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2013年8月

2013年8月30日 (金)

自己言及のパラドックス

【クレタ人は嘘つきであるとクレタ人が言った】
 
『生命知としての場の論理』(清水博:中公新書)の中で、清水は次のように述べています。

「クレタ人のパラドックスのような論理矛盾が生まれるのは、自己の構造を考えていないからであると思います。自己には自己中心的な自己が持つ自己中心的な観点と、それを超越的に眺める場所的観点という二種類の観点が存在しています。

クレタ人は嘘つきである、と語ったクレタ人は場所的観点から話しているのですが、それを自己中心的観点から語っていると考えたことからパラドックスがうまれたのです。…」

清水は、「自己言及するとパラドックスに陥る危険性が高いが、しかし生命体は自己言及的に自己を表現しながらパラドキシカルな状態に陥らない、なぜか」、という視点で自己言及(主体的な歴史的な存在である自己の中に現在の自己を関係付けること)に触れ、絶えず変動する環境の中での自己同一性を維持するシステムを備えたものが生命体である、と展開していくのですが…。簡単には、生命体は外圧適応態であり、変動する環境に対して変動できる適応システムを生命体の内部に持っているということ。

それにしても、清水ですら「主観と客観」、「自己と非自己」のパラダイムから認識論的に脱却できていないという事実に改めて驚かされます。私は「場」という捉え方は極めて重要な概念だと考えていますが、それは「場」から超越的に自己を眺めるという意味で重要なのではなく、「場」という自己を超越した集団や社会という意味で重要だと思っているのですが…。

「生命体は違う」という視点ではなく、論理的に(認識として)このパラドックスるのおかしさ、問題点について少し考えてみます。

吉国幹雄

2013年8月28日 (水)

新しい潮流3 社会不全⇒認識欠乏の蓄積

しかし、社会不全は、解脱や誤魔化しの言葉で捨象する事はできない。
●自然圧力や同類闘争圧力etcによる本能不全は、スキンシップの親和充足でそこそこ解脱(解消)できる。
●権力による抑圧etcによる私権不全=共認不全は、親和充足(その極が涙と笑いである)と代償観念(規範観念や価値観念etcの感応観念)で、かなり解脱(解消)できる。
●社会不全や統合不全は観念不全であり、答え(=構造観念)によってしか、解脱(解消)できない。
注:私権不全=共認不全からの解脱は、貧困苦の時代は涙と笑いだったが、貧困の消滅した’70年代以降は笑いだけに収束した。
注:人間関係の軋轢は共認不全だが、そこから逃避した関係閉塞は統合不全なので、もはや笑いでは解脱(解消)できない。
注:統合不全の関係閉塞型は不全に強く囚われており、答え欠乏が強いが、答えがない(従って課題捨象もできない)という悪循環に陥る。

社会不全は答え(=新しい認識)によってしか解消されない。つまり、社会不全を従来の解脱様式で捨象することは出来ない。(例えばテレビは私権不全から社会不全への大転換によって、完全にズレた物となり果てた。)また、「等身大の幸せ」etcの言葉=頭でいくら捨象しても、解脱充足先がない以上、不全は解消しない。その上、不全の増大につれて充足基調の充足度も、どんどん低下してゆく。

従って、社会不全→外向欠乏の上昇によって、答え欠乏=認識欠乏が顕在化してくるのは時間の問題である。しかし、間違ってはならない。人々は潜在思念の源に強い社会不全を孕んでいるからこそ、充足を(つまりは、答えを)求める。実際、人々は愚痴や批判ではなく(そんな言葉は聞きたくもない)、何か答えになりそうな可能性の感じられる新しい認識を求めているのである。

四方勢至

2013年8月26日 (月)

進化論としての性の問題

>私は、「個性は大事」とずっと言われてきたにも関わらず「人間皆平等、男女同権、性別では区別してはいけない」と言われ続けてきました。しかし、先日「男女は最大の個性」という言葉を聞き、まさしくそうだと思ったんです.。

「自由」「平等」「個人」など近代思想が作り出した概念は、いたるところで矛盾と欺瞞を生み出していると思います。そして、一見価値観を排除したかのような学術分野にも大きな影響を及ぼしています。

進化論上では、性に関わる様々な問題に、コストや損得というような経済学的なアプローチをする学者が殆どです。市場原理という近代固有の尺度を生物史に当てはめて解釈しようという訳です。

その結果、有性生殖の進化がなぜ起こるのかが、未解決の難題となってしまいました。コストから考えれば、有性生殖が進化する理由がないのです。有性生殖の意義そのものを解決できないならば、始めに設定した経済学的アプローチの誤りや限界である事は自明です。

しかし、殆どの学者がそのように考えられない理由はただ一つです。市場原理を無前提に、かつ普遍的な原理であるかのように考えてしまっていること。その背後の、「自由」「平等」「個人」など概念に何の疑問も感じていないどころか、その価値観を肯定し研究に投影させているからです。

実現論にあるような雌雄分化の史実の中にこそ、「女性だからこそ持っている素晴らしい特性」も見出すことができるのではないでしょうか。

以下、実現論1_2_01より

生物が雌雄に分化したのはかなり古く、生物史の初期段階とも言える藻類の段階である。それ以降、雌雄に分化した系統の生物は著しい進化を遂げて節足動物や脊椎動物を生み出し、更に両生類や哺乳類を生み出した。

しかし、それ以前の、雌雄に分化しなかった系統の生物は、今も無数に存在しているが、その多くは未だにバクテリアの段階に留まっている。これは、雌雄に分化した方がDNAの変異がより多様化するので、環境の変化に対する適応可能性が大きくなり、それ故に急速な進化が可能だったからである。

従って雌雄に分化した生物は、適応可能性に導かれて進化すればするほど、必然的に雌いの雄の差異が大きくなってゆく。それは、雌雄が同じ役割のままでいるよりも、オスは闘争・メスは生殖という風に役割分担を進めた方が、より種としての環境適応力が高くなるからである。事実、生物は雌雄の差別化をより推進してゆく方向で進化してきた。

例えば脊椎動物の系統では、魚のメスは卵を産み落とすだけで子育てなどしないが、爬虫類になると卵を温めて孵化させる種が現れ、更に哺乳類になると胎内保育をし、その上かなり長期間子育てに携わる様になる。つまり、進化するにつれてメスの生殖負担がどんどん大きくなってゆき、そのぶん闘争負担は小さくなってゆく。他方のオスは、それにつれて生殖負担が小さくなり、そのぶん闘争負担が大きくなってゆく。

例えば哺乳類は、一般に内雌外雄の集団編成を取っているが、これは外敵には闘争存在たるオスが対応し、その集団(オスたち)に守られて生殖存在たるメスと子供が存在するという、外圧に対する二段編成の構造(=同心円の構造)である。だから、オスが子育てをする哺乳類など、殆どいない。

石野潤

2013年8月24日 (土)

「考える」=情報の構造化

「考える」とは詰まるところ一体どういう行為であるのか
解る様で解らないでいたが、吉国さん、阿部さん、そして玉川さん・石橋さんの投稿を読んで、一つ見えてきた気がする

考えるとは、情報を統合し構造化することに他ならないのではないか
多くの溢れる情報を統合→構造化し、その中から認識を築いていく
それが「考える」=観念機能を働かすと言うこと

溢れる情報を統合し、構造化するためには、その情報源すなわち、社会=現実=人々の意識を対象化する必要がある
当然、そのような行為は、外向の意識でなければ行えるはずがなく、内に向いた意識では、何の答えも見えてこない
内向きの思考とは、詐欺以外の何者でもないと言える

外向きの意識と言うのは、言葉を変えれば、自らの価値意識に囚われないということ
全てをあるがままに捉えていくということ

つまり「考える」ためには、意識を外に向けるだけでよい=現実を対象化するだけでよいということになる

だとすれば、現状における、「考える」行為とは、旧パラダイムの価値や固定観念に囚われることなく、多くの情報(現象)の中に見て取れる本源潮流を構造化し、新しい認識を築いていくことに他ならないと感じる

西谷文宏

2013年8月22日 (木)

何をすれば良いのか分からない

他方、「何をすれば良いのか分からない」という選択課題の方がより全般的・総合的で、より観念回路に近い位相にある課題であるが、肝心の課題圧力が弱く、この課題に対しては適応本能があいまいに作動しているだけである。

潜在思念の本源収束は、仲間圧力の絶対化という現実課題と、それに応じて適応本能が共認回路を駆動させて形成した方法認識や状況認識が実在するが故に(orそれで充分に対応できるが故に)、強力なものとなり、半ば顕在化したのである。
それに対して、潜在思念の社会収束(外向収束)は、その様な潜在回路だけでは不充分であって、収束するには観念を必要とする。しかし、答えが見付からない(=収束観念がない)ので、適応回路があいまいにしか作動せず(外向きという方向を指示するくらいしか出来ず)、深く潜在したままその位相に留まっているのである。

要するに現状は、収束できる観念がないので、仲間収束>>社会収束となっており、又その結果「何をすれば良いのか分からない」状態にあるだけである。
しかし、潜在思念の社会収束は、(収束できる観念がないので、現状は殆ど意識されないが)明らかに実在する。むしろ、仲間収束をほぼ完了した実現派が、次に向かおうとしている世界は広い社会であり、その為に必要なのは新しい観念(構造認識)である。その根拠は、
潜在思念は明らかに外向収束しようとしている。このことは、私権統合が終焉の時を迎えて社会不全が増大し続けているという点からも、社会統合の可能性が開かれたという点からも、明らかである。
●男女であれ、仕事であれ、何をするにも新しい認識(言葉)の必要性と有効性は、(既にある程度の答えを識っている我々には)経験的に明らかである。

☆だが、『社会収束』やそれに伴う『観念の必要性』は、現実課題と成り得るのか?

四方勢至

2013年8月20日 (火)

もう、認識の罠に陥りそうな…

蘆原さんの「認識の罠」投稿が、さてどちらに向かっていくのかな、と期待(と不安?)をもって、楽しく見守っているのですが、なんかこのままでは「認識の罠」に陥ってしまいそうなので、蘆原さんの本格的投稿が始まる前に少し意見を述べさせてください。

>その思い込み認識の罠を回避する為に、チームワーク(共認機能)を使って、回避しようとする試みだそうです。この思い込み意識への問題意識を持ち、いかに的確に、先読みし、察知して、相手に伝えるか、という発信者側の問題と、受信者側の素直に受入れ、事象を確認し、問題ないかの意識をもつことが、「罠」からの脱出手法の一つだと感じました。<

このmsgを受けて「共認の大切さ」24077(山本さん)、「多くの言葉に耳を傾ける」24093(谷崎さん)と続くのですが…。私は、人類の先端の認識機能である観念機能をフルに働かせるには、その下部機能の共認機能をフルに活動させることが必要であるとか、共認機能をフルに活動させるためには、多くの言葉に耳を傾けることが重要である…、という点について、基本的にはそのとおりだと思います。しかし、それでは「罠」にはまったまま…。

例えば「皆の意見を聞く」原点は、仲間の表情を羅針盤としてきた真猿段階の共認統合の話であり、さらに仲間とは、価値共認した単一集団の成員のことです。彼らの中で、個人の勝手な認識が許されるわけでないし、一つの現象(外圧)に対する個人の認識の揺れは、現在のわれわれが考えるよりもはるかに小さいと思われます。そうでなければ、集団間の同類闘争に負けるでしょうから。

…ところで、彼らの認識は正しいのでしょうか?

こういうテーゼを立てた途端に、言葉に窮します。おそらく、「彼らは彼らなりの認識機能をフルに使って導かれた認識内容なのだから、現在の人類(の価値観念)から見てその時々の認識が正しいか正しくないかは意味がない。」、というようなところに落ち着くのではないでしょうか。これが、いわゆる『パラダイム論』。

つまり、時々の「事実」やそれを巡る「認識」はその集団内におけるパラダイムによって規定される。彼らは外識=内識を、そのパラダイムの中で実現しているのであって、すべての認識もそのパラダイムに可能性収束しているわけです。(科学者集団の事実も同じです)

その認識が正しいかどうかは、そのパラダイムが適応可能性が高いかどうかであり、適応可能性がなくなった時に(パラダイム転換した時に)、認識は「間違っている」ということになる。適応しているというならば、そのパラダイムの中で彼らは正しい認識を作動させているということになります。(科学における、法則も同じです)

だから、「認識の罠」に陥らないために、多数の意見を聞くとか、共認機能を働かすとか、思い込みがよくないとか、ということは個人レベルの認識機能のあり方としては、必要性を認めますが、私は「人類の認識の罠」という次元ではそれらは根本的な解決にならないと思います。

「思い込み」「認識の罠」とは、個々の認識の問題ではなく、可能性のない旧パラダイムのままにとどまっていること、現実否定の欺瞞観念を全面否定できないことこそが、最大の「思い込み」「認識の罠」ではないのでしょうか。

吉国幹雄

2013年8月18日 (日)

思考のエネルギーの源泉はどこにあるのか?

思考のエネルギーの源泉はどこにあるのか?

「物を識らない状態」というのは、意識が外を向いていない状態と言うことができるでしょう。自分自身のことを振り返っても、

>意地になって(根性だけで)もがいている状態(23886 四方勢至さん)

であったように思います。そのエネルギーの源はまさに意地のレベルでしょう。

逆に「物を識った状態」とは、絶えず社会や人々の意識の変化にアンテナをめぐらせ、意識が外を向いている状態。あるいは潜在思念と合致する実感が伴う認識に出会えた状態。そういったときには物凄いエネルギーが出てくるのでしょう。

思考のエネルギーが単なる一人よがりで終わらないようにするためにも、意識を常に外に向けるとともに、エネルギーを結集する場を皆で創り上げていくことが最も重要だと思います。

るぎあ

2013年8月16日 (金)

情報の難しさ

世の中はどんどん便利になっています。
したがって、無洗米は時代の流れの沿った商品だと思います。
しかし、問題も多いようです。

無洗米には、洗わなくても良い、といこと以外にも良いところがあるそうです。
その第1は、環境に良い、とされている点です。

「全国無洗米協会」のHP リンク では

「とぎ汁は環境汚染の最大原因」とありました。本当でしょうか?

このHPによると
   ● 河川のヘドロ、赤潮の原因
     東京湾の汚染の原因の70%は家庭排水です。
   工場など産業系の排水は20%にすぎません。

   家庭排水の内で、最大のものはとぎ汁です。
   とぎ汁にはリンやチッソなどの栄養素が多く含まれています。

   台所排水の中でもっともウェートが高いお米のとぎ汁は
   BOD物質(有機物)が約44%、チッソは約67%、
   そして、汚染力の最も強いリンは約96%も占めています。

   これらの汚染物は通常の下水処理施設では処理しきれず、
   水道水の嫌な臭いや、赤潮、アオコなどの
   発生原因になってしまうのです。

これによると東京湾の汚染は、とぎ汁が原因だったようです。
では、本当にとぎ汁が東京湾の水質汚染の原因なのでしょうか?

(1) 家庭排水と台所排水
上記の引用では、この2つの言葉が出てきています。
どこが違うんでしょうか?
家庭排水とは、家庭から出る排水すべてを指しています。
台所排水とは、家庭から出る排水の内、台所から出る排水のことです。

では、とぎ汁はどの程度なのでしょうか?
富栄養化の原因となる窒素とリンは一日どれだけ排出されるのでしょうか?

H11年日本下水道協会データによると
一日1人あたり、窒素=11g、リン=1.3gだそうです。
その内、屎尿が原因である量は、窒素=9g、リン=0.9gです。
つまり、ほとんどが屎尿が原因だそうです。

とぎ汁が原因だったはずなのに、おかしいです。
無洗米協会のお話とは違います。
協会の文章を良く読むと、
途中から、家庭排水(屎尿含む)が最大の原因としながらも、
とぎ汁のウェートは、台所排水に占める割合を例に出しています。

数字のマジックです。
したがって、協会は、
>家庭排水の内で、最大のものはとぎ汁です
と言っていますが、正確には、
「台所排水の内で、最大のものはとぎ汁です」
ということになります。

全国無洗米協会のHPには、ウソがあるということです。

しかし、とぎ汁だけでも減らせれば、環境には少しはやさしい、
というのはそうかもしれません。

ところが、全国無洗米協会の方式である、BGというのは灯油を使います。
タンクローリーが無洗米装置に給油しているそうです。
なぜかは、わかりません。
無洗米装置は、なぜかしら非公開のブラックボックスとなっているからです。
BGは灯油をたきますから、二酸化炭素を大量に出します。

つまり、無洗米は
(1)水質汚染の内、生物的な汚染。つまり微生物を増加させる要因である窒素やリンの排出を少しは抑制できる。
(2)しかし、その一方で、二酸化炭素を排出し、地球の温暖化を促進している、ということが言えます。

結論は、無洗米は、水質にはやさしい、温暖化にはやさしくない。
したがって、環境に良いとは必ずしも言えない。となります。

情報って本当に難しいですね。

そして私自身の思いとしては、そういった大型機械を使わないと出来ないものは好ましくありません。農家と食べる側がどんどん遠くなるからです。

西田栄喜

2013年8月14日 (水)

物を考えること、充足すること

学生時代の「思索」と現在の「物を考える」、その二つの思考段階における充足機能の違いは、自らの経験で申し訳ないが、現象的には充足の時の表れ方と活力の出方に違いがあるように思う。

第一は、現在の「物を考える」段階では、途中の思考過程における「充足」はほとんど感じない。確かに思考段階においては、頭の中が満ち満ちているとか、活動しているという実感はあるが、それは快の充足とは程遠いもの。しんどい感覚はあるが(もしかしたら、観念機能をフルに真っ当に使っている人はそれすらもないかもしれないが)、それで「暗くなる」ものでもない。あれやこれやと考えて何らかの「答え」に達した時、「充足感」を覚える。「充足感」がなければ、「答え」に達していないということだから、また発想を変えたりして再構築する。途中段階で快の充足感を感じないのは、価値の判断は状況認識や構造認識を得て初めてわかるからかもしれない。

ところが、学生時代の「思考」は、しょっちゅう「充足」らしきもの(今に思えば、自我幻想や感応回路が作動していたのでしょうが、)が表れていたように思う。だから、充足を求めて思考するというような操作を行っていたから、実は観念に収束しながら「苦しさ(非充足欠乏)の不安」が潜在的に絶えず蓄積され、それでは「答え」に達しないことも相まって、結果的には閉塞していったのだろう。

第二に、当時の思考はほとんどが色付きのプラス回路であり、見えない人たちの評価欠乏をよりどころにしていたように思う。だから、絶えず自らがプラス幻想を引き起こさないと活力が生まれない。しかし、現在は探索回路としてノルアドレナリン系の回路を主活力源として「考えて」いるが、それをさらに駆動させているのは、自分のプラス回路(ドーパミン)ではなく、例えば会議に寄り添う、あるいは現業に集まるみなの期待(共認回路、主にエンドルフィン系)に対する応望であるように思う。

だから、「考える」ことの楽しさ(充足感)を教えること(実感させること)も大事ではないかと、一連の四方勢至さんの投稿を見ながら学生時代を振り返って感じた次第です。

吉国幹雄

2013年8月12日 (月)

物を考えない状態と物を識った状態(思考の源泉)

☆しかし、大多数の人々は、社会or人々の意識を対象化する必要=認識の必要に気付いていない。
●物を考えていない(or物を識らない)状態とは、(多くの人が、小中学生の頃はそうだったのではないかと思うが)家族や仲間や学校という身近な世界しか知らず、その外or他の世界を知ろうとも思わない。
これら同類圧力の中で形成された人並みの欠乏と、性格に規定された唯一の方法で、意地になって(根性だけで)もがいている状態。
●物を考えれば(or物を識れば)、一気に世界が拡がり、より効率的な方法も見つかる。何より、価値観念に導かれて本源回路が顕在化し、統合されて、強いエネルギーが生じる。
この、対象世界の拡がり(外識機能)とエネルギーの高まり(内識機能)、そして効果=充足度(方法論つまり実現回路)が、思考の引力となる。

●但し、現実の選択に迫られて物を考えた場合は、現実の欠乏etc潜在思念と直結して強い力を生み出すが、その観念エネルギーを持続させる為だけに都合の悪い現実を捨象してきた者は、単なる一人よがりで終る。言うまでも無く、現実否定の倒錯観念だったからである(旧世代の観念派に多い)。
●また’80・’90年代の一部の若者の様に、現実の選択に迫られてではなく、関係非充足から逃避する場として観念世界がある場合、心(潜在思念)は死んでおり、力は出ない。

私権に収束できず、何をすれば良いのか分からない現在の状況は、誰もが現実に生き方の選択を迫られているとも云える。

四方勢至

2013年8月10日 (土)

可能性or不全の源を対象化し続ける源泉

考えてみれば、私権社会(or私権の現実)に対する強い否定意識は、本源可能性や社会可能性の直感に基づいている。それは、決して明確な価値観念などではない。個人的な極限状態において、現実否定⇒可能性探索の道を選ばせたものは、状況認識にせよ可能性意識にせよ、殆ど言葉化できない様な深い潜在思念の直感である。そして、今にして思えば、私が否定してきたのは、現実そのものではなく、現実を正当化しようとする言葉(つまり、欺瞞観念)であった様な気がする。

実際、(本源収束や社会収束の)潜在思念に立脚して、その可能性を実現しようとすれば、対象世界の構造の解明が必要になる。逆に、その可能性にフタをしている欺瞞観念は、全的に解体せざるを得ない。

☆可能性を実現しようとし続ける(従って、その壁の源を対象化し続ける)その意識の出所は何か?
●本源収束・社会収束の可能性が開かれた(可能性を見た)以上、その可能性に収束するのは当然である。例えば、社会が人々の意識によって形成されている(従って、変え得るものである)ことが分かった以上、それを対象化するのは、当然である。
●開かれた対象世界たる同類圧力(=人々の意識)を対象化し、構造的に解明し、その認識を武器として生きてゆくことは、脱私権時代の人類に開かれた大いなる可能性の実現である。
この(同類圧力を対象とする)認識の追求こそ、私権の追求に代る次代の欠乏の中軸を成すものである。

四方勢至

2013年8月 8日 (木)

新パラダイムの点検2 可能性と不全(肯定か否定か)

●充足機能がなければ、不全を知覚することは出来ない。
本能や共認や観念の充足機能があるからこそ、その非充足状態を知覚する機能が必要になった。
原猿が直面した本能不全も、性闘争本能や捕食本能という充足機能に付帯する不全感覚として知覚される。しかし、性や食の本能(充足機能)それ自体では、この本能不全=壁を突破することは出来ない。そこで、より根源的な適応本能が、可能性を模索することになる。そうして、不全捨象の解脱充足機能(=新たな充足機能)が、形成された。それら全ては、適応=充足機能(or状態)の獲得というベクトルに貫かれている。

もちろん、その過程では、原猿初期や私権時代の様に、何の可能性も見付けられずに不全感や現実否定の意識の中に閉じ込められて終う一時期も存在する。(その結果、私権時代は、現実否定(or捨象)の感応観念へと可能性収束するしかなかった。これは、解脱充足へと可能性収束した原猿と同じ位相の時代であるとも云える。もちろん、解脱充足や感応観念では、元々の縄張り本能の不全や共認充足の不全を解決したことにならないことは、云うまでもない。)

何より、不全感や否定意識に閉じ込められた状態は、一定期間しか続かない。適応=充足機能(or充足状態)の獲得という根源ベクトルに貫かれて、原猿は本能不全を超える新たな充足機能=共認機能を獲得したし、極限時代の人類は適応不全を超える新たな充足機能=観念機能を獲得した。本源充足の可能性が開かれた今、人類が私権不全を超える新たな充足状態=本源社会(共認社会)の形成に向かうのは、必然である。

四方勢至 

 

2013年8月 6日 (火)

学者の認識が陥りやすい罠

>人間が陥りやすい認識の罠、正しい推論や判断を阻害する要因についてまとめていきたいと思います。これまでの議論とちょっとずれたところにある話題ですが、みなさんのご意見をいただけると嬉しく思います。(23704蘆原さん)

「人間が陥りやすい認識の罠」とは、人類史に貫通的な認識上の弱点構造を解明しようとしているのでしょうか。もし、そうならズレるかもしれませんが、現代の認識上の問題点は、学者や知識人のそれに象徴されているようにも思いますので、そのあたりから。

以下は、2月12日Nature Geneticsからの配信された「クローンマウスは寿命が短い」からの引用。
-------------------------------------------------------------
体細胞から作り出されたクローンマウスの寿命は、自然交配で生まれたマウスより有意な程度に短いことが日本の研究者によって発見された。これまでの研究では、クローン動物に肥満の傾向があり、免疫機能障害の発生率が高い可能性があることが判明していたが、クローン動物と早死を結びつけた研究成果は今回が初めてだ。
(中略)
ただクローン動物の寿命は、遺伝的背景や(細胞核が抽出された)ドナー細胞の種類に依存している可能性があると小倉たちは警告している。
-------------------------------------------------------------

「クローン動物の寿命は短い。」と「実験結果はドナー細胞やその遺伝的背景に依存している。」とはこの実験結果を評価する意味では対極的にある。なぜ、最後の警告をつける必要があるのだろうか。実験である以上前提条件に縛られるのは当たり前であるにもかかわらず、である。

「クローン動物の寿命が短い。」というのは、普通に考えれば当たり前のことのようにも思える。常識的な予感が実験結果にも現れただけともいえる。とすれば、何のためにこんな実験をしているのか?ということの方が疑問になる。そのことを問わないのが、現代の科学の流儀のようである。

何を解明しようとしているのか?せねばならないのか?という課題を不問にしたままでは、認識として何も得られないのではないだろうか。「いろいろな可能性が残されています。」と言うだけなら、はじめから何も解明する気がないに等しい。その前提条件と結果の間に未明部分を含むから因果関係は実証されていないというだけなら、はじめから関係構造を追及する気はないに等しい。

そのような、課題の評価を不問にし、関係構造を脇に置いた、断片的な実験や観察結果こそ、価値判断を保留した客観的な認識であるかのような考えが、すべてを意味のない知識へと貶めているようにも思えるのだが。

石野潤 

2013年8月 4日 (日)

言葉は万華鏡のように

手元に一枚の絵葉書があります。

奈良美智という現代美術作家の作品で、漫画のようにデフォルメされた女の子の立体作品です。
この絵葉書を見て、ある人は「こわい」といい、ある人は「かわいい」といいました。

実際、この作家の作品は、(対極にあるともいえる)両者の感覚が同時に感じられる、両義的で不思議な性格を持っていて、そのどちらを主調的に読み取るか、というのは、読み手に委ねられています。

現代の”言葉”も、同様の位置付けにあるように感じます。全く同じ言葉を投げかけてみても、受け取る人によって全く違った意味合いを持ってしまうし、同一個人であっても、状況次第で”言葉”の意味合いは随分変わる。

「不動のもの」であると暗黙のうちに信じられていた”言葉”が、まるで万華鏡のように自らの意味をくるくると変えるようになってしまった。

この現象自体が随分現代的なことだと思います。なぜなら、”言葉”の意味を固定しているのは、”言葉”そのものではなく、その背後にある”パラダイム”だから。パラダイム自体が音を立てて変貌している現代、言葉の意味が固定されるはずも無い。

言葉はパラダイムに規定され、「可能性」がパラダイム(の位相)にあるのであれば、「『言葉』をもって『可能性』を語る」、すなわち「『規定されるものを』をもって『規定するもの』を語る」という戦略自体、論理的に転倒しているのかもしれません。

”パラダイム”を変え得るのは、”個人の意志”ではなく、”人の集積”であって、それはネット・対面の別を問わない、というのは、ここのところの投稿を読んで感じるところです。

三宅秀和

2013年8月 2日 (金)

構造認識はゆらぎ、多様な変異体を生ずる

>対面じゃないと伝えた気にならないと思いながらも、流暢にスラスラと順序よく話せるかと言えばそうでもない。話が飛び飛びになったり、話してるうちに何を言いたかったのかもわからなくなったりして、伝えきれない時って結構ありました。

それでもいいのではないでしょうか。自分が思っているより、相手に伝わっていることだってあるかもしれません。

同類圧力の 只中にいるということは、私たちの在り様が世界の在り様に影響を与えるだけではありません。私たちの思考や行動が周囲の評価圧力から影響を受けているとい うことです。従って、構造認識を語る時にも常にその時々にかかる様々な評価圧力を意識せざるを得ず、その時語る構造認識の発現の仕方がその圧力を受けて変 容するということです。基本的な認識は同じでも、構造認識にゆらぎが生じるということかもしれません。

つまり、語る内容は一度として同じものはない。ということは、必ずしも流暢な伝え方をする必要はなく、その場その場に応じた伝え方、あるいは語る人それぞ れのいろいろな伝え方があってよいのではないか、と思います。極端に言えば、言葉としては伝えるのは苦手だが、その人の行動・生き様として構造認識を体現 しているというのもあるかもしれません。

従来の認識の伝わり方は、聖書のような経典や教科書のように規格化・固定化された認識が教えられ、それをありがたく暗記するというものでした。それが認識が固定観念化した、そして説明上手な人がもてはやされた一因だったのではないでしょうか。同類圧力の元での認識の伝わり方はそうではない。同類圧力によって構造認識はゆらぎと多様な変異体を生み出す。それでよいのだと思います。固定観念化することもありませんし、何より、多様な変異体=同類他者を生み出すことは進化の原理でもあるわけですから。  

冨田彰男

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