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2013年8月14日 (水)

物を考えること、充足すること

学生時代の「思索」と現在の「物を考える」、その二つの思考段階における充足機能の違いは、自らの経験で申し訳ないが、現象的には充足の時の表れ方と活力の出方に違いがあるように思う。

第一は、現在の「物を考える」段階では、途中の思考過程における「充足」はほとんど感じない。確かに思考段階においては、頭の中が満ち満ちているとか、活動しているという実感はあるが、それは快の充足とは程遠いもの。しんどい感覚はあるが(もしかしたら、観念機能をフルに真っ当に使っている人はそれすらもないかもしれないが)、それで「暗くなる」ものでもない。あれやこれやと考えて何らかの「答え」に達した時、「充足感」を覚える。「充足感」がなければ、「答え」に達していないということだから、また発想を変えたりして再構築する。途中段階で快の充足感を感じないのは、価値の判断は状況認識や構造認識を得て初めてわかるからかもしれない。

ところが、学生時代の「思考」は、しょっちゅう「充足」らしきもの(今に思えば、自我幻想や感応回路が作動していたのでしょうが、)が表れていたように思う。だから、充足を求めて思考するというような操作を行っていたから、実は観念に収束しながら「苦しさ(非充足欠乏)の不安」が潜在的に絶えず蓄積され、それでは「答え」に達しないことも相まって、結果的には閉塞していったのだろう。

第二に、当時の思考はほとんどが色付きのプラス回路であり、見えない人たちの評価欠乏をよりどころにしていたように思う。だから、絶えず自らがプラス幻想を引き起こさないと活力が生まれない。しかし、現在は探索回路としてノルアドレナリン系の回路を主活力源として「考えて」いるが、それをさらに駆動させているのは、自分のプラス回路(ドーパミン)ではなく、例えば会議に寄り添う、あるいは現業に集まるみなの期待(共認回路、主にエンドルフィン系)に対する応望であるように思う。

だから、「考える」ことの楽しさ(充足感)を教えること(実感させること)も大事ではないかと、一連の四方勢至さんの投稿を見ながら学生時代を振り返って感じた次第です。

吉国幹雄

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