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2014年6月

2014年6月30日 (月)

一直線に可能性に向かう

>読者や投稿者の活力や投稿文も同様で、現実否定の鎖が断ち切られたことによって、一直線にorひたすら現実の可能性に収束すれば良いことになる。

現実否定の鎖を断ち切って、一直線に現実の可能性に収束したいとみんなが思っていると思う。しかし、それができる人、できない人がいる。

できる人とできない人を分けるのが、みんな=現実をどれだけ肯定できているかということになるのだなとほんとに思う。

できる人は、日々やっている一つ一つのことに対して、それがみんなの期待であるのだと認識できている。だから、そこに充足もあるし、活力もどんどん湧いてくる。みんなの見えない期待をもキャッチして、自分の役割が何なのか、何をやらなければいけないのかを正確に認識できている。

逆にできない人というのは、どれだけ評価を受けていようとそれが、本当に評価されているという確信が持てない。みんながどれだけそれでいいのだと言ってくれようと、いやそんなことはないと彷徨い続けるのだと思う。それは、やはりみんなの期待が掴めていないことに尽きるのだと思う。何に向かったらいいのか分からないというのも、現実否定の意識に捉われすぎて、肝心の現実直視ができていないからみんなの期待が掴めないから。

>●現実=下部意識を対象化すること、そして現実否定→倒錯思考の既成観念を全的に否定すること(現実否定の否定)。これこそ、窮極の観念パラダイムの転換である。

これはまさに答えになる。否定するべきは現実ではなく、現実を否定する意識、観念そのもの。それを完全に否定すること。それが突破口になる。

立石裕美

2014年6月28日 (土)

対立構造を止揚統合するための構造認識

3426 北村浩司氏 
>宗教及び近代思想の一つの特徴はその「あるべき世界」を理念として掲げることにあります。哲学用語的に言えば「当為」=「○○たるべき」という認識手法です。

 宗教や近代思想は現実(の問題点)に対立する概念として「あるべき姿」を理念的に構築していった。よって、現実のある一面を否定・批判するのみでそれ以上、現実に関わろうとせず(つまり、現実を捨象する)、結局現実は何も変わらないということになる。なぜ、変わらないかといえば対立概念としての理念(あるべき姿、理念、スローガン等)は現実と同じ位相では対立するのみであり、変わるということはその対立構造をも包摂する形で対立が止揚統合されることだからではないでしょうか。

102725 内藤氏
>多くの若者(男性)が、「私権」や「序列」という概念(言葉)に、最初は強く収束する。そして、その言葉を使い何をするかと言えば、自分の働いている企業への批判でしかない。曰く、「私権企業だからダメなんだ」「序列原理で古臭い会社なんだ」などなど。
>突き詰めれば、理想的な主体(自分)が旧い主体(自分)を否定しつづけている状態。この「自己嫌悪」の状態では、無駄にエネルギーを消耗するしかない。

 矛盾を否定視し攻撃するために使うだけでは旧観念として否定している近代思想と同じになってしまう。構造観念といえど、使い方によっては単なるお題目に過ぎなくなってしまう。構造観念はそれ単体が何らかの価値(意味)を持つのではなく、現実を分析、認識、統合する際に構造化していく要素としての観念なのだと思います。

 そして現実というのは必ず相反する、あるいはさらに複雑な構造によって支えられて成立しているといえます(一言で言えば矛盾に満ちている)。生物としての人間の中心機能である自律神経は「交感神経」と「副交感神経」という相反する性質を持ったもののバランスによって成立している。つまり、矛盾と見られる対立構造は平面的に見れば(その位相のみで捉えれば)単なる対立・矛盾に過ぎず、「善と悪」「短期と長期」「安定と不安定」「早いと遅い」等々の一面のみを是とし、もう一方の側面を切り捨てようとしてしまう。

 しかし、現実社会や生物の外圧適応構造を見れば、必ず相反する要素がバランスすることで外圧(プラスもマイナスも包摂する環境)に適応しているのだといえます。とすれば、一面(仮にそれが善、安定等のプラスとされている価値であったとしても)だけでは適応できず破綻する。

 この一面思考(あるべき姿、あるべき規範、~すべき等々)を現実対象や人間に向けた場合、現実対象であれば一面しか対象化できず(一面しか見えずに)、見えてない一面の課題は欠落していく。また、人間を一面思考で断定し否定してしまう事はその人間の生命力(相反する性質が統合されている状態)を否定することとなり、当然活力衰弱していく。

3426 北村浩司氏 
>しかしこの観点で見れば、これは対抗手段としての見果てぬ夢です。それだけではなく既にこの倒錯の一人歩きによる弊害の方が強まってきました。このような理念=スローガンに代わる「事実の認識」への転換が要求されている時代が既に到来しているのでは無いかと思います。 
 
 事実は矛盾に見える相反する要素も包摂して存在する。対立矛盾する要素を認識することはもちろん過程としては必要不可欠だといえます。重要なのはそこで価値判断し否定に走るのではなく、それをまず認識・受容して、一段上の位相で止揚統合できるかどうかだと思います。そのためには、対立矛盾する要素を統合できる、より本質的な(より深い位相の)普遍構造を抽出できるかどうかではないでしょうか。

浅野雅義

2014年6月26日 (木)

「潜在思念と整合する」という軸で評価が統合される場

 「認識形成」のためには、真っ当な評価空間が必要だと思います。すなわち、その場の評価が潜在思念と整合するという軸で統合、評価されるような場(例:るいネット)です。得られる評価の大小は認識の広がりによって規定され、おのずと、より普遍的で広い「社会」という対象と、それを規定している「意識」がその場の追求対象になる。そんな場が、人々の外向き欠乏に応え、社会収束へと導くことになると思います。さらに、「場」に参加し続けることによって、意識はおのずと変わっていくのではないかというのが実感です。

 評価に対する自我は確かに存在するでしょう。しかし、そんな自我をはるかに超える魅力があると思います。人々の意識や社会を対象化している文章や、逆にしていない文章は一目瞭然です。それは、単にわかりやすいという言葉でも表現できるし(自我の感じられる倒錯意識に基づく文章(言葉)はつたわらないし、分かりにくい)、「すっきりした」という表現でも表せます。いわば、自我を意識せずとも評価が固定できる場(=みんなの共通意識が顕在化する場)であるからではないかと思います。

勝間正樹

2014年6月24日 (火)

トラブルは自分課題をみんな課題へ転換させる鍵?

>そしていつのまにか、受験勉強、定期テストの勉強、日頃の課題、という臨戦課題と、肩を並べるくらいの臨戦課題に社会課題がのし上がってきた結果、課題と課題が一体化されて、強い対象認識力をその子の段階に応じて各自が持ち始めているという状況なのだと思う。その場合「漢字テスト」と「最先端観念」はイコールに近づく。(101385

この事は果たしてこの子ども達に限った話だろうか?
実は我々大人たちの日常も同じような構造があるのではないかと考えた。
子ども達の受験勉強や日頃の課題は子どもにとっては仕事である。裏返せば大人たちの仕事も子ども達のいやでいやでしようがない、でもやらなければならない勉強と同じ位相にある。
仕事も勉強もやらなければならない事と捉えている以上、本当の対象化はできない。この投稿をそっくり大人の仕事の世界に置き換えてみた。

私自身、最近、おっしゃる「課題と課題の一体化」のきっかけをようやく掴み始めた。
仕事ではトラブルや困難課題はつきものである。今まではその状況になると必然的に守りに入り、いかに回避するか、事無く処理するかに埋没していた。このトラブルに対する処し方が最近変わってきた。そのきっかけが社内ネットという開かれた場である。さらにその先にあるるいネットという存在である。
何かトラブルがあれば真っ先にそこに開きだす(=投稿する)。ネットに投稿しながら、それを読み返しながら次第に自分の課題からみんな課題へ頭の中が転化し始める。「何とかしなければ」から「どうすればいいのか」へ転換する。そしてその先に「本来どうすればいいのか」という課題の構造化へ向かえるようになる。
もちろん、緊急度やトラブルの大きさに左右されるが、トラブルが大きければ大きいほどこの仕組みを使ったほうがうまくいく傾向にある。当然、多くの人のレス投稿や、正誤の判断を与えられることで方向性が須らく導かれていく。

この事は自分が発したトラブルだけでなく人から発信されたトラブルに対しても同様に意識が向かえるところが味噌でもある。こうして仕事という半自分課題が真っ当な社会空間に開かれることが可能になる。

トラブルの事例を挙げたが、この思考方法を身につければ、日々の仕事の場面でも活かされ、自分の仕事が社会空間とどう繋がっているか、何に対応できるか、成果をどう活かすことができるかに自然と発想が向かえる。結果、同じ仕事をしていても、活力が湧くし、常に外部環境を捉えていれば何一つとして同じ仕事はない事に気付いていく。毎日が発見の連続になり、仕事=認識の入り口になっていく。ここまでくれば成果の上昇は期待できる。

>その場合「漢字テスト」と「最先端観念」はイコールに近づく。(101385

大人にとって「漢字テスト」と「再先端観念」がイコールに近づくことは仕事という半自分課題と本来仕事が持つ社会性(=みんな期待)が繋がった時だと思う。

>「人収束」であり「共認媒体収束」とは長大、巨大な課題の持つ短期分散力を長期高密度反転させる鍵だと思う。(101385)

不謹慎な発想ではあるが仕事においてはトラブルという期限付きの超臨戦課題が意外と長期高密度反転させる鍵なのかもしれない。

田野健

2014年6月22日 (日)

「責任感」より「当事者意識」

>本当は充足したいし、誰かを充たしたい。
そう思っている人ほど、「自分」に囚われがちな気がします。そして、「自分がしっかりしなくっちゃ」って思っている。(83331)

これを読んで、なるほど、と思いました。

仕事や何か責任のある事を任された時に、「自分がしっかりしなきゃうまくいかない」と思い込んでしまうことはよくあります。そういう意識があると、目が周りにいかない。視野が狭くなって、自分の事ばかりになってしまう。

他の人は他の人で仕事があるし、自分の事は自分でやらなきゃ。よく「責任感」という言葉を使いますが、これは自分の課題と他人の課題を分断する言葉ですよね。

なんか、他の人が遅刻したり仕事を期日に仕上げられなかったりした時に、
「ちょっと仕事に対する責任感ないんちゃう?」
とか思ってしまうけど、その時の自分がどれだけ「無責任」な状態であるかに気付きました。
その人が遅刻したり仕事を仕上げられなかったりした事が、自分に全く関係がないわけないのに、「その人の責任」という言葉で片付けてしまうと、「なんとかしよう!」という思いは一ミリも湧いてきません。

本人はもとより周りも、課題に対する意識を「責任感」からではなく「当事者」として持つようにすればきっと円滑に進むはずだと思います。

矢内春菜

2014年6月20日 (金)

価値観念化する若者が増えている?

観念機能を命綱としてきた人類にとって、これは致命的である。観念機能が作動しなければ、人類は絶滅するしかない。(実現論3_5_05)

最近の若者を見るとそれでも必死になって答えを求めて、まためちゃくちゃ考えてるようにも見える。
しかし、いくら自分の頭の中で考えても、答えが見えず、「答えらしきもの」にとりあえず飛びつく。

不安を消すためには、それが「答え」でなくてはならない。するとその「答え」と照らし合わせて、少しでも違う事象に敏感に反発してしまう。

しかももともと自分の価値意識に照らし合わせるようにして、咀嚼しているため、その時点で「答えらしきもの」は価値観念化する。

例えば、「共同体」という概念ひとつとっても、それが自分の価値観念になっている以上、観念ばかりが先行し、自らの理想と相反する部分に執拗に反発する。

また、どうしてもそこが相入れなければ、「共同体」という概念そのもの自体への否定に変わる。

必要なのはやはり「自分不全」を充たすための観念=答えではなく、みんな不全を充たすための観念=答えという転換だと思う。

みんな発であれば、その観念=答えをもとにどう実現してゆくか。
矛盾があるなら、どう解決するのか。
どう共認していくか。
という全く違うベクトルへ意識が働くのだと思う。

自分発で観念をいじくりまわしても、何の充足も無いし、何より何も実現しない。

観念機能の再生とは、「みんな発」で物事を対象化するところから始まるのだと思う。

平川要

2014年6月18日 (水)

弟子たちのプラス活力

>現実=下部意識を対象化すること、そして現実否定→倒錯思考の既成観念を全的に否定すること(現実否定の否定)。これこそ、窮極の観念パラダイムの転換である。(22203

私自身も多くの弟子たちも、この観念パラダイムの転換ができないできた。多くは職場における不全、具体的には序列原理⇒指揮系統に対する不満や不当感から、会社全体への否定=現実否定の重い鎖につながれてきた。不全をなんでや露店で癒し、数日後には職場の不全をひきづった悩み顔に元通りという繰り返しであった。

ところが、なんで屋が政治お題を前面に打ち出すようになったとき以上に、なんでや劇場で「共同体の弱点と可能性」が扱われた以降の方が、格段にやる気や活力が上昇しているように感じられる。それは、職場不全をひきづらなくなった、つまり否定意識から脱出しつつあるからだと思われる。

否定意識からの脱出は、私権企業に比べて共同体は素晴らしいと勝手に幻想を膨らませていたのが、そうではない、序列原理⇒指揮系統を残存させていれば同様な様々な問題があるんだ、と分かった同一視・安心感をベースにして、100%共認圧力に委ねる体制に転換するとの方針に可能性を感じたからだと思われる。

考えてみれば、人生の大部分を過ごす会社生活を序列原理のまま変えられないと不可能視・否定視し、社会を変えようとなんで屋露店で説くのは無理がある。社会は序列原理から共認原理へ大転換しているのだから、会社もその渦中に存在しており、共認原理の方がうまく行く感覚は潜在的には誰もが感じ取っている。弟子たちが構造認識をもってその現実=下部意識を対象化すれば、現実肯定のプラス活力が生まれてくるのは当然だと思われる。

>みんな期待(社会)と繋がり、統業と繋がるように追求し闘争することが、『現業に立ち向かうこと』だと思います。(101008

社会とつながることで現業に立ち向かうプラス活力を得たこの投稿は、

>読者や投稿者の活力や投稿文も同様で、現実否定の鎖が断ち切られたことによって、一直線にorひたすら現実の可能性に収束すれば良いことになる。従って、一つ一つの投稿に明快さや勢いが生まれてくるだろう。(22203

を絵に描いたような投稿で、現実肯定のパラダイム転換の効用が見事に発揮されている。共認運動の実現は、路上のなんで屋だけからではなく、足元の企業からも推し進められていっていることに、大いに可能性を感じ勇気付けられる。

岡本誠

2014年6月16日 (月)

新・百家争鳴の世紀へ~観念探索の時代潮流を加速するには

現在は「本能原理(私権原理)から共認原理」へ「序列統合から共認統合」へパラダイムの大転換の最中にあり、それがもたらす未曾有の危機は人々を適応本能の次元から収束不全感を生起させつつある。しかし路上でしかと実感できるレベル迄不全感が顕在化したにもかかわらず、人々の観念探索はいまだ本格的な流れとなっていない。100710また思考停止は大衆だけではない。今のところ近代思想と決別し新観念を標榜する思想が「実現論」以外に論壇は勿論インターネットにすら登場していない。これはどういうことであろうか?

歴史を遡って考えるならば、「諸子百家99386」とのコトバに代表されるように、共認社会から私権社会への転換期においては‘変動する社会状況に対し新しい秩序を求める「認識闘争」が極めて激しく行われていた’。しかも‘武力統一に先立って’である。

近代思想と近代国家成立の関係を見てもそうで、フランス革命(1789年)アメリカ独立宣言(1776年)に先立ち、デカルトの方法序説(1637年)ホッブズのリヴァイアサン(1651年)があるし、もっといえば中世におけるシェークスピアやボッカチオの恋愛思想が市場経済→市民社会を牽引し、革命へと導いてきた。しかるに思想は激動の最中で生まれ、最終的に体制へと収束していくというのが史実であり、見方をかえれば「観念は(決して現実を後追いするだけではなく)常に次代を牽引する力を持っていた」のである。

では、かつての思想が花開いた時代と現在は何が違うのだろうか?

1. かつてはいずれの時代も社会の大転換を受けて、知識人または宗教人への「何とかして欲しい」という期待は強くあった。現在は、70年以降「旧観念は役に立たない」という庶民の潜在思念的判断を受けて、知識人に対する「観念再生」への期待が働いていない。

2. 古代思想はそれ以前の精霊信仰→守護神信仰の焼き直しであり、近代思想は古代宗教(キリスト教)の焼き直しである。(過去の本源価値を私権の現実にあわせて劣化させて唱えてみせただけ)それに対して、新観念は、旧観念の全的否定の先にしか生み出せないという、大きな不連続を孕んでいる。

原因として考えられるのは、上記のふたつなのだが、1点目については、庶民の「旧観念無用」判断は正しいとしても、大衆は何故「観念それ自体」を必要としないのか、は合点がいかない。「実践思考が主要に潜在思念を使う(内部意識も外部認識も)のに対して、簡単に実践できない⇒答えが見出せないが故に必要になる構造思考では、潜在思念の紡ぎ出す構造観念(主体や状況を構造化した観念)を使う。この普遍妥当する構造観念という位相は、社会(超越存在)を対象とする限り、必然的に求められる認識位相である。」19061

更に2点目については、それでは新時代の可能性は極めて突然変異的にしか登場しないということになるが、構造認識の必要は必然であり、旧観念がもはやゾンビのごときものであることを思えば、現状は旧観念無用の地平にたって一から思考を生み出していけるようになるまでのタイムラグに過ぎないのではないか、もう少し時間があれば柔軟な思考の持ち主が現れてくるのではないか?という気もする。現に、禁煙ファシズム批判を始めた小谷野敦リンク や、自分探し禁止を打ち出した内田樹 リンク など、旧観念との決別を模索しだした知識人(特にポスト団塊世代の大学人)がもたらす今後の若者への影響は注目に値する。

確かに貧困の消滅した70年以降、人々は「旧観念無用」と判断したとはいえ同時に「序列原理の崩壊を己の私権にとってはチャンス」と判断するという大いなる状況認識の過ちを犯した。80198 2000年までの30年間は人々は矮小化された自分発の解脱課題に埋没し続けてきた、‘闘争不在、解脱埋没という特異な30年’であった69911と総括できる。しかし21世紀に入り、時代錯誤しようにも「私権の可能性」は既にことごとく閉ざされてしまい、ここ数年、ついに自分発ではない社会不全に対する「どうしたらいい?」という期待が生まれつつある。ならばこの期待感を受けて新たなる観念探索の潮流が生まれてくるのは必然であろう。21世紀は間違いなく「新・百家争鳴の世紀」となるだろう。おそらく「実現論」は早すぎたのだ。

しかし問題は、もはや死に体の旧観念ではなく、新旧二大権力が癒着し(アメリカ→官邸→マスコミ)序列原理の復権を巧妙なる共認支配によって推し進めようとしていることである。こうした旧権力の悪あがきは「序列原理から共認原理へ」という時代の根底的なパラダイム転換に逆行するが故に、必然的に様々な軋轢を生み、危機を増幅させ、場合によっては新観念→新体制への転換をまたずして、100929で指摘されておられるように破局→滅亡となる可能性も否定できない。「新認識による共認革命が先か、権力の悪あがきによる破局が先か」この状況認識を持って、観念探索へ向う時代潮流をどのように加速させていけるか、(具体的には反米派知識人や上術した脱旧観念の本物志向の知識人との共闘)が共認運動の目下の戦略的課題ではないだろうか。
山澤貴志

2014年6月14日 (土)

生命を育んで行っている感覚

何度読み返したことだろう。

最初は難解な部分も多く、頭の中をスルーしていってたところもあったが、読み進めて行くに連れ、ある時点から、ぱぁ~と目の前が開けた感覚になり、面白い、もっと知りたい、追究したいと思うようになりました。

そして、今、何かに行き詰まった時、迷った時、
「実現論」ここに立ち返ります。すると、不思議と落ち着きを取り戻し、安心します。そして、進むべき道が見えてきます。

なぜだろう。

>生きとし生けるものは、全て外圧(外部世界)に対する適応態として存在している。(実現論1_1_01)

冒頭のこの言葉に集約されています。
生きのびるか否かは、まず外圧をいかに対象化できるかどうかにかかってくる。

>この潜在思念の感じる不鮮明な可能性を顕在化させたものが、パラダイム転換論や史的構造論etcの答えである。
これらの答え=構造認識は、潜在思念の実現観念態であると同時に、潜在思念が現実を対象化する(=更なる可能性を模索する)概念装置でもある。
従って、答え=構造認識を共認できれば、可能性も⇒答え欠乏も(⇒更なる探求も)全てが顕在化してくる筈であり、又、その構造認識それ自体が現実(≒意識)を対象化してゆく概念装置ともなる。(26869)

真っ向から現実を直視し続け対象化した故の、可能性の理論。

だからこそ、現実逃避の宗教、誤魔化しのマスコミ、思考停止のポピュラリズム、また価値対立を引き起こすだけの近代思想では成し得なかった真の統合理論に成り得ると確信できるのである。

又、更に素晴らしいのは、実現論に生命を与え、それを育んで行っているのが、るいネットに於けるみんなの投稿であるということです。

一人の知識人が著した本を、本屋で買って一人で読むのと決定的な違いはそこにもあるのではないでしょうか。

実現論をみんなで育んでいくことで、みんなから育まれていくような感覚。この充足感は何にも代え難い。

吉村信子

2014年6月12日 (木)

実現回路を強化する取っ掛かり

>答えを発見すると同時に全主体(=感応回路)はそこ(=実現経路)に可能性収束するが、それはある開かれた(=答えを見出した)欠乏意識とある開かれた対象認識がイコールで結ばれて共に強化される過程=その実現経路が強化される過程=その様な主体(実現回路)が強化・形成される過程である。

 物事を前進させる、物事を実現させるのに必要なのが実現回路。欠乏意識の高まりが状況認識能力の上昇に繋がるとすれば、欠乏意識が低く、欠乏意識が低いが故に状況認識能力も低い状態から、実現回路の強化に繋がる取っ掛かりは何だろうか?

 一つは、実現回路の太い人の欠乏意識と状況認識に対する徹底した同化。どのような外圧を捉えているのか、何を欲しているのか(欠乏意識)しているのか、そのために何を掴もうとしているのか(状況認識)しようとしているのか。そして、それら2つをどのような認識を使って繋いでいるのか・・・など。

 もう一つは、みんなに開くという事。欠乏意識の高まりを自分の中だけに求めていては、今後それらが上昇していく可能性は無いという事。私権(=自我)から共認へと大きくパラダイム転換した現在において、最も大きな欠乏(=充足)は共認充足、つまり期待と応合充足であり、欠乏意識の高まりもまわりとの期待応合充足によって増幅されていく。

 実現回路の強化はみんなで。そのための場、仲間、集団が必要なんだと思う。

野崎章

2014年6月10日 (火)

「性的存在」から「類的存在」「同化存在」へ

「同化存在」として生まれてくる人間は、同時に「性的存在」でもある。

人類の特徴は性機能と大脳機能の進化にあるが、それぞれ「性的存在」「同化存在」であるがゆえに両者の適応機能が発達していったと考えられる。その意味で新しい活力源を探り新社会の統合を考えていく上で、人類のDNAに刻印された「性的存在」と「同化存在」の事実を認め、さらにその関係を明らかにしていくことは重要であろう。

かつてフロイトや大江健三郎が人間の行動の原動力を「性」と見たのは本質を突いているが、もっとも性的存在→社会構造も生殖過程・性過程が最基底部を形成していると見抜いたわけではない。ただ私権時代は、性闘争本能を下敷きにした縄張り闘争を止揚した私権闘争(序列闘争)社会であり、従って性欠乏が根源的な活力源となっていたのはその通りだろう。

しかし、その序列闘争の中で非充足が構造的に発生し、人間の行動の本質は「性」(その性闘争私権闘争の制覇力としての「資本」)にあるのではなく人間関係そのものにある。人間は「類的存在」であると見抜いたのがマルクス。つまり、「人間らしさ(類としての人間)を抑圧する「性市場→市場社会」の崩壊は歴史的必然であるとした。

そして、現在「性的存在」が作り出す『私権圧力』が消滅し、それに代わっていよいよ「類的存在」が作り出す『同類圧力』に我々は新たなる活力源を求めようとしている。
この同類圧力を生み出す「類的存在」のさらなる心底に「同化存在」しての人類の姿を浮かび上がらせたのが北村さんの(81972)である。この「同化存在」とはこれまでどの時代の学者も指摘する事のなかった視点である。

人類は、真猿時代からこれまで一度も遭遇した事のない、収束不全という社会不全にぶつかっている。従って、赤ん坊のごとく、「同化存在」という根源的な地平に立ち返って新しい類的関係・同類圧力を構築することでしか、新しい可能性は切り開かれないということだろう。
そのためには、同化を阻害している「自分」「個人」というおかしな観念を無用と自覚し、徹底して現実の課題・現実の外圧を真正面から捉えることが各人に問われている。

吉国幹雄

2014年6月 6日 (金)

新旧両世代共に「構造認識の獲得」の為に、今こそ「本物の思考力」が必要

>従って投稿に在るように、「自分の頭でモノを考えて生きてきたかどうか?」、生き様が問われている。自分の頭でモノを考えてこなかった人は、観念的整序能力や探索能力が闘争圧力の身の丈に合わないから周りに失望を与える。社会を捨象し、観念機能を軽視した生き様では構造化の能力が身に付かず、同類闘争の圧力に耐えられないからだ。私権や私益の獲得の為、自己正当化の屁理屈の為のみに使った頭では、この転換期の課題圧力には通用しないからだ。

 を読んで、同じ中高年世代(団塊の世代)である私自身のことを指摘されたようで、心にグサリと来るものがあった。我々の世代が今の若者たちに比べて、 「自分の頭でモノを考えて生きてきたかどうか?」と聞かれると、一部の人を除いては、悲しいかな概ね「否」と返答せざるを得ないと思う。しかし、以下の投 稿にあるように、若者世代から我々の団塊の世代を見ると、「自分の頭で物を考えて生きてきた」ように見えるようだ。

>例えば、もっと上の世代ならもっと私権を獲得するためにはどうしたらいいのか?について、もっと自分の頭を使って必死になって考えたし、仲間との関係でも、納得できないことがあると、言い争いをしてでも、相手が何を考えているのかを必死で探ろうとした。

 ここには、旧世代が生きてきた背景には、70年代に豊かさが実現されるまでは、私権社会の強制圧力、生存圧力が働いていたことを抜きにしては考えられない。当時は私権獲得という絶対課題が厳然として存在しており、私権勝者になる為には、高学歴を獲得し年功序列、終身雇用の大企業への就職で一生安泰に暮らす。・・・・。一方女性は、私権強者を結婚の相手に選ぶことで、(当時の女性たちは結婚を永久就職などと呼んでいた)一生安泰な生活を手に入れる。・・・・・といった公式があり、その為に努力は惜しまないが、「何の為に?」など考える余地などなかった。また、私権獲得の為には「回りは全て敵」であり、相手に弱みはみせられない。また相手の弱みにつけこむスキを絶えず伺う。・・・・・このようにして生き抜いてきた団塊の世代は、「自分の頭で物を考えてきた」というより、むしろ阿部さんの言葉を借りれば「私権や私益の獲得の為、自己正当化の屁理屈の為のみに使った頭」という方が適切だと思う。

 他方、新世代である若者たちにとっては、このような旧世代が親であり、旧観念の 刷り込みは例え無意識であれ受けている筈である。またすでに貧困は消滅し、豊かさは実現された時代に生を受けた世代であり、家庭という聖域の無圧力空間 で、親の囲い込みの中で育ってきたことから、本物の追求力、思考力、論理力を醸成される場がなかったといっていいのだと思う。更にそれに加えて、親和欠損からの期待封鎖が拍車をかけているのではないだろうか?

 このように考えてくると、旧世代にとっても、新世代にとっても、私権から共認へ、生存圧力から同類圧力へと場が転換したことから、これまでの旧観念は無効であり、新しい認識が必要とされる。本当の意味で「頭を使ってモノを考える」(本物の思考力=本格思考)とは、いち早く構造認識を獲得し観念パラダイムを転換することである。

潜在思念では新しい潮流が感受できても、有効な認識を言葉にする観念能力がついていかねば、自信は揺らいで出口が見えず、答えも出せない。総括の必要性の出所が、観念機能を使ってしか解明できない「収束不全」にあるからだ。このままでは通用しないことに気付いた中高年層も、自戒を込めて真剣に転換したいと思い出している。構造認識の吸収が「活力」と「観念機能」を再生させ、次代への同化能力を磨いてくれるからだ。

 

私権原理(自分発)から共認原理(みんな発)への大転換期を迎えた今、 上記の阿部さんの仰ることを、私自身への自戒を込めて、重く受け留めたい。

大木康子

2014年6月 4日 (水)

そのお金で何をするのか

 以前から、世の中にいる億万長者のみなさんに聞きたいことがあった。それは「その有り余ったお金で何をするつもりですか」である。

 私自身、実はこれと似たような質問を「お金」ではなく「時間」でされたことがある。その質問は「自分の時間が大事と君は言うけれど、その時間で君はいっ たい何が出来るの」である。それまで自分の時間の重要性をことさらに強調してきたのだが、この質問にはまったく答えることが出来なかった。つまり、「自分 の時間」では社会に役立つことなど何一つ実現出来ないということである。

 これは「お金」にも言えるのではないだろうか。いくら多くのお金を貯めたところで、それで一体何を実現をすることができるだろう。せいぜい解脱のレベル を一つか二つ上げれるくらいに過ぎないのではないだろうか。しかし、解脱とはある意味で刺激の一種であるため、その刺激に慣れてしまえば、また次の刺激が 欲しくなるだけでキリが無い。だから、自分のお金と考えているうちは、お金は有れば有るほど良いということになるのだが、時間と同様にお金も「みんなのお 金」と認識すると、”そのお金を何に使うか”ということに自動的に焦点が当てられ、量自体は二の次の問題となる。

>『“自分の時間”なんて、実は存在しないんじゃないか?あるのは、ただ、自分に割り当てられた“みんなのための時間”だけ。本来「みんなの期待に応える ための課題=仕事」を、“させてもらっている”。つまりは、“みんなのための時間を、自分に与えてもらっている”のではないか。だからこそ、時間はその配 分に十分に気をつけて、有効に活用していかなければ・・・。』

 上記引用文中の「時間」を「お金」に置き換えて読んでみて欲しい。

 有れば有るほどほど良いと思い込んでいた「時間」や「お金」も、”自分からみんなへ”という発想の転換を行うことで、「どうやって確保するか」から「どのように使うか」という真っ当な実現思考へと移行していくのだと思う。

加藤弘行 

2014年6月 2日 (月)

置かれた状況を把握すること。

自分自身冴えない奴だなどと思い、変わりたいなと思うことがしばしばある。でもなかなか変われない。で、また悩む。悪循環。活力も出ない。これを打破するのに、大前提が欠けていたように思う。

>社会統合の問題を考えると、すぐに統合様式=(統合を担う)最先端機能に目が行ってしまうが、既にそこに大きな落とし穴がある。実は、最も重要なのは、その統合様式の大前提をなす、置かれた環境を貫く闘争圧力の把握である。
なぜなら、そもそも環境≒闘争圧力に適応すべく先端機能が生み出され、最先端機能であるが故にそれが統合機能とも成った訳だから、重要なのは前提となった闘争圧力の中身であり、闘争圧力を捨象して統合機能(例えば評価指標)だけを見ても、その真の姿は見えてこない。

自分を評価することに何の意味があるだろう。それで「自分は変わりたい」だなんて。内圧となってかかるのはまさに外圧。自分の置かれた状況をこそ先ず考えるべきで、それが、自分が変わるチャンスとなる。

タコ墨。

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