と思われる方法は、土山さんが言われる「自分自身を対象化する」ことです。

>じゃぁどうしたらいいか!?
自身の「しんどい」、「嫌だ」、「おかしい」などのマイナス感覚は狂っていると断定したうえで、その感覚は捨象して、とにかく「みんなの役に立つこと」、「みんなが喜ぶ(であろう)こと」を実践していくことが重要です。

否定意識や自我からの脱却という問題は、当人の問題と周りの問題に分けて考える必要があります。

1.当人の問題

私も自我や感情の強さから、さまざまな問題を起こしてきました。主観的には、自分は一生懸命やっていると確信に近い感情で捉えている状態になります。しかし、周りの意見に目を向けて見ると、この確信は本物じゃないと理解せざるを得なくなります。

そうすると、そう思わせている感情とは何か?とか感情そのものは何なのか?とか、論理的な問題に移行し、感情(ここでは自我回路上の意識)を相対化することができます。そうすれば、実現論やるいネットが導きの糸になります。

感情とは、本能⇒共認回路(自我回路を含む)上の意識であり、それには二つある。ひとつは本源的なもので、仲間との充足や役に立つことの充足を喚起するもの。もうひとつは、そこから枝分かれした、他者否定と自己正当化の自我回路から発するもの。

そうすると、先の自分の感情は、みんなの意見と違うという事実をもって自我回路上のものと断定するしかありません。しかし、その時点では、共認回路が十分に開いていないので(=自我回路に支配されているので)、本源的な実感は困難です。

その上で、周りの意見(事実)を導きの糸として認識された論理どおりに(自我感情にとらわれず)行動していくことにより、共認回路は徐々に開き、本源的な感情と入れ替わってきます。そうなれば、この行動や判断は正しいという実感が後になって付いていきます。

この間、感情の面からすると、何事も実感がうすく、結構つらい時期が続きます。これを乗り越えるためには、下記の投稿のような周りの支援が必要です。

2.周りの問題

>そんな風に思っていたときに聞いた言葉が、
『その人が変れるかどうかは受け入れ側にかかっている』。

>そして、そこから復活した人は「今の自分があるのはみんなのおかげ」⇒「みんなに感謝」「みんなのために役に立ちたい」という風に「自分⇒みんな」に意識が変り、むしろ即戦力になるんだ!

この二つが満たされて初めて、人は変っていけるのだと思います。そのときの、当人の最低条件は、周りの期待を捨象しないことです。たとえ、行動がうまくい かなくても、この期待圧力を捨象せず、受け止めている場合は仲間として見てくれ、待ってくれるでしょう。そうでない場合は、高まる共認圧力は強烈な淘汰圧 力になります。

例えば、私たちの会社では、指揮系統廃止からそれに代わる社内ネットに移行し、数ヶ月がたちます。この間、周りの共認圧力・評価圧力は強烈なものがありま す。これらを見ていると、人事はトップが決めるという多少序列がかった慣例も、社内ネットを期に、大きく変る予感さえしています。

共認圧力は真っ当に捉えることが出来れば、大きな活力源になり、捨象し始めると、強烈な淘汰圧力に変るということだと思います。

本田真吾

2014年7月16日 (水)

「自分発からみんな発」という認識を実践する事は成果をあげる第一ツール

>つまり、実現派には不全発の課題意識はないが、可能性発の必要意識はある。

実現派でない普通の人は不全発の課題意識故に前に進めないという事が多い。
しかし、不全発の課題意識が可能性発の必要意識に転換する上で欠かせない認識が「自分からみんなへ」という視点の転換である。これを徹底して意識することである程度実現派に近い思考パターンを作り出すことができる。

自分発であればなんであれ不全になり重い課題になる。現在の難課題がひしめく状況下でこの思考パターンではなかなか突破口は見えない。難課題故に相当の追求や勉強をしなければ一定の成果までたどり着けない。
しかし視座を自分発からみんな発へ転ずることでいろんな視点を見つけ出すことができる。対象にいろんな働きかけをすることができる。たとえそれが一つの気付きやある事実といった小さなことでもよい。自分発からみんな発へ切り替えれば成果の大小はひとまず問われない。

例えば仕事の場面。全体の課題の中において自分に与えられた役割を責任をもって全うしようとする場合と全体の課題の中で必要な事をやろうという場合、後者の方がはるかに全体課題の突破可能性に向かっている。
この事は最近始まった社内ネットへの投稿においても顕著に見られる。よく社内ネットには投稿しにくいという事を聞くが、全体課題(社内の先端課題)に対して何が必要か?それに対して自分は何が発信できるかという視点で考えれば投稿は可能になる。

「自分からみんなへ」この言葉をよく「みんな」という対象がわかりにくいという事を聞くが、要するに、ものを考えるときの視座を自分からみるかその課題をとりまく全体からみるかだけの違いであり、本源社会ではあたりまえの事である。
しかし現代人の根幹に個人主義や自分主義がまだ濃厚に残っている以上、新概念を身に付けても何かあれば元の意識に支配されてしまう事は少なくない。従っ て、この転換を意識的に行うことは、「自分を変えるとか」いうよりむしろ「いかに成果を出すか」という事に直結する有効な認識であると考えておいたほうが よいと思う。

余談ではあるが、仕事というのも自分の仕事など一つも無い。みんなの仕事を自分がやっているに過ぎないのだから。

田野健

2014年7月14日 (月)

改めて対象の獲得とは

実現論に潜在意識を使うとか、同化するとか記載されているが、実感が伴わない。どのような構造なのか?を契機に、「潜在意識とは何?」で話しを始めた。

思考次元1を読んで、感応観念と感応回路の違いから追及を始める。

○感応観念は思考次元1にある、
「原始人以来の(動物にも備わっている)本源的な思考様式で、主に、感応(本能⇒共認)回路をもって現実を対象化し、答え=可能性を模索する。」から、感応回路と大きく想定する。・・1

○感応観念は思考次元2にある
「現実に可能性が閉ざされ(or答えを発見できず)現実に対する強い否定回路が形成されている(従って、実現回路が 貧弱である)場合、否定意識は捨揚回路(-捨象+収束の回路)に収束して、何らかの+幻想を生み出し、そこに先端収束する。しかし不鮮明な潜在幻想では意 識を統合できないので+幻想は観念化されて感応観念(価値観念や規範観念)を作り出し、この感応観念の下に全意識を統合しようとする。」から感応観念は、 「否定意識は捨揚回路(-捨象+収束の回路)に収束して、何らかの+幻想を生み出し、そこに先端収束する構造」と理解した。・・・2

*上記1と2から、実感が伴わないのは、否定意識が無意識の内に介在している。又、最先端の意識潮流下では、その否定(私権)意識に答えが無く、否定意識を否定せざるを得ない状況にあり、答えが無い中での葛藤から使えれば便利だけど実感が沸かないのだろう。となった。

■では如何にして潜在意識に到達するか?
感応回路を如何に作動させるか?=太くするかだが、これはほぼ、幼少期の充足体験に既定されるとすれば、もう手遅れと皆、一瞬落胆し、変われないのでは?と思いつつも本当か?から誰かが、

しかし、露店で初めて合った人と共感出来る、社内ネットでも紆余曲折はあるも、充足体験は詰める。=塗り重ねられる実感体験がある。

 ポイントは潜在意識に蓋する、否定意識の存在の理解にあった。恐らく否定意識の解明に向かうより、対象の獲得=充足体験を重ねる=「感応回路作動→集団 における自分の中の違和感を皆に提起しそれが感応観念か否かの確認を行う=皆の評価を羅針盤とし、答えにいたることを常に実践する。だけのことだと気が付 いた。

実現論を母体とする新理論=答えからの後追い(作者との同化)を通じて得られる認識は大きい。正に新理論の賜物と思う。

酒井俊弘

2014年7月12日 (土)

温存と劣化

西洋人と東洋人の気質に於ける大きな分岐点は、「実現論」によると生存圧力と同類圧力の圧力差として認識される。

>極めて深刻な食糧危機に陥った。従って、遊牧派生の邪心集団による掠奪闘争は極めて激しい容赦の無いものとなり、皆殺しが常態となる。従って、仲間を皆 殺しにされて一人二人と生き残った者たちは憎悪と警戒心の塊となり、共認基盤を失って終ったことと相俟って、全面的にかつ強く自我収束する。(実現論 第二部-2-03)

これらは確かに極めて高い生存圧力によって、同類間での縄張り闘争が激化したと見る事が出来る。しかし、逆に見れば同類圧力のみを対象化し、縄張りを確保する事がでれば、生存できたという見方も成立する。つまり、構造的には明らかに極限時代より生存圧力は弱まり、同類圧力が高まっている状態である。

この状態は本質的には真猿時代の同類圧力構造とさして変わらない。そして真猿集団も集団内同類をプラス(統合軸は序列共認)、他集団同類をマイナス(敵視)と、同類他者認識をプラス・マイナス(外圧=内圧)で二分し強化する共認(敵・味方共認)を形成して集団を統合していたという点でも、ほぼ同様だといえる。

しかし人類の命綱たる共認回路と観念回路は、これら、真猿段階での共認回路とは次元が異なる。人類の共認・観念回路は、生存圧力・同類圧力を含めた全圧力対象世界の全的プラス=同一視・同化をもって獲得されたものである。

にもかかわらず、同類圧力のみを前提とした、同類他者の敵視による集団統合様式へと西洋は退行した。これは、外圧(みんな課題)を見失い、目先に収束したが故の「類規模の劣化収束構造」として、捉える事ができる。

人類の展望は5000年来、一貫として、やはり外圧(みんな課題)の認識と、その共認如何にかかっていたのだ。

笠原光

2014年7月10日 (木)

旧い『関係パラダイム』のままでは構造観念も価値観念的にしか使えない

 るいネット歴も数年になる私とほぼ同世代の知り合いに、『感謝と謝罪のトレーニング』も実践し、『共認』『序列』『私権』『自我』などの言葉もほぼ自在に操れる割りには、仕事上の課題などを構造的に整理したり、論理的な解答を導き出すのが苦手な人たちがいます。本人たちにもその自覚があり、「どうも現実場面では『構造認識』が活かし切れていない」という実感があるのだそうです。

 そこで気付いたのですが、彼らは皆、旧観念には何の魅力も感じないし、その欠陥も重々承知しているのに、例えば「『共認』は善、『序列』『私権』『自我』は悪」というように、新概念をすべて価値観念的に理解しているという共通項があるのです。これでは折角の構造観念もただの‘お題目’や‘念仏’になってしまう(=相手に響かない)のですが、なぜそうなるのかがその後の話題の中心になりました。

 原因はやはり‘現実否定’や‘実現不可能視’からまだ脱却できていないということで意見の一致を見ましたが、るいネットも頻繁に読み『感トレ』も行っているにもかかわらず、旧観念的な思考パラダイムからの転換をこれほど困難にしているものは何か?・・・。

 

旧観念にはまっていようといまいと、私権時代の思考パラダイムとは、「人」であれ「課題」であれ、常に眼前の対象を否定的に切開し、そことの相克の中から生まれる言わば‘反’の意識をエネルギー源にするというものです。この習性が潜在思念に 強く残存していると、頭の中でいくら『肯定視』を理解しているつもりでも、おそらく、例えば「人」を前にしたときは無意識に警戒心や敵視が、「課題」を前 にしたときは不安や忌避感が最初に湧き上がり、逆にそれらを活力源にしてきた体験を捨て切れれないでいる自分自身を対象化できていないということです。

 つまり私権時代とは、性闘争本能や縄張り闘争本能や危機逃避本能が、共認回路ではなく自我回 路を経由してほぼ剥き出しの状態のまま人々の意識の中心を占め、そこに唯一の活力源を求めていた時代だということです。これらの「否定意識」が根底に残っ ている限りは、どのような言葉・観念であれ、現実否定と自己正当化のための道具になってしまいます。だとすれば、中年以上に今最も求められているのは活力 構造のパラダイム転換です。

>パラダイム転換は「観念」の地平で生じるのではなく、もっと深い観念以前の原猿レベルの共認回路で生じていることなんだ。その地平の関係世界が警戒心や他人捨象である限りは、パラダイム転換など生じ得ないんだ。<

 この言葉の意味するものこそ、若者を中心にすでに多くの人々の下部意識は充足基調⇒本源収束へ急速に転換し同類圧力が主流となりつつあるという事実です。下部意識が「性闘争本能⇒警戒心」から転換できなければ構造観念は何の武器にもなりません。新しい活力源が湧き上がってこない(orリアリティーが感じられない)ということが、私権時代にはそこそこ成果が出ていたのに、最近は逆に‘カベ’を感じるという層の主要原因だとすれば、この『パラダイム論』の認識にどこまで同化できるかが鍵を握っていると思われます。

土山惣一郎

2014年7月 8日 (火)

事実と真実の違い

教科書的な定義で言えば、ある命題に対して真偽を判定する場合、それが真であれば真実と言う。そして、その真偽を判定するモノサシが事実であるということ になるのであろう。しかし、日常の会話においては事実という言葉は使っても、真実という言葉はあまり使わない。せいぜい、裁判所で宣誓をする時や宗教家が 説教する時に使われるぐらいである。それは、真実という言葉にはどこか胡散臭さがつきまとうからではないだろうか。この胡散臭さはどこから来るのであろう か。

それはおそらく、真実という言葉を使う場合、真である理由としてそれが絶対不動の事実であるということを大前提にしているからではないだろうか。多くの場 合、世の中、世界、宇宙には絶対不動の事実があるということを大前提に置いたうえで、その絶対不動の事実を根拠に真偽が語られる。あるいは、しばしばその 絶対不動の事実そのものが真実(あるいは真理)であるというような言い方がされる。しかし、真実として使われる不動の事実には、突き詰めてゆくと誰にも分 かっていないものが多い。誰にも分かっていないものであるにも関らず、絶対不動のものが前提根拠に使われるから胡散臭さを感じるのではないかと思う。(勿 論、この世界には誰もが認める不動の事実というものもある。しかし、それは単純に事実と言えばいいのであって、ことさら真実と言う必要はない。)

例えば、真実という言葉は、裁判の宣誓では「良心に従って真実を述べる」というように使われるし、宗教家の説教では「神のお告げだからそれは真実である」 というように使われる。しかし、「良心」とか「神」といったものが絶対不動のものであるかどうかは、実のところ誰にも分かっていないのである。

更に言えば、何か疑わしい、よく分からないことがある時に、その判断根拠となる答えが見つからないにも関らす、無理矢理価値判断をする方便として使われる 言葉が真実という言葉なのではないだろうか。実際、事実という言葉は無色透明な客観的な認識を示すのに使われるのに対して、真実という言葉はどこか色がつ いているというか、何かの価値判断を示す時に使われることが多い。例えば、真実という言葉は、ディベートのように、何が事実かを究めるというよりは、価値 判断を主張し合う時によく使われる。みんなで共認を形成するためというよりは、自分の主張の正しさを証明するための方便(屁理屈)として持ち出されるのが 絶対不動の真実とか真理とかと言われるものなのである。多くの場合、真とか偽とかという論法は、私権闘争のための方便にしかすぎない。だから真実という言葉を使えば使うほど胡散臭くなる。

だとしたら、我々は真実という言葉はあまり使わない方がいい。むしろ、真偽の先入観というか、予断を含んだ価値判断はできるだけ棚上げにして、ひたすら事 実を究めるというスタンスに立った方がいい。現実の役に立つ認識という点では、なるべく、価値判断を含まない事実という言葉を使ってゆく方がいいと思う。

雪竹恭一

2014年7月 6日 (日)

改めてみんな発へ!

>悩みと言う地平は、とことん個人の地平で、悩みに対しても、自分の中に、こうしたい、こうしたらいいという本人なりの答えを実は持っていたように思う。104331 長谷さま

私の場合は、「いつも何かが違うな~」と思いつつ悩みを溜めていました。これは「いつも(自分の考えと)違うな~」であり自分の地平に拘る構造です。そこで、みなが良いと思うことを半信半疑で実行して見ました。

あっ、なるほど!と感じられた。

これは実行しなければ理解出来ないことでした。ここから、違うな~=「ずれ」の原因を考えてみると、3つ程思いあたりました。

1、いつも素直に実行せず自分の観念の中だけで正邪を決めていた。
=自己中心
2、上記の半信半疑から言える事は、自分以外への否定視がある。
=他者否定
3、その否定視の中身は自分は一生懸命がんばっている!
=自己讃美に近い

全て、自分が主語になっています。その自分は40代で私権社会を生き抜いて来た人間です。私権原理が染み付いていることは観念で理解し、みなへの同化を図るべきと思っていましたが、行動は私権原理から一歩も出ていない事実を知りました

一方では、みなの期待=課題を素直に実行することで、なるほど!と共感することも知りました。

ならば、「みなとずれたな~」と感じた時は、素直に皆の期待に応えた後で考える(共感する)スタンスが突破口になりそうです。

自分発からみんな発とはこんな単純なことなのかもしれません。

酒井俊弘

2014年7月 4日 (金)

「意識の集合体」だから、気付きが得られる

 よくよく考えてみると、実現論にしても、るいネットの各投稿にしても、「これが答えだ!」というものでは決してありません。そう考えていくと、「認識=道具」という考え方もよりスムーズに浸透するでしょうし、「気付き」についても同様のことが言えるのではないかと思います。

 るいネットには「考えるヒント」が無数に溢れていると思います。それをもとに、共に考え行動していく、これがまさに「協働」ではないかと思います。

 現実を対象化し、前向きに進んでいる大きな意識の集合体があること自体が、多くの人にとって気付きを与え、考えるとはどういうことかを示しているのだと思います。そして、多くの人が実践から得た認識が、個の限界を軽々と超えて役に立つことが分かれば、皆の意識がおのずと「協働」に向かっていくのではないかと思います。

勝間正樹

2014年7月 2日 (水)

「個人の問題」では答えはでない

以前会社で、配達されてきた郵便物が紛失するという事件が起こった。そのときまず考えたのが「○○が郵便担当である」ということ。要するに、誰か個人の問題として物事を捉えていました。
その考えのまま、個人の問題として総括した。その結果、また同じことが起こりました。そのときになって初めて「個人の問題と捉えていては、解決しない」と気付き、本当にどうにかしなきゃ!と思い、みんなで話し合った。

そこで出た答えは、マニュアルを作るということ。
どんな仕事にも必ずルーティンワークがある。定型課題こそ、「自分はわかってる」という思い込みから物事を進めることになり、個人によって課題(外圧)の捉え方が違い、ミスが出る。ミスの根本原因はたいてい「思い込み」だったりする。
それを解決するために、誰にでも理解でき、それに従って行えばある一定の質(成果度)も保てるようなマニュアル作りが必要となる。

そしてそのマニュアル作りの過程が、とても重要なんだということも大きな気付きでした。
課題(外圧)を把握するためには、対象への同化が必要となる。対象とは、今ともに課題に取り組んでいる相手だけでなく、今後課題に向かう誰か・・・すなわちみんなを対象化しなければ、みんなが共認できるマニュアルはできない。

「個人の問題」と捉えることが再度のミスを招く原因であり、劣化収束そのものであると認識し、そこからいかに普遍化できるかが、答えのカギとなる。

門奈津子

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