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2013年11月

2013年11月30日 (土)

関係パラダイムの逆転2

今や、私権発あるいは「集団」発の古いしがらみに依りかかっていても、得るものは何もない。むしろ、誰もと繋がれる可能性を失い、脱集団の新しい人間関係から取り残されて、追い詰められた「淋しい人間」になってゆくだけである。

従って、私権の衰弱と不全の増大の最終局面では、見知らぬ人への警戒心より、人収束⇒認識収束の引力が上回り、街のあちこちで見知らぬ人同士が声をかけ合い、語り合う風景が現出するだろう。既に、その萌芽は、若者のメル友現象や、年寄りの(声をかけられることへの)期待etcとして至る所で現われ始めている。(4265642686426934272642739

中でも特に注目されるのは、認識営業の課題に目覚め、反応充足を体感した協働仲間たちの意識の変化である。
認識営業の協働仲間たちは、自ずと道行く人々を期待視・肯定視する様になり、そうすると不思議と向こうの方から声をかけて来る様になった(42624)。だがそれは、不思議でも何でもない。これは、まさに人間関係のパラダイムの逆転である。

しかも、観念パラダイムは、新しい認識が与えられない限り逆転しようがないが、関係パラダイムは、上記の様に、既に逆転し始めている。
つまり、社会的には、新しい認識が観念パラダイムを逆転してゆくのに先行して、その認識の営業が関係パラダイムの逆転を実現してゆく。
これが、最終解答となる。即ち、『誰でも交流』こそが、関係パラダイムの逆転を実現しつつ、同時に観念パラダイムの逆転を実現してゆく、一貫した唯一の路線であり、間違いなく全ての突破口なのである。

岡田淳三郎

2013年11月28日 (木)

関係パラダイムの逆転

『誰でも営業』への期待や成功(充足)事例が次々と投稿されている一方で、多くの皆さんが『誰でも戦略』にとまどい、知人戦略から脱却できないでいる様にも見受けられる。
それは、街を行く見知らぬ人々の警戒心を想えば、『いつでも、どこでも、誰にでも』語りかけることがためらわれ、どうしても顔見知り(=既成つながり)に拠りかかってしまうからであろう。確かに、それが私権時代の人間関係の「常識」であるが、その「常識」を塗り替えない限り、「それ(見知らぬ人に対して、ためらい、立ちすくむの)は当り前だ」という所で終ってしまうことになる。

見知らぬ人に対する警戒心は、実は私権時代だけではなく、原始時代、更には真猿時代から刻印されている。そして、真猿時代以降の警戒心は、全て縄張り闘争(≒私権闘争)に基づいている。縄張り闘争≒私権闘争の故に、周りは「全て敵」となり、見知らぬ相手には最大限の警戒心をもって身構える訳である。
それを超越しているのは、もっと奥にある原猿回路だけである。そして、原猿は縄張り闘争を既に諦めているが故に(かつ極限的な不全を孕んでいるが故に)警戒心を突破し得たのだとすれば、既に私権の可能性を見失い、大きな社会不全を孕んだ現代人の心底は、まさに原猿と同じである。
従って、私権圧力が衰弱し、私権の追求が馬鹿らしくなってくると、身構える必要も無くなってゆく。それどころか、社会不全⇒認識収束という普遍期待が強まってくると、周りは「全て敵」から「皆、仲間」に大逆転してゆくことになる。

岡田淳三郎

2013年11月26日 (火)

今、求められているのは「人間関係」のパラダイム転換ではないか?

> 「社会」に出れば、みんな認識欠乏を持った仲間なんだ。
> そう気づかせてもらってから、人に声をかけられることが多くなりました。買い物に行ったスーパーで車椅子のおじさんに。バスを待っている椅子のところで同じバスを待つおじいさんに。
42624

この投稿は、全く新しい現実への転換を示唆していると思う。

全く見知らぬ人に声をかける、かけられる、ということは、これまでは何かありえないこと、難しいことであるかのように考えられていた。

では、その「難しい」、「ありえない」という抵抗感はどこから来ているのかと言えば、自分以外は敵であるという私権時代以来の警戒心(、さらに深い次元における真猿集団以来の集団内、あるいは見知った人間以外には、話しかけたりしない、という暗黙の本源規範)ではないだろうか?

しかし、滅亡の危機を迎えた転換期である現在、古い私権のしがらみ(仕事の上下関係、解脱を基礎とした知人関係)の関係、既に知っている人間関係からは全く新しい可能性は出てこない。

この限界は、実は私権の現実に長くさらされてきた年長者ほど強く感じているはずである。私権の警戒心に閉じこもったまま年をとれば、可能性を持った新しい関係も、さらには古い関係さえもどんどん少なくなり、狭まってくる。
新しい関係を作ることに無頓着であれば、こんな限界はない。
これが、年をとれば男がますますさえなくなることの理由であり、逆に言えば、年をとっても女は元気であることの本質的な理由である

これを突破するための答えは一つしかない。
それは、全く未知の、新しい人間関係を、どんどん作っていくことである。

旧観念が無効になり、イチから新しい認識を作り、広めていくしかないのと同じように、旧関係が無効になった以上、イチから新しい関係を作り、広めていくことしか、もはや可能性はない。
このことは、私生活上も、仕事でも、社会統合の地平でも、同じである。

これは、「観念」のパラダイム転換に続く、「人間関係」のパラダイム転換である。
そして、既にその基盤となる欠乏は万人に潜在している。あとは、転換できるか否か、実践するか否か、しかないというところまできているのではないだろうか?

阪本剛

2013年11月24日 (日)

「社会」が柔軟性を帯びてきた

>つい最近まで、人々にとって社会は否定的なものでした。私権時代には、武力支配社会であれ、市場社会であれ、社会とは私権闘争を統合したものに他ならず、私権闘争の統合体である社会を肯定することはできませんでした。一旦否定した以上、社会を直視して社会を対象化した認識が生まれることはなく、自我私権を正当化した自由・個人といった抽象的な欺瞞観念でもって社会は語られることになりました。そうである以上、人々にとって社会は自分とは縁遠い、抽象的なものでしかありませんでした。

今までは「世の中そんなに甘くない」とか、すごく堅くて突き動かしがたいものとして社会が捉えられていたように思います。かつては自分もそうでした。自分とはすごく遠い、抽象的な存在であったように思います。今はそれが音をたてて崩れている段階であるといえるでしょう。つまり、私権社会の崩壊とともに、ぼんやりとしていた社会が細切れになって身近に感じられてきたように思います。今まで堅くてどうにも動かすことができなかった社会が、非常に柔軟性を帯びてきたということです。人々は無意識にその柔軟性を帯びてきた社会に対して、可能性を感じているのではないでしょうか。

> 人々は新たな収束先=答えを求めて、必然的に探索過程に入ってゆくことになる。というより、既に潜在思念は探索過程に入っている。これが、外向収束⇒認識収束の潜在潮流である。( 40914 )

人々はその可能性に向かって様々な試行錯誤を繰り返している段階です。それは、社会を否定している段階から肯定的にそして現実のものとして見ている段階への移行を示しているのではないかと思います。

匿名希望

2013年11月22日 (金)

ネットに「社会」を感じる

>現存する媒介(新聞、TV等)の中で、万人の感じたことや認識をダイレクトに伝えることのできるものは何かと考えた時、自ずと答えは一つ(ネット)しか浮かびません。

高田さんのおっしゃるように、ネットのあり方、役割に気付き、その場において様々な認識が日々形成、更新されていくのを見るとき、人々はそこに新しい形での「社会」を感じ取るのだと思います。
私たちが社会について考え、語ることに抵抗がなくなってきたのも、今までの、思想と制度からなる現実味のない社会というものとは別の次元で、人々が繋がり、当事者となれる場というものの可能性について、私たちが意識的になってきたことの現われではないでしょうか。
既に私たちにとっての「社会」という概念が、従来のものからは大きく外れたものになっているのに気付かされました。

匿名希望

2013年11月20日 (水)

一見壁のように見えることが、実は可能性だということ

>主対象は、ネットに馴染んでいない普通の人々である。

「ネット利用者も、本の読者も、社会活動家も、悩み系も、一見近いように見える(=観念的にはそう思われる)対象が、ことごとく遠い(=事実としてはor構造的にはそうである)対象」だということと、
「普通の人は、旧観念しかないので観念捨象・答えがないので課題捨象」の状態だということは、言われてみれば誰もが分かる単純な事実だけど、この認識はとても重要だと思います。

例えば、

ネットなんて面倒くさいよね~
本なんて読まないよね~
ややこしいこと興味ないよね~
特に不満なんてないよね~
毎日けっこう楽しいよね~
⇒『だったら』るいネット読んでみて!
⇒『でも』るいネット読んでみて!

こんな風に、上記の構造を分かってれば『だったら』という接続詞が使えるし、旧観念に囚われてると『でも』という接続詞しか使えない。もちろん相手も、『だったら』で繋げられると潜在思念で捉えてくれるし、『でも』で繋げられると観念で考えてしまう。
(言うまでもなく、不全・悩み発⇒『だったら』の場合は、現実否定の意識に陥らせる思考法なので論外。)

当然、潜在思念で捉えた場合と観念で考えた場合で、るいネットの印象は180度違い(可能性収束度が全く異なり)ます。

意識が変わる(パラダイムが転換する)ということは、語る内容や現実が劇的に変わる訳じゃなくって、この「たった一言」が変わるということに尽きる気がします。
そして、現在観念を捨象している普通の人は、まず潜在思念で、そこに現実の新しい捉え方を“感じる”んだと思います。

西知子

2013年11月18日 (月)

景気良くならないですかね~

「景気良くならないですかね~」
5,6年程前までは良く聞かれた言葉であった。仕事上の付き合いのある営業マンや知人などと会うと挨拶のように交わされた言葉である。

今から思うと「ならないですかね~」という言葉は誰かが何とかしてくれるだろうと思っている完全なる傍観者的意識の表れであり、全ての問題が不景気に起因しているという市場第一主義的な意識に取り付かれていた言動である。

現在でも不景気である。いや、むしろ以前より悪化していると言えるであろう。
しかし、今では同じ営業マンに会ってもほとんどそういう言葉は聞かれない。少なくとも第一声では聞かれなくなった。
自分の営業成績や、会社の売り上げを気にするというよりも、社会不全が顕在化してきて、どうしたらいいんだろうという困惑した状態にあるのではないだろうか。

そんな時にるいネットで語られている認識を持ち出すととたんに表情が明るくなり、頷きだす。
以前は「自分の利益or会社の利益」に繋がるんだろうかという意識が邪魔をして「理想論ではそうだけれども、現実は‥‥」とか「しかし、実際に行動しないと‥‥」という感想がすぐ出ていた。

今でも、営業成績や会社の利益は重要なのだろうけれども、それが第一優先にならなくて(少なくとも潜在意識では)、社会不全を解消してくれる認識が第一となっている。

実際に会社を辞めるとか、居ながらにして外に関係を求める集団離脱もあるが、同じように仕事をしながら意識が離脱ベクトルに向かっているのが、発する言葉や表情で読み取れる。

そしてそこから、「認識の必要」を共感し、「勉強の必要」の共認に至るのがもうそこまで来ていると感じられるようになってきた。

坂本日出夫

2013年11月16日 (土)

科学はまだ事実の統合律を持っていない

>人類は観念機能の獲得によって、実在世界と頭の中だけの観念世界との分離の危険性を孕んだということかもしれません。幻想観念や欺瞞観念・倒錯観念など種々の邪な観念が、私権時代を通じて人類を間違った方向に導いてきたのも、「超越統合」が機能的に抱えている分離性、それが災いを起しているともいえます。その意味では、人類の超越統合(観念統合=事実統合)がいまだ完成していないということかもしれません。

(中略)

いくつかの代表事例から一気に答えを直覚(認識)するのが【直観律】。近代科学が否定してきた「直観」。逆にこれこそが古い観念を捨てて新しい答えを紡ぎだすための思考法であり、潜在思念から観念化を進めるための統合律ではないかと思います。<(38792 吉国氏)


なぜ、実在世界と観念世界とが分離してしまったのか。

私権獲得を追求した末の欺瞞観念等はともかくとして、自然現象を見つめていたはずの自然科学も、その分離(乖離)から脱出できていません。結局、既存の「科学的(認識)手法」とは、手順律や因果律といった個々の関係律を満たすものに過ぎず、あらゆる事実を統合するためには、それら「下部の統合律(群)」(38792 吉国氏)を統合する、より上位の統合律が必要となる、ということでしょう。

そして、「『答え』と呼ぶにふさわしい統合レベルに達することができるかどうかも、最初の直観でほぼ見透している」(40050 土山氏)と言えるのは、「直観」が「下部の統合律(群)」を統べている、より上位の統合律(の原型)だからではないでしょうか。

つまり、実在世界と観念世界とを繋げる上位の統合律は、いまだ「直観」としか呼びようがない状態なのだと思います。

「直観」というと、科学的に裏づけの無い不確かなもの、というイメージを免れません。しかし、科学からのそうした蔑視とは結局のところ、「科学は、下部の関係律群を統べる、より上位の統合律をいまだ発見できていない」ということの証でしかありません。

新しい統合律としての「直観」が、現実と観念とを繋げ、その乖離を埋めるものだとすれば、それは今最も必要とされている、認識機能の中核部分だということも分かります。

(現実との乖離を生じさせる)既知の関係律では、今の不全を突破することはできない。だとしたら、事実を対象化し、「ありとあらゆる統合律を意識化する作業」(40059 吉国氏)を続けながら、新しい統合律を探求するしかありません。それが、この科学論・認識論板の最大テーマであり、そのための第一歩が「実現論」なのだ、ということを改めて認識しました。

鈴木隆史

2013年11月14日 (木)

対象が社会化する。

 日ごろ生徒に教えるときでも、お客さんと話すときでも、今まではその人のためにどんなことができるかを第一に考えてきた。でも相手に対する結果はどちらかだった。適応力が向上して私権獲得に成功し社会を傍観する姿勢を身につけさせてしまった。もしくは、旧観念の観念装置の操作技術が向上して個人主義的な成功者つまり孤独な人にさせてしまった。

 両者のルーツは集団の構成員としての適格化であり、適格化の流れのなかで安全で確実な人付き合い、慎重で我慢強い自己研鑽、危機感を煽るだけの問題意識的社会考察、それらの結果当然発生するストレスの代償方法などを、社会の統合軸として話してきてしまっていた。

 しかし、自分自身の認識と行動は、相手に求めるものとは違っていた。小さいときから社会とは何か、人間とは何かばかり考えていたような気がする。それを考えることで現実課題から逃避していたのかもしれない。単純に逃避していたわけではないが、精力的に時間を費やすことによって、少なくとも代償的な行為であったことは自覚しつつやっていたと思う。

 相手に求めるものと自分の認識・行動にズレが生じてしまった理由を考えないできた。ということもできるのかもしれない。簡単に言えば、そのズレは認識伝播の時差ではなく、自らが集団にも社会にも属さずに乖離していたことに拠る。しかもそんな軽率さでことごとく「長」をやってきてしまった。これでは旧観念の長のままである。加えて、聖典や近代思想にも疑惑を持った、唯我独尊とか誇大妄想等と形容すべき非人間である。

 新しい認識を形成するこのるいネットで、私自身が反省の連続であるが、この活動の中で少しずつみんなと協働することを感じなおしている。そして感じなおす(これを「気づき」の一種と考えていますが)ことは180度の価値観の転換というよりは、不明点の鮮明化であることがわかってきた。

 子供、家庭、企業の概念は、生殖、生産、社会統合という新しい観念によって鮮明になってきた。対象が社会化するという感じである。まさにこの感覚は、私自身が乖離する前の初志に限りなく近いが、完全に新しい。

佐藤英幸

2013年11月12日 (火)

旧観念からの脱却を下支えする、新しい認識。

『「集団」に入ったのではなく、本当は社会に出たのだと考えれば、全く別の世界が見えてくる。』これは私にとっても目から鱗が落ちる思いであった。 日々の活力を引き出す充足の場(仲間の期待が集まる場)を現実の帰属集団に求めるのが当然の事であったから、顕在意識としては辿りつき難かった新しい認識である。

 生活から仕事に至るまで我々の帰属する(市場社会の一員をなす)集団は、一人一人が如何に誠実であろうとしてもカタワ(共認充足が片務)な私権集団である。だから現代人はやたら自分を優先させて、邪心の塊となってしまう。そして、離職や離婚を重ねる事が当り前の様になるほど私権の衰弱は進んできたが、カタワな帰属集団に対する人々の違和感がこれから一気に上昇しそうだとする状況認識は良く理解できる。
 
 私達の価値意識(旧観念)も夫々のカタワな集団に帰属しながら身につけてきたものである、従って夫々の私権集団からあたえられた「屁理屈」レベルの中身しか持ち合わせてはいない。
 私権観念が崩壊し始めた今だからこそ、「~全く別の世界が見えてくる」と考えると、一番厄介な旧観念からも自在になれそうに思う。新しい認識形成を下支えする、旧観念からの離脱ステップが見えてくるように思う。

阿部紘

2013年11月10日 (日)

逃避的な離脱から、可能性探索への180度転換

>しかし、「集団」に入ったのではなく、本当は社会に出たのだと考えれば、全く別の世界が見えてくる。本当は社会に出た(=社会の当事者になりたい)のだとすれば、「集団」を超えた人(ヒト)収束⇒認識収束の潮流が、私権の衰弱と同時に生起したのは当然のことだったということになる。 (岡田氏)

なにか、あっそうだったのかと、すごくすっきりした感じがした。

自分自身をふりかえってみても、田舎で育ち、関係のない都会で根なし草のように仕事をし、生活の場を求めてきた。何かを求めていながら、何にも強く収束できず、ふらふらと生きてきた気がする。

それは、私権的な評価軸や私権課題には活力がわかないながらも、頭の中では、それが大事なんだと思い、そこから生み出される“得体の知れない負荷”に悩みながら生きてきたから。

しかし冒頭の岡田氏の言葉のように考えれば、“得体の知れない負荷”とは、自分の中に巣くうふるい私権的価値観と、可能性を求める潜在思念の葛藤だったのだと気がつく。

そう気がつけば、

離婚や未婚の増加、フリーターの急増、学生のキャンパス離れ、引き篭もりの急増、・・・

という現象は、私権的カタワ集団からの逃避的離脱という現象と分かる。

逆に“可能性を求める潜在思念”という認識を持てば、逃避している人たちも、たちまち積極的な可能性探索に転化することができるだろう。

この認識形成サイトは、頭の中に残り続る私権的価値観を確実にひっぺがし、可能性探索へと人々の意識を180度転換することが可能だと思った。

井上宏 

2013年11月 8日 (金)

構造認識が潜在思念を丸ごと顕在化させる

>旧い認識は、結局、自我回路にしか繋がっていなかったのだが、新しい構造認識は共認原回路に直結することで、本物の人と人との繋がりを生むのだと思いました。(丸一さん40042

 旧い認識(価値観念)は、北村さん(39152)その他の方が指摘されている通り、頭の中の+幻想=価値意識や目標意識を観念化したもので、現実否定の自我回路が強く介在していると考えられます。ですから何を-捨象して何を+にするかは人それぞれで、賛成か反対か、しかもその根拠もその人固有の-捨象と+幻想に合致するかどうかという、実にいい加減なことになってしまいます。

 別の側面から見れば、+幻想は内識機能が捉えたものといえますが、これほど奇妙な構造はありません。元々観念機能は、現実課題に応える為に(本能や共認回路を充足させる為に)、現実対象を直視する外識機能が進化して形成されたもの。それが内識機能が捉えた+幻想にその中身が占拠されてしまうとは。これでは何も見えなくなって、外圧に適応できないという決定的な欠陥をもつことになります。

 このことが明快に解明できるのも構造認識があるから。
 分かってしまえば、もう価値観念はどうでもいいものになってしまいます。このどうでもいいという感覚は、潜在思念が収束できないことからくる(役に立たないとの)状況判断で、既に潜在思念は構造認識へと収束する経路(外向収束や当事者欠乏の回路)に切り替わりつつあると思われます。それほど構造認識は、始原人類の精霊以来培われてきた本源的な観念機能の土台をなすものであり、+も-もない健全な外識機能の進化態だと思います。

 構造認識によってまずは現実の状況を正しく把握すること、そして人類の原基構造を習得すること、これらによって潜在思念が丸ごと作動し始めるのだと思います。そうすれば適応欠乏も期待・応望欠乏も、答え欠乏も丸ごと顕在化し、「現実とは人々の意識である(20355)」との構造認識に導かれて、実現回路を形成していくのだと思います。

岡本誠

2013年11月 6日 (水)

価値意識という思考パラダイム

>しかし、適応や自然が大切で有意義なものであるにせよ、「有意義さ」の価値意識を原点にする限りは、現実の圧力とは無縁の、旧観念によって映し出されたスクリーンに過ぎません。
そして一方、すでに生起している「現実の圧力」の方は、その後ろに遮蔽されしまって、はっきり見ることができないままです。

環境問題の閉塞も、農に関わる幻想性の問題も、どちらも「価値意識(観念)」と密接に関わっているように思いました。
(参考)
39966『価値観念による統合構造が必然的に閉塞へ導く』
39951私権時代の共認構造=価値の論理』

自然界への適応を必死で実現してきた人類史から見て、「自然との共生」「環境への配慮」といった観念群は、どれもが傍観者の観念であり、現実に対する実行力を何ら持っていません。そしてそれらは、愛、自由、個人といった近代観念と同様、常に価値観念として提示されて来ます。
農への美化、幻想も、「農的暮らし」や「共同体的人間関係」が、良きもの、本来的なものであるという、価値観念です。

価値観念が、共認非充足の代償として非現実の世界から登場してくる以上、そこに収束するほど現実から離れていってしまいます。そればかりか、現実の圧力を遮断し、生起する当事者欠乏の出口を塞ぎ、思考を閉塞させてゆきます。

私権時代=全てが非当事者だった時代の「価値観念による意識の統合」という構造が、環境や農業という分野においても、私たちを非当事者という立場で思考することを強いています。その思考パラダイムをはっきりと認識し、事実認識の思考パラダイムへと転換してゆく事で、現実の圧力や課題は次第に見えてくるのだと思います。

馬場真一

2013年11月 4日 (月)

今改めて「鎧をはずして素のままで」

昨年の9月から、この認識形成サイトである「るいネット」に参加して1年が経過しました。初めてこのサイトに出遭った時の、衝撃にも近い鮮烈な印象は今でもはっきりと覚えています。年齢、職業、男女も関係なく、しかも全ての人々が実名で投稿し、現代の不全に対しての突破口を見出そうとしている。その真摯な姿に心打たれ、「これは本物だ!」と直観しました。

 そこで何かに突き動かされるように、初めてこの社会統合の会議室に投稿したのが、「鎧をはずして素のままで」(10589)でした。現代を取り巻く閉塞感や不全感を、全ての人々が同じ地平で、意識の最も深い所で本当に求めていることを言葉にして紡ぎだす。・・・・・。このサイトでは全ての人々が「鎧」をはずして、「素」のままで繋がっている。・・・・・この頃は、まだ「実現論」への理解も充分ではなかったのですが、潜在思念では「ここには必ず答えがある」と確信していました。

 その後、四方勢至氏より提示される「観念パラダイムの転換」を読ませて頂き、最初の直観や潜在思念で受け止めていたものが、「構造認識」という新しい認識を得て、一つ一つ解き明かされていき、少しづつゆっくりとですが、明確に認識できるようになっていきました。
 そして、このような思考過程は、

 ●直撃圧力を超えたor社会構造に起因する危機・課題は、構造認識によってしか把めない。肉体危機(飢えetc)や精神破壊は、潜在思念(感応回路)でも把める。しかし、社会構造に起因する危機・課題(観念閉塞や経済破局や環境破壊etc)は、構造認識によってしか把めない。たとえ潜在思念が感取したとしても不鮮明であり、危機・課題を明確化し、解決する為には構造観念が不可欠である。(観念捨象の実践模索では足りない=観念を必要とする地平 18572)

で述べられているように、「潜在思念だけでは不十分で、構造観念が必要」ということを証明しているのだと思います。

旧観念」という「鎧」は私権社会における産物に他ならない。周りは「敵」であり、その「敵」から自分を守るために必要であったもの。そして「旧観念は無用」であることが、「構造認識」によって、観念のレベルでも認識できた今では、「鎧も無用」。

>誰もが答えを求めいている、当事者になりたがっている、そのことの確信が大切なんだと思う。そう実感できれば、人類、皆仲間。相手はどこにでもいる。(39290 松本さん)
の仰るように「素」のままの人間になれば、「人類、皆仲間」と実感できますよね。

 1年前に潜在思念で捉えた「鎧をはずして素のままで」は、今では改めて潜在思念と構造観念で確信を持って言うことができます。

大木康子

2013年11月 2日 (土)

否定視・不可能視が生み出す観念病。

>社会変革を不可能と考えることで、衰えてしまった認識の一つが、圧力感知です
>とりわけ自分に対する期待を感知する機能が近視眼的に衰えたので、身近にいる庇護者の意見しか取り入れられなくなりました(37531、佐藤氏)

 佐藤氏の投稿から、往年の社会派の、成れの果ての姿が浮かぶ。 屁理屈が立つ割にはやたら腰が重く、人をやる気にさせる気質が萎えて、活力を削ぐ言動が相手や場をわきまえず飛び出す(本人には自覚が無いので始末が悪い)。 「周りからの期待に鈍感(横着)で、素直な応望心が湧いてこない」、に至っては病膏肓の観念病である。 
 社会変革を不可能視してきた旧観念の残骸を、未だに心の奥底に隠し温めている限り、全く戦力にならない。 彼等に残されるは、同病相憐れむシガラミに追いつめられて仕舞う退路だけとなる。
 四方氏が解明したように(観念パラダイムの逆転4 実現基盤を摘出できない、現実否定の構造認識)、現実否定意識とは私権時代に固有の旧観念の養土である。倒錯思考の旧観念に今だ拘り続けている限り、決して次代の可能性を読み明かすことが出来ない。
 集団や社会の活力を生み出すべき位置に今だ居座り続けているならば、即刻引き摺り下ろさねばならない。

阿部紘

本源の可能性を顕在化させる「状況認識」の力

「事実観念」や「構造認識」といった「答え」は確かに武器であり、それが広く共認されれば社会不全は必ず突破しうるのだが、その共認形成の過程は「提示すれば終い」というほど簡単ではない。

「事実観念」も「倒錯観念」も同じ観念であり、どちらが正しいかを観念世界だけで議論しても決着がつきにくい。まして、倒錯観念が支配的であり、私権の古い現実が多々残存している現在に置いては、観念論議では劣勢になることさえある。

そもそも「事実か否か」を決定しているものは何なのか。「論理整合性」はそのひとつであり、明らかに矛盾する観念はそれで白黒がつくが、複雑系である社会を考える時にはそれだけでは力が及ばないことが多い。

思うに「事実」とは観念だけの問題ではなく、存在の全て(本能→共認→観念回路を貫いている意識の全て)が認識した対象の事であり、可能性を求めて探索する中で答えとなる「事実」が新たに獲得されるのではないかと。

本能→共認回路が捉えている、未だ言葉にならない「本源の可能性」を顕在化させることによって、はじめて事実観念が豊かな実感を伴って認識されるのであり、その潜在思念を顕在化させる言葉が共認形成のカギを握っている。

「必要か否か」「当事者か傍観者か」といったこの間のキーワードは、「豊かになった現在、そんなものはもう必要ないじゃないか」「自らが生きる場を自ら作る可能性が開けているじゃないか」といった状況認識であり、これらは観念以前の意識に働きかけているようだ。

このサイトの力は、参加者それぞれが感じ取った可能性を言葉にすることによって、その状況認識が読者の潜在思念を健在化させているところにあると思う。

松尾茂実

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