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2013年6月

2013年6月29日 (土)

100%完全っていうのは倒錯観念

否定思考と実現思考の違いって、これだけ出来てないって思うか、ココは出来てるって思うかの違いなのかなって思う。

つまり出来ていない部分(不全)に拘るのか、出来てる部分(可能性)に向うのかっていう違い。

実現派だっていきなり100%出来る人なんていない(たまに居るのかもしれないけど)。否定派が不全に拘るのは、100%を目指そうとするからじゃないだろうか。

きっと実現派って言われる人も、実は100の内1つしか出来てないのかもしれない。けれど、それを「1つ出来てるじゃん!!」ってところから思考がスタートしているんだろうなって思う。

森本亜希子

2013年6月27日 (木)

「采は投げられた」

四方氏より年頭に提唱された「観念パラダイムの逆転1 現実捨象の倒錯観念から観念捨象の現実直視へ」以来、次々に「新しい認識」を獲得するための道筋が示されています。

同類圧力に基づく現実肯定→実現思考の観念パラダイムである。
それは、とことん現実に立脚し、現実を直視し続ける思考パラダイムであり、旧パラダイムの生み出した倒錯観念(古代宗教)や欺瞞観念(近代思想)を全否定して、本源収束を導く全く新たな状況認識(誰もが認めることのできる事実認識の体系)を構築してゆくだろう。(21495)

を読んで、「とことん現実に立脚し、現実を直視し続ける」ことから全ては始まる。と言うことを再確認するとともに、改めて「現実」を見ると以前考えていたことと、かなり視点が変わってきたことに我ながら驚いています。

例えば、男女、性の問題における「不倫」や「離婚の急増」「若者の結婚への忌避」「援助交際」をとってみても、その問題を「一対収束」が是であるという旧来の固定観念に基づく道徳観を前提に考えれば、現代人の道徳観の欠落から来る堕落だという認識からは一歩も進めない。(現実捨象の倒錯観念)
しかし、現実にこれらの現象は多くあり、今後更に増え続けるであろうことは確実である。この現実をありのままに見つめると、人々の本能や共認回路が形成する潜在思念が先ず浮かび上がってくる。(観念捨象の現実直視)。
そして更に、誰もが認めるこれらの現象が、もはや止まらない勢いで起こっているという事実が突きつけているものは何なのか?この現実に立脚して初めて、「一対収束」「一対婚」という制度は果たして是なのか?という疑問が人々に「意識化」される。そして、人間にとって本来の男女のあり方はどうあるべきか?との実現に向けての回路が作動する。
「現実とは人々の意識であり」「新しい認識だけが現実を変えていく」を男女、性の問題を例にとれば以上のプロセスになるのではないでしょうか?

「現実を直視する」ということから始まるこの「新しい認識」によって、これまで「出口なし」の閉塞状況にあったものが、霧が晴れ、広角度に見渡せるようになりました。まさに「解答」を得た思いです。

>この新パラダイムの登場をもって、共認闘争=観念闘争の幕が切って落とされる。現実否定(or捨象)の既成観念を、全的に爆破せよ。<

この四方氏の最後通告ともいえる提唱に応えたい。もはや後戻りはできない。「采は投げられた」のである。

大木康子

2013年6月25日 (火)

進化とはパラダイム転換の連続で不可逆的である

パラダイム転換とは、より上位の階層へ統合原理が移行することだと思う。だから、過去の統合原理を踏襲しているという意味で塗り重ね構造であるとも言えるし、高い統合態から低い統合態への移行は絶滅を意味するという意味で不可逆的とも言える。

生物進化においてこれらの転換は、外圧を捉え続けたギリギリの状況下でのDNA変化によって実現される。この変化は、DNAに依存するという意味で発現までの時間のスパンが長いが、遺伝によって伝えられるという意味で機械的に同一方向に起こる。この意味において、進化上の新旧種間における闘争などないだろう。

他方、人類における、観念パラダイムの転換は、DNAの変化による転換に比べ非常に短い時間スパンで起こる。 今回の現実肯定→実現思考の観念パラダイム転換も同じである。潜在思念で可能性を捉え、構造認識で観念化した人から転換する。

しかしその転換は、他の生物のDNA進化のように、高い統合原理に向けてほおって置いても機械的に同一方向に進化するというようなメカニズムは持ち合わせていない。よって、そうできない人は過去の低い統合原理から実現派を否定するいう状態になる。可能性のない”種”であるもかかわらず。

この構造の違いが、進化(可能性収束)に向けての闘争を”種”内に生起させる。

>この新パラダイムの登場をもって、共認闘争=観念闘争の幕が切って落とされる

とはそういうことであると思う。

そう考えると共認闘争とはこのようなパラダイム転換の構造を広め、新パラダイムの可能性を明快に相手に示すことではないか。そして、旧パラダイムの学者や文化人や報道人etcの知識階級と、彼らが広める観念を 粉砕していくことは、外圧適応態である生物としての進化を成し遂げるための重要な闘争であると思う。

本田真吾

2013年6月23日 (日)

構造認識は机上の理論ではなく現実そのもの

営業の局面で最近よく意識するのは「外圧は人々の意識であり、それは自分の意識に他ならない」という事です。あらゆる局面で思い当たります。成功イメージを抱いて望むのか、失敗イメージを抱いて望むのか、成果に違いが出ることはなんとなく経験はしてきましたが、“全て自分の意識である”と明快に認識するとスッキリ感が違います。

さらに、施主や関係する業界の営業マンに当てはめて彼らと対峙すると、彼らの心理が見える気がします。今までも彼らの意識(外圧と感じるもの)を探り、対応してきたつもりではありますが、下部意識=本能や共認機能は所詮同じ、上部の観念が食い違っているだけという明快な認識もありませんでした。そう考えると、彼らは決して“敵”ではなく“得体の知れない人”でもなく、単に、如何に上部の“観念”をすり合わせできるかという「対象」に過ぎなくなります。そして単なる「対象」という無機物に留まるのではなく「期待応望」という喜びを分かち合える「仲間」へと捉え方の意識が変わります。そこから本源的な「活力」が湧いてくるはずです。

そんな彼らとの期応関係(期待に応える関係)を取り結ぶ事ができるのは、「否定」の共認ではなく、「現実」を確かに「事実」として共有し、可能性収束した時だけです。ゆがんだ倒錯観念で営業を組み立てても成果は全く上がりません。自分で「これは倒錯観念かしら?」と悶々とすることなどお構いなしに、成果が結果を出してくれます。

おそらく施主をはじめよする多くの人との期応関係や、それを基礎にして達成された成功体験を、構造認識によって検証しながら、徐々に倒錯観念が塗り替えられていくのだと思います。

新井重雄

2013年6月21日 (金)

既成観念を全的に爆破せよ(2)

充足基調⇒本源収束という可能性の実現にこそ焦点を当てるべきである。しかし、「つまらない観念から自由」「認識を塗り替えようとするほど塗り替えられない」と観念捨象の充足基調にとどまることが新しいパラダイムではない。

観念捨象しているだけでは、認識も進化しないし、活力は上昇しない。少なくともこれらの意見には、生存圧力から同類圧力への転換や同類闘争という観点が欠落しているように思う。

>この新パラダイムの登場をもって、共認闘争=観念闘争の幕が切って落とされる。現実否定(or捨象)の既成観念を、全的に爆破せよ。旧観念は、現実を否定(or捨象)することによって、自己欺瞞(上部意識と下部意識の断絶)に陥った。それに対して、本源収束の下部意識に立脚する新観念が、旧観念を全的に爆破しても、何ひとつ困ることはない。数億年・数百万年の塗り重ねによって形成された下部意識を、頭で都合良く変えることなど出来ないが、観念は頭で塗り替えたら終いだからである。(21495四方勢至さん)

不全を対象化するとき、思考を閉ざし活力を削いできたものこそ現実否定の観念パラダイムである。現実否定の観念が思考を停止させ、本源収束に蓋をしている。パラダイム転換の意義は、既成観念の全否定をこそ肯定視できる基盤を獲得したことであって、観念捨象を肯定したのではない。

実現のために必要な認識とは、不全を突破できる可能性を示せる新しい構造認識である。そこには実現の基盤を発掘できるだけの深さが必要である。その最も深い位置での解答が、同類圧力の場への転換という状況認識であり、観念パラダイムの逆転である。

新しい充足基調⇒本源収束という肯定的な状況認識によって、初めて現実否定の鎖を断ち切ることができる。本源収束という可能性の実現に観念の照準を合わせる事で、肯定的な活力を獲得することができる筈である。

石野潤

2013年6月19日 (水)

既成観念を全的に爆破せよ(1)

現実肯定→実践思考の観念パラダイムこそが立脚する基盤である。しかし、最近の投稿の中にはまだ、「自分達の感覚にあったもの」「自分が素直に疑問に感じる部分」と感覚重視の観念捨象が新パラダイムであるかのような誤解があるようにも思われる。

観念を捨象しているだけでは可能性は開けない。少なくとも現存する不全や実現のための壁という観点が欠落しているように思う。

>既に述べた様に、旧パラダイムと既成観念は、本源収束の出口を塞ぎ、社会を八方塞がりの状態に陥らせている。もしこのまま、旧パラダイムから脱却できなければ、人類は滅亡する。(21495四方勢至さん)

充足基調の一方で、捨象しきれない社会不全が蓄積されている。現実直視とは、日々生起するゆきづまりや捨象しきれない不全をも対象化する。実現派の潜在思念から見て、実現思考に立ちはだかる壁とは、既成観念がまったく使い物にならず、それゆえに実現可能性が閉ざされたり、実現可能性が矮小化されているところにこそある。

ならば、実現派の潜在思念に対して有効な言葉や、充足基調に対する新しい可能性の提示とは、既成観念を爆破する新しい認識群であるはずである。現代のゆきづまりを乗り越えていけるのは、常識を覆す時代認識や新しい社会構造論である。

>それは、とことん現実に立脚し、現実を直視し続ける思考パラダイムであり、旧パラダイムの生み出した倒錯観念(古代宗教)や欺瞞観念(近代思想)を全否定して、本源収束を導く全く新たな状況認識(誰もが認めることのできる事実認識の体系)を構築してゆくだろう。(21495四方勢至さん)

実現思考とは、現実の可能性と壁、不全をも全的に対象化することにある。現実否定の否定、既成観念の全的否定こそが究極のパラダイム転換であり、これこそが実現派が求めつづけているものである.

石野潤

2013年6月17日 (月)

パラダイムシフトの困難さと平易さ

パラダイム(シフト)の「理論」の難しさと平易さ、…問題は、パラダイムとは認識構造そのものであり、パラダイム(シフト)論の理解は構造認識を必要とするところにあります。

「現実否定」の旧パラダイム(構造認識)では、パラダイムシフトを理解しようとする前に「否定視」や「捨象」という操作が先に働いて、いくらでも否定視に纏わられた疑問が起こってきて理解を困難にさせます。

ところが、「充足基調」に可能性収束しておれば、現実否定のパラダイムをどちらかといえば捨象しているので、「現実肯定」という「パラダイムシフト理論」が平易に理解されてしまいます。
しかし、パラダイムの逆転という構造認識が理解できていないと、安直に「いつも明るく」「前向きに」等の本源風の規範観念に収束してしまい、それでは元の木阿弥ということでしょう。いったんパラダイムシフトの認識を獲得したとしても、早期に潜在思念発の(つまり新パラダイムの)構造認識の獲得が必要となります。

ただ、私は思うのですが、パラダイムシフトの理論の構造理解は、誰でも可能なことだと思います。新しい現実を、構造的に理解するだけでよいわけですから。

吉国幹雄

2013年6月15日 (土)

現実肯定・現実直視によってしかパラダイム転換できないということです

私は「社会」とか「社会環境」などと捉えると、倒錯観念の旧パラダイムに捕らわれてしまう危険性が高いので、「現実」、という言葉を使っています。

>では、「現実肯定」とは?「現実」とは本能回路(機能)・共認回路(機能)が形成する下部意識(=潜在思念)と、観念回路が形成する上部意識(=既成観念)とによって成立するが、その中でも下部意識のほうが中核・基底をなしている。その下部意識のベクトルがすでに「充足基調」に入ったという事実を事実として認めること、そしてその状況を新しい「現実」、即ち、「人々の意識が形成する同類圧力の場」として肯定的に対象化すること、それが「肯定」の意味である。・・・というところまでは、いいでしょうか?<(21386、三ヶ本さん)

どうやら、問題は「現実」という言葉にではなく、「肯定」という言葉のようですね。まず、「現実の何を肯定するのか」ということでしょうか。またひいては、プラスの価値観を伴った「現実肯定視(観)」の危惧でしょうか。

まず後者の危惧が、「自我私権意識」の肯定に繋がるのではないかというのであれば、21090で四方勢至さんもおっしゃっておられるように、自我私権意識は、放っておいてもとことん衰弱してゆき、いずれは消滅するわけだから、消滅するものを積極的に肯定しようもないと思います。

また、「充足基調」や「同類圧力の場」という事実を事実として認めることが、「現実肯定」の中身かといわれると、私は微妙に違うような気がします。事実(つまり現実)を事実として捉えることがまず現実肯定の土台をなすのはそのとおりなのですが、±の価値判断においてそれを肯定したり否定したりするのは、少し違うように思います。そこに、捨象や否定視という倒錯観念が入り込む危険性を感じます。

否定視で捉えた倒錯観念では、「充足基調」も「同類圧力」も事実として見えてこないわけですから、その現象が見えてくる(つまり状況認識される)ということは、現実肯定・直視によって初めて可能となったわけです(つまり、観念上のパラダイム転換がなされたということ)。それは言葉として観念的に理解されるものではなく、潜在思念からの状況認識によって初めて観念上に見えてくるものだと思います。

ということは、「現実肯定」とはパラダイムシフトさせる「操作」「概念装置」として働くということではないでしょうか。

そして「現実肯定」から構造(認識)化されて、つまり答えを出して、初めて後から「いいのか、悪いのか」という価値判断がなされるのではないでしょうか。

吉国幹雄

2013年6月13日 (木)

下部機能は成功体験の塊

本能はDNAの組み替えによって進化しますが、人類は共認内容・観念内容を組み替えることで進化してきました。DNAの組み替えより遥かに容易・多様に組み替えが可能な共認機能観念機能は人類進化の先端機能です。ということは、生物史的に見ても、共認内容も観念内容も組み替わるのが当たり前である、さらに言えば、進化・適応するためには組み替わるべきである、ということです。

一方の根源機能ですが、万物は塗り重ね構造体ですから、単細胞~現在に至るまで塗り重ねで形成されてきた機能が現在も我々の中で作動しています。このことは何を意味するのでしょうか。我々人類も数十億年に渡って進化と適応を繰り返してきた結果として存在しています。気の遠くなるような時間の間に可能性への挑戦を無数に迫られたことでしょう。その間に様々な可能性を試みたが失敗に終り、滅亡してしまった種も多数いるでしょう。我々人類は、生まれながらにして、数十億年に渡る実現体験を積み上げてきた種だと言えるでしょう。数十億年に渡って可能性に挑戦して、しかも成功し続けてきた、このことは驚くべきことです。

我々の下部意識はそれぐらい優れものです。その下部意識の指し示す方向に従って、先端機能である共認内容・観念内容を組み替えること、それができれば人類の進化・適応・実現は成るはずです。何と言っても下部意識は数十億年に渡って成功し続けてきたのですから。「現実とは自分自身に他ならない」という言葉は、言い換えれば「現実とは自分自身の下部意識に他ならない」という言い方もできると思います。

この下部意識は自分だけでなく万人が同じものです。だから下部意識はその無数の成功体験から、「社会」「自然」という抽象概念ではなく具体的な人々の中に自らの可能性を探しているのかもしれません。テレビやネットでの事実収集や答えを出してくれそうな人を探すとか、メル友などより広い対象とつながろうとする行動にそれが現れているのだと思います。


冨田彰男

2013年6月11日 (火)

新しい認識だけが、現実を変えてゆく

原始人も現代人も、専ら現実に立脚すると同時に、ひたすら現実を対象化して生きてきた。つまり、潜在思念に導かれて現実を直視することによって、新たな可能性を探り当て、新たな意識(新たな状況認識に導かれた実現回路)を形成し続けてきた。
換言すれば、一個の生も、その塗り重ねたる歴史も、常に現実から出発して新しい認識を紡ぎ出し、それに応じて現実を変えてゆく(現実が変わってゆく)過程である。
現実を社会と言い換えても同じである。社会は人々の共認によって統合され、その意識=共認内容が変化してゆくことによって変わってゆく。現実が変わる=社会が変わるとは、ただそれだけの事である。
その共認内容は徐々にしか変わらず、例えそれが30年ほどの間に猛スピードで変わったとしても、その共認内容の変化に応じて一つずつ規範や制度が改革されてゆくことによってしか、社会は変えられない。

そこで、最も重要なのは、絶えず新しい認識を紡ぎ出し、人々の共認内容(意識)を変えてゆくことである(新しい認識さえ共認されてゆけば、それに応じて制度etcを変えてゆくのは簡単である)。
原始人がそうであったように、現代人のこれからの現実の生においても、新しい認識の創出とその共認形成が全てであり、そこでは抽象的な「社会変革」という意識は生じない。社会変革という言葉は、倒錯した現実否定の意識からのみ生じる。また、現実否定の意識に基づいているからこそ、「社会変革」という言葉それ自体が欺瞞観念となるのである。

何かを実現しようとすれば、思考の対象はとことん具象化されてゆく。実現思考で生きていた原始人の精霊はとことん具象的だし、自然科学もそうだし、実現論もそうである。(例えば、原始人には「自然」という概念は存在しない。)

それに対して、「自然」や「社会」は、問題を直ちに解決できない(むしろ、実現可能性がない)ので、問題世界を一括りにしただけの概念である。直ちに解決できないので、現実否定の倒錯思考という観念パラダイムに陥って終い、問題世界を一括りにしただけの「自然」「社会」「変革」etcの概念しか作れなかった訳だが、そうである以上、それらの言葉(自然、社会、変革etc)は単なるお題目にすぎない。

従って、「社会」や「変革」という言葉を使えば使うほど、現実否定の倒錯思考を正当化し、その観念パラダイムに陥ってゆくことになる。従って、この様な倒錯観念はできるだけ使わない方が良い。
例えば、「答え探し」「その為の場作り」etcもっと具体的に実現可能性を示す言葉を使う方が良い。


四方勢至

2013年6月 9日 (日)

観念パラダイムの逆転6 残る観念は、頭で塗り替えたら終い

既に、最も重要な下部意識は、私権収束から本源収束へと転換した。従って、今後(30年間)は、上部意識=観念に焦点が移る。社会の最先端では、旧来の私権闘争に代わって、観念闘争が、最もホットな場となるだろう。

既に述べた様に、旧パラダイムと既成観念は、本源収束の出口を塞ぎ、社会を八方塞がりの状態に陥らせている。もしこのまま、旧パラダイムから脱却できなければ、人類は滅亡する。
しかし我々は、遂に、生存圧力に基づく現実否定→倒錯思考の観念パラダイムを全的に逆転させる新パラダイムを見出した。それは、同類圧力に基づく現実肯定→実現思考の観念パラダイムである。
それは、とことん現実に立脚し、現実を直視し続ける思考パラダイムであり、旧パラダイムの生み出した倒錯観念(古代宗教)や欺瞞観念(近代思想)を全否定して、本源収束を導く全く新たな状況認識(誰もが認めることのできる事実認識の体系)を構築してゆくだろう。

この新パラダイムの登場をもって、共認闘争=観念闘争の幕が切って落とされる。現実否定(or捨象)の既成観念を、全的に爆破せよ。旧観念は、現実を否定(or捨象)することによって、自己欺瞞(上部意識と下部意識の断絶)に陥った。それに対して、本源収束の下部意識に立脚する新観念が、旧観念を全的に爆破しても、何ひとつ困ることはない。数億年・数百万年の塗り重ねによって形成された下部意識を、頭で都合良く変えることなど出来ないが、観念は頭で塗り替えたら終いだからである。

とは云え、単なる思想なら一つの時代に何種類か存在し得るが、思考パラダイムは一つの時代に一つしか成立し得ない。しかも、旧パラダイムから新パラダイムへの移行は、不可逆的である。つまり、旧パラダイムはどうあがいても、新パラダイムにその座を明け渡すしかない。
ならば、学者や文化人や報道人etcの知識階級は、一日も早くその座を明け渡すのが世の為であり、身の為でもある。彼らは、その私権に塗(まみ)れた特権的な身分を、なかなか手放そうとしないだろうが、あがいても無駄である。どうあがいても、特権的知識階級は消滅する運命にある。
おそらく、万人(素人)による認識の創出と共認形成の場(=統合サイト)が、いずれ新たな社会統合機構となって、彼らに最終宣告を下すことになるだろう。


四方勢至

2013年6月 7日 (金)

「自分らしさ」を理解できない人々

随分前に先住民族の文献で読んだのですが、彼らは「自分らしさ(MYSELF)」と言う観念が理解できないそうです。
(むしろ理解できないと言うよりも、存在しない)

彼らは、自分が大地の一部であり、(大地と)同一であると考えているため、その大地の上に立つものは全て「同じもの」だと理解しており、
ネイティブであるかどうかや、宗教に関係なくその認識を持っているようです。「大地に立つもの全て」であるので、獣や鳥、花や木々にまでその認識は及びます

当時僕は、「自分らしさ」と言う観念を持たない彼らを今一イメージできずにいましたが、ここのところの構造認識・パラダイム転換の議論を通して、なんとなくその意味するところを実感できた気がします

彼らは、何よりも、人々の意識(皆)=自分=現実であることを理解していたのだと思います。そのために、現実(皆の意識)と自分の意識を切り離して理解することが出来ないのでしょう。「大地に立つものは全て同じ」と言う考えは、世界=現実を理解する構造認識と言えるのかもしれません

「世界」と「自分」を切り離し、「自分が自分である理由」=自分らしさを追い求めて来た、現代人。しかし、そこには答えなどなく、空しさと孤独感だけが付きまとう。

しかし、「自分らしさ」と言う観念を持たない彼ら(ネイティブ)は、不安に怯えるどころか、常に自信に満ち溢れ力強く、存在不安の欠片も見られない

いかに、僕達に刷り込まれた「自分らしさ」と言う観念が倒錯したものであるかがわかります
それは同時に、「現実=人々の意識=自分」と言う構造認識の正しさを知ることでもある

四方勢至さんからの認識提示を受けて、おぼろげながらではあるが、ようやくその構造認識にたどり着いた僕達
どうやら僕達現代人は大きな回り道をしてしまったようです


西谷文宏

2013年6月 5日 (水)

構造認識で可能性視の射程が飛躍的にのびることが活力源となる

この間の議論で、現実のありのままを認識できない現代人の欠陥構造が解明されつつある。簡単に整理すると、下部意識(本能・共認回路)と上部意識(観念回路)が断絶しているがために、外圧が正確に認識できず、内圧とイコールで結びついていかない。そのことは、外圧(=外敵)を直視(正確に認識)し、観念機能でとことん対象を構造化することによって、「少しでも先を見通すこと」ができたことでなんとか生き残ってきた人類にとっては、完全に「破滅種」であるということを意味する。

破滅種には当然ながらなんら活力を感じることはない。役人や現在の私権ヒエラルキーの上位に位置する銀行マンや証券マンを見てみると一目瞭然である。かれらは、市場が縮小し資産価値が下がれば不良債権は増大するという簡単な構造であるにも関わらず、ここ何年も公的資金を投入したり資産を売却することによって財務内容を改善しては、株価、地価の下落に見舞われ、新たな不良債権を生むという、まったく同じルーチンを馬鹿みたいに何度も繰り返している。かれらには全く「先を見通す能力」も「活力」も感じないのが現実だ。

まっとうな人であれば、少しでも先を見通して物事を把握したいと思う。観念機能を極度に進化させることによって適応し、地球上での最強の地位を獲得した人類にとって、他の種より少しでも先を見通すことが生存のための条件である。また、「先を見通すこと」が生存課題と直結しているため、認識の必要性が最も高く、たまらなく充足が高い行為であるからでもある。

今回のパラダイム転換は、充足の中身を、人類にとって最も充足の高い「先を見通すこと」に変えよう!ということだと考えている。いわば、現実を受け入れ、潜在思念を構造化できれば、可能性を感じ得る射程(時間でも空間でもいい)が飛躍的にのびる。そんな人類にとって、もっとも充足の高いことをやろう。その充足を味わうこととその充足の伝播がまさしくパラダイム転換の活力源であると思う。

上平貴昭
 

2013年6月 3日 (月)

現実肯定を巡って、初歩的な確認

「現実」という語の解釈が、どうも旧観念に災いされて揺れているので、初歩的なところから咀嚼しなおしてみたいと思います。現実肯定を最も広義でとれば、「世界がどうなっているかではなく、世界があること自体が神秘に満ちている」というヴィトゲンシュタインの言葉が示すように、まずはこの世界の全体を、一切の分析や評価以前に、大きく肯いて受容せよ、ということで、これはこれで問題はないと思われます。「来世」という幻想を逃げどころとした古代宗教は、現実否定というより現実捨象の方がふさわしいでしょう(否定なら、まだいったん対象化はしている)。

次に「現実」を、我々が生活している社会環境と捉えると、「人類社会全体」から「一人一人の日常社会空間」にいたるまで、幅があって議論にズレが生じやすい。そこへもってきて、「ありのままに肯定する」というのを、「今のままでいい」とする誤解も、下手をすると混入する。こういう日常語としての旧観念を頼りにしている限り混乱は避けられません。

ついでに言うと、「現実肯定」を、その気にさえなれば何でも実現する、という安易な精神主義的楽観論(つい勢いで、そうだそうだ、と考えたくなってしまう)と結び付けてしまうのも、問題ありと思われます。

では、「現実肯定」とは?「現実」とは本能回路(機能)・共認回路(機能)が形成する下部意識(=潜在思念)と、観念回路が形成する上部意識(=既成観念)とによって成立するが、その中でも下部意識のほうが中核・基底をなしている。その下部意識のベクトルがすでに「充足基調」に入ったという事実を事実として認めること、そしてその状況を新しい「現実」、即ち、「人々の意識が形成する同類圧力の場」として肯定的に対象化すること、それが「肯定」の意味である。・・・というところまでは、いいでしょうか?

その際、邪魔をしている上部意識(既成観念群)は全面的に否定すべきではあっても、そのことに囚われすぎると進めなくなる。その意味で「自我私権を否定することにこだわるよりも、その奥にある新しい充足基調⇒本源収束という可能性の実現に、意識の焦点を当てた方が良い」という記述は、上記の「安易な精神主義的楽観論」とは一線を画した、力強いプラス思考として、大きな可能性の扉を開いてくれていると感じます。


三ヶ本万州夫

2013年6月 1日 (土)

蓋を開ける

>今までの思考パターンに「できない」ことが現実だと捉えていたことがあります。今思うと、実はそれは現実なのではなく、わざわざできない理由を並べ立てて、その事象を否定・捨象の対象にしていたに過ぎないだけだったのだと考えています。実現の可能性に蓋をしてしまっていることを正当化するために、それをただ「現実」としたかっただけだと思います。

確かに!これが現実っていうときの現実は、大体今まで否定視が伴っていたと思う。でもそれは、既存の価値判断に照らし合わせると否定視だったってことではないかって思います。

例えば「人間、金でしょ!」って言った場合、そこに蓋を開けてあげる可能性があると思うんです。構造認識を使うとそうじゃないって分かる。「なんだかんだいって、自分を守るでしょ?」っていった場合もそこに可能性って眠っていると思う。

それらの言葉が、実現の可能性に蓋をしていたのだとすれば、それを開ければいいのではないかって思います。今まで「現実」としてきたことを、捉えなおす。その作業こそが現実直視ということになるのでは?と思いました。


立石裕美

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