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2013年12月

2013年12月30日 (月)

「思考停止」からの脱却とは、普遍期待に応えること

>それを慎重に読むと、旧観念の問題性は、現実を否定・捨象して都合のいい観念に飛ぶ、その「思考方法」そのものにある、ということが浮かび上がってきます。(46141蘆原さん)

現実を否定・捨象して、都合のいい観念や答えに飛びついてしまうというのは、実は「思考停止」の状態に他ならない。しかし旧観念に染まってしまった現代人は、誰もがこの状態に陥り易いのだと思う。

新しい認識とは、現実を切り拓き答えを導く武器であり、それ自体が答えなのではない。どんなに優れた道具でも、使わなければ(使えなければ)やがて錆付き、役には立たなくなってしまうように、この「思考停止」から脱却できない限り、「旧観念無用」ばかりか、どんな新しい認識であっても、只の都合のいい観念にずり落ちてしまうのではないだろうか。

「思考停止」からの脱却とは、現実を真正面から対象化し、それに対する答えを導き出していくこと。つまり、答えを出すための武器として、新しい構造認識を使っていくことだと思う。そして、現実とは人々の意識そのものであるならば、人々の普遍期待に応えるという姿勢こそが必要なのだと感じた。

小松由布樹

2013年12月28日 (土)

思考方法そのものの問題として捉える

みなさんの投稿に、「旧観念無用」という言葉がたくさん出てきています。

認識営業の場面で、「旧観念」という言葉をそのまま語って「???」という反応が返ってきたことがあったので、あらためて考えてみました。

過去、この社会統合会議室では、「旧観念の最大の問題は、現実を暗に否定し、安易な価値観念に収束することで、目の前の現実を捨象するところにある。だから現実に答えを出せないのは当然だ」といった内容が語られており(2035420199 などなど)、目から鱗がバラバラ落ちたのをおぼえています。

その頃のみなさんの投稿は、厳選秀作集の「観念パラダイムの逆転」に結晶されていて、迷ったときに紐解く愛読書の一つになっています。

それを慎重に読むと、旧観念の問題性は、現実を否定・捨象して都合のいい観念に飛ぶ、その「思考方法」そのものにある、ということが浮かび上がってきます。

旧観念無用」という言葉の本質は、現実に答えが出せるはずのない思考様式を完全に捨て去り、現実に答えが出せる思考様式(事実認識・実現思考)に180度転換しよう、という意味だと思います。

イデオロギーとイデオロギーのぶつかり合いの次元において「迎合しない」と決意してみても、実は同じ穴の狢でまったく無意味です。「実現論」など、るいネットで示されている構造認識の価値は、より正確に(イデオロギーや価値観に左右されずに)現実を捉え、それを組み立て、現実に答えが出せること。だから必然的に共認闘争の場面で勝てるところです(もし、負けるとすれば、それは構造認識が道具として使えていない、つまり事実認識や事実をもとに組み立てるあたりまえの思考ができていないことを意味する)。

振り返ってみると、私自身、この場で語られている「旧観念無用」という抽象的な言葉を、半ば解ったような気になって、己の頭をあまり使わず発していたのではないか、という気がしてきました。だから相手の反応が「???」だったんですね。

佐藤英幸さんのおっしゃるように(Msg:39764『実現論を道具と言っても怒らないのがるいネット』)、「旧観念無用」を価値観念としてではなく構造認識として語る必要性をあらためて感じました。

蘆原健吾

2013年12月26日 (木)

『迎合無用』は関係パラダイムと観念パラダイムの接点

 対人関係において当り障りがないように適当に調子を合わせるのは、迎合された方も実はあまり気分の良いものではありません。ただ、薄々は感じているのにそうなってしまうのは、政治家や評論家がメディア上で繰り返している何も生み出さない醜悪な対立を避けるためには、迎合するしかないという旧い関係パラダイムの常識の誤りに、今まで誰も気が付かずに来たからです。

 お互いを期待視・肯定視し合う地平とは、警戒心⇒迎合or対立(=自己主張)or無視・・・という硬直的な図式から抜け出し、さらにそこから、社会不全という人類共通の課題を前にした事実の探求に向かうということが、とても鮮明になってきました。

 こう考えると、関係パラダイムの逆転(Msg4277642777)がストレートに観念パラダイムの逆転に繋がります。

 『迎合無用』とは、言い換えれば『事実(追求)をもって尊しとなす』ということです。すでに顕在化している関係パラダイムの逆転から、観念パラダイムの逆転を実現していくうえで、“迎合無用⇒皆で事実追求”という認識はその掛け橋になると思います。また、場合によっては、『なぜ私たちは迎合してしまうのか』というテーマで、社会構造を相当掘り下げた議論や交流会もできるのではないかと感じます。

土山惣一郎

2013年12月24日 (火)

普遍的な期待に応えてこそ、本物の気遣い

> 明確な課題共認がなく、「みんなで楽しむ」ことを優先する場では、探索思考がはじまると必ず生まれる「沈黙に絶えられない」。結果として、お笑いネタを仕込んだり、話題を変える人が現れる。「みんなで楽しむ」ための気遣い(=場への配慮)が、「探索思考をゆがめる」。< 45546

そういう人は、皆のために気を遣ってくれているだけに、どう扱ってよいものか難しく思っていましたが、彼らには「関係パラダイムの逆転」をテーマに正面から話をすれば良いのだと気づきました。


・(真猿以降)今までは、縄張り闘争=私権闘争故に周りは全て敵であり、特に見知らぬ人に対しては警戒心が働いてしまうこと。

・現実が私権闘争である以上、見知らぬ人と打ち解けるには、当たり障りのない(=現実と関係のない)趣味の話か、芸能やお笑いネタ等の解脱ネタに話題が限られてきたこと。

・しかし、私権圧力が衰弱し私権闘争自体が意味をなさなくなっている現在、その前提条件が大きく変化しており、解脱ネタでは楽しめなくなっていること。

・現在は、社会不全を誰もが感じており、なぜこうなったのか、どうすればよいのか、可能性はどこにあるのか、といった現実の話題が求められており、そういう普遍期待に応える話こそ、誰もが興味を持つ話題であること。

本当にまわりの人達のことを考えている人ならば、この状況認識は不可欠なはずです。

松尾茂実

2013年12月22日 (日)

「立場」感じさせる認識が元凶

>対立から何か生まれたことはあるだろうか?こうした対立の不毛さ(大は国と国の対立から小は新左翼の内ゲバに至るまで)こそ普通の人々を政治=社会統合から遠ざけさせてきた大きな理由のひとつではないだろうか。そして人々はそうした不毛な対立から逃避しつづけてきたが、もはや逃避しているだけではなくてつくりださねばならないところまで来ていることを感じ取っている。

従って政局のごたごたは「誰が敵=社会不全の元凶か」を鮮明化させるいい機会なのかもしれない。<

政局のごたごたに限らず対立構造とはそれぞれの属する集団なり個人の立場を前提にしています。山澤さんのご指摘の通りその対立構造からは「お互いの譲歩や駆け引きの結果」は得られても解決と呼べる答えには程遠いものとなるのは多くの人が理解していると思います。
であるが故、「社会に出た」の認識のもと何者にもとらわれない視点から物事を考え発信していくことが求められているのだと改めて思います。

我々の世代のようにしばらく私権社会の中で生きてきた人間にとってこうした立場での発言は「無責任なもの」と捉えられがちであるが、この意識そのものが「旧観念無用」の地平に立てない元凶だと今更の様に思いました。

自身の(私権的、または所属集団の)立場など超えて考えること、そして、批判するのではなくどうすべきかを考えることがこの会議室を面白くすることにつながるのだと思います。逆に言うと現状の社会事象の分析に何らかの立場からの判断が混入していると感じた場合、そこが問題の元凶であると見ていくと良いのかもしれません。

鈴木龍也

2013年12月20日 (金)

社会空間に求められているのはつながりではなく、新しい「場」をつくること

一般に交流会といえば、求められているのは、人脈をつくる、あるいは私的な繋がりをつくる事であり、そのような「場」としての機能である。しかしこの発想自体が旧い、あるいは本来の社会空間での在り様に矛盾するものであると思う。

なぜならそこで作られる「つながり」は、仕事関係にせよ解脱仲間にせよ、それは一種の私的利害関係である。かつて「人脈」が財産と言われたのも、文字通りそれぞれの私的利益に供するものだったからだろうと思う。しかし単なる「つながり作り」であれば、社会空間を利用して旧い閉鎖関係を作り上げただけに過ぎない。加えてそもそも、そのような旧関係自体が魅力を失いつつある。そして、これが現在のいわゆる交流会の限界なのだと思う。

>これは、おそらく人類の適応不全、つまり、個人や集団や国家という枠を遥かに超えた、種としての『みんな』不全である。そうである以上、人々の意識が、個人や集団を超えた『みんなの期待』に収束してゆくのは必然である。
>とすれば、答えを求めて誰もが集まり語り合う場(認識サロンや認識サイト)を作ってゆくことこそ、皆の期待に応える最も充足できる活動であり、それこそが集団(の成員)や社会の活力を再生してゆく、真の「社会貢献」の道ではないかと考えている。 (44391

新しい人間関係は、新しい場をもって初めて生み出される、と思う。
そして新しい場を作り上げるには、新しい求心核=「時代を読む」「認識を語る」は勿論、参加者の間でそのような新しい場を作るという共認(暗黙でも)が必要となると思う。そして、その意味で場の構成員も私的なつながりを越えて選別されされなければならない。

またその共認によって初めて、単なる私的なつながりが、場作りの「協働者」という「新しい関係」に発展・転換していくのだと思う。

北村浩司

2013年12月18日 (水)

「身近な目標」を超えた、『みんな期待・みんな繋がり』発の共認形成

>社会的な問題意識の高い人々の中には、環境その他のサークルで活動している人も多い。しかし、どのサークルも参加者は少なく、ネットワーク化も進んでいない。従って、それらの活動が大きな運動に盛り上がってゆく感じがしない。何より、それらの活動の集積が社会を変えていくとは思えない。だから、普通の人は参加する気になれない。
>もともとこの社会(市場社会)は、近代思想(恋愛・自由・個人・人権etc)に導かれて成長してきた。その同じ思想に立脚して、体制を転換させることなど出来る訳がない。にも拘らず、(新しい思想を構築しようとはしないで)「運動」を存続させようとすれば、身近で具体的な運動目標を結集軸にするしかなく、(もともとが体制と同じ思想に立脚しているので)身近な運動目標に埋没すればするほど体制に絡め取られて、体制の補完物になってゆく。(9050『共認革命6 チンケな運動(要求運動の終焉)』)

まず「身近な目標」(テーマや目的)ありきで、それに結集する、この人間関係のあり方は、利益という闘争目標を結集軸にしてきた企業も同じであり、私権時代の人間関係のパラダイムです。それでは超集団ネットワークは形成できないのだと思います。しかも、その目標群は私権課題や旧観念に立脚していますから、今や、人々はますますそこから遠ざかります。
超集団ネットワークの構築にまず必要なことは、目標(テーマや目的)ではなく、集団を超えたみんな共認の場をつくることなのではないでしょうか。「誰でもつながりの場」があって初めて、「みんな同じ事を期待している」ことが明らかになる。「相手も同じく自分に依存し、期待しているんだ」と共認しあえた原猿と同じです。原猿⇒真猿は、この解脱共認を母胎にして縄張りの獲得という闘争共認(闘争目標)を形成しました。
それと同様に、人類は、「誰でもつながりの場」での「みんなが同じことを期待している」共認を母胎として、普遍認識の形成という闘争共認(闘争目標)を形成していくのではないでしょうか。

この「身近な目標発の人間関係」から「誰でもつながり発の共認形成」への逆転が、関係パラダイムの逆転の一つなのではないでしょうか。提起されている「認識交流会」や「異世代交流会」は、その実現態なのだと思います。

冨田彰男

2013年12月16日 (月)

免疫を語るなら治癒事例の分析からはじめたい

『なぜ現在の分子生物学に可能性を感じないのか(43096)』では現実の人の意識を対象化して、人々の期待に応えるという営みが無ければ、科学の存在価値は研究者の観念逃避先の確保(縄張り確保)くらいにしかならないのではないのか?という見解について書きました。

今も続いている免疫の議論も、人々のどの様な期待に基づき何を議論していくのか?ということを頭に浮かべながら進めていく必要があると思います。その方向性はいくつかあると思いますが、その一つは、医療とか健康に対する役に立つ認識を、どの様に獲得していくのか?というものだと思います。

それに対して、今注目を集めている免疫の研究者の殆どが分子生物学者であり、生身の人間を対象としていません。この専門分化した研究領域での数々の発見は、その領域内での評価を受けられても、医療に携わる人から見ると、部分的・機械的で現実にはまだまだ使えそうに無いというのが実感でしょう。

また、近代医療に携わる医師でさえ、癌や慢性病に至っては殆どお手上げという状態です。しかし、そこでさじを投げられた人たちの多くは、民間療法にたより、一部は奇跡的と言われるような回復をしています。これを、近代医学側の医師は、論理的にありえないと否定して相手にしていませんでした。

しかし、今の近代医療でお手上げの患者が、回復したという治療法の殆どが、自然治癒力の強化と治療者と患者を含めた治癒に対する可能性の共認という、2側面で成り立っています。また、このような事例は、近代医療の定着した先進国の殆どで、たくさん報告されています。

本当に、免疫の研究で人の役に立ちたいと思うならば、先ずこのような事実を、予断なく収集し、たくさんの税金を投入してなりたっている科学や医療の施設と組織をつかい、そのメカニズムを追求と治療の実践を行っていくべきだと思います。

その専門家でない私たちが、この会議室で議論するに値するのは、上記のような人々の期待を正面から受け止めること。そして、それに沿った予断を排した事実収集と期待軸に沿った再構造化を行うこと。そのうえで、それらの共認を広め、既存の分断し方向を見失った活動の方向修正を実現していくことではないかと思います。

本田真吾

2013年12月14日 (土)

“勉強”は何故必要なの?

「勉強は何故必要なの?」という子供たちの問いかけの本質は、「勉強が出来る事≒学歴は必要なの?」というところにあるんじゃないでしょうか。
だから例えば、その知識そのものがどう現実に使えるかとか、これを解くことで何が得られるのかとか、そんなことを確認したいわけじゃなくって、ただ、「それが何故、(学校での)勉強でなければならないのか」「何故、(学校での)勉強からは逃げちゃいけないのか」が、知りたいんだと思います。

勉強に限らず、必要のないものは、なくすことが出来るし変えることも出来る。今ならそれは、みんなが望んでいること(普遍期待)でもある。
でも、みんなが期待しているのはあくまでも新しい統合軸を形成することなんだから、たまたま自分だけ上手くその課題から逃れてもそれは自己満足程度にしかならないし、ましてそれ(学歴社会という現実)を否定するだけでは他者否定の自我が形成されるだけのような気がする。

私は子供の頃、「それを必要と考えている人がいる(いわゆる、学校の成績や学歴を基準にする現実が残っている)限りは、まあとりあえず必要なんだろう」くらいに漠然と感じてました。
そしてそれが、学歴に変わる統合軸がない限り当然で(40274)、夫々が自分に都合よいものを主張し合うだけじゃなく社会的に共通した統合指標=評価軸が形成できないとそれに代る事はできないという事(43525)なんだと、るいネットで初めて明確に気付くことが出来ました。【統合の論理、実現の論理】

又、「勉強できなくても何かできる人は別に勉強を否定なんてしていないなぁ、否定すること自体に意味はないんだなぁ」とは思っていましたが、これも、勉強が第一義じゃなくなっていること(←事実認識)と、勉強を否定すること(←現実否定)とは全然違う構造なんだと、構造認識を知ってようやくすっきりしました。【観念パラダイムの逆転】

【統合の論理】や【観念パラダイムの逆転】っていくつかの認識の中でも難しい方だと思い込んでいたけど、もしかして子供ほど実感しやすい認識なんじゃないかなと思いました。
だって、子供たちの学歴社会に対する問いかけは、まさに私権統合の衰弱からくる最も本質な問いであり、共認社会で生きてゆく場合、現実逃避・他者否定の自我が致命傷になることも、仲間圧力の中で生きてきた子供たちは身をもって知っているんだから。

西知子

2013年12月12日 (木)

潜在思念は新しい関係を求めている。

>つまり、社会的には、新しい認識が観念パラダイムを逆転してゆくのに先行して、その認識の営業が関係パラダイムの逆転を実現してゆく。
これが、最終解答となる。即ち、『誰でも営業』こそが、関係パラダイムの逆転を実現しつつ、同時に観念パラダイムの逆転を実現してゆく、一貫した唯一の路線であり、間違いなく全ての突破口なのである。(42777)

この認識は、多くのことを気づかせてくれるのと同時に、今までのパラダイム転換の議論を包括した、大きな可能性が感じられます。
以前、パラダイム転換に関する一連の「新しい認識」の投稿がありましたが、私自身、ちょっとすっきりしない部分(たぶん、観念先行、自分の意識の塗り替え先行、のように誤って考えていた・・・)があって、事実を捉えていなかったように思います。

>現代人が、現実を肯定して倒錯観念を否定するのは、当然の成り行きだったのである。(20199)
>もっと簡単に云えば、現実とは自分自身に他ならない。(20355)
>自我私権を否定することにこだわるよりも、その奥にある新しい充足基調⇒本源収束という可能性の実現に、意識の焦点を当てた方が良い。 (21090)
>下部意識を、頭で都合良く変えることなど出来ないが、観念は頭で塗り替えたら終いだからである。(21495)
>このパラダイムの逆転(現実肯定)によって、我々は初めてプラスの活力源を強化してゆける様になる。 (2203)

「現実の直視・肯定視」「現実とは人々の意識=自分自身」「可能性は自分自身の潜在思念=意識にある」「下部意識=本源収束は不変」「観念は塗り替えれば終い」「パラダイムの逆転が活力源」・・・。
これらの認識の中心に位置する、或いは、先行するのは、「人との関係・繋がり」である事、そして、可能性の実現のためには、関係パラダイムの逆転(=認識営業)こそが突破口である事・・・がすっきり繋がり、これらの言葉の意味が実感できました。
また、自分自身の潜在思念(=意識)もここにある、という事に気づかされました。

本当に必要なのは、もっともっと、自分自身の潜在思念に忠実に現実を捉える事なんだ、と改めて感じました。
丸一浩

2013年12月10日 (火)

パラダイム転換の最基底部は、「関係世界」だったのか・・・

> 観念パラダイムは、新しい認識が与えられない限り逆転しようがないが、関係パラダイムは、上記の様に、既に逆転し始めている。 <

「観念パラダイムの転換」は、考えれば考えるほど分からなくなる感覚がありましたが、「関係パラダイムの転換」が提示されて光が差しました。
そう思って過去の投稿を見ていたら、同じ様なことは既に書かれていました。

> 観念が捨象されてゆくのは、貧困や抑圧の消滅によって旧観念が単に輝きを失ったからというだけではない。現実に(特に仲間関係では)、本源充足の可能性が開かれた以上、その可能性の実践的な模索に収束するのが当然で、その代償観念にすぎない感応観念(価値観念や規範観念)はもはや無用となったのである。 < 18571 『前夜の意識状況3 無用となった感応観念(価値観念や規範観念)』

パラダイム転換は「観念」の地平で生じるのではなく、もっと深い観念以前の原猿レベルの共認回路で生じていることなんだ。その地平の関係世界が警戒心や他人捨象である限りは、パラダイム転換など生じ得ないんだ。

関係パラダイムの転換=本源充足の可能性が開かれた、ということをようやく皆さんの投稿で実感できるようになりました。あとは、自らの可能性収束回路に導かれて、『道行く人々を期待視・肯定視』し、『いつでも、どこでも、誰にでも』語りかけていくだけです。

少しでも早く皆さんに追いつくようにします。

松尾茂実

2013年12月 8日 (日)

水を得た魚

あんまり認識と言う言葉を多用しすぎて生徒たちが難関大学志向になってしまい、現場で忙しくなってきてしまいました。いままでの自分のための私権課題突破ではなくて社会に役立ちたいと思ってくれ始めているのは嬉しいんですが、私自身もお勉強に追われるようになってきました(汗)。

それにしても、若いって柔軟でパワフルなものですね。水を得た魚とはこういうことを言うのでしょう。関係パラダイムの転換が即、勉強の必要に繋がるのかどうか、こうして身をもって体験すると、期待し期待されているのだから自分自身も相当な覚悟がいる。でも嫌な覚悟じゃありませんね。マジになってきたと言う感じでしょうか。

認識論で話せる子と、とにかく具体的に質問をぶつけてくる子と両方いるんですが、例えば受験期にある子供たちは、全然見えないところにいる同世代全員をライバルであり仲間だと思っているらしいです。一昔前のように蹴落とそうとか言うのではなくて、みんながレベルアップしていけば良いじゃないという雰囲気です。彼らに胸を貸すなどというのんきな態度ではアッという間にやっつけられてしまいそう・・・。

佐藤英幸

2013年12月 6日 (金)

仕事関係でも、古いしがらみには、みんな飽き飽きしている

今日、仕事の関係で、設計の安全性を審査する委員会がありました。大学の先生や行政マン5名程度が、設計内容について事細かに指摘し、設計者がそれに答えるというものです。難易度が高い物件では、集団対集団の対立構造になるのが常でした。

しかし最近、自分の人に対する意識の変化をハッキリ感じるようになってきました。そして、誰であれその人の意識を正面に捉えることの重要性を感じていたので、相手が発する意見を真正面で捉え、それに応え、こちらの主旨もはっきり伝えて、対立することなく進めました。

委員会が進むにつれ、委員の方の固い表情も和らぎ、見解が分かれる部分についても、本来どうあればよいかという議論で納得のいく結論になりました。最後には、委員の方自らの行政指導に関する不全まで開いていただき、出来る範囲で組み込むようにしました。

まだ、認識営業に直結はしていませんが

>社会的には、新しい認識が観念パラダイムを逆転してゆくのに先行して、その認識の営業が関係パラダイムの逆転を実現してゆく。(42777

現実は仕事の場面でも、すでにこうなのだと思いました。すでに、私権発あるいは「集団」発の古いしがらみに、殆どの人は飽き飽きしていることが解かりました。集団間の対立など望んで無く、本当はそれを超えて、本当はどうあればよいかを話したがっているのだと思いました。

また、認識の営業のスタートは、こちらから古いしがらみ抜けて、新しい人間関係を形成すること、そのものだとも思いました。誰に対してもこのような意識で望めるようになることが、具体的営業成果をあげていく必要条件だと思いました。

本田真吾

2013年12月 4日 (水)

壮年の男たちの関係パラダイムが変わる場

>だれでも、どこでも、声をかけ、話をすることから始まる。

関係パラダイムの逆転の予感は確かに感じます。
大勢の人達が居る場で、あまり違和感なくそのようなことが出来そうな場はいろいろ思いつきました。
フリマやバザーの他にも、祭りや歩行者天国、観光地、暇をもてあましてぶらつくような繁華街・学生街などがそんな場としてあげられるように思います。

そんな場で会話している人の姿をイメージするとどうしても若者や女性たちの姿が思い浮かんでしまいます。
私たちのような年代の男が、昼間から見知らぬ人に声をかける姿というのは何かイメージしにくい感じもしてしまいます。
関係パラダイムが変わり始めている状況の中で、壮年の男たちはその最後尾にいて遅れをとってしまうという感じです。

そこで、そんな男たちが気軽に会話しにくるような場がないものかと考えてみました。
例えば碁会所のような、世間のしがらみから自由な場でしかも暇つぶしに行くようなところで会話ができるところというイメージです。しかし、バーだとか、暇な居酒屋だとかどうしてもそんな場しか思い浮かびません。そもそも、平日は仕事をしていて、休日もぶらぶらと外に出歩くようなことが少ないのが普通のようです。

例えば42573で紹介していたような集まりはヒントになるかもしれないと感じます。いろんな年代の見知らぬ人同士が集まる大学卒業生のサロンだとか県人会の集まりだとかも可能性があるかもしれません。まだ展望が見えて来ていませんが、もう少し考えてみたいと思います。

山田渉

2013年12月 2日 (月)

営業はラクチン。

先日、小学生を対象にした来年度開校予定の自然学校プレイベントに、こどもといっしょに参加してきた。
キャッチフレーズは「しぜんの中で、おもいっきり体験学習」。
数あるプログラムの中で、スタッフではなく保護者として参加した私が希望したのは野外料理プログラム。組み分けされた26人中、大半が高学年の女の子だった。

4年生の女の子3人と同じグループになり、最初はあぶなっかしい包丁使いにヒヤヒヤ。何とか扱い方を伝授して、それぞれの持ち場が決まると、ジャガイモやニンジンの皮をむきながら、自然と会話が弾んだ。どこの小学校?から始まって、こういうところによく遊びに来るの?ヒマないねん。6つもお稽古事してんねん。マジー?お稽古の種類ってそんなにあったっけ?・・・職場の若い女の子たちと話す感覚とほとんど変らない。途中から、5年生チームも加わって、あっという間に仲良しに。この年代の女の子と話をする機会のなかった私にはとても新鮮な出会いであり、世代間交流、認識交換であった。(正直、こういう子たちも、るいネットに参加する手立てはないかと本気で考えたりもした。)

半日ほどいっしょに過ごし、「ばいばーい。気をつけて帰りや。来年もここで会おなぁ。」そのように言って、少女たちと別れ、帰路についた。

帰りの車の中で、私の言動を密かに観察していたらしい小1の娘いわく、
「おかあさん、誰とでもすぐ仲良しになるなぁ」
「そうかぇ?まぁ、あれがおかあさんの仕事みたいなもんやし。おかあさんの仕事(本業=不動産営業、副業=認識営業)ってひとと仲良しになることやねん」
「うそー?おかあさんの仕事って、ラクチンやなぁ~」

・・・本当にそうだと思った。不動産営業にしろ、認識営業にしろ、営業ってまずは相手と仲良くなるところから始める訳だから、こんなラクチンなことはない。こんな楽しい仕事はない。

「営業はタイヘン」とか、「誰でも営業なんてできる訳ないやん」とか「仕事ってそんな甘いもんじゃない」とか。誰が決めたんだ?そんなこと。そういう自分の頭の中だけでつくりあげてしまった、現実にはありもしない妄想・言い訳はあっさり捨ててしまおうと思った。

阿部佳容子

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