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2014年3月

2014年3月30日 (日)

可能性発の社会運動

>●しかし、都合の悪い現実を捨象している限り、意識と存在が断絶した自己欺瞞の運動になることは、古代の思想運動と変わらない。(20055)

既成運動が社会を変えられない理由を端的に言うと、
「言っていることとやっていることが違うから」だと思う。

例えば、環境問題。
口(意識)では「ゴミ処理場を作らなければ!」と言いながらも、
根底(存在)では、「でも私の家の周りには、作らないでほしい」と思っている。結局、口では色々主張しながらも、『自分さえよければいい』という意識がある。

例えば、反戦運動。
「戦争反対!平和な世の中に!」と皆に呼びかけながらも、
「なぜ戦争が起こるのか?」という問いには、答えることができない。それどころか、「何故そんなことを聞くのか?」と逆ギレされる始末らしい。
現実社会を否定した上で、「もっとこうあるべきだ!」と理想を掲げ、それに向かう。都合の悪い現実は捨象して、頭の中だけで理想像を築き上げている。

既成の社会運動は、まさに都合の悪い現実を捨象した『否定と要求の塊』。また、『不全発の変革意識』(19576)ということも注目すべき点。
では、どうすれば社会は変わるのか??

>従って、『(社会)変革の必要』から、『(構造)認識の必要』へと、目的・路線を大転換すれば良い。これが、運動論の最終解答である。 (19576)

既成運動の場合、「現実社会の否定」がスタートだから社会は変わらない。変えられない。
社会は人々の意識によって形成されているのだから、人々の認識を変革し、新たな共認内容を形成してゆけばよい。人々の意識が変われば自ずと制度は変わり、社会は変わる。つまり、認識形成の場に参加すること(=場を構築すること)が、真の社会活動なのだ。

不全発ではなく、可能性発で社会は変わる!

井上緑

2014年3月28日 (金)

主客分離による科学的認識の限界

近代科学の認識論の大前提には、主客分離ということがあると思います。即ち、認識する主体と認識される対象(客体)を分離し、対象(客体)世界をその世界の中にいて認識するのではなく、世界の外側から認識するというのが、近代科学の認識態度の基礎となっているのではないかと思うのです。

所謂「科学的認識」というのは、極力主観的な判断を廃し、ひたすら客観的な事実を追求することによって得られる認識であるとされています。それが、近代科学の場合は、対象(客体)世界と認識主体とを切り離すことによって、認識主体を観察者として位置付け、認識主体が観察者となることによって、その客観性を保証しようとする構造になっているというわけです。

その結果、近代科学においては、認識主体である観察者自身の存在の在り様(意識構造を含む)は棚上げにされ、ひたすら現象的に観察(数値化)されるような(数学や物理の法則で説明できるような)事実のみを積み上げるのが「科学的」とされてきました。

ところが、本来の「科学的認識」というのは、対象との同化(主客同一)によって得られる認識であるはずです。認識主体の(意識構造を含む)存在構造と対象(客体)世界の(意識構造を含む)存在構造が論理一貫的に説明できて初めて、客観的事実の認識=科学的認識と言えるのだと考えます。その点では、近代科学のとってきた主客分離という認識論は、やはり、一面的であり、観察される現象の背後にある構造認識には肉薄できないという限界を孕んでいるのではないかと思います。

例えば、進化論やサル学、文化人類学、経済学や社会学などは、物理化学に比べると、あまり進歩をしていませんが、特に、人間の意識を対象にするような経済学や社会学は、全くと言っていいほど役に立っていません。その理由は、もともと現実逃避の欺瞞観念(旧観念)を土台にしているということに加えて、どうしても認識主体の意識が介在してしまうような社会科学の世界は、主客分離の認識論が巾を利かせているために、まともな「科学」とは見なされず、人間や社会の意識構造という対象世界を殆ど追求してこなかったということも大きいと思います。


今や、旧観念の塊である社会科学の限界性は明らかになりつつありますが、主客分離の認識論に立つ限り、所謂科学技術の世界の認識も早晩限界を迎えるであろう(すでに限界を迎えつつある)と思います。

それは、自然対象と同化するのではなく、市場の下部として、自然対象を利用すべき対象と見なし、環境を破壊しまくってきたツケが回ってきたという限界性だけではありません。根本的には、古い近代科学の認識論に囚われて、要素還元的に分子や原子レベルに切り刻んでいくだけでは、対象世界の部分は認識できても、認識主体を含む全体構造を認識することは決してできないという認識論上の限界を孕んでいると思われます。

対象との同化という認識論に転換しない限り、科学技術の発達と、自然からの逆襲(わけの分からないウィルスや異常気象など)とのいたちごっこは永遠に克服できないであろうと思います。

雪竹恭一

2014年3月27日 (木)

内面探索は旧い。みんなで対象探索

>内面を対象化するのは、タブーである。今更、内面を都合良く探求した言葉など時代遅れであり、誰にも共認されない。
7675 「 素人の社会活動37 表出規範(or思考規範・表現規範)」

内面探索は自分にとって都合のいい既存観念や都合のいい現実を抽出した思考であるが故に実に簡単な作業である。しかし都合の悪い現実を捨象しているが故に、永久に現実で何かを実現する答えにはならない。内面探索とは、頭を使っているようでいて実はないも考えていないに等しい。

「自分って何?」「生きるって何?」「やりたいことがみつからないのは何で?」「恋愛が長続きしないのはなんで?」等、なんで屋露店には内面探索から抜け出せないが故の閉塞感と絡むお題がいくつも並び、多くの人に選ばれる。

現実に役に立たない内面探索に向かわせる動因として近代思想を無視することはできないと思う。デカルトの「我思う、故に我あり」等はまさに内面探索の結晶物であり、近代文学・芸術を見てもそのほとんどが内面探索によって生み出されたものであり、各々にとって都合の悪い現実は捨象され、あるいは否定され、自分にとって都合のいい現実のみが美化され結晶化されている。すでに普通の人は旧観念は見捨て、文学・芸術も衰弱の一途を辿っているが、思考パターンのみは今なお閉塞の元凶として残存しているのではないだろうか。

内面探索から抜け出せないもう一つの原因は、やはり「答えが出せない」の一言に尽きるのではないだろうか。簡単かつ考えた気になる内面探索に比べ、対象探索は対象の構造を見抜くために、意識構造や社会構造の解明を要し、都合の悪い現実も含めた事実追求こそが現実に物事を実現できるかどうかの成否を握る。内面探索に比して何百倍ものエネルギーを要するが故に不可能視から抜け出せず、無圧力(一人)の時はここちがいいが、現実場面では役に立たない内面探索に留まらせ、結果閉塞の流れを断ち切れない状況を蔓延させているのではないだろうか。

しかし、今現在状況は大きく変わっており、上記の内面探索⇒閉塞系のお題が多く選ばれている状況から見ても、無圧力下の自分に都合のいい内面探索でさえ心地よさよりも焦りしか生み出さないほど、収束不全は加速しており、娯楽の衰弱が示すようにその場しのぎの現実逃避や捨象が仕切れないほどに、現実の閉塞感、答え欠乏が高まっている。

まさに今求められているのは現実を対象化するための概念装置であり、内面探索に変わってみんなで対象探索していく場(露店・ネット)なのだと思う。

>答え=構造認識を共認できれば、可能性も⇒答え欠乏も(⇒更なる探求も)全てが顕在化してくる筈であり、又、その構造認識それ自体が現実(≒意識)を対象化してゆく概念装置ともなる。
26869 「新しい潮流8 現実を対象化するための概念装置」

露店でみんなと「なんで?」(対象)を探索していく中で賛同し、新たに仲間に加わっていく人が増えるにつれ、これからますますみんなで対象探索の場を広げ、構造認識を共認し、進化させていくことで、待ってましたとばかりに対象探索に加わる仲間が加速度的に増えていくように感じています。

KOU 

2014年3月26日 (水)

構造認識に感謝

>これらの答え=構造認識は、潜在思念の実現観念態であると同時に、潜在思念が現実を対象化する(=更なる可能性を模索する)概念装置でもある。(26869

構造認識を端的に示した文章だと思う。
旧観念(近代思想や宗教)とはものの見事に対極にある。

旧観念は、潜在思念のうちの本源欠乏から見れば頭の中だけの“架空”観念であり(宗教)、私権欠乏から見れば本心を隠した奇麗事の“欺瞞”観念であり(近代思想)、いずれにしても潜在思念の“実現”観念態ではない。
従って、旧観念潜在思念が現実を対象化する概念装置足り得ないのは当然で、存在(=潜在思念)と意識(=観念)は分断してしまう。

これがいかに犯罪的か。
例えば、潜在思念は周りの期待に応えたいのに、自分の好きなことをすればいいと教えられるので、そのギャップで疲れきってしまう若者や、周りと共感できることを求めているのに、自我の確立や個性が大事と教えられるので、引き裂かれて悩んでいる若者がどれだけ多いことか。

>この潜在思念の感じる不鮮明な可能性を顕在化させたものが、パラダイム転換論や史的構造論etcの答えである。(26869

潜在思念が正しくて、旧観念が間違っていることが分かれば、どれだけ救われるか。そして潜在思念の感じる可能性を導く答え=構造認識が与えられれば、どれだけ活力になるか計り知れないものがある。
しかも現実を対象化する概念装置でもあるので、人々の意識や社会構造を捉えることができ、いくらでも突破口を考えてゆける。それが共認されればさらに活力が上昇する。

まさに構造認識は万能薬、構造認識に感謝。
岡本誠

2014年3月24日 (月)

新しい原理は、新しい能力を生み出す?

>我々は新しい可能性を探ろうとしているのだ。
>次の時代を読み解くキーワードは仲間への収束ではなかろうか。
(1317)

少し前になるが、露店で、女子高生二人組みと出会った。
ノリが良く、賑やかで、ひとなつっこい。他愛も無い会話でよく笑う。この年頃であれば、別に時代の変化に関わり無く、このような感じだろう。

店主に薦められて、「恋愛が長続きしないのはなんで?」を聞き始めた。やはり、目の前にホワイトボードで板書されると、少しだけ無口になって、店主の話に集中する。口をあけたまま、ホワイトボードに走る文字を追う。
時折店主から質問が飛ぶと、面倒くさそうに「え~、わからん。」と答えたり、そうかと思えば、友達と目を合わせながら、嬉しそうに「そうそう!」と返したり。およそ「少し考える」とか「言い方を工夫する」といった雰囲気は無い。言い方は悪いが、「反射神経で受け答えしている」感じだ。だから、全くウソが無い。クリアで、スピーディーな印象のほうが強い。

そうこうしているうちに、一人の携帯にメールが入る。瞬間、関心はホワイトボードからメールに移る。返事を打ちながら、「うん。そんで?」と店主に相槌を打つことも忘れない。打ち終わったら、即座に関心は店主に戻る。
またメールが入る。今度は、自分の携帯を友達に手渡す。手渡された友達も、先程と同様。
最後は、二人とも店主と楽しげに話している。

なにか、ヘンな感じがした。
ひとつは、彼女達に全く「自分意識」が感じられなかったこと。
もうひとつは、なんとなく、彼女達は同時に複数の会話をやってのけているような感覚があったこと。

もちろん、慣れとか、内容の問題もあるだろうが、「メールを受ける→相手の意図を把握する→対応する(返信するor友人に手渡す)」のスピードが異様に速い。店主の話も同時に聞いている。おそらく、彼女の意識の中では、メールも、目の前の店主とのやり取りも、同時に成立していたのではないか?

何か、根本的に新しい感じがする。脳の使い方が違う、というか。
「自分回路(そんなものがあればの話だが)」をキャンセルしている分、信号が速く行き交うのか?あるいは、並列処理が可能になるのか?

新しい原理は、新しい能力をも生み出すのかも知れない、などと思った。

三宅秀和

2014年3月22日 (土)

共認回路を再生する場としての露店

露店でお客を呼び込むとき、大声で呼びかけるだけでは、一向に効果が出ない。そんな時、店構えを変えてみたり、お題カードやその敷物の素材や色調などの設えに工夫を凝らしたりすることが「工夫思考(回路)」であると捉えていた節がある。

先日、なんで屋露店で、声掛をひたすら押さえ、路上に同化して目線で道行く人を追い、目線の合った人にこそ歓迎の意をゼスチャーで示す試みをした。そうすると、過半の人は微笑を返してくれる。気になる人は、何度か振り返り、そのたびに目線と歓迎のジェスチャーを繰り返すと、きびすを返して店先に来てくれることがある。

そこで初めて、言葉(観念)による会話となるが、そこでもかなり控え目に季節の挨拶と露店のメニューを伝えるだけ。そうすると、お客は場の雰囲気から可能性を拾い出して、探索し始める。その間、こちらもお客を肯定視し、同化・応合してお客の期待を探索する。

そのような「気」の遣り取りを踏まえた上での会話は、単なる言葉の遣り取りを超えている。まさしく、

>通常言葉によるコミュニケーションと考えられている状態でも、実は言葉以前の共認が多くの部分を支えていることが解ります。また、言葉を発するということは、それ以前に伝えたい内容が意識のなかで(言葉でなくとも)まとまっていることも解ります。(21180

ということを実感できた。

潜在思念が最初に(その場=話しの流れに応じた)大きな方向を発見し、次に(潜在思念の一部である各種の統合律が)大きな構成を見つけ出す。(71464

頭の先っぽでこねくり回す工夫ではなく、潜在思念発の工夫回路の在り処を垣間見たように思う。そんなことに気付けたという意味で、「共認回路を再生する場としての露店」の意義があると痛感・得心した。

小圷敏文

2014年3月20日 (木)

答え板を通して読んでみて

>しかし我々は、遂に、生存圧力に基づく現実否定→倒錯思考の観念パラダイムを全的に逆転させる新パラダイムを見出した。それは、同類圧力に基づく現実肯定→実現思考の観念パラダイムである。

「旧パラダイム:現実否定→倒錯思考の観念パラダイム
 新パラダイム:現実肯定→実現思考の観念パラダイム」

この対比がとても印象に残った。
旧パラダイムの可能性の無さは一目瞭然だ。
「なぜ、こんな愚かな思考をしていたのか...」とさえ思えてくる。

>ところが、性闘争私権闘争→私権統合によって本源集団は解体されて終ったので、失われた本源価値(異性や仲間や集団との共認充足)を幻想観念化して、頭の中で共認充足するしかなくなって終った。しかも、その様な幻想観念(古代宗教や近代思想)を創り出した思想家たちは、本源価値を破壊した、本源価値の対立物たる現実を否定し、反現実or脱現実のベクトルに貫かれた非現実の地平に、本源価値を再生する幻想観念(「神」や「人間」や「自由・平等・博愛」やそれらを具有した「個人」や、それらを実現する「民主主義」)を構築した。従って、現実否定から出発し、現実から目を背らせた上で成立している古代宗教や近代思想は、初めから現実を変革できる筈もなく、現にそれら(例えば神の世界や自由・平等・博愛を具有した個人)が実現された例しがない。

>それでも人間は共認充足なしには生きられず、頭の中で自己正当化をはじめとする様々な解脱充足を得る必要から、本源価値を幻想観念化した古代宗教や近代思想は、強く共認されていった。性権力や占有権力などの権力の共認こそが人々が肉体化している現実の共認である以上、古代宗教や近代思想はあくまでも頭の中だけの表層共認に過ぎず、突き詰めれば、脳内を充足させる為の解脱剤でしかない。しかし、それでも人々がそれを必要としており、それ故にそれが社会共認と成った以上、それは共認動物の社会統合上、頂点に君臨する事になる。(実現論2_6_04

過去の人たちに同化して考えてみると、そう考えても当然なのかもしれない。が、現在は状況が全く違う。私権は衰弱する一方で、普通の人々にとって私権の圧力などほとんど働かない。

>既に述べた様に、旧パラダイムと既成観念は、本源収束の出口を塞ぎ、社会を八方塞がりの状態に陥らせている。もしこのまま、旧パラダイムから脱却できなければ、人類は滅亡する。
>現実否定(or捨象)の既成観念を、全的に爆破せよ。

大げさではなく、これが事実なのだ。

磯貝朋広

2014年3月18日 (火)

生物学に潜む危うい価値観の諸現象

ドーキンスの『利己的遺伝子』は、明らかに個人に絶対的価値を置いた『個人主義』という倒錯観念に、『利己的』という価値観で色付けした「頭の中だけの遺伝子」を作り上げたものです。
最近ではさすがにこれはおかしいと指摘する生物学者も多くいますが、しかし、しばしば生物学には学者(あるいは専門学会)の持つ価値観が投影され、その価値観に基づいた発見や論証がまだまだ多いのではないでしょうか。
幾つか、事例を上げてみます。

1.価値観を有した遺伝子捏造
『利己的遺伝子』だけでなく、『恋愛遺伝子』『つがい遺伝子』『浮気遺伝子』など相変わらず多い。人間の欺瞞観念(頭の中だけの観念)である『恋愛』に該当する遺伝子を科学者が作り出して「発見」という。あるいは、人間の社会行動は規範・共認に基づくものがほとんどであるにもかかわらず、生まれながらにして持っているはずだと「遺伝子」を作り出す。
その結果、何にも行動指針も現実突破の可能性も開けないどころか、「遺伝子発見して終わり」の成果でとどまる。

2.個が原点であるという思考
デカルトばりの「考えるコギト」=自分→「個」を大前提にして現象を捉える思考するドグマ。これは相変わらず根強い。
・生物は集団や種を単位として存在しており、淘汰圧を個体間闘争に第一に求めたがゆえに、ダーウィンは「種の起源」といいながら、自然外圧や何よりも種間闘争圧力を組み込めず、種の進化を説明できていない。
・「個が集まって集団となる」というのは一見正しそうで、実は現象事実を説明できてない。例えば、プランクトンの中には海水中で発光するものがあるが、単独では光らないが集団となったときに初めて発光する。個の機能が集まって集団の機能が発現するのではなく、集団となって発現する適応機能がある。生物が複雑系と呼ばれる理由の一つ。
私は人類の生み出す新しい認識もそうだと思う。個人の認識のΣが皆の認識なのではなく、皆が集まってできた集団(場)が新しい認識を生み出していくのだろう。

3.「生まれ(遺伝子)」か「育ち(環境)」か
現在の生物学でも議論の真っ最中のテーマ。引き合いに出されるのはうつ病などの精神病・神経症の発現、あるいは知能の問題。どちらが決定しているのかという論争と、総合説に代表されるように「環境と遺伝子」の組み合わせで決着を付けようとする動きがある。知能は持って生まれたものと環境との相互作用によって決定されるというわけだが、ここにもドグマが二つある。

一つは、「生まれ」を一つの遺伝子に還元しなければ説明できないとするドグマ。そもそも「遺伝子」がこれほど勝手に価値付けられる背景には、発現・発見された「たんぱく質(アミノ酸)」と一対一で対応できる意味のあるものを「遺伝子」としたところにある。ところが遺伝子共同体はそれぞれが繋がって存在しているのであり、たんぱく質として発現されない「一対一では意味のよく分からない」ものが存在するのは当たり前。
また、遺伝子だけでなく細胞基質の関わりもあり、決して遺伝子だけが進化や形質発現の担い手ではない。

もう一つは、外圧と内圧を別のものとして想定している。自分と他者、主体・客体の二分法から抜け出せない。外圧適応体とは「外圧=内圧」の存在なのであって、決して両者が(別々に)総合的に関わって進化をとげたものではない。

このように事例を見ていくと、全て共通することは、結果として統合理論にならない=新しい可能性を開けないということでしょうか。
だからこそ、価値観を廃した事実統合の理論が今求められていると思います。

吉国幹雄

2014年3月16日 (日)

私権時代と収束不全

>この収束不全は、まず最基底の適応欠乏⇒可能性探索回路を強く生起させる。しかも、問題(=収束不全)も、その突破口=可能性も、みんな共認充足の中にあることは潜在思念のレベルでも明らかなので、適応欠乏は当然の如く、みんな共認の可能性探索に収束する。これは云わば、初期原猿状態に近い。(71819

原猿は共認機能を獲得することによって、本能では対応できなかった不全(同類を敵とする不全)を突破することができた。
現代人も、同じように本能では対応できない収束不全私権衰弱にもかかわらず同類を敵とする不全)を突破するために、共認機能回復のトレーニング(感謝と謝罪=本源解脱充足)が非常に有効。

しかし、共認機能回復のみでは、統合不在⇒統合不全の答えにならない。
共認機能回復に加えて、統合不全への答えが不可欠。

>統合不全とは本能不全や共認不全を超えた観念不全であり、従来の解脱(発散)では解消されない答え欠乏=認識欠乏が増大してゆく時代でもある。(24981
 
統合不全⇒観念不全に対しては、原始人類が自然=マイナス対象を肯定視することによって精霊回路を獲得し突破したように、社会(=自分や仲間やみんなの意識)を徹底的に肯定視して、新しい観念を獲得し、使いこなせば、現実(=自分や仲間やみんなの意識)を変えてゆくことが可能。

>既に動物的な生存圧力を克服した共認社会では、人類的課題に対する期待・応望の同類圧力=共認圧力が解脱充足と並んで主活力源となり、人々の期待に応える政治や哲学や科学や芸術が主活動となる(実現論4_2_07

共認機能再生と新概念獲得・活用によって同類圧力をより深く、広く読み取ることが可能になり(自分から仲間、仲間からみんなへと)だれもが、対象の範囲(闘争対象と生活圏の対象範囲)を広げてゆける。

安西伸大

2014年3月14日 (金)

新概念って何?

前の投稿で書いたように、説話・物語にすれば、共感回路(もっぱら情)に響くのでたしかに分かりやすくなるんですが(るいネットでは「感応観念」と呼んでいます)、実際にはゴマカシでもナンデモアリってことになってしまいます。

感覚や情に訴えることで、物事の一部をあたかも全体(法則)みたいに思わせることもできますし、それらしいストーリーに乗せて語れば、事実かどうかより“情”が反応する方が正しいと錯覚しそうになります(実際、マスコミによるマインドコントロールは、そのようにしてなされています)。

例えば、るいネットや「なんで屋」では、“共認”という言葉がよく使われています。

別に、状況状況によって「わかりあい」とか「常識」とか「同情」とか「思いやり」とか「愛」とか…今ある言葉を使えばええやないか?
そう思われる方もいらっしゃるかもしれないんですが、そこに認識の落とし穴があったりします。

実は、今あるこれらの言葉って、微妙に曖昧で“価値観”(簡単に言うと“いい”“悪い”)が無意識にのっかってる言葉なんです。

例えば上の言葉群なんていい例ですが、言葉そのものが現実から遊離して美化されているため、その言葉を使用する人間は、自分の欺瞞性が見えなくなる、という大きな落とし穴があります。

一番典型的なのは「愛」「愛する」なんて言葉。これは情の部分で美化されてるので、なかなか正面から否定しきれるものではない。
でも、こんな文脈でも平気で使われたりします。

母親が、「ワタルちゃんを愛しているからこそ、こうするの」「おかあさんは、みよちゃんのことを愛してるから言ってるのよ!」といいながら、平気で子供に理不尽な期待をかけ、対象(子供)及び第三者の非難をかわす。
思い通りになりならない相手に、「私を愛してるんだったら、○○するはずよ」「愛してないっていうの?」と言って要求や我が儘を通す。
「私たちは愛し合ってるんだからほっといて」と言って、これまで築き上げてきた親子や友人同士の信頼関係を捨て去る。
嫉妬心から恋敵のA子ちゃんにいやがらせをするのも、「彼を愛しているんだからしょうがない」。

アメリカも「イラク国民の自由(解放)のため」「世界の安全(平和)のため」とかという美しい言葉で飾りながら、非戦闘員である一般市民の上に爆弾の雨を降らし、大量虐殺を敢行しました(今この瞬間もやってますけど)が、無茶で理不尽で残虐な行為をやりながら、あたかも「自分は正当なことをしているのだ」という錯覚に陥るとこが、この欺瞞観念のコワイところです。(そういえば、『“愛”は地球を救う』はずなのにファルージャやチェチェンの人々は一向に救われないな…77188

実は、今世の中に溢れてる言葉の中にも、結構この手の欺瞞性を伴ったものがたくさんあって、何かまともにものを考えようと思ったとしても、その自己欺瞞の中にどろどろと囚われて出口が見えなくなってしまうんです。

例えば「自己実現」とか「自分探し」とかも典型ですよね(参照:51407 北村さん、51277 阪本さん)。

悩んで露店を訪れる人のほとんどが、そういうある種欺瞞に満ちた規範観念(もっぱら親から刷り込まれたこうすべき、ああすべきという固定観念群)に囚われて、自分の頭の中の葛藤から抜け出せないというパターンだったりします。

なので、私権時代3000年のパラダイムが終焉しようとしている今の時代、価値観の色をなるべく取り去った中立概念(例えば「同情」じゃなくて「同化」、とか)を…、それを表すぴったりの概念が現状無いとしたら創り出してでも、あくまで欺瞞性を排除して“事実”を押さえていく、というのが重要になってきます。

そんなスタンスでみんなで追求して書かれたものの結晶が、例えば、るいネットにもある『実現論』の第一部~第二部だと思います。

現実に役に立つ理論というのは、実は仮説の体系であって(絶対・不変の事実など存在しないから)、リアルタイムで現実に合わせて変化していくものです。だから、頭を使わずに無条件に「信仰」してればいいような宗教とかイデオロギーや、なんとなくその言葉を発していれば自分をごまかせるといった「感応観念」などとは、全く異なる認識パラダイム上に存在します。

おそらく、人間の精神構造、そしてその人間の集合体である社会の構造を、言わば物理法則のようなものとして理解し、そうして明らかになった人間存在にとって(本能にとっても共認機能にとっても)無理のない、みんなの活力が自然に涌く(みんなが元気になる)ような社会をみんなの手で創っていく。今いちばんみんなが求めているのは、そういうことなのではないかと思います。

そのために必要であって、しかし現在は存在しない概念があるのなら、どんどんみんなで創って使っていけばいいと思います。そんなスタンスでひたすら現実の中で答えを出していこうとすることが、新概念を使いこなせるようになる早道ではないかと思います。

蘆原健吾

2014年3月12日 (水)

脳回路論は観念の真っ当な使い方の一例 2

そして、そのような事実法則を一旦固定し、ガイドラインとしての脳回路論を応用して、人間の未明の行動様式の仮説を組み立てることは有意義な思考法だと思います。なぜならば、無限に有る考えられる仮説のうち、進化的事実に整合していることは、かなりの確率で事実で有る可能性が高いからです。

そして、一旦仮説が出来上がれば。それを、別の現象事実から補強できたり、その視点で過去の研究成果を改めて見てみると、その仮説を裏付けるような、傾向がたくさん出ていたりします(研究者はそこに注目していない場合が多いですが)。また、全くそれに反する事実が出てくれば、どうすれば全体論理が整合するか考えなおす(統合し直す)事が出来ます。

観念機能の真っ当な使い方とはこのようなことではないかと思います。現代の科学では、実証主義をある一面で声高に叫びすぎるため(実は、イデオロギーを正当化するために実証主義が声高に叫ばれるのではないかと思いますが)、学会で承認された内容は、あたかも手に取るようにはっきり観測された内容であるかのような錯覚に陥ります。

しかし、電子など誰も見たことはないし、原子すら教科書に出てくるような絵として観測されたわけではありません。ただ言えるのは、測定できる反応を論理的に整理すると、観念上ではこのようになっている確率が高い、ということだけです。事実とはそのようなもので、観念機能の真っ当な使い方も上記のような内容だと思います。観念機能は、『目に見えないものでも事実として捉えることが出来る』という事だと思います。そうすると、

>「(自我やチャネリングといった)回路」とは、そのような総合的な構造を、論理的に整理したうえで、象徴的に記述する、一種の説明概念だ、というのが正確な理解だと思います。実際に、そのような特質をもった神経回路が実在するわけではない。(80394

の中にある『論理的に整理したうえで、象徴的に記述する』事自体が、その他事実と整合性を保っているとみなされるとき、それは事実であるという事になると思います。実際本能・共認・観念に対応する神経部位は大きくは特定できます。

別の事例では、自我は共認の副産物であるという論理と、それを抑制するのは共同体規範などの人々との共認であるという事実から、共認回路は自我制御回路という新しい論理が成立します。この論理を実際に利用して、回りの期待を意識して共認回路を活性化して生きるようにすれば、現実に自我は縮小してきます。

このような現実との関係が保たれた論理として、モデルとしての脳回路論を応用するならば、かなり簡素な思考で収束先が見つかる可能性が高くなります。このような方法が、脳回路論や観念機能の真っ当な使い方ではないでしょうか?

本田真吾

2014年3月10日 (月)

脳回路論は観念の真っ当な使い方の一例 1

>神経伝達物質について、いくらか調べてみたのですが、既存の研究結果に基づいた「神経伝達物質に関する知見」を根拠にして、人間の行動様式なり判断類型、社会性等を語るのは、少し飛躍がある感じがしました。(80394

もし、上記のような研究成果(=測定された物質特性)だけから、社会性をもつ人間の複雑な行動様式を推定するのであれば、現象事実から大きく外れた理論となるでしょう。そのうえ、断片的で単体の物質特性でしかない情報から、人間の行動様式を説明するには、何らかの秩序を別途挿入して統合する必要があります。

そして、現代の科学の多くが、その秩序の部分に、個人主義イデオロギーを挿入しているため、巷には鵜呑みに出来ない理論が溢れているのも事実です。そのような状況を突破するために創りだされたのが実現論であり、その構成内容の一つである人類の進化過程を組み込んだ脳回路論であると思います。

>例え仮説であっても、皆の知っている限りの知識に照らし合わせて論理が整合しておれば、それを事実として認める。もちろん、これまで認めてきた「事実」に反する現象が出てくれば、直ちにその現象事実を組み込んで論理=構造事実を組み替える。この様にして、事実体系は無限に進化してゆくことになる。(実現論9_1_07

ここでは、断片的で単体の物質特性でしかない情報を統合する際にも、人類の進化過程の事実として法則を前提にしています。たとえば、本能・共認・観念という塗り重ね構造(解剖学的にもほぼ対応している)であること、常に新しい機能に先端収束することによって実現態となること(古い本能・共認機能も新しい機能である観念の下に組み込まれている事)、生物の進化過程における、各種個体や集団の行動様式(序列本能による集団統合、共認による集団統合など)との整合などです。

これらは、人類が気の遠くなるような時間を経て、現在に至るまで培ってきた法則(事実)であるため、将来の変化もこれらの法則から大きく逸脱する事は無いという、思考のガイドラインを与えます。これが、構造認識である実現論や脳回路論が、個人主義イデオロギーに毒された似非科学と異なるところだと思います。

本田真吾

2014年3月 8日 (土)

現実肯定のパラダイム転換

この間の『女が太陽なのは…(74633)』『謝罪と感謝の方法(74729)』『超越存在(75016)』…など、女たちの投稿には素直にただただすごいと思う。これらは『ボールは今、女に投げ返された(74441)』その回答を成していると思うが、ストレートに順応し周りにシンクロしていくスピードの速さは、人々の収束不全の出口を塞いできた現実否定⇒倒錯観念の鎖を断ち切って、現実肯定に大転換したことによるプラス活力の上昇を感じる。(『現実否定の鎖を断ち切って、プラス活力の上昇へ』22203

それを先導するのが、実現のための構造認識。当然ながら、現実否定に少しでも囚われていたら、実現のための構造認識(の習得)さえスッキリ感が乏しく充分な活力を生み出さない。ここでも現実(=みんな)を100%肯定した中から取り出された構造認識かどうかが、本物かどうか、つまり充足=活力を生み出せるかどうかを決する。

>ならば、みんなを100㌫肯定するところから観念機能は再生されていくのかなって思いました。(75157

女たちは潜在思念次元で100%肯定視へパラダイム転換した。
後は実現のための構造認識が加速する。
男たちのパラダイム転換が急がれると思った。

岡本誠

2014年3月 6日 (木)

秩序収束と答え探索の綱引き

みんなフィーバーや制度収束や国家収束etc秩序収束ばかりが目に付くが、もう一方の答え探索は、ニュース収束や人間ウォッチングや仲間内でのマジ話くらいしか顕在化していない。
これは、共に最深部の適応⇒探索の収束先でありながら、秩序収束はとりあえずの適応収束である(従って、既存の制度etc、具体的な収束先が存在する)のに対して、答え探索は最深部での適応収束であり、従って(ニュースも、ウォッチングも、マジ話も)社会収束であるという所までは云えるが、その具体的な収束先がはっきりしない(=答えが見えない)からである。

強いて云えば、現在、最深部の(答え)探索は、みんな探索⇒社会収束⇒事実収束へと向かっている。
そこに今後は、とりあえず制度や国家に収束しても、(共認原理に対する私権原理の)矛盾が目に付くばかりで、答えにならない(上手くいかない、活力が生じない)という現実が、深部への探索圧力として加わる。
更に、批判するだけで答えを出せないマスコミ(⇒旧観念勢)に対する反感と不信が広がってゆくが、これは旧観念支配に対する庶民の反感の顕在化に他ならず、旧観念支配の終焉の始まりである。

マスコミ(⇒旧観念勢)に対する反感が広がれば、庶民は遂に旧観念支配の網を破って本音を発信し始める。まず、人権・福祉が、次いで同権・個人が槍玉に挙がり、それ(旧観念批判)を支える根拠が求められる。
その根拠こそ、事実の認識であり、私権時代を突き抜けて原始⇒サル⇒生物史にまで遡った社会構造論である。そして、それに基づく答えこそ、序列原理から共認原理への転換であり、実践的にはなんでやネットワークの構築である。

岡田淳三郎 

2014年3月 4日 (火)

遺伝子発見に関して注意が必要

これまでも「性決定遺伝子(25670)」「長寿遺伝子(43550)」「恋愛遺伝子」(14568)など、実にさまざまな遺伝子発見の報告がなされ、この会議室でも紹介されてきましたが、これらの遺伝子発見に関していくつかの注意が必要です。研究者が研究に沿うような遺伝子を作り出しているときもママあります。

1.仮定条件は適切か
>仮定条件が現実(実際の自然条件)とかけ離れていれば、とても事実とは認められない<(2237
生物進化は「時間の矢」を持っており巻き戻せないので、再現検証することは基本的には不可能です。生物は自然外圧・外敵闘争の中で適応進化してきたわけで、自然状態(現実)とは程遠い特殊な実験室の中でその生物単独を持ってきて観察実験すること事体無理がある。従って、どのような前提条件・仮定条件で実験したのかを明確にしなければ事実かどうかはわからない。

2.単独遺伝子に還元されない
>十万の遺伝子が緊密に連動し、協働してはじめて生物は維持され、進化してゆく。要するに全DNA(ゲノム)とは、まぎれもなく十万もの遺伝子の共同体である。<(59
>本能生物の世界では環境(=外圧)が変わる時、その新たな環境に適応すべく生み出された最先端機能の下に旧機能が収束して、全体が再統合される。(35729
ある遺伝子がある機能に影響を与えるという事実は、必ずしもその遺伝子がその機能を決定する遺伝子であるとは限りません。すべての遺伝子はマスターキ-遺伝子を中心としてヒエラルキー構造を作っていたとしても協同してある機能を生み出しています。ある遺伝子の挿入によってその協同作業が疎外される場合もあるでしょうし、その遺伝子の挿入によって他の遺伝子が次々とカスケードを起して違う反応を起す場合も考えられます。

3.すべてを遺伝子に還元することはできない
同じ遺伝子を持っていたとしても、それが発現する場合と発現しない場合があって、遺伝子にすべて発現の決定権があるわけではありません。外圧適応態として生物は存在しており、種の存続を含めて、より確実な発現手段の一つとして遺伝子(DNA)が選ばれているにすぎません。

>一般に生物がDNAレベルで適応様式を生み出しているのに対して、人類はDNAではなく共認内容や観念内容を組み換えて適応しているという点の方が、はるかに大きな違い<(30274
特に人類の場合には、本能機能(DNA)の上に共認機能観念機能を塗り重ねているので、人類の婚姻様式が遺伝子で決定されるということはまずありえないでしょう。

また、最近の進化論でもよく扱っていますが、DNA(遺伝子)ではなく、RNA進化や細胞質遺伝などにより、かつてのDNAドグマは破られてています。
>最近の研究では、そのガラクタと考えられていた、タンパク質を作らないDNA配列の多くの部分でRNAが作られ、それが重要な働きを担っているいることが明らかになって来ました。(66548

以上の点を踏まえて、上北さんが紹介された「婚姻様式を決定する遺伝子」発見の報告には、かなり注意が必要なように思います。

吉国幹雄

2014年3月 2日 (日)

潜在思念発の大きな方向と大きな構成

語り(答え)の成否を決定するのは、最初の大きな方向と大きな構成であるが、それらは殆どが潜在思念によって生み出される。潜在思念が最初に(その場=話しの流れに応じた)大きな方向を発見し、次に(潜在思念の一部である各種の統合律が)大きな構成を見つけ出す。
従って、潜在思念で 同化して吸収した理論なら、その場の流れに応じた大きな方向や大きな構成(もちろん、細部の構成も)を発見する武器となるが、頭で理解したつもりの「理 論」は、本当の使い方が分からないのでピントがズレる。それでは、みんなの共認を得られる訳がないし、まして答えなど発見できる訳がない。
もちろん、自分発でも「重要」と判断した理論を、頭で徹底理解することは出来る。しかし、どれだけ理解できても、あくまでも自分発の話しの流れの中でしか 使えない。だから、みんな発の話しの流れの中では、借り物の理論としてしか使えないことが浮き彫りになり、とうてい答えを発掘するには至らない。
まして、自分に都合よく、お題目として理解したつもりの「理論」では、それをしっかり語ることさえ出来ないことになる。

それは、旧観念と新理論の使い方の違いから出てくるとも言える。
旧観念は、実現不可能視を刻印された傍観者の頭の中を代償充足させることが出来さえすれば、それで良い。従って、旧観念は都合の良い潜在思念(共認価値や自我幻想)を結晶させて作られており、それらのお題目を頭で理解すれば自動的に潜在思念に直結する。何より、単なるお題目=単語なので、誰でもすぐに使える。
しかし、新理論は、物事を実現するための構造認識である。従って、潜在思念(みんな不全⇒みんな充足)に応えようとする強い実現の意思がなければ、何の価値もない代物であり、その上、実現する(=答えを出す)ことが生命なので、単にお題目(単語)を唱えていればそれで良いという訳にはいかない。

従って、新理論は、あくまで潜在思念(みんな不全⇒みんな充足)発で、相手(著者)に同化し、対象(理論)に応合することなしには、使いこなせない。(云うまでも無く、そこで相手に同化しきれない部分が、潜在思念(≒みんな)発の、新たな理論追求課題となる。)
要するに、新理論は旧観念とは全く異なる新しい位相に存在する。だから、新理論を使いこなせるまで吸収するには3年はかかる。それでもその壁を突き抜けようとするくらいの実現可能性を感じさせることが出来るかどうかが、今、我々に問われている。そして、その突破口もまた、相手に対する潜在思念による同化(同一視と応合)である。  

四方勢至

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