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2014年1月

2014年1月31日 (金)

新しい統合軸→評価軸の生成

答えを追及する認識交流会では、年配の人は自慢話をしていても自信なさそうだし、若者は疑問を話しながらもイキイキしてる。
マスコミの言う「今の若者は頼りない」、年配の人の言う「今の若者は闘えない」という価値観とは、全く逆の事実を目の当たりにする。

人々の評価軸(意識)は、すでに変わっているんだとまた確信した。

交流会に来てもほとんど発言しない人がいる。そしてまた交流会にやってくる。
例え自分自身が一言も話さないとしても、そんな共認形成の場に当事者として参加する中で、どちらに可能性があるのか掴んでいっている。
初めっから諦めて自分の可能な範囲で気を紛らわせている傍観者なのか、例え未明or困難な課題であってもみんなでやれば突破できる可能性を感じている当事者なのか、という、一番深いところで『人』も『認識』も見ようとしている。

素人の社会創造が、評価共認から始まるのを実感します。

>仲間や集団や社会において、最も重要なのは評価共認。大衆は、中身は創れずとも、評価権は行使し続けてきた。(6028

西知子

2014年1月29日 (水)

ないものねだりなんかしてないでみんなで事実をみよう

>不幸な人ほど「幸せ」の追求にこだわる。
>抑圧されていると感じている人ほど「自由」にこだわる。
>期待応望充足に飢えている人ほど「愛」にこだわる。
>不安の強い人(自信のない人)ほど「自分」にこだわる。
(50982こだわる人の傾向)

「幸せ」「自由」「愛」「自分」・・・結局、そのこだわってる中身を突き詰めても、なにもないんだと思いました。
(自分が)不幸だと思っているのも自分。
(自分が)抑圧されていると感じているもの自分。
(自分が想像する)充足に飢えているもの自分。
(自分に)自信がないもの自分。

周りからみたら、そんなに悪い状況でもなさそうなのに自分の中で自分だけで判断してる人、確かに行き詰ってしまっています。そんな「自分」というフィルターを通して見た現実って事実ではないような感じがしました。
だから、やっぱり事実の追求はみんなじゃなきゃって思いました。

久保田彰子

2014年1月27日 (月)

観念の倒錯からの脱却

  歴史上から旧観念の成立過程、その構造。そして西洋発の近代思想は古代宗教(キリスト教)とその根源を同じくしていることを、(49628 50276 50941)の一連の投稿で明確に理解できました。このような観点から近代思想を捉えたものは、かつて何処にも無かったものです。

 これらの近代思想(旧観念)は、旧世代の頭の中にまだまだ根強くはびこっています。それまでに人々(特に私自身を含めた旧世代)が固執する観念とは一体何か? その原点に戻って考えてみたいと思ったときに「実現論」前史 ヘ「人類極限時代の観念機能」にある以下の段落が心に響きました。
>人類が万物の背後に見たこの精霊こそ、人類最初の観念であり、人類固有の観念機能の原点である。直面する現実対象(例えば自然)の背後に精霊を見るのも、物理法則を見るのも、基本的には全く同じ認識回路であり、従って精霊信仰こそ科学認識=事実認識(何なら、事実信仰と呼んでも良い)の原点なのである。(実現論1_6_02)

>人類の最先端機能たる観念機能は、あくまでも本能回路や共認回路を充足する為にある。もっと簡単に言えば、現実課題に応えるためにあり、行動を導く為にある。従って、観念機能は、精霊信仰以来一貫して目の前の現実世界(自然や同類)を対象化してきた。そして現実対象⇒事実認識の蓄積によって、人類の生存様式を進化させてきた。 (実現論1_6_05)
 
>本来の観念機能は、本能課題や共認課題に直結して行動と一体となって作動するが、現実対象を捨象したこの即自観念(頭の中に内在する本源価値を言葉化しただけの観念)は、現実の一切の活動から切り離され、ただ「観念」それ自体の為に存在する。これは観念の倒錯である。 (実現論1_6_06)

 私権時代は、現実世界で何かを実現することは不可能であり、その実現不可能性ゆえに人々は必然的に現実に対して傍観者にならざるを得なかった。そして、この実現不可能視を大前提にして生み出された旧観念は、潜在思念を封じ込め、現実に背を向けて頭の中を充足させる言葉だけを追求してきた結果、その充足観念そのものが最終回答となり、そこで思考停止して完全に倒錯してしまったのだと思います。
しかし、人類本来にとっての観念機能は、上記の実現論にあるように、「現実世界を対象化し実現の可能性」を求めるためのものです。そのためには、実現不可能視を大前提にした傍観者の旧観念が無用であることの完全な理解と、現実を肯定し実現可能性に向けた当事者発の新観念の構築が必要であることは言うまでもありません。

 >しかし、観念機能が人類の命綱(最先端機能)であるという事実は、不変である。それに、本来の観念機能を再生するのは、それほど困難なことではない。現実課題に応える為に、とことん現実を直視し対象化してゆきさえすれば、観念機能は再生されてゆく。この『実現論』は、その一里塚である。(実現論1_6_06)

人類が倒錯させてしまった観念機能を再生することの必要性を、改めて実感しています。

大木康子 

2014年1月25日 (土)

近代思想は宗教と同根

旧観念の代表は古代宗教と近代思想です。この二つを多くの人は全くの別物と捉えておられる様ですが、西欧発の近代思想はそれ以前の支配思想であったキリスト教と、驚くほどよく似た思想構造です。

元々キリスト教は武力支配の時代に生まれたもので、苦の塊、かつ変革不可能な武力支配の現実に背を向け、頭の中だけを充足させる(苦痛を和らげる)ためだけに創られ、普及した観念です。(神や愛)

その現実否定性はものの見事に近代思想の諸概念にも継承されています。
「自由」も「平等」も「平和」もその根拠を示すような事実やそれ自身の実態的中味は実はありません。だからこそ抑圧や差別や戦争と言う「苦」の現実がある時代には、強い収束力を持ちましたが、「苦」が衰弱するにつれて忽ち収束力を失いました。つまり全て現実のアンチ、つまり「反」に基づいて頭の中に理想状態を描いた空想観念に過ぎません。

それだけではありません。例えば平等はキリスト教の「神の前の平等」を転用したものです。或いは「博愛」はキリスト教の「愛」を転用したものです。それらのことに象徴されるように、概念的にも二つの思想は同根で、要はその究極の根拠を「神」から「人間」(頭の中で作りあげた本来の人間的なるもの)に置き換えただけという事が出来るでしょう。

しかし、近代思想はこれらの理想とする「社会状態」を導く導きの糸として現在もなお君臨しています。おそらくそれは多くの人々が、宗教から始まった2千数百年の思考パラダイムである、現実の否定から出発し頭の中で理想状態を捏造するという思考の枠に、今なお引きずられているからだと思います。つまり理念(お題目)としてのこれらの観念は同じ理念を求める思考の枠組みの中でいくら考えても一見誤っているように思えないからでしょう。

>「旧観念無用」という否定型(≒不全発)から、「新観念の必要や展望」という肯定型(≒可能性発)に論を進めるためにも、避けては通れない道だと思います。(50892

この枠組みを打ち破るのが「根拠」や中味をトコトン問い詰めること。実現不可能性が刻印された時代の思考の枠組みを崩すには、まず改めてこれらの旧観念を頭の中の閉じた世界から現実世界に引きずり出し、その無効性を明らかにすることが不可欠だと私も思います。同時にそのことが新観念に必要な条件(事実の根拠と中味=対象の構造を解明したものであること)も明らかにしてくれるはずです。

北村浩司 

2014年1月23日 (木)

外圧の作用に対する反作用としての認識

>肉体が適応するために観念が道具として使われる。これが、まともな頭の使い方です
しかし、ある状況(例えば私権圧力)に対して過剰適応した頭(観念)は、外圧状況が変わっているにもかかわらず、そのままの行動を肉体に強いる。 (50566)

旧い観念のあり方が、周りがどのような状況にあっても自分の価値判断を崩さないことにあり、また周りの状況に惑わされないだけの判断軸を鍛えることが目的であったのに対し、これから求められる考え方は、外圧に対して正対できる向きに思考軸を変え、結果として出てきた認識を道具として使うというものだと思いました。
前者が「世界」を自分が判断する対象として切り離しているのに対し、後者は自分の認識のあり方を、外圧の作用に対する反作用として位置づけているという点で、まったく違ったものであるということがわかりました。

匿名希望

2014年1月21日 (火)

時代が変われば自分も変わる

>グローバリゼーションとか何やら古くさい、ズレた話しか聞いた事がありません。 皆さんは「時代が変わっている」事をどの様に伝えているのでしょう?<(Msg50353

 時代が大きく動いているというのは、たとえ感覚レベルであっても、そのような発言が増えてきているだけで意義あることだと思いますが、時代が動いているという状況認識は、同時に、自分自身が変わりつつあるということとまったく同義でなければなりません。それは、文字通り『外圧=内圧』なので、自分のどこが変わったのかということも語らなければ、本来‘片手落ち’であるのは明らかです。

 この半年間の自分自身の変化の一例を示すと、10代20代の若者たちの言動は、決して‘舶来物’の思想の受け売りではなく、彼らの内部から沸き起こってくる欠乏に突き動かされた自前の営為だと心底感じられることもあり、私にとって、若者たちはほんとうに羅針盤になっているのです。その恩恵もあってか、私にとって最も距離のあった『関係パラダイムの逆転』、つまり他者に対する警戒心が仲間意識・同類意識に転じているのが実感できるようになりました。そうなると、ますます時代が急速に動いていること、それに取り残されつつある中年世代のあせりが、手に取るように見えてきます。

 時代に乗り遅れそうになっている旧世代にとって、実は、日常の仕事や生活もあまりうまくいっていないという感覚は、今や否定できないところまで来ていると思います。これも時代が変わってきたことの傍証事例です。

 例に挙げられているグローバリゼーションにしても、第二次大戦の終戦直後の話や明治維新の話と同じで、単なる舶来信仰レベルでは傍観者の発言と同じであることを指摘して、「あなた自身はそれで何が変わったのですか」という質問辺りから、物知り顔で昔話やマスコミの論調を吹聴する旧世代の方たちに、共認闘争を挑んでみてはいかがでしょうか。

土山惣一郎

2014年1月19日 (日)

「プラス思考」ではない「現実肯定」

> 状況に対する捉え方は一瞬にして変えることができる。捉え方、気持ちの持ちようで、おそらくその状況が自分に与える影響を変えることもできる。それなら、自分の内から変えてしまったほうが手っ取り早い。(50183

これを読んだ時、世の中で「プラス思考」と呼ばれている思考方法に近いと思いました。同時に、これはどこが誤っているのか少し考えました。

確かに、うまくいっていない現実を悲観するよりも、否定している自分の意識を変えてしまう方が簡単だし、活力も出るような気もします。ただ、どうも何かが欠けている。この「プラス思考」に欠けているのは何なのか、現実肯定という新パラダイムとは何が違うのか、ということです。

どうも、世で言われている「プラス思考」「気の持ちよう」は、「現実は変わらない」ということを半ば前提にして、だから自分の内部意識を転換すれば楽になる、という思考法のように思います。ここに欠けているのは「現実の中に可能性を見出す」、言い換えれば現実の中にある新しい外圧を対象化する、という点です。

この内圧だけで何とかしようとする所は「自己実現」によく似た倒錯性を孕んでおり、「プラス思考」もやはり旧観念の一つだと言えそうです。また、このような陥穽に落ちないためにも、外圧=内圧という事実観念が如何に重要かが分かります。

田中素

2014年1月17日 (金)

素朴な疑問からの出発

 新観念(構造認識)を伝播させるに当たって、大きな壁として立ちはだかる旧観念。これまで当然のこととして受け入れ、疑うことなく精神の支柱にしていた近代思想。それを拠り所に私権社会を生き抜いてきた人々。そんな人々にとって「旧観念無用!」を突きつけられることは、自らの全存在を根底から否定され、不意に無防備に大海に放り出されたようなものなのではないでしょうか?私自身、初めてこの言葉に触れた時の、驚愕にもにた気持ちは今でも鮮明に記憶しています。

 その時に抱いた素朴な疑問は、

「一体何を根拠にこの近代思想を否定することができるのか?」

 ということでした。

 それからは、常にこの「近代思想を否定する根拠」を突き止めたいという一心で「実現論」を読み進みました。

 先の投稿 (49628旧観念の構造」)において、

 >これらの旧観念群はいずれも私権の強制圧力によって生み出される醜い現実が不動の=変えることの出来ないものであった時代に生み出されたものです。(或いはその認識パラダイムの尾を引きずったものです。)
だからこそその時代においては、現実を否定し頭の中だけで倒錯充足するor現実の醜い部分を捨象し美化するor傍観者になるしかなかったという、必然性を持っています。

 と述べられているように、私権の強制圧力下で、「現実は変えることは出来ない」ことが前提。その状況下で脳内充足の「現実捨象の倒錯思考」としての近代思想(旧観念)が成立。従って必然的に人々は、「現実否定」の傍観者へと成らざるを得ない、ということが明確に認識できました。。

>ところが、’70年、貧困の消滅によって、下部意識が大転換してゆく。 >それに伴って、現実は、生存圧力の場から同類圧力の場へと大転換を遂げる。
>現実の中に可能性を求める充足基調⇒本源収束の下部意識を、現実否定のパラダイムで導くことなど出来る訳がない。かくして、現実否定→倒錯思考のパラダイムと、それによって作られてきた全ての既成観念は、現実に通用しなくなって終った。(21090 観念パラダイムの逆転5 「現実、その下部意識と上部意識)

 故に「旧観念は無用!!」である。

 この新しい言葉に出会って「素朴な疑問」から「実現論」を読み進み、この「るいネット」の「新しい認識」を明確に伝えて下さる投稿を読むことで、私の中の「旧観念」は完全に氷解し、今では「新観念」の獲得の為に日々勉強の必要を痛感しています。まだまだこの新観念を肉体化するには時間を労すると思いますが、私の中でこれまでの「得たいの知れない負荷」はとれ、「新しい活力」が泉のように湧いていることは確実です。

大木康子

2014年1月15日 (水)

傍観者の殻を割るには。

>>>旧観念が生まれてきた歴史的背景には、初めから、現実には目を瞑る、つまり傍観者にしかなり得ない構造が潜んでいます。それは、善悪を超えたひとつの事実として、おそらく誰もが認めることのできる認識だと思います
るいネットで使われる「当事者」「傍観者」という言葉の背後には、上記のような成立構造があります。その点を理解せずして世間で使われている「傍観者」という言葉は、ほとんど価値観念そのものですが、それとは一線を画した意味内容として、意識する・しないにかかわらず、否定視(=実現できないこと)を暗黙の前提にした感受性や思考方法が傍観者意識の正体であることを証明できるところに、構造観念の切れ味の秘密があるように思います。>>>

人々が武力支配と資本(金)力支配の時代を通して、歴史的に「傍観者」として生きるしか無かったこの支配共認は、ほぼ全ての人々の意識を長い間支配してきただけに、現実的な支配の構造が揺らいできているにも拘わらず、人々の意識の中に堅固に残っています。
現代でも、幼少の頃の貧乏体験から上昇志向を目指したり、ひたすら個人的利益や安定を企業や官庁で求め続けてきた世代には、特にこの傍観者的傾向が強いのは、宜なるかなです。
その私益追求(より根底的には生存圧力と性闘争・縄張り闘争に対応した生産力上昇)の結果としてこの過剰なまでの豊かさが実現したのも、一面の事実です。
しかし、この豊かさがこのままでは持続出来ないのではという不安と、同時にこの過剰な豊かさの実現の代償として失った「本源性」の大切さを、強く感じているのもこの世代の特徴のように感じます。
従って今、「傍観者」は自分たちがこの豊かさを実現したんだという自負心と、一方でその居心地の悪さに後ろめたさを感じてもいる。
このような傍観者に対しては、なぜ自分が傍観者でしかあり得なかったのかをまず構造的に明らかにし、単にそれが個人的気質によるものでは無いことを示すことで、傍観者と言われることでの即物的な反発と後ろめたさをを取り除き、その上で「人類は、単に支配共認=囲い込み共認という自我に基づく観念信仰の牢獄に囚われているだけである。それが観念に過ぎないなら、人類に突破出来ない筈はない。」(実現論第4部・場の転換)ことをストレートに伝えてあげる事が、同世代としての努めと自覚したいと思います。
ちなみに実現論のこの「それが観念に過ぎないなら…・・」の下りはまさに「目から鱗」です。人類が共認=観念動物でありどんな社会でも共認が全てであることと、これまでこの共認を支えてきた、どうにも歯が立たなかった権力と資本力が衰退しているという事実さえ気が付けば、社会を変えるにゃ刃物はいらぬ、頭の中の旧い観念さえ捨てりゃいいという、実に簡単な構造が理解出来ます。

庄恵三

2014年1月13日 (月)

新しい言葉が人々の意識転換を可能にする

>異世代の意識が構造的に掴めて初めて私達の現実(同類圧力)に対応できるのだと思います。現実を直視するほど「意識」に向かわざるを得ない状況です。
>ところが「意識」という現実を直視する為の概念装置は、実に貧困であったと思います。((48522

 世代間に横たわる溝は、それぞれの世代の「意識のズレ」であり、お互いにその「意識の在処」をつきつめていくことが、何よりも「答え」に近づけるのだと思います。このことに私自身が気付かされたのは、田村さんの取り上げられた四方氏の過去の投稿、『現実とは、人々の意識である』(観念パラダイムの逆転3 20355)です。

 ’70年代の貧困の消滅以降、「生存圧力から同類圧力への場の移行」→「同類圧力=人々の意識そのものが形成する圧力」→「現実とは意識である」→「現実を対象化するということは、人々の意識を対象化することに他ならない」・・・・・これを読んで、現代人が置かれている状況をはっきりと理解でき、『現実とは、人々の意識である』(観念パラダイムの逆転3) という言葉が、これまでの旧観念のどこにもない、まさに「新しい認識」=「新しい言葉」として、脳髄を直撃した鮮烈なものでした。そしてこの時から、私自身の意識が大きく変化し、それまで潜在思念で心の深い所で感じていたものが、顕在化してきました。

 そして次の段階としては『現実を対象化するための概念装置』(新しい潮流8 26869))で述べられているように、

>この潜在思念の感じる不鮮明な可能性を顕在化させたものが、パラダイム転換論や史的構造論etcの答えである。
これらの答え=構造認識は、潜在思念の実現観念態であると同時に、潜在思念が現実を対象化する(=更なる可能性を模索する)概念装置でもある。

『現実とは、人々の意識である』という「新しい言葉」から、「大いなる気付き」を与えられ、更に「構造認識」を得たことで、それまでの旧観念に囚われた「現実捨象の倒錯思考」から「観念捨象の現実直視」へと徐々に観念パラダイム転換を可能にしたのです。
 
>るいネットで、人々の意識を鮮明にする新しい言葉がつむぎ出され会得されるたびに新しい現実が拓けるということでもあります。
新しい言葉が「意識」という現実を直視するのに不可欠だからです。 

 このことは、私自身の「意識革命」にもまさに当て嵌まります。この認識形成サイトである「るいネット」が、多くの人々から紡ぎだされる言葉で、新しい現実がさらに意識化され、日々進化していくのを目の当たりにしながら、そのダイナミズムを実感しています。このまつり場に一人でも多くの人が参加して欲しい。この思いを胸に認識営業に励んでいきます。

2014年1月11日 (土)

主体凍結(共認欠乏封鎖)を可能にしているのは、現実否定の観念である

>非充足状態に置かれた乳児には、不全感からの危機逃避回路が働きます。そこで、不全感を解消するには、共感欠乏そのものを断念するしかありません。そこで共感欠乏を封鎖したのが、主体凍結(対象凍結)回路ではないかと思います。鬱病の母親の乳児が、怒ったり泣いたりしないのは、主体凍結(対象凍結)しているからではないでしょうか。

前回、上記のような投稿をしましたが、どのようにして、人類の命綱である共感欠乏(⇒共認欠乏)の封鎖が可能になるのでしょうか?

共認欠乏を封鎖しうるのは、本能⇒共認⇒観念のうち、人類の最先端機能である観念機能だと考えられます(実現論1_6_03 実現論1_6_04)。最先端の適応機能(or意識)ならば、古い機能(or意識)を自らの下に収束させて、全体を再統合できるからです。(35726「実現の論理」)

>現実に可能性が閉ざされ(or答えを発見できず)現実に対する強い否定回路が形成されている場合(従って、実現回路は貧弱である)、否定意識は捨揚回路(-捨象+収束の回路)に収束して、何らかの+幻想を生み出し、そこに先端収束する。しかし不鮮明な潜在幻想では意識を統合できないので+幻想は観念化されて感応観念(価値観念や規範観念)を作り出し、この感応観念の下に全意識を統合しようとする。(19060「否定意識の倒錯思考」)

イソップ童話に「キツネとブドウ」のお話が出てきます。木の上のブドウが食べたいけれど、食べられないので、「あのブドウは酸っぱいのだ」と観念操作する(食べない理由をでっち上げる)ことで断念する、キツネの話です。非充足状態に置かれた乳幼児もこれと同じなのではないでしょうか。主体凍結・対象凍結は、現実の共認欠乏と共認対象を否定する、観念操作によって初めて可能になるのではないでしょうか。

>この逃避指令と主体凍結の大元は(逃避しなければ危険であるという)状況判断である。だとすればこの状況認識の転換こそが、同時に本来の共認欠乏・評価欠乏と、その方法回路の再生を促すカギを握っているのではないか(47433)

「現実の否定意識⇒旧観念」が主体を凍結(共認欠乏を封鎖)しているとすれば、「現実の否定意識⇒旧観念」を否定することから、状況認識の転換が始まるのではないでしょうか。それは、現実を直視することに他ならないではないかと思います。

冨田彰男

2014年1月 9日 (木)

現実逃避の思考回路が、可能性に蓋をしていた

46916の長谷さん同様、農園に来る若者たちと接していて、私も新しい意識潮流に気付かされることは多い。

彼らは、仕事においても、毎日の共同生活においても、まずはとにかく楽しそうなのだ。みんなへの応望心が、素直に現れているように感じる。ただ、放っておくと解脱に流れてしまう面があり、私はそれが現実逃避だと感じていた。

しかし、彼らは人と話をしても対立したりしない。新しい認識もどんどん吸収していく。家族や仲間を否定する訳でもなく、見知らぬ人に声を掛け、新しい関係作りにも前向きだ。最近になって、彼らは現実に対する否定視や、現実逃避というものが、実は極めて小さいのではないかと感じるようになった。

長谷さんの仰るように、彼らは確かに「拍子抜けするほど素直」だし、一見活力も小さいように感じる。しかし、そんな彼らの“ちょっと頼りないところ”を、否定的に捉えてしまう私たちの方にこそ問題があるのだと、それこそ現実逃避の思考回路に他ならないのだと、最近の皆さんの投稿から感じさせられた。

私権時代に培われた現実逃避の思考回路に支配されている限り、私たちは新しい現実さえも否定視してしまい、可能性を流産させてしまうのだと思う。旧観念に基づく状況認識で捉えた“現実の壁”は、“いやな現実”になり、否定視され、可能性探索の思考は停止する。

私権時代の“いやな現実”とは、私権圧力であり、それに基づく対人関係であった。しかし私権の終焉と共に、それらが立脚する基盤も崩壊しつつある。もはや現実逃避の必要はなくなったのだ。そして、そのようにパラダイムを逆転させた途端に、現実は「みんな期待」や可能性に満ち溢れ、肯定すべきものに変わっていく。

私たちの世代は、改めてここからがスタートだと思った。

小松由布樹

2014年1月 7日 (火)

結局、閉塞を生んだのは誰なのか?

 現在の社会的閉塞とは、正確には、社会的地平にあるのでも、観念にあるのでもなく、自らの中にあり、それを脱しようとしないことにこそあるのかもしれない。

 制度も観念も、決して、それを追認する主体がなければ生きながらえることはできない。自らが閉塞の原因であること、このことを自覚することこそ、当事者であることの(最初で最後の)一歩ではないだろうか?
 それができなければ、実は、自らが批判してきた対象と、自らが同質であることになってしまう。主体性を放擲しているのに等しい。

 様々な特権階級たちを批判することも、様々な観念を糾弾することも終わったあとに残されたのは、では、自らは何を実現・創造できるか?という、批判の刃を自らに突きつけることなのだ。

阪本剛

2014年1月 5日 (日)

認識営業=認識創造(創造のパラダイム転換より)

>(認識)営業している間にも、認識は進化していく柔軟さがある。・・・この柔軟さは、最強の営業スタイルであり、共認闘争に勝つ実現基盤であると思う。

共認闘争に勝つ実現基盤だとも言えるし、共認の中で思考することは認識創造の大前提でもあると思った。

参考:7453『素人の社会活動34 創造(=探求)のパラダイム転換』
>頭の中の本源価値を確立する為には、私権に塗れた現実から身を引き離し、完全に遮断する必要があった。かつ、現実(自我私権)の引力に打ち克てるだけの潜在回路⇒観念回路を構築する為には、長い探求期間が必要だった。・・・何れも、頭の中の内在価値を現実引力に負けないくらい強く観念的に精練し、体系化する為の隔離であり、期間であるが、この様な観念思考そのものが、現実から隔離された思考という点でも、皆との交信から隔離された思考という点でも、実は狂った思考なのである。
>現在は、(本源価値の)実現の時代である。従って、大切なのは(原始以来、一貫してそうであった様に)現実そのものを対象化することである。・・・だとすれば、我々は現実そのものの真っ只中に居なければならない。その資格は、素人のみが持っている。素人こそ、現実の真っ只中に生きる人であり、そうであるが故に素人こそが真の探求者=創造者足り得るのである。

西知子

2014年1月 3日 (金)

夢や希望に代る「中身」

最近の若者は夢も希望もなくなったと、よく嘆かれる。

>一昔前は良くあった価値対立(考え方の違いからの話の対立や決裂)が衰弱し、今や消滅へと明確に向かっていると感じるからです。

価値対立するほど、中身があるわけじゃない。それは若者自身が一番よく分かっていて、中身がないことへの漠然とした焦りみたいなのもある。

>人々は中身(豊かさ追求という目的)を失うにつれて、それを補うかの様に技能的な中身作り(資格、英会話、料理)及びそのカリスマ作りに励んできた。そして、’00年、ほぼ完全に中身(私権)を失いor混濁させた大衆は、技能的な中身作りを超えて、遂に社会関心的な中身作りへと向かい始めた。社会的な中身作りが、仲間作りに続いて社会変革⇒社会関心の中身作りへ向かう時、観念(化)過程に入ってゆくのは必然。(6028

この時代の変化が私の中でも確かに起こっていて、現実=人々の意識っていうのがすごくよく分かる。
私たちが求めてる「中身」っていうのは、夢や希望なんかの幻想じゃなくって、時代認識・状況認識という、現実そのものなんだと思った。

西知子

2014年1月 1日 (水)

交流会は可能性を本気にさせる場

>るいネットや本を読んだり、会員同士で話してたら、自分の認識とか気づきとか勝手にできてくやろっておもてた。でも、そんな気持ちやとあかん。自分はまだまだ頭が旧式やって、全然気付いてないって自覚した。(46329 平野さんの知り合い)

自分の頭が旧式だと気づく、旧観念をこれほど直視した言葉はない。

旧観念無用に賛同しながら、自分の頭の中を支配している旧観念を直視することは彼の表現にあるようにショックな出来事だ。
ものを考えるのは自分の頭。どれだけすばらしい構造認識を識っても、何度実現論を読み直しても自分の頭が旧式だったらその場は気づいても、その殆どを吸収することはできない。彼と同じ事をこれまで私もどれだけ経験しただろうか。そして今でもまだまだだと思っている。
しかし、彼の言葉を借りるなら自分の頭は旧式だと気づくことが当事者としての出発点なのだと思う。
旧式の頭はすぐにはモデルチェンジできない、こんな旧式の頭で考えていていつになれば構造認識が語れるようになるんだろうとうんざりすることもある。しかしソフト(認識方法)を一つ一つ交換しながら粘り強くやっていけば必ずリニューアルすることはできる。認識を獲得していく過程とは自らの中に巣食う旧観念との綱引きであり何度も何度もそこを乗り越えていくエネルギーが必要なのだと思う。彼が言うように交流会で語り合う中で自然と収束していくという種類のものとは根本的に異なる。

交流会に参加し継続することは今までストレートに次代の可能性を共有して認識の必要性に向かうことと同義に捉えていたが、一つ大きなハードルがあるようだ。
可能性が本気にならなければならない。どこかで(自分は)これではあかんのやという本気になる局面が必要なのだ。ここが越えられて始めて当事者になれる。これが越えられなければどこまで行っても傍観者のままだ。読者ではいつづけられるけど本当の意味での協働者にはなれない。
交流会はそんな強烈な動機、気づきを与える機会としての位置づけもまたあるのだろう。

どんな言葉でその気づきが与えられるのか、まさにこちらの当事者としての資質が問われる真剣勝負の局面だと思う。

田野健

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