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2014年5月 1日 (木)

“わかる”と“教える”は別

>大切なのは探求することであって、説明することではない。
〔表出規範〕探求途上での説明はするな(止めよ)!7675

教科指導に限定しても「指導者と被指導者(ex.先生と生徒)には,どうにも分かり合えない部分がある」というのが,特にベテラン講師の実感であるように思う。

たとえば,数学の教師がある分野に熟練すると,問題解決に至る「スピード」や「質」は向上します。しかし,指導者として向上するのかどうかはまた別の問題です。

★説明がどうにもうまくできなくなってくるから・・・。

瞬間的に解法は思いつくのだが,なぜ思いついたのかは説明できない経験は誰しもあることです。そんな“もどかしさ”を講師が授業の中で感じると「なぜ,こんなこともわからないんだ!」と他者否定してしまうことになりかねない。

つまり,理解が深まれば深まるほどより良い教え方ができるとは限らない。“わかる”と“教える”は別だということです。

これは,そもそも指導者と被指導者のパラダイムを前提にした一方的な「説明思考」あたりに根本の問題があるように思う。

解決策は?

★子供たちが発する「へー!」や「何で?」に腹の底から同化できるかが鍵になるのではないか。

この「へー」や「何で」は,一見,簡単すぎて陳腐に感じられることがままあります。しかし,その背後には普遍的な理論が隠されているのではないかと最近は感じています。だから,その言葉が表出する根拠となる具体的な場面をできるだけ明らかにしようと努めます。そこには説明思考はありえません。

>同化(対象同一化)とは、外的認識機能(状況認識)を駆使して、お互いの内的認識機能(欠乏意識)をすり合わせる、すなわちお互いの実現経路(回路)を繋げることで、その先に取るべき可能性(行動・実践)を模索する過程であると言えます。82066

探求過程に入れば,必要なのは「生の子供たちに同化する」ことだと考えます。

泣華酒

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コメント

初めまして。

私の小学五年生の担任教師を想い出します。
彼は変わり者で本来は六年生まで持ち上がりの筈でしたが、一年生の担任となり外されました。
早々に教師を辞め、郷土史研究家に為られましたが。

「知識は教えることができて自分の物になる。今日は一日教師にやろう」

そう言って、私達は彼の数少ない理解者だった一年生の教師のクラスで、ひとりひとり一年生の質問に答えました。分かっているんだけれど、上手く説明できない。其れは「知ってる」であって「理解している」とは違う。その経験は私の糧となっています。
しかし無茶をやる・・・

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