« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »

2013年5月

2013年5月30日 (木)

否定と言うより、すでに遅れている

>1.現実に残存する自我私権も否定はしないのか?<

充足基調⇒本源収束が強まる中では、「自我私権」に対しては、妙な違和感を感じるだけであり、そこから「何の可能性も感じない」のがほとんどの人の意見ではないだろうか。最近の石岡市長と業際都市開発研究所との問題や関連する嘘と明らかに分かる政治家の意見等は、「嫌気がさす
」の一言だろう。このような気持ちは、日常の中にも増えてきている。

自我私権に対しては、否定するというより、ほとんどの人がすでに「嫌気がさしてきている」と思う。
 
>2.支配観念も現実の重要な構成要素であり、それを否定するのは矛盾では?<

下部意識である「充足基調⇒本源収束」の中で、「何時までもスッキリしない」のは、今までの現実否定の既成観念群では対応できず、その意識をまともに捉え可能性を示す観念がない状況を表している。ただ、誰もが「スッキリしない」状況の中で、「現実否定の既成観念群ではもうダメだ」と気づき始めてもいる。
今年の成人式は、今までの押しつけのものから、成人達による企画を元に行われた自治体が多かった。「問題が起きないように」が自治体側の主な意図だったのだろうが、結果から「今までのやり方や考えでは、もうダメなんだ」と多くの人が感じていると思う。

自我私権も、現実否定の既成観念群も、否定と言うより「すでに遅れている」と感じる。

村上祥典

2013年5月28日 (火)

現実、その下部意識と上部意識

我々は、あくまでも現実に立脚し、現実を対象化して生きてゆく。それは、決して現実を否定しない(むしろ、とことん現実の可能性を追求してゆく)ということである。それに対しては、当然、次の様な疑問or反論が出てくるだろう。
1.現実に残存する自我私権も否定はしないのか?
2.支配観念も現実の重要な構成要素であり、それを否定するのは矛盾では?

確かに現実は、本能回路・共認回路が形成する下部意識(=潜在思念)と、観念回路によって形成された上部意識(=既成観念)によって構成されている。
しかし、現実否定→倒錯観念は、本源価値にとって都合の悪い現実を捨象するだけで、決して現実を対象化することができない(古代思想)。
あるいは、現実に可能性が開かれても、現実を否定対象としてしか対象化できず、決して現実の可能性を対象化し構造化することが出来ない(近代思想)。
従って、現実否定の倒錯思考は、現実を構成する最も重要な下部意識を全うに対象化することが出来ない(従って、例えばサル・人類の命綱である共認回路の存在さえ、彼らは知らない)。

ところが、’70年、貧困の消滅によって、下部意識が大転換してゆく。私権時代を貫く(=現実否定→倒錯思考のパラダイムを貫く)自我私権意識が急速に衰弱し、代って全意識の充足基調⇒本源収束が強まっていった(それが顕在化してきた=見え易くなったのは、’95年くらいからである)。
それに伴って、現実は、生存圧力の場から同類圧力の場へと大転換を遂げる。
現実の中に可能性を求める充足基調⇒本源収束の下部意識を、現実否定のパラダイムで導くことなど出来る訳がない。かくして、現実否定→倒錯思考のパラダイムと、それによって作られてきた全ての既成観念は、現実に通用しなくなって終った。
それどころか、このパラダイムは自ら変わることができないが故に、それが作り出した既成観念群が人々の上部意識(観念回路)を覆い尽くし、新しい時代を形成してゆく筈の下部意識=本源収束の出口を塞いで社会を全面閉塞状態に陥らせている。

常に次代へ向かう人々の先端意識は、すでに私権収束から本源収束へと転換した。従って、現実は、既に大勢として生存圧力の場から同類圧力の場へ転換したと云えるだろう。残存する自我私権意識は、放っておいてもとことん衰弱してゆき、いずれは消滅する。
従って、自我私権を否定することにこだわるよりも、その奥にある新しい充足基調⇒本源収束という可能性の実現に、意識の焦点を当てた方が良い。


四方勢至 

2013年5月26日 (日)

観念パラダイムの逆転4 実現基盤を摘出できない、現実否定の「構造認識」

既成観念批判の焦点は、現実(下部意識)を対象化していないという一点にある。
現実は、人々の本能機能・共認機能および観念機能によって形成されている。中でも、生存圧力(≒貧困の圧力)の強かった私権時代の現実は、その殆どが本能意識や共認意識(注:これらを下部意識と呼ぶことにする)によって形成されており、これら下部意識が現実の基底部を構成している。

にも拘らず、私権時代の思想(古代宗教と近代思想)は、その様な現実を否定or捨象してきた。それは、彼ら思想家たちの現実否定意識とそれを正当化した彼らの倒錯観念にとって、現実(その中でもとりわけ重要な基底部の下部意識)が都合の悪い否定or捨象すべきものだったからである。
これでは、現実を変革できる訳がない。そこで、さすがに現実を捨象した綺麗事の価値観念だけでは現実を変えることが出来ないと思い知った一派が、暗い悲惨な現実を対象化し始める(19C)。
しかし、現実否定の正当化=倒錯思考というパラダイムの中で、どれだけ「現実」を対象化した所で、所詮は否定意識が対象化した偏った「現実」しか見ることができない(例えば、最基底にある性闘争→性的自我を全く対象化していないし、ましてや実現基盤など全く摘出できなかった)。
従って、結局彼らも現実を変革することは出来なかった。

要するに、現実否定意識を正当化しようとする倒錯思考のパラダイムでは、決して現実(特に下部意識)を真っ当に対象化することが出来ず、従って現実を変革することはできない。これでは、社会を統合することなど出来る訳がない。


四方勢至 

2013年5月24日 (金)

現実と思い込んでいるもの=実は過去の遺物

「現実を直視する」。これを聞いて(私も含め)中々しっくりこないのは、やはり「現実とは何か?」ということではないかと思います。
じつは、大半の人が、この「現実」が(見えているようで)見えていないのではないかと思います。人は自分の経験と頭の中に刷り込まれた観念で「現実」を捕らえてしまいがちです。
ところが、北村氏が既に述べているように、歴史的な現象とその基盤の中で「現実」(現実=人々の意識)は絶えず変化していて、「今の現実は、実は、もうそこにはなく、人々の不全=潜在思念(可能性)の中にある。」ことに気づかないでいるのでは無いでしょうか?
だから、現在(=過去の遺物)を見るのではなく、人々の潜在思念の可能性を直視してはじめて、「可能性実現のための現実」が見えてくる。
これが、四方氏の言うところの「現実は人々の意識の中にある」ということ、そして「不全(否定)ではなく、実現発のみが現実を直視できる」と言うことではないか?と思い始めているところです。


津田大照

2013年5月22日 (水)

説明を、聞けば聞くほど分からなくなる

「外圧=内圧」「現実=意識」

この一言が全てを言い表しているとも言えるし、事実そのものを捉えているとも言えると思います。だからこれだけの方が、実感(潜在思念)としてしっくりきませんか?
潜在思念は、「こういうもの!(“こういう”は殆ど言葉になっていませんが)」という感覚で全体を全体として捉えているのに対して、

>「自分」の意識に目を向けても、結局はそれは自分だけの意識ではなく、周りのみんな=人々の意識でもあるということ。それを自覚し、そこから構造認識へと向かう…

などと考えてゆくのは、一見実感に近い思考法のようで、ものすごく観念的な思考のように思いました。

だから、「外圧=内圧とはどういうことか」「現実=人々の意識とはどういうことか」を説明しようとすればするほどいくらでも長くなるし、実は、「具体事例に惹き付けて考えてみよう」とすればするほど複雑で訳が分からなくなってくるんじゃないでしょうか。

西知子

2013年5月20日 (月)

やたら理屈をつけなくてはならない人

>行動にやたら理屈をつけなくてはならない人<
>可能性を共感するのに「手間をかける」のは重要なことだけれど、「手間がかかる」のはろくなことじゃないとそのころから思っています。<

 投稿でも、それだけのことを言うのに、何故そんなに理屈を並べなければいけないのだろう。と思うことがあります。彼らは"理屈をつけなければならない"のですね。

 人はもともと同じような体験をすれば、同じように感じるという単純なことを判ってないのではないでしょうか。
 確かに、日常そうでないように感じることも有りますが、それは置かれている立場やそれまでの経験が違うからで、そこさえ共有できれば、人の感じることなんてそんな違うはずがありません。そこを誤解しているから、判って貰うために、とやたらと理屈が多くなっているように感じます。
 言い換えれば、人は違うという前提で書くか、もともと同じだと言う前提で書くかでかなり違ってくるのではないでしょうか。

 また、反論されるのが怖くて、反論されないように丁寧に話を進めようとして、くどい、読みづらい論理を展開しているように感じることもあります。
 誤解されないように書くことは大事だと思うのですが、掲示板ですから一人で展開しきろうとするよりも、異論、反論の余地は残しておいて、やり取りの中でストーリーを組み立てていく方が、自分が気づかなかったことを指摘されたり、思わぬ展開をしたりと楽しめるのに勿体ないと思います。

玉川泰行
 

2013年5月18日 (土)

「現実≠自分自身」こそ現代人の病弊

しかしこの事に現代人が違和感を覚えたり、必要以上に深い意味を感じたりする理由、つまり現実=自分自身とストレートに思えない理由は概ね2つ考えられます。

一つは与えられない評価が(その意味で現実に存在しない対象)が生み出す欠乏である、自我欠乏の存在。しかし自我は今や衰弱過程にあるので今やこれが必ずしも決定的な問題ではない様に思えます。

もう一つが、潜在思念=本能や共認回路が現実に即応していたとしても、それを観念化するためには一定の時間を要します。更にそれが固定観念化しておれば、現実と主体とのズレを常に発生させつづけることになります。つまり「固定観念」の存在です。

その現在的代表が「自分と他人とは別」とか更には「我、惟うが故に我あり」等と現実と主体とを分離し、かつ倒錯逆転させた近代思想を始めとする、自我に基づく倒錯観念あるいは現実否定に基づく価値観念でしょう。
あるいは今や旧い(現実に合わなくなった)規範観念だけではなく、最新の本源風の価値観念さえこの次元では当然、問題になってきます。

しかし、このような固定観念に支配されていたのでは、到底適応態とは言えません。いうまでもなく、本来観念は、状況を捉える(感覚機能や共認機能だけでは明確に捉えられないものを捉える)べく形成された機能です。「事実に則った観念」であれば多少のタイムラグはあれども「主体と現実のズレ」を固定化させることはありません。その意味では「現実=自分自身」である事は人類においても絶対条件です。

結局現代人の病弊は固定化された「価値観念」に尽きるといっても良いのではないでしょうか。


北村浩司

2013年5月16日 (木)

「現実=自分自身」は事実認識(構造論)の核心部

四方勢至氏が「観念パラダイムの逆転3 現実とは、人々の意識である」で述べられている、
>主体=対象である以上、人々の意識とは、自分の意識に他ならない。つまり、自分自身の意識が、『現実』=同類圧力を形成していることになる。もっと簡単に云えば、現実とは自分自身に他ならない。

に何やら禅問答めいた、難解なものを感じておられる方が何人かおられる様に思います。しかしこの認識は禅問答でもなんでも無く、事実認識=構造論の最も核心部分を、現在的に端的に表現したものだ、と私は思います。

>生きとし生けるものは、全て外圧(外部世界)に対する適応態として存在している。例えば本能も、その様な外圧適応態として形成され、積み重ねられてきたものである。(実現論1_1_01

は実現論の中でも最も着目すべき認識の一つだと思います。

つまり主体の全ては(全肉体機能や神経回路、勿論本能回路も共認機能も)、外圧(外的世界)に対して適応すべく形成されたものであり、全神経回路がそうである以上、これが主体の全てな訳ですから、文字通り、「外圧=内圧」「対象=主体(自分自身)」である事を意味します。

また別の角度から言えば、全ての内圧(やる気・活力≒意識)は様々な外部の圧力に反応する形でしか生じません。逆にいえば外的状況の変化に対して、いかに主体の側が即応できるかどうかが、適応態であること(=真っ当であること)の全てであると言っても良いと思います。

つまりあらゆる生命体は「内圧=外圧」で無ければ生きてゆけない、ということなのです。
その意味でも構造的に「現実=自分自身」と言えると思います。


北村浩司

2013年5月14日 (火)

可能性のない「自分」観念を考えるのは、止めたらどうだろうか?

最近のパラダイム転換をどのように捉えるかという投稿を見ると、「自分なりに考えると・・・」「自分の仕事の例では・・・」という例が多いが、しかし、その「自分」とは何なのだろうか?

◆「自分」の意識という「固定観念」
  おそらく、「観念捨象の現実直視へ」という提起の後に、「現実とは、人々の意識である」という指摘があったせいだろうか、対象が「『自分』の意識」だけに向かっていないだろうか?

 しかし、その「自分」とは、旧パラダイムの意識であり、つまり、固定観念そのものであり、私権観念の自我そのものである。そのような「自分」で捉えれば、「現実の肯定」という言葉さえ、旧パラダイムに染まった自分の「自己肯定」にとどまってしまう。

 「現実とは、人々の意識である」という場合、対象とすべきは、本来生物が持っている、現実を直視した「意識」であるはずだ。可能性のない「自分」をいくら見つめ続け、内省したところで、答えなど出るはずがない。当然、新しい現実を察知することなど不可能である。

◆あまりにも狭い「自分」の世界
 また、パラダイム転換の了解の仕方として、「自分の身の回り」「自分の仕事」と、ひたすら「自分」という基準に当てはめようとするのは、逆に旧パラダイムそのものだと思う。

 構造認識とは、全人類史、全生物史に渡る広大な地平の世界を対象として得られる認識である。

 それに比べて、旧観念で観念化できる範囲での、あまりにも狭い「自分」の世界や、あまりにも小さな「自分」の体験に当てはめて、構造認識を理解しようとしたとたんに、その認識は、矮小化され、貧弱なものになってしまう。
それどころか、その様に観念化したとたん、従来の旧パラダイムの「枠組み」の中に回収され、最終的には、なにも転換できない。なにしろ、旧パラダイムで「自分に当てはめて」観念化しているのだから。

◆「自分」を見つめるのは止めたらどうだろうか?

 つまり、古い「自分」観念から脱却しない限り、現実は見えてこないし、転換もできない。さらに「自分」という狭い世界を相手にし続ける限り、意識は転換されるどころか、パラダイム転換は、「自分」の都合のよいように再解釈される。

 ひたすら「自分」にこだわるのは、近代の個人主義の悪弊だ。
 近代人は、「自分」を見つめ続けたり、「自分」なりの「意見」から、何かを導き出そうとしたが、結局、何も生まれなかった。

 いい加減、「自分」を見つめるのは止めた方がいいのではないか。

阪本剛 

2013年5月12日 (日)

旧パラダイムで新パラダイムを理解することの愚かさ

>半ば無意識的に倒錯観念ウィルスに感染してしまった多くの現代人にとって、「自分は無関係である」という意識は根強く残っていると感じます。<
>数少ない肯定派の人々にこそ可能性があるとしても、敢えて観念を用いてまで意識改革せよというのはナンセンスではないでしょうか? <(以上20434

 ナンセンスなのは、未だにそのような屁理屈をこねながら、その実、何の可能性も見出せないでいる(つまりは、何もない)人々の方でしょう。それに、その様な遅れた意識状況の分析はすでに終わり、今は現状の突破口となる実現派に与える答え(言葉)を探る議論をしているのだということも、捨象してしまっているようです。

 私たちの身のまわりには、これに類した「倒錯観念」は確かに星の数ほど氾濫していますが、潜在思念の方はそんな無意味な「へりくつ」を毛嫌いし、もっと充足可能性の高い領域に向かい出しています。しかし潜在思念でだけでは弱い、言い方を換えれば、観念を用いなければ人類は意識が統合されないのです。

 人類500万年の歴史の大半は、すべての感覚を自然に対する可能性探索に向けることで、精神活動の充足=意識の統合感を得てきた訳です。その意味するところは、生存を脅かす不全から完全に解放されることはないとは言え、そのための『答え』は見つかるはずだ(or 『答え』に近ずきつつある)という感覚がことば(=観念)に収束して、初めて安息感を含めて意識を統合することができ、集団の活力と秩序が生まれたりするということだと思います。

 ですから、今るいネットで交わされているひとりひとりのことばは、不全を言語化するだけだった私権時代の呪縛から解き放たれて、可能性を意識的に言語化する、新しい時代の最初の試みだと思えばいいのではないでしょうか。少なくとも、「意識改革をせよ」と強制的に迫るというニュアンスを感じることこそ、旧パラダイムの否定思考そのものです。
旧パラダイム(の思考法)で新パラダイムを理解しようとすることほど、ナンセンスなことはありません。


土山惣一郎

2013年5月10日 (金)

「議論」を考える

実は、先日の「議論を超えた~」の投稿は、書きながら「なんか違うなー、結局対立を起こしたくないだけなのかなあ」と感じていました
それでも、ここのところ感じていた、「議論」というものに関する「違和感」の正体を掴めるきっかけになるかもしれないと思い、推敲せずそのまま投稿した次第です

先日の投稿は、黒田さんには非常に失礼な態度をとってしまったことを先に謝罪いたします。たしかに、「ずるい」と言われて当然の内容であったと思いますし、批判だけしてその後、正面から意見交換をしない態度は、考えてみれば2ちゃんねるに見られるような誹謗中傷サイト、闇空間と何も変わらないと感じたので、あらためて整理した上で正面きって考えを述べたいと思います
あらためて宜しくお願いします

「強制と体験」に関する内容は、後ほどまた書きますので、まずは「議論」に関して、玉川さんのレスを受けて感じたことを先に書きたいと思います

先日の投稿にも書いたように、最近どうも「議論」というものに違和感を覚えていました、その違和感の正体が、玉川さんのレスを読んで、なんとなく掴めた気がします

>議論が不毛なモノになりやすいのは確かです。それはそれぞれが自分を(決して自分の"意見"をではない)守ろうとしてしまうからだと感じています。・・・(中略)・・・すれ違ったとき、「現実を生きる」ためには、自分自身の意識を変えるか、相手の意識を変えるよう働きかける必要があるのだと考えています。おそらくは、双方の意識がぶつかり合う中で、双方が少しずつ変化していくのだろうと思います。そのような地道な努力を重ねていくことが大切なのではないでしょうか(20494

なるほど、確かに自分を護ろうとしてしまう、そういう感覚はあります
護りたい「自分」とは何であるのか
それは、自分の意識、価値感なのではないかと思います

議論において、相手の認識に整合性、正当性を感じた場合は、己の認識を改めますが、それが自分の価値意識と著しく相反する時、その認識を受け入れることを良しとしません
相手の認識を理解することにストップを掛け、己の価値意識を正当化する行動しか取れなくなる

議論において、どちらか一方でも己の凝り固まった(倒錯した観念に毒された)価値意識に執着した場合、全ての生産的認識はストップし、ひたすら不毛な観念論争が続く

僕が感じていた、「議論」に対する違和感の正体は、恐らく「議論」の構造そのものが問題なわけではなく、この価値観に振り回される個人の意識の有り様が問題なのでしょう

そもそも「議論」とは、共認方法の一つであって、相手と認識をぶつける、交感しあうと言う方法は、何ら問題が無いはず
やはり問題なのは、この構造ではなく、倒錯観念に凝り固まった個人の価値感に拘るスタンス、そしてそれが導く「観念論争」であるようです

しかし、逆にいえば、議論を通して明解なる根拠、正当性をもって己の考えを説明できず、同時に相手の考えを、論理整合性をもって否定できない場合、それは己が執着している考え、価値観が、実は独り善がりな固定観念に過ぎないことを知るチャンスであるのかもしれません

黒田さんとの議論において、僕が「議論」することを良しとせず、「議論そのものを否定することで己を護る」という「すりかえ」の投稿をしたのは、僕自身の考えである、「強制では本物の体験にはならない」という見解そのものが、実は己の固定観念である証拠であったのかもしれないと、玉川さん、立石さん津田さんの投稿を読んで感じました

玉川さんは、すれ違ったとき、自分自身の意識を変えるか、相手の意識を変えるよう働きかける必要があると書かれていますが、その以前に、相手の意見を受け入れず、己の考えを譲らない意識が、固定観念でないかどうかを疑ってみる必要があるのかもしれません
ただ、どうしても1対1の議論では、そのことに気がつきにくいと思われるので、基本的には多人数での議論のほうが好ましいと考えます


西谷文宏 

2013年5月 8日 (水)

「自分の意識」と「人々の意識」が違うという固定観念は治療困難な現代病。しかし気づけば治る。

よく聞く言葉で「アイデンティティ」や「唯一無二のかけがえのない人間」というものがある。
よく考えてみると否定意識の塊のような言葉で、周りは否定し捨象した上で、自分自身の道を進みなさいといわんばかりだ。

このごろ、自分の意識をコントロールしてしまうこのような言葉と、それに支配されていた自分にどうしても思考の焦点があたってしまう。

昔から、私の下部意識は確かに周りの皆と一緒になりたがっていた、しかし、このような言葉に支配され、一種の病気のように、一緒に感じ何かを共有したい自分の下部意識から湧き上がる欠乏をを押し殺して、「他人と違う自分」を必死に探していた。人の意見を聞くにしても、まず粗探しの否定の視点で聞き、その粗をぶっ潰して否定してから自らの主張を浴びせる。周りと意識を共有するのも自分が有利で自意識が満足出来るときのみに自分の都合で開く・・・・etc(数限りなし).

今考えるとおそろしく、とても恥ずかしいことばかりが頭をよぎる。

私は知らないうちに「自分の意識」と「人々の意識」は違う、もしくは違わないとならないということを根拠なしに信じ込み、その観念で行動が規定されていたのだ。

「自分の意識」とまわりの「人々の意識」が違っていることを大半の人が信じて今の社会が出来ている。違ったこと、目立ったことを目指す????。人とは違っていることが正しく崇高なる個人の証であると信じ込まされている現代病だ。しかし、これは周りと一緒になりたいといういわば本源充足の足かせの観念病なのだ。いま思うとこの病気のせいでえらい損したと自分で思う。

こんな私にも「この病気にかかった八方塞の現代人を救いたい」という気持ちが徐々に芽生えつつある。
この病気は気づきさえすれば治ると思う。しかし、気づくのが難しいことが難病の所以だ。そんな難病を直して元気にしてあげたいという思いは、難病を克服しつつあるわれわれの活力源となり、その充足が連鎖していくことだろう。


上平貴昭

2013年5月 6日 (月)

「やかん」を見つめつづける

私は美術大学出身なんですが、造形学部の中でも異端の教授が設立した学科に在籍していました。とはいえグラフィックデザインの世界ではその名を世界に馳せる温厚かつ地味~な教授でありました。

デザインとは認識と思考の結果です、君たち若い頭脳が今成すことは、「認識力」を高めることです。この大学時代をデザイン技術の習得ではなくて自らの頭脳をまず、デザインしてほしいのです。その意味はやがてわかる時が来ます。今は理解できなくていいのです。

といい他の学科や学部では当然の技術重視のお絵かきや造形訓練なんかはそっちのけでわけのわからん授業ばっかり行ってました。

そのうちのおもしろいものをひとつ

●一週間「やかん」を見つめつづける

こんなへんてこな課題がありました。まさに「?」なわけです。

とうぜん一癖もふた癖もある学生ばかりでしたので、「そんなことは無駄だからせん!」といい1週間ファミコンしてた奴、下宿で「お湯沸かしてた」奴。とりあえず「ボー」と見てた奴、これはなんのために?と「考える」奴、やかんに色塗って「遊んでた」奴それはもうむちゃくちゃでした。一番笑ったのが一週間やかんを「腰にひもでぶら下げてた」奴。だからどこ行くにもいつも「やかん」といっしょでした。

本人いわく「いつだって目に入るし、やかんの気持ちもよくわる」・・・意味不明。

1週間後の講評会で行ったことは「やかん」を全て目の前から隠し、その「やかん」についての「情報」を書きなさいというものでした。「金属製である」「取っ手がついてる」・・・などなど思いつく限り。そして、ほとんどの学生が20前後の情報を抽出しました。

さて、その作業を行ったあとに教授から一言。

その自分の書いた「やかん」の「情報」が自身の「やかん」についての認識です。つまり、ひとつの「やかん」を一週間認識し続けてわずか2,30の情報しか認識できていないということが君たちの「今の認識力」です。

「・・・・。」

ちなみに一番落ち込んだのは「やかん」と一つしかかけなかった奴。「やかん観念」でもう認識停止だったわけで・・・。

その後の一週間は全員であらゆる情報の抽出作業に入り、結果。驚くことに3000を超える情報がたったひとつの「やかん」から抽出されました。つまり、当時の私たちは対象もつ情報の1%も認識ももっていなかったわけです。そして、3000の情報の抽出とはつまり、3000の視点の切り替えを意味したのです。

どうやら、日常の「認識」の中で対象を認識することの訓練の場は、「やかん」ひとつの中にもあるようです。

P.S ところで、「いつだって目に入るし、やかんの気持ちもよくわる」といっていた奴が、実は一番おおく情報を抽出できていたのでした。(笑)


mitokon_doria 

2013年5月 4日 (土)

全ての人々が「主体」となった意識潮流は社会変革を可能にする

「現実捨象の倒錯観念から観念捨象の現実直視へ」と提言された四方氏から、続けて「現実とは人々の意識である」との明言で、それでは「我々はこれからどのようになすべきか?」についての具体的な方向性を示して頂いたと思います。

>今や現実とは意識である。だから現実を対象化するということは、人々の意識を対象化することに他ならない。

これまで漠然としていた「現実」というものが、鮮明になり明確なものとして捉えることが出来るようになりました。貧困の消滅以降、生存圧力(=自然圧力)から同類圧力(=共認圧力)へとパラダイムが大転換したにもかかわらず、意識だけは何も転換していなかったことに改めて気づかされ愕然としました。

>実際、現実=同類圧力を形成したのは人々=他人であって、自分だけは別である=自分は無関係であるとは、誰も云えまい。だとすれば、もはや現実を否定することは出来ない。

「現実」は自分自身も含めて、全ての人々にとって「主体」である。従って、「社会変革」も全ての人々が「主体」となって関わるべきものである。と確信しました。

これまでは、「社会」や「政治」といへば「現実」から少し離れたもの、自分が関わらなくても誰かがやってくれるもの、とのあくまでも「客体」であり「傍観者」であったことを否定できません。そして、その立場を守りつつ、政治・社会・教育や環境についての解説や批評だけはする。「一億総評論家」という風刺の言葉がありますが、これこそ私も含めて多くの現代人が陥っている「現実否定の倒錯思考」状態だと思います。

「現実とは人々の意識である」ならば、この「るいネット」で可能なことは、全ての人々が主体となって、この新しい認識をいかに分かり易く、心に響く言葉で伝えていくかということ。
それによって人々の意識の転換を促し、その支流が本流へと合流し大河を形成し時代を飲み込む一大潮流となる。これこそ「社会変革」が旧来の「欺瞞観念」からではなく、人々の「意識」から出発するということではないでしょうか?


大木康子

2013年5月 2日 (木)

今までの否定

>現実を否定する意識そのものを疑うような意識は全く登場してこなかった。

私は団塊の世代の最後尾に位置していますが、「私権」の枠の中にあってその私権を疑うようなことは、数年前までは少しも無かったように思います。
同じように思想面においても、例えば「民主主義」、これに疑いの目を向けるなどというようなこともほとんど有りませんでした。
政治面でも、国会で何か揉め事が起こったりしても、これは「民主的」ではないなあとか、もっと民主的にやれんのかいなあとか、常に判断の基準が「民主主義」でした。

今にして思えば、理想の観念があって、現実がそれに合わないと、現実のほうを否定してきたのですね。

事実を主体にした構造認識に早く転換したいと思います。
それと同時に、こういう認識が広く一般化されるべく、自分も周りに働きかけねばならないと思う。


匿名希望

« 2013年4月 | トップページ | 2013年6月 »

ランキング

  • にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ お勧めサイトランキングへ
2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    

カウンター

最近のトラックバック

無料ブログはココログ