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2013年7月

2013年7月31日 (水)

構造認識が評価空間の場に馴染む

>その場のムードも含めた‘土俵’を形づくっていくことが、そのプレゼンテーションを成功裏に治めるために必要不可欠だからです。この‘土俵’というのが、今議論されているパラダイムの‘ミニチュア’のような気がします。

改めて、従来の観念群と実現論の構造認識の違いに一つ気づきました。自然科学も含めて従来の観念は、対象から独立した主体が対象を客観的に観察するという認識パラダイムでした。実現論の構造認識は人間、あるいは同類圧力という場を対象化した認識ですが、その同類圧力の場の只中に
私たち自身がいるということです。

ということは、私たちの在り様が世界の在り様に影響を与えるということです(この点が従来の自然科学のパラダイムとも決定的に違うところです)。極端に言 えば、構造認識を発信した場合と、同じ構造認識をもっていても発信しなかった場合とでは、世界の在り様が全く変わってくるということです。語ることで構造 認識が現実化するが、語らなければ宝の持ち腐れ。同類圧力の場の只中にいながら、その場を動かす認識だとも言えそうです。

この同類圧力の 場とは評価圧力で満たされた場です。同じ認識を語るにしても、現実は時と場合と相手によって様々な評価空間が形成されます。従来の認識パラダイムでは誰が 誰にいつ語っても同じものですから、活字で伝えるのが一番手っ取り早いのでしょうが、実現の構造認識を伝えるには、現実の評価空間の中で生起する様々な圧 力を対象化しながら語る方が適しているのかもしれません。基本的な認識は同じものだとしても、人を介した方が構造認識が時々の評価空間の場に、より馴染ん だものになるのかもしれません。土山さんの言われる「行間」もこういうことなのでしょう。  

冨田彰男

2013年7月29日 (月)

『行間』に垣間見える新パラダイム

 「人を媒介にした方が新パラダイムを伝え易いのは『行間』を読み取ることができるからだ」という吉国さんの見解、そして「認識と体現(者としての自分)を伝えたい」という森本さんの意見にからんで、もう少し考えてみたいと思います。

 仕事がら私も、文字(=レジュメ)や絵を使いながら、クライアントの前では身振り手振りを交えて言葉を駆使してプレゼンテーションを行いますが、吉国さ んと同様に、語っているのはレジュメや絵では表現されていない『行間』の部分ばかりです。しかもそこで語られる『行間』も、相手のT.P.O.に応じて当 初の構想とは異なる切り口で話している方が圧倒的に多いというのが実態です。

 このような体験は誰にも共通のものだと思いますが、何のために『行間』の語りかけにこうもエネルギーを掛けるのかと言えば、そのプレゼンテーションで提 示しようとしている内容を相手が正しく理解できるように、その場のムードも含めた‘土俵’を形づくっていくことが、そのプレゼンテーションを成功裏に治め るために必要不可欠だからです。

 この‘土俵’というのが、今議論されているパラダイムの‘ミニチュア’のような気がします。つまり、潜在思念発の構造認識の中で相手に対する影響力の一番ありそうな‘断片’や、どんな問題意識からその着想が生まれたかというような‘状況認識’などを、自分の全人格の表徴物として『行間』を埋めるかたちで語っていることになります。

 新パラダイムを語る言葉というのは、言われてみれば単純だが、あまりに根底的であるために、普通の人が抽象的な言葉以外で表現しようとすると説明調になってたいくつな長文になるし、それでは潜在思念に 届かないという難点があります。それに比べて、話言葉は「くどくど言わぬがオレを見て感じろ!」みたいな阿吽の呼吸とも言える意思伝達も可能だし、そもそ も対面の会話というのは大なり小なり『行間』を語り合っている・・、その典型がとことん観念を省略した若者たちの会話なのだとも言えます。

 『実現論』のように精緻な文章で書かれた執筆文であったとしても、まずは新パラダイムの地平で読んでもらわない限りは、『行間』の理解が正反対になっておそらくあまりおもしろくないだけでなく、特に旧パラダイム派は何かと批判や中傷をしたくなるのだと思います。

 現在ネット投稿に熱心な人たち=観念を駆使することに慣れている人たちの大半は、旧パラダイムに首まで漬かっている可能性が高いので、ネットに縁遠い人 たちに呼びかけていくためには、人海戦術ならぬ‘人介戦術’しかないというのも無視できない事実でしょう。しかしそれを差し置いても、人を介することの意 味は、『実現論』やるいネット投稿文の『行間』をおもしろく読んでもらえるように『観念パラダイムの逆転』のきっかけ作りをするためにあると私は考えてい ます。

土山惣一郎

2013年7月27日 (土)

「私権欠乏」を直視すれば歴史は面白くなる

>近世・近代に至って市場拡大という現実(自我・私益の拡大)の可能性が開かれると、現実否定の感応観念の内部に自我・私益が取り込まれ、倒錯観念は自我・私益を正当化した欺瞞観念(恋愛・人間・自由・個人etc)に姿を変えた。しかし、近代思想は現実そのもの(=自我・私益・力そのもの)を直視しようとはしなかった。開かれた現実の可能性を、欺瞞観念(恋愛・人間・自由etc)の実現の可能性だと都合良く錯覚した。これは、明らかに「現実」のスリ代えである。

私権時代=歴史は常に「支配VS反支配」という「枠組みの中」で記述されてきた。
>支配の歴史が本筋であり、支配と被支配が当たり前のように錯覚させるかもしれませんし、歴史は一部の支配階級によって作られるかのような錯覚すら与える可能性があります。

この「支配VS反支配」という枠組みから自由になれないことが結果的に「愛・人間・自由」あるいは「伝統・民族・保守」といった古い価値観念に縛られた歴史記述を我々に強いているのではないだろうか?

そして更に歴史をつまらないものにしている根本は「支配VS反支配」という2項対立ゆえに「私権欠乏」という基底構造や「市場拡大」という社会構造をいわゆる歴史家がまともに取り上げててこなかったという点にあるのだと思う。

歴史を権力者同士の覇権抗争という視点で見ていたのでは、あるいは権力者VS抑圧された被支配者の対立構造という視点で見る限りは、力の論理を超え出る構 造認識は生まれてこないし、市場(もしくは貨幣)が部分的ではあれ成し遂げた超集団統合という現実を知ることは出来ない。

「実現のための歴史認識」構築のためにはこの「私権欠乏」という意識構造と「市場」という社会構造こそが「ホット」な話題であって、「市場論」を抜きにした「支配/被支配」の枠組みに止まった歴史考察が気の抜けたビールのように「面白くない」のは必然だと思います。

山澤貴志

 

2013年7月25日 (木)

考えるということが最近わかってきました。

投稿を始めて1年特に最近思うのですが、脳が活発化してきたというか、日常多くのことを考えるようになったと感じます。
固定観念が強固にある以前は考えるという行為は時間の無駄というか、あえて考える必要はありませんでした。
そこではハウツーに近いどうすればうまくやれるかとか、どうすれば得するか、損しないかのような即時的な領域か、好き嫌いの評価や他者への感情といった感覚的な領域に大半の頭を使っていたように思います。

加来野さん投稿のように、知らないうちにいままで忌避してきたものが新鮮に感じられるという感覚は理解できます。
私においては今まで全く見向きもしなかった論文や歴史書がスッと頭に入ってくるといった変化が起きています。
構造認識はいまだに稚拙な段階なのですが加来野さんが言うように、るいネットによる肯定視の効果は気付かない内に自らのパラダイムを転換していっているのかもしれません。

田野健

2013年7月23日 (火)

そこに可能性があると思って見ると見えてくる。

私は以前まで「格言」とか「ちょっといい話」というものに対してあまりいい印象をもっていませんでした。都合のいい場面で都合のいいように使われたり、現 実の問題をすりかえて使われることが多いような気がしたし、念仏を唱えるみたいに無理してそうあるべきだと抑圧しているようにも思えたからです。もちろん 私自身の否定意識が影響していますが。

いまでもすんなりと潜在思念に 響いてくるということはあまりないですが、そこに何か可能性がないか、探ろうとするようになったと思います。もちろん感動したり胸に響いてくるような言葉 や認識はありますが、それとは別に、これを言う人はどういう気持ちで言ったのだろう、その人の置かれている状況や背景はどんなだろうか、そんなつながりを 知りたいと考えるようになりました。

だから最初は「何この人、わけわからないこと言って」と思うような言葉でも、「いや本当はこういうことが言いたいのだな」とか「こういう固定観念に影響さ れているのだな」とか分かると、そんなに否定すべき対象ではなく、むしろこんな風に考えたらいいのになと逆に可能性を探る視点でみることができます。

この程度でパラダイム転換が理解できたとは恥ずかしくて言えないですが、構造認識と肯定視の効果が、すこしずつ、現れているような気がします。

加来野浩史

2013年7月21日 (日)

心震わす言葉に出会う

最近、「心震わす言葉」によく出会う

もともと、人の言葉に惹かれ、よく影響を受けたりするのですが、今年に入ってからは、その頻度が急激にあがった気がします

それは例えば、前回の投稿で紹介した、メールマガジンなんかで見つけたり、上司や友人・知人の何気ない言葉であったり、ちょっとしたきっかけで出会った人の小話だったり、出会う状況は様々です

この状況を、僕にもたらしたのは、「パラダイム転換」の提示ではないかと、今考えています

昔は、どこか斜に構えて、何事も疑ってかかり、自分の考えや価値観に照らし合わせて、自分にとっての「言葉の価値」を判断していました
まずは、疑うという、否定の方法論で物事を判断していたわけです

しかし、このるいネットの場でパラダイム転換の提示が始まり、徐々に多くの方から、新しい現実直視の認識が語られるにつれて、そのような自分の「物事を見る態度」が変わってきたと感じます

自分の考えや、価値に照らしあわして物事を見るのではなく、状況をそのまま、ありのままに見つめ受け止めようと思い始めました
何事も、己の価値観を主軸に考えれば、その価値観に反するものは全て否定からしか見れなくなるからです

そのように心がけているうちに、段段と、物事を見る眼、人の言葉を聞く耳が変わってきました。その結果として、今までは見過ごしていたような言葉に心震わす機会が増えたのだと考えています
少し前に、潜在思念の蓋を取り除くという投稿がありましたが、この蓋が徐々に開かれていっているのだと感じます

心震わす言葉とは、すなわち、実現思考の言葉、そして認識を広げる言葉
そういう言葉に、今までは、「何を当たり前のこと言ってるんだ」と思う一方で、「それが難しいんじゃないか」とも思っていた
結局否定しかしていなかった

ところが、色めがねで物事を見るのを止めれば、こういう実現思考の言葉や、認識を広げる言葉は、己の潜在思念へと響き、より可能性を探索する思考を広げていってくれる
実感としてそう思います

逆に、何事にも否定的で、現実を直視しようとしない言葉や、態度に出会えば、実現思考を教えたくなる

認識を得た人が、また周囲に広めていく
パラダイム転換とは、このようにして広まっていくのだと、感じています

西谷文宏

2013年7月19日 (金)

照準が合ってきました

> 現実=下部意識を対象化すること(現実否定の否定)、そして現実否定→倒錯思考の既成観念を全的に否定すること。これこそ、窮極の観念パラダイムの転換で ある。人々が(意識の最も深い所で)求めていたものこそ、この観念パラダイムの逆転であり、観念パラダイムの逆転を促す言葉こそ、人々が最も強く可能性を 感じる言葉である。

 過去何度か「実現論」を語った体験がありますが、議論にしかならなかった苦い記憶があります。そうすると次に会うのが億劫になり、よそよそしくなってしまいます。今思えば「実現論」を現実否定の意識によって語っていたからだと気付かされました。これでは相手の潜在思念に届かないはずです。

 それに対して潜在思念を 少しでも共有できている、または共有しようとする姿勢で相手に対するとき、議論ではなく、静かに深く言葉を探索して語るようになったと感じています。しか しその分少ししか言葉にならず、もっと端的にスッキリと語れないかなと認識力が欲しくなっていました。何を構造解明し、何を語るか、今回四方さんの示唆で ピッタリと照準が合ってきました。
 
 

岡本誠

2013年7月17日 (水)

面白い+楽しい。

中野さん「面白い」って感覚に「楽しい」って感覚が加わっていました。
以前、子供や若者、社会を見る目は何時も批判的でした。
大人が寄れば子供や若者、社会へ対する文句ばっかり並べ立て話題にしていました。自分の育てた子供や家庭は横に置いて、何時も世の中を愚痴っていました。

最近見方が変わってきたことに気づきました。
イライラしたり、眉をしかめることが余り無くなったことに。

友達と寄って話をしても、「電車の中での化粧は面白くて退屈しなかった。」とか、「今の子供は言葉を簡略して宇宙語みたい。」と話すと、そうそうと皆が笑っているのです。
「若い人たちのこと笑えないわよ、賑やかなこと。」などと雰囲気が依然と全く違ってきているのです。

確かに眉をしかめることは多々あります。
しかし、しかめても文句を並べても、過去を持ち出しても何も変わらない、むしろ世代間の溝は深まるばかりです。

今を見据えて、此処から、今から・・・もっと楽しくなるぞと、何時の間にか前向きに考えられるようになってきていたのは、るいネットに参加するようになってからだとしみじみ思いました。

浦野てる代 
 
 

2013年7月15日 (月)

「答え」としての『実現論』が意味するところ

今 まで、統合理論(=答え)としての『実現論』も何度か読みました。最初はその「答え」の意味するところはよく掴めなかったのですが、最近の下部意識にス ポットを当てた現実直視に関する投稿の流れで、現実は人々の意識によって規定され、人々はその意識に基づいて行動していることがようやく解ってきました。

そういう観点で読み返すと、『実現論』がサル時代から遡って人間の下部意識を解明するべく事実認識を積上げ構造化した理論であることが見えてきてきました。
そして下部意識の構造がある程度解ると、不全を頭の中で自己正当化する自我意識が、事実や真の下部意識を捻じ曲げるという「現実」が徐々に解るようになってきました。
そして現代は、私権システムという自我意識を駆動させる麻薬が切れてきて、本来の下部意識と上部意識が徐々に真直ぐに繋がりつつあることも、様々な現象からなるほどと思えてきました。

卑近な例ですが、「期待・応望充足」という人間の下部意識を意識して見るだけで、子供の心の状態が解るようになったり、或は、仕事でも「共認・課題捨象の自我」という概念があることで、部下或は自らが本当に対象を直視してその求めに応じた成果に向かえない原因が、だんだん解ってきた感があります。ついでに、そのように原因がある程度特定できると、腹が立ったり、苛立ったりとうことがほとんどなくなってきました。

『実現論』が「答え」として重要だと思うのは、下部意識の基本的認識を形づくっていることだと思います。下部意識が見えれば、上部意識がそれに沿ったもの か否かがはっきりしてきます。また、考えていく道筋が、下部意識と上部意識をイコールで結んでいくにはどうすればよいのか、というふうに明解になってきま す。

難しいのは、今まで経験したことのない集団間に渡る下部意識に直結する意識統合ということだと思います。そのために今、下部意識が捉えた潜在思念で、みんなが共感する今までにない新しい方向性を模索していく必要があるのだと思います。  

佐藤祥司

2013年7月13日 (土)

「実現論」における「実現」という言葉のもつ重さ

新しい認識である「構造認識」を伝播させる(「答」を教え広める)段階に入って、その手法について考えていましたが、

>人権思想を含む近代個人主義思想は、書物を媒体として伝播した。一方、構造認識(=実現論)はむしろ人によってしか伝播しない。(22480

と述べられ、更にその理由を明確にされているのを読んで、改めて「人による伝播」に最も可能性があることを再確認しました。

この「書物」と「人」は、前者が「上部意識(観念)」、後者が「下部意識(本能)」でまず捉えるという点に違いがあります。我が身を振り返っても、近代思想を知るにはまず「書物」から入っていきました。有名な哲学者、思想家、文学者、それらの「書物」から得た知識、彼らの主義、主張、を「有名」だから、認められているから、という理由で受け入れていたように思います。しかし、これらは観念の世界に留まり、今から思えば自己満足に過ぎない。何かに対して自己正当化するための巧妙な手段としていた。無意識であっても「現実」を対象とするのではなく、状況に応じては「現実」を否定し、または「現実」から「逃避」することに向かっていたように思います。

構造認識における「現実直視」は以前のような「書物」を媒体とした観念によるのではなく、あくまでも「現実」に立脚し、それを「否定」するのではなく、それから「逃避」するのでもなく、「ありのままに視続けること」。そして視続けた先に「現実」に存在するのは人であり、人々。「まず人ありき」である。

>そこで「人」の必要性が登場することになる。自分より元気な活力ある人が目の前がいる。その人は、「構造認識」で現実を切り開いている。

と上平さんが指摘されているように、この「構造認識」をまず一人一人が実践していくこと。日常の中で、仕事の中で、「不全」を抱き「現実否定」へと向かうベクトルを、まず「現実直視」し「不全」を「不全」で終わらせるのではなく、「どのようにすればいいのか?」という「可能性」に向けていくこと。「元気な活力のある人」とは、このことを実践している人だと思います。

生きて行く上で、何かを「実現」しようとするためには、まず「現実」「人々」を対象に捉えなければならない。そして、人々の意識を変えるためには、自ら「構造認識」を実践していくこと。そして人々から「その生き方を学びたい、その生き方は何に拠り所があるのか?、自分もそうありたい、教えて欲しい」と言われるようになる。そこで、「実現論」を伝える。そういう過程を踏めば、更に「人」から「人」へと伝播するのではないでしょうか?

新しい認識「構造認識」を伝播させるためににはまず「人」から。そして「実現論」へ。「理論から実践へ」という過程では「普通の人々」への伝播には「壁」がありますが、「実践から理論へ」ならこの「壁」はなくなるように思います。こう考えると、近代思想にいかに「実現」という観点が欠落していたかということを感じると共に、「実現論」における「実現」という言葉の重さを実感しています。

大木康子 

2013年7月11日 (木)

可能性を感じることが最大の活力源になる

パラダイム転換とは同じ現実の圧力を可能性として捉えるか、無意識にも覆い尽くされる重圧として捉えているのかの差だと思う。

仕事であれなんであれ、課題解決に向かうとき活力が相乗的に湧き上がってくる場合とそうでない場合がある、両者とも同じ現実のなかで考えていてもである。そして、それは課題の困難さとはほとんど無関係だと感じている。

活力が湧き上がってくる場合も、そうでない場合も、課題解決までは相当に時間を要する。課題が困難であればなおさらである。両者とも最後に解決するまでは、結論の出ない長い課題探求時間を必要とし、その間の活力維持がもう一つの課題となる。

活力が維持できている場合は、はっきり形になっていなくても、解決へ向けての見通しをもっている場合であろう。そして、最終的には実現できるという潜在的確信から、長い探求期間も苦にならない。見通しが着実に実現方向に移行しているという実感が活力を維持している。反対の場合は、目に見えた成果がすぐに出ないと悲観的になり、活力をそぐ人であろう。

この差はなんであろうか?それは、潜在思念で課題を解決可能なものとして肯定的に捉え、現実対象の仕組みや実現基盤の解明を通して、実現につながる見通しを得ていること。そして、それが長い課題探求期間を支える充足感につながっていることだと思う、まだ答えが出ていなくても。

それに対して活力が出ない場合は、課題(現実)そのものが肯定的に(解決に向かうものとして)捉えられていないのであろう。それゆえ、できれば避けたい現実とうつり、長期の探求期間を支える充足感もないため、刹那て的な私的充足に流れるか、出来ないことを私的不全をして捉えてしまうのではないかと思う。

仕事のことなら、まだこのように自ら可能性を感じて活動している人もいるが、課題が現在の全的閉塞状況の突破では、その様な人でさえ可能性を求めながらも、見通しがたたないというのが現実だろう。この突破には、歴史を貫通して状況を深く認識できる構造認識が不可欠である。

その様な人は、答え欠乏がき極めて高いと思う。なぜならば、可能性を感じることを活力源にしているのだから。だから、構造認識を得ることのよって一気に可能性の広がりを感じ、自らも構造認識を補強していく過程に入ると思う、更なる活力上昇のために。

本田真吾

2013年7月 9日 (火)

人からしか伝播しない理由

人権思想を含む近代個人主義思想は、書物を媒体として伝播した。
一方、構造認識(=実現論)はむしろ人によってしか伝播しない。

なぜだろう。
その差が実現思考と否定思考の違いを端的に表しているし、このカテで方針化しようとしている構造認識の伝播についての示唆を与えてくれると思う。

そもそも否定の観念の伝播は書物で充分である。それは、今、目の前の事実を捨象するのは、頭の中で0.1秒で可能であるからだ。また、何も現実を変えることのない観念の吸収は一人で充分であって、下部意識(本能回路、共認回路)とは全く無関係に単に上部意識(観念回路)で吸収し自己正当化できればそれで完結するからだ。

一方、構造認識(=実現論)は下部意識と上部意識の整合が生命だ。構造認識は下部意識=現実そのものを対象化しているからこそ、現実を変えることが可能であるのだが、その構造認識を吸収するきっかけが皆無であるという状況が現代人を取り巻いている。

まず、認識の吸収という視点で考えると「構造認識」は自らの下部意識と整合しない限り、吸収できないし、使えない。そのために超えないとならない壁は「現実直視」の壁であることはこの間ここで議論された。いわば、一部の構造認識を独力で生み出せる稀有な存在を除き、答えを与えられてようやく分かるというのが、パラダイム転換の妙であり、構造が分かってしまえば極めて簡単ではあるが、いかんせん旧パラダイムに留まる限りでは「気づかない」ことに現実直視の最大の壁がある。気づかないから現実を直視できないわけで、気づけばそれでしまいである。

次に、現代人は実現派といえども、欺瞞観念に一定は毒されているため可能性収束力が弱く「答え」に辿り着いても、答えと認識できないことも問題である。また、「構造認識」は、実践の中でその正しさの確信度が高まる。すなわち、実際に使ってみてその切れ味に魅了され、そこで得られる成功体験によって、実現回路が太くなる構造である。

そこで「人」の必要性が登場することになる。自分より元気な活力ある人が目の前がいる。そのひとは、「構造認識」で現実を切り開いている。そんな実現派の人への可能性視が、在野に埋もれている実現派の可能性収束力を引き出し、現実直視へと導くことになる。一度、「構造認識」の切れ味に魅了された実現派は、短期間でパラダイム転換を成し遂げるであろう。 

上平貴昭

2013年7月 7日 (日)

構造認識を伝える相手=自分

ネットは核ではあるが、あくまでも投稿する人、伝える人の認識が相手の欠乏を規定するのだ。

「主体=対象」「現実は自分」ということが明確になるにつれ、こんなことを考えるようになりました。

目の前で話をしている相手は自分の意識を反映する鏡ではないでしょうか?話している相手に可能性を感じるのは、自分が可能性を探っているからです。可能性を感じないのは、自分の可能性を探る意識が貧弱だからかもしれませんし、あるいは可能性を語る相手を間違えているのかもしれません。

主体=対象ということは、構造認識を伝える相手がどのような反応をするにせよ、それは自分の意識の反映なのではないでしょうか? 自分の下部意識の顕在化度合い・可能性認識度合いに従って、相手の下部意識は顕在化するのではないでしょうか?

ということは相手が構造認識に対してプラス側に反応してくれないのは全て自分の下部意識の顕在化度・可能性認識度合いが貧弱なせいである、ということになります。結構厳しい話かもしれませんが、実はこれ展望のある話でもあります。

相手がプラス側に反応しない原因を自分の外に求めると、その原因が変わらない限り相手は変わりませんから、自分ではどうしようもありません。原因を自分の外に求めていると、だんだん自分の力は弱くて突破することはできないという気になってます。逆に、相手=自分であって相手がプラス側に反応しないのは自分のせいであると考えると、自分次第で相手はプラス側に反応してくれるはずだということになって、やる気と自信が沸いてくるような気がします。

 

冨田彰男

2013年7月 5日 (金)

現実肯定視が生む思考のゆとり

>要するに、実現の為の構造論は、現実否定の鎖を断ち切られることによって、初めて輝き始める。

私権時代カテで歴史を考えながら思うことだが、「これまでの文字になって記録されてきた歴史とは支配者の歴史であって、庶民からの見た歴史を、非文字の資料から再考しないといけない」という風潮が最近は強い。
しかし「現実否定の鎖を断ち切る」⇔「倒錯観念の全否定」という視点で考えると、「庶民の歴史」というのは反「権力の歴史」であって旧パラダイムの枠組みを抜けきっていないというべきではないだろうか。「戦争」に対して「平和」を、「国家」に対して「村落共同体」を、「農耕」に対して「縄文」を対置して考える思考は、前者をマイナス視し後者を理想視することで「知識人の教養」となりはするが、「現実の答」たりえない。
なぜなら「力の論理」を超えた「社会統合理論」の必要性といった認識にいたる為には私権時代の主力モーターであった庶民自身の私権欠乏をも否定する必要があるが、庶民を美化する限りこうした認識には到達し得ないからだ。

何故、歴史をあるがままに見ることができないのか?それは「私権から本源へ」という可能性を対象化できない=思考の活力源と出来ないために、どうしても歴史を全否定するエネルギーが生み出されないのだ。何かを美化し捏造された儀装観念の可能性では、思考に限界があるのだろう。

歴史を考える上で大切なのは従来の2項対立的な思考を超越しうる「思考のゆとり」である。
私権から本源へ」という可能性を潜在思念で深く肯定することで、思索の為の余裕とかゆとりが生まれてくる。

過去の「共同体」を美化することなく、それが崩壊していった「構造」を知ることが可能になり、そして「国家や市場」を一面的に罪悪視することもなく、それを必要とした「人々の欠乏の構造」を知ることも可能になる。

この可能性に導かれた「思考の余裕」が新しい「構造」を語りだすとき、相手の反応も変わっていくだろう。そうして「構造認識」を廻る「期待応望関係」が「話し手」の「人柄」をも変えていくのではないだろうか?

山澤貴志

2013年7月 3日 (水)

新パラダイムの効用 現実否定の鎖を断ち切って、プラス活力の上昇へ

●現実=下部意識を対象化すること、そして現実否定→倒錯思考の既成観念を全的に否定すること(現実否定の否定)。これこそ、窮極の観念パラダイムの転換である。

●人々が(意識の最も深い所で)求めていたものこそ、この観念パラダイムの逆転であり、観念パラダイムの逆転を促す言葉こそ、人々が最も強く可能性を感じる言葉である。

●人々が可能性を感じる言葉の深さ=強さ(難しさ)と、浅さ=弱さ(易しさ)の序列は、

1.パラダイム転換そのものを説く言葉。

2.パラダイム転換を促す諸々の大きな(深層の)状況認識=実現の構造認識。

3.個々の問題に対する個々の答え=小さなor部分的な状況認識・構造認識。

従って、個々の答えから一気に大きな状況認識へ、更に窮極のパラダイムの逆転へと話を進めれば良い。

●このパラダイムの逆転(現実肯定)によって、我々は初めてプラスの活力源を強化してゆける様になる。
これまで、我々は現実否定の意識によって、重い鎖につながれていた。実現の構造認識さえもが、現実否定(or社会変革)の為の構造認識という鎖につながれていて、充分な活力を生み出せなかった。しかし、今回、パラダイム転換によって最後の鎖を断ち切った事によって、大きな活力上昇が期待できる。
実現論は書き改められ、否定の鎖を断ち切った事によって構成や論理が明快になり、文章に勢いが増すだろう。従って、より多くの(特に実現派)の共鳴を得ることが可能になる。
読者や投稿者の活力や投稿文も同様で、現実否定の鎖が断ち切られたことによって、一直線にorひたすら現実の可能性に収束すれば良いことになる。従って、一つ一つの投稿に明快さや勢いが生まれてくるだろう。

●要するに、実現の為の構造論は、現実否定の鎖を断ち切られることによって、初めて輝き始める。

四方勢至

2013年7月 1日 (月)

新パラダイムの効用2 答えを教え広める動因

人々が一番求めており、可能性を感じるのがパラダイム転換の言葉なら、その認識を教え広めることが(=人々の期待に応えることが)最大の活力源=動因になる筈である。人々の答え欠乏は、答え=パラダイム転換の言葉が与えられて初めて顕在化する。まずは、それ(答え)に気付くこと。それさえ気付けば(=理解すれば)、後は自分で考えてゆけるし、考えるにつれてより具体的な答え(=個々の構造認識)が欲しくなる。つまり、まず最初の言葉(=パラダイム転換の認識)を与えた時から答え欠乏が顕在化し、より具体的な言葉を与える度に答え期待が強くなってゆく。相手との関わりの中で顕在化し強まってゆくこの顕現期待こそ、実現派の最も大きな活力源となる。

四方勢至

新パラダイムの点検 現実の壁を対象化できるか?

●現実(人々の下部意識)を否定or捨象する倒錯思考を止め、倒錯観念を捨てて現実(下部意識)を肯定的に対象化する。

●あくまで現実に立脚し(=現実を受け容れ)、決して現実を否定or捨象することなく、現実(可能性とその壁)を対象化する。

それは単なる現状維持の現実肯定ではない。現実を閉塞させている倒錯観念を全的に否定している。
それは、単なるプラス志向ではない。現実の不全(危機・閉塞)をも、全的に対象化している。

しかし、現実を受け容れながら、現実の不全(危機・閉塞)を対象化することが出来るか?
本源収束・社会収束の下部意識(潜在思念)に立脚して、その可能性を実現しようとすれば、既成観念や私権制度etc無数の壁が立ち塞がり、当然不全感も生起する。問題は、そこで不全→否定意識に囚われて終うか、脱却できるか。つまり、実現回路の強さの問題である。

そこで、実現上の壁(小不全)を前にして、それを捨象or否定し、思考停止して終うのは、決して現実直視の実現思考だからではなく、その逆である。即ち、実現回路が貧弱であるが故に、捨象or否定意識の内部に閉じ込められて終うからである。とりわけ不全にこだわるタイプは、いつもあれこれ考えている様に見えるが、実現思考から見れば、否定意識に囚われた倒錯思考は思考を停止しているのと同じである。

実現上の壁を突破するためには、現実直視⇒実現の構造認識が必要になる。実現派が実現上の壁を捨象して終わないのも、本源への大きな可能性を知っている(=明確に実現構造を認識している)が故に、その実現上の小さな壁は必ず突破できる筈だと確信しているからである。
そうして既に、『私権から本源へ』の可能性が見えた以上、後はその開かれた可能性を実現することだけ考えれば良い。

潜在思念の可能性認識⇒実現思考は、必然的に実現の為の現実対象の仕組みや実現基盤の解明に向かい、現実の構造認識を蓄積してゆく。
しかも、潜在思念の可能性認識が明確な実現構造の認識につながる度に、潜在思念の可能性認識が強くなり、実現回路も太くなってゆく。
従って、潜在思念の可能性認識⇒実現思考は、必然的に実現構造の体系を構築してゆく事になる。

四方勢至

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