« 2013年8月 | トップページ | 2013年10月 »

2013年9月

2013年9月29日 (日)

飛び交う思念の猥雑さから刺激を受けて頭が働く

確かに、静かな書斎みたいなところに篭もって理路整然とした書物を読んでもあまり頭が働きません。ついウトウトと眠ってしまったりします。一方、サイトだといろんな意見や思念が飛び交います。たまに論点の飛躍とかがあったりして、理路整然とした書物と比べるとゴチャゴチャと猥雑な感じです。ところが、私たちの頭はその猥雑さからいろんな刺激を受けて、新しいアイデアも浮かぶようです。

書斎に篭もって書物を読んだり思索にふけったりするのが追求だというのは今やウソだと思います。私権時代に現実否定の観念を作り出すために、現実から隔離された空間で思索を重ねる必要があったのでしょう。そうでないと現実に引き戻されて、現実否定の観念体系は作り出せなかったのだと思います。しかし、当時の追求の原動力であった私権不全はなくなりましたから、今や書斎で書物を読んでも頭は働かないのです。

それに対して、現実を対象化した観念の場合は、現実の猥雑さ(飛び交う思念と交信)から刺激を受ける(エネルギーをもらう)ことで追求が進む、これも認識形成サイトの面白さの一つではないかと思います。

こう考えてくると、どうも書物というのが私権時代の遺物のような気がしてきました。認識の固定化という本来の機能が、現実から遊離した固定観念の伝播という形に歪められた疑いがあります。認識形成サイトから受ける現実の刺激と連動して初めて、現実を対象化しつつ固定化するという本来の機能を文字は取り戻すのかもしれません。

2013年9月27日 (金)

現実を対象化する認識は現実の成果を生み出すことで普遍化する

>単に実現論を出版することによって、新しい認識を広めるだけでは済まなくなる。

現実を否定した旧観念は、哲学でも文学でも現実から遊離して観念だけで存在していますから、観念だけが活字という形で消費されていきました。観念が現実と結びついている必要はない、というより下手に現実と結びつくと欺まん性が明らかになるのでタブーだったのかもしれません。言い換えれば、現実の成果という土台を欠いたものでした。だから今や哲学も文壇も沈滞する一方なのでしょう。

それに対して、現実を対象化する認識は、現実の成果を通してしか伝わらないようです。自然科学は、自然圧力を克服し豊かさを実現するという現実の成果なしには普遍化しなかったでしょう。それは、単に物理法則が活字として広まるのではなく、その法則を使って次々と現実の成果が生まれていく過程でした。こうして生み出された現実の成果が自然科学が普遍化する土台となったわけです。

人間や社会を対象化した認識も、現実の人を通してしか普遍化しないのでしょう。その人に活力があるとか、その人の話を聞くと元気が出るとか可能性を感じるとか、課題が克服できたとか、その人の現実の活動・成果を通して普遍化するものではないでしょうか。自然科学と同様に、単に観念が伝播するのではなく、現実の活動・成果が生み出されていく過程なのだと思います。現実の活動・成果とは新しい協働関係が作られることであり、それが認識形成サイトの土台なのでしょう。

それは進化の原理と同じなのではないでしょうか。現実を対象化した認識が現実の人や成果として様々な変異体を作り出し、それらが協働することで認識が進化していくのだと思います。
>可能な限り多様な変異体=同類他者が存在していること自体が淘汰や進化の源泉であり、従って、可能な限り多様な同類他者を作り出すことこそが淘汰や進化を生み出すのである(61)。

冨田彰男

2013年9月25日 (水)

 単なる共鳴・伝播と参加・協働の違い

潜在思念の源泉に深い社会不全と答え欠乏を孕んだ人々の外向仲間=認識仲間への収束」が意味しているのは、今回の答えが、誰か一人の天才or専門家によって作り出されるのではなく、認識仲間収束した普通の人々の協働作業の中で作り上げられてゆくということである。
とすれば、単に実現論を出版することによって、新しい認識を広めるだけでは済まなくなる。もし「出来上がった実現論」を広めるためだけなら、出版するだけでもある程度は広がるだろう。しかし、求める答えは認識形成サイトに収束した認識仲間たちとの応答や反応の中で紡ぎ出されてゆくのだとしたら、彼ら認識仲間たちに認識形成サイトに参加して貰う(定住読者になって貰う、更には投稿して貰う)ことが、不可欠の条件となる。

この、作者→(出版)→観客読者という在り様(よう)から、認識仲間の(サイトでの)協働という在り様への移行こそ、私権時代の認識形成と新時代(共認時代)の認識形成との決定的な違いである。
そして、この点こそが、新しい運動=認識革命の最後の関門となる。なぜか?
認識形成サイトに参加して貰うには、少なくとも市民サークルに参加して貰うのと同じ労力が必要で、それは、知人の認識仲間化によってしか出来ないからである。

つまり、るいネットへの参加は、社会系サークルへの参加とほぼ同じ位相にある。ただし、市民サークルetcは不全発の社会運動であり、旧パラダイムのままなので、大多数に敬遠されているが、新しい認識と認識革命の必要は、認識欠乏が顕在化してくれば、大多数に受け容れられる筈である。
現に、’00年以降の若者の認識欠乏は(一部だが)顕在化しつつある。これは、潜在思念の社会不全(or外向収束)による社会探索が急速に強まっている証しである。この潜在思念の社会不全(or社会収束)⇒社会探索に答えを与えれば、5~7年で火が点くだろう。

四方勢至

2013年9月23日 (月)

外向仲間の拠点(収束核)が、認識形成サイトである

大きな社会不全・統合不全を孕んだ現代人が先ず人に収束するのは、共認動物の本能である。(まずは身内仲間、次に外向仲間)。
次に社会収束⇒認識収束の潮流は、間違いなく思想不信を押し流し、新しい観念の構築に先端収束してゆくだろう。
しかし、新しい認識は、誰か一人の天才や学者etcの専門家が創り出すのではない。新しい認識は、他に専業を持つ普通の人々の協働の中で作られ整えられてゆく。つまり、外向仲間収束=認識仲間収束の母胎(=NW)の中で、新しい認識は紡ぎ出され織り上げられてゆく。
その場(母胎orNW)が、認識形成サイトである。つまり認識仲間収束の拠点(収束核)となるのが、認識形成サイトである。
当然、それは協働の場であるが、その協働の原基は(原猿がそうであった様に)外向仲間収束にある。つまり、外向仲間収束こそ(話題を作るetc)協働の母胎であり、課題や認識を作り出す大前提なのである。

四方勢至

2013年9月21日 (土)

観念機能はパラダイム転換を視野に入れた認識も生み出せる

>それだけであれば、「パラダイムが転換する」というそのこと自体が不可能になってしまいます。

三宅さんから提起されているもう一点の問題ですが、パラダイム転換はに則して言えば、個体の機能より上位に位置する位相の問題になります。

確かに集団内で共認されているからと言ってその共認内容が歪んでいれば、例えば『オウム』のような‘畸形集団’も登場する訳で、集団共認が絶対とは言い切れない面もあります。しかし、集団よりも上位の位相にある社会共認という地平では、このような例はすぐに淘汰されます。

一方で現代の社会共認の方は、それはそれで次々登場する問題に対してほとんど回答を出せないため、個体や集団の不全を募らせるばかりです。

私は、このような状況認識とその原因を構造化する必要性から『パラダイム転換の認識』が登場したのだと思います。もちろん、集団という小さな共認域を前提に追求された認識では、社会のパラダイムを転換させることはできないと思いますが、そのときの時代状況によってはそれで充分であるケースの方が多いはずです。また、認識と充足の相乗作用というのは、最低でもその個体が所属する単位集団の共認内容を前進させて初めて実感できる訳で、集団のパラダイムの転換を可能にするものだけが、本来の認識だと考えて差し支えないと思います。

したがって、三宅さんが危惧されているほど集団共認や社会共認は固定的ではなく、社会全体を包んでいる観念パラダイムの問題に気付きさえすれば、その転換は決して不可能ではないと思います。現代という時代は、この観念パラダイムを視野にいれた認識でなければ人々の『納得』を勝ち取れない時代であり、また、人類のもつ観念機能の進化が試されている時代に他ならないと思います。

土山惣一郎

2013年9月19日 (木)

新しい潮流 構造認識は数十年で伝播する

現在、何よりもまず人に収束するのは、原猿と同じで、答えが見付からないからである。従って、潜在思念の外向収束⇒認識収束が急速に強まってきた今、可能性を感じられる答えさえ与えられれば、一気に答えに収束する筈である。

では、旧観念(倒錯観念)が作られた掠奪時代~私権時代初期、答え(言葉)が生み出され定着するのに、なぜ500年~1000年も要したのか。
掠奪時代の答えとは、掠奪闘争に勝つ為の認識であり、当然その為の認識は生み出されたし、進化もした。帝国時代の答えとは、力で支配することであり、当然、その為に必要な認識や制度は生み出されたし、進化もした。
要するに、いつの時代でも、現実直視の実践思考は、必要な認識を生み出し、進化させてきた。
ただ、抑圧され、苦しみ続ける人々を癒す言葉=現実否定の倒錯観念は、あまりにも本能の実践思考に反する無理な思考であり、言葉であったので、作るのに500年、定着するのに更に500年も要したのである。
それに対して、本能思考に準じた現実直視の実践思考が、必要に迫られて生み出した構造認識は、数年~数十年で伝播し、定着するだろう。

四方勢至

2013年9月17日 (火)

新しい潮流 現実を対象化するための概念装置

しかし、人々の意識(本源収束・社会収束)を直視し対象化するには、切開する概念装置が必要である。現状、潜在思念は現実を対象化して深い所で何かを感じているが、極めて不鮮明なまま潜在していて、顕在化してこない。
この潜在思念の感じる不鮮明な可能性を顕在化させたものが、パラダイム転換論や史的構造論etcの答えである。
これらの答え=構造認識は、潜在思念の実現観念態であると同時に、潜在思念が現実を対象化する(=更なる可能性を模索する)概念装置でもある。
従って、答え=構造認識を共認できれば、可能性も⇒答え欠乏も(⇒更なる探求も)全てが顕在化してくる筈であり、又、その構造認識それ自体が現実(≒意識)を対象化してゆく概念装置ともなる。(逆に、答え=構造認識を共認できなければ、可能性も答え欠乏も、潜在したままで顕在化しない。)

人々の潜在思念の認識収束を顕在化させ、新しい認識=構造認識の必要に気付いてもらう為には、例えば次の様な言葉が有効だろう。
①まず私権の衰弱⇒本源基調・外向基調という状況認識。時代はとてつもなく深い所で、大きく動いている。従って、古い私権観念で新しい現実を「関係ない」と捨象していたのでは、自分が貧しくなるばかり。深い所で大きく動こうとしているものを、しっかり対象化し、鮮明に把む必要がある。
②これまでの観念は、不全と現実否定に基づく頭の中だけの倒錯観念だから、役に立たない無用の認識となったのだ。今求められているのは、現実否定から現実肯定へと観念パラダイムを180°逆転させた、全く新しい認識である。
③それは、本源基調・外向基調という新しい現実を、サル・人類の原基構造にまで遡って、肯定的に対象化した構造認識であり、この構造認識という概念装置を身につけることによって初めて、新しい現実の可能性が鮮明に見える様になる。

四方勢至

2013年9月15日 (日)

‘イデオロギーから事実へ’も『認識仲間』の結集軸のひとつ

パネルディスカッションに出席してイデオロギーの件でも実感したことがあります。

 教育関係者や同等の問題意識をもったNPO主催者などは、どうしても‘弱者にやさしい’という平等主義や人権主義にこだわりすぎて、これからの時代を語る際の根底的なキーワードである『同類圧力』を認めたがらないという傾向が強いようです。

 自分自身がすでに『同類圧力』にさらされていて、それを活力源にしているという実感は間違いなくあるはずですが、その現象そのものを否定的に捉えることしかできません。その結果、この‘人権イデオロギー’というシロモノは身近な現象事実さえ認めないようにさせ、頭の中を混濁の渦に巻き込んでしまいます。‘人権イデオロギー’に限らず、およそイデオロギーというものは排他的で硬直的であるが故に、個体や集団の思考を無能化する元凶だったという事実は、近代社会全般の総括としてほぼ間違いありません。

 現代は言葉や観念が力を失うという代償を払いながら、これらのイデオロギーや倒錯観念も地に落ちていっているのは確かですが、考えてみれば、イデオロギーが登場する基盤は、何事も否定からスタートする旧観念パラダイムにあります。旧パラダイムのマイナス(否定)思考からすれば、例えば‘圧力’という言葉で表現されるものはすべて否定されてしまうのかもしれません。

 >趣味や解脱サークルの結集軸も一種のイデオロギーである<という認識は、実は重要な意味と普遍性を持っているのだと思います。
 『認識仲間』への転換とは、イデオロギーを結集軸とした仲間関係から事実認識や構造認識を結集軸にした仲間関係への転換であり、もっと普遍化すると旧パラダイムから新パラダイムへの転換に他ならないことになります。

 したがって『認識仲間』の結集軸にも様々な切り口と位相が存在するはずです。例えば、ひとりひとりの能力上昇(=もっと周りの役に立ちたい・期待に応えたいという思い)の実現を目指すもよし、集団や組織の活性化をテーマにするもよし、最も本質的に社会統合という地平で新しいパラダイム論を語るもよし・・、要するにイデオロギーを徹底的に排除して、事実認識の地平で臆することなく発信していくというスタンスが受け入れられる素地さえあれば、それはりっぱな『認識仲間』と言えるのではないでしょうか。

土山惣一郎

2013年9月13日 (金)

時代に気付く、時代が動く

>「貧困」について言います.どの水準以下であると貧困とするのか.それは自分の価値観が含まれてもよいのか.また,他人から見た価値観なのか.読む人それぞれ貧困に対するイメージの仕方が異なります.個人ごとに本文の言葉を違った認識したままで,実現論を展開していくのは避けた方がよいのではないでしょうか.

例えば、いつの時代だって、今は苦しい時代だって思う人もいれば今はそれなりに過ごしやすい時代だって感じてる人もいて、だけど私たちが歴史を振り返るとき、この頃は産業革命でとか、この頃は農村から都市への大移行期でとか、その時代に起きた大きな変化やその時代の潮流を捉えることはできる。
ミクロで見ると、全ての人がその時その時同じように状況を捉えることって現実にはありえないけど、マクロで見れば、けっこうみんな一致すると思う。

これ不思議なんだけど、杢さんの心配してる固定観念や価値観さえ取り払えれば、生物の対象認識の正確さを人間もホントはけっこう受け継いでるんだなって、頼もしくも思う。

ただ難しいのは、それがその時代を生きている当事者には見えにくいことで、面白いのは、それを見抜いた先駆者が次の時代を作ってゆけること。

でもそれって、実際心の奥ではすでに感じているけれどそういう見方を知らないだけで、「言われてみればたしかにそうかも」って感じのことが多くて、そういう人が多いほど「たしかな現実」が見えてくるし、それに気付いてその波にのる人が多いほど「新しい時代」は早くくるって思う。
るいネットでの発信が、そういう波紋が拡がる契機になればいいと思う。

西知子

2013年9月11日 (水)

みんなで認識

>認識って言葉も仲間って言葉もあったものなのに、つなげると新しいものになって、それが経験に裏付けされてて、なんとなく理解できるのがすごい。

ほんとだ!って思いました。特に認識という言葉に関しては、今までは自分だけのもの、みたいなイメージがありました。認識を獲得するというのは、本であったり、講義であったりから、自分で勉強して自分の物にする、って感じがしていました。
でも、繋げたときに感じるのは、まさにここで定義されてる、みんなで作っていくもの、共有していくものなんですよね。そういう意味でも新しい!と思いました。
今まで、認識にそれほど関心がもてなかったのって、自分一人で行うものだったからじゃないかなって思います。本を読んだりって行為とか、まさにそうだと思うんです。知識を蓄えるってイメージ。人を遮断してるっていうか。でもそれに仲間がついたことで、俄然楽しそうになってきたーとわくわくしています。
自分のために獲得するものじゃなくて、仲間のために認識を獲得していく。まさに実現のために認識を獲得していく・・・・これも大きなパラダイム転換って言えそうって思った。

立石裕美

2013年9月 9日 (月)

対面の場で感受する潜在思念は活力の源。

 先日の週刊誌に静か過ぎる仕事場の問題性が取り上げられていました。遮断され孤立した空間で追究するのは、実は大変に苦痛が伴い逆に気が散り易く生産性も低いように思います。 問題意識が近い少人数(4~5名)で考える場が有ってこそ、荒削りながらも新しく深い切り口にたどり着くことができます。 一人で考える場合でも、耳につく音(声)は妨げになることも有りますが、経験的には人が見える場で考える方が遥かに追究成果は大です。 
 対面の議論の場は、その人の熱い潜在思念をリアルに感受できる繋がりの場であり、私の追究活力を産み出してくれる場でもあります。
阿部紘

2013年9月 7日 (土)

ルールだから・・・それは根拠となりえるか?YesでもありNoでもある。

 ルールは、ある行動の「正当性を保証する事実」となりえるか?

 もし、そのような事実として認められれば、「ルールが根拠になる」という水谷さんの主張(25327)そのものは間違っていることにはなりません。根拠の曖昧な=感情的なやり取りは不毛です。もう少し、掘り下げて、詰めてみてはどうでしょうか?

 まず、「根拠となる事実」について、最近の投稿から・・・

24057「人間の認識が陥りやすい罠③」蘆原健吾)
>>私は「事実とは仮説の体系である。」と考えています。
>>人間が生きている現実とそれに適応するための「知」をより重視するべき
>(2291玉川さん)

 簡単に言えば、根拠となりえる事実は、現実に適応するために、より多くの人々が認めるべき「知」と言えます。

 そして、「現実に適応する」という点に関して、先日の・・・

25374「規範原理 1」吉岡摩哉)
> 始原人類時代、人類は厳しい自然環境の中で、身を寄せ合いながら生活していました。※集団でないと生きられない環境・外圧

 そもそもルールは、生きるための集団に必然の産物であり、その根拠も必然に生まれ、共認されてきたのでしょう。

 水谷さんのように、現在の行動や現象の良し悪しを既存のルールで判断することは、既存の集団を維持するという意味では当然の行為です。そもそも、集団の維持のためのルールであり、みなで共認されてできたルールなのですから。

 つまり、「ルールが根拠になる」ということはあながち間違いではありません。

 ただ、忘れてならないのは、ルールの主体である集団も内外の環境によって変化しているという事実です。外部環境が変化したのに、集団は変化しないということはほぼありえません。集団は、外部環境による産物なのですから。

 つまり、ルールの根拠は長期的に見れば絶えずゆらいでいるので、「ルールが根拠になる」ということは、必ずしも正しいとはいえません。

 今は、激動の時代などと言われています。誰しもが感じていることでしょう。ルールを根拠とする前に、ルールの根拠を考える必要があるのです。良し悪しの判断は、その後でなければ、そもそもの集団を維持する=外部環境に適応するという根本の基準から、正しいとは言えません。

 ルールの根拠を再考しましょう。

(敬称略)

福田尚正

2013年9月 5日 (木)

新しい潮流6 解脱仲間から認識仲間への逆転

社会収束(外向収束)は、人類史的に全く新しい潜在欠乏であり、その答え欠乏は深く潜在している。
かつて、それは掠奪闘争→私権闘争として顕現したが、それが衰退して封鎖されつつある今、人々の潜在思念は、まずは分かり易い「人」とのつながりや「人(意識)」探索に向かい、同時に、多種多様な事実認識に向かっている。
今生起しているのは、闘争ではなく、つながり=共認を母胎とした社会収束。つまり、人を媒介にした意識の探索と共認と伝播。今、それは潜在思念の共鳴とごく簡単な言葉の共認に留まっている。
その潜在思念が求めているのは、パラダイム転換の認識や状況認識、つまり現実や状況や時代の捉え方。それを明確化した構造認識は共認され、自分の認識に転化する。その先は共鳴や応援よりも、応用や実現に向かう。

確かに、現代は言葉が力を失った時代である。だからこそ、人々は言葉以前に何よりもまず人へ・つながりへと向かっているのであろう。しかし、それは云わば原猿と同じで、答えが見付からないので、人に収束しているだけである。実際、現在のつながり・広がりには、成すべき課題がなく(あるいは誤ったチンケな課題しかなく)、無為徒集に近い状態にある。

これを突破するのが新パラダイムに基づく新しい認識であり、新しい認識こそが、従来の親和や解脱に代って人と人とを繋ぐ真の紐帯となる。
また、答え(可能性を指し示す構造認識)を与えられて初めて答え欠乏が顕在化し、新しい認識の追及という課題が姿を現す。答えが同類圧力を生み出すのである。そして、答えが与えられて初めて無為徒集のつながりから、認識の追及という課題を結集軸としたネットワークへと脱皮する。

つまり、今求められているのは、解脱仲間から認識仲間への転換である。(注:解脱仲間とは、古い私権時代の仲間様式であるに過ぎない。活力源が既に私権圧力から同類圧力へと転換した今、求められているのは、本源収束・外向収束を体現した認識仲間である。)それは、ただの人収束=つながり・広がりが、真の社会収束へと脱皮する過程でもある。

四方勢至

2013年9月 3日 (火)

事実追究の動機

 > 実際に論理整合性を共有できる仲間たちがふえたならば、多様な具   体的事象の探求が困難になるのではないかと考えます。なぜなら、   殻をどんどん厚くしていくと外に出られなくなるような感じで。<

 ある集団や社会全体で固定観念に陥ってしまうことを危惧されているのだと思います。
確かに、今までの個人の自由を基礎とする市場社会では、個々に都合の良い認識=固定観念によって社会を動かし、その結果が、現在の環境破壊などの危機的状況を招いたことは紛れもないことです。
あるいは、思想の自由といいながら、世界がグローバリズム一色に染め上げられようとしているのも、大いに危惧される点です。
しかしそれは、「個人」にせよ「自由」にせよ、いずれも都合の悪い現実を捨象し、都合のいい現実だけを対象化し己を正当化してきた倒錯観念だったからです。
 では、これからはどうか? 社会で力を持つものが、私権=金から共認力=認識力へ移っていくと、集団間(仲間集団)の勝敗やヒエラルキーは、つまるところ事実認識の深さよって決することになると思います。従って、実態と乖離した認識では勝てないので、必然的に、事実認識は磨かれ、進化し続けるようになるでしょう。
 しばらくは、旧私権派と本源派のせめぎあいが続くでしょうが、現在の諸問題の解決に対して何の力も持たない旧私権派の観念、パラダイムは敗れていく方向にあると思います。

 そして、最後に重要なことを1つ。
 現実を変革していく上で、今までの認識を疑って、より深く、洗練された新たな事実認識をつくっていくことは不可欠です。が、そこで、その事実追究の動機・活力源が仲間の期待にあるのか、それとも、仲間から一歩引いた自分発のものなのかによって、追究の切れ味も成果も決定的に異なって来ると思います。

長谷暢二

2013年9月 1日 (日)

「疑問符」のままでは統合できない

> 論理整合性のある共有できる仲間たちがどんどん増えて、ある事実認識は動くことが出来なくなるのではないか<
> 断定形で・・・であると言えると、うたっている人への危惧<


「実現論」は、単なる観念遊びのための空論ではなく、本気で「実現」するためのものです(全ての理論は本来そうである筈です)。そして断定形とは、その具体的な行動に結びつく認識である、ということを意味します。それは、人間が何か行動を起こす時の心理(ex.「決断」)を思い浮かべてみても分かると思います。

ですから、いま現在、それが最先端の事象を組み込んだ最も論理整合性の高い事実認識であり、その認識に基づいて行動することがベストであるならば、いま現在、それが断定形で語られるのは当然のことだと思います。「全てがフィクション」では、統合も行動もできないからです。本気で実現する気のない、頭の中だけの観念あそびなら「全てがフイクション」でもよいでしょうが。

もちろん同時に、多様な具体的事象を常に探求し、新しい状況に応じて事実認識を柔軟に組替えていくことを忘れてならないのは、大野さんや長谷さんが述べている通りです。
そこでも、観念あそびに耽っていれば都合のいい「事実認識」で固まってしまうこともあるでしょうが、本気で現実に実現しようとすれば次々と新たな壁(その一つ一つが現象事実です)が立ち現れてくるので、決して都合のいい認識に留まることはできません。その様にして、次々と認識が組替えられながら、それが新たに「断定形」で語られれば良いのではないでしょうか。その方が旧認識のどこが誤っているかも分かり易くなります。

上記のようなことを誰もが理解しているならば、大野さんが危惧するようなことにはならないのではないですか?

« 2013年8月 | トップページ | 2013年10月 »

ランキング

  • にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ お勧めサイトランキングへ
2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

カウンター

最近のトラックバック

無料ブログはココログ