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2013年10月

2013年10月31日 (木)

社会不全とは似て非なる「問題意識」

>今の世の中、現実の“動向”を読むことが“生命線”です。
そこで、70年代以降、世間に注目された流行の言葉を(ここではCMにしぼって)検証してみました。>(37339

“社会不全”と“問題意識”の峻別の必要を感じました。

問題意識は、例えば、“現状はこうだが、本来はこうではないか”というように、領域を限定してある程度方向性や価値軸が見えている状態です。つまり、何らかの価値観念に発する意識です。
それに対して、社会不全は、個人や集団を越えたところの外部世界を把握しようとしても出来ない(従来の価値観念が無効で、答えがない)が故の不全であり、それは答え欠乏に直結していく不全だと思います。

だから、社会不全は、誰でも共有しているし、新しい可能性のありそうな認識に出会えば即座に理解し躊躇無く受け入れ合っていくはずです。
また、社会不全とは、(流行語や諷刺のたぐいや代償観念などの言葉では表現できない)新しい認識にしか反応できない欠乏です。

そうであれば、今抱える不全を古い価値観念で捉え、問題意識として認識しようとすることを破棄する必要があるのではないでしょうか。
つまり、“問題意識”として捉えた時点で、すでに支配観念に絡め取られていると自覚する必要があるのだと思います。

旧観念の全面支配ゆえの全的閉塞から生じている不全」、それが、今私たちが抱えている不全=社会不全であることを理解しなければなりません。つまり、「問題意識」を生み出してきた旧観念こそが、この全面閉塞⇒社会不全を生み出している真犯人なのです。

要は、旧観念や問題意識など捨てて、可能性を感じる新しい構造認識を単純に受け入れていくということ。それによって、本来の当事者としての観念機能を取り戻す土壌が出来るのだと思います。
麻丘東出

2013年10月29日 (火)

私権闘争を止揚する新しい認識

>人類がぶつかっているのは、掠奪闘争や私権闘争を超えた新たな社会統合の仕組みをどう作り出すのかという未明課題である。同時に人類は改めて、6千年前には出来なかった、掠奪闘争や私権闘争をどう止揚・統合するのかという課題を、突きつけられているのだと云えよう(30281

私権欠乏⇒私権闘争が生存圧力を克服する最先端の欠乏と闘争であり、そうである以上、社会は力の序列共認と身分制度の共認によって統合されるしかありませんでした。が、これまでの社会変革運動は、私権欠乏⇒私権闘争という現実を捨象していたから、革命=既存体制(私権欠乏⇒私権闘争を統合した体制)の打倒というスローガンになりました。ところが、現実の欠乏を否定した以上、そのような運動が実現するわけがありません。仮に旧体制を打倒できたとしても、人々の欠乏が私権欠乏のままならば、新体制は同じ力の序列共認によって統合されるしかないのです(帝政ロシアを打倒した旧ソ連も同じく武力支配体制となったように)。

私権闘争を止揚・統合する道は、力で制圧するか、私権欠乏を凌駕する新たな欠乏=認識欠乏が生起し、その最先端の認識欠乏⇒認識闘争によって私権欠乏⇒私権闘争を止揚・統合するしかありません。古い欠乏の統合体は、新しい欠乏の統合体が生まれて初めて、その座を譲り渡すのです。

生存圧力から同類圧力に転換し、認識欠乏が最先端の欠乏になる、あるいは同類闘争の在り様が私権闘争から認識闘争に変わるという現実の可能性を私たちは発見しました。私たちのやるべきことは、認識欠乏⇒認識闘争を顕在化させること、それを統合する場を作り上げることです。

新しい認識欠乏⇒認識闘争は、古い私権欠乏⇒私権闘争では何事もうまくいかないという現実に迫られて初めて生起します。それに応え得る認識は、古い現実世界で生きる必要に迫られながら醸成されるはずです。新しい認識「実現論」が古い現実である市場圧力に晒された生産体から生み出されてきたということが、何よりの証なのだと思います。(実現論9_1_02
冨田彰男

私権闘争を止揚する新しい認識

>人類がぶつかっているのは、掠奪闘争や私権闘争を超えた新たな社会統合の仕組みをどう作り出すのかという未明課題である。同時に人類は改めて、6千年前には出来なかった、掠奪闘争や私権闘争をどう止揚・統合するのかという課題を、突きつけられているのだと云えよう(30281

私権欠乏⇒私権闘争が生存圧力を克服する最先端の欠乏と闘争であり、そうである以上、社会は力の序列共認と身分制度の共認によって統合されるしかありませんでした。が、これまでの社会変革運動は、私権欠乏⇒私権闘争という現実を捨象していたから、革命=既存体制(私権欠乏⇒私権闘争を統合した体制)の打倒というスローガンになりました。ところが、現実の欠乏を否定した以上、そのような運動が実現するわけがありません。仮に旧体制を打倒できたとしても、人々の欠乏が私権欠乏のままならば、新体制は同じ力の序列共認によって統合されるしかないのです(帝政ロシアを打倒した旧ソ連も同じく武力支配体制となったように)。

私権闘争を止揚・統合する道は、力で制圧するか、私権欠乏を凌駕する新たな欠乏=認識欠乏が生起し、その最先端の認識欠乏⇒認識闘争によって私権欠乏⇒私権闘争を止揚・統合するしかありません。古い欠乏の統合体は、新しい欠乏の統合体が生まれて初めて、その座を譲り渡すのです。

生存圧力から同類圧力に転換し、認識欠乏が最先端の欠乏になる、あるいは同類闘争の在り様が私権闘争から認識闘争に変わるという現実の可能性を私たちは発見しました。私たちのやるべきことは、認識欠乏⇒認識闘争を顕在化させること、それを統合する場を作り上げることです。

新しい認識欠乏⇒認識闘争は、古い私権欠乏⇒私権闘争では何事もうまくいかないという現実に迫られて初めて生起します。それに応え得る認識は、古い現実世界で生きる必要に迫られながら醸成されるはずです。新しい認識「実現論」が古い現実である市場圧力に晒された生産体から生み出されてきたということが、何よりの証なのだと思います。(実現論9_1_02

冨田彰男

2013年10月27日 (日)

現実否定の「唯物論」と現実肯定の「実現論」

>実現論はもちろんのこと、この統合版においても、決して唯物主義に凝り固まっているとは感じません。しかし、それぞれに論考の論拠や論法が唯物論的であり、まるで、唯物論が正しいとの共認が前提になっているかのようです。

史的唯物論が正しいとの前提に立ってはいませんが、なんであれ実現しようと思えば構造認識が必要になることも事実です。史的唯物論もまた構造解明を目ざしたという点が、実現論の論法との近似性を感じさせるのかもしれません。

しかし、史的唯物論もまた、貧困と抑圧の現実に対する強い否定意識によって社会を対象化し、示された「社会構造」は極めて一面的な構造認識でしかなかったと思います。なによりも、現実から目を背けた認識では現実を変革することはできません。それどころか、現在の閉塞をより一層深めるだけでしかありません。

また、市場社会は人々に自我と性の現実の可能性を開きます。しかし、深く自我と性に拘って人々の意識を対象化し、示された「意識構造」もまた偏った認識でしかありません。そして、「個人主義」も「自由主義」も、何の可能性も示せないどころか、もはや人々から見向きもされなくなっているのではないでしょうか。(参考msg18717「構造認識の現況」)

私権時代を通じて、古代宗教も近代思想も「現実否定」という異常な思考パラダイムの上に成立しています。唯物論も例外ではありません。このパラダイムの内部でいかに思考しようとも、そのパラダイムそのものを越え出ることは出来ません。(参考msg20354「パラダイムの逆転」)

>唯物論を推し進めれば、「自分が死んだ後のことは知らん」、「死ねば主観的には何もなくなるのだから、生きてる間に楽しむだけ楽しめば良い。」、「よって、他人のことは自分の楽しみの障害にならない限りどうでも良い」等の享楽主義・刹那主義に至ります。

’90年以降、学者やマスコミが垂れ流す既成観念の無力さに対する不信感は人々に蔓延しているのではないでしょうか。そして、'00年、私的な「豊かさ追求」という目標も溶解し始め、私的な充足から「みんな充足」へと人々はその目標を転換し始めています。

確かに、仰るとおり、既成観念が社会を閉塞させ、旧パラダイムから脱却できなければ人類は滅亡するでしょう。しかし、もはや古い現実は衰退する一方であり、人々の「認識収束」や、必要か否かという「判断の土俵」という新しい現実こそが、次代を作っていく基盤となっていくはずです。(参照「超国家・超市場論」)

そのために、既成観念の全的否定にやぶさかではありませんが。

石野潤

2013年10月25日 (金)

用と不用

『われわれの生活の周辺はちょうど悪政、悪女に従い慣らされるように擬似の感動、欲望の妄執にかりたてられ、無拘束なトキシケイションの中で、生を支える「用」と「不用」の見分けさえ誤るような虚構でうまっているではないか。』昭和31年のエッセイ「めし」の中で建築家、白井晟一はこう語っています。

私権の強制圧力がつくりだした当時の人々の共認内容は「必要か、必要でないか」を考える以前に、現実の前には明らかに必要としてあったのでしょう。またかのような現実の中に身を置く白井晟一が現実を問題視つつも、自らの哲学の中に可能性を見出そうとしたことは不全発の動機であったのかもしれません。

しかし、もはや「私権の圧力」が無力化した現在、少なくとも彼の時代に存在した「豊かさ」という指標がこれから私たちの前に立ちはだかることはないでしょう。擬似の感動や欲望への妄執ではなく、私たちが真の必要を見極めることが可能となった時代がこの21世紀だと思います。「必要を問う」、これこそが自体が私たちにとって開かれた「可能性発の可能性」そのものであるにちがいありません。

>『必要か、必要でないか』という認識は、決定的な一つの答えとなる。四方勢至さん 超国家・超市場論23(33821)


※白井晟一・20世紀の建築家 1905年(明治38年)生まれ・1983年(昭和57年)没 ・建築家でありながら孤高の哲学者と称され、その作品は非常に難解であると言われる。しかし、今尚その彼の作品や姿勢に対するその評価は精彩を失っておらず白井神話と呼ばれる。
笠原光

2013年10月23日 (水)

あるべき「進化論」

「進化論」とは、私は次のように考えます。

「進化論」は現実社会の閉塞問題や困難課題に答える、あるいは突破の指針を示すものでなければならない。

そういえるのは、「進化」(「進歩」も含めて)とは、過去から現在そして未来まで積層されていく生命活動そのものであり、過去の事実の一部だけを取り出して、現在の事象を説明できないという「進化論」は欠陥品といわざるを得ない。

つまり、「進化論」は「構造論」でなければならない。

構造認識を持つためには、あらゆる現象事実に適応する普遍性を持たねばならない。だから、その追求の本質は「進化法則」の解明にある。

>旧来の進化論のように先端機能から進化を捉えるのでなく、新しい認識群により進化の根源から捉え直すことで、今までの科学的事実に反することなく、新たな進化論を見出せるのではないかと思います。<(33317

「進化論」(構造論)を明らかにするためには、事実や既定の事実認識を集めて探索して統合していくが、その探索過程・統合過程における方法意識(認識)は旧パラダイムの認識群の影響を受けるだろうし、既定と思われる事実(それは旧観念によって導かれた危険性もある)の見直しも必要だろう。その意味では、新しい認識群により探索し直すという点に賛同する。ただし、旧来の進化論が先端機能(?)から進化を捕らえたという指摘よりも、正確には支配観念で染まった事実を事実として捉えない、旧パラダイム上の観念に基づいた探索や偏った統合であるという方が私にはわかりやすい。

つまり、「個人」を原点とする個人主義を絶対とする捉え方や、「一夫一婦制」を正常とする見方(固定観念)などを元にして、現実の生命原理を見極めることをせず、偏った追求から理論を組み立てたことに統合理論がなかなか成立しなかった理由があるように思う。そして、現在この旧観念からは説明できない構造理論である「進化論」が、説明がつかないゆえに教育現場からついに消えようとしているのは、本末転倒だろう。

ところで、斎藤さんが、新しい認識で「適応拡散」について考えられているが、その内容の検討の前に、「進化論」として考えた時に私は少し注意が必要と思った。

>・環境(外圧)に適応すべく新しい最先端の可能性へと収束する
・闘争(能力)適応から発展した集団(統合)適応という適応様式 <(33317)

この認識は、進化論で追求すべき「進化法則」そのものではないだろうか。

確かに、「実現論」という構造論がまた認識装置を示しているように、「可能性収束論」「集団統合論」がまた進化の認識装置であリうるという関係なのだろう。ただ、新しい「進化論」を構築しようというときに、「もう他に進化法則を取り出せないのか」、という視点はもっておかないとならないだろう。(もっとも、新しい構造をなかなか見出せずに歯がゆい思いをしているのだが…)
吉国幹雄

2013年10月21日 (月)

自分たちの生きる場を、自分たちで創るという意志が、鍵になる

>今まで倒錯観念を独占的に製造しその上にあぐらをかいてきた統合階級を、根こそぎ“要らない”と否定仕切ることで、倒錯観念からの脱却が完成する。(33054番)

自分たちの生きる場は、自分たちで創るという強い意志→目的が、最も鍵になると考えます。そこから認識形成が必要となり、統合理論は、そのときに威力を発揮するはずです。

現代に生きる人々は、自分の生きる場を、国や企業に依存しながらも、近代観念の故に、そのことを明確に意識していない。心の片隅で“それは自分の権利だから当然”とか“自分が悪いんじゃない”・・・と社会的に共認された既成観念で自己正当化しながら生きている。

そのような倒錯した意識が、事実認識を誤らせ、真っ当な認識形成を妨げている。

例えば、市場社会に生きる人々は、市場が国家に寄生している以上、常に国家に依存・寄生して生きている。それは、市場の頂点にあった銀行から、末端の商店や主婦、要求主義の左翼までそうだ。なにかある毎に国家に要求してきた事と、結果の膨大な財政赤字が何よりの証だ。

しかし当事者たちは、それがごく当然のように考えており、権利の行使としか考えてこなかった。

しかし今や、自己のゆがんだ意識を、近代観念で自己正当化しながらも、実はちょっとおかしいと感じているはずだ。もはや自己正当化では元気がでないと潜在思念が感じとっているはずだ。(そう感じられない人は、意識が私権統合から抜けきれない人だ。)

そんなときは、自分の生きる場を自分たちで創りたいという、その気持ちから確認していく必要があると思う。そうすれば、そのためにはどうすればいいか?・・・と考えるようになり、個人を正当化するばかりで役に立たない、既成観念の倒錯性に気が付き、その異常さがみえてくる。

自分はあくまで、なにも考えずに既成観念によりかかり、寄生して生きていきたいというのであれば、活力を失って滅びていくだけだろう。

井上宏

2013年10月19日 (土)

明確なる決別から自分達の認識形成へ

この間、何段階かに渡って“認識パラダイムの逆転”が提起されてきた。その度に、場の活力が上昇し、皆さんの投稿に勢いやパワーが出てきたのを実感します。そして私の中にもパワーが注入されていくのを感じます。

・現実捨象の倒錯観念から、観念捨象の現実直視へ(20199
・現実とは、人々の意識である(20355
・解脱仲間から認識仲間への逆転(25433
 そして最近の
・もう、傍観者=インテリ統合階級は、要らない(32569
・認識形成は遊びではない、生産活動である(32570

 これら認識パラダイムの逆転は、『既成観念の全的否定(18719)』に、「何となく捨象しているだけでは、無意識の内に既に染脳された既成観念に支配され続けることになる。従って、既成観念から脱却する為には、明確に否定し切ることが、決定的に重要になる。」とあるように、明確なる“決別”度合いにかかっている。

 今まで倒錯観念を独占的に製造しその上にあぐらをかいてきた統合階級を、根こそぎ“要らない”と否定仕切ることで、倒錯観念からの脱却が完成する。何となく彼らを否定しているだけでは、彼らの答えにならない認識に付き合わされ、それだけ“パラダイム転換”の切れが鈍ります。

 そして、彼らを“要らない”と否定仕切ることで、自分達の認識形成に全力投入できます。もはや権威ある学説や常識を気にしたり、がんじがらめの制度や前例を前提にしたりする必要もなく、自分達の現実を切り開くことに全力で向かえます。もはや遊びとしてしか消費できなかった認識形成ではなく、現実を切り開くための人類本来の認識形成へと脱皮できます。
 認識パラダイムが逆転し新しい現実の可能性へ一歩踏み出した勢いは、参加者相互に伝播し合い、大きな協働エネルギーに成長する予感がします。

岡本誠

2013年10月17日 (木)

「疑ってかかる」より「見極める」

昔、観念を操る人はカッコよく見えた。むずかしげなコトバをつらつらと紡いで、現実の現象をズバッとナナメから切って見せる。そんな人にあこがれた。
この時期に、「何事も先ず疑ってかかる」ことを、「カッコよくて知的なこと」「認識のための技術」として身に付けようとしたことがある。この思考訓練は、主に高校から大学にかけてなされ、まぁ私の中では、レポート書くのは割と得意になったという、それなりの成果を挙げたように思う。

でも、この「疑ってかかる」というスタンスは、観念上のことだけだった。
現実に生活する中で、人の言葉を「疑ってかかる」ことはなかったし、いいなと思える提案は、「疑ってかかる」ことをせずに、まずやってみようとしていたように思う。

今から考えれば、これこそ「意識と存在の断絶」だなぁと思う。
「観念」に対しては「観念」で「疑ってかかる」ことを認識スタンスとしているのに、現実に生きる私は潜在思念に素直に反応し、「現実否定の倒錯観念」を使うことはなかったのだ。
まぁ、よくこれだけ断絶していて生きてこれたものだと、今の私は思う。そう思えるのも、るいネットの認識のおかげだけど。

>かつての知識人のスタンスを真似た、人々の一億層評論家化。そして現在なお数多く見られる「何事も先ず疑ってかかる」認識スタンス。かつて善とされたこれらの高見に立った姿勢=傍観者的姿勢も、現実の変化とともに、その欺瞞性自身に断が下されるのだろう。(32528 北村浩司さん)

そう、現実は変化した。かつて善とされた傍観者的姿勢が、カッコ悪いこと(欺瞞的)だと気付けるくらいに。いままでも、当事者として現実に生きる人々は、そんな「疑ってかかる認識スタンス」なんて、使ってなかったのだと気付けるくらいに。

今カッコいい認識スタンスは、「見極める」ことじゃないかと思う。
その認識(コトバ)が、現実を否定しているのか、直視しているのか。現実に壁を突破するのに、使えるのか使えないのか。疑ってかからなくてもわかる。現実に存在している私たちの潜在思念からの声に耳をすませて、素直に判断すればいい。
それは、「疑ってかかる」思考訓練よりも、はるかに簡単なはずだと私は思う。

藤岡聖子

2013年10月15日 (火)

現実観念は頭を使う、だからこそ実現する力をもつ

>「社会派」からは、よく『るいネット』は難しいという声を耳にする

では「わかりやすい」言葉とは何なのでしょうか? よく使われる「自由」も「愛」も「平等」も明治時代に輸入された欧米の観念にインテリが和訳をつけたものです。人々が現実の必要に迫られてつくったわけではなく、現実を対象化した観念ではありません。当時の庶民には理解不能だったに違いありません。現在の私たちはこれら倒錯観念をわかったようなつもりになっていますが、意味を本当に理解している人はほとんどいません。それを使わなければ(それによって市場の現実を捨象しなければ)生きていけなかったから使っていたにすぎないのだと思います。そういう意味では強制観念と呼ぶのがふさわしい。確かに、「自由」や「愛」という強制観念を持ち出されると誰も反論できない、錦の御旗のような便利な観念でした。何より、現実を捨象する観念だから現実を対象化するために頭を使わなくても済みます。そういう意味では「わかりやすい」かもしれませんが、それは強制された倒錯観念だからではないでしょうか。

それに対して、このサイトで使われている観念は、強制された倒錯観念ではありません。初めて人々が自ら創り出した観念、現実を生きるために創り出した観念です。現実そのものだとも言えます。現実を対象化するのに頭を使うのは当たり前です(当たり前だと思えば苦にはならない)。だからこそ、可能性の実現基盤を摘出することができ、その観念は実現する力を持つのだと思います。始原人類の精霊信仰の流れをくむ言霊信仰(=言葉は実現する力をもつ)は、近代には迷信の如く扱われていました。確かに近代の倒錯観念は実現する力を持ちませんが、現実を対象化する観念は頭を使うからこそ現実を変える力を持つのです。

「実践=認識形成サイトに参加すること」とは、こういう意味も含意していると思います。実現する観念機能の復活、それが認識形成サイトの一つの魅力ではないでしょうか。
冨田彰男

2013年10月13日 (日)

高見に立つ、その姿勢に断が下される。

昔「高踏主義」を標榜する知識人の一群がいた。巷=俗世の欲望の渦巻きから身を引いて観念的探索(感応観念を紡ぐ)に埋没する人々である。
しかしそれは彼らのみならず、知識人一般に広く見られ、かつそれが知識人のあり方として正しい、とされていた。
そして一昔前から現在にかけて、新聞の売り物は中立・不偏不党であった(実際にそうであったかはここでは問わない)。社会に対する監視人=チェックマンとしての自己規定=基本姿勢である。
それらによって、社会に対して観察者=傍観者であることがいわば正当化されていた。それどころか、それが一歩高みに身を置いた高尚な姿勢であるかのようにもてはやされていた時代であった。

しかし、この間の四方氏の投稿を初めとするこの掲示板の流れは、それらの姿勢が根本的誤りであり、過去の遺物でしかないものであることを明らかにしつつある。

傍観者であることが一定の正統性を持っていたかのように思われたのは、現実とは私権闘争の場であり、およそ社会を考えるものや、公的な立場に携わるものは、その私権闘争や私権対立から一歩外に身を置くという仮装が必要であったからであろう。(ただし現実には、傍観者はせいぜい現状を追認することしか出来ない。)
しかし現在、私権闘争は衰弱し、現実は既に同類圧力にその姿を変えつつある。しかもその圧力源=活力源は「あくまでも人々の期待に対する応望が主目的であって、闘争が主目的なのではない。」(四方氏 31505
>しかも、主体=対象である以上、人々の意識とは、自分の意識に他ならない。つまり、自分自身の意識が、『現実』=同類圧力を形成していることになる。もっと簡単に云えば、現実とは自分自身に他ならない。(20355

これらのことは次のことを意味する。即ち人々の意識の坩堝の中に身を置き、自ら生きる場を形成していく現実的な基盤が既に生まれているということ。そしてその中で傍観者とは、旧いスタンスで頭を染め上げられたまま人々の期待を遮断した人であり、つまりは現実からは無用・無縁の人であることを。

かつての知識人のスタンスを真似た、人々の一億総評論家化。そして現在なお数多く見られる「何事も先ず疑ってかかる」認識スタンス。かつて善とされたこれらの高見に立った姿勢=傍観者的姿勢も、現実の変化とともに、その欺瞞性自身に断が下されるのだろう。

北村浩司

2013年10月11日 (金)

「実践」という欺瞞観念

>「自由」や「人権」以外にもまだまだ欺瞞観念が蔓延っていますね。

(閉塞感の原因である固定観念を塗り替えるべく)事実を捉える構造認識や新しい捉え方をみんなで紡いでいく事と、(行き詰まった国家や市場に変わる統合機関を作るべく)その認識や場を広めてゆく事こそが最大の課題で、みんな、これこそ最も重要で豊かな実践だ!という思いでここに参加しています。

それは共認できてるはずなのに、なんでそれでも「行動」とか「実践」とかっていう反論が出てくるんだろうってずっと疑問だったんですが、それって、「観念と実践」という風に分断してしまっているから陥る矛盾なんじゃないかと思ったんです。

「実践」という言葉は、観念にたいする「反」の意味でしか使われません。とすれば、「実践」という言葉自体が倒錯観念に対応して生み出された欺瞞観念だったんじゃないでしょうか。(だから逆に、観念支配が弱い人からはそういった批判は出てこない。すんなり、「認識形成サイトの構築に参加=実践」で納得。)

何故なら、普通の人にとっては、「観念」は「現実」を捉えるためのものですし、認識形成(の場)に参加している場合に気をつけるのも、「実践と繋がっているかどうか」ではなくて「現実とズレはないかどうか」だからです。

西知子

2013年10月 9日 (水)

認識闘争における敵は既に明らか

四方勢至さんが(31505)で触れられたように、新パラダイムにおいては同類圧力を活力源とした創造競争の時代となる点には大きく賛同する。

>つまり、共認社会の同類闘争は、人類的課題に応える創造競争=共認闘争となる。(政治であれ哲学であれ科学であれ芸術であれ、提起された認識は共認の獲得を目的としており、最終的には社会共認となることを目指しているので、創造競争は本質的には共認闘争である。) <(実現論4_2_07)

その創造競争の相手は、長谷さんの言う「協働仲間」(31617)と大きく捉えられるかもしれないが、(その実現が超市場であり、超国家の成立なのだろうが) 、その前に、私は田野さんが(31627)で触れられたように、パラダイム転換最終局面における激しい認識闘争があり、これを突破しなければならないと思う。

皆が集う認識サイトの前提となる認識は、「現実否定の全的否定」であり、これこそが観念のパラダイム転換であった。それはこの閉塞状況を作り出した現実否定の支配観念こそが、新しい可能性(つまり答え)を生み出すパラダイム転換を妨げているからであり、その共認を形成しているのがマスコミであり、学者という統合階級である。

その意味では、まさにパラダイム論から超市場論・超国家論と次々と新しい認識がこの「るいネット」で紡ぎだされているように、認識闘争は既に始まっているというのが正しい状況判断ではないだろうか。「旧マスメディアのテレビや新聞」対「インターネットやメールという新メディア」というメディア論争を超えた地平で、対面あるいはパソコン上で、とにかく「人の集まる場」に、新しい認識が伝播し始めているというのが現実ではないだろうか。


そして、敵がマスコミであったとしても、学者であったとしても、戦いとは既に認識闘争そのものであり、勝敗は認識の中身であり、どちらが現在の閉塞状況を突破する可能性のある答えを生み出せるかであり、それは結局はどちらがどれだけ強くに活力を生み出せるかということだろう。それゆえに、協働仲間が必要である、と私は思う。
吉国幹雄

2013年10月 7日 (月)

論理とは壁を突破するためにある。

>なぜなら、論理とは何かを説明するための道具であってそれ自体に意味はないものだと私は考えているからです。つまり自分が思ったこと、考えたことを誰かに伝えるために論理が必要になるということです。ですから、その伝えたいことがどんなものであろうとも論理的に説明しようと思えば、その能力のある人ならば可能なのです。<

 論理という物を、一面的にしか捉えられていないようですね。
「論理とは説明するためにある」などと言えるのは、壁を突破するために、本当に物を考えたことがないからではないでしょうか。
 実現論を良く読めば判ると思いますが、これは説明するための論理ではなく、現実の壁を突破するために、現実を追求する論理です。

>いくら論理的に説明されても、自分の直感(理性からくるものだと思う)を信じて生きて欲しい。それは思考停止ではなく、論理のはじまりであると思います。 <

 「直感が論理の始まりである」ということはその通りだと思います。
 そのためには、自分の直感が論理と対立したとき、間違っているのは、論理なのか、自分の思いなのか。謙虚に追求する必要があります。
 自分の直感の方が間違っている可能性を認めるなら、周りの人たちの意見を聞きながら論理的に構造的に考え抜くしか有りません。そして間違いに気付けば自分の思いを改める必要があります。
 それをねばり強く行うことが出来なければ、直感は単なる独りよがりに終わってしまうのではないでしょうか。
玉川泰行

2013年10月 5日 (土)

自分にとって都合の良い観念を「理性」という言葉で正当化していないだろうか?

はじめまして、加藤さん。

論理と理性に関するご意見に少々違和感を覚えましたので投稿します。

>確かに、何かを研究する上で論理的に考えることは 重要なことである。しかし、こと現実社会にのことになると、論理的=正しいとは言い切れないところがあると思う。
>去年起きた同時多発テロも、起こした側にはそれなりの「論理」があったと思う。そして、テロリストを武力で抑え込もうとしたアメリカにも「論理」があったと思う。
>しかし、テロも武力制裁も理性で考えれば「非」に決まっている。<

 我々が生きている現実社会をとらえるときにこそ、論理的であることが不可欠です。
 そして、ここで言う論理的とは、現状知りうるあらゆる事象に照らして論理矛盾なく説明できる認識を「事実」とし、事実認識に基づいた見方、判断こそ論理的と言えると思います。当然、その認識は、社会構造、歴史構造を捉えた包括的なものです。

 そうした視点で考えると、テロの事例で挙げられている「論理」とは、上記の事実からズレタ観念、自我に基づく主張に過ぎないことになります。
 この例では、私権のパラダイムの中での覇権争いという構造であり、その構造そのものがゆがんでいるのであり、強いて言えば、本源的視点から見たその構造が「非」です。

 したがって、自分にとって都合の良い、あるいは、局部的視点で、事実から乖離した認識を「理性」といういかにも耳障りの良い言葉で正当化するのは、倒錯観念であり、思考停止とも言えます。

 実際、>理性で考えれば「非」に決まっている。<と仰る内容をよくよく考えてみて下さい、追求していくと、事実に基づく根拠などなく、そう考える方が都合がよい、そう考えたいということであることに気付くのではないでしょうか。

長谷暢二

2013年10月 3日 (木)

「お金」の否定視は私権時代の「現実への否定視」に由来するのでは?

「お金」に対するある種の否定視は、私権時代特有の「現実への否定視」に由来するのではないだろうか?

 私権秩序が絶対であった時代にとって、その秩序のヒエラルキーを計る「お金」は、憎むべき現実の象徴として人々の目に映ったかもしれない。
 あるいは、強制的な権力の象徴として、毛嫌いされたきたのも、事実である。

 しかし、社会を変革する可能性が開かれた現在、あるいは物的豊かさが達成された現在において、「お金」という価値の指標を絶対的な権力と見なし続けることは、政治家の言動を見ても滑稽に等しい。
 むしろ逆に、社会体制の構造、参加制度、価値形成に対する認識如何によって、そのような「否定視」は克服され得るのではないだろうか?

 つまり、これまで無意識に「否定」していた「現実」に対する我々自身のスタンスが、結局は問われている、ということではないか。

阪本剛

2013年10月 1日 (火)

ネット画面は変化する現実そのもの

>本はその人の世界に入り込むけど、ネットは読みながら言葉が浮かぶ。

 昔から本が大好きだった。西さんが言われるとおり本は「世界に入り込む」もので、本当は「私は現実を捨象して本の世界に逃げ込むのが好きだった」と言うべきなのだろう。

 でも最近、他の方の投稿にもちらほら見かける意見だけれど、本のなかの非現実の世界が急速に力を無くしつつある。読んでても以前より夢中になれない。「仕事」や「仲間関係」などの現実課題が常に頭の中に意識として残っている。なぜだろう。

 それは紙面、特に本という形態が、ひとつの犯されざる「完成形」としてあるからではないだろうか。紙に文字が閉じ込められ、それがきちんと整列して在る。だからそこに逃げ込むこともできるし、その中で遊ぶこともできるけど、それは閉じられていて、動かない、動きようがない。

 逆にネットはその流動性が信条みたいなもの。特にるいネットでは刻一刻と認識が積み重ねられ、改められている。それは私たちが取り囲まれている現実そのものの縮図みたいだ。ネット(=現実)に合わせて自分が変化するのが面白いし、ネット(=現実)を変化させるのも面白い。 

お百姓さん

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