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2014年4月

2014年4月29日 (火)

東西の思考法と論理性

> 西洋画は、自然を忠実に写すことがはじまりですが、東洋画は自然を見て、感じている、自己の精神を写すことがはじまりであり、完成とする(88674)

このような、絵画などに見られる対象の捉え方の違いや、主語をはっきり持つ、持たない、といった言語構造の違いなどから、西洋人の思考法は客観的≒論理的であり、東洋人の思考法は主観的≒非論理的である、という言い方がよくされます。さらに、だから日本人は議論が下手、といった主張も見受けられます。しかし、それは本当なのでしょうか。

16世紀に日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが、日本での宣教活動を本国スペインのイエズス会に宛てて報告した手紙の中に、次のような記述があるそうです。

「日本人は、論理的思考を好みます。故に私が地球が丸いことや、雨の原因について説明すると、彼らは夢中になるのでした。」
「しかし、私が”全能である神が、悪魔を含む全宇宙を創造した”と話しても、彼らは納得しないのです。なぜ、善である神が、悪魔を創造したのか?全能である神が、人間をこれほど弱く、罪を犯しやすいように造ったのか?このように質問してくるのです。」

自然科学の普及した現在では、キリスト教に初めて触れた日本人の対応の方が、よほど真っ当で論理的に思えます。おそらく、当時の日本人には、「地球は丸い」や「雨のメカニズム」という科学的見解を、驚きを伴いながらも矛盾の無い事実観念として受け取ることができたのだろうと思います。それに対して、キリスト教の教えには明らかな論理矛盾を感じたのでしょう。

自然と人間を対立概念として捉えるか、一体として捉えるか、という自然観の違い(77357)でも同じことが言えると思います。生物の食物連鎖etcの循環構造の一部に人間が位置しているのが事実だから、自然を語る際にも、その(人間との)境界があいまいになる方がむしろ実態に即したスタンスだと言えるからです。

自我に立脚するが故に、自己と他者、或いは自己と自然の完全分離をよしとする西洋的思考法は、必ずしも論理的ではないのだと思います。近年、医学や科学、芸術など多くの領域で東洋的なものが注目されてきているのは、これまで主流だった自他分離の思考が、事実認識や適応という点で限界に達してきたことを示しているのではないでしょうか。

田中素

2014年4月27日 (日)

【論】より【構造】

最近の子供たちは、「論理的に考えることが苦手である」と言われる。
実際、入試の論述問題を解かせてみると、何を言っているのかわからない文章を平気で書く。また、世界41カ国の15歳の子供たちを対象に実施されたOECD調査でも、日本の子供たちの読解力・論述力は著しく低下。
そこで、塾や予備校では「論理力」をつけるためのパターン演習テキストや講座も登場している。

この学力低下問題を受けて、文科省が検討している新しい指導要領では、「論理力」に裏打ちされた「自ら表現する能力を培うこと」が重要視される模様だ。もちろん、教育問題の背景には国際市場での日本の統合階級の危機意識があることは間違いない。
「論理力」をつけてアピールできないから国際競争に勝てないという危機意識だ。「論理」力がないと相手を説得できない、「論理」力がないから競争に負ける…
どうやら、「論理」は他者との関係において自己の正しさを主張するため(勝つため)に必要な「言葉」を生み出す能力、と捉えられているようだ。本当にそうだろうか?

「論理力」とは物事の筋道=構造認識を示す力であり、事実統合に必要な能力である。その事実統合でもって人々も社会も統合されていくのが超市場であるから、その意味では「論理」が共認関係において今後ますます重要となるだろうとは思うのだが…
国語大辞典(小学館)で【論】は次のように記述される。

【論】(『国語大辞典』)
①物事の道理を述べること。②言い争うこと。意見を戦わすこと。議論すること。また.文句をいうこと。「論を戦わす」③意見。見解。考え。「亡国の論」④論蔵(ろんぞう)のこと。また、仏教論師の著した論書。⑤漢文の文体の一つ。自己の意見を述べ主張する文。

確かに「論」は闘争のための手段という、ギリシャ時代に醸成された西洋的「合理主義」(ひいてはロゴス中心主義)の側面が強いかもしれない。ギリシャ時代に発達した「弁証法」が批判的に容赦することなく議論を徹底して行う否定視を前提にした討論法であることからも、「論理力」とは相手に反論を許さない力であり、それができる人が「論が立つ=弁が立つ」人。

そう言えば『論語』は、孔子が弟子に語った「論」を集成したもの。生きるための処世術(私権時代に自分を売り込むため業)であり、困難状況でどう生きればよいかの方法論を指し示したもの。『実現論』の統合理論とは程遠いが、しかし私権時代を通じて「鑑」となってきた『「論」語』である。

これまでの「論理」力とは、絶対真理を神(あるいは天)の領域にあらかじめ無条件に措定し、序列原理を絶対不可侵の前提におき、その枠組みの中で相手を組みふす力であったのだろう。もちろん、その意味では私権闘争とはいえ、認識闘争を制覇するための力であり、また関係能力も大きく左右しただろう。また、どこからも反論を許さない「論」を立てるには、より「普遍性」の高いものが求められただろう。

しかし、今求められる「真の?論理力」とは、決定的に違う何かを感じる。

例えば、『論より証拠』『論をまたない』と言われるのは、実は絶対真理(変わらぬ答え)や不可侵の序列を前提に置くがゆえに、都合の悪い【現実(事実)を捨象】しているがためだろう。しかし、今やその前提は崩壊し神も天も浮遊した。土台が瓦解したわけだから「論理力」が低下するのは当然だろう。

今や、専門家の論調には誰も注目しないし耳も傾けない。それは、「論」が答えになっていないという以前に「自分」の主張=私権の主張だからだろう。「自分」から「みな」へパラダイムが移行しているにも関わらず、それでは普遍性を獲得できない。みなが反応しない「論理力」では評価されないのは当然だろう。

現在、これほど未明問題が山積し、さらに次々と沸き起こる未明課題を前にして、果たして共通の「答え」としての固定的「論」に意味があるのだろうか。人々が求めている「答え」とは、日々の日常の問題を切り開く突破口だろう。「論」よりも、自らが「答え」を生み出すことのできる「構造」の獲得ではないだろうか。そして、現象事実から構造を抽出できたときに、そのことでまさに現実突破の答えが導かれ、新しい可能性がひらかれるのでなかろうか。

我々、そして次代の子供たちに必要な力は【論】より【構造】。構造力をどうつけるかが重要と思う。その実践の場の例が「認識形成の場」(88111)だろう。

吉国幹雄

2014年4月25日 (金)

もはや変わるしかないという状況認識

>山奥と図書館の違いは、極めて暗示的である。近代思想は、現実の性闘争自我に立脚している。そうである限り、現実から完全に隔離される訳にはゆかない。しかし、人々に共認させる為には、性闘争自我を本源風に装飾し直さなければならない。そして、その様な観念体系を構築する為には、古代思想と同様に現実そのものからある程度隔離された空間(それが、研究室や図書館である)と長い探求時間が必要だったからである。(7453)

絶対固定の序列原理で統合されてきた社会では、固定化された私権圧力に心と体をどう対応させるかに、思考が縛られている。固定観念とは、文字通り社会が固定的で変わらないという状況認識の上に立脚しているようである。

だから、普遍の真理を追究してきたし、現実から距離をおいて眺めることが客観的であり、時間をかけて考えることがあたかも深く考えたことであるような思考規範ができ上がってしまった。

日々変化する自然圧力と対峙していた人々は、時々の変化に対して認識を組み替え、積み上げて生きてきたであろうことは想像に難くない。そこでは、日々更新されることが当たり前であり、更新スピードが価値であるともいえるだろう。

神経系を統合してきた脳とは、そのようにして進化してきたはずであり、外圧の多様さと変化に適応するために発達してきたともいえる。現代人がその数パーセントしか脳を使っていないといわれるのも、その使い方が間違っているのかもしれない。

社会圧力が、固定的な私権圧力から人々の意識が生み出す同類圧力へと転換したことによって、改めて人々の意識やその変化に対応して、認識を組み替えていくことが求められている。何より、収束不全とは、もはや変わるしかないという状況認識である。

石野潤

2014年4月23日 (水)

「“実証主義”にそむくことがこわいようでは未知の領域に踏み出す資格はない」

全24巻の大著である『世界の歴史』という書籍の第1巻「人類の誕生」(著者:今西錦司ほか 河出書房)を古本屋で手に入れた。

“はじめに”から読み始めると、「事実とは何か?」についての面白い記述がある。

>“世界の歴史”といっても、それが人類の歴史である限り、有史以後なとどいうのは、わずかに5000年間のできごとにすぎない。本巻で詳しく述べるように、人類はすでに200万年前にはりっぱに人類として生活していたのであり、人類の祖先がはじめてこの地上にあらわれだしたのは、さらにさかのぼって、1400万年も前のこととも思えるのである。この悠久な過去に目をつむって、人類の歴史をたった5000年の歴史であるかのようにすりかえたのは、いったい誰の責任であろうか。(中略)

>ここまでさかのぼれば、歴史学者や考古学者が金科玉条にしている“実証主義”だけでは、もはやまにあいかねることを、あらかじめ知っておく必要がある。実証主義ももちろんけっこうなのではあるけれども、それはどこまでもわたしたちの学問なり研究なりに対して、わたしたちが設定したひとつの方法であり、ひとつの指針であるにすぎない。そうとすれば、その方法なり指針なりの限界にきて、もはやそれにたよっていたのでは研究も進まず、問題も解けないということになったとき、もうそんな役にたたなくなったものはさっさと捨てて、もっと有効な方法なり指針なりを、あらたに設定することこそ、ほんとうに学問なり研究なりを生かす道ではないだろうか。つまり、“実証主義”にそむくことがこわいようでは、この未知の領域に踏み出す資格はないのである。(『世界の歴史』第1巻「人類の誕生」今西錦司ほか著 1989年文庫版初版・河出書房 11~13頁)

『実現論』や、るいネットに書いてある事について、「それは実証されていない」「それは仮説にすぎない」とおっしゃる方が時々います。私はそれに対して、「そうです、その通りですよ」と言うことにしている。「それの、どこが問題なんですか?」と。

>この場に参加されている多くの方々も、現代社会の行き詰まりと大転換の予感があるからこそ、現代の支配観念に根本的な疑問の目を向け、できる限り固定観念を捨てて、現実を直視し、事実の追求に向かおうとしているのだと思います。まして、全文明史を覆すほどの大転換期だとすれば、歴史を遡って原始人類やサル社会や生物原理にまで目を向ける必要も出てくると思われます。しかし、それらは大部分が未明の領域であり、その解明の為には、固定観念に囚われることなく事実を素直に認める柔軟な頭と、大胆な仮説の提起が何よりも大切になります。(msg:967

ここにあるように、現在の時代の行き詰まりや閉塞感の原因を探るためには、どうしてもいわゆる“文明(=私権時代)”の歴史だけでは事足りず、人類史、生物史をさかのぼって、人間の意識構造やその人間が創る集団や社会の構造を明らかにする必要があると、私も強く感じる。そのためには、ほとんど明らかにされていない、文明以前の人類の歴史を紐解くことは不可欠だと思う。

これまで、ほとんど明らかになっていないのだから(しかも、すんでしまった過去の歴史を再現できるはずもないのだから)、仮説を立ててそれが現実に矛盾なく整合するなら、すぐにでも現実に適用するだけである。

>たとえば、直立二足歩行をはじめたばかりの人間の女性は、生まれた子どもをどのように育てたか、ということを考えてみよう。するとそのためには推理の材料として、類人猿の育児法や現存する狩猟採取生活者の育児法はいうまでもなく、そのほかに、生理、生態、心理、社会にわたる広い知識が必要になってくる。そういうものをあれこれかみあわせてみて、どこにもくいちがいや矛盾がおこらなければ、そこにはじめて、こうでなければならないというひとつの仮説が、推理によって成立したといってもよい。こうして成立した仮設は、もちろん事実でなくて、事実に対する第一近似にすぎないであろう。しかしこの第一近似は、わたしたちの推理さえすすめば、事実にむかって無限に接近してゆくことができる。(『世界の歴史』第1巻「人類の誕生」今西錦司ほか著 1989年文庫版初版・河出書房 13~14頁)

現実に生きている私たちは、研究を趣味(?仕事?)としている学者とは違うのであって、現実を前に「これは実証されたわけではない。実証されるまで待ちましょう」といっているわけにはいかない。

初めて子どもを育てようとしている初期人類の女性と同様、過去に存在した適応形態や、現存するサルや先住民族の適応形態、さらに「生理、生態、心理、社会にわたる広い知識」を総動員し、まさに使えるものならすべて使って、目の前の現実を生きていく他ない。

そのような思考の仕方は、なぜか学校ではまったく教わったことがないが、るいネットに参加し、なんで屋で多くの人たちと接するにつけ、その重要性をひしひしと感じている。

蘆原健吾

2014年4月21日 (月)

考えることを捨象していたけど

 >大切なのは(原始以来、一貫してそうであった様に)現実そのものを対象化することである。即ち、頭の中の内在価値を対象化するのではなく、既に頭の中にある内在価値(潜在思念)をもって、頭の外の現実世界を対象化することである。(7453)

 日常生活では、当たり前のように現実世界を対象化して生きているのに、仕事を始めるまで、なにか物を考える時は、自分で考えなきゃいけないと思ってた。
 でも、自分の内面を掘り下げても何もなかった。ただ、誰かに必要とされたい(期待されたい)、誰かに喜んでもらいたい(期待にこたえたい)ということしかなかった。
 自分で考えるといっても、煮詰まるだけで、しかもなんか悪循環にはまる感じがしたから、あまり考えないようにしてた。
 
 >人類の最先端機能たる観念機能は、あくまでも本能回路や共認回路を充足する為にある。もっと簡単に言えば、現実課題に応えるためにあり、行動を導く為にある。(実現論1_6_05)

 >人類を進化させてきた観念機能の認識ベクトルは、現実対象から不在対象(頭の中に内在する本源価値)へと180度逆転させられてしまったのである。
 >現実対象を捨象したこの即自観念(頭の中に内在する本源価値を言葉化しただけの観念)は、現実の一切の活動から切り離され、ただ「観念」それ自体の為に存在する。これは観念の倒錯である。(実現論1_6_06)

 このことを知り、救われた思いがした。内面を対象化することが考えることなんだと思ってたけど(そのせいでしんどい思いをしたりしたけど)、その考え方自体がそもそも倒錯してたんだ、と。
 
 現実対象不在の観念を使ってものを考えることほど、苦痛なものはない。しかも、現実に使えるものは何もでてこない。
 だから、考えることがいやだった。考えることを捨象していた。

 でも、潜在思念に従って、現実(周りの人々の意識)を対象化して、どうすればいいだろうか?を考えることは楽しい。
 周りの人に同化できてなかったら、しんどくなってくるから、自分のどこがずれてるのかをつかもうとする。その過程で相手への肯定視・同化ができて、仕切り直しができる。
 現実を対象化している限り、どーんと落ち込んでいたりできなくなるる。悪循環の思考ループに嵌らないようになってくる。

 現実そのものを対象化する。
 ゆがんでとらえたりせずに、そのままを。
 当たり前だけど、大変なことだと思う。
 だけど、ちゃんと対象化できていると何より充足できる。

 考えること=現実を対象化して、探求・創造すること
 それは、本当にわくわくすること(やりがいがあること)だと思う。

白子佳世

2014年4月19日 (土)

皆思う故に我あり

閉塞しているのは、わたしたちの存在そのものなのだろう。

>「全てを疑った上で最後に残るのは”思惟する存在である自己”である」

デカルト哲学から端を発し400年、近代思考の手本ともなった科学的思考、すなわち要素還元主義。この、対象を細かく分解していけばそこに絶対的な本質があるのだという価値思考(主義)は、同様に人類の存在や関係そのものをも要素に還元して、絶対化してしまった・・・。

人類は同類(なかま)と共認する事で500万年を生き延びてきた共認動物である。その証拠に個体(個人)という単体要素の中には、どこを探しても共認の本質などは存在しない。共認機能のひとつである言語ですら、全く意味を成さないのだ。

「我思う故に我在り」

本来、共認動物としてこれ以上の自覚的閉塞宣言はないであろう。「わたしは共認動物として閉塞しているのだ!」これはリストカット同様の自傷行為であり、悲痛な叫びでもある。したがって個人主義とそれにもとづく教育とは、この共認動物としての閉塞感を無意味に転写し拡大し、正当化する行為であり、閉塞意識の無限連鎖に他ならない。個人主義が閉塞社会をもたらすのも当然と言える。

だが、貧困が消滅し私権統合・序列統合・自分だけ、がなんの意味を成さなくなった今。共認存在としての閉塞を宣言する必要も、正当化する必要もなくなった。人類存在の本質は、主義や主張とは無縁に500万年を貫徹して共認存在なのである。「我思う故に我在り」という意識が心低で求めていたものに、今こそわたしたちは素直に向きあえ向かえるのだ。

「皆思う故に我在り」

この意識が共認存在の閉塞を打破する。
笠原光

2014年4月17日 (木)

考古学と同化機能

>考古学において構造認識を使うというのは、現代的な価値意識を廃した前提をもって、かつ事実のみに焦点を当てることで初めて成り立つものなのではないか<

確かに考古学というのは考察している本人の価値意識(思想・宗教・常識)などが混入しやすい学問だと思います。
たぶん、限られた史料を分析する際にはある程度仮説をベースに史料を当てはめ、その試行錯誤で論理整合性を検討していく方法論とらざるをえないためと思われます。そして、その仮説に価値意識が混入してしまうという構造なのだと思います。

そうした価値意識の混入を回避するには

>人類最古の農業がいつから始まったかという問題は措くとして、原始人が、温暖期ではなくて、農業がやりにくい寒冷期に農業を開始したことは興味深い。
 人間は保守的な動物だから、《できるからする》のではなくて、《しなければならないからする》というのが常なのだ。<5402

というような必要か必要でないかという認識を持つ必要があります。
そして、こうした認識を導き出せるのは、当時の気候や生産様式、集団の婚姻様式等にまで想いを馳せること、つまり当時の人々へどれだけ同化して思考できるかということが大事なのだと思います。

さらには、個人の知りうる情報(史料・認識)だけで同化を試みるより、ネット上での仮説の提示(同化の結果の発信)に対して、多くの人が同じ事を試みてみることも大事だと思います。
多くの情報の集約という意味ももちろんありますが、提示された仮説に基づいて同じように同化を試みて違和感の無い人が多ければ、それだけ当時の人々へ近づけたと言えるのでは無いでしょうか?

あまり考古学の知識のない素人であっても、仮説への同化に違和感があればそれを発信することで、人類の歴史的事実の解明に役に立てるような気がします。

鈴木龍也

2014年4月15日 (火)

原因追究における論理整合性が最も高い論理を「事実」と呼ぶ

「事実って何?」の前に「事実って何で必要」がある。必要なければどうでも良いのである。「事実が何って?」でてくることは必要だから出てくると考えられます。

>「事実」を必要とするのは、何か物事を考えるときや、現実の課題を突破しようとする時だ。課題を対象化し、その構造を探り、その構造の中に「事実」を探る。そうすること無しに、課題を突破することなどできない。もちろん、そこに「事実」は一つしかないし、その一つの「事実」を完全に捉えることができるかどうかが、課題の成否を決定付ける。構造化とは、この「事実」を捉えるための行為に他ならないと思う。(84551)

その通りだと思います。

現実に存在する問題、課題、不全の原因追究をしようとしたときに、展開できる論理は一つではなく幾通りも考えられるが、その中で最も論理整合性が高い論理=みんなが共認出来る論理を「事実」として採用する。もちろん新たな、発見があって、元の論理より、新たな発見を組み込んだ論理の方が論理整合性が高くなれば、新たな論理を「事実」として捉え直せば良い。そういう意味では、完全な「事実」は存在しないとも言える。

方針立案する場合は、原因追究の最も論理整合性が高い論理を「事実」として採用し、その「事実」に基づいて方針を立案していく。「事実」に基づかない方針では、現実を突破出来ないため何の意味もなさない。その代表的な事例が近代観念である。
方針も原因追求と同様に、方針=答えは一つではない。幾通りもの方針の中で最も論理整合性が高い論理=みんなが共認出来る論理=より共認充足の得られる(=可能性が高いと判断)、方針を選択するのが共認体たる人類の必然だと考えられます。

実現論より
>進化とは、その存在を構成する多数の古い実現体の無数の組み替え可能性の中の一つの外圧適応的な実現である。その無数の可能性の内、外圧適応態たり得る可能性は極めて小さいが、しかし決して唯一ではなく、幾通りもの適応の仕方=進化の方向が存在する。と同時に、完全なる適応態など存在せず、全ての適応態は外部世界に対する不完全さを孕んでおり、それ故より高い適応を求めて進化を続けてゆくことになる。とりわけ外圧が変化した時に、存在の不完全さと進化が顕著に現れるのは当然である。
>人類の最先端機能たる観念機能による『事実の認識』も同様であって、完全なる認識など存在せず、人類史を通じてより高い適応を求めて無限に塗り重ねられ、進化してゆくことになる。

加藤俊治

2014年4月11日 (金)

適応する(=賭けに勝つ)ために必要な認識

>進化とは、その存在を構成する多数の古い実現体の無数の組み替え可能性の中の一つの外圧適応的な実現である。その無数の可能性の内、外圧適応態たり得る可能性は極めて小さいが、しかし決して唯一ではなく、幾通りもの適応の仕方=進化の方向が存在する。と同時に、完全なる適応態など存在せず、全ての適応態は外部世界に対する不完全さを孕んでおり、それ故より高い適応を求めて進化を続けてゆくことになる。とりわけ外圧が変化した時に、存在の不完全さと進化が顕著に現れるのは当然である。人類の最先端機能たる観念機能による『事実の認識』も同様であって、完全なる認識など存在せず、人類史を通じてより高い適応を求めて無限に塗り重ねられ、進化してゆくことになる。実現論1_1_03

>人類の最大のニッチは、新理論を切り拓く所にある。今、みんなが直面しているのが、統合不在ゆえの収束不全である以上、みんなの可能性探索が、みんな共認収束を経て新理論の構築に収束するのは、必然である。71820

'70年以降、生存圧力が衰弱し同類圧力に転換した。収束不全発のみんな期待こそ、新たな外圧である。それに適応すべく登場した観念の変異態、それが『実現論』だと思う。

>科学的証明を待っていたのでは遅い。84310

『実現論』の記述について、「その認識は証明されたのか?」といった指摘を受けたことがあるが、「証明されていない認識は事実とは言えない」という理屈は、何事も実現する気のない、腰の重い傍観者のイチャモンにすぎないと思う(大事なのは実現することであって、証明することではない)。

変異(人類では、より適応度の高い観念変異態を作り出すこと)とは、賭けである。変異して適応できるかどうかはわからない。現に、生物進化では殆どの変異体は不適応態である(実現論1_2_02)。また、企業経営etc.現実の実践過程では、証明されていなくても、臨戦判断を下さなければならない局面が無数にある。適応するために変異することor実践すること、つまり現実を生きることは賭けの連続であって、やる前から100%成功するとわかることなんか、全くと言っていいほどない。

だからこそ、適応可能性=賭けに勝つ確率を可能な限り上げるに、知りうる現象事実・歴史的事実と可能な限り論理整合した認識が必要となる。そうして作った認識を使って、何事かを実現して初めて、その認識が間違っていなかったことがわかる。実践して賭けに勝つことが、事実の証明なのだ。うまくいかなければ、どこが間違っていたのか?分析し、認識を組み替える。そのようにして認識は常に進化していく。

観念論者は、「事実or絶対的真理とは何ぞや?」を問題にして頭の中で堂々巡りを繰り返す。その前提にあるのは「事実or真理は絶対不動である」というドグマである。それは、己の全存在を賭けて実践する必要のない傍観者の戯言である。絶対不動の(いつでも、どこでも正しい)事実など存在しない。適応する(賭けに勝つ)ために必要な認識こそが、事実なのだ。
冨田彰男

2014年4月 9日 (水)

客観的事実とは?

>しかし考えてみれば(自然科学の領域において普遍的に事実追求を行う知的探索の地平はあるが)、“事実”そのものが何なのか?と漠然と問うていくのは・・・・
というのも、“事実(観念)を必要“とする位相で見れば、事実はそれ自体単独で存在するものではなく、『現実の課題(外圧)を突破して実現するのに必要なもの』である。
(それゆえ、現実の課題(外圧)が変化すれば事実の中身も変化する。)(84235

たしかに事実とは?と考えたときに
1.現実の問題に直面した場合、実現基盤や突破口を捜しているときに事実は必要になる。事象を固定化しないと前に進めないし、実現基盤も発掘できない。
2.現実の課題が変化すれば事実の中身も変化する。また、同じ事象でも見る人によって違う事実として認識されたりする。

 そう考えると、一般的に言われる、客観的事実とは何だろう?と考えてしまいます。例えば生物の認識機能というレベルで考えてみると、「見て解るという不思議「単眼と複眼について」」(18150)に書かれているように、人が客観的事実・現象として眼から捉えているものも、実は認識による絞込みを行った結果であることが解ります。
だから見ている人の問題意識の違いで、別の事実として認識してしまう。つまり主体から切り離された客観的事実とは、それこそが固定観念では無いかと考えられます。

>だから、事実認識とは、“共に現実の課題を直視しそれに向かっている”なかではじめて必要とされ共認されるものなのだろうと思う。(84235

 なるほど、事実の認識とは現実の課題を共認する中で必要とされる。だから、外圧=課題に対し、傍観者である以上、(可能性収束のための)事実は共認されず、「事実はいろいろあるよね」とかの言葉になってしまうんですね。

廣重圭一

2014年4月 7日 (月)

飛行機が飛ぶという事実でさえ、証明できない数学論

「飛行機が飛ぶのはなんで?」
誰でも一生に一度は考えたことがあると思います。

僕は大学時代、人力飛行機をつくっていたことがあります。
空力設計を担当していたのですが、そこで感じた「証明」というものに対する違和感を、ちょっと紹介してみたいと思います。


まず、飛行機が何故飛ぶのか。実は本当はまだわかっていないのです。
ごく最近までは、「ベルヌーイの定理」という公式に基づいて飛行機は飛ぶ、というのが定説でした。
ベルヌーイの定理による揚力(飛行機が浮かぶ力)の説明とは、簡単にいうと空気の流れによってできる気圧の圧力差によって生まれる、というものです。
飛行機の翼の断面は、極端にいうと「かまぼこ」のような形をしています。現在実験によって、飛行機の翼の上側と下側に流れている空気の速さが違うことがわかっています。(ただ、なんで空気の流れの速さが変わるのか、というところはわかっていません。)空気の流れの速いほうが上側(かまぼこのピンク色の部分)、遅いほうが下側(かまぼこ板の部分)になります。
ベルヌーイの定理は、空気の流れが速いほうが気圧が低くなり、空気の流れの遅いほうが気圧が高くなる、というものです。空気は気圧の高いほうから低いほうへと移ろうとする。よって下から上へと向かう力が生まれる。重力<揚力になった時、飛行機が浮くわけです。
これがつい最近までの定説で、我々が乗っているジェット機なども、全てこの定理に基づいて製作されています。

ただ昨今、このベルヌーイの定理による揚力の説明が、ひとつの現象事実により迷走する事になりました。戦闘機が逆さ飛行をしているところを思い浮かべてください。どうみても飛んでいます。
ベルヌーイの定理的には、下側がかまぼこのピンクの部分になるので、ものすごい勢いで(重力+揚力)急降下するはずなのです。ニュートン法則によって迎角のみで揚力が生まれると説明している輩もいますが(説明は割愛)、それだけでは全く説明がついていません。

つまり、現在の状況を端的に説明すると、
「何も証明されていないのに、飛行機は飛んでいる」状態なのです。
ベルヌーイ派とニュートン法則派で泥仕合が続いていますが、この「飛行機が飛んでいる」という事実だけは目を背ける事が出来ません。

ベルヌーイ法則によって、飛行機はその設計根拠を持つことが出来るようになりました。それからというもの、航空機は飛躍的な発展を見せており、普遍的な概念を作り出した点ではベルヌーイの法則は大きな功績でした。しかし、その後「数学的な証明」にこだわり泥仕合を続けている様をみると、数学的な証明というものがいかに現実の役に立たないのか、よくわかると思います。

>例えどんな仮説であっても、皆の知っている限りの知識に照らし合わせて論理整合していれば、私はその仮説をいったん事実として認めます。もちろん、いったん認めた事実に反する現象事実が出てくれば、皆さんと共に速やかにその現象事実を組み込んで論理=構造事実を組み替えてゆきます。(967)

ベルヌーイ法則も、はじめは大胆な仮説でした。それを論理整合させて、使える概念としてきたのだと思います。現状ではとことん微分した限定事実のみで定説と言い合う状況。大胆な仮説が出せずに足を引っ張り合い、閉塞させています。
今、こんなところにも本質的な事実追求に向かうことが求められているのです。

北村太郎

2014年4月 5日 (土)

「事実」を必要としないのは傍観者の証拠

「事実なんてない」とか「事実は人それぞれだ」とか、「事実は一つではない」「一つの事実なんてことはありえない」と主張する人がたまにいる。そういう人は、自らの価値観を主張するばかりで、全く人の言うことに耳を傾けようとしない。こういう人の意識はどうなっているのだろう?

「事実」を必要とするのは、何か物事を考えるときや、現実の課題を突破しようとする時だ。課題を対象化し、その構造を探り、その構造の中に「事実」を探る。そうすること無しに、課題を突破することなどできない。もちろん、そこに「事実」は一つしかないし、その一つの「事実」を完全に捉えることができるかどうかが、課題の成否を決定付ける。構造化とは、この「事実」を捉えるための行為に他ならないと思う。どのような課題であれ、その課題の「当事者」である限り、「事実」は絶対的に必要となる。

つまり、”事実追求”と言う行為は、「当事者」であることの前提条件であり、逆に「事実は一つではない」「事実なんてない」と事実追求を否定する人は、単なる傍観者に過ぎないことを示していると思う。

社会不全を対象化し、その中に事実を探る。社会の当事者であるかどうかは、全てがそこに問われていると言える。

西谷文宏

2014年4月 3日 (木)

個人主義が身体を破壊している

>人に都合のいい部分だけを抽出したり、合成した結果、生体にはそぐわない物質になってしまったのではないでしょうか。 近代科学は、本当に個人主義思想が強力に影響しているなぁと思います。 >まず第一に、一個の遺伝子が単独に働くことは在り得ない。どの遺伝子も数十、数百、数千の他の遺伝子群と連鎖的に化学反応を起こしてはじめて何らかの働きを持ったアミノ酸や蛋白質を作り出すことが出来る。しかし、そうして作り出された一つの蛋白質だけでは、生命を維持することは出来ない。結局、十万の遺伝子が緊密に連動し、協働してはじめて生物は維持され、進化してゆく。要するに全DNA(ゲノム)とは、まぎれもなく十万もの遺伝子の共同体である。 >第二に、ある遺伝子が変異を起こした時、その変異遺伝子は残りの十万の遺伝子群と適応的でなければならない。もし他の遺伝子群と不適応ならば、自然環境etcによって淘汰される以前に、まず細胞内部or個体内部で修復蛋白群をはじめとする組換え系の物質群や蛋白質の致死化学反応あるいは免疫細胞によって体内淘汰されて終うだろう。従って、まず一個の遺伝子が在るのではなく、まず共同体的な遺伝子群があり、その中でのみ、かつ全遺伝子と適応的である場合にのみ、一個の遺伝子は存在し得るのである。(注:体内淘汰されない限りは適応なので、ごくまれに個体にとって有害な遺伝子が存在することも在り得る。)(59) どの物質がどう危険とか細かいことは分からないし、科学的証明を待っていたのでは遅い。 でも59にあるように、都合よく一部だけを取り出しても適応しない=害になるだろうことは、誰でも実感的に分かる。 なのに「個人主義」は、それさえも見えなくさせてしまう。 科学が暴走した結果、人工物質の問題が出てきた。 それを解決するのは、細かい法律や実験ではなく、根本の価値観の転換だと思う。 西知子

2014年4月 1日 (火)

共に実現に向かうなかで事実認識は共認される

“事実とは?”
実現論を読み出した人から、たまにこの質問を単刀直入に聞かれる時がある。
この質問に端的に答えるのはムズカシイのだが、その時は、まず事実にも三段階ぐらいの位相があるが(五感で捉える対象~観念で捉える対象。例えば、液体・気体・個体→蒸発などの状態変化による熱移動現象→エネルギー則)、問題になるのは五感を越え観念で捉える事実で、“論理整合により誰もが認めることが出来る現実の対象認識”というような答えをしてきたと思う。
しかし考えてみれば(自然科学の領域において普遍的に事実追求を行う知的探索の地平はあるが)、“事実”そのものが何なのか?と漠然と問うていくのは・・・・

というのも、“事実(観念)を必要“とする位相で見れば、事実はそれ自体単独で存在するものではなく、『現実の課題(外圧)を突破して実現するのに必要なもの』である。
(それゆえ、現実の課題(外圧)が変化すれば事実の中身も変化する。)
だから、事実認識とは、“共に現実の課題を直視しそれに向かっている”なかではじめて必要とされ共認されるものなのだろうと思う。

>おそらく人類は今、全文明史を覆すほどの大転換期に入ったのではないでしょうか。
この場に参加されている多くの方々も、現代社会の行き詰まりと大転換の予感があるからこそ、現代の支配観念に根本的な疑問の目を向け、できる限り固定観念を捨てて、現実を直視し、事実の追求に向かおうとしているのだと思います。>(967)

現在の“収束不全”が、>72251生物史を覆す様な大転換>であるという現実の状況認識を共認したうえで、その課題に共に立ち向かうなかから、事実認識=新理論(構造認識)は、本当の意味での“必要”も“共認”もはじまるのだろうと思う。

麻丘東出

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