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2014年5月

2014年5月31日 (土)

適応本能が、新概念を必要としている。

>もちろん、共認不全も統合不全も間違いなく実在する。しかし、それらの課題に応えるべき観念機能が、大学とメディアによる共認支配=観念支配によって機能不全に陥り、全く答えを出せないとしたら、不全⇒解脱回路が危機と課題を捨象して解脱収束するのは必然である。

02年、収束不全の顕在化によって、不全捨象の充足基調から転換しつつあるのではないだろうか。文字通り、収束不全とは、私権収束しきれないというだけではなく、解脱収束をもしきれないことを意味する。

また、それは適応本能から見ても、危機や課題を捨象して充足や安定に収束することもできない。(それが目先であれ)まったなしに答を要求すること自体、この不全が捨象できないものであることを示している。

私権時代を通じて(もしかすると人類の全史を通じて)、本能を直撃する圧力(危機や課題)とは、基本的に生存圧力であった。それが、最も深い位置で観念の必要や勉強の意味を決定付けていた。

しかし、今回の収束不全からの適応主体の生起とは、生存圧力を克服した人類にとって、共認原理上に登場した本能の認識欠乏と見ることもできるのではないかと思う。

適応本能という深い位相において、新概念の必要という欠乏が生起した。

石野潤

2014年5月29日 (木)

分かり易い言葉=誤魔化しの言葉

先日のなんで屋劇場で、分かり易い言葉=誤魔化しの言葉という話があった。
子供の頃、大人たちや教師から難しい言葉で煙に巻かれた経験はあったが、分かり易い言葉が誤魔化しというのも非常に興味深い。

分かり易い言葉というのは、要は価値対立の起こらない言葉であり、誰もが認める言葉のことである。だから、共認しやすいのではあるが、そこに落とし穴がある。

我々を取り巻く諸問題のほとんどは、私権原理から共認原理への転換というパラダイム転換によって、近代思想に基づく現在の観念群(言葉)がまったく役に立たなくなったことによって、引き起こされているのだと言っても良い。

例えば、福祉という観念(言葉)が、そこに税金をつぎ込むことを正当化し続けているため、財政赤字が膨らむ一方であることを明快に指摘させないでいる。
福祉という観念(言葉)が欺瞞である( 社会福祉の成立過程)ことを理解すれば、高齢化問題についても、老人の役割はなんだろうというまともな議論に向かえるはずなのだと思う。

しかし、福祉という言葉を否定することに対する価値対立、即ち己の私権を否定できないから、福祉は欺瞞という新しい観念(言葉)をわかりたくない。故に、何故福祉は欺瞞なのかという議論はわかりにくいと拒絶する。

つまり、答を出せない原因そのものを「わかりやすい」と評価し、答を出すべく考えることを「わかりにくい」という本末転倒の構造が存在する。

特にマスコミなどの共認形成の発信者を中心に、「わかりやすい」ことが非常に重要であるかのような価値観、つまり、「わかりやすさ」が価値観念化していることも興味深い。

しかし、ちょっと考えてみれば、誰も答を出せないような難しい社会問題を「わかりやすい」言葉で語れるのであれば、とっくの昔に社会問題など解決済みとなっているのではないだろうか?
マスコミの「わかりやすさ」を求める姿勢などは、実は現実の問題を誤魔化し、全ての問題に答を出させなくしている元凶であると考え直さなければならない。

鈴木龍也

2014年5月27日 (火)

新概念は理解するのも使うのも対象同化そのもの

新概念の定義集にある7つの言葉、「収束と統合」、「性闘争」、「序列原理」、「不全と解脱」、「共認機能」、「自我」、「私権」。これらの言葉だけを覚えて使うのは簡単だ。しかし、相手にこれらの言葉の意味を理解してもらうことや、対象の意識状況に応じてこれらの概念を使いこなしていくことはそう簡単にはいかない。

それは、新概念は、定義集の解説にあるように、生物の根幹の機能(本能)から哺乳類、サル、人類に至る生物史全般に渡る本能・共認・観念の諸機能・諸原理 の事実認識に基づいて生まれてきた事実概念であるからだと思う。(ちょうど定義集の並び方も、生物全般→哺乳類→集団動物→サル→人類→“文明”社会とい う順になっている!)つまり、言葉そのものには相手の同化・共感・共認を生む力(色)があるわけでなく、その背景(生物史観の事実認識)に深く同化・応合 して初めて力(共認力)となる概念だからだ。(参考:71463)

その点、その言葉それだけで価値や感応を生むような「旧観念」とは全く異なるもので、頭の深い部分(潜在思念→観念)を働かせる必要がある新概念と、表層部分だけ使う旧観念とは実態的に位相の違いがあることがわかる。

その意味では、新概念を理解するための同化対象は無限ともいえるわけで、それが「新概念を習得する(使う)ことは難しい」と感じる一因だと思う。しかし、 裏を返せば、新概念を使えば無限に様々な現象や意識状況を捉えることができるということになる。このことが新しい言葉を(真似て)使えば使うほど理解が進 んで(充足を高めて)いくという、幼児の意識状況(71847)に近い感覚で、思考の原点なのだと思う。『実現論』や“るいネット”の「答え板」を何度読んでも、その度に新たな気付きを得られるのも、対象同化が広まるor深まるためなのだ!

佐藤祥司

2014年5月25日 (日)

トラブルクレームの主要因は共認回路の錆付き

では、トラブル収束のために、答を出すにはどうすればよいのか?まずは現象事実の確実な収集と分析です。当たり前と思う人が多いと思いますが、かなりレベ ルの高い課題だと認識した方がよいと思います。というのは、担当者からトラブル報告を受けるとき、事実は何であるかを確信できるまでのやり取りに、解決方 針を出すまでの90%くらいの時間を費やしていることも多々あるからです。

その間、報告を受ける側は、どう考えているのか?まずいろいろな報告内容が論理整合していないことが、直感的にわかります。ここでいう論理整合とは観念上より、潜在思念上の『そういう、現実はありえない』という感覚です。

その現実の中には、

①例えば現実にイメージ可能な物理的な性状から程遠い。(単純な技術問題)
②クレームを出した相手のそれまでの思考ベクトルからしてありえない。
③その組織の特性からして、ありえない。
④今の意識潮流からして、ありえない。

などがあります。決して、直接的クレーム内容(建築なら物理的な問題がほとんど)だけから考えていません。かかわる人々の意識も含めた整合性を考えていき ます。また、報告者の判断特性(≒性格)から、その報告に足りない可能性が高いもの、偏って捉えがちなもの、を考慮に入れながら、事実を見極めていきま す。

そして、同化能力(潜在思念の発生する共認回路の開放度)が高ければ、対象の人や組織に面識がなくても、観念上で対象を理解(会社経歴や対象を分析した書類等)し、その内容から、その人や組織に同化し(潜在思念の世界に降りる)、彼らと直接面識のある報告者以上に、正確に判断することも可能です。

このような話をすると、複雑な思考をしていると感じるかも知れません。しかし、この②から④の内容を、報告者は意識していなくても、潜在思念で感じ、かつ彼らなりに統合して、観念に置き換え報告しています。

そして、報告がうまく行かない人ほど、この様な思考に無自覚だと思います。そして、クレーム報告がずれる原因は、たとえそれが物理的(技術的)問題であっ ても、②から④の人に対する統合を担う共認回路の働き(≒相手への同化)に原因があることがほとんどです。だから、共認回路が真っ当に働けば、事実の報告 が出来るようになります。決して、専門技術が未熟なことが主要因ではないのです。

本田真吾

2014年5月23日 (金)

観念機能。

>いずれにせよ適応欠乏と共認機能をフル稼働させ充足可能性(だけ)を辛うじて発掘する事が出来た。それが(あまりにも半端ですが)観念機能の端緒と言う事なのでしょう。

適応欠乏とは、
>突破不可能な不全に対して、充足可能性だけを探索すると言う充足状態を求める
という状態。

自然に対してこの適応欠乏と共認機能をフル稼動させて、充足可能性を発掘できた。
これが観念機能の始まりであるということは、観念機能って『充足可能性を発掘していくための道具』なんだ!って思いました。

今は、使っている観念が旧いが故に充足可能性を探索できないどころか、色々な問題を起こしてしまっている。
観念機能をきちんと機能させるには、つまり充足を発掘していくには、やっぱり新しい観念がないとどうしようもないんだーって改めて思いました。

宮崎未帆

2014年5月21日 (水)

脱「自分」思考

 「自己決定」とか「自分観念」とか、私が学生の時も頭の中はそればっかりで、素直に物事を飲み込めないことも多かった。常に何に向かって生きていけばいいのか確信が持てなかったけれど、「これでいいんだ」と言い聞かせていたと思うし、そういう意味で、屁理屈をこねることばかりに頭を使っていた気がする。だから、自分が進もうとしている道を、人に語れば語るほど、後ろめたさと後悔があって疲弊した。もう、人それぞれと言っておくほうが楽だった。

>人間が行うさまざまな判断も同様である。主観的には全方位にむけて考えているように思えても、場を貫く外圧は、意識下の部分(本能・共認)も含めて捉えており、ある可能性のレンジにおのずと方向付けられている(収束している)。だから、統合されたあとで過去を振り返ると、あたかもその方法しかなかったような錯覚に陥ることがある。(48679 本田さん)

 後ろめたい気持ちが起きる時は、これとまったく逆で、潜在思念で感じる可能性とは違う方向に進んでいるのに、それを一生懸命頭で誤魔化そうとしている時だ。どんなに頭で固定しても、私の潜在思念は、ちゃんと可能性を見出していてくれたのだろう。少なくとも、「このままで良いのか?」という問いを、私の心は常に発信し続けてくれていた感じがする。

共認機能に付随して生まれた不全捨象の機能(自我機能等)の働きにより、目の前の不全や自分に都合の悪いことを捨象することもできる。たとえば社会不全や、圧力が既に私権圧力からみんな期待の同類圧力に転換していることを捨象している人も中にはいる。これは外圧の変化に内圧が同化できていない状態である。確かにごく短期間の間はその状態は成立する。しかしいうまでもなく外圧は現に実在し、勝手に消えてくれる訳ではない。(81972

 どんなに捨象しても、外圧は消えない。そして、頭で誤魔化せば誤魔化すほど、適応しようとする自分の内圧が高まっていったような気がする。

>我々の下部意識はそれぐらい優れものです。その下部意識の指し示す方向に従って、先端機能である共認内容・観念内容を組み替えること、それができれば人類の進化・適応・実現は成るはずです。(21621

 結局、固まった頭を少しずつでもほぐすことができたのは、充足可能性を感じている下部意識を誤魔化さないで対象化したことだったと思う。具体的には、「自分がどう思うか」はいったん棚上げにして、みんながどう思っているかを羅針盤にした。そして、それは自分の中にもある感覚だと思って、自分に取り入れようとしてみた。
(そして段々と、違和感のある感覚が、普通の思考回路からは生まれないものだからなんだとか、何となく分かるようになったりした。)

>下部意識は自分だけでなく万人が同じものです。だから下部意識はその無数の成功体験から、(中略)具体的な人々の中に自らの可能性を探しているのかもしれません。(同上)

 脱自分、そしてみんなへ。私の場合はこんな感じでした。(まだまだ実践中です)

山崎許子

2014年5月19日 (月)

現実否定の鎖を断ち切れば、「自分」も「社会」も変わる。

仕事でもなんでも、「自分はダメなんだ」と思い込んでしまって、それで余計に変われなくなっている人に数多く出会う。

一方、社会全般については、(マスコミ・学者の主張では)「今の学校はダメ」とか「政治家がダメ」とか「企業がダメ」とか「親がダメ」とか、要するに現実は間違っているから何とかしなければならないという論調が大半である。(しかし、事態は一向に改善する兆しが見えない。)

この2つの(個人と社会の)閉塞の事例は、実は、同根の問題ではないだろうか?
それは、固定観念から現実を否定しているという点でも、そう考えても一向に事態が改善しないという点でも共通しているからである。

だとすれば、この思考方法を変えることが普遍的に求めらていることは間違いない。どうすればいいのか?


>現実=下部意識を対象化すること、そして現実否定→倒錯思考の既成観念を全的に否定すること(現実否定の否定)。これこそ、窮極の観念パラダイムの転換である。「新パラダイムの効用 現実否定の鎖を断ち切って、プラス活力の上昇へ(22203)」

ここで指摘されているように現実否定の鎖を断ち切る事がまさに答えなのだと思う。

実際、露店では、「ダメな自分」を規定している固定観念に気付かせ、「(本当は)期待されている(している)自分」を発見する事で変わっていく人を多く見てきた。 (観念上の)否定の鎖を断ち切り、潜在思念のなかの期待が顕在化すると、目に見えて活力が上がっていく。

だとすれば、社会閉塞についても、同様に(観念上の)否定の鎖を断ち切り、みんなの潜在思念のなかの期待を開いて行く事が答えになるに違いない。

共認運動は、(どういう場面でも)新観念パラダイムを伝播することで、広がり、実現していくものだと気付いた。

田村正道

2014年5月17日 (土)

肯定視とは「現実に適応する」こと

肯定視するとは・・・

>目に映る肯定や否定の対象を“突き抜けた”先にある存在(⇒みんな地平にある超越存在)への肯定視。(75093

すなわち「事実」を「事実」として受け止めること。

・・・事実を事実として受けとめるとはどういうことか?

「事実」とは「評価」とも言い換えられる。事実を受け止めるとは、みんなからの評価をありのまま受け入れることである。

そこでは評価(ダメ評価も)の裏にある期待を感じられるかどうかがポイントになる。そのときの「期待」とは、評価の先の可能性(実現イメージ)を共認し、役割を共認する段階で生まれる。
その段階で期待応望関係が成り立ったとき共認充足が発生し、その積み重ねが共認回路の強化に繋がる。

そもそも共認回路ができたのは、肯定視(=同一視)があったから。
進化の過程においても同様で、現実(=外圧)に適応できなければ淘汰されるのみである。

門奈津子

2014年5月15日 (木)

「パラダイム転換」という時代認識は素人の創造の切り札

>しかし我々は、遂に、生存圧力に基づく現実否定→倒錯思考の観念パラダイムを全的に逆転させる新パラダイムを見出した。それは、同類圧力に基づく現実肯定→実現思考の観念パラダイムである。
>それは、とことん現実に立脚し、現実を直視し続ける思考パラダイムであり、旧パラダイムの生み出した倒錯観念(古代宗教)や欺瞞観念(近代思想)を全否定して、本源収束を導く全く新たな状況認識(誰もが認めることのできる事実認識の体系)を構築してゆくだろう。(21495)

現在がパラダイム転換の時期であり、そのパラダイム転換は不可逆的であるという認識は何にも増して基底的で重要な認識ではないでしょうか。「パラダイム転換」という時代認識によって、何が求められており、何をなすべきかという思いが必然的に生起してくるからです。

そう考えると現在がパラダイムの転換期であるという認識を如何に広められるかが要点になってきますが、意外と認識しにくいのが今までのパラダイムとは一体なんなのか?ということかも知れません。それが理解できなければ旧パラダイムが無効化しているということも理解できません。

パラダイムとは、「ある時代に支配的な物の考え方・認識の枠組み。規範。」を意味しますので、今までの社会における支配的な物の考え方、認識の枠組み、規範とは何なのかということになります。誰もが認めるところでは、自由、平等、民主主義といった概念がそれに当てはまることにおそらく異論は無いでしょう。

では、それが本物か?答えたり得るのか?可能性があるのか?を自問してみてはどうでしょう。みんなにとって自由とは何か?平等とは実現できる概念なのか?民主主義は実現されているか?等々を考えると、これら全ては漠然としており矛盾に満ちています。それどころか、それを強烈に実現しようとすると(アメリカに見られるように)様々な問題を生み出すことになっています。身近ところでは、民主主義は選挙制度に見られる様に形骸化していますし、個人の自由や平等の概念は教育の場面では様々な混乱を引き起こしています。もっとも日常において「自由」とか「平等」という言葉を使うことすら滅多になく、現実には使えない概念であることは少し考えれば納得できることではないでしょうか。

旧パラダイムとは何なのかを考えると言うことは、歴史認識・時代認識そのものであり、また人々の意識を対象化することに他なりません。その様に思考を巡らすと自ずと気付かされるのですが、この思考方法自体が、事実の認識であり、現実肯定から実現思考そのものです。また、素人が社会の主体であり、現実そのものであり、創造の主体であること、すなわち当事者そのものだという認識もそこに存在します。

沼田竜一

2014年5月13日 (火)

考える、判断する、ということへの錯覚

>憶えるのも、理解するのも、使うのも、全て自分の利益発で、自分が理解できればそれで終り。従って、全ては頭だけで、せいぜい自我(自己決定)回路しか作動していない。(71464

現代人にとって、『考える』『判断する』という意味は、多かれ少なかれ自己決定回路の作動下の意識状態として感じ取っている。例えば、何かの課題に対して決断するとき、本人も周りの人も、当人の頭の中だけの判断軸で行っているように錯覚している事が多い。これは、 

>●現実の課題があって、はじめて探求(創造)が始まる。そしてそこに先駆者や先覚者がいたとしても、その探求過程は、一貫して共認過程であり、皆との期待と応望の交信(やりとり)の中から全ては生み出される。(7453

のことを、はっきり認識できていないことから起こる。例えば、会議の中で、指導者が一見一人で判断しているように見えても、決断にいたる確信は、みんなとのやり取りや、表情など、共認空間のあらゆる要素と、それ以前の共認による体験記憶を駆使して初めて可能になる。決して自己内部の判断軸だけによっているわけではない。

この事が解かると、考える、理解する、決断するなどの意味も変わってくる。みんなの潜在思念との同化により、(本源価値による)判断軸が固定されて行く過程そのものが、それらの意味になる。

このことは、日常的に共認空間になかで、不十分ながらも行われている。そして、これらのみんなの潜在思念との同化過程を、より鮮明に観念化したものが、実現論ではないかと思う。だから、観念で表された同化過程を、現実の課題に対して適応しながら理解するというような、現実の同化過程を同時に行わなければ理解できない。

突き詰めると、旧観念的思考とは、同化過程を含まない、自己決定回路による思考法である。そして、現実の同化過程の在る無しが、旧観念的思考との最大の差異ということになる。私たちは今まで、これらを、考える、判断する、ということと錯覚して来たようだ。


本田真吾

2014年5月11日 (日)

現実肯定→実現思考

>現代社会の至る所で噴出する異常現象は、全てこの現実否定→倒錯思考の観念パラダイムが生み出したものであると云っても過言ではない。
20354

「悩み」の構造は、ほとんどがそう。

悩みは必ず、母親や仲間、男女関係、職場での人間関係の「現実否定」に端を発している。そして、共認充足が乏しい(心と体が充たされない)→充足可能性は、己の頭で作り上げる「倒錯思考」にしか見いだせなくなるほど追い詰められる。

例えば、上手くいかないのは自分のせいだと自分を責める強固な「自分規範」や、自分が捏造し自己決定に至る「自分観念」。
男女関係でも、ただただ肩書きといえいるだけで安心する彼氏彼女、一対一の恋愛関係を無条件に良し、とする「恋愛観念」。
そしてその基にある、自由・平等・個人・人権等の旧観念

・・・倒錯思考に向かう手前で共認充足できていれば、そこに向かわないのだが。

「悩み」とは、倒錯思考がぐるぐると頭の中で廻ってしまうその段階で既に、思考パラダイムが負のスパイラルに陥ってしまっている。そして一度そこに嵌り込んでしまうと、なかなか脱出できない構造にある。

上記認識の反転が、解決の糸口になる。つまり「現実肯定→実現思考」。
もう一つは、倒錯思考に陥らない、事実に立脚する新認識。つまり現実の役に立つ確かな答え、という新たな観念パラダイム。これが正面突破の道筋になる。

佐藤賢志

2014年5月 9日 (金)

悩み相談のつぼは「倒錯思考」「固定観念」

先日悩み相談を受けました。
その方は、あるハンディを持っています。就職の面接でそのことをカミングアウトすると不採用、隠したままでいると採用となる。
最近、人材派遣会社で職を探しているので、派遣会社の指示に従って、必ずカミングアウトして、結果ここまで全部不採用だった。この「差別」を許せないと訴えてきました。
この、一連の導入部分の話をしながらも、ソワソワと落ち着きが無く、涙ぐみ、嗚咽してしまう様子から、深い被害者意識、(自他供に対する)否定視を感じました。

就職という現実課題が上手くいかないことを「差別」(=不平等)という観念が、出口を見えなくしている倒錯思考スパイラル状態です。
ですから、就職の面接の局面でも、「仕事がしたい、採用して欲しい」という心は二の次になってしまい、「カミングアウトする」事が最優先課題となってしまっているようです。

ここで、新卒学生の就職活動を事例に挙げてみました。
「20社も30社も入社試験を受けて全部落ちた学生は不当な差別を受けているといえますか?」
「それは違う」
「ですよね」

「就職出来ない」という事実は、あなたも、新卒学生さんも同じく直面している「現実」です。
「差別」=「平等であるべき」という固定観念が、可能性を見えなくしているだけなのではないでしょうか?
この固定観念からは「採用しない会社が悪い」「ハンディを持つ自分がかわいそう」と否定視しか出てこない。けして可能性へ向かうことは出来ない。この根本原因は固定観念(=旧観念)です。

受けた会社で、採用しなかったのはなぜか?その原因をそのまま事実として捉えて、改善していく。
「今のハンディを克服する」「バックアップ体制が取れる職場を探す」etc.具体的に実現可能な方向性は沢山見えてきます。何よりも、「働きたい」という気持ちを実現することが目的であり、それをあきらめさせたり、不可能視させたりしているのが固定観念なんです。

ここまで行き着く為には、その彼女が抱えるハンディキャップの原因を共有し「感謝のトレーニング」を紹介したり(実は途中、この部分が一番心に響いた様子でした)と、状況に応じたやり取りは必要でしたが、彼女を最後に微笑ませた悩みの解決になった中心はこの固定観念の切開です。

殆どの悩み相談は、この閉塞源の固定観念を抽出し、その固定観念が現実をいかに見えなくさせているか、可能性をあきらめさせているか、と構造化することによって90%以上が解決します。
「悩み」は固定観念によって、頭の中で現実を捨象し、要求の自我に収束させ、自己も他者も否定している現状意識を、潜在思念が「なにかおかしい」「可能性ある答えがあるはずだ」と探索している状態だと考えられるからです。

旧観念を全く使わない構造認識によって「固定観念」「倒錯思考」を事実認識に置き換えることが出来るのだと思います。

斎藤一浩

2014年5月 7日 (水)

観念パラダイムの逆転=なんで屋

>潜在思念(=下部意識)の充足基調⇒本源収束を実現に導く、現実直視の状況認識(事実認識or構造認識)さえ提示すれば良い。そこでは現実(下部意識=潜在思念)を肯定こそすれ、否定する必要はない。 ただ、欺瞞観念(上部意識)だけは、全的に否定しなければならない。でないと、欺瞞になる。欺瞞観念を捨てて、事実認識に置き換えても、下部意識=本源収束が実現され易くなるだけで、何の矛盾も自己欺瞞もない。(20199) この観念パラダイムの逆転に対する構造認識は、なんで屋がお題に答えて何をしているのか?を鮮明にしてくれていることに気付かせてくれました。 なんで屋ではまず、悩んでいること、違和感を感じていることを、何故悩むのか?何故違和感を抱くのか?と構造化していきます。実際、知らず知らずのうちに現実の一部(特に都合の悪い事象や心情)を捨象していることが悩みや違和感の原因である場合が多く、この「現実直視の状況認識」を提示することで悩みや違和感の9割方が解消してしまう場合が多い。 前述の捨象している現実とは、下部意識=潜在思念に他ならず、否定していたことの矛盾に気が付き、肯定視することが出来るようになります。 そして、「じゃあ、どうしたらいいか?」に思考が直結する。この最終回答まで提示するのがなんで屋ですが、この時点ではお客さん自らが気がついている場合が殆どです。 そして、そもそもの悩みや違和感の「根本原因」=「現実(下部意識=潜在思念)を否定し捨象させている原因」は欺瞞観念であり、お客さんの実感に全的に同化しながらも、お客さんが抱えている自由、平等、個人主義etcの欺瞞観念群は全面的に否定することが肝要です。 「現実捨象の倒錯観念から、観念捨象の現実直視」という観念パラダイムの逆転を路上(社会)に開きだし、顕在化させているのがなんで屋露店(=新理論の実現態)だと再認識すると活力も上がってきます。 斎藤一浩

2014年5月 5日 (月)

男にとって、新理論は闘争の根拠

子供のときの読書と、大人のする読書は微妙に違うと思う。
子供時ははらはらドキドキ一心不乱にするのが、
大人になると、これはためになるなー、
もっと大人になると、へ~そんな考えもあるのetc.

働いている感動の主体が、共認機能中心から観念機能中心になって行くという感じ。これが共認機能を衰退させることなく続けられたら、分かってくれない大人→分かってくれる大人に変われるだろうし、分かってくれる大人から素直に学べるのだろう。

人間は生まれてから死ぬまでずっと進化系でありたいと思う。だからこそ私権時代にも向上心なるものがあったし、できやしないが自己実現なることを考えた人もいた。まだまだいろいろ、人は模索した。全人格、トータルパーソンetc.

でも、ことごとくが私権時代に、共認よりも個を重視した。観念機能さえあれば共認機能は要らないのではないかなどと考えている思想もあるのかもしれない。しかしそれでは永久に子供の心は掴めない。女性の心も掴めない。

そんなことは庶民=素人ならばみんな知っている。知っているのに分からなくさせるような、分からなくさせてできなくさせるような、無感動なロボットにさせている何かが確かにある。

ロボットにさせているような何かを知るためには、いったん観念機能による思考をやめて共認機能による思考に戻らなければならないのだと思う。そして、ロボットにさせている観念が「旧観念」=プログラムであることを見抜くには、共認によって形成中の新理論が不可欠である!と思う。

それがないと、見抜こうと思っていた矢先に旧観念の中に保存されている本源があって、とても大切だからこそ旧観念を庇護してしまい逆に見抜けなくなってしまうという、結末になってしまうのだ。

言い換えれば、共認の大切さや原基に気づいても、思考停止させロボット化させるプログラムをやっつけない限り、再発→応急処置の繰り返しばかりでしまいには諦めモードに突入してしまうのだと思う。

そういう意味では、男にとっては新理論は闘争の根拠と言えるのではないだろうか。

佐藤英幸

2014年5月 3日 (土)

新概念は構造化するための道具

潜在思念で実践思考する『実現回路』をつかうということは、支配観念からはなれて、こころの奥底から直感的に『可能性を感じる』ことに向かって行動することだと思う。これは、主観的には『正しい』 という思いとして、感じている状況であろう。

>しかし、行動するにあったっても見通しは必要で、観念によって鮮明に状況を理解し方針化しようとする。このとき、無意識に現実に合っていない既存の観念に頼ってしまうので、実現可能性は見えなくなってしまう。

物事がうまくいったとき「直感」に従ったから・・・というのはよく聞く。
けど、そういうときの「直感」は、今まで可能性を感じていたもの(人)に成功体験が積み重ねられ(=肯定視が積み重ねられ)、「正しい」と繋がったということだと思う。
それが潜在思念と実感が繋がったってことで、単なる思い付きとは違う。
そのときにみんなに委ねられるか、自分の中に答えを探してしまうかが実現可能性に向かえるかどうかの起点となる。

ということは「実感」を拠り所(判断基準)にするのではなく、「自分の実感」を「みんなの実感(意識)」と「事実に基づいた観念」とをすり合わせた新たな観念により、支配観念を塗り替える必要がある。
それを積み重ねていくことで、現実と実感と潜在思念のズレが矯正されていくのではないかと思う。

そのためにまず必要なのは、

>マスコミの共認支配が閉塞の元凶、そして真犯人である。そして今攻撃されるべきなのはまさにマスコミである、という認識を広めていく事(68974)

これが突破口になる。

門奈津子

2014年5月 1日 (木)

“わかる”と“教える”は別

>大切なのは探求することであって、説明することではない。
〔表出規範〕探求途上での説明はするな(止めよ)!7675

教科指導に限定しても「指導者と被指導者(ex.先生と生徒)には,どうにも分かり合えない部分がある」というのが,特にベテラン講師の実感であるように思う。

たとえば,数学の教師がある分野に熟練すると,問題解決に至る「スピード」や「質」は向上します。しかし,指導者として向上するのかどうかはまた別の問題です。

★説明がどうにもうまくできなくなってくるから・・・。

瞬間的に解法は思いつくのだが,なぜ思いついたのかは説明できない経験は誰しもあることです。そんな“もどかしさ”を講師が授業の中で感じると「なぜ,こんなこともわからないんだ!」と他者否定してしまうことになりかねない。

つまり,理解が深まれば深まるほどより良い教え方ができるとは限らない。“わかる”と“教える”は別だということです。

これは,そもそも指導者と被指導者のパラダイムを前提にした一方的な「説明思考」あたりに根本の問題があるように思う。

解決策は?

★子供たちが発する「へー!」や「何で?」に腹の底から同化できるかが鍵になるのではないか。

この「へー」や「何で」は,一見,簡単すぎて陳腐に感じられることがままあります。しかし,その背後には普遍的な理論が隠されているのではないかと最近は感じています。だから,その言葉が表出する根拠となる具体的な場面をできるだけ明らかにしようと努めます。そこには説明思考はありえません。

>同化(対象同一化)とは、外的認識機能(状況認識)を駆使して、お互いの内的認識機能(欠乏意識)をすり合わせる、すなわちお互いの実現経路(回路)を繋げることで、その先に取るべき可能性(行動・実践)を模索する過程であると言えます。82066

探求過程に入れば,必要なのは「生の子供たちに同化する」ことだと考えます。

泣華酒

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