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2013年4月

2013年4月30日 (火)

「人々の意識は自分の意識」に、なぜ可能性を感じるのか。

佐々木さんの疑問(20365)を通じて考えたこと
>主体=対象である以上、人々の意識とは、自分の意識に他ならない(20355
 
まず、主体=対象とは、生物進化から捉えれば外圧適応態(外圧=内圧)ということ。認識機能から捉えれば、外識=内識ということ。
現実社会の中でその実現回路を獲得したものが適応態(実現態)ということでしょう。

従って、貧困が消滅して生存圧力が衰弱し、同類圧力が中心的な圧力になってくると当然のことながら、主体は同類圧力を作り出す人々の意識を対象化することになります。ところが、同類圧力とは共認圧力であり、その原点は期応関係です。
その関係律は期待=応望で貫かれているものであり、共認されて自分の意識=人々の意識となった共認圧力構造を生み出すことになります。だから、現実とは、否定視できない自分の意識そのものということなのでしょう。

ところが、
>様々な職業を見渡しても、そのほとんどが人々の意識から期待をもらったり、圧力を受けたりしている。(20365

という「人々の意識を対象化している」事実があるにも関わらず、現実を「自分の意識」として捉えられないというのは、期待欠乏に存在理由欠乏という自我回路が強く結びついているからではないでしょうか。
この自我統合の欺瞞性は、内識機能(欠乏機能)と外識(感覚機能)がずれているにも関わらず、実現回路に代わる幻想回路によって自分の頭の中だけで一致させようとする(統合しようとする)ことにあると思います。

だから、「これだけ期待(人々に意識)に応えている(自分の意識)のに」、とずれたまま、得られない評価欠乏だけが増長していくように思います。これでは、自我欠乏が蓄積し、ところがそれは「私権収束から本源収束への転換」によって封印されていくわけだから、共認不全の増大にしかなっていかないでしょう。これでは、可能性はほとんどない!

それではなぜそのような不全に陥ってしまうのか、と考えた場合に、根本は「人々の意識」と「自分の意識」は初めから違う(あるいは対立する)と思いいこんでいるところに大きな問題があるように思います。
その意味で「現実とは人々の意識であり自分の意識である」という認識は、佐々木さんの言われるように、「可能性」を感じる認識のパラダイム転換そのものではないでしょうか。


吉国幹雄

2013年4月28日 (日)

「行き詰まる」とは幻想ではないでしょうか

>行き詰まることって、とっても苦しいです。もがけばもがくだけ、周りなんてなんにも見えない。一点ばかり追いかけてしまう。>

私はこう考えています。
「行き詰まる」とは、それまでの自分が信じてきた価値観なり規範なり(観念)では対応できなくなった新しい現実(観念)に遭遇した時、今まで大事にしていた観念を変えるもしくは捨てる事が出来なくて、その新しい現実を捨象しようとする時に生じる意識ではないかと思うのです。
また、行き詰まるというのは、本当は潜在思念(肉体)では新しい現実を求めだしている時に生じるとも考えます(その意味ではチャンスとも捉えられます)。それ故、新しい現実(観念)に潜在では共感しているのだが、それを無理に捨象しようとする現実を無視した「幻想」の意識なんだと思います。
そして、その捨象しようとする為に使う観念が、今まで盲目的に信じていた都合の良い非現実の観念=倒錯観念なんでしょう。
だから、行き詰まるとか不安になるとかになった時は、その意識は自分自身の頭で勝手に作った「幻想」であると理解することがまず大事ではないかと考えます。


>「視点を変えること」これを最近できたような事がありました。でもこれって「変えよう変えよう」って,思ってた時はなかなか変わらなかった。ただ、今起こっていること。これをしっかり見つめた気がしました。感情とか、気持ちとかそういったところとは無縁の(?)「事実」、を受け入れたとき、自然にフッと軽くなって、「なんか、かわったなぁ」と。>

同感です。
変えよう変えようとする行為(意識)自体が、今までの観念を前提というかそこから抜け出ていないものではないかと思います。
そしてその前提としている観念自体が、幻想の倒錯観念であれば新たな現実に対応できる観念には変われる訳がありません。
そうではなく、西田さんの言われるように、遭遇した新しい観念(現実)を冷静に受け入れ構造化して理解すること(これが視点を変えるに繋がっていると思います)が、結果として変わることに繋がることだと思います。
人は知ることによって変われると思います。変わっていく新しい現実を構造的に理解していく。これによって人は「結果」として変わっていくものだと思います。


麻丘東出 

2013年4月26日 (金)

実在意識=現実と非在意識=幻想

>>主体=対象である以上、人々の意識とは、自分の意識に他ならない。
>なんとなくはわかるけど、どういったことなのだろう?

自意識ということばがあるように、我々は、意識というものを個体に閉じたものとして認識して(思い込んで)いるからでしょう。しかし人間の意識の原点は共認であって自我ではありません(2772自我ではなく共認こそ原点である」参照)

そして共認とは、他者と自己を同一視するところに芽生えた意識であり共認回路が機能していれば「他者の意識とは、自分の意識」に他ならないわけです。(実現論1_4_05参照)

問題は自我がぶつかり合う場合ですが、現実はどのように統合されるでしょうか?それは常に「力の論理」=序列共認によって止揚されます。

>周り「全てを敵」と見ている限り、共認は成立しません。この様な欲と欲がせめぎ合い、自我自我がぶつかり合う性闘争私権闘争は、力によってしか制圧できません。そこで真猿は、性闘争私権闘争を制圧した力の序列を共認することによって(力の序列を秩序原理とすることによって)、性闘争私権闘争を止揚し、共認の破壊=集団の崩壊を喰い止めているのです。
私権闘争は力の序列共認に収束する』というこの原理は、人類の「文明時代」にも顕在化する。近代においても、『力関係を基盤にした秩序規範』というこの構図は、何ら変わっていない。(2240「力の論理と共認機能」参照)

つまり、現実は自我発であれ、止揚され統合されている限りにおいて、必ずその現実を“追共認”しているということなのです。逆に言えば,自他を超えて人と人の間で認め合えた意識だけが実在する意識として現実をつくっているのです。(これに対比させて自分の頭の中だけに存在する認められない意識は非在意識=幻想といっていいかもしれません)

ここで改めて「主体=対象である以上、人々の意識とは、自分の意識に他ならない」という文章に戻ると、「主体=対象である以上」という条件文は「主体が対象とイコールに結ばれた現実の地平においては」という文章を約めたものです。この条件文を無視すると、自我意識は俺だけのものであって、他の誰のものでもないという非在意識=幻想にもとづく反論が出てくるわけですが、そうした反論は常に頭の中のものだけにすぎないということ、現実は常に「主体が対象とイコールに結ばれた地平」に実在しているということを肝に銘じておく必要があります。
非在意識=幻想認識と実在意識=現実を峻別すること…倒錯観念にからめとられて無用な自省回路に埋没しないための処方箋のひとつだと思われます。


山澤貴志

2013年4月24日 (水)

現実とは、人々の意識である

生存圧力から同類圧力へと場が移行したと云うことは、場=現実が、同類圧力=人々の意識そのものが形成する圧力、の場に成ったことを意味する。つまり、今や現実とは意識である。だから現実を対象化するということは、人々の意識を対象化することに他ならない。

現実とは意識であるという言葉に、違和感を覚える人も多いだろう。確かに、原始人類にとって現実とは、生存圧力=自然圧力そのものに他ならなかった。ただ主体=対象である以上、対象(=自然圧力)に対応する主体(=適応本能や共認充足や精霊信仰etcの意識)もまた確固として存在しており、その意味では、常に現実は意識の内に在ったし、その意識こそが彼らの現実であったとも云える。

しかし、自然圧力そのものは意識とは別個に、意識の対象として存在しており、『現実』は(人々の意識の中以前に)外的な自然圧力として意識されてきた。その後、この自然圧力=生存圧力を基盤として形成された私権圧力は、人々の共認によって形成された圧力ではあるが(従って、決して意識と別個に存在する圧力ではないが)、生存圧力が強い間は、やはり『現実』は外的な圧力として意識されてきた。

だが、貧困が消滅して生存圧力が衰弱し、同類圧力が中心的な圧力になってくると、パラダイムは一転する。同類圧力は、人々の共認が形成する圧力である。従って、『現実』とは人々の意識に他ならなくなる。
しかも、主体=対象である以上、人々の意識とは、自分の意識に他ならない。つまり、自分自身の意識が、『現実』=同類圧力を形成していることになる。もっと簡単に云えば、現実とは自分自身に他ならない。
こうなると、もはや現実を否定することは出来なくなる。実際、現実=同類圧力を形成したのは人々=他人であって、自分だけは別である=自分は無関係であるとは、誰も云えまい。だとすれば、もはや現実を否定することは出来ない。


四方勢至 

2013年4月22日 (月)

現実否定の倒錯思考

原始人も現代人も、現実に立脚して生きており、その意味では、現実を受け容れ、肯定して生きている。それは、当然すぎるくらい当然の事であって、現実を否定するなどというのは天に唾するようなもので、現実には有り得ない不可能なことなのである。実際、我々はメシを喰うことを現実に否定することは出来ないし、その為に市場の中で何がしかの金を得ることを現実に否定することも出来ない。
現実の否定は、頭の中でのみ(=観念としてのみ)可能なのであって、決して現実には有り得ない。実際、現実にメシを喰いながら現実を否定するというのは自己欺瞞であり、それでは下半身(存在)と上半身(観念)が断絶し分裂して終う。
それほどに、現実を否定する意識というものは異常な意識なのであり、この異常な現実否定こそ、現実の中に可能性を求めるのではなく、頭の中だけに閉ざされた可能性を求める(当然それは決して実現されることがない)倒錯思考の原点である。
現代社会の至る所で噴出する異常現象は、全てこの現実否定→倒錯思考の観念パラダイムが生み出したものであると云っても過言ではない。

事実、私権時代の全ての既成観念(古代宗教と近代思想)は、この異常な現実否定意識に基づいて作られている。その証拠に、これまで現実を否定する意識は、常に暗黙の内に正(義)として意識され、現実を否定する意識そのものを疑うような意識は、全く登場してこなかった。これは、現実否定→倒錯思考が、私権時代を貫く思考のパラダイムである事を示している。

このパラダイムの内部では、それによって作られた観念群をどう組み変えても、又、どれだけ深く思考を巡らせても、決してパラダイムそのものを否定することは出来ない。だからこそ、これまで現実を否定する意識に対する懐疑(例えばデカルトの「我、思う」ことそれ自体に対する懐疑、例えば、思い続けている自分がおかしいのではないかという懐疑)は、針の先ほどさえ全く生じ得なかったのである。


四方勢至 

2013年4月20日 (土)

弁証法という、否定を正当化した論理

「否定の否定」なる弁証法が、我々の世代の意識には強く根付いているようである。それは論理整合性の問題としてではなく、あたかも価値観やスタンスといった次元にあるように思える。なんとなくそのようにすれば、対立や矛盾が止揚されるように思考が方向付けされている。

現代、知識人の多くも批判的超克を是としているように見える。互いに批判することで上昇できるのだと言い、定立(テーゼ)、反定立(アンチテーゼ)、総合定立(ジンテーゼ)があたかも認識を進化させる唯一の道であるかのように。

ヘーゲルは観念の現実との対立的構図を乗り越える論理として、弁証法という概念装置を使った。それは主観と客観、精神と身体の分裂をあらかじめ前提とし、その再統合をめざす論理である。しかし、誰もなぜ意識と存在が分裂したのかには言及しなかった。

>近世・近代に至って市場拡大という現実(自我・私益の拡大)の可能性が開かれると、現実否定の感応観念の内部に自我・私益が取り込まれ、倒錯観念は自我・私益を正当化した欺瞞観念(恋愛・人間・自由・個人etc)に姿を変えた。とりわけ、「権利」とはただ要求することを正当化した観念である。(20055四方勢至さん)

ヘーゲルの論理は、自我に立脚して現実との矛盾を止揚する方法論のようにも見える。しかし、自我の実現を是とする価値観を省みることなく、それ自体が生み出す、意識と存在の断絶を止揚できるとする論理は、都合の良い錯覚か誤魔化しでしかない。

マルクスは、ヘーゲルの弁証法を「観念論的倒錯」と片付けたが、弁証法的過程を踏んで運動、発展するのが現実世界の一般法則であるとして、「対立の統一」と「否定の否定」を積極的に主張した。しかし、自我と私益の可能性拡大という現実を省みることなく、市場社会が生み出す疎外を止揚できるかの論理もまた、都合の良いすり替えでしかない。

>近代思想家は古代宗教家と同じく、現実そのもの(=自我・私益・力そのもの)を直視しようとはしなかった。なぜなら、それらの都合の悪い本質部分は、あくまで否定すべきものとして捨象したからである。そして、開かれた現実の可能性を、欺瞞観念(恋愛・人間・自由etc)の実現の可能性だと都合良く錯覚した。これは、明らかに「現実」のスリ代えである。(20055四方勢至さん)

アリストテレス以来、西洋哲学では意識と存在の断絶を問題にしつづけてきた。そして、現実を捨象した観念の倒錯を省みることなく、対立と矛盾を止揚できるかの論理として弁証法を持ち出してきたように思われる。

もはや既成観念のすべてが、批判的に超克すべき対象ではありえない。ただ捨て去るのみである。

石野潤

2013年4月18日 (木)

現実捨象の倒錯観念から、観念捨象の現実直視へ

何であれ、現実を否定すれば自己欺瞞(そして意識と存在の断絶・分裂)に陥る。だが今、その現実は自我私権を残存させつつ、充足基調から本源収束へと根底的な地殻変動を起こしつつある。つまり、今ようやく肯定可能な現実基盤が形成されようとしている。
ただ、その潮流は、欺瞞観念にフタをされて出口を見つける事が出来ず、その結果、社会不全(危機と閉塞)が高まっている。そして、高まった本源収束と社会不全のマグマは、出口を求め、可能性収束⇒答え欠乏を上昇させつつある。

社会は、人々の共認内容が変わってゆくことによって、自ずと変わってゆく。現在、その共認内容は自我私権を残存させており、何よりそれを正当化する欺瞞観念に覆われている。しかし、現代が古代や近代と決定的に異なるのは、自我私権の衰弱→終焉が既に明らかであり、それに伴って否定意識に代る充足基調⇒本源収束の潜在思念が顕在化しつつあるという事実である。

従って、潜在思念(=下部意識)の充足基調⇒本源収束を実現に導く、現実直視の状況認識(事実認識or構造認識)さえ提示すれば良い。そこでは現実(下部意識=潜在思念)を肯定こそすれ、否定する必要はない。
ただ、欺瞞観念(上部意識)だけは、全的に否定しなければならない。でないと、欺瞞になる。欺瞞観念を捨てて、事実認識に置き換えても、下部意識=本源収束が実現され易くなるだけで、何の矛盾も自己欺瞞もない。

かつて本源社会を破壊した古代人が、現実(下部意識)を否定して倒錯観念に収束したとすれば、再び本源時代を迎えた(にも拘らずその倒錯観念の末裔たる欺瞞観念によって全面閉塞に陥った)現代人が、現実を肯定して倒錯観念を否定するのは、当然の成り行きだったのである。


四方勢至

2013年4月16日 (火)

「現実否定」からの脱却は「現実そのものを直視すること」から

近代の社会運動の欺瞞性について20055の四方氏の解説を拝読し、心の奥に潜み自分でも掴みかねているもの、それでいて自分自身を確実に支配しているものの正体が、白日の元に抉りだされたような感じがしました。

60年代から70年代にかけて、時代の転換期を生きてきた団塊の世代の一人として、旧来の価値観に対して懐疑を抱き、「反のエネルギー」によって新しいものを産み出したと少なからず自負していました。しかし、それは「都合の悪い本質部分は、あくまで否定すべきものとして捨象した」のであり、「開かれた現実の可能性を、欺瞞観念(恋愛・人間・自由etc)の実現の可能性だと都合良く錯覚した」に過ぎなかったということに気づかされました。

その後の時代を支配してきた知識階級、マスコミ、その他メディア、そして現シニア世代は殆どと言っていいほどこの現実否定と欺瞞観念に囚われています。しかし、これには一定の社会的評価を受け、遍く人々の支持を受けているものに対しては、盲目的に従うという人間が持っている弱点もそれに荷担しているのではないでしょうか?私自身の思考にもこれらの欺瞞観念が巣くっているのを認めざるを得ません。

>この「否定」の意識を濃厚に残したまま、社会生活に入って行った人が大勢いたのではないかと思います。(19864庄さん)

>ノンポリと呼ばれていた層の多くも、また別の意味で、現実否定と自己欺瞞の罠に落ちていたであろうことだ。(20121岩井さん)

このお二人が団塊の世代に対して述べられていることは、非常に的確なご指摘だと思います。

我々にとってまずなすべき事は、自らの欺瞞観念を完全に否定し去ること。そして現実そのものを直視すること。そして感じたことを率直に言葉で紡いでいくことではないでしょうか?この「るいネット」がこれまでの欺瞞に満ちた社会運動に終止符を打ち、2002年の幕開けに新しい認識のもとに人々が集う『まつりの場』となるように願ってやみません。 


大木康子

2013年4月14日 (日)

冷めた現実否定

かつての社会運動は、「反」のエネルギー、つまり現実の否定を潜在的動機としていたが故に、ことごとく自己欺瞞に陥った、という切り口は非常に明快である、と思う。

さらに私が、問題の根深さを感じるのは、当時の運動に参加しなかった、例えば、ノンポリと呼ばれていた層の多くも、また別の意味で、現実否定と自己欺瞞の罠に落ちていたであろうことだ。社会運動の胡散臭さを嗅ぎ取りつつ、どうせ社会は変わらない、現実とはこんなものだ、と冷めていた「ニヒリズム」もまた、都合の悪い現実を捨象しつづけてきた、という点で同根ではないだろうか。

思えば、ポストモダン以降の思想も近代の超克論も現在の評論の基調も、全て、こうした「冷めた現実否定」の態度を正当化するものであったとも言える。現在的な地点から見れば、あからさまな「反」という現実否定よりも、「冷めた現実否定」という、もうひとつのやっかいな習性に捕われていることの問題性が大きいように思う。

どなたかの投稿にもあったが、構造認識を理想論としか受け取れない状態であったり、あるいは、

>否定意識や不可能視に囚われているので、『新しい認識』が与えられても半信半疑のままで終始し、必要な行動に至らない。(19577

という停滞した状況、これらを突破する根底的なパラダイム転換の必要性を感じる。


岩井裕介 

2013年4月12日 (金)

社会運動の自己欺瞞

3.近代の社会運動
近世・近代に至って市場拡大という現実(自我・私益の拡大)の可能性が開かれると、現実否定の感応観念の内部に自我・私益が取り込まれ、倒錯観念は自我・私益を正当化した欺瞞観念(恋愛・人間・自由・個人etc)に姿を変えた。とりわけ、「権利」とはただ要求することを正当化した架空観念である。
しかし、近代思想家は古代宗教家と同じく、現実そのもの(=自我・私益・力そのもの)を直視しようとはしなかった。なぜなら、それらの都合の悪い本質部分は、あくまで否定すべきものとして捨象したからである。そして、開かれた現実の可能性を、欺瞞観念(恋愛・人間・自由etc)の実現の可能性だと都合良く錯覚した。これは、明らかに「現実」のスリ代えである。
しかし、(スリ代えられたものであっても)「現実」の可能性が開かれた以上、その出口を塞いでいる身分制度を解体すれば、「当然」新しい社会を実現することも可能に見える。こうして、社会運動が登場した。

●しかし、都合の悪い現実を捨象している限り、意識と存在が断絶した自己欺瞞の運動になることは、古代の思想運動と変わらない。(注:半ば現実に開かれているが故に、その欺瞞性がより強く意識される)

●また、都合の悪い現実を捨象している限り、現実から乖離した思想(or社会)が実現される事は有り得ない。

●社会変革と云いながら、社会の構造については(あるべき社会の空想図以外)殆ど何も考えていない(注:これも古代以来の現実否定⇒現実捨象の倒錯思考の故である)。
そこにあるのは、単に自らの欺瞞観念の出口を塞いでいる身分制度や資本制度を破壊せよという要求だけである。つまり、単に自分に都合の良い要求をつきつけることを、「社会を変えよう」という言葉にスリ代えただけである。

●つまり、「社会変革」という言葉それ自体が、欺瞞観念なのである。だからこそ、人々は「社会運動」の奥に、何かしらいかがわしさを嗅ぎ取ってきたのであろう。又、だからこそ、「社会変革」の旗の下には、壮士~活動家に至るまで、(ごく少数の例外を除いて)自己欺瞞の強い不満分子しか集まらなかったのである。(注:この点は、現在、ネット上で社会系サイトに発信している者たちも、大半が同根である。)


四方勢至

2013年4月10日 (水)

現実否定の自己欺瞞

不全発の変革意識に対する疑問が浮上した所で、改めて社会運動を総括してみる必要がある。

考えてみれば、史上、社会運動は一度も実現されたことがない。つまり、史上の「社会運動」は全て偽物である。とすれば、「社会運動」の奥には大きな欺瞞が隠されている筈である。

1.原始時代は、祈るだけしか出来なかったが、それは近代の「否定するだけ・要求するだけ」とは全く異なる。原始人は、集団が一丸となり、潜在思念の全てをかけて自然を対象化しているのに対して、近代人は自我に基づいて社会を否定しているだけである。
同類闘争という観点から見ても(そこでは当然、敵に対する否定意識が存在するが)、それは直ちに闘いに直結しており、近代の様に要求するだけという状態は有り得ない。

2.古代の思想運動(孔子、釈迦、キリストetc)
原始人は、絶対的な自然圧力を前にして、とことん自然を対象化した。しかし、古代人は自然圧力ではなく(自然圧力に比べれば変革が容易な筈の)敵対的な現実の共認圧力を絶対的な壁として不動視し、その現実を否定的に捨象した。
換言すれば、古代人は現実の共認圧力を捨象して全く対象化しようとはしなかった。そして専ら、頭の中の本源回路を代償充足させる為の、感応観念(価値観念や規範観念)に収束した。

彼らは、何故、現実の共認圧力を対象化できなかったのか?
それは、共認圧力というものが、単なる対象物ではなく、自分自身(の生み出したもの)に他ならないからである。
つまり、彼らが否定する現実とは、彼ら自身の私婚・私権の共認や、力の追共認に基づいて作られた現実である。従って、現実を否定する以上、自分自身の存在(自我私権や力を求める下部意識)の否定に向かわざるを得ない。
実際、彼らは頭の中だけで自らの存在(下半身)を否定して、感応観念に収束した。観念の倒錯である。しかし、現実の存在(自らの下半身)を頭の中で否定することはできても、現実に否定することは出来ない。そうである以上、頭の中だけで現実=自らの存在を否定するのは自己欺瞞であり、その自己欺瞞の故に意識と存在(思想と現実)は必然的に断絶し、分裂することになる。


四方勢至

2013年4月 8日 (月)

現実否定の自己欺瞞

不全発の変革意識に対する疑問が浮上した所で、改めて社会運動を総括してみる必要がある。

考えてみれば、史上、社会運動は一度も実現されたことがない。つまり、史上の「社会運動」は全て偽物である。とすれば、「社会運動」の奥には大きな欺瞞が隠されている筈である。

1.原始時代は、祈るだけしか出来なかったが、それは近代の「否定するだけ・要求するだけ」とは全く異なる。原始人は、集団が一丸となり、潜在思念の全てをかけて自然を対象化しているのに対して、近代人は自我に基づいて社会を否定しているだけである。
同類闘争という観点から見ても(そこでは当然、敵に対する否定意識が存在するが)、それは直ちに闘いに直結しており、近代の様に要求するだけという状態は有り得ない。

2.古代の思想運動(孔子、釈迦、キリストetc)
原始人は、絶対的な自然圧力を前にして、とことん自然を対象化した。しかし、古代人は自然圧力ではなく(自然圧力に比べれば変革が容易な筈の)敵対的な現実の共認圧力を絶対的な壁として不動視し、その現実を否定的に捨象した。
換言すれば、古代人は現実の共認圧力を捨象して全く対象化しようとはしなかった。そして専ら、頭の中の本源回路を代償充足させる為の、感応観念(価値観念や規範観念)に収束した。

彼らは、何故、現実の共認圧力を対象化できなかったのか?
それは、共認圧力というものが、単なる対象物ではなく、自分自身(の生み出したもの)に他ならないからである。
つまり、彼らが否定する現実とは、彼ら自身の私婚・私権の共認や、力の追共認に基づいて作られた現実である。従って、現実を否定する以上、自分自身の存在(自我私権や力を求める下部意識)の否定に向かわざるを得ない。
実際、彼らは頭の中だけで自らの存在(下半身)を否定して、感応観念に収束した。観念の倒錯である。しかし、現実の存在(自らの下半身)を頭の中で否定することはできても、現実に否定することは出来ない。そうである以上、頭の中だけで現実=自らの存在を否定するのは自己欺瞞であり、その自己欺瞞の故に意識と存在(思想と現実)は必然的に断絶し、分裂することになる。

四方勢至

2013年4月 6日 (土)

否定は否定を再生産する

>これを読んではっとさせられました。今まで「運動」というと、「反」「否」「不」といったマイナスから発生する胡散臭いイメージでした。
(19844 村上さん)

なるほど、確かに言われてみるとその通りですね
運動と言うと、何かキナ臭いようなマイナスイメージしか出てこない原因がわかった気がします

19864で庄さんが70年代全共闘世代の運動理念とも言うべき「否定意識」について書かれていますが、「否定意識」はこの70年代に限ったことでは無いようです
歴史を振り返れば、運動や革命と名のつくものは全てこの「否定意識」を原点にしていたのでしょう

制度の否定、政治の否定、宗教の否定、文化の否定、人種の否定、価値意識の否定・・・切りが無い

歴史の中で先人達は、「変革だ!」と叫びながら、その実、行ってきたのは、自らにとって都合の悪い現実の否定のみ、その先の社会を見据えていない
現実を否定し、制度を解体し、どうするのか、その答えを持っていない

都合の悪い現実を否定して勝ち取った変革、全てを統合する答えがないゆえに今度は自らに都合のいい社会を捏造し始める
一部の人間のみにとって都合の良い「社会」、そんな偽者は、また軋轢を生み出す
永久に終わることの無い、否定運動

そんなもので真に社会が統合できるわけが無い
それが生み出すのは、新たな軋轢と否定意識

このように考えてみれば、今僕達の住んでいる世界は全て否定の運動の先に導かれたものであることがわかります
歴史の中で繰り返されてきた変革は、実はほんの上っ面の価値観のみを変えてきただけで、根本は私権社会の始まりから何も変わっていないのかもしれません
もし、変わっているのであれば、社会はここまで閉塞しなかったのではないでしょうか

全てが否定の上に成り立っているが故に、次々と軋轢が生まれ、軋轢は新たな否定を生みだす
否定が否定を再生産する。そのために社会は閉塞してしまったのでしょう

閉塞しきってしまった今、求められるのは、この「否定の歴史」そのものを引っ繰り返す真の変革なのでしょう
その変革とは、潜在思念に感じる「可能性」を紡いでいくことを置いて他には無いと感じます

自分にとって都合の悪い現実のみを否定するのではなく、否定の歴史の中で捏造されてきた旧観念を「全否定」する
そうして初めて解き放たれる潜在思念が感じ取る可能性を紡ぎ、再構築してゆく
その先にある社会は、一部の人間にとって都合の良い社会などであるはずがありません
そこにこそ、社会統合の可能性があるのだと感じます

西谷文宏

2013年4月 4日 (木)

運動のパラダイム転換

どういう運動をするのか?友人たちに何を語るのか?が問題なのですが、今回提起された“不全発の「変革の必要」から、実現発の「認識の必要」への転換”は、運動論としてのパラダイム転換を成し遂げていると思います。

 不全発の「変革の必要」は、結局現実を否定し頭の中だけの理想郷を措定するという、私権時代特有の倒錯観念でしかなく、従って実現しないという総括は決定的に重要で、本物の運動や団体(人物)を見分ける判断基準にもなっていると思います。

 それに対して、実現発の「認識の必要」は、生物進化の摂理に合致し、かつ人々を動かすことのできる運動方針だと思います。“実現発”とはすべての生物がそうであるように、最基底の生存(適応)欠乏に突き動かされ、外識機能をフル活動させ状況判断することで答えを得る健全な“生命活動”に裏打ちされており、“認識の必要”は人々の不全が観念不全であることに対する、真っ正面からの答えの在処を指し示す収束先だと思います。

 人類の不全が、かつて極限人類の置かれた本能不全でもなく、私権時代の共認不全でもなく、近代以降の倒錯観念では社会や人々の意識が統合できないという統合不全=観念不全であるという状況認識も、決定的に重要であると思います。人々を充足させ動かすことのできる新しい構造(事実)認識を発信し、可能性収束させることができるかどうか、私たちの課題も明瞭になってきました。

岡本誠

2013年4月 2日 (火)

否定意識からの脱却

私は所謂70年世代の真中の世代です。全共闘運動が終焉し、小さな設計事務所に就職したころ、ある活動家崩れの人物と知りあい、一体この運動は何を目指していたのかという話題になった時、「とにかく、NON!なんだ。あらゆることに否!を言いつづけることが今、僕等のやるべきことなんだ。」と言った彼の言葉が、消化しきれないままに妙に印象に残りました。確かにあの運動は、既成の大學制度の一部や、それまでの戦前・戦中の旧世代の道徳観を壊し、いわば「消費と性の解放」に拍車をかけた訳ですが、この「否定」の意識を濃厚に残したまま、社会生活に入って行った人が大勢いたのではないかと思います。
30年経った今でも、その意識が現在のマスコミや評論家の主流を占める、あら捜し、シニシズムの論調につらなってると思われてなりません。
しかし、このネットでの最近の論調にあるように、今や大所高所から説き起こした○○思想や○○イズムやその裏返しの大衆迎合主義も、大衆的には何の支持を得られないことはあきらかであり、その胡散臭さに辟易している状況ではないかと思います。
自分自身の中にも未だに、この認識思考は色濃くあるのは否定できません。しかし今やこの姿勢がまさにあらゆる局面で、否定されなければならないのでしょう。
運動論においても、社会不全を声高に唱え、危機意識を煽る従来の「煽動」方式の運動は明らかに糞詰まりであると感じます。やはり、子難しいことは抜きにして、お、それは面白い、それならやってみたいと人々が思える活動の提起を、内に確固とした、状況認識を秘めつつ発信できるかが、今後の運動のありようのように感じます。

庄恵三

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