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2014年2月

2014年2月28日 (金)

頭で理解しただけでは、新理論は使いこなせない

答えを「分かっている」つもりなのに語れない人が多い。それは、これまで、勉強でも、読書でも、全ては自分発の理解に留まってきたからである。
憶えるのも、理解するのも、使うのも、全て自分の利益発で、自分が理解できればそれで終り。従って、全ては頭だけで、せいぜい自我(自己決定)回路しか作動していない。

そこには、’70年以降のみんな不全が消滅した特異な30年の時代背景が、深く関っているように思う。

‘60年代までは、みんな不全発の観念収束がまだ生きていたので、(それでも、自分発の頭でっかちな観念派が多かったが)観念はみんな(共認)回路をも作動させていた。しかし、’70年、みんな不全が消滅した事によって、(ごく一部の自我観念派を除いて)観念全般が捨象され、みんな回路から切り離された頭の上だけの理解物(=私有物)に転落した。
しかし、本来、観念(理論)は、みんな不全に応えようとする期待圧力の中で生み出されるものであり、観念(理論)の生命は、むしろ根っこの潜在思念(みんな不全⇒みんな共認回路)にある。
従って、書物であれ、レジュメであれ、投稿であれ、相手(著者)がなぜこれを問題にしているのか、なぜそう考えるのかを深く読み取ること、換言すれば、潜在思念のレベルで対象に同化・応合することが、不可欠になる。

このことは、誰もが心していることである。だから、活字を読む時も、おなじように心得て読めばいい、只それだけのこ とである。(少し場面が異なるが、役者がセリフを生き生きと語れるのも、役者は意識的に役=対象に同化しているからである。)

従って、自分(自己決定)発の理解を止め、観念の奥の対象(潜在思念)に同化・応合すること。それが、理論を吸収し尽くすと言うことであり、そうしてはじめて理論を使いこなす(応用する)ことが可能になるのだと思う。

四方勢至

2014年2月26日 (水)

価値観念と事実観念

>学校の勉強で”答え”といえば、その先は何も無い(それで終わりの)もののようにイメージされます。(61028
交流会でも「答えは一つである必要があるのか?」という質問が良く出ます。おそらくそのような疑問をもたれる方は、多分従来の「思想」や価値観念をイメージしておられるのではないか?と思います。この捉え方事態が人々の共認によって形成される社会(9235)の実現の阻害物となるものです。いわゆる「答えなど存在しない」だから「価値観は人それぞれ」等。(実はこれ自体が「個人主義思想」の変種なのですが・・)

思想や価値観念はこの統合板でも何人もの方が指摘されているように、私権の強制圧力や序列統合に対する変革不可能視(実現不可能視)に基づいて作られたものです。(参照50960)醜い私権の現実を否定して、人間のあるべき姿や目標を観念化したものです。もしくは単に現実の都合の良い部分を一面的に美化したものです。つまり頭の中をプラスで充足させるためにのみ存在するものです。

しかもその目的からみれば、その観念自体が最終解答の位置を占めます。かつ、それらは現実のマイナスに対してそれを否定して単に「理想状態」を説いたもの であるが故に、対象とすべき現実が変化しても、相変わらずそれらの価値観念から見たマイナス(都合の悪い部分)を否定しあげつらうばかりで、その観念内容 自体が本当に正しいのかどうか問われる事がありません。つまり極めて硬直的です。価値観念はそれが正しいという現実の根拠が一切無いが故に、最終的には頭 の中にとって(自分にとって)都合がいいかどうかだけが根拠となります。だからそれを決着付けるのは結局「力」しかないという事に必然的に帰結します。 (英米とイラクの戦争はもとより、日本においても明治以降いわゆる自由主義と反自由主義との対立が一貫して存在したが、それ自体で上手く統合できたためし がありません)。つまり頭の中の慰みでしかないが故に、しかも統合するためには結局力しかないが故に、旧思想的な「答え」に対する一種の拒絶感が生まれる のでしょう。

今求められている観念は現実の問題に対してそれを切開し、原因分析を行い、実現可能な突破口を導く為の観念です。つまり事実に立脚し現実の根拠を起点に、 問題を分析し、社会や人間の意識の基底構造とそれが変化していくダイナミズムを解明した構造認識であり歴史法則の認識です。つまり価値観念ではなく「事実 観念」です。その意味で自然科学における諸概念や諸法則に対応するものといっていいと思います。それは自然科学がそうであるように、基底的な諸認識は共通 でありながら、状況の変化(新たな事実の発見や状況変化に伴う突破すべき問題の変化や主体側の条件等)に応じて無限に組替えられ場面に合わせて応用され、 発展していくものです。(実際そのようにして自然科学は塗り重ねられ発展してきました)

それだけではありません、我々は現在を生きるために問題を対象化するのであり、その意味で求める答えは次代に向けて可能性を探るためのものです。つまり蓄 積された認識を土台に(基底条件として)次代に向けて踏み出すためのものです。だからこそそこでは、狭い意味の認識だけではなく、新認識によって解放され る潜在思念=可能性への直観も最先端でフル動員されます。そしてそれによって必要な認識が付け加えられ、組替えられていきます。その意味で、実現論で触れられている「共認機能」や「収束と統合」の概念装置やそれを活用して生まれた新認識は、それを土台にして答えを導くための道具であり、文字通り「可能性への起点」であるといえるのだと思います。

北村浩司

2014年2月24日 (月)

生存圧力下の序列原理から解放された人類

 

58792でおっしゃっている『私権時代の身分序列は一般哺乳類の序列本能を下敷きにしている』というのは、実に達見だと思います。

 考えてみれば、ライオンなどもエサを喰う順番(=誰が一番おいしいところにありつけるのか)は本能レベルで決着をつけていて、そのルールに基いて集団秩 序を維持しています。当然、個体間の相対優位を巡る闘争を四六時中かつ無限に繰り返すのでは、集団の秩序が維持できないのは生物である限りすべてに共通す る訳で、やはり人間の本能にも、敗退本能と序列本能はセットされているはずです。

 人間の場合は、これらの本能を“追共認”したうえで、肩書きや指揮系統という身分観念をさらに共認して身分制度などの私権ルールをつくってきたので、この身分序列が、実は本能原理そのものであるという点が見えにくくなっていますが、私権時代の人類とは、そもそも貧困≒飢えの圧力という生存圧力が主圧力であるという意味では、動物と同次元にあったと捉えていいと思います。つまり、生存圧力が強く働く場では、人類と言えども、本能原理(=序列原理)に司られて、社会生活を営んできたことになります。

 '70年の貧困の消滅とは、豊かさの実現という意味よりも、飢えの圧力=生存圧力からの脱却という意味の方が遥かに大きかったと捉え直せば、私権闘争≒序列闘争に誰も収束できなくなった昨今の状況も、本質的には、この生存圧力の衰弱⇒序列原理の崩壊という論理で理解するのが正しいと思います。

 『生存圧力下の序列原理』から『同類圧力下の共認原理』へ・・・。これが、私権統合の行き詰まりと共に『みんな期待』や『当事者欠乏』が顕在化しつつある究極の原因だとすれば、北村さんが指摘されているとおり、現在は人類史上でも稀有のパラダイム転換期に他ならないという視点には、まったくもって同感です。

土山惣一郎 

2014年2月22日 (土)

観念パラダイムの完全な逆転。(自他分離思考から、みんな思考へ)

私権が衰弱して以降に育った人は、早い時期から自他の区別が曖昧なままなのではないでしょうか。逆にそれ以前(私権時代)は、自他は区別すべきものということを前提にしていたと思います。57370

これを読んで、自分と他を明確に分ける思考方法というものの正体が、私権闘争の中で自分を見失わず、敵に取り込まれない為の思考方法であった事がわかりました。 例えば、悪質なセールスなどにつかまるのは、相手のセールストークにあいまいに同調したりしているうちに抜け出せなくなってしまうからだと言われています。

「自己の確立」「自分が原点」「まわりに惑わされるな」「自分の意見を持て」などは近代以降、私権の獲得競争が大衆レベルまで広まった時期に唱え続けられ、自他を区別しない思考は前近代的なものとして蔑視され排除さてきました。

しかし、私権が衰弱したことで自他を分ける思考の前提が崩れました。自他分離思考の観念パラダイムから「皆の思考」へ、観念のパラダイムが大転換する可能性があるということです。

例えば最近の若者が「自分の夢を持て」といわれて、全く何もない自分を見出してしまうのがよい例ですが、自他を分ける思考方法がどんどん閉塞してきており、替わって、同調できる(うなずける)ものを良しとする風潮が形成されつつあるように感じます。

しかし、ここで観念のパラダイムが完全に逆転するためにもう一つ重要な事があります。それは同調する(うなずく)中身です。
単なる気分やムードを超えて、誰もが共有できるものであることが必要で、これは誰もが認める「事実」をもって話をし、思考するという事が突破口になると思います。

本当に充足するのは、おしゃべりによって気分やムードが一体化しただけでなく(これは一時的なものに終わる)、歴史と状況認識そしてそこか ら開ける可能性が、「事実」としてしっかり共有された時でした。 こうした時に生起する「私たちは同じ時を共に生きているんだ」という深い手ごたえは、旧 日本人の限界を超えた新しい社会統合の基盤となりえるものに違いないと感じました。

田村正道

2014年2月20日 (木)

相対論(=真理主義の自己否定)の限界と突破口

サルトルの「地獄とは他人のことだ」に対してレヴィストロースは「地獄とは自分のことだ」というアンチテーゼをぶつけたといいます。

レヴィストロースは、神話や未開社会のフィールドワークを通じて、「神話には人間の自然に対する傲慢や堕落思考に対する戒め」が語られていることや「婚姻制度や贈与により異なる集団が巧妙に対立を回避させている」ことを知り、未開社会における「自我の防止策」に敬意を払いながら、それに比べると西洋の「自我に拘った」世界認識の稚拙さと、それが結果的に未開社会の侵略を推し進めたことに深い反省を持った人です。

そして主体=人間が世界を認識する絶対的根拠=真理を求めることを止め、人間も自然や社会のひとつの構成要素としてつながりの中から普遍的な社会構造をみ つけていこうとしました。レヴイストロースの構造主義は、西洋の真理主義をひとつの制度に過ぎないとみなした点で相対主義の先駆者といえるでしょう。

つまり相対論は西洋の真理主義の持つ傲慢さに対する西洋自身による自己否定、自己解体のための認識論の必要性から産み出されたものなのです。

しかし、現在、相対論は「人それぞれ」といったばらばらの主体によるばらばらな世界理解を容認するだけで、自我に都合のいいだけの一面的な真理を押し付ける真理主義は解体したものの、むしろ西洋の自我思想を生きながらえさせるだけの思想に堕落しています。(ただアメリカの最近の独善をみているとその効果のほども怪しいのですが)

相対主義が自我思 想を否定しきれないどころかむしろその延命に手を貸すという矛盾、その萌芽はレヴィストロース自身に既にあったといってよいでしょう。レヴィストロース自 身、「私は自分の人格的同一性=アイデンテティの実感を持ったことがありません」といい「人間に人格的アイデンテティを押し付けているのは社会であり、こ の社会の圧力が人格的アイデンテティを強く意識させているのです」といっているように、実は西洋知識人故の「アイデンテティの不在」不安を煩い、自我に根拠を置くことを捨てはしたものの、自我を形成しているところの社会圧力についてはあいかわらずマイナス圧力として受けとめていたのです。

>現実否定→倒錯観念は、本源価値にとって都合の悪い現実を捨象するだけで、決して現実を対象化することができない(古代思想)。 現実に可能性が開かれても、現実を否定対象としてしか対象化できず、決して現実の可能性を対象化し構造化することが出来ない(近代思想)。従って、現実否 定の倒錯思考は、現実を構成する最も重要な下部意識を全うに対象化することが出来ない(従って、例えば共認回路の存在さえ、彼らは知らない)。

>ところが、’70年、貧困の消滅によって、下部意識が大転換してゆく。常に次代へ向かう人々の先端意識は、すでに私権収束から本源収束へと転換した。残存する自我私権意識は、放っておいてもとことん衰弱してゆき、いずれは消滅する。 従って、自我私権を否定することにこだわるよりも、その奥にある新しい充足基調⇒本源収束という可能性の実現に、意識の焦点を当てた方が良い。(21090

社会を自我=地獄を形成したマイナスのものと捉えるしかなかった近代思想では、相対論といえども人々の自我意識の突破口も社会統合の突破口も提示することはできないのです。

自我に縛られた主体の思想も、自我を否定しつつも現実否定意識を超えられなかった相対論も超えて、私たちは現実肯定の観念パラダイムを作り出していかなければ、意識を統合することも出来ないし、まして「人々の意識の集合体」である社会を統合することも不可能なのです。

そして交流会運動において、様々なみんなの何でだろう?を統合していくプロセスとは、みんなの潜在思念を 現実肯定視のもとに統合していくという観念パラダイム=思考方法の大転換の優れた演習の場であり、レヴイストロースが現実否定ゆえに未開社会においてしか できなかった人類に普遍的な共認構造の発見を、先進国日本の現実の真っ只中で実現していくという知的創造の最先端に位置づけられる。

ここからまさに観念パラダイムの転換が始まり、全く新しい社会統合が始まっていくのだと思うと、ますますやる気が沸いてきます。

山澤貴志

2014年2月18日 (火)

一元論=主観のもとに認識を統合しようとする真理主義の限界と崩壊

>一元論的価値観に基づくスタンスが「ちょっとおかしい」というのには結構多くの人が気付いているような気がするが、それに対抗する相対主義的なスタンスのおかしさには気付いていない人が多いような気がする。

どのように一元論=主体のもとに世界を統合しようとする認識論が崩壊したのか、そして相対主義を超えるにはどうしたらいいのか?まずは近代思想のどこがおかしいかを「観念パラダイムの逆転」を参考に明らかにしてみたいと思います。

>事実、私権時代の全ての既成観念(古代宗教と近代思想)は、この異常な現実否定意識に基づいて作られている。その証拠に、これまで現実を否定する意識は、常に暗黙の内に正(義)として意識され、現実を否定する意識そのものを疑うような意識は、全く登場してこなかった。(20354

近代思想は中世までの神が世界の根拠であるという視点に対して、主体=個人の主観から見る世界観の正当性に絶対的根拠を与えようとする試みであった。この ことは思想史を少し勉強すれば書いてあることです。しかし、近代思想と宗教の共通性は意外と書かれていませんが、るいネットで勉強した上で再度、思想史の 教科書を読んでみると共通性は至って簡単で、「現実は苦の世界」でありそうした深い不可能視と絶望感・人間不信を背景に、現実世界における「自己存在の絶 対的根拠はあるのか?」「自分が自分である=自己同一性の根拠は?」という真理を巡る問いに拘りつづけたというところだと思います。

宗教の成立基盤をなした奴隷たちが、生きながらも家畜以下の扱いを受けていた状況を想像すると、現実に可能性がないが故に「自己存在の絶対的根拠」を必要 とし、それが現実世界で実現されないがゆえに、「あの世」に生の絶対的根拠を求めた。またそうした現実からの逃避のための宗教という「代償観念」なしには 意識が統合されなかったのは、歴史的必然であったであろうと思います。

他方、市場における私権追及の自由という可能性が開かれた近世→近代において、しかし何故「現実は苦」であり「自己存在の根拠を求める」認識が必要とされたのでしょうか?

それは、市場の発展により私権追及の可能性は開かれたために、中世までの身分秩序による私権追求への制限と宗教による自由恋愛に対する制限があった封建体制以上に、「まわりはみんな敵」という状況が激しくなったからだと思います。

あらゆるものを疑い、「すべてのものを疑ってみても、疑っている自分の存在だけは疑うことが出来ない」という結論を導いたデカルト、「自我は己の存在を定立し、自我に対して非自我が定立する」と自我を出発点に置いた認識体系を構築したフィヒテ、「人間にとって生とは非合理であり、意志は捨てなければならない」とした実存主義の開祖キルケェゴール、「実存とは不条理であり、それを自覚した決断によって存在になる」というサルトル・・・・・。

自我を人間存在の原点に置く、これらの思想が近代思想の本流であり、これらが、市場経済の自由の絶対根拠をなしながら、同時に私権追及がもたらす様々な私的不安=存在不安に対する自我の正当化と本源価値の代償充足を提供する役割を果たしていたことは間違いないと思います。

またショーペンハウアーは「ダンテの描いた地獄とはこの現実世界のことである」といいサルトルは「地獄とは他人のことだ」といったそうですが、西洋思想が一貫して、現実否定に立脚していることの典型的なセリフです。

つまり権力支配による奴隷とは異なりますが、近世→近代とは自ら市場における私権の可能性を追求するあまり産み出された人間不信や自我の葛藤に縛られて、自我を 基盤にした他者理解と世界認識の可能性をああでもないこうでもないとひねくりまわしていた時代といえるでしょう。そしてそれは西洋の世界侵略がいきつくと ころまでいきついた第2次世界大戦後、西洋の自信の喪失と同時に、崩壊していきます。(晩年サルトルがマルクス主義に傾倒していったのは、自我思想の敗北以外のなにものでもないでしょう)

山澤貴志

2014年2月16日 (日)

『構造主義』『パラダイム論』も、結局は相対主義

相対主義者と語ると、ファイヤアーベント・ポパー、ラカトシュらの科学哲学者の解釈をめぐって「相対主義は何か」の議論になるのが落ちである。「相対主 義」は決して現実を突破する力とはなりえない「ためにする」主義主張である、というのが私のこれまでの実感である。つまり、何にも新しい認識も答えも生み 出せない非生産的なイデオロギーである。

が、端野さんの次の文章に、今まで思い足らなかった点が見えてきた。

>例えば、異文化の人間を理解するときに、よく自文化の考え方を押し付けるのではなく、相手の文化もとりあえず認めようというスタンスがとられる。しか し、これは自文化の正しさを押し付けようとする絶対主義に対抗するための相対主義に過ぎないような気がする。世の中には絶対的に正しいといえるような普遍 的なものは存在しないのだから、それぞれの文化の価値を認めましょうということらしい。<(56890

異文化は、その文化を擁する民族集団の価値観によって記述されるべきで、観察する違う民族集団(主に西洋)の価値観から判断されるべきではない、色眼鏡で見てはいけない、というのがレヴィ=ストロースの『構造主義』(5380553806)である。そこからクーンの『パラダイム論』が登場してくる。これが、現在の科学哲学の基礎を作っていると言ってよい。つまり、現在の「科学や科学史」を見極める基礎理論はこの『構造主義』にあると言ってよい。

確かに、比較方法論を駆使して文化を捉えるというレヴィ=ストロースの視点は、これまでにない客観主義的なアプローチであったかもしれない。既存の価値観 念ではおかしいと切って捨てていた現象や慣習・制度が、実はその社会の共認内容・観念内容そのものを示している、と気付いた功績は大きかったかもしれな い。

しかし、それは単に社会や文化を他の社会と対等に学問的に記述したに過ぎない。そこで記述された共認内容や制度が一体人々にとってどのような意味を持つの か、なぜそうなったのか、そのもっと深い所を探っていかなければ、事実は明らかにされない。それには相手の社会も自分達の社会も徹底して対象化することで ある。そのためには自分達の価値観念を保留したまま(あるいは保留したいがために)相手の価値観念に理解を示すというのでは、確かに端野さんの言われるよ うな相対主義そのものだろう。

『構造主義(ポスト構造主義)』とか『パラダイム論』とかもてはやされる現代思想や科学哲学が、実は相対主義であるという視点からすればとてもグランドセ オリーになりえないというのは当然だろう。このるいネットで使われる『構造』『パラダイム』とは似て非なるものというを肝に銘じておかなければならない。

>人間としての普遍的な共通基盤を探っていくということが必要なのではないだろうか<(56890

私も本当にそう思う。自らが人間の現実基盤を探る(『実現論』)、そこが旧思想と根本的に違う点だろう。

吉国幹雄

2014年2月14日 (金)

相対主義的なスタンスもどこかおかしい。

>一元論的世界観に基づき「我々は正しい」という主張に浸りきり、他の人の話に耳を貸さない。そのようなスタンスはまさに思考停止であり、彼の言う「バカの壁」とはまさにその一元論的価値観のことのようです。(56777

一元論的価値観に基づくスタンスが「ちょっとおかしい」というのには結構多くの人が気付いているような気がするが、それに対抗する相対主義的なスタンスのおかしさには気付いていない人が多いような気がする。

例えば、異文化の人間を理解するときに、よく自文化の考え方を押し付けるのではなく、相手の文化もとりあえず認めようというスタンスがとられる。しかし、 これは自文化の正しさを押し付けようとする絶対主義に対抗するための相対主義に過ぎないような気がする。世の中には絶対的に正しいといえるような普遍的な ものは存在しないのだから、それぞれの文化の価値を認めましょうということらしい。

以前はそういう相対主義的なスタンスがいいと思っていた。しかし、今になって思うと、そういう相対主義的なスタンスではまったく相手を理解することもでき ないし、受け入れることもできないのでは?と思うようになった。なぜなら、相対主義では結局「人はそれぞれ」であり、「自分は自分」、「相手は相手」と なってしまうからだ。所詮、「自分は自分」が基本だけど、様々な価値観の渦巻く世の中で対立を起こさないようにうまく生きていきましょうという処世術の一 つに他ならない。

人間は誰しも相手を理解しよう、受け入れようとするときには、相手との共通点を探すのではないだろうか。自分と相手との間で互いに認め合う部分を見い出 し、相手も自分と同じなんだと感じることで深い安心感を得て、相手を受け入れることができる。そして、基底部分で「相手も自分と同じなんだ」とつながって いれば、それ以外の部分、肌の色の違いや生活習慣の違いなど、それほど気にならないはずである。

それで、その基底部分というのが、養老孟司氏の言われる、「人間であればこうだろう」ということであり、また、実現論に書かれているような共認機能のことではないだろうか。(参考:実現論1_4_05)表面的な価値対立だけで受け入れられないと拒否したり、表面的には対立する価値もとりあえず認めましょうというスタンスではなく、人間としての普遍的な共通基盤を探っていくということが必要なのではないだろうか。

端野芳

2014年2月12日 (水)

 「辻褄が合わない!」と「何でだろう?」の違い。

 「辻褄の合わない部位こそが、追究の為所」、これは仕事の成果を決する鉄則と心得て実行して来ました。若い諸君達から投稿が続く「何でだろう?」と何所が違うのか、考えさせられました。
 何であれ、辻褄が合わない部分を忍耐強く徹して掘り下げれば合格点に近づけたものが、昨今それだけでは(新しい現実が対象化できず)答えが出せないからです。確かに「何でだろう?」とは、旧パラダイムに絡め取られた古いタイプの人々からは出にくい発問です。潜在思念の実感から率直に発せられるから、「何でだろう?」となるのでしょう。
 当に幼児のように、何の旧観念にも染められていない故の「何でだろう」と、様々な価値観念に染まりきった大人が旧い観念や規範の整合性を追究するに止まる「それでは辻褄が合ってないではないか!」と云う問いとは、違うことに気付かされました。
 「辻褄が合わない!」のダメだしを、自問自答し且つ周りに問い続けて来ましたが、パラダイム転換の今、それだけでは答えに繋がらない事に気付かされました。

阿部紘 

2014年2月10日 (月)

追求の場をつくるという役割

 話し合いといえば、まず相手の発言に対して良し悪しを自分で判断してから発言するもの、というイメージがありました。「自分の意見を持ちなさい。」と言 われ続けてきたからでしょうか。交流会でも度々耳にするのが「その現象は悪いことだとは思えないんです。」とか「考えようによっては良いことなんじゃない ですか。」という発言で、やっぱりみんな、ついつい善悪の価値判断で物事を捉えてしまいがちです。でも、これが追求思考を妨げる原因の一つだったんだとあ らためて気がつきました。

 良いか悪いかなんて、個人レベルの発想でしかありません。集団とか社会とか、もっと大きな観点で捉えようとしたとき、善悪よりも「実際はどんなことが起 きているのか。」とか「事実としてはどうなんだろうか。」という考え方をする方が自然です。しかも、そういう大きな視点で物事を捉えることって、日常では なかなかないから、すごく新鮮で面白そう。
 ただ、やっぱり普段の価値観念が邪魔をして、現象事実を深く掘り下げて考えることや、そこから出てくる事実を構造的に組み立てることができない頭になっています。

>「何でそうなるのかな?って考えることが大事なんだよ、で分かるまで皆に聞いたり、調べてごらん」と、昔良く言われていた事を思い出しました。(53654

 子供は特に「何で?どうして?」が多いけど、私たちだって日常で、「何でだろう?」って思うことはありますよね。でもその疑問はいつの間にかどこかに流 れていってしまいます。「一人で考えてもどうせ分からないから。」って、考えるのをやめてしまう。(>現実に実現できる可能性が無ければ、「何でだろう」 と追求する気も失われてしまいます。53884

>授業を通じて考えてもこの「何でだろうな?」という問いかけとその先の追求モードほど場が盛り上がることはありません。(中略)目の前の疑問を捨象することなく自分達の課題として受け入れられるからだと思います。 (53675

 確かに、みんなで考える場では、「何でだろう?」の追求課題も楽しい作業です(みんなで考える沈黙も心地よく感じられる!)。だったら、理論的・構造的 に考えるのが苦手な私にも、追及の場でできる役割があるんだって思いました。それは、「何でだろう?」をみんなに投げかけて、追求するきっかけを作ること なのではないでしょうか。

山崎許子

2014年2月 8日 (土)

判断基準は、使えるかどうか。

>事実とはどんどん変わっていくもの52420

コペルニクス的発想というか、パラダイムをゆさぶられた気分。
確かに、その認識の方が、より現実に適応している気がする。

観念が、100%正しいかどうかなんて誰も興味ないし、100%正しいかどうかを証明する事なんて、普通の人は難しくて、参加なんてできない。
皮肉だが、観念の絶対性に固執するパラダイムが、人類の最先端機能である観念を一部の人が管理・支配する状態を作りだしていると思う。

観念なんて、何か面白い事を実現するための道具にすぎない。
だったら、判断基準は使えるかどうか。
何か面白い事を実現する時に、『使えるかどうか』という意識で、実際に観念を道具として利用する。その中でなら、誰でもその観念(共認内容)を時代に合うように変えていく事に、参加できるようになると思う。

佐々木健二

2014年2月 6日 (木)

「実現可能視発のみんな期待」へ転換する条件は?

>'60年代後半までは貧困という言わば共通の課題=不全があり、だからこそ誰もが豊かさの実現に向けて必死に生きてこれたことになります。きっと、貧困も一種の「みんな不全」であり、豊かさ追求は「みんな期待」だったのでしょう。 そうだとすると、'70年以降のこの30年間は、「みんな不全」「みんな期待」が表舞台から一瞬消え去った時代なのではないか(52041「みんな不全が一瞬消え去ったこの30年」)

歴史的に考えてみます。

私権時代のみんな不全⇒みんな期待は、一貫して、実現不可能視に立脚したものだと思います。私権の強制圧力は覆せないことを暗黙の前提にして、せめてもの心の慰めとして、物的な快美充足や宗教・思想・芸能に期待した。「実現不可能視発のみんな不全⇒みんな期待」だったのではないでしょうか。

実現不可能視という視点で、初めて期待・応望充足を形成した原猿に、遡ります。

>「集団」から離脱した人々のこの期待・応望充足は、実は、集団(縄張り)を持ち得なかった原猿の原初の期待・応望充足と同じである。驚くべきことに、集団外(縄張り境界線上)で接する相手全てが対象となるという点も含めて、全く同じなのである。(441675認識営業の『まつり場』こそ、『原初の社会』である) 

>原猿初期や私権時代の様に、何の可能性も見付けられずに不全感や現実否定の意識の中に閉じ込められて終う一時期も存在する。(その結果、私権時代は、現実否定(or捨象)の感応観念へと可能性収束するしかなかった。これは、解脱充足へと可能性収束した原猿と同じ位相の時代であるとも云える。もちろん、解脱充足や感応観念では、元々の縄張り本能の不全や共認充足の不全を解決したことにならないことは、云うまでもない。)(23883「可能性と不全(肯定か否定か)」)

つまり、原猿は、縄張りの獲得という課題に対しては実現不可能視していたということです。この実現不可能視⇒旧観念にとらわれているという点でも、現在の「集団」から離脱する人々と全く同じです。

これまでの議論を通して、実現不可能視のままではダメで、実現可能視への転換が不可欠であることは明らかです。これが「実践(=運動)の核になる理論の必要十分条件とは何か」という問題の核心なのではないでしょうか。これは、「実現不可能視発のみんな期待から、実現可能視発へのみんな期待へ転換する条件は何か?」という問題と同義だと思います

実現可能視へ転換したのが、真猿です。

>真猿が仲間の期待(課題や役割)に応えようとする際(雌が首雄の期待に応えようとする際も同じですが)、まず頭の中に充足イメージ(応合のイメージ)を描き、それを活力源とも先導力ともして、応合行動をとっています。(2662自我の源泉は、共認の部分否定にある」) 

>原猿⇒真猿は、縄張りの獲得という闘争共認を形成することによって、集団化を実現していったが、旧人類⇒新人類は、統合課題の共認⇒普遍認識の獲得という闘争共認(共認闘争or認識競争の共認)を形成することによって、統合化を実現してゆく。(41676「新しい社会の原基構造」)

真猿は、縄張りの獲得という課題を実現可能視して、充足イメージ(実現イメージ)を描き、実現するための闘争共認を形成したのです。「なぜ、真猿が実現可能視できたのか?」は、私たちが、統合化を実現していく(そのための理論を構築していく)上で、重要な切り口になるのではないかと思います。

私権時代の中でも、市場によって私権拡大の実現可能性が開かれた途端、急速に科学技術が発展して、物的生産力が急上昇したという歴史事実も、注目に値します(30709私権闘争の抜け道が、交換取引の場=市場である」) 。「なぜ、市場時代初期に、私権拡大の実現可能視が生まれたのか?」も一つの切り口になるのではないかと思います。

>可能性を実現しようとし続ける(従って、その壁の源を対象化し続ける)その意識の出所は何か? 本源収束・社会収束の可能性が開かれた(可能性を見た)以上、その可能性に収束するのは当然である。例えば、社会が人々の意識によって形成されている(従って、変え得るものである)ことが分かった以上、それを対象化するのは、当然である。(23884「可能性or不全の源を対象化し続ける源泉」) 

どうも、「現実とは、人々の意識である」(20355)という認識が、実現可能視へ転換するカギを握っているような気がします。

冨田彰男

2014年2月 4日 (火)

マイナス原因構造とプラス実現構造という両輪

 52057でおっしゃっている『マイナス原因のマイナス体系vs実現プラス体系』という視点は、マルクスなどの旧理論と新理論(=『実現論』)の根本的な違いを鮮明に示した的確な見解だと思います。

 もしマイナス体系だけを明らかにするなら、人類の略奪闘争の起源で止まってもいいところを、『実現論』では、サルの共認回路・自我回路、さらに哺乳類の性闘争本能、そして生物の適応原理・進化原理まで遡って解明しています。これこそ『究極のマイナス構造』のさらに奥にある『実現するためのプラス構造』を発掘するための所業です。

 もともと、プラスを求める感覚というのは、実感レベルでは誰もが自覚していることで、例えば、苦しいマイナス構造の原因分析は敬遠され、安直にプラスに飛びついてはミスを繰り返すのは覚えのあるところです。

 確かに、最近の環境運動やボランティア活動が「まずはできるところから・・」とばかりに、ゴミ拾いなどの手近な実践活動に奔走し、結果的にはそれが根本問題を覆い隠すだけのゴマカシの温床になっているのは、最低限必要な原因分析(=マイナス構造の解明)さえ行われてこなかったからです。言うまでもなく、困難な問題であればあるほど、マイナス構造の解明は重要であり、かつては、そのようなものを‘理論’と呼んできました。

 しかし、実現可能性が徐々に開かれてきたこの時代に、ほんとうに必要な理論は、単に『究極のマイナス構造』を解明しただけでは不十分で、その奥にある『実現するためのプラス構造』にまで踏み込んだものでなければなりません。

 そのような理論を私は『実現論』以外に知りません。おそらく『実現論』こそ、人類史上初めて、マイナス原因構造からプラス実現構造までを網羅した理論だと言っていいと思います。

 古代宗教から近代思想までのすべての思想が、『実現不可能視』を暗黙の前提に生まれてきたという認識のさらに一歩先には、この「実践(=運動)の核になる理論の必要十分条件とは何か」という視点が横たわっていると思います。
土山惣一郎

2014年2月 2日 (日)

「何故?」という追求にも2段階ある

「できなかった理由、実現しない原因」を探るのと
「実現できる基盤がどこかにないか?」を探るのと

 まず、これまでの社会科学では前者=「できない理由」までしか追求していない、もしくは、原因追求が中途半端なままで後者=「手近な実現基盤=できそうな行動」に飛びついているのではないでしょうか?
 発掘された「できなかった=マイナスの要因」が“言い訳に過ぎない”レベルだったり、「原因のさらに奥にある原因」が未解明で構造化≒体系化できていない。
 徹底的に原因の原因を追求したマルクスでさえ、所詮は貧困など『マイナス要因のマイナス体系』しか明らかにできなかった。
 だから、これらの追求成果=旧理論に基いた実践をいくら考えたとしても、失敗要因を取り除くという「マイナス排除≒反(アンチ)や破壊」の方針しか出てこないのだと思います。

 それに対し、このるいネットの会議室や認識交流会では、それらマイナス構造のさらに奥に潜む究極のマイナス要因を突破する(プラスの)実現基盤・実現構造を解明する試みが始まっています。
 そして普通の人々(素人)の潜在思念(カラダ)が感取(実感)した、新しい可能性発で産まれたのが、「内圧=外圧」や「収束⇒統合」などの新しい構造認識(社会法則)だと言えるでしょう。
 これらを使って現実を対象化できるようになると、さらに新しい実現可能性を感取しやすくなるという『究極の実現プラス体系』が『実現論』になるのではないでしょうか?

平野令

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